【side:北野】
やらかした。
田浦の涙を見た瞬間、頭のなかで最初に浮かんだのは、その一言だった。
『ごめん。今は、ちゃんと話せないから。……一人にして欲しいです』
震える声でそう言われて、血の気がすうっと引いた。
まさかあんな場所で、元カノ(と呼んでいいのかすら怪しい)に再会するところを、よりによって一番知られたくない田浦に見られるとは。
自分なりに、田浦にだらしない男だと思われたくなくて、ふたりで遊びに行く前に、今までやりとりしていた女子とは全て関係を清算した。
けれど、そんな都合のいい話を相手がすんなり受け入れてくれるわけもなくて。その時になって初めて、「日替わりで女子と付き合う」なんてイキったことをしていた過去の自分を、ぶん殴りたくなった。
せめて会話の内容までは聞こえていませんように、と祈りながら追いかけたのに、テンパりすぎて、往来のど真ん中でフルネームをデカい声で呼んでしまった。おまけに「なんで急に帰るんだよ」と、詰め寄るような言い方まで。
田浦は天然だけど、人の感情の機微には誰よりも繊細だ。何を言われても、ひとつひとつを真剣に受け取ってしまう。だからこそ、俺の乱暴な言葉が、あいつの心を掻き乱して、泣かせてしまったのかもしれない。最悪の修羅場を見られた上に、追い打ちまでかけてしまうなんて。
「……わかった、ごめん」
口から出たのは、それだけだった。
何に対する謝罪なのか、自分でも分からない。田浦は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、首を小さく横に振った。何かを言おうとして、唇が動いて、結局声にならない。
そのまま「ごめんなさい」ともう一度頭を下げられ、あいつは俺の横をすり抜けて走っていった。追いかけろ、と頭のなかの自分が叫ぶ。けど、あんなにもはっきりと一人にして欲しい、と言われて追いかける勇気もなくて。その気持ちを踏みにじったら、今度こそ本当に終わる。そう思うと、拳を握りしめて立ち尽くすことしかできなかった。
「……で、お前は何をやってんだ」
店内に戻ると、三人が揃って呆れた顔で俺を見ていた。
東山が、テーブルの上に置かれた水滴だらけのウーロン茶を見て、ため息をつく。
「田浦、マジで帰ったのか」
「あぁ」
「泣いてた?」
「……」
「泣いてたんだな。北野、お前マジでなにしてんの。何で戻ってきた?」
黙っている俺に、南田が「うわー」と頭を抱える。西谷は腕を組んで、俺をちらりと見た。いつもなら「うるせぇ」で終わらせるところだ。けれど、今日はそれができなかった。喉の奥に、どうしようもなく重たいものが詰まっている。
田浦のウーロン茶のグラスを指先でなぞると、結露の雫がぽたりと落ちた。
「……俺、お前らには言ってなかったけど」
「ん?」
「田浦のことが、思った以上に好き……なんだと思う」
「あー、ごめんけど、気づいてた。誤魔化すの下手だったし」
「は……?」
「俺も気付いとったで。北野、うーちゃんの筆箱、毎朝チェックしとったから」
「な、なんで知って」
「隣の席の俺が気づかんと思う? てか、普通に同じ日に着け出したら『ふたりで映画行ったんやろうな』くらいのことは分かるって」
西谷がけらけら笑いながら手を挙げる。俺は片手で顔を覆いながら、初めて自分の気持ちを打ち明けた。
「……最初は、変な奴だなって思っただけだったんだよ。ゲーセンに一人で乗り込んできて、俺なんかのために真剣に練習してて。しかも、教室の席が空いてると寂しい、とか真顔で言うし。……なんで、こいつはこんなに素直なんだろうって」
「うん」
「俺、ハンド辞めてからずっとイライラしてた。何してても空っぽな感じで、周りが求める自分のフリして。でも、田浦の前だと、それが全然通用しなくて」
「うーちゃん、天然だからな」
「そう。上辺の俺じゃなくて、素の俺に話しかけてくる。でも……」
東山が、ペンをテーブルに置いた。真面目な顔で、続きを待ってくれている。
「何ビビってんだよ、お前」
「あんなに真面目で、純粋で。俺みたいな奴が近づいて、本当にいいのかって。なのに、もっと知りたいとか、仲良くしたいとかそれ以上のことを、思ってる自分もいる」
言いながら、田浦の顔が浮かんだ。プリントを抱えた不安げな顔。ヘルメットをつけた時のドヤ顔。体育祭で本気で悔し泣きしている顔。かっこいいって思えよって一心に気持ちを伝えた時の、真っ赤になった照れ顔。全部が全部、大切な記憶だ。
「あとは……俺がこんなふうに思ってること自体、田浦にとっては気持ち悪いんじゃないかって」
「いや、それはお前がただ逃げたくて言ってるだけじゃね」
東山が、ゆっくり首を横に振った。図星すぎて、何も言い返せない。
「うーちゃんが泣いたのは、たぶん北野が思ってる理由じゃないぞ」
「なんでお前に分かるんだよ」
「さっきの、うーちゃんの顔見てたから」
それ以上は、東山は何も言わなかった。「答えを渡すのは俺の役目じゃないし」と、口の端だけで笑う。
「ただ、一個だけ。逃げてるのは、うーちゃんだけじゃない。北野、お前もちゃんと向き合えよ」
***
三人に「今はうーちゃんのためにも、追試を頑張ろうぜ」と肩を叩かれて、ファミレスから帰ったその日の夜。俺は久しぶりに机に向かった。
ひとりになりたい、と言った田浦に、無理に連絡するのは絶対に悪手だ。
それが一体いつまでなのか、どのくらい待てばいいのかと、貧乏ゆすりしたくなるほどのじれったさはある。けれど、まずは追試に受からなければ、顔を合わせる事も出来ない。
焼肉がどうこうなんて、マジでどうでもいい。全教科合格して、田浦に「お前のおかげだ」と、ちゃんと感謝を伝えられる自分になる。話をするのは、それからだ。
「やるしかねぇよな……」
田浦が帰り際に一枚ずつ手渡してきた対策プリントの束を、机の上にばさりと広げる。
(俺が受かったら、喜んでくれんのかな。……いや、逆に落ちたら、俺のいいところってマジでなんもなくねぇ?)
いよいよ本気でまずい。焦りながら数か月ぶりにシャープペンを握り、表紙を捲る。
中学のときは、覚えるまで反復すれば、必ず本番でも解けるようになった。あの感覚と同じだ、と自分に言い聞かせて、英語の基礎文法を一問ずつ解いていく。
一時間かけて、やっと一ページ。答え合わせをすると、合っていたのは半分もなかった。
それでも、間違えた箇所を声に出して読み、もう一度解く。それをひたすら繰り返した。
学年ビリの俺が、学年首席の田浦に、ここまで手間をかけさせている。
そう思った瞬間、シャープペンを持つ手が止まった。
このプリントは、田浦が自分の時間を削って作ったものだ。あいつは満点を取れる側の人間で、こんなことをしたって、なんのメリットもない。初めて俺の所にやって来たきっかけは内申の為だと言っていたけれど、今の田浦にそういう打算があるようにはとてもじゃないけど見えない。不器用すぎるほど真っ直ぐに、自分の前で起きたことを夢中でなんとかしようとする。こうして過去問を洗って、ヤマを張って、ページの端にまで注釈を書き込んでいる。俺みたいな奴のために。
(じゃあ、俺は田浦に何を返せる?)
勉強は教えられない。頭の出来が違いすぎる。ハンドも、もうできない。顔がいいだの、女の子の扱いがうまいだの、そんなものは、あいつの前では何の役にも立たないどころか、むしろ足を引っ張っている。今日だって、その「得意なこと」のせいで、あいつを泣かせたばかりだ。俺の手元には、いつの間にか、何も残っていない。
ハンドを辞めたときに感じた、あの空っぽの感じが、また腹の底のほうから、じわじわと這い上がってくる。あの頃は「どうでもいい」と投げ出すことで誤魔化せた。でも今は、投げ出せない。投げ出したくない理由が、はっきりとあるからだ。
(釣り合ってねぇよな、どう考えても)
自分で思って、自分でへこむ。
そのくせ、ページを閉じる気にはなれなかった。むしろ、こんな自分でも一問ずつ積み上げるしかないという気持ちが湧いてくる。空っぽなら、空っぽなりに、埋めていくしかないのだ。
ふ、と息を吐いて、次のページを捲る。
「……なんだ、これ」
そこにあったのは、猫……いや、ライオン。よく見ると、トラにも見えなくもない生き物のイラストだった。
吹き出しが何故か口から直接生えていて、魂を抜き取られたみたいな顔をしている。
その中には、『今日はここまで出来れば完璧。明日も頑張ろう!』と、几帳面な字でコメントが書き込まれていた。もしかして、とページを捲って行くと、一日ごとに『二日目の勉強お疲れ様です』『三日目は一日目の反復をするのが効果的』と毎回異なる姿をしたクリーチャーたちが現れる。
「……下手くそすぎるだろ」
下手だ。とんでもなく下手なのに、目が離せない。田浦が真剣な顔で、首を傾げながら描いている姿が、ありありと浮かんでしまう。
たぶん、俺のやる気が続くように、と考えたんだろう。ただの励ましの一言で済むところを、わざわざ絵まで添えて。
(でも、俺のために、って頑張って書いてくれたんだよな)
その絵ひとつで、さっきまで腹の底で冷えていたものが、少しだけ、ほどけていく。
俺はライオンだかトラだか分からない生き物の頭を、親指の腹でそっと撫でた。
***
翌日、学校にやって来た田浦はこっちが直視するのをはばかられるほど、目元が赤くなっていた。どれだけ泣いたんだろう。大丈夫か、と声を掛けてやりたい。
けれど、今の俺たちの間にあるのは、昨日までの距離感とは明らかに違う、気まずさと遠慮の混じった境界線だ。そんな踏み込みづらさを抱えたまま、俺は後ろの席から、その背中にひたすら視線を送ることしかできない。
「うーちゃん、おっはよー」
「お、おはよう」
幸い、南田たちが仲介役を買って出てくれて、田浦の様子に気を配りながら、さりげなく声を掛けてくれている。「ここ教えて」と話しかける三人に、田浦が少しだけ表情を緩めるのを見て、ほっとするような、悔しいような、複雑な気持ちで机から虎の巻を取り出す。
その時、後ろを何気なく振り返った田浦と、ふいに視線が絡まった。
(え、俺のこと見てる?)
気まずさから目を逸らしそうになった瞬間、田浦がほんのわずかに片手を上げるのが見える。俺が教室に入る時にいつもこっそり送ってくる、二人だけの「おはよう」の合図だ。
いつだったか、久し振りに登校した時にも同じことをされて、恥ずかし過ぎて「ふん」と顔を背けてしまったこともあったっけな。あの時はあんなに素っ気なくしてしまったのに。今は、この言葉にならないじれったい距離感で発せられる、田浦なりの小さな意思表示が、どうしようもなく胸に染みる。
俺も心の中で「はよ」と呟きながら、ぎこちなく小さく手を挙げて返す。
本当は、昨日の夜の事も、言いたいことも、喉まで出かかっている。でも、今はちゃんとやることをやってから。胸を張れる自分になってからだ。
(田浦にガッカリした顔させるとか、自分が留年するより絶対に無理だわ)
その日から、放課後も休日も、時間の許す限り机に向かった。
田浦のくれた虎の巻を開き、解いては間違え、解説を読み込み、また解き直す。コンビニの買い出し以外で部屋から出ない日もあった。机に向かいすぎてペンダコが出来るほどだったし、こんなに勉強したことなんて人生で初めてじゃないかと思う。夜中、睡魔に負けそうになるたび、あの日の田浦の泣き腫らした目元が脳裏によぎり、再びシャーペンに力を込めた。
そうしてがむしゃらに駆け抜けた、追試の二日前。
自室の床にあぐらをかいて問題を解いていた俺は、キリのいいところで立ち上がろうとして、膝に鈍い痛みを覚えた。
体育祭のあと、ずっと無視していた違和感が、ここに来て限界を超えたらしい。
階段を降りようとして体重をかけた瞬間、刺すような痛みが走り、俺は思わずその場にうずくまってしまった。
「ちょっと、瀧。アンタ、膝は大丈夫なの?」
「あー……いや、なんか……割と痛ぇ、かも」
夜勤明けで疲れている母さんに言い出すのは申し訳なかったが、渋々痛みの具合を説明すると、母さんはそのまま車を飛ばし、俺を無理やり外科へ連れていった。
レントゲンを撮られて、医者に言われたのは、二日間の安静。加えて、一週間分の湿布とサポーターを付けること。
追試当日までは、学校には行けない。病院から家に戻る車の中で、俺はラインを開き、チャット欄に同じ内容を何度も色んな言い回しで打ち込んでは消していた。
『膝が痛いから休む』
そんな情報いらねぇだろ、という自分がいる。けれど、何も言わずに休めば、田浦にまた学校に来たくなくなったのだと思わせてしまう気がした。でも、体育祭の無理が原因だと知れば、田浦はきっと自分を責める。あいつは、そういう奴だ。
……それに、本当は、それだけじゃない。怪我で弱っている自分を、田浦に見せたくなかった。かっこ悪いところは、もう十分に見せている。
せめてこれ以上は、というちっぽけなプライドが、指を止めていた。
やらかした。
田浦の涙を見た瞬間、頭のなかで最初に浮かんだのは、その一言だった。
『ごめん。今は、ちゃんと話せないから。……一人にして欲しいです』
震える声でそう言われて、血の気がすうっと引いた。
まさかあんな場所で、元カノ(と呼んでいいのかすら怪しい)に再会するところを、よりによって一番知られたくない田浦に見られるとは。
自分なりに、田浦にだらしない男だと思われたくなくて、ふたりで遊びに行く前に、今までやりとりしていた女子とは全て関係を清算した。
けれど、そんな都合のいい話を相手がすんなり受け入れてくれるわけもなくて。その時になって初めて、「日替わりで女子と付き合う」なんてイキったことをしていた過去の自分を、ぶん殴りたくなった。
せめて会話の内容までは聞こえていませんように、と祈りながら追いかけたのに、テンパりすぎて、往来のど真ん中でフルネームをデカい声で呼んでしまった。おまけに「なんで急に帰るんだよ」と、詰め寄るような言い方まで。
田浦は天然だけど、人の感情の機微には誰よりも繊細だ。何を言われても、ひとつひとつを真剣に受け取ってしまう。だからこそ、俺の乱暴な言葉が、あいつの心を掻き乱して、泣かせてしまったのかもしれない。最悪の修羅場を見られた上に、追い打ちまでかけてしまうなんて。
「……わかった、ごめん」
口から出たのは、それだけだった。
何に対する謝罪なのか、自分でも分からない。田浦は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、首を小さく横に振った。何かを言おうとして、唇が動いて、結局声にならない。
そのまま「ごめんなさい」ともう一度頭を下げられ、あいつは俺の横をすり抜けて走っていった。追いかけろ、と頭のなかの自分が叫ぶ。けど、あんなにもはっきりと一人にして欲しい、と言われて追いかける勇気もなくて。その気持ちを踏みにじったら、今度こそ本当に終わる。そう思うと、拳を握りしめて立ち尽くすことしかできなかった。
「……で、お前は何をやってんだ」
店内に戻ると、三人が揃って呆れた顔で俺を見ていた。
東山が、テーブルの上に置かれた水滴だらけのウーロン茶を見て、ため息をつく。
「田浦、マジで帰ったのか」
「あぁ」
「泣いてた?」
「……」
「泣いてたんだな。北野、お前マジでなにしてんの。何で戻ってきた?」
黙っている俺に、南田が「うわー」と頭を抱える。西谷は腕を組んで、俺をちらりと見た。いつもなら「うるせぇ」で終わらせるところだ。けれど、今日はそれができなかった。喉の奥に、どうしようもなく重たいものが詰まっている。
田浦のウーロン茶のグラスを指先でなぞると、結露の雫がぽたりと落ちた。
「……俺、お前らには言ってなかったけど」
「ん?」
「田浦のことが、思った以上に好き……なんだと思う」
「あー、ごめんけど、気づいてた。誤魔化すの下手だったし」
「は……?」
「俺も気付いとったで。北野、うーちゃんの筆箱、毎朝チェックしとったから」
「な、なんで知って」
「隣の席の俺が気づかんと思う? てか、普通に同じ日に着け出したら『ふたりで映画行ったんやろうな』くらいのことは分かるって」
西谷がけらけら笑いながら手を挙げる。俺は片手で顔を覆いながら、初めて自分の気持ちを打ち明けた。
「……最初は、変な奴だなって思っただけだったんだよ。ゲーセンに一人で乗り込んできて、俺なんかのために真剣に練習してて。しかも、教室の席が空いてると寂しい、とか真顔で言うし。……なんで、こいつはこんなに素直なんだろうって」
「うん」
「俺、ハンド辞めてからずっとイライラしてた。何してても空っぽな感じで、周りが求める自分のフリして。でも、田浦の前だと、それが全然通用しなくて」
「うーちゃん、天然だからな」
「そう。上辺の俺じゃなくて、素の俺に話しかけてくる。でも……」
東山が、ペンをテーブルに置いた。真面目な顔で、続きを待ってくれている。
「何ビビってんだよ、お前」
「あんなに真面目で、純粋で。俺みたいな奴が近づいて、本当にいいのかって。なのに、もっと知りたいとか、仲良くしたいとかそれ以上のことを、思ってる自分もいる」
言いながら、田浦の顔が浮かんだ。プリントを抱えた不安げな顔。ヘルメットをつけた時のドヤ顔。体育祭で本気で悔し泣きしている顔。かっこいいって思えよって一心に気持ちを伝えた時の、真っ赤になった照れ顔。全部が全部、大切な記憶だ。
「あとは……俺がこんなふうに思ってること自体、田浦にとっては気持ち悪いんじゃないかって」
「いや、それはお前がただ逃げたくて言ってるだけじゃね」
東山が、ゆっくり首を横に振った。図星すぎて、何も言い返せない。
「うーちゃんが泣いたのは、たぶん北野が思ってる理由じゃないぞ」
「なんでお前に分かるんだよ」
「さっきの、うーちゃんの顔見てたから」
それ以上は、東山は何も言わなかった。「答えを渡すのは俺の役目じゃないし」と、口の端だけで笑う。
「ただ、一個だけ。逃げてるのは、うーちゃんだけじゃない。北野、お前もちゃんと向き合えよ」
***
三人に「今はうーちゃんのためにも、追試を頑張ろうぜ」と肩を叩かれて、ファミレスから帰ったその日の夜。俺は久しぶりに机に向かった。
ひとりになりたい、と言った田浦に、無理に連絡するのは絶対に悪手だ。
それが一体いつまでなのか、どのくらい待てばいいのかと、貧乏ゆすりしたくなるほどのじれったさはある。けれど、まずは追試に受からなければ、顔を合わせる事も出来ない。
焼肉がどうこうなんて、マジでどうでもいい。全教科合格して、田浦に「お前のおかげだ」と、ちゃんと感謝を伝えられる自分になる。話をするのは、それからだ。
「やるしかねぇよな……」
田浦が帰り際に一枚ずつ手渡してきた対策プリントの束を、机の上にばさりと広げる。
(俺が受かったら、喜んでくれんのかな。……いや、逆に落ちたら、俺のいいところってマジでなんもなくねぇ?)
いよいよ本気でまずい。焦りながら数か月ぶりにシャープペンを握り、表紙を捲る。
中学のときは、覚えるまで反復すれば、必ず本番でも解けるようになった。あの感覚と同じだ、と自分に言い聞かせて、英語の基礎文法を一問ずつ解いていく。
一時間かけて、やっと一ページ。答え合わせをすると、合っていたのは半分もなかった。
それでも、間違えた箇所を声に出して読み、もう一度解く。それをひたすら繰り返した。
学年ビリの俺が、学年首席の田浦に、ここまで手間をかけさせている。
そう思った瞬間、シャープペンを持つ手が止まった。
このプリントは、田浦が自分の時間を削って作ったものだ。あいつは満点を取れる側の人間で、こんなことをしたって、なんのメリットもない。初めて俺の所にやって来たきっかけは内申の為だと言っていたけれど、今の田浦にそういう打算があるようにはとてもじゃないけど見えない。不器用すぎるほど真っ直ぐに、自分の前で起きたことを夢中でなんとかしようとする。こうして過去問を洗って、ヤマを張って、ページの端にまで注釈を書き込んでいる。俺みたいな奴のために。
(じゃあ、俺は田浦に何を返せる?)
勉強は教えられない。頭の出来が違いすぎる。ハンドも、もうできない。顔がいいだの、女の子の扱いがうまいだの、そんなものは、あいつの前では何の役にも立たないどころか、むしろ足を引っ張っている。今日だって、その「得意なこと」のせいで、あいつを泣かせたばかりだ。俺の手元には、いつの間にか、何も残っていない。
ハンドを辞めたときに感じた、あの空っぽの感じが、また腹の底のほうから、じわじわと這い上がってくる。あの頃は「どうでもいい」と投げ出すことで誤魔化せた。でも今は、投げ出せない。投げ出したくない理由が、はっきりとあるからだ。
(釣り合ってねぇよな、どう考えても)
自分で思って、自分でへこむ。
そのくせ、ページを閉じる気にはなれなかった。むしろ、こんな自分でも一問ずつ積み上げるしかないという気持ちが湧いてくる。空っぽなら、空っぽなりに、埋めていくしかないのだ。
ふ、と息を吐いて、次のページを捲る。
「……なんだ、これ」
そこにあったのは、猫……いや、ライオン。よく見ると、トラにも見えなくもない生き物のイラストだった。
吹き出しが何故か口から直接生えていて、魂を抜き取られたみたいな顔をしている。
その中には、『今日はここまで出来れば完璧。明日も頑張ろう!』と、几帳面な字でコメントが書き込まれていた。もしかして、とページを捲って行くと、一日ごとに『二日目の勉強お疲れ様です』『三日目は一日目の反復をするのが効果的』と毎回異なる姿をしたクリーチャーたちが現れる。
「……下手くそすぎるだろ」
下手だ。とんでもなく下手なのに、目が離せない。田浦が真剣な顔で、首を傾げながら描いている姿が、ありありと浮かんでしまう。
たぶん、俺のやる気が続くように、と考えたんだろう。ただの励ましの一言で済むところを、わざわざ絵まで添えて。
(でも、俺のために、って頑張って書いてくれたんだよな)
その絵ひとつで、さっきまで腹の底で冷えていたものが、少しだけ、ほどけていく。
俺はライオンだかトラだか分からない生き物の頭を、親指の腹でそっと撫でた。
***
翌日、学校にやって来た田浦はこっちが直視するのをはばかられるほど、目元が赤くなっていた。どれだけ泣いたんだろう。大丈夫か、と声を掛けてやりたい。
けれど、今の俺たちの間にあるのは、昨日までの距離感とは明らかに違う、気まずさと遠慮の混じった境界線だ。そんな踏み込みづらさを抱えたまま、俺は後ろの席から、その背中にひたすら視線を送ることしかできない。
「うーちゃん、おっはよー」
「お、おはよう」
幸い、南田たちが仲介役を買って出てくれて、田浦の様子に気を配りながら、さりげなく声を掛けてくれている。「ここ教えて」と話しかける三人に、田浦が少しだけ表情を緩めるのを見て、ほっとするような、悔しいような、複雑な気持ちで机から虎の巻を取り出す。
その時、後ろを何気なく振り返った田浦と、ふいに視線が絡まった。
(え、俺のこと見てる?)
気まずさから目を逸らしそうになった瞬間、田浦がほんのわずかに片手を上げるのが見える。俺が教室に入る時にいつもこっそり送ってくる、二人だけの「おはよう」の合図だ。
いつだったか、久し振りに登校した時にも同じことをされて、恥ずかし過ぎて「ふん」と顔を背けてしまったこともあったっけな。あの時はあんなに素っ気なくしてしまったのに。今は、この言葉にならないじれったい距離感で発せられる、田浦なりの小さな意思表示が、どうしようもなく胸に染みる。
俺も心の中で「はよ」と呟きながら、ぎこちなく小さく手を挙げて返す。
本当は、昨日の夜の事も、言いたいことも、喉まで出かかっている。でも、今はちゃんとやることをやってから。胸を張れる自分になってからだ。
(田浦にガッカリした顔させるとか、自分が留年するより絶対に無理だわ)
その日から、放課後も休日も、時間の許す限り机に向かった。
田浦のくれた虎の巻を開き、解いては間違え、解説を読み込み、また解き直す。コンビニの買い出し以外で部屋から出ない日もあった。机に向かいすぎてペンダコが出来るほどだったし、こんなに勉強したことなんて人生で初めてじゃないかと思う。夜中、睡魔に負けそうになるたび、あの日の田浦の泣き腫らした目元が脳裏によぎり、再びシャーペンに力を込めた。
そうしてがむしゃらに駆け抜けた、追試の二日前。
自室の床にあぐらをかいて問題を解いていた俺は、キリのいいところで立ち上がろうとして、膝に鈍い痛みを覚えた。
体育祭のあと、ずっと無視していた違和感が、ここに来て限界を超えたらしい。
階段を降りようとして体重をかけた瞬間、刺すような痛みが走り、俺は思わずその場にうずくまってしまった。
「ちょっと、瀧。アンタ、膝は大丈夫なの?」
「あー……いや、なんか……割と痛ぇ、かも」
夜勤明けで疲れている母さんに言い出すのは申し訳なかったが、渋々痛みの具合を説明すると、母さんはそのまま車を飛ばし、俺を無理やり外科へ連れていった。
レントゲンを撮られて、医者に言われたのは、二日間の安静。加えて、一週間分の湿布とサポーターを付けること。
追試当日までは、学校には行けない。病院から家に戻る車の中で、俺はラインを開き、チャット欄に同じ内容を何度も色んな言い回しで打ち込んでは消していた。
『膝が痛いから休む』
そんな情報いらねぇだろ、という自分がいる。けれど、何も言わずに休めば、田浦にまた学校に来たくなくなったのだと思わせてしまう気がした。でも、体育祭の無理が原因だと知れば、田浦はきっと自分を責める。あいつは、そういう奴だ。
……それに、本当は、それだけじゃない。怪我で弱っている自分を、田浦に見せたくなかった。かっこ悪いところは、もう十分に見せている。
せめてこれ以上は、というちっぽけなプライドが、指を止めていた。



