死にたくなったので歩道橋から飛び降りようとしたら、No. 1ホストに救出されて、溺愛生活を送っています。

【side:嵐】

 見晴と銀座で買い物をした夜、あいつはずっと上機嫌だった。
 風呂から上がった後も、しばらく玄関にぺたんと座り込んだまま、俺が買ってやったスニーカーをただじっと眺めている。箱の蓋を開けては閉じ、また開けては指先でそっと爪先に触れる。それは、まるで壊れ物を扱うような手つきだった。
 初めのうちは微笑ましいというか、マジで可愛いことをするやつだなと思って見ていた。だがタグも切らずに、まるで宝物を手渡された子供のような目で見入ってばかりいるものだから、だんだん俺も暇になって来たと言うか――正直に言えば、靴ばかり見つめられているのが、地味に癪だった。
 靴ばっか見てないでこっち向け、という本音を飲み込んで、仕方なく隣に腰を下ろす。

「おい。そんなに眺めるくらい嬉しいのかよ」
「だって、すっごくお洒落だし……明日から履きたいなって思ってるんですけど」

 そう言って靴箱からスニーカーを取り出し、白いタグに指をかけた見晴に、俺は「待った」をかけた。明日も、明後日も――しばらくの間、都内では雨の日が続く予報だ。
 ホストが天気予報を気にするなんてダサいから、人前でそういう話はしたことがない。だが実際、悪天候の日は客足が目に見えて減る。「姫」たちはとびきりのお洒落をして、髪を巻いてと気合を入れて店に来るわけだから、それが雨風で崩れるのはやっぱり嫌なのだろう。傘を差した片手で前髪を庇いながら小走りにやってくる姫たちを、俺は何度も見てきた。
 だからこそ、こういう時の仕入れの調整だとか、シフトの回し方だとか――乃亜と共有しながら店を戦略的に回す癖が、いつの間にか身体に染みついていた。数字がすべての世界で生き延びるための、いわば職業病みたいなものだ。

「明日からしばらく雨だから、まだスタンバらせとけ」
「えっ、そうなんですか?」
「新しい靴は、晴れの日に下ろした方がいいんだよ」
「……それも、嵐さんが作った適当なジンクスですか?」
「うるせえな、どの口が言ってんだコラ」
「この口です」

 えへへ、と自分の唇を指さして笑う見晴を、それ以上詰ることもできなかった。丸くなった目も、無邪気に持ち上がった口角も、全部が計算抜きで愛らしくて、こういう時ばかりは自分の余裕のなさが嫌になる。とりあえずムカついたので、不意打ちでキスをかます。
 見晴は「えっ」と「あの」を交互に繰り返しながら、あひる座りのまま廊下の壁に押し付けられるようにして、俺のキスを受け容れていた。抵抗するでもなく、かといって器用に応えられるでもなく、ただ困ったように睫毛を震わせているだけ。こいつのそういうところが、たまらなくイライラするくらい可愛い。

「口開けろ」
「まっ、待って、嵐さ……ん」
「なんで俺が待たなきゃいけねぇの」

 ガキみたいな顔をしているくせに、やけにいい匂いがするところ。いつも体温が高いところ。腕の中に閉じ込めるたび、そのすべてが愛おしくてどうしようもなくなる。
「可愛がりたい」「愛でたい」という感情から来るはずの独占欲が、いつの間にか見晴にそっと包まれるような、穏やかな温かさへと変わっていく。しかもそれを、無意識に「もっとくれ」とねだってしまっている自分がいるから、手に負えない。ホストとして何百人もの女を口説いてきたはずなのに、見晴だけは、いつまで経っても手管というものが通用しなかった。

「晴れるまで、おろすのは我慢しろよ」
「でも一刻も早く履いた方が、死ぬまでにたくさん履けるじゃないですか」
「バカ。死ぬまでに履ききれねぇくらい、靴なんか何度でも買ってやるよ。それ以外のものも、全部」

(――つーか、なんでこれが最初で最後のプレゼントみたいに言うんだよ)

 冗談だと分かっていても、見晴の口から「死ぬ」とか「終わる」なんて言葉が漏れると、どうしようもなく胸がざわついて怖くなる。軽い響きで発された一言が、俺の中では鉛みたいに重く沈んでいく。
「もう死にたいとは思わない」――と見晴は言う。それでも時折、希死念慮のようなものに影を落とされて、「俺なんか」と自分を卑下する癖は消えないままだった。雲ひとつない日でも、ふとした瞬間に表情から色が抜け落ちる。あの一瞬を見つけるたびに、俺は心臓を素手で掴まれるような心地がした。
 そのたびに俺は、ベッドの中で見晴の髪をすくいながら、どれだけ愛しているかを囁き続けた。何度言っても言い足りない気がして、言葉が空回りしていくのが自分でも分かる。体を求めたくて狂いそうになったことだって、幾つもあった。それでも、見晴の怖がることはしたくない。

 触れたら壊れてしまいそうで、強く引き寄せただけで痛がる華奢な身体を抱きしめながら、心の中でバカみたいに(愛してる)と繰り返す。見晴がさめざめと泣くから、俺は自分が泣きたいのを必死で飲み込んだ。喉の奥に石を詰め込まれたみたいに、声が出せなくなる。
 嵐さんに溺れる自分が怖い、と常に言われたけれど、実際にベタ惚れで、息もできないほど依存しているのは俺の方だった。

(お願いだから、俺を残して勝手にいなくなるなよ。お前が居なかったら、俺は……マジで生きていけねぇんだから)

 どれだけ偉そうなことを言ったって、本当は金以外なにひとつこいつに救いを与えられていないんじゃないかという無力感が、俺の根底にはいつもある。稼いだ分だけ買い与え、着飾らせ、抱きしめる。それだけしか、俺にはできることがなかった。
 生まれて初めて本気で愛した相手だからこそ、虚勢のような自信もなにもかも、見晴の前では綺麗に剥がれ落ちていく。本当は、それが不安で仕方なかった。だからこそ、見晴を傷つけるものや怖がるものから守ってやることだけが、俺にできる唯一の証明だと――そう思っていたのに。


 ◇◇◇


「――現在、負傷者一名を収容し、搬送を開始しました。傷病者情報は男性、二十歳。腹部刺創による大量出血。現場現着時より意識レベル低下。血圧・脈拍ともに不安定でショック状態。到着まであと十分。受入態勢の確保、および輸血の準備をお願いします」

 駆けつけた救急車の狭い車内。ストレッチャーに横たわる見晴の顔は青白く、血の気が完全に失われていた。唇の色すら失われて、ただの人形のように見える瞬間があって、それが余計に恐ろしかった。同乗を促され、現実を受け止めきれないまま座席に沈み込む。俺は震える自分の拳を、爪が食い込むほど硬く握りしめることしかできなかった。

 乃亜から『嵐さん、電話に出て下さい』というメッセージと共に、着信が何度も入る。けれど今の俺には、その画面を見る余裕すら欠片も残っていない。

「すみません、ご友人の方ですか。こちらの男性の血液型は……ご存知ないですか?」
「っ……分からないです。本人から聞いたことがなくて」

 その問いに、俺は自分が本当は見晴の何も知らなかったのだと突きつけられた。当たり前に共有しておくべき情報を何ひとつ知らないまま、ただ「居心地の良さ」という甘えに浸って、そばにいただけだったのだ。恋人だとか、それ以上だとか、勝手にそう思い込んでいた自分が、ひどく滑稽に思えた。
 緊急事態の渦中で、自分が何ひとつ役に立てない無力さが腹立たしい。自分自身への強い憤りが、救急車のけたたましいサイレン音に混じって、どうしようもない苛立ちとなってこみ上げてくる。

「日野さん、分かりますか? 病院に着きましたからね」

 隊員の呼びかけにも、見晴は目を閉じたまま微動だにしない。だらりと力なく垂れ下がったその手を思わず握ろうとしたが、看護師の鋭い一言に制止された。

「ご家族以外の方の入室はここまでです。こちらの廊下でお待ちください」

 機械音と共に赤く「手術中」のランプが灯り、重い扉が閉まる。処置が終わるまでの間、俺はただ廊下の壁に背を預けて立ち尽くしていた。何時間経ったのかも分からない。
 あの日、見晴を救い出したつもりになっていた自分が、結果として別の脅威から目を逸らし、こんな死線に追い込んだ。その残酷な事実に気づいた時、激しい後悔と自己嫌悪が、巨大な津波のように俺の心を呑み込んでいった。


 ◇◇◇


「――先日、西新宿の高級マンションで発生した殺傷事件の続報です。被疑者の男は容疑を全面的に否認し、『殺すつもりはなかった。被害者がぶつかってきて、偶然怪我をさせてしまった』などと供述しているということです。警察は、被害者と被疑者の間に痴情のもつれがなかったかを慎重に調べを進めています」

 見晴が一命を取り留めてから、一週間が過ぎた。テレビのワイドショーやSNSでは事件現場のマンションが連日映し出され、茉弥の本名や過去の勤務実態といったプライベートな情報が、下世話なネタとして無遠慮に消費されていた。
 卒業アルバムや、風俗時代の加工された宣材写真までが面白おかしく切り取られ、ネットの海を拡散していく。男が男を刺したという事実は、世間にとっては過剰なまでの刺激的なエンタメでしかなかった。

「まーじでヤバいやつだったんすね、茉弥くんって。いろんな人とトラブル起こしすぎでしょう」

 乃亜は俺の部屋のソファで紫煙を吐き出しながら、うんざりしたようにワイドショーのチャンネルを、人気の深夜アニメ「ふわふわぴゅありぃ〜」へと切り替えた。天井に向かって煙を吐く横顔は、いつもより疲れて見える。
 見晴が生死の境を彷徨って、ようやく意識不明の状態から目覚めた日の夜、奇しくもあいつが心待ちにしていたアニメの放送が始まったのだ。もし今ここにいたら、あいつはきっと「嵐さん!これ、絶対に録画したいです……!」と、目を輝かせて俺の袖を引っ張ってきただろう。そんな幻影を、そうであってほしい「願い」を真っ先に思い浮かべてしまう自分がいる。

「今日も話せなかったのか?」
「そーなんすよ。常に母親がべったり張り付いてて、見晴くんがたまたま起きる時間でも、会話なんかまともに出来ないっす」

 今の見晴と俺は、交わされるはずだった会話のすべてが途絶えていた。見晴の両親が今回の件で激怒し(当然のことだが)、俺を面会謝絶のリストの筆頭に叩き込んだからだ。
 業を煮やした俺は乃亜を「大学の友人」という名目で病室に送り込んではみたものの、見晴は親の目を恐れるように完全に萎縮しきっており、まともな会話すらできなかったらしい。俺の家に居る時とはまるで別人みたいだった、と乃亜は言葉を濁しながら告げた。

「嵐さん……やっぱ見晴くんの家って、普通に毒親のそれだと思いますよ」

 へらりと笑ってはいたが、乃亜自身も人には言えないような凄まじい家庭環境を生き抜いてきた人間だ。その乃亜が言うなら、見晴の家庭は相当に歪んでいるのだろう。本人にとってはそれが「普通」だったのだから、その異常には気づいていない。当たり前だと思い込まされて育つのは、どんな地獄だろうかと想像しかけて、俺はやめた。想像したところで、俺には何もしてやれないことに気づいてしまうから。

「だろうな。そうじゃなかったら、理由もなく飛び降りようなんてしねぇだろうし」
「それそれ。見晴くん、自覚ないだけで普通に生きづらい人生送ってきたと思うんすよね。その限界が来たんだろうなーって俺は話聞いた時に思いましたけど」
「絶対あいつには言うなよ。自分の人生『普通』だと思わされてんだから」

 内気で、自己肯定感が極限まで低いあの息子を育て上げた親なのだから、「だろうな」という予感は最初からあった。見晴の母親と直接電話をした時だって、過剰に心配しているようでいて、その実、気にしているのは世間体と「金」と「手間」のことばかりだった。連絡先を交換したことを見晴は俺と母親が親しくなっていると思ったらしいが、実際はその逆だ。

 見晴の心のことなんかお構いなしに、休学にかかる金だとか、手続きだとか。あいつが自殺未遂をする前に勝手に解約したものの再購入やら何やらをまた用意するのは面倒だと、母親は事務的な口調で言い切ったのだから。電話越しに聞こえたそのため息の軽さを、俺は今でもはっきりと覚えている。
 そのことを、電話を切ってから本人には面と向かって言えなかった。もう見晴を二度とこんな親元に返すかと頭に来ていて、言う必要すらない、と思った。

(……くっそ。いい加減、そろそろ退院する頃のはずなのにな)

 見晴との唯一のつながりだったLINEは綺麗にブロックされ、電話も容赦なく着信拒否。きっと親がとりわけ厳しく言いつけているか、あるいはスマホ自体を取り上げられたのだろう。あいつから連絡が来ることは、ただの一度もなかった。
 いっそ病室から強引に連れ出してやろうかと、頭の中で本気で危険な計画を巡らせるくらいには、見晴のことが心配で、どうしようもなく会いたくて。部屋の灰皿に溜まっていく煙草の吸い殻の数が、今の俺の抱えるストレスの大きさを、何よりも雄弁に物語っていた。

 ◇◇◇

 事件が起きてから一ヶ月以上が過ぎた頃。
 その日、乃亜が俺の部屋に来たのは、いつもよりずっと早い時間だった。ちなみに俺の面会謝絶(と言う名の出禁)は解けないままだ。
 玄関先で靴も脱がずに立ち尽くしているものだから、舌打ち混じりに声をかける。

「なんだよ、辛気臭い顔しやがって」
「……嵐さん。見晴くんから、これ」

 差し出されたのは、封のされていない一枚の便箋だった。折り目が几帳面すぎるくらいきっちりと二つ折りにされていて、見晴らしいというか、こんな時まで律儀なのかと、笑うより先に嬉しさが喉元をせり上がってくる。怪我がひどくて起き上がるのも大変そうだったと乃亜を通じて聞いていたから、きっと書くのにも一苦労したんじゃないかと思う。震える手で、それでも一字一字丁寧に綴ったのだろう文字が、目に浮かぶようだった。

「渡してほしいって、頼まれたんですよ。……今日、面会に行ったら珍しく見晴くんの親がナースステーションに行ってたから、話せて。それで」

 乃亜が言い淀む先を、俺は待たなかった。奪うように便箋を開く。そこに並んでいたのは、見覚えのある几帳面な字だった。少しだけ震えて乱れた線が、余計に胸を締めつけた。

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 電話だと、どうしても勇気が出なくて。手紙でこんなことを伝えるのを、許してくれないと思うけれど、許してください。

  嵐さん。俺、今までは、このまま「なにもない人間」として、生きていくのが怖かった。夢中になれるものも、得意なことも、何ひとつ持っていなくて。自分の人生を諦めようとした、どうしようもない人間です。
 
 そんな俺のありのままを受け入れてくれる嵐さんといる時間は、ずっと夢を見ているみたいに幸せでした。だけど本当は、いつかその夢から醒めなくちゃいけない日が来るって、心のどこかでずっと分かっていたんだと思います。だから、好きになり過ぎないようにしていました。
 
  嵐さん、たくさん迷惑をかけて、本当にごめんなさい。嵐さんが助けてくれたこの命を、今度こそ無駄にしないように、俺なりに頑張って生きていこうと思います。

 夢みたいな時間を、ありがとうございました。
 どうか、ご飯だけは、ちゃんと食べてくださいね。

 あ、今思い出したので、最後にこれだけ。

 この前、嵐さんがおいしいって言ってた冷しゃぶのレシピは醤油、お砂糖、お酢、ごま油、いりごまを大さじ1.5杯で作ってます。もしまた食べたくなったら、参考にしてください。

 それから、作ってあげられなくてごめんなさい。
 どうかお元気で
 
 日野見晴

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 一瞬、頭の中が真っ白になって、次の瞬間にはそのやるせない怒りの矛先が乃亜に向いていた。文字を追う目が、何度も同じ行を往復して、意味を拒むように空回りする。

「……はぁ? なんだよこれ」
「俺も、それしか渡されてないんです。見晴くんも親の目を気にしてて、こそっと渡してきた感じで。それ以上話せなくて」
「書かされたとかじゃねぇよな?」
「分かんないっすけど、どちらにせよ見晴くんは嵐さんの前から消えようとしてるとしか……」

 考えるよりも先に、身体が動いていた。財布とスマホだけを引っ掴んで玄関を飛び出す。後ろで乃亜が何か叫んでいた気がするが、聞いている余裕はなかった。
 病院までの道のりを、俺は記憶がないくらいの速さで走った。信号なんか知ったことか。タクシーを止める時間さえ惜しくて、気づいたら病院のロビーに雪崩れ込むように駆け込んでいた。
 息が切れて肺が焼けるように痛んでも、足を止める理由にはならなかった。なりふり構わず必死になっている自分を、少し離れたところで俺自身が冷めた目で見ている。こんな俺を客たちが見たら、きっと誰も信じないだろうな、と場違いなことを思った。エレベーターを待つのももどかしくて、階段を二段飛ばしで駆け上がる。息が上がって、心臓が痛いくらいに脈打っていた。それでも足を止めなかった。

「見晴!」

 何度も通って、それでも一度だって入れて貰えなかったその番号の前で、俺は勢いよく引き戸を開けたものの――そこには、誰もいなかった。
 ベッドのシーツは剥がされ、枕元にあったはずの点滴スタンドも、何もかもが綺麗さっぱり片付けられている。カーテンだけが、開け放たれた窓からの風でかすかに揺れていた。まるで最初から誰もいなかったみたいに、部屋は静けさに満ちている。
 何もない。忘れ物ひとつ、髪の毛一本すら残っていないんじゃないかと思うくらい、徹底的に「見晴がここにいた」痕跡が消されていた。慌ててナースステーションに駆け込むと、対応した看護師に困惑した様子で告げられる。

「日野さんでしたら、今朝早くにご両親が迎えに来られて、手続きを済ませて退院されましたよ」
「転院先とか、住所とか……何か聞いてないですか」
「申し訳ございません、そういった個人情報は、ご家族の同意がない限りお答えできない決まりになっておりまして」

 分かりきっていた答えだった。それでも聞かずにはいられなかった自分に、腹が立つ。スマホを取り出して、ブロックされたままの見晴のアカウントを何度も開いては閉じる。無意味だと分かっていても、指が勝手にその動作を繰り返した。

 廊下の窓から見える空は、皮肉なくらい晴れ渡っていた。あの日、雨だからと下ろすのを止めさせたスニーカーのことを、場違いに思い出す。きっと血で汚れてしまったであろうそれを、あいつはどうしただろうか。
 ポケットの中で握りしめた便箋が、くしゃりと乾いた音を立てた。
 別れの手紙に、よりによって「冷しゃぶのレシピ」を書いてよこすなんて本当にバカだ。バカを通り越して、バカ可愛い。
 しかも肝心なところが読めない。零れた涙が滲んで乾いて、浮き上がった文字はところどころ歪んでいる。
 ――あまりにもアイツらしい、呑気すぎる言葉だけを置き土産にして。見晴は、どこにも繋がらない場所へ消えてしまった。

 ◇◇◇

「嵐さん、今月もぶっちぎりの一位っすよ。さすがっす」

 後輩の軽い声を右から左に聞き流しながら、俺は指名ボードの一番上――自分の名前が金の枠で囲われているのを、ぼんやりと眺めていた。ナンバーワン。ずっと変わらない。むしろ以前よりも数字は伸びている。姫たちの前ではいつも通り、いや、いつも以上に愛想よく笑って、口説いて、酒を飲ませて、金を使わせる――ただし、それは表向きの話だ。中身が空っぽのまま、外側だけを完璧に演じ続けているという自覚は、誰よりも自分自身が一番よく分かっていた。
 朝方、家に帰ってからも浴びるように酒を飲むのが習慣になっている。灰皿は毎日山になるまで放置して、乃亜に「いい加減にしてくださいよ」と怒鳴られたのも、もう数えるのをやめた。

 見晴の行方は、未だに分からないままだった。乃亜のツテをフルに使って探させても、大学は正式に退学済み。まるでこの世から蒸発したみたいに、何ひとつ手がかりが残っていなかった。見晴という人間がいた事実だけが、俺の中に置き去りにされたまま、行き場を失っていた。

「そういえば嵐さん、聞きました? 最近歌舞伎町のコンカフェで、えげつない数字叩き出してる新人がいるらしいっすよ」

 同伴に向かう前、控室で煙草に火をつけていた後輩が、ふと思い出したように口を開いた。

「あ? なんだよ急に」
「いや、噂になってるんですよ。『あっとほ~むかふぇ』ってコンカフェの新人が、まだ入って一ヶ月かそこらなのに指名も裏引きもえっぐい額らしくて。しかも見た目が反則級に可愛いとかで、話が回ってて」
「そんな話、腐るほど聞いたことあるっつの」
「でも、そこって男の娘? だか専門らしくて。この前も警察に摘発されかけたらしいんすよ」
「てことは、なんかグレーなことやらせてるってことなんじゃねぇの。本番とか」
「そうそう、表向きはコンカフェなんすけど、裏メニューで店の奥でそっち方面させてるって話で」

 正直、その手の噂話には興味がなかった。歌舞伎町にはいくらでも「今話題の新人」が湧いては消える。俺はそのまま煙を吐き出しながら、話を右から左に聞き流していた。マジで、どうでもいい。見晴のいない世界に、俺の心はなんの興味も無いのだから。

「お疲れ様っしたー!」
「おう、明日も宜しくな」

 同伴を終えて店に向かう道すがら、大通りから一本外れた裏路地で、俺は妙な人だかりを目にした。
 数人の男が、壁際に追い詰めるようにして誰かを取り囲んでいる。酔った勢いなのか、笑い声と一緒に「いいじゃんちょっとくらい」「連絡先教えてよ」という声が漏れ聞こえてくる。

「困ります……あの、店の外での連絡先交換は、禁止されてるので……」

 その声に、俺の足はぴたりと止まった――知ってる声だ。三ヶ月間、忘れたことなんて一度もない。むしろ忘れられなくて、いっそ記憶ごと消してしまいたいと思うくらい、鮮明に焼きついていた声。喧騒の中でも、それだけがくっきりと輪郭を持って耳に届いた。

「お願いだよ、インスタのDMでいいからさ。店の中抜きなしで、お手当弾んじゃうよ?」

 人だかりの隙間から見えたのは、フリルのついた水色と白のメイド服(しかも、その下になぜかジャージのハーフパンツ)を身に纏った、華奢な後ろ姿だった。ウィッグの黒髪が街灯の下で揺れている。男の一人が苛立たしげに腕を掴んだ瞬間、その拍子に横顔がこちらを向いた。

 ――見晴だ。

 メイクして、いつもと違う色のコンタクトを入れていても、間違えるはずがない。怯えたように伏せられた目も、困り果てて泣きそうに歪む眉も、全部、俺が誰よりもよく知っているものだった。

「――おい」

 自分でも驚くくらい低い声が出た。喉の奥から絞り出したそれは、自分のものとは思えないほど掠れていた。男たちの視線が一斉にこちらを向く。歌舞伎町でそれなりに顔が売れている自覚はあったから、何人かは俺の顔を見た瞬間にあからさまに怯んだ。

「その子、うちの店の客に迷惑かけてる最中だったんでね。借りてくわ」

 有無を言わさず、見晴の腕を掴んでいた男の手を振り払う。そのまま、細い手首を――もう二度と離すもんかと思うくらいの強さで――掴んで、俺は自分の方に引き寄せた。

「あ……」

 見晴が小さく声を漏らす。三ヶ月ぶりに触れた体温は、記憶にあるよりも少し痩せて、頼りなく感じた。この手の中に収まる重みすら、以前より軽くなっている気がして、胸の奥が引き絞られるように痛む。
 呆然とこちらを見上げる見晴の目が、みるみるうちに潤んでいく。それが安堵からなのか、それとも別の何かからなのか、俺にはまだ判断がつかなかった。

「おもしれー格好してんじゃん」
「えと、あの……これは……」
「つーか、まだ都内に居たんだな、お前。とっくに実家にでも帰ってんのかと思ったわ」

 自分の一言一言が、物凄く意地悪な言い方をしている自覚はある。

「実家には、退院した後少しの間居たんですけど、その……」
「つーか、大学辞めてコンカフェで働いてるってどういう風の吹き回しだよ。いつから?」
「な、なんで退学したこと知ってるんですか」
「俺の情報網舐めんなよ、バーカ。探り入れたら速攻で分かんだよ。……馬鹿」

 二回も「バカ」を言うあたり、俺の方が相当なバカだ。それくらい、心の内では動揺し切っている。

(怪我は大丈夫なのかよ。てか、痩せてんじゃん。ちゃんと飯食ってんのか?)

 しかも、なんでこんな危ないことしてんだ。どうして俺の前から消えたんだよ。そう訊きたいことは山程あるのに、どれも一つとして言葉にはならず、頭の中で千々に乱れて消えていく。
 メイド服を着た見晴にスーツのジャケットを雑に羽織らせると、その小さな手を引いて、タクシーに乗り込んだ。