ド真面目天然学級委員のうたくんは、クーデレ問題児のベタ惚れに気付かない

 北野くんとのわだかまりを解くことが出来ないまま、あっという間に体育祭当日がやってきた。空は雲ひとつない快晴で、朝の教室にはすでに浮き立った空気が満ちている。
クラスのみんなは、前日に届いたばかりの濃い紫のTシャツに袖を通し、「お洒落じゃん」「これ本当に俺らのクラスが作ったの?」と大興奮で自撮りを楽しんでいた。背中には、北野くんが描き直してくれたポップなうーちゃんと、『永遠の幼稚園児』の文字。着てみればみんな、まんざらでもない顔をしている。
 もちろん、その輪の真ん中には北野くんもいるわけなのだけれど……俺は、それをぽつんと教室の隅から見守っていた。

「あ、セットログの通知来たわ。北野も映れよ」
「はいはい。ポーズどうするん」

 一応、あの後も教室で顔を合わせれば「おはよう」とか「また明日」くらいの言葉を交わす場面はあった。それでも、出来るだけ話しかけられないように読書(のふり)をしたり、ふらっと教室を出て中庭でひとりお弁当を食べたり。同じ本の同じページを、昼休みの間ずっと開いていたこともある。
 俺がそんな調子だから、北野くんもどう話しかけたらいいのか困り果てているようで、ラインで『今日の昼休み、なんか用事あったん』とか『次の休み、この前みたいに遊ばね?』と聞いてくれることもあった。それに対して俺は、ひたすらにやんわりと距離を置いて、

『日直の仕事で、時間割変更の掲示を確認しに行ってただけ』
『その日は親と出かける予定があるから、難しいです』

 と、だらだらと長い言い訳を連ねた。既読がついてから返信が来るまでの数分間、返信が怖くて画面を伏せてしまう自分。いつの間に俺はこんなに弱虫になったんだろう。ちなみに、「親と出かける予定」は嘘ではないけれど、正確には来月の話だ。

 何度かタイミングを見計らうように話しかけてくれる気配はあったけれど、ちょうどそれに重なるようにお互いのどちらかが他の人に呼ばれたりして、叶うことはなかった。
 ……いや、正直に言えば、呼ばれたのをこれ幸いと、自分から離れてしまった事もある。
 それでも、筆箱のめじるしチャームだけは、どうしても外せないままだった。
 避けているのは俺のほうなのに、話しかけられずに済んでホッとする気持ちと、それを残念に思う気持ちが、毎回きっちり同時に湧いてくる。矛盾しているのに、その両方が消えないこと自体が、北野くんへの本心をこれ以上ないほど正直に教えてくれていた。

「うーちゃん、これ騎馬戦組のハチマキ。見えるところに巻いておいて」
「あ、ありがとう。南田くん」

 撮影会が終わったのか、南田くんは俺以外のチームメイトにも、ピンク色のハチマキを配り始めた。みんな近くの友達に「ちょっと結んで」と頼んでいるけれど、それを頼める相手もいない俺は、そっと教室を抜け出して、トイレの前にある手洗い場の鏡の前に立っ。おでこにハチマキを当て、後頭部でぐっと結ぶ……が、上手くいかない。

「あれ……滑る、どうしよう」

 細い髪のせいか、結び目がするりとほどけてしまう。もう一度、今度は少しキツめに結び目を作ろうと、両手を後頭部に回して力を込めた、その時だった。
 窓から鏡へと、真っ直ぐ差し込んでいた陽射しが遮られる。眩しさが消えて、手洗い場の白いタイルが急に翳る。
 驚いて振り返ると、逆光の中に背の高いシルエットが立っていた。輪郭だけが白く縁取られて、表情はよく見えない。光を透かした髪の先が、陽の色にちりちりと揺れている。まぶしさに目を細めているうちに、濃い紫色のTシャツと、その上でこちらを見下ろす切れ長の瞳だけが、ようやく像を結んだ。

「……貸せよ」
「北野くん」

 久しぶりに、まともに近い距離で聞く声だった。低い声が、耳のすぐ上から降ってくる。

「い、いいよ。自分でできるから」
「さっきから全然できてねぇじゃん」

 いつから見ていたの? と聞く前に、俺の手からピンク色の布がするりと抜き取られた。
 背後に回られて、鏡の中で北野くんと目が合う。いつものように顔を逸らされるかと思ったのに、今日は逸らされなかった。

「動くな。頭、ちょっと下げろ」
「は、はい」

 言われるままに俯くと、額に布が当たった。長い指が髪を傷めないように気を遣いながら、生え際を軽くなぞる。その度に、首筋の辺りがむずむずして、俺は必死に息を殺した。

「こうやって一回ねじっておくと、動いてもズレにくいから」
「す、すごい。裏ワザ?」
「そんな大したもんじゃない。大会の時、何回か結んだことがあるだけ」

 過去形の言葉に、胸がちくりと痛んだ。けれど北野くんは、それに触れられるのを拒むように、少しだけ手つきを早める。後頭部で結び目が締まる感触がした。

「……よし。今度は取れねぇだろ」
「ありがとう。すごい、ぴったりだ」

 鏡の中の自分は、ピンク色のハチマキをきりりと巻いて、いつもより頼もしく見えた。
お礼を言おうと顔を上げたところで、鏡越しに北野くんと視線が絡む。
 いつの間にか、手洗い場に二人きりだった。遠くから、開会式の準備を告げる放送と、生徒たちの賑やかな声が聞こえてくる。

「なぁ、田浦――」
「北野くん、あのね」

 ほぼ同時に声が重なって、お互いに黙り込む。
 喋っていいよ、と目でアイコンタクトを送り合って、また同時に口を開きかけて、また止まる。その気まずいループを繰り返したところで、ついに北野くんが「……いいよ、先言え」と息を吐いて促してくれた。俺はおでこに巻いたハチマキを片手で押さえながら、ぱっと顔を上げる。

「騎馬戦は、競技に出られない北野くんの分もやりきるつもりで頑張るから。だから、俺のこと見てて欲しい」

 今まで避け続けていたくせに、唐突な言葉。それは今の俺が絞り出せる、いちばん嘘のない本音だった。

「……おう。てか、本当に大丈夫なん? 他クラスの大将、全員運動部のガタイいい奴ばっかだぞ」
「うーん、それはもう、どうしようもないかなって。だから、筋力で勝負するのは最初から諦めてる。そのぶんみんなと練習もしてきたし、素早さで勝負するつもり」
「お前、ほんっとに負けず嫌いだよなぁ」
「だって、みんなの焼肉が掛ってるから。研究はたっぷりしてきたよ」

 こんな感じで、と両手を前に伸ばして、相手のハチマキを奪う姿を再現してみせる。

「まず開始直後の十秒は動かないで、相手の騎馬が前のめりになって重心が崩れるのを待つ。そこから、体を低くして相手の手が届く範囲の外側に回り込んで、自分のハチマキを守りながら、利き手で一気に取る。動画サイトの映像を見て分析したら、平均の交戦時間は四十秒くらいで、そのうち勝敗が決まるのは最初の二十秒以内が七割だったから、それまでに――」
「ぶっは」

 真剣に身振り手振りを交えていた俺の目の前で、北野くんがお腹を抱えて弾けたように吹き出した。さっきまでのぎこちない空気が、その笑い声で一気に吹き飛ぶ。

「動きが面白すぎ。ハチマキ奪う時のそのポーズ、完全にカマキリじゃん……っ」
「か、カマキリ? これは重心移動を考慮した最適な姿勢で……」
「だから、そういうとこだって。もう、マジでなんなんお前」
「お、俺的にはすごく研究したんだけど」
「あー、はいはい。分かった分かった」

 涙を拭う仕草までしてひとしきり笑った北野くんは、ふうと息を整えて、ちらりと俺の額のハチマキに視線を投げた。それから、ほんの少し声を落とす。

「じゃあ俺も本気で応援するから」

 言い終えた北野くんは、そのまま口を真一文字に結んで、しばらく黙り込んだ。
それでも視線は逸らさないまま、ずい、と目の前に小指を突き出してくる。

「お互い、優勝に向けて競技と応援で全力を尽くす。……約束な」

 その仕草は、小学生が絶対に破りたくない大切なことを誓い合う時と、まったく同じトーンだった。強引なのに、どこか祈るような顔をしていて、俺は圧されるように「うん」と頷き、そっと小指を絡める。自分の指よりほんのりと温かい、北野くんの指。ゆびきりげんまん、と小さく振られるたびに、あれほど頑なだった「北野くんから離れなきゃ」という気持ちが、解けていく。
 結局、避けていた理由は、何ひとつ言えていないのに。
 それでも、指先から伝わるこの温度だけは、離したくないと思ってしまった。

***

「さあ、続いてはわが校が誇る伝統競技、騎馬戦をはじめます。まずは一年生の一組から四組まで。選手のみんなさんは自陣で準備を始めてください」

 場内アナウンスが響くと同時に、グラウンド全体の空気がぐっと熱を帯びた。

「ルールは大将のハチマキを先に取ったクラスの勝ち。騎馬が崩れた場合は、取得が先だったかどうかで判定します」

 スピーカーからは、運動会の定番曲が流れ続けている。校庭をぐるりと囲むように張られた万国旗が、乾いた風にはためいて青空に色を散らしていた。校舎の壁面には、各クラスが制作した巨大な横断幕が垂れ下がり、応援席からはメガホンを打ち鳴らす音があちこちで鳴っている。

「うーちゃん、何してんだよ。早くしろって」
「えっ?」
「円陣組むから、こっち来いよ」

 自陣の隅でひとり、靴ひもの結び目を確かめていた俺は、騎馬戦のチームメイトたちに手招きされて、思わず「俺?」と自分の顔を指差した。みんなはきょとんとした顔をした後、「当然だろ」と笑うと、俺の肩を両側からがしっと組んで、右足を一歩前に踏み出す。

「あんだけ練習したし、絶対に勝てる。気合入れていくぞー」

 おーっ、と深く踏み込んで、みんなが大きな声を張り上げる。俺だけびっくりして遅れてしまい、か細い声をひとつ足した。すると、すぐ隣の南田くんが「おせぇよ、うーちゃん!」と笑って、ぽんぽんと背中を叩く。ふと顔を上げると、クラス席の最前列に、メガホンを持った北野くんの姿が見えた。

「お前ら、田浦に怪我させんなよ!」
「当たり前じゃん、担ぎ部隊の実力なめんなよ」

 軽口の応酬の合間に、ふと北野くんの視線がこちらへと向いた。距離にして、数メートル。目が合ったことだけは、沢山の人でざわめく校庭の中でも不思議とはっきり分かった。
 言葉は、何も交わさない。けれど、北野くんが小さく顎を引いて頷いたから、俺も同じように、ゆっくりと頷き返す。たったそれだけのやり取りで、負けたくない、頑張りたいという強い気持ちが、すっと一本の芯のように通った気がした。

「それでは、ただいまより騎馬戦の一回戦を開始します」

 アナウンスとともに、騎馬に組んだ俺たちは、ゆっくりとグラウンドの中央へ進み出た。
 土台になってくれているのは、南田くんを先頭に、東山くんと西谷くんが支える三人の担ぎ部隊。足元から伝わる三人の息は、驚くほどぴったりと揃っている。

「うわー、向こうの大将もめっちゃ気合入ってんなぁ」

 向かい合った一組の大将は、日焼けした肩幅の広い男子だった。額に黄色いハチマキ、こちらを見据える眼光は完全に獲物を狙う顔だ。……多分、余裕で倒せると思われている。
 パァン、と乾いた号砲が空に弾けた直後、雄叫びとともに予想通り一組の騎馬が猛然と突進してきた。相手の大将が、勢いよく腕を伸ばしてくる。指先がハチマキに触れそうになる、ぎりぎり手前。

「今! 右に回り込んで、低く!」
「おうっ!」

 南田くんたちが息を合わせて体をひねった。土台が沈み込み、俺の体が相手の腕の外側へ滑り出る。空振りした相手の騎馬が、勢い余ってわずかに前のめりになった。
 ここから利き手を伸ばせば、もう手が届く。俺は左手で自分のハチマキをしっかりと守りながら、右手を一気に前へと突き出した。

「うーちゃん、いけっ!」
「取れ、取れーっ!」

 クラスメイトたちの声が雪崩のように押し寄せる。その中に、ひときわ響く声が混じっているのが聞こえた。

「――田浦ぁ!」

 北野くんの声援と同時に、指先が相手のハチマキの端に届く。あと、数センチというところで、体の重心が前に傾いた。土台の三人が「うわっ」と叫んで踏ん張ってくれたけれど、間に合わない。
 青空がぐるりと反転して、万国旗が視界の端を流れると、強い衝撃が体に走った。

「うーちゃん、大丈夫か。おい、うーちゃんっ!」

 ゆさゆさと上体を揺すられて、俺ははっとして目を開けた。
 騎馬を組んでくれたチームメイトのみんなが、揃って心配そうにこちらを覗き込んでいる。けほっ、と咳き込みながら体を起こすと、右手には、いつの間に握っていたのか、相手チームのハチマキがしっかりと収まっていた。

「や、やった。落馬はしたけど、これって勝ちだよね――」
「ちょ、待って。うーちゃん、大人しくしてろ」
「えっ?」
「鼻血が出てる。誰か、ティッシュ持ってねぇ?」

 競技を盛り上げるBGMに負けないよう、みんなが口々に叫んで先生を呼ぶ。保健の先生が慌てて教員席から立ち上がるのをぼんやり見ていると、それより先に、身体をぐっと力強く支えられて、鼻の付け根を指で掴まれた。

「き、北野くん」
「喋るな。そのまま、下向いて。しばらく止まんないかもだけど、上は向くな。血はこのまま出しっぱなしにしていいから」

 ぽたり、と濃い紫のTシャツに赤い滴が落ちて、暗く滲んだ。それを見て、ようやく事態が呑み込めてきた。どうやら俺は、落ちた拍子に顔を強打したらしい。
 一時的に競技は中断されているけれど、掲示されたトーナメント表には、四組から決勝へと伸びる線が、すでに太いペンで描き足されていた。
 次の対戦までになんとかしなきゃ、と思うのに、身体を強く打ちつけたせいであちこちが痛い。地面に突いた手のひらは擦りむけて、じんじんと熱を持っていた。

(これくらい、我慢しないと。次の勝負で勝てば、優勝なんだし)

 ぐ、と痛みを堪えるように黄色いハチマキを握り込むと、北野くんが俺の名前を呼んだ。

「田浦、大丈夫じゃねぇだろ、怪我もしてるし。とりあえず、向こうで座るぞ」
「でも、次の勝負が」
「無理すんなって、歩けないなら俺が運ぶから。立てるか?」

 ためらいなく脇の下と膝の後ろに腕を回され、俺は北野くんに抱えられるようにして、競技エリアの脇へと運ばれた。途中、クラスのみんなが揃って心配そうな顔をしているのが視界に入った瞬間、引き絞られたように胸の奥が苦しくなる。

(――あ、やばい)

 こんなところで泣いたって、どうにもならないと分かっている。それでも、怪我の痛みよりも、みんなの……何より北野くんの顔が曇っていることが悲しくて、ぽろっと涙が零れてしまった。

「どこが一番痛い?」
「きっ、きたのくん……違う、そうじゃなくて」

 力なく首を振って、平気だと伝える。本当に、痛みのせいじゃないのだ。
 少々の無理をしてでも、頑張りたかった。みんなの輪に上手く入れない自分でも、ここで頑張ればもっと馴染めるかも、と思ったから。それに、一番に頑張っている姿を見てほしいと思う人は、他の誰でもない北野くんだったから。その北野くんに、こんな心配そうな、辛そうな顔をさせている。

(北野くんの分まで、頑張るって決めたのに……っ)

 頭の中でこんなにたくさん考えていても、想っていても、言葉にするのは難しくて。
俺は泣き顔を見られないように、手の甲で目元を覆った。

「俺、今すごくかっこわるいから。こっち、見ないでほしい」
「あー、もう……しょうがねぇな。ほら」

 ぽすん、と頭を引き寄せられた。エレベーターの時と同じように、でも今度はもっと近く。北野くんは自分の胸を貸して、周りの視線から俺の顔をすっぽりと隠してくれている。

「き、北野くん。こんなことしたら、またみんなに色々言われて――」
「言わせとけばいいじゃん。気にしすぎだって」

 北野くんの体育祭用のTシャツから、この前と同じ甘い香りがした。ぽろぽろと止まらない涙を拭ううちに、額に巻いていた自分のハチマキが、はらりと首元へ落ちる。
 先生が救急箱を手にやってくると、北野くんは俺をクラス席の最前列、さっきまで自分が座っていた椅子にそっと座らせた。保健の先生が手際よく鼻にティッシュを詰め、擦りむいた手のひらを消毒していく。「鼻血が止まるまでは、絶対に動かないこと」と釘を刺されて、俺は小さく頷くほかなかった。そのやり取りを黙って見届けていた北野くんが、首をごき、と鳴らして立ち上がる。

「田浦、ハチマキ貸して。お前のピンクの方」
「えっ? どうして」
「代わりに俺が大将やる。……いーっすよね、それでも」

 集まっていた先生たちに向けた言葉に、担任の先生が目を丸くしている。

「でも、北野。お前、足は大丈夫なのか」
「田浦がこんだけ頑張ってんのに、自分が逃げるのは違うかなって思うんで」
「……無理だけはするなよ」
「へいへい」

 そう言いながら、北野くんは俺の手からハチマキを受け取り、緩く首元に結んでみせた。

「え、マジで北野が大将やるのか?」
「でも、流石の北野でも勝てるかわかんねェよ。三組は吉川が大将だってよ」

 クラスメイトたちが一斉にざわめき立つ。目の前で行われている他クラスの対戦をちらりと眺めてから、北野くんはばさりと自分のジャージの上を脱いだ。そして、鼻にティッシュを詰め、絆創膏とガーゼを貼られた俺の膝に、ぼすんと被せる。

「ま、待って。北野くん、お願いがある」
「なに?」
「あ、あの……」

 胸元でジャージを抱きしめるようにして立ち上がろうとすると、北野くんは「まだ無理して動くな」と言いたげに、優しい力加減で俺の肩をぐっと押し戻した。そのまま自分の膝を折り、俺の目の高さに合わせてしゃがみ込んでくれる。

「鼻にティッシュはだいぶ面白い絵面だな」

 ――近い。ふいに間近に迫った整った顔立ちと、熱を帯びた真剣な瞳に気圧され、言いかけていた言葉が一瞬だけ喉の奥で詰まった。けれど、ここでまた臆病になって逃げ出したら、きっと後悔する。そう自分を奮い立たせるように小さく息を吸い込み、俺は震える手を伸ばして、その大きな手をそっと両手で包み込んだ。その色素の薄い瞳を見つめ返す。

「絶対に……勝ってほしい」
「んなこと、言われなくても分かってるよ。つーか、俺が負けるわけなくね?」
「でも、俺との対戦では毎回負け――」
「おい田浦。今、すげぇ格好つけたんだぞ。余計なこと言うな」
「ご、ごめん……」

 不意を突かれたように照れくさそうに眉を下げたあと、北野くんは何か大切な決心をしたように、ゆっくりと深く頷いた。
 乱暴に見えて、どこか名残を惜しむような手つきで、ぐしゃ、と雑に頭を撫でられる。そのあまりにも真っ直ぐな優しさに触れた瞬間、俺はもう、こぼれ落ちる涙を止めることができなかった。

 ***

 決勝戦の相手は、三組だった。その大将は、遠目からでもひと目でそれとわかる圧倒的な巨漢の男子だ。背丈は一八〇センチを優に超え、屈強な肩幅は北野くんの優に一・五倍はある。騎馬の土台もバスケ部とラグビー部の屈強な混成らしく、二組との一回戦でも、相手大将は誰ひとりとして触れさえ許さなかったという、今大会の優勝候補筆頭だった。

「うわ……マジか、本気のやつじゃん。やばくね?」
「あれはさすがに……北野でも厳しくねぇか? 負けるかもしんねぇぞ」

 周囲のクラスメイトたちがざわめき立ち、不安げに顔を見合わせる。
 そんな緊迫した空気の中、俺は膝の上のジャージを力いっぱい握りしめると、足元に置きっぱなしになっていた北野くんのメガホンを両手でしっかりと拾い上げた。

「き、北野くんっ……! カマキリ作戦、やってみてほしい!」

 大きな声で叫ぶと、自陣の騎馬の上から、北野くんがゆっくりとこちらを振り返った。
 一瞬、何を言われたのかと虚を突かれたようにきょとんとした後、ふ、と彼の整った唇の端が楽しげに持ち上がる。すると北野くんは、周囲の視線など気にする様子もなく、おどけるように両手を前に構えて――さっき俺が必死に教えた「カマキリの構え」を、大げさに真似してみせたのだ。その姿に気づいた会場の生徒たちの何人かが、思わず吹き出し、近くにいた南田くんも「ぶっ」と肩を激しく震わせて笑いをこらえている。緊迫していた場内のあちこちから、どっと大きな笑いと歓声が起こった。

「おーい北野、それガチでやるつもりかよ」
「馬鹿にすんなって。田浦が研究した戦法だぞ。試す価値しかないだろ」

 対戦相手からの野次に言い返した瞬間、パァン、と号砲が鳴った。
 巨漢の大将は、迷いなく真正面から突っ込んできた。ぶつかり合った騎馬がぐらりと揺れる。北野くんの騎馬は押されて、じりじりと後退し始めた。

(北野くん、頑張れ……!)

 祈るような気持ちで、膝の上のジャージを握りしめた、その時だった。南田くんたちが、息を合わせて右に滑り込む。相手の腕が空を切って、大きな体が前へ、前へとつんのめった。その隙を突くように、北野くんの左手が風を切って伸びる。相手が体勢を立て直すよりも速く、獲物を狙う動きで一直線だ。次の瞬間、指先が結び目に引っ掛かり、高々と掲げられたその手の中で、ハチマキが風になびいた。
 一瞬の静寂。それから、爆発するような歓声が校庭を揺らした。

「うおおおお! 勝ったあああ!」
「北野ー! 北野ー!」
「一年四組、優勝! 騎馬戦一年の部、優勝は四組です!」

 放送席の声もかき消されるくらいの、割れんばかりの声。クラスメイトが雪崩のように駆け出し、南田くんたちに飛びついていく。担ぎ部隊はもみくちゃにされながら、それでも笑っていた。いつもは綺麗にセットされている北野くんの髪が、汗で濡れて額に張りついている。息は荒くて、ハチマキを握った手が小さく震えていて。その顔は、俺が今まで見たどの瞬間よりも、眩しく笑っていた。

(北野くん、本当に嬉しそうだ……)

 何かが、ぱちんと弾けた。いつか、北野くんがまた熱くなれる瞬間に出会えたらいい。そう伝えた日のことを思い出す。そのひとつはきっと、今この時間なのかもしれない。
 北野くんは、周囲の歓声や冷やかしの輪をかき分けるようにして、小走りでこちらへ向かってきた。パイプ椅子の前でふと足を止め、まだ上がったままの荒い息を整えながら、上から俺を見下ろす。その誇らしげで熱を帯びた瞳に気圧されそうになりながらも、俺は立ち上がりたい衝動を必死で堪え、ジャージを抱きしめたまま、顔をくしゃくしゃにして気持ちを伝えた。

「北野くん……! すごく、すごく格好よかった!」
「っ……当然だろ。今頃気付いたのかよ」

 照れ隠しのように短く息を吐いて、北野くんは俺の隣の席にどっかりと腰を下ろす。
その直前、ほんの一瞬だけ痛みを堪えるように左膝に手をやり、ぐっと押さえる仕草をしたのを、俺の目は見逃さなかった。

「北野くん、足……痛むの?」
「あ? なんでもねぇよ」
「でも、いま明らかに膝を……」
「うるせぇな、気のせいだっての」

 ぶっきらぼうに言い切って、北野くんは首にかけていた汗だくのタオルを頭からばさりと被った。その横顔は、さっきグラウンドで見せた眩しい笑顔とは別人みたいに、強張ったように少しだけ歪んでいる。

「無理させてごめんなさ――」
「あー、久し振りに暴れて血が騒いだわ」

 遮る言葉に俺が申し訳なさそうに唇を引き結ぶと、北野くんは俺のジャージをぐっと掴んだ。そのまま、力任せに俺の体を自分のほうへと引き寄せる。

「き、北野くん?」
「……田浦に、かっこいいって思って欲しかったから、無理したんだよ。悪いかよ」

 耳元で呟かれたあまりに真っ直ぐな言葉に、弾かれたように顔を上げたけれど、北野くんはもう目を逸らそうとはしなかった。
額に光る汗の粒をそのままに、タオルを被っていた手で自分の頭をガシガシと掻きむしる。体温が伝わってきそうなほど近い距離に頭がくらくらして、その手が離れると、俺はゆっくりと正面へ向き直った。へなへなと溶けてしまいそうになる腰を、パイプ椅子に背中を預けることで必死に支える。
 そのあともずっと、顔を真っ赤にしたまま、残りの競技を見続ける羽目になったのだ。