ド真面目天然学級委員のうたくんは、クーデレ問題児のベタ惚れに気付かない

 体育祭での劇的な優勝を果たした俺たちは、先生から「ご褒美に、どこの焼肉屋でも好きな店を選んでいいぞ」と言われ、ウキウキと盛り上がっていた――のだが。その直後、先生の口から急転直下のまさかの一言が付け足された。

「ああ、でも。北野、南田、東山、西谷。お前らは中間で三教科以上の赤点だから追試だ。他の連中は夏休みの課題提出で救済するが、この四名は来週の追試で国・数・英で四十点がとれなかったら、問答無用で打ち上げの参加資格は剥奪する」
「はぁぁ――っ!? なんなんだよそれ、鬼かよ! 先生マジで厳し過ぎるって!」
「そもそも学生の本分も満足に果たさず、有り余る体力で楽しい行事だけ全力で参加しようってのは虫のいい話だろ。お前ら、自分が留年スレスレの危うい位置にいることを忘れるなよ」

 というわけで。有り得ねぇとひたすらに嘆いている北野くんたちを放っておけず、俺はこっそり助け舟を出すことにした。今度は、学級委員としてではなく……みんなと、少しでも仲良くなりたい、そんな一心で。

「……んで、なんだよこのルーズリーフの山は」
「現代文、数学、英語。みんなの今回の追試の対象になっている科目ごとに、過去問の傾向から出そうな問題を徹底的に分析してヤマを張った、オリジナルの『虎の巻』を作ってみたんだ」
「トラノマキ……?」
「うーんと、平たく言えば手作りの予想問題集、みたいなものかな。みんな、日頃の補講ですら毎回のように爆睡してるって先生から聞いたからさ。範囲が広すぎて無理なら、要点を必要最低限に絞って何度も解くことを繰り返せば、似たような形式の問題が出たときにもきちんと解けると思うんだ。だからまずは今日のところは、冒頭の十ページまで」
「いや、待て待て待て、無理無理無理! これが『最低限』の量かよ? いったい全体、全部で何ページあるんだよ!」
「大丈夫、本番までの残り時間は少ないけど、一番効率よく点数が取れるように俺もみっちり手伝うからさ!」

 俺が「はい、これ初日の分。どうぞ!」と満面の笑みで特製のプリントを手渡すと、北野くんをはじめとする四人は一様にドリンクバーのメロンソーダや烏龍茶をずずず……と吸いながら、ものすごくげんなりとした、この世の終わりみたいな顔をしていた。
 今日は午後に職員会議があるとかで午前授業になり、学校の教室や図書館に残って自習することも出来ない。おまけに「腹が減っては戦はできぬ」とか何とかお腹を鳴らしながら、数分前に近くのファミレスへなだれ込んできたばかりだ。

「じゃあ、まずはこの英訳からいってみよう。『私は東京に住んでいます』を、過去形にしてみて」

 基礎中の基礎――中学校、いや、下手をすれば小学校の高学年レベルの簡単な英作文に、北野くんをはじめとする四人は一斉に真剣な顔で黙り込んでしまった。
 しばらくうーんと唸りながらこめかみを押さえはじめたかと思うと、西谷くんが「おっ、分かったわ!」とハッとひらめいた顔をして、ルーズリーフにさらさらと答えを書き殴る。

「出来た! 『I live in Edo.』 (私は江戸に住んでいます)」
「いや……あの、そうじゃなくて」
「えっ、過去すぎた?」
「過去すぎたっていうか、文法の話なんだけど」

 アカンかったか~、と明るく笑われて、俺はいよいよこれは笑えない事態だと深刻に悟った。先生が「留年スレスレだ」と騒いでいた理由がようやく分かった気がする。でも、正直ここまで基礎学力が危ういとは、まったく聞いていない。
 そもそもここで言う過去形というのは、と気を引き締めて解説を始めようとしたとき、ふと、すぐ隣からものすごい熱量の視線を感じた。見れば、北野くんがじとーっと恨めしそうな目を細め、俺の顔を凝視している。

「北野くん? ごめん、今の解説が早かった?」
「い、いや……田浦、教えんのうまいなと思って」
「本当に? 嬉しい。あんまり、人に教えたことってないんだけど」
「頭悪い俺が言うのもなんだけど。教える才能ある気がする」

 語りかけるように北野くんの傍に寄り添う。顔を持ち上げた瞬間――テーブルの向かい側から、南田くんたち三人が一様に「ぐっふふ」「あーあ」と意味深な笑い声を漏らした。

「おい、さっきの見た? 北野のジト目、マジで威嚇してるときの顔じゃん」
「ほんまそれ。なにあの無言の圧力。俺、うーちゃんの解説聞いたら殺されるん?」
「てか、俺もうなんか決定的なことに気付いちゃったかも」
「いや、だから『絶対そうだって』って、前から俺は言ってたじゃん」

 本人たちにしか分からない共通言語で勝手に盛り上がる三人を前に、俺はシャープペンを持ったまま「え、どういうこと……?」と、きょとんと首を傾げて北野くんに視線を送る。俺と目が合った北野くんはピクッと眉を跳ね上げ、腕を組んだまま、低い声で三人をじろりと威圧した。

「お前ら……。今、余計なこと口走ったらマジで許さねぇから。黙っとけよ」
「ひっ、脅しがエグい!」
「はいはい、分かりましたよーんだ」

 からかうような笑い声を背中で受けながら、北野くんはそっぽを向く。
 一人で黙々と問題に取り組みたいタイプなのだろうか。「どう?」「解けた?」と時折覗き込んで声をかけても「うるせぇ、今やってる」と素っ気ない態度でかわされてしまう。

 体育祭のあと、俺と北野くんはぎこちなかった時間について言及したり、はっきりと言葉で関係性を定義したわけでもなかった。それでも、少しずつ――俺たちは、以前の距離感どころか、前よりもずっと深く、確かな絆で結ばれつつあった。
 クラスの中でも、体育祭のあの活躍ぶりから、北野くんは周囲に担ぎ出されて「MVP」の称号をもらった。当の本人は「クラスTシャツのデザインも、あのカマキリ戦法も、全部こいつのアイディアだから」といつだって俺の方を指差して。
 そのおかげですっかり、俺に対するクラスメイトの視線も変わった。これまでの「真面目すぎてちょっと近寄りがたい学級委員長」から、「真面目だけど、なんだかんだ一緒にいて面白いやつ」へと、いつの間にか自然に打ち解け始めている。
その証拠に、こうして北野くんたちのグループに加わる機会も増えていた。

「てか、喉乾いた。田浦もなんか飲む?」
「あ、うん。じゃあウーロン茶がいい」
「了解。取ってくるから、座ってろ」

 席を立つ北野くんに、残された面々が「俺らは?」とすかさず茶化すと、北野くんは「自分で汲みに行け」とばっさり切り捨ててドリンクバーの方へと歩いて行った。
 その背中が遠ざかるのを見計らったように、向かいの席で頬杖をついていた東山くんが、ペンをくるりと回して俺のほうへ身を乗り出す。

「なぁ、うーちゃんに一個、真面目に聞きたいんだけどさ」
「うん? どうしたの、東山くん」
「うーちゃんってさ、北野と話すようになってから、なんか雰囲気柔らかくなったよな」
「えっ? それは、どういう……」
「よく笑うようになった。大爆笑ってわけじゃないけど、ふとした瞬間にふわっと表情が緩むっていうか」
「ふわっと……?」

 自分では全く身に覚えのない指摘に、俺は手に持っていた赤ペンをそっと止めた。
周りからそんな風に見られるほど、自分は笑っていたのだろうか。

「それって、いいことなのかな。前は無表情で怖いって思われてた?」
「怖いっていうか、近寄りがたかったな。正直、俺は最初の頃そう思ってて……ごめんな、クラスのグループも誘わないままにして」
「ううん、気にしないで。それは、振り返ってみると自覚ある、というか」
「でも今は違う。うーちゃんの話、普通に面白いし」
「あれはいつも事実を言っているだけなんだけど」
「それが面白いんだって」

 南田くんと西谷くんが「わかる」と口を揃えて笑う。からかわれているのに、不思議と嫌な感じがしなかった。なんというか、前よりも親しみを感じる。
 俺は少し気恥ずかしくなって、ルーズリーフの端を意味もなく折り曲げた。

「……北野くんが、最初に普通に話してくれたからかも」
「北野が?」
「うん。俺、教室で話しかけられても、すぐ会話を終わっちゃうことが多かったんだけど。北野くんは、俺がどんなに変なこと言っても、ちゃんと最後まで返してくれるから。それが、なんだか嬉しくて」

 言いながら、自分で少し驚いた。そんなふうに、北野くんとの時間を整理して口にしたのは初めてだった。
 東山くんは、いつものからかうような笑みを引っ込めて、ペンを止めた。ほんの少し間を置いてから、声のトーンを落とす。

「北野ってさ、最近ほんと変わったんだよな。教室にも来るし、遅刻もしないし。俺らからすると、結構びっくりでさ」
「そ、そうなの?」
「うん。その北野が変わったのって、うーちゃんのおかげだと思うんだけど」
「俺は何も。最初はプリントを届けに行っただけだし」
「それが大きいんだって。……だからさ、ちょっと聞きたいんだけど」

 東山くんは、ドリンクバーのほうに一度だけ視線を投げてから、俺を見た。

「北野が他の奴と仲良くしてたら、うーちゃんはどう思う?」
「他の人と?」
「そう。たとえば、俺らとか。クラスの誰かとか」

 どう、と言われても。
 ちゃんと答えなければと思って、俺はルーズリーフの端に視線を落とした。ここ数週間の教室の風景を、ひとつずつ引っ張り出してみる。指揮台の上で南田くんに軽口を叩く北野くん。昼休み、いつメンの輪の真ん中で笑っている北野くん。あの輪の外側から、俺はずっと、ただ見ていて。

「……本当は、ね」
「うん」
「俺、南田くんたち三人にも、ちょっとだけモヤモヤしてたんだ」
「え、俺らに?」
「あ、悪い意味じゃなくて! みんなが悪いわけじゃないんだ。ただ、北野くんと普通に笑い合えるのが、少し羨ましくて。……自分も、そこに入りたかったんだと思う」

 言い終えてから、自分が何を口走ったのかに気づいて、じわりと耳が熱くなった。
友達がいなかった人間の、あまりにも幼稚な本音だ。呆れられたかもしれない。
 けれど、三人は笑わなかった。南田くんが何か言いかけて、口を開く。

「うーちゃん、それってさ、北野のことが――」

 そこで東山くんが、思い切り南田くんの手をつねった。南田くんは「いてっ」とその先の言葉を飲み込み、三人は顔を見合わせて、なぜか揃って妙に優しい目で俺を見ている。

「じゃあ、質問変更。ぶっちゃけ北野のどこが好――」

 身を乗り出して訊いてくる南田くんを、西谷くんが横から小突く。

「お前、すぐ踏み込みすぎなんやって」
「えっ、でも、俺は聞きたい」
「やから、聞き方ってもんがあるやろ」

 二人のやり取りを、東山くんが「また始まった」という顔でペンを回している。

「……えっと、俺、変なこと言った?」
「いや。全然。むしろ、言ってくれてよかったわ」

 東山くんはそれだけ言うと、表情を緩めて、ルーズリーフを指先でとんと叩いた。

「入りたいなら、入ればいいじゃん。うーちゃんなら、俺らは歓迎するよ」
「あ、ありがとう……」

 なんだか、胸の奥がむず痒い。
ちら、とドリンクバーの方へ視線を送ると、そこには既に両手に飲み物を持ち終えた北野くんの姿があった。……と、他校の制服を着た女子三人組に何やら声を掛けられている。そのうちの一人の女子が、北野くんのシャツの袖を指先で掴んでいた。

「ねぇー、ここで何してるの。全然連絡くれないし、忙しいって嘘だったの?」
「忙しいのは本当だって。てか、もう終わりにしようってだいぶ前に送ったよね、俺」
「なんで? 瀧くん、『自分は本命とかたぶん作るの無理』って言ってたじゃん」

 やんわりと、でもどこか甘い話し方に、俺はその場に釘付けになった。
 あんなトーンで女の子と話している姿を見るのは、初対面以来だ。相手が女子だからというのは頭では分かっているけれど、自分の前で見せる姿とはまた違った雰囲気に気付いてしまった瞬間、もや……と重苦しい何かが胸の辺りに広がっていく。

(……あれ)

 さっきの「羨ましい」とは、何かが違う。
 輪に入れないのが寂しい、というのなら、この重さは説明がつかない。
 だって今、北野くんを囲んでいるのは、俺が入りたいと思っていた仲間たちではなく、知らない女子たちだ。それなのに、袖をつまんだ指先ばかりが目に焼きついて離れない。

(羨ましい、っていうより。……嫌、みたいな)

 もしこの気持ちが本当に友情なら、北野くんに大切な人ができたと聞いたとき、「よかったね」と言えるはずだ。祝福できるかどうか。それが、判別の基準になる。
 ――考えるまでもなかった。祝福なんて、少しもできない。
 ふと、北野くんが両手のグラスを持ったまま、観念したように小さく息を吐いた。

「……うん。前はそう言ってた。それは、本当にごめん。ただ自分の寂しさを埋めたくてそう言ってたけど、今思えばめちゃくちゃ失礼だったって思う」

 思いがけない言葉に、女の子たちがはっとしたように口をつぐむ。
 それまでの軽いノリを引きずっていた空気が、すっと真剣なものに静まっていくのが、少し離れた席にいる俺にもはっきりと分かった。

「なんなのそれ。ちょっと、ずるくない?」

 一番前に立っていた子が、悔しそうに唇をとがらせて呟いた。怒っているというより、拗ねているような、それでいて少しだけ泣きそうな声だった。
 北野くんは顔を上げて、困ったように、けれどどこか清々しく眉を下げて微笑む。

「自分のことをちゃんと大切にしてくれる人と、幸せになってほしいんだ。そう思わせてくれる、大事にしたい奴がいて」

 ――その瞬間。胸の奥で、何かが、ぱきりと音を立てた気がした。
 北野くんが、誰かを大切にしたいと思っている。
 それは、本来なら喜ぶべきことのはずだった。誠実になろうとしている。北野くん自身にとって、いちばん良い変化のはずなのに。
 体育祭で言ってくれた「かっこいいって思って欲しかった」という言葉は、見栄を張りたかっただけで、本心では俺じゃない、見せたい相手が別に居たってことなんだろうか。

(なんで、俺じゃないんだろう)

 浮かんだ言葉に、自分で驚いた。そんなこと言える資格は、どこにもないのに。
 さっきの「仲間に入りたい」も、ずっと感じていた胸のもやも、目で追ってしまう癖も、ぜんぶ、同じ場所から来ていたのだと、ようやく分かった。
 俺は、特別な友達として北野くんが欲しかったわけじゃない。
 北野くんの、ただ一人になりたかったんだ。

「その子とは、もう付き合ってるの?」
「ううん、違う。付き合うどころか……今の俺じゃ、到底相手にしてもらえない」
「……た、瀧くんらしくないじゃん。そんな弱気なところ、初めて見た」
「自分でも最低だし、情けないって思うけれどさ。でも、リホちゃんたちには、本当に申し訳ないって思ってる。それから、これまで一緒に過ごしてくれて、ありがとう」

 はっきりとそう言い切った北野くんの横顔は、俺がこれまで見てきたどの表情よりも、誠実に見えた。
 女の子たちは顔を見合わせて、しばらく言葉を失っている。やがて、一番前の子が負け惜しみに似た大きなため息をついてみせた。

「私も、瀧くんのこと、最初から本当に『好き』ってわけじゃなかったからさ、一方的に責められないや。でも、あんなに人に興味なさそうにすれてた瀧くんをここまで変えちゃうなんて、その子……ちょっと妬けちゃうな」

 気まずそうに、けれどどこか吹っ切れたように女の子たちが「じゃあ、元気でね」と軽く手を振って去っていく。北野くんはその背中が見えなくなるまで見送ってから、もう一度だけ小さく頭を下げた。
 テーブルの向かい側で、三人がこちらを見ている気配がする。けれど、顔を上げることができない。俺は両手でペンを握りしめたまま、動かなくなった指先を見つめ続けていた。

 ***

 あのあと、何事もなかったような顔で席に戻ってきた北野くんと、俺はどうしても目を合わせることができなかった。
 これ以上ここにいちゃいけない。そう思って、ひとりひとりに「ここを重点的に復習してね」と対策プリントを手渡し、分からないところがあればいつでも連絡してと早口で付け足すと、そそくさとファミレスを後にする。
 急に「もう帰る」と言い出した俺に、北野くんはグラスを持ったままぽかんと立ち尽くしていたけれど、俺はその横を視線を逸らしたまま、さっと通り抜けてしまった。

「それじゃあ、また学校で」

 最初は一歩一歩が鉛のように重かったのに、外に出たとたん、足取りはどんどん早くなっていく。まるで、何かから逃げるみたいに、その場からただ走り去りたかった。

『――大事にしたい奴がいて』

 頭の中で、さっきの北野くんの真剣な声が鳴り響く。
 あまりにもタイミングが残酷すぎた。自分のなかに芽生えた気持ちが恋愛感情なのだと気付いた直後に、まさかその当事者である北野くんに、ほかに「大事にしたい人」がいるなんて聞かされるだなんて。
 しかも、これまで気まぐれに遊んできたはずの女の子たちに真っ直ぐ頭を下げて、これまでの自分を恥じ、誠心誠意謝罪する。そんな風に人に本気になれるほど、北野くんはその子のことを心から大切に思っているのだ。

(他校の子。元彼女の誰か。……俺が該当する確率は、限りなくゼロだ)

 北野くんが選ぶのは、可愛くて明るい女の子。そう決めてかかっていたのは、他でもない俺自身だ。「大事にしたい奴」という言い方が一瞬だけ引っかかったのに、相手が誰かを考える前に、「俺ではない」という前提が先に立っている。
 そこまで考えて、足が一瞬だけ止まる。
 これまで、恋愛というものは「異性とするもの」だと、教科書的に理解していた。
 統計的にも、そちらが多数派だ。けれど、じゃあ今のこの感情をどう分類すればいいのかと問われたら、既存の項目のどれにも当てはまらない。性別という変数を取り除いても、答えは変わらなかった。
 北野くんがいい。北野くんじゃなきゃ、嫌だ。
 その単純な結論に辿り着いてしまったから、余計に苦しかった。
 顔も良くて、スタイルも良くて、いざという時は誰よりもかっこいい北野くんの隣に並ぶのにふさわしいのは、俺みたいな平凡で、卑屈で、臆病な人間なんかじゃない。ふわふわとどこもかしこも柔らかそうで、愛嬌があって、いつも周りを明るくするような、そんな可愛い女の子に決まっているんだから。

「っ、はぁっ……田浦!」

 不意に、背後から大きな声で名前を呼びかけられた。
 ぴた、と反射的に足が止まりそうになり、必死で「聞こえなかったふりをしよう」と頭を振る。こんな街中で「田浦」なんて苗字の人間がそうそういるわけがないと分かっているのに、「俺じゃない、人違いだ」と無理矢理言い聞かせようとする。
 けれど、振り返ることもせずに歩き続けようとする俺の背中に、彼はもう一度、逃げ場を塞ぐような強い声をぶつけてきた。

「田浦謠!」
「……っ」

 フルネームで呼ばれたことで完全に逃げ場を失い、どうしよう……と、俺はその場で小さく縮こまるように足を止めた。振り返るよりも早く、背後から急ぎ足の荒い足音が近づいてくる。次の瞬間、ガシッと乱暴に肩を掴まれ、そのまま強引に体を反転させられた。

「待てよ」

 のろのろと、重たい頭を持ち上げて顔を上げる。その先には、息を弾ませ、戸惑ったような、それ以上に半分怒ったような顔をした北野くんがいた。
 いつもなら少し離れた位置から見下ろすように話している彼が、今は俺の目線に合わせるように、少しだけ膝を折り曲げてのぞき込んでくる。こんなふうに、わざわざ名前を呼んで追いかけて来てくれたことが、嬉しいのに、どうしようもなく悲しかった。

「なぁ、なんで急に帰るなんて言うんだよ」

 いつものように笑って誤魔化したい。平気な顔をして、何事もなかったように振る舞いたいのに、今の俺の顔はちっとも言うことを聞いてくれない。喉の奥がずきんと痛むように締め付けられ、こらえきれなくなった感情が溢れ出して、俺の顔は涙と一緒にくしゃくしゃに歪んでしまった。

「え、ちょ、待って。なんで泣いて……」

 慌てて袖で拭っても、あとからあとから溢れてくる。止め方が分からない。
 本当なら「よかったね」と言うべき。それなのに、その「誰か」が自分じゃないと思っただけで、こんなふうになってしまうなんて。

「ごめん、キレてるわけじゃ」
「違うんだ。これは、その……」

 顔を上げると、いつも余裕のある目が、はっきりと揺れていた。唇が薄く開いて、何かを言いかけては、飲み込んでいる。こんな顔は、見たことがなかった。

(どうして、北野くんがそんな顔をするんだろう)

 考えようとしたのに、頭が回らない。理屈を組み立てることだけは得意なはずなのに、今は何ひとつ言葉にならなかった。

「田浦」
「…………」
「……なんか、言えよ」
「ごめん。今は、ちゃんと話せないから。……一人にして欲しいです」

 目の前の北野くんが揺れて、滲んで、ぼんやりとひとつの色になっていく。
 好きだと気づいた人の前で、俺は何も伝えられず、ただ泣くことしかできなかった。