死にたくなったので歩道橋から飛び降りようとしたら、No. 1ホストに救出されて、溺愛生活を送っています。

【side:嵐】

 タクシーの中で「お前ん家どこだよ」の一言で脅すと、見晴はしばらく口をつぐんだまま窓の外を睨んでいたが、やがて根負けしたように肩を落とし、観念したように俯いて運転手に住所を告げた。
 車が辿り着いたのは、歌舞伎町からは信じられないほど離れた立地にあるクソボロいアパートだった。街灯もまばらな路地の奥、コンクリートの継ぎ目には雑草が伸び放題で、外壁のモルタルはところどころ剥がれ落ちている。
 こんな家に人が本当に住んでるのか? と思わずにいられないような外観だ。タクシーを降りた瞬間、隣のコインランドリーの排気口から生ぬるい風が吹きつけて、湿った洗剤の匂いが鼻をついた。

「すみません、散らかってはないですけど、古いし狭いので……」

 見晴が言い訳するように呟きながら鍵を差し込む。
錆びた蝶番が軋む音を立ててドアが開くと、玄関はシル●ニアファミリーかよ、みたいな広さしかなかった。靴をニ足横に並べたら一杯だ。靴を脱ぐのにも一苦労で、片足立ちのまま壁に手をつく羽目になる。
 部屋の中は本人の言う通り、マジで整然としていた。というか、散らかるものすらないような物の少なさだ。段ボール一つ見当たらない、生活の痕跡がまるごと抜け落ちたような空間。引っ越してまだ数日のような簡素な部屋に、言葉を失う。

「ごめんなさい、座布団も無いんですけど。その辺に座ってください」
「いや、茶とかいらねーから。お前も座れよ。つーか、ソファーも座布団もなくてどこに普段座ってんの?」
「床に正座とか、体育座りとか……」

 見晴はしょんぼりとした顔で俺の目の前に対面するように座ると、メイド姿のままおずおずと顔を上げた。フリルのついたスカートの裾が、日に焼けた畳に広がる。クソボロいアパートにホストとメイドが膝を突き合わせている。
 どう考えても、異常なシチュエーションでしかない。

「で? お前、あんな紙切れ一枚で俺と縁切ったつもりかよ」
「はい」
「いや、そこは流石に否定しろって。肯定すんの早過ぎるだろ」

 あまりにも軽々と返答されて、崩れ落ちそうになる。俺が思わず片手で顔を覆うと、見晴はスカートの裾を握りしめながら、視線をさ迷わせてぽつぽつと語り始めた。

「入院中、親にどれだけ嵐さんのことを話しても理解して貰えませんでした」
「まぁ、それは俺が親でもそうだけどな。ホストだし、見た目こんなんだし、事件に巻き込んで怪我させるし」
「退院したら実家に連れて帰ると言われて、もう二度と会えなくなる前に、せめてさよならは言わなきゃと思って」
「ふーん。そんであの手紙?」
「はい。でも、実家に帰ってから……その、大学は除籍の手続きをとることにしたって。精神的に不安定になるくらいなら、この家で家事手伝いでもしてなさいって。一人暮らしとか、東京とか、身の丈に合わないことをするからおかしなことを考えたんだろうって言われて」
「…………」
「大学にやっぱり戻りたいとか、一人暮らしをやり直したいってお願いしたけど無理で。家出、というか強行突破というか」

 相変わらず変なところだけは強気だし行動力がある。
 そのまま気落ちして実家で死なれるよりはいいが、俺が一番嫌なのはその職種だ。淡々と語る見晴の声には、諦めと意地の両方が滲んでいて、それがどうにも歯痒かった。

「んで、なんで歌舞伎町?」
「保証人がいなくても働けて、家をかりあげてくれているところがよくて。正規のちゃんとしたところじゃそんなの望めないなって思って、それで……漫画喫茶から出て歩いてる時に、声をかけられて」
「ノコノコ付いてったのか? 相変わらず危機管理能力無さ過ぎるだろ」
「でも、乃亜くんと嵐さんが言ってたじゃないですか。コンカフェに居そう、って……だから、俺でも出来るのかなって」

 あんなのは言葉のあやで、実際に働くのが向いてるとかそういうつもりで言ったわけじゃない。下手をすると『ぴゅありぃ〜』より純粋培養されすぎている。俺の軽口を、こんな形で拾われるとは思ってもみなかった。
 見晴曰く、コンカフェで働けば、稼げるし、学費を貯めて除籍の猶予である二年以内に復学できると思ったらしい。親とは絶縁覚悟で出てきたのだという。俯いたまま語るその横顔は、覚悟というより追い詰められた顔に見えた。けれど、腑に落ちないのはもちろん別な部分だ。

「つーかさ、そん時になんで俺を頼ろうとしないわけ?」
「お、お別れしてるので」
「それはおめーが勝手に決めたことだろ。レシピつけた手紙よこして、ひとりで別れた気になって、なに無かったことにしてんだよ。オナってんなよ」
「お、おな……ってはないです。でも、これ以上迷惑をかけるわけには」

 あぁいえばこう言う。俺は思い切り片手でその頬を掴んで、こっちを向かせた。指の下で、見晴の頬は驚くほど熱くて、それだけで少し安堵した。少なくとも、まだ照れるくらいの体温がそこにあるのだから。

「二十四話まで、全部録画してある」
「へ……?」
「アニメの『ぴゅありぃ〜』。お前が退院したら、見せようと思って」
「……な、なんで急にアニメの話……?」
「なのに、お前は全然帰ってこねぇし。実家も行けなぇし、どこで何してんのか分かんなくて、ようやく見つけたと思ったらこんなカッコしてるし」
「ご、ごめんなさい。でもあれ、配信もされてるから、わざわざ録画しなくても」
「そこまで調べてねーよバカ。お前のせいで、俺ん家のハードディスクの容量アホみたいに狭めてんだよ」

 きょとん、とした顔で首を傾げて、こういう時だけ妙に幼い顔をするのがずるいと思う。
 俺がその唇にほぼ勢いだけでキスをかますと、見晴の体は分かりやすく強張った。触れた唇は乾いていて、少しだけ震えている。

「あ、嵐さん」
「あのコンカフェだって、下手したら警察にしょっぴかれて書類送検されるぞ。まさか、店の裏で体売ったりしてねぇよな?」
「そういうことは、してないです。まだ入ったばっかりなので」

 その言葉にひどく安心して、詰めていた息を吐き出す。
客だろうが新しい男だろうが、とにかく俺より先にコイツに触る男がいるなんて許せないし、考えたくもない。
 コンカフェを辞めて、このアパートからも夜逃げして、俺のマンションに戻ってくる。それが一番いいと説得したものの、見晴は膝の上で拳を作り、俺の目をまっすぐに見返してきた。
 こんな真っ直ぐな目をするやつだっただろうか、と一瞬戸惑う。

「ダメなんです」
「は?」
「俺、ひとりでちゃんと生きていけるってこと、嵐さんに証明したいんです。自分の力で……自立、みたいな」

 その言葉を聞いた瞬間、頭の片隅で何かが引っかかった。
 あの手紙は、もう俺に迷惑をかけないように、見晴なりに『頑張って生きていく』っていう、要は身を引く為の置き手紙だったはずだ。
なのに今、見晴が口にしているのは「証明したい」という、明らかに俺に向けられた言葉だ。
 誰にも見せるつもりのない決意なら、証明もクソもない。証明ってのは、見せる相手がいて初めて成立する言葉だ。つまりこいつは、俺の前から消えたつもりでいながら、心のどこかでは俺に「見ていてほしい」と思っている。
 かなり矛盾してるけれど、本人はそれに気づいていない。傷つけた分を返さなきゃとか、迷惑をかけたくないとか、殊勝なことを並べ立てながら、結局は俺に見捨てられるのが一番怖くて、だから「見捨てられる前に自分から離れた」って体裁だけ整えたんじゃねぇのか?
 それが図らずも、こうして俺の目の前で「証明したい」なんて言葉になって溢れている。

(――ホントに馬鹿だな、コイツ)

 本当に終わらせるつもりなら、証明する必要もねぇんだよ。

「コンカフェで色売ってるような奴が自立とかほざいてんじゃねーよ、まともな仕事してから言え」
「嵐さんだって、ホスト……水商売じゃないですか」

 数ヶ月の間に、見晴はなんだかキレを増したレスを返してくるようになった。
今までなら大人しくこれで引き下がったのに、俺の粗を見つけるように痛いところをついてくる。狭い部屋の空気が、一瞬だけぴりっと張り詰めた。
 強がるくせに、俺への未練は隠しきれない。手紙を書いた時の見晴と、目の前でムキになって言い返してくる見晴が、同じ人間だとは正直思えないくらいだ。だけどそれこそが答えなんだろう。
 あの手紙は「本音」じゃなくて、「こうあるべきだと思い込まされた自分」が書いたものだった。だから中身が伴わない。行動が追いつかない。

「じゃあお前、俺がホスト辞めてまともな仕事したらお前もまともな仕事して、俺んところに戻ってくんの?」
「ご、ごめんなさい。今のは売り言葉に買い言葉というか」
「答えろよ。俺とふたりで、そういう生き方する覚悟はねぇのかあんのか、どっちだよ。ねぇなら俺はもう帰るし、お前の仕事にイチャモンつけたりもしねぇ。好きに生きればいい。でも、マジで真人間として生きていくなら……」

 頭を掻きながら見晴をちらりと横目で見やると、見晴は瞳いっぱいにうるうると涙をためて、膝の上で拳を作って涙をこぼすまいとしていた。
 その泣き顔に思わずぎょっとして、慌ててスーツのポケットからハンカチを差しだす。「こんなん、飾りだろ」と思っていた布切が、まさかこんな場面で本当に役に立つとは。

「……っ、う、ぅ……」

 差し出したハンカチを見晴は受け取らなかった。代わりに、その両手で自分の顔を覆っている。指の隙間から、堪えきれなくなった嗚咽が漏れ始めた。メイド服の袖口が、涙でみるみる濡れていく。

「おい、見晴」
「ちがっ……違うんです、俺、ほんとは……」

 声が引きつって、言葉にならない。俺は舌打ちしそうになるのをこらえて、その場に膝をついた。目線を合わせるように、俯いた見晴の顔を覗き込む。

「ちゃんと言葉にしろよ。じゃなきゃ分かんねぇだろ」
「証明したいとか、自立したいとか……そんなの、全部あとから付けた理由で」

 しゃくり上げながら、見晴はぽつぽつと途切れる言葉を繋いでいく。

「本当は、怖かっただけなんです。俺が居るから、嵐さんの人生めちゃくちゃにしちゃうんじゃないかって」
「……」
「だから、もう嵐さんの前から消えなきゃって。俺なんかと一緒に居たら、今度こそ本当に、取り返しのつかないことになる気がして」

 膝の上で握られた拳が、白くなるくらい強張っている。俺はその手を、上から包むように握った。見晴がびくりと肩を揺らす。

「それで、コンカフェ?」
「証明したいって言ったのは、噓じゃないです。でも一番は……嵐さんに、必要とされなくても生きていける人間になりたかった。そうじゃないと、俺、ずっと嵐さんに縋って……」

 声が、涙でぐしゃぐしゃに崩れていく。

「でも、無理でした。自立とか、ひとりで生きるとか、全部口だけで……ほんとは毎日、嵐さんに会いたくて、会いたくて仕方なくて。ブロックしたのだって、着信拒否したのだって、俺が弱いから……嵐さんの声聞いたら、絶対戻りたくなるって分かってたから……っ」

 顔を覆っていた手が外れて、真っ赤に泣き腫らした目がこっちを見る。

「ずっと、怖かった。嵐さんに嫌われるのも、これ以上迷惑かけるのも、でも一番怖かったのは……このまま、嵐さんに二度と会えなくなることでした。自立なんて建前で、本当はただ、嵐さんに『それでもいいから傍にいろ』って言ってほしかっただけなんです……っ」

 絞り出すようなその言葉に、俺は数秒、何も言えなかった。
 さっき分析した通りだ。証明したいなんて言葉の裏に隠れてたのは、結局俺に「見ていてほしい」「傍にいたい」って本音だった。それを、自分でもようやく認められたんだろう。握った手に、少しだけ力を込める。

「あのな」
「……っ」
「お前が居るから俺の人生めちゃくちゃになるとか、そんなん心配すんな。俺はもう、お前がいねぇ人生の方がめちゃくちゃだったわ。この三ヶ月、酒ばっか飲んで、中身なんかとっくに空っぽだった」

 見晴の肩が、小さく震える。

「守りたいとか、証明したいとか、そういうのは後で幾らでも一緒に考えりゃいい。でも今すぐ答えなきゃいけねぇことなんか、ひとつしかねぇんだよ」

 俺は見晴の両手を、自分の両手でしっかりと包み込んだ。

「傍に居て欲しいのか、欲しくないのか。それだけ言えよ」

 見晴はぐしゃぐしゃの顔のまま、何度も何度も頷いた。声にならない言葉が、嗚咽の隙間から辛うじて聞こえてくる。

「……っ、いて、ほしい、です……嵐さんの傍に、いたい……ずっと……」

 それだけ聞ければ、もう十分だった。
 俺は見晴の体を、壊れ物を扱うようにゆっくりと引き寄せる。メイド服の背中に腕を回すと、その小さな体は今にも崩れ落ちそうなほど震えていた。
 数か月分の孤独と恐怖と後悔が、涙になって俺の肩を濡らしていく。

「ばーか。それを最初から言えって言ってんだよ」
「ごめ、なさ……ごめんなさい……」
「謝んな。……ちゃんと、聞いてやれなかった俺も悪い」

 髪を撫でながら、俺は自分の中に渦巻いていた怒りも、苛立ちも、少しずつ溶けていくのを感じた。代わりに残ったのは、ただひたすらな安堵と、こいつをもう二度と離すもんかという決意だけだ。
 安っぽい蛍光灯の下、狭い部屋の畳の上で、俺たちはしばらくの間、ただそうして抱き合っていた。

 ◇◇◇

 見晴がコンカフェを辞めるのにも一悶着あった。
 店長らしき男が「違約金がどうの」と凄んできたが、乃亜が裏で顔の利く知り合いを通して話をつけてくれたおかげで、大きな騒動にはならずに抜け出すことができた。あの時ばかりは、普段はへらへらとチャラい後輩でしかない乃亜のことを、多少見直したものだ。
 社宅(なんて呼べるような代物でもない)として借りていたあのクソボロアパートも、荷物らしい荷物もないまま、あっけないほど簡単に退去できた。段ボール一つ持たずに越してきた、見晴らしい引っ越しだったと思う。
 一旦は俺の家に戻ったものの、事件現場になったあのマンションに見晴を連れて帰るのは、どう考えても憚られた。あのマンションのエントランスで、見晴が血を流して倒れていた光景が、未だに脳裏から離れない。だから俺たちは、二人で新しい部屋を探すことにしたのだが……。

「まーじでクソ狭い」
「もう、嵐さん。さっきからクソって言いすぎです」
「だって、家全体の広さが俺んちのリビングぐらいしかねぇじゃん。しかも中々にボロいし」

 クソボロアパートから、ちょいボロアパートにランアップの引っ越しだ。
 ちなみに、この部屋を選んだのは俺じゃない。俺だったら間違いなく、駅近の新築タワマンかなんかを即決していた。金の心配なんかしたことがなかったから、狭小だ築古だなんて発想自体、頭の中になかったのだ。
 実際にこの部屋を決めたのは、見晴だった。利便性と家賃を天秤にかけて、無理のない堅実な道として自分で選んだ場所。俺が「もっと広い所でいいだろ」と何度言っても、「嵐さんに頼りっぱなしになるのは嫌なんです」の一点張りで譲らなかった。
 家を買わずに家賃を一部支払いたい、という頑固なところだけは、変わらず面倒くさいやつだと思う。それでも、こいつがこいつなりに「対等でいたい」ともがいているのだと分かるから、俺はそれ以上強く言えなかった。
 なんでも、一部屋が和室で畳敷きなのも気に入っているらしい。理由を聞いても「なんとなく落ち着くので」としか返ってこなかった。知らねえけど、まあこいつが気に入ってんならそれでいいかと思う自分がいる。前だったら考えられないくらい、俺は物分かりが良くなっていた。
 まだ段ボールが積まれたままの雑然とした部屋の中で、ある程度の片付けを済ませると、俺はその一つから、あるものを取り出した。美容鋏と、櫛と、床に敷くための新聞紙(スーパーからパクってきたもの)だ。

「見晴、これで切ってくんね」
「ほ、ほんとにいいんですか? 俺、経験ないですよ」
「全然。すきバサミだし、失敗しても俺が直せるから大丈夫」

 ベランダに折りたたみの椅子を一脚置いて、どかりとそこへ腰を下ろす。
 夕方の生ぬるい風が、剥き出しになった首筋を撫でていった。見晴は緊張した面持ちで新聞紙を敷き詰め、その上に俺を座らせると、慎重な手つきではさみを構えた。指先が小刻みに震えているから、どんな顔をしているかも大体の想像はつく。

「おかっぱになったらどうしよう」
「ばか、縦に切れって言っただろ」
「た、たて……?」
「あー、まぁいいや。とりあえず切れよ、早く」

 ホストを始めた頃から、ずっと伸ばしていた髪だった。
売れっ子として指名を取るための、いわば「商売道具」の一つ。切ろうという気にはなれなくて、鬱陶しいと思いながらもずっと伸ばして、店に出る時だけ後ろで一つに括っていた。その願掛けが、いま叶おうとしている。
 もう過去のしがらみなんて、一つも残しておきたくなかった。見晴との新しい生活を始めるにあたって、どうしてもここで区切りをつけたかったのだ。
指名も、金も、あの世界で築いてきたものも――全部、置いていく。

「でも、急にどうして切ることにしたんですか? こんなに伸ばしてたのに、勿体無い……」
「……見晴」
「はい」
「俺、今週でホスト辞めるから」
「へっ?」

 ジョキン、と背後で軽い音がした。思い切り横に切られた感覚に、俺は勢いよく振り返って「お前なぁ!」と怒鳴りつける。ぴぇっ、と『ぴゅありぃ〜』そのものの顔で、見晴が鋏を持ったまま今にも泣きそうになっていた。

「だって、嵐さんが変なこと言うから……!」
「どうやったら縦に切ってんのが横になるんだよ、アホ」
「ま、待ってください。そんなことより、辞めるってどういうことですか?」

 新聞紙の上に落ちた自分の髪の毛を横目に見ながら、苦笑する。
 もう後戻りはできない長さまで切られたそれを見て、変な話、案外清々した気分だった。