死にたくなったので歩道橋から飛び降りようとしたら、No. 1ホストに救出されて、溺愛生活を送っています。

 目が覚めると、隣にいたはずの嵐さんの姿は消えていた。
 シーツに残った微かな体温と、昨日吸っていた煙草の残り香だけが、昨夜の出来事が夢じゃなかったことを教えてくれる。

「……どこに行っちゃったんだろう」

 ぽつりと溢れた独り言が、しんと静まり返った寝室に溶けていく。
 嵐さんは「仕事は夜から」と言っていたし、合鍵を渡されたわけでもない。勝手に外に出るわけにもいかず、俺はふらふらと部屋の中を漂った。
 嵐さんの部屋には、無駄なものというか、生活感を感じさせるものが一つもなかった。脱ぎっぱなしの服とか、出しっぱなしのリモコンとか。怖そうに見えるけれど、意外と几帳面なのかな、なんて見渡しては想像してしまう。

 カーテンの隙間から差し込む光に誘われるようにして、そっと窓を開ける。
 そこには、俺の名前そのままの、どこまでも澄み渡った真昼の青空が広がっていた。

「……わぁ」

 裸足のままベランダに出て、手すりに指をかける。吸い込まれそうな青に目を細め、ふと階下を見下ろした、その時だった。

(……あれ、嵐さん?)

 本当に、奇跡みたいなタイミングだった。コンビニの袋を提げて、ふらふらと歩いてくる姿が見える。

「嵐さんっ!」

 自分でも驚くほど大きな声が出た。身を乗り出して、そっと手を振る。
 俺の声に気づいて、嵐さんが「あ?」という顔でゆっくりと視線を上げた。
 けれど、目が合った瞬間。嵐さんの顔から一気に血の気が引き、持っていたコンビニ袋を地面にぶちまけんばかりの勢いで、彼は脱兎のごとくエントランスへ向かって走り出した。

(……どうしたんだろう、あんなに急いで……)

 ぽかんとしてベランダから部屋に戻ると、間もなくして、静かなマンションの廊下に心臓に悪いほどの激しい足音が響き渡った。
 バン! と、壊れそうな勢いで玄関のドアが開く。
 サンダルのままリビングへなだれ込んできた嵐さんは、部屋とベランダの境目に突っ立っていた俺の肩を、折れんばかりの力でひっ掴んだ。

「――っ、この、バカ!!」
「ひゃいっ……!?」

 呼吸を激しく乱した嵐さんに、そのまま力任せに抱き寄せられる。
 心臓の鼓動が、服越しにドクドクと痛いくらい伝わってきて、俺は目を白黒させた。

「人の家を……っ、事故物件にしようとすんな、アホ!!」

 その一言で、ようやく察した。俺がベランダから身を乗り出して手を振っていたのが、下から見たら飛び降り前の「バイバイ」に見えたのだと。

「あの……嵐さんのこと見つけて、つい……あの、嬉しくなってしまって」
「ハァ!? マジでお前、いい加減にしろよ!」

 空気を震わせるような怒鳴り声。嵐さんの肩が激しく上下して、その瞳には隠しきれない動揺と、心臓を鷲掴みにされたような恐怖が混じっていた。
 俺は思わずビクッと肩を強張らせ、身を縮める。けれど、その怯えた仕草を見た瞬間、嵐さんは苦々しく眉を寄せて、天を仰ぐように大きなため息をついた。

「……わりぃ。怒鳴りたかったんじゃなくて、その……心配、っつーか。……心臓に悪いんだよ、お前」
「ご、ごめんなさい……」

 消え入りそうな声で謝りながら、俺は膝の上でぎゅっと拳を作った。
 どうせ今日死ぬつもりの人間に、どうしてこの人はそこまで必死になってくれるんだろう。

「あの……嵐さん」
「……んだよ」
「お礼……昨日のご飯と、泊めてくれたお礼がしたいです」
「出た、真面目ちゃん。……そこは『死ぬの止めてくれてありがとう』だろ。普通。なんで衣食住の方なんだよ」
「あ、えっと……それは、泊めてもらえなきゃご飯もお礼も出来ないから、感謝しなきゃいけないのは分かってるんですけど。でも、やっぱり死にたい気持ちに変わりは――」

 言い切るより先に、嵐さんの大きな手が俺の顎をくいっと持ち上げた。
拒む間もなく、重なる唇。昨夜の蕩けるような深いものとは違う。けれど、ただ触れるだけよりもずっと長く、互いの体温を確かめ合うような、優しいキスだった。
 ふ、と唇が離れる。至近距離で見つめてくる嵐さんの瞳は、少しだけ潤んでいるようにも見えた。

「今のでいいよ」
「……はい?」
「今のがお礼の代わり。……なんなら、一日一回、こうやってキスさせてくれんなら、いつまでだってここに居ていい」

 嵐さんはふいっと視線を逸らし、耳の付け根を真っ赤に染めながらぶっきらぼうに言い放った。
 俺はぽかんとして、その横顔を見つめる。だって、俺は――。

「……ここにずっと居たいなんて、一言も言ってないですよ?」
「あぁ!? うるせーな、生意気言ってんじゃねーよ!」
「な、生意気なつもりもないですし……そもそも『明日までの暇つぶし』って言ったのは、嵐さんの方じゃ……」

 俺が淡々と正論パンチを繰り出すたび、嵐さんはグサグサと目に見えない矢に刺されたように、気まずそうに顔を歪めて俯いていく。
 夜の街で百戦錬磨のはずのホストさんが、こんなに分かりやすく照れている。
 そのギャップがなんだか無性に可愛く見えて、俺は思わず「ふふっ」と吹き出してしまった。

「……何、笑ってんだよ」
「あははっ! だって、嵐さんみたいなかっこいい人にキスされる上に、ここで暮らしていいなんて言われるの、なんだか信じられなくって」

 笑いながら嵐さんの目を見つめる。けれど、彼の視線は頑なに床に落ちたままで、一向に合う気配がない。

「もしかしたら、あの時、俺はもう橋から飛び降りて死んじゃってて。助けてもらったところから今この瞬間まで、全部天国で見てる夢なのかな、なんて」
「……やっぱ、セックスにしときゃよかった……」
「はい?」

 ぼそりと零された独り言が聞き取れなくて、俺はぱちくりと瞬きをして首を傾げる。けれど嵐さんは、俺の唇を親指の腹でふに、となぞったまま、どこかやけっぱちな声で言った。

「なぁ。死ぬの、一週間だけ延期すんの無理?」
「……えっ、な、なんで……」
「いーじゃん。どうせ捨てる人生なら、一週間くらい俺に寄越して有効活用させろって言ってんの。ゴミだって、使い終わった後はリサイクルされるだろーがよ」
「ご、ゴミ? 俺、ゴミと同レベルなんですか……?」

 せっかくちょっと良い雰囲気だと思ったのに、あんまりな言い草に唇を尖らせる。

「いや、あー……クソ、お前と喋ってると調子狂う。テキトーなこと言えなさ過ぎて、パニクるわ」

 ホストなのに、俺にはなんでそんな口下手になってしまうんだろう。
 嵐さんはガシガシと後頭部を掻きまわすと、視線を泳がせながら言葉を繋いだ。

「要するに……命をドブに捨てるよりかは、俺みたいな『ニーズ』がある奴に提供して、少しでも世の中の役に立てって言ってんの!」

 分かるような、分からないような。でも、一週間は流石に長すぎる気がした。
 その間に、万が一にでも俺が心変わりして「やっぱり死にたくない」なんて、らしくないことを思ってしまったらどうしよう。

(……でも、そんな簡単に俺の「空っぽ」が埋まるわけ、ないよね……)

 つまりは、生前最期のボランティア。嵐さんが俺を必要だと言っている。
 誰かの役に立てたことなんて一度もなかったけれど、最期にちょっとだけ「良いこと」をして、徳を積んだ気分で消えさせてくれようとしているのかもしれない。

「いいですけど、でも一週間経ったら、絶対俺は死にますからね」
「……約束しろ。俺ん家に居る間は、絶対に死のうとすんな。もし、俺んちを事故物件にしてみろ。もう一回ぶっ殺してやるからな」
「に、二回は流石に死ねないですよ?」
「返事は!」
「……分かりました。約束します」

 俺が観念して頷くと、嵐さんはようやくホッとしたように毒気を抜いた。
 そのまま、大きな手が俺の後頭部をぐいっと引き寄せる。

「よし。じゃあ、まずは昼メシ食うぞ。冷める前に」

 そう言って、床に放り出されていたコンビニ袋を拾い上げる嵐さんの背中は、昨日よりもずっと大きく、頼もしく見えた。

「見晴が何好きかわかんねーから、適当に買ってきた」

 そう言って嵐さんがテーブルに並べたのは、チキン南蛮弁当と、おにぎりが二つ。さらにボロネーゼとペペロンチーノのパスタ、それからお茶と、ついこの前まで話題になっていた新作のコーラだった。
 これだけの量を買い込んできたのは、嵐さんが大食漢だからではない。俺が何を選んでもいいように、どれに食指が動いても応えられるように、彼なりの不器用な配慮なのだと察しがつく。

「……どれがいい?」
「じゃあ、これ……」

 迷った末におそるおそるチキン南蛮弁当を指さすと、嵐さんは途端に眉を寄せてムッとした顔をした。

「え、俺もそれが良かったんだけど」
「へっ!? ごっ、ごめんなさい!! やっぱりおにぎりでいいです、死にたがりのくせにこんな高カロリーなの選んで図々しくてすみません、本当にごめんなさい……!」

 謝罪の言葉を並べ立てながら、慌てて弁当を嵐さんの方へと押しやる。早口で捲し立てる俺を、嵐さんは一瞬だけ呆気に取られたような顔で見つめ——次の瞬間、堪えきれないといった様子で吹き出した。

「ははっ、なんだそれ」

 くしゃりと目尻を下げて、大きく口を開けて笑う。
 そんな風に屈託なく笑う人なんだ。意外な表情に、今度は俺がポカンと口を開けて見惚れてしまう。

「何一人でペラペラ喋ってんだよ。冗談だって。ほら、食い気があるのは良いことなんだから、遠慮してねーで好きなだけ食え」

 わしゃわしゃ、と大きな手で乱暴に頭を撫でられる。
 そんな風に真っ直ぐな好意を向けられたり、体温を感じる距離で触れられたりすることに慣れていない俺は、自分でもわかるくらい簡単に顔を熱くしてしまった。
 仕方ない、と思う。こんな風に、俺自身の「欲」を肯定して、一人の人間として真っ当に扱ってくれる人なんて——最低だった元彼を含めて、今までの人生に一人もいなかったんだから。

「……お前、それわざとやってんの?」
「えっ」
「そういう顔。……まさか、天然?」

 至近距離で覗き込まれ、露骨に眉を寄せられる。嵐さんの声音にはどこか苦々しい響きがあって、俺の理解は完全に置いてけぼりを食らった。
 自分のリアクションが、何か彼の逆鱗に触れてしまったんだろうか。そう思うと居たたまれなくなり、俺はローテーブルの前で小さくなるように膝を抱え直した。

「……ぶ、ブサイクですみません……」
「はぁ? おい、なんで今の会話からその結論になんだよ」
「いや、俺の顔面が見てらんないって意味かなって……」

 ホストという華やかな世界で生きる嵐さんの周りには、きっと溜息が出るほど綺麗な人や、愛嬌のある可愛いお客さんが掃いて捨てるほどいるはずだ。
 愛想もなければこれといった華もない俺が、少し優しくされたくらいで赤くなって、ヘラヘラと浮かれているのが滑稽に見えたのかもしれない。というか、そもそも死に損なった命を救ってもらっている時点で、俺の存在そのものが申し訳なさの塊なのに。

「……いや、どこがブサイクだよ。可愛いだろうが」
「かっ……!?」

 唐突に投げつけられた語彙に、心臓が跳ね上がる。けれど、続く言葉で俺の淡い期待はあっけなく粉砕された。

「“ぴゅありぃ〜”にそっくり。もっといじめたくなる顔してるわ」

 まさかの、キャラクター「ぴゅありぃ〜」と同レベル。もはや人間としての土俵にすら立たせてもらえていなかった。ガーン、と目に見えるほどのショックを受けて肩を落とす俺に、嵐さんはふっと目尻を下げた。

「マジで面白いやつだな、お前。……腹一杯食えよ」

 彼は新しく火をつけたタバコを指に挟み、紫煙を燻らせながら、俺がちまちまとチキン南蛮を口に運ぶ様子を満足そうに見つめている。
 窓の外には、突き抜けるような青空。外の景色が、今は少しだけ、昨日より綺麗に見えた気がした。