あーあ。なんだかもう、何もかも、どうでもよくなっちゃったな。
日野見晴、二十歳。どこにでもいる、大学二年生。趣味とか特技とか、誰かに自慢できるようなキラキラしたものは、何一つ持ってない。
勉強も運動も、波風を立てない程度の「それなり」を維持するだけで精一杯。鏡を覗き込んでも、そこに映るのは特別綺麗でも醜くもない、普通な顔だ。誰かを惹きつける愛嬌なんてのは、どこかに置き忘れてきちゃったらしい。
その証拠は、高校の卒業アルバム。寄せ書きの欄に、担任からわざわざ「日野、時には愛嬌も大事だよ!」なんて書かれたくらいだ。一生残るアルバムに書く言葉として、失礼すぎだと思う。先生に悪気はなかったんだろうけど、あれ以来、自分の顔を見るたびに「俺、そんなに愛嬌ないのかなぁ……」って、ちょっとだけ切なくなる時があるくらいには、傷ついた。
将来の夢も、希望も、泥臭く何かにしがみつきたいっていう執着もない。本当に、どこまでも「平凡」な人間。一人っ子で、両親はそれなりに、俺のことを大切に育ててくれたと思う。友達だって、いないわけじゃない。
でも、それは季節が過ぎれば入れ替わる、その場限りの背景のような繋がりだ。一緒に笑って遊んでも、心の奥底を覗かせ合える「親友」なんて存在、どうやって作るのかさえ分からなかった。
恋愛だってそうだ。自分の対象が男性だと気づいてから、周囲にバレるのが怖くて、マチアプの画面越しに「誰か」を探した。
大学一年でできた、初めての彼氏。二回目のデートで告白され、断る理由も使い道もないからって、流されるまま一ヶ月も経たずに体を重ねた。
人生初のセックスは、一応ドキドキはしたけれど、びっくりするくらいめちゃくちゃ痛かった。そのあとに、かなりトラウマになるような出来事があって。それ以来、俺の中でセックスは「痛くて、怖くて、なんだか悲しいもの」っていうイメージしか残っていない。
相手の何に惹かれたのかも、俺の何が愛されたのかも、結局手応えがないまま。九ヶ月経ったある日、『やっぱり価値観が違いすぎるわ』なんて薄っぺらな一言だけ残して、ブロックされて終わってしまった。
価値観って、そもそも俺にそんな立派なもの、あったのかな。今となっては、それすらもよく分からない。だから、「誰かを愛する」っていう感覚は、今も霧を掴むみたいに実体がない。
熱くなる前に冷めて、深く繋がる前に飽きられる。
それはきっと、俺という人間があまりにも空っぽで、注いでもらった熱をすべて透過させてしまうからだろう。
不自由はない。それなりに満たされてもいる。だからこそ、このまま「それなり」の人生が、ぬるま湯の中でふやけて続いていくことが、怖くてたまらなくなった。
人生の幕を閉じるとき、何ひとつ「これだけはやり遂げた」と胸を張れるものがないまま、消えていく。それが、震えるほど恐ろしい。
いっそ、誰かを狂おしいほど愛して、ボロボロに裏切られるような激しいドラマがあればよかった。あるいは、大きな夢を追いかけて、完膚なきまでに叩き折られるような挫折とか。そういう、もっともらしい「絶望する権利」があれば、まだ救われた気がするのに。
こんな余白だらけの人生をなぞり続けて、一体何の意味があるんだろう。そう思った瞬間。パズルの最後のピースが吸い込まれるように、すとんと腑に落ちた。誇れるものも、頑張りたいことも、自分より大切な誰かも。結局、そんな素敵なもの、何ひとつ見つけられなかったけれど。
(――ああ、もう。このまま「なにもない人間」として、ダラダラ人生を続けていくのは疲れちゃうな)
「お前の人生、なにもなかったね」って、誰かに突きつけられる日が来るのが一番怖い。
だったら、その前に。なにもない人生だったって、自分で笑って言えるうちに。今、ここで、全部「おしまい」にしちゃおう。
◇◇◇
アパートの部屋は、できるだけ身軽にしておきたくて。ゴミに出せるものは全部捨てて、スマホも財布も鍵も机の上に置きっぱなしにして出てきた、夜中の三時過ぎ。
坂の下にある、二十四時間営業の灯りが寂しげなマクドを通り過ぎて少し歩くと、終点ひとつ手前の、いつもの駅が見えて来た。
そこには四車線の道路をまたぐように、大きな歩道橋がかかっている。
階段を一段ずつ、自分の重さを確かめるように上って、橋の真ん中でじっと車を眺めてみる。でも、こんな時間に通る車なんてほとんどなくて。終電もとっくに終わった道には、歩いている人影さえ見当たらなかった。
(この高さって……死ねるかなぁ。まぁ、でも……車に轢かれれば確実だよね)
後から俺を轢く車の運転手さんがかわいそうかな、とか、もっと高いビルの方がいいのかな、とか。今さら頭の中で場違いなツッコミを入れている自分もいるけれど、もうなりふり構ってなんていられない。こんなこと、今この瞬間の勢いがないと絶対にできないから。
よいしょ、と重い腰を上げるみたいに橋をまたぐ。腕に力を込めて、体を外側へ。死ぬ間際、この世界にさよならする瞬間に何を考えようかなって期待したけれど、不思議なほど何も浮かばなかった。
(ああ、やっぱり……俺の人生って、空っぽ。……きょむきょむじゃん)
こんな最期のときまで、くだらない自虐しか思いつかない。やっぱり、俺みたいなのは生きてる価値なんてないのかもな。
そう思うと、勝手に目尻がじわっと熱くなって、視界が滲んだ。
柵を越えて、立っているのがやっとの細い足場に足をかける。手を離せば、もう確実に重力に身体を持っていかれる。ここまで来たら、もう引き下がれない。下手に誰かに見つかって、警察を呼ばれたり、説教されたりするのもごめんだ。
さようなら。たった二十年間の、俺の人生。
結局、なにひとつ成し遂げられないままの空白期間だったけれど。
「俺みたいなのが……生まれてきちゃって、ごめんなさい」
雨を含んだ湿った風に祈りを込めて、ふっと片手を離した、その時だった。
「――ちょっと待て」
ぐいっ、と左の二の腕を強く掴まれた。心臓が跳ねて、驚いて振り返った先にいたのは――。
真夜中の空の色を全部溶かして閉じ込めたみたいな、黒と濃い青。光が当たると、深い海の底のように青緑に透ける髪をハーフアップに結った男の人だった。
(うわ……綺麗な人……)
死ぬ直前に、こんなにかっこいい人に会えるなんて。それこそドラマチックすぎて、「俺の人生、ラストシーンにこの人が出てくるなら案外ラッキーだったのかも」なんて、不謹慎で場違いなことを思ってしまう。
「あ、あの……離して、ください……」
「いや、離すわけなくね。俺が手ぇ離したら、お前、死ぬよ?」
「えっと……そのつもりで、ここにいるので。殺人幇助とかにはならないと思うから、そのまま帰って頂いて……」
俺の返しが予想外だったのか、その人はきょとんとした顔をした後、耐えきれないといった風にぷはっと吹き出して笑った。
「え、なに。めっちゃ面白いじゃん、お前」
「……あ、ありがとうございます?」
怖そうな見た目に似合わず、子供がいたずらに成功したときみたいに笑うんだ……なんて、思わず、ぽけーっと見惚れてしまう。
全身黒ずくめのオーバーサイズな服に、季節外れのサンダル。シルバーのネックレスに、いくつも開いたピアスの穴。その指先には、まだ細く白い煙を吐き出している煙草が挟まれていた。
しとしとと静かな雨が降り始めた、夜の歩道橋。その人は指に挟んでいた煙草をコンクリートに落とすと、サンダルの底でゆっくり、優しく押し潰すように火を消した。
「なぁ、ちょっと死ぬ前にゲームしようぜ」
「へ……? なに、なんで――」
「『みりん』って、十回言ってみ」
ふわりとした、鼓膜を優しく撫でるような声だった。
「ど、どうしてですか?」
「いいから。騙されたと思ってさ」
男の人は困ったように、でも綺麗に目を細めて笑った。
けれど、その瞳の奥はちっとも笑っていない。それどころか、さっきからずっと掴まれている俺の腕には、絶対に逃がさないという重い熱が伝わってくるほどの力が込められている。
このままじゃ、ここから飛び降りることもできない。
俺は諦めて、この人の不思議な「十回ゲーム」に付き合うことにした。
「みりん、みりん、みりん、みりん……」
こんなことするの、いつぶりだろう。一生懸命に十回言い終えて、少し照れくさそうにしている俺に、その人は満足そうに頷いて、首を傾げた。
「じゃあ、鼻の長い動物はなーんだ?」
「……えっと、きりん……?」
案の定、引っかかった。恥ずかしさと「ああ、俺、死ぬ間際までバカなんだ」という脱力感で、頭の中が真っ白になる。張り詰めていた指先の力が、ふっと抜けた。
それを待っていたかのように、その人の手に強烈な力がこもる。
声を上げる間もなかった。雨に濡れた欄干を滑るようにして、俺の体は世界の「外側」から「内側」へと、強引に引き戻された。視界がぐわんと歪んで、重力に逆らえないまま後ろへ倒れ込む。硬いアスファルトに叩きつけられる衝撃を覚悟して、俺はぎゅっと目を閉じた。けれど、いつまで経っても痛みはやってこない。代わりに伝わってきたのは、どさっ、という重い鈍い音と、背中を包み込むような低反発な弾力。それから、男の人の香水の匂い。
「……っ、ぶねぇ……」
耳元で漏れた苦悶の声に、恐る恐る瞳を開く。
俺を腕の中に閉じ込めたまま、自分をクッションにして地面に横たわる横顔。
彼は俺が怪我をしないよう、咄嗟に自分を完全に下敷きにして、衝撃をすべてその背中で受け止めてくれていた。
「大丈夫、ですか……っ?」
「……丈夫じゃねーよ。……バカ。お前、ほんとにそのまま落ちるつもりだったのかよ」
顔を歪めながらも、俺を離そうとしない。それどころか、俺の背中に回された腕の力がさらに強くなる。
冷たい雨が降っているはずなのに、触れている場所から、火傷しそうなくらい熱い体温が伝わってくる。誰かにこんな風に、ボロボロになっても守ってもらったことなんて、一度もなかった。
「はい、捕獲完了」
耳元で、蕩けるような声で囁かれる。
呆然として顔を見上げる俺の頭を、その人は「いい子」と言うみたいに、ぽんぽんと優しく撫でた。
「割と抜けてて助かったわ」
「……あ……お、俺は助かりたくなかったです。やだ、離して……!」
俺は必死に、雨に濡れた欄干へ這うように手を伸ばす。
こんなはずじゃなかった。朝日が昇る前に、全部終わらせるつもりだったんだ。冷蔵庫も空にして、思い出の品も全部捨てて、アパートだって解約の手続きをしてきたのに。身体をその場に縫い付けるように強い力で制止され続けて、身動きが取れない。
「……ちなみに言っておくけど。そこから飛び降りても、たぶん死なねぇよ。最悪、体が動かなくなって、ずっとベッドの上で後悔することになると思う」
「う、うそ。……そうなんですか?」
「は? お前、本気で死ぬ気じゃねーの。そういうのはちゃんと前もって調べろよ」
その人は困ったように笑うと、背後から俺の体をそっと包み込むように羽交い締めににした。……だめだ、動けない。
「あの、離してください。今日死ねないと、俺、困るんです。いろいろ解約しちゃったし」
「知るかよ。目の前で飛び降りんの黙って見守れるほどアホじゃねーんだわ、こっちも」
大きなため息をつくと、俺の体をひょいっと担ぎ上げられた。
「へっ!? ……ちょ、ちょっと、嫌だ、降ろしてくださいっ!」
「お前、なんかクスリやってる? 臭くねーから酒は飲んでなさそうだけど。言ってることもやってることもイかれすぎてて、マジでやべぇって」
「……クスリも酒もしてないです、通常運転がこれなんです! だから、どうかお気になさらず……」
ジタバタと暴れてみるけれど、男の人の腕は岩みたいにびくともしない。「やべぇ奴」だと分かっているなら、もう本当に放っておいてほしいのに。
その人は俺を横抱き――いわゆるお姫様抱っこの形に収めると、逃げられないようぐっと腕に力を込めた。ふうっ、と吐き出された溜息とともに、甘くて苦い煙草の香りが鼻をくすぐる。
「お前、今から俺の家に連れて帰るから」
「ええっ……な、なんでですか!? 嫌だ、俺、ぜったい今日死ぬって決めて――」
「あー、はいはい。それはもう分かったって。死にてぇくらい、もうどうでもいい人生なんだろ?」
「そうです!」
食い気味に返した俺の迷いない返事に、その人は意外そうに目を丸くした後、毒気を抜かれたようにクスクスと笑みをこぼした。
「マジでおもしれーな、お前。興味しかねぇんだけど」
「あの、ほんとに離して……。朝になるまでに死ねないと、計画が狂っちゃうんです」
俺の一言にその人は少しの間沈黙すると、強引に俺の顎をクイッと上向かせて、覗き込むように言った。
「人生なんて、計画外のことばっかだろ。……一日くらい死ぬのが遅くなっても、別にいいんじゃねぇの」
一日。たった、二十四時間。その響きが俺の決意をさらにグラつかせる。
どうせこの人、全然離してくれなさそうだし。というか、腕の力が強すぎて物理的に無理そう。それなら、一日だけこの人に付き合って、バイバイしてから死ぬのでも……いい気がする。
俺が腕の中で抵抗をやめると、それを「了承」とみなしたらしいその人は、満足そうに鼻で笑った。
「……よし。逃げそうだから、このまま行くわ」
「え、ちょ、このまま歩くんですか!? 恥ずかしいですってば!」
「誰も見てねーよ。ほら、大人しくしてろ」
そのまま本当に橋を降りて歩きだしてしまったその人の胸板は、びっくりするくらい厚くて、驚くほど温かかった。
人生、最後になるはずの日。俺は真夜中の歩道橋で、やたらと顔のいい男の人に抱えられ、そのままさらわれるみたいに家へ連れて帰られる……というとんでもない展開を迎えてしまった。
さっきまで死ぬつもりだったはずなのに。この人の腕の中にすっぽり収まっていると、なんだか自分が「壊れやすい荷物」にでもなったような、変な錯覚に陥ってしまう。
「あの、重くないですか……?」
「は? 俺のことバカにしてんのかよ。お前、細すぎだし。ちゃんと食ってんの?」
「……もうどうでもよくなってからは、あんまり……」
呆れたように鼻を鳴らしたその人の、首筋に刻まれたタトゥーをぼーっと見つめる。
(何の柄なんだろう……。よく分からないけど、こういうのって、彫る時すっごく痛いんだろうなぁ……)
痛いのは嫌いだけど、この人の肌にあるそれは、なんだか少しだけ綺麗に見えた。
計画していた「静かな最期」とは正反対の、他人の体温が近すぎる、騒がしくて温度のある夜。でも、この腕の中があまりにも温かくて。
「明日死ぬ」っていう決意さえ、春の雪みたいに少しずつ溶けてしまいそうで、それがちょっとだけ、怖かった。



