「北野くんっ、おはよう。遅れてごめんなさい!」
待ち合わせ場所に辿り着くまでの間、新幹線乗り場の場所を見知らぬ外国人に英語で尋ねられて道案内をしたり、駅のホームで財布の中身を盛大にぶちまけてしまったおじさんの硬貨拾いを必死で手伝っていたら、約束の時間から五分少々遅刻してしまった。
息を切らして頭を下げたものの、待ち合わせの柱にもたれかかりながらポケットに手を突っ込んでいる北野くんは、最高に浮かない顔をしている。
やはり初めてのお出かけで遅刻というのは、印象が悪すぎた。
焦ってさらに深く頭を下げようとすると、北野くんはわなわなと肩を震わせて口元を引きつらせた。
「なんで休日なのに、今日もその現場メット被ってきてんだよ……」
「自転車を駐輪場に停めて、荷物カゴに置いてくるつもりだったのを忘れちゃって」
「田浦って、バ……じゃなくて、天然……?」
「少なくとも、養殖ではないことだけは確かだよ」
「そういう意味じゃねぇよ! なんだよ養殖って、お前はハマチか!」
「俺の生い立ちに何か不審な点でもあったのかと」
「お前がたまに起こすその会話のバグが一番不審だよ!」
俺がリュックにヘルメットをしまいながら不思議がった顔をすると、北野くんは「はいはい、もういいわ」と髪を鬱陶しげにかきあげ、映画館の建物に向かって歩き出した。
エスカレーターに乗る時だけ、北野くんがワンテンポ後から同じ段の後ろに乗り込んでくる。いつもは見上げている北野くんの顔をこうして見下ろすというのは、なんだかとても変な感じがした。
「ところで、北野くん。この前のラインで言っていた、入場者特典の『めじるしチャーム』って、一体何種類あるの?」
「全五種類。俺としては、どうしても『うーちゃん』のやつが欲しいんだよ。だからもし、田浦がうーちゃんを引いたら、俺の持ってるやつと無条件で交換して」
「分かった。俺、くじ運は絶望的にないからお力になれるか分からないけれど……ええっと、全五種類の中からふたりがそれぞれ一個ずつ引く場合、どちらもうーちゃんを引かない確率が五分の四の二乗で二十五分の十六。だから、少なくとも一人が引く確率は二十五分の九、約三十六パーセントだよ」
「あー、うん。なんか全然分かんねぇけど、とりあえず気合入れて引いて」
北野くんとのラインのやりとりは、ここ一週間ずっと続いていた。
向こうから先に「日曜のことだけど」と連絡が来て、要約すると、今やっているアニメ『うーちゃん』の劇場版アニメの入場者特典に、めじるしチャームなるものがランダムで配られるのだとか。
北野くんはそのお目当てのキャラクターがどうしても欲しいらしいのだけれど、大の男がひとりでアニメの映画館のチケットを買うのはいかんせんハードルが高すぎる。だから、付き添いの友人として一緒に観に行ってほしいというものだった。
(正直、一緒に行く相手は俺じゃなくてもいいんじゃないかと思うけど……)
南田くんたちに『お前ら、俺とうーちゃんの映画観にいかねぇ?』と誘うのは、もしかしたら北野くんのプライドが許さないのかもしれない。
ラインでどうして俺を誘ってくれたのかと尋ねても、北野くんはただ一文で、『クラスTシャツ作んの、助けてやったじゃん』と、貸しがあることを主張してくるばかりだった。
めじるしチャームに俺はなんの興味もないし、特にうーちゃんの映画が観たい訳でもないけれど、北野くんが「他の人には頼みにくいことを頼める相手」として俺を選んでくれたのは、純粋に嬉しい。
「ただいまより、六番シアターで上映の『うーちゃんの大冒険・ワクワクパラダイス』のご入場案内を開始いたします。お手元にチケットをご用意の上――」
北野くんと隣り合わせの座席を選び、券売機で発券を済ませる。ぞろぞろと続く家族連れの長い列の最後尾に並ぶと、係員のお兄さんが小さなカゴの中に山のように入った銀色の入場者特典の袋をひとつずつ取るよう促した。北野くんとちらりと目を合わせ、お互いに心の中で念を込めながら、カゴの中の銀色の袋に手を突っ込んで、これだと思った感触のものを探る。
「あれっ?」
「おい、田浦」
「ごめんね、なんか温かいなって思ったら。北野くんの指だった」
慌てて袋を取り直すと、北野くんはカゴの中からものすごい勢いで自分の分をひったくり、無言のままスタスタと歩いて行ってしまう。
「えっ、北野くん、ちょっと待って」
「いいから早く選べよ、予告も全部見たい派なんだよ俺は」
なんと傍若無人な言い草だろうか。係員のお兄さんも、スクリーンに向かって大股で歩く北野くんの後ろ姿にぽかんと口を開けている。
すみません、うちの子がお騒がせして……と保護者目線で心の中でぺこりと頭を下げ、俺は小走りで北野くんに追いつき、隣の席にちょこんと腰を下ろした。
北野くんはジュースとポップコーンの入ったバケットを脇に挟み、血相を変えてさっそく銀色の袋をビリビリと破り始めている。ぺり、とその横で俺もパッケージを開こうとすると、北野くんはまるで合格発表の通知を見るかのように緊張した面持ちでこちらを向いて手で制した。
「ちょい待ち。やっぱり『いっせーの』で開けようぜ」
「封入物はすでに決まっているから、時間の経過がランダム性を変えることは――」
「イベントとしてのロマンを理解しろ、ロマンを。ほら、いっせーの」
ころん、とお互いの手のひらのなかに転がり出たのは、白い小さなうさぎだった。
人差し指の腹でそっと正面をむかせると、そこには満面の笑みの紛うことなき「うーちゃん」が、ちょこんと座っている。
「うわ、よっしゃあ! てか、二人とも同じ奴じゃん」
北野くんは嬉しそうに目を見張り、普段の鋭い表情からは想像もつかないほど感激した顔を浮かべた。……えっ、可愛い。
いや、顔のつくりは間違いなく「男前」に分類されるのだけれど、目の前の嬉しそうな表情と雰囲気が、これまで見てきたどの瞬間よりも少年っぽく感じられてしまう。
北野くんの新しい一面を見つけられた喜びを噛みしめていると、ふいに、きゅっと胸が詰まるような不思議な息苦しさを覚えた。何だろう、体の内側がそわそわと落ちつかない。
「北野くん、もし欲しかったら俺のうーちゃんもあげようか」
「は? 要らね」
「どうして? これが欲しくて、わざわざ映画に……」
「なに、嫌なん? 俺とお揃いになるの」
「ううん、嫌ではないけど」
「じゃあ、持っとけよ」
ふてくされたように向けられた言葉に、俺は思わず瞬きをした。
「めじるしって言っても、そもそもどこに付けたらいいのか分からないし。目印が無くても、自分の持ち物はすべて正確に認識できてるよ?」
「別にみんながみんな、マジで目印として使ってる訳じゃねぇよ。キーホルダー感覚」
手のひらの中でコロンと転がる小さなうーちゃんに視線を落とす。はて、どこに付けるべきか、と真面目に悩んでいると、北野くんは気恥ずかしそうに肘掛に片肘をつき、チラリと横顔を一瞥しながらボソッと呟いた。
「……筆箱にでも、付けておけばいいだろ」
なんだかんだと言いつつも、俺が困っているとこうしてさりげなく助け舟を出してくれる。たまに飛び出す不器用な暴言の数々はさておき、こうして初めての「お揃い」の品を手にすると、なんだか身体を左右に揺らしたくなるくらい舞い上がってしまう。
「友達」――って、俺はもう勝手に心の中でそう呼んでいるけれど、北野くん的にはどう思っているんだろう。休日にこうして二人で遊びに来ていたら、もう立派な友達、ということにならないだろうか。……そんなことを考えていると、天井のスピーカーから上映開始を告げるアナウンスが流れ、館内の明るい照明がすっと落ちた。
映画が始まって暗くなった空間の中、巨大なスクリーンを見つめる北野くんの横顔を、俺はそっと盗み見る。
今日まであまり深く考えたことはなかったけれど、こうして近くで見ると、北野くんはすごく整った顔をしている。世間一般で言うところの「イケメン」ってやつなのだろう。
呑気な感心とともにまじまじと見つめていると、不意に北野くんがその視線に気付いて、スッとこちらを向いた。
「……ん? なに、どうした」
「は、いや、なんでもないれす」
暗闇の中、すぐ近くで覗き込まれるように目が合った瞬間、見事に盛大に噛んでしまい、北野くんに小さく笑みを向けられる。俺は慌てて前へと視線を戻し、ポケットの中で、うーちゃんのチャームを強く握りしめた。映画館が真っ暗になっていて、本当に良かった。
さっきからずっと、頬の辺りがほんのり熱くて。
自然と緩んでしまう口元を、北野くんに見られずに済んだから。
***
映画を観終えた俺たちは、劇場のビルに入っているファミレスへと移動し、ささっと昼食を済ませた。俺の食べっぷりが意外だったらしく、向かいの席に座る北野くんは「その見た目でどんだけ食うんだよ」と目を丸くしていたけれど、こっちだって十六歳の男子高校生だ。運動はやっていないし、筋肉量も人並み以下かもしれないけれど、育ち盛りで食べる量はそれなりにある。
俺が腕時計にチラリと視線を落とすと、北野くんが柔らかい笑みを浮かべた。
どこか行きたいところはないのか、と乗り込んだエレベーターのなかで瞳を見つめられる。あんなにラインでは「貸しがあるんだからな」と強気で押してきたくせに、今になって「今日は俺が付き合わせたし」なんて、ポロリと不器用な本音が零れる。その可愛い矛盾には、あえて突っ込まないでおくことにした。
「うーん、俺が行きたいのは……」
こういう時、一体どんな場所を提案したらいいんだろう。
普段、休日の街で友達と遊ぶことなんてほとんどなかったから、ぱっとすぐには思いつかない。俺の休みの過ごし方といえば、両親と買い物に行くか、静かな図書館で開館から昼過ぎまでひたすら本を読みまくるくらいだ。的外れな場所を提案したら、「うげっ」という顔をされてしまうかもしれない。スマホを取り出して、今すぐ「男友達 休日 遊ぶ場所」で検索をかけたいところだけれど、目の前に本人がいるのにそんなことをするのはいくらなんでも失礼すぎる。
どうしよう、とカチコチに固まって両手を握ったり開いたりしていると、不意にエレベーターが途中の階で停まり、たくさんの買い物袋を持った人たちが一斉になだれ込んできた。あっという間に狭い空間が押し合いへし合いになり、俺はできるだけ邪魔にならないよう、慌てて壁に背中をくっつけて息を詰める。
一階に着くまであと少しの辛抱だ、とじっと下を向いていると、突然背後から手が回って来て、耳を覆うようにして後頭部を引き寄せられた。
(え……?)
驚いてそちらを見るより先に、鼻先を掠めた微かな甘い香りで、それが北野くんだ分かった。混雑する乗客に押されそうになった俺を庇うように、北野くんは自分の身体のほうへと抱き寄せ、さらに腕を回して肩をガードしてくれている。そのまま手がするすると下へ降りていって、流れるような動作で左手を、軽く握りしめられた。
「救出。潰されそうになってたから」
「あ、ありがとう」
「……手汗やば。なんでそんな緊張してんの?」
「えっ、いや、その、これは……っ」
耳元で落とされた低めの声に、心臓が跳ね上がる。言い訳しようと声を裏返らせた俺に、北野くんはわざとらしく「やれやれ」といった顔をした。突然手を繋がれたことに動揺し、握り返していいものか分からず手がぶるぶると震えてしまう。
すると、北野くんは気まずそうにさっと目を泳がせ、耐えかねたように、ぱっと自分のほうから手を離してしまった。
(いや、繋ぎ返したらおかしいし。これで良かったんだよな……?)
ガコン、と重い音を立ててエレベーターの扉が開く。目の前に現れたのは、柱に貼られた大きな特設のポスターだった。そこには『期間限定・館内回遊型アクアリウムフェア』という華やかな文字と、青く光る水槽の写真が大きく印刷されている。
すぐ目の前のイベントゾーンには、天井から差し込む光の筋の下で、無数の熱帯魚たちがゆらゆらと泳いでいる青く薄暗い空間が広がっていた。
「き、北野くん。俺、ここに行きたい! ダメかな」
「……いいけど。へー、すげぇ。こんなのやってるの知らなかったわ」
その場を乗り切るための、ほぼ勢いみたいな誘いだった。それでも北野くんも興味深げに左右を見渡し、いくつもの水槽の間を通り抜けて行く。
足を踏み入れた途端、外の音がすっと遠のいた。低く流れる音楽と、水の循環するかすかな気配だけが青い空間を満たしている。壁一面の水槽では、クラゲが傘をゆっくり開いては閉じ、薄い光をまとって浮かんでいた。その横を、手のひらほどの小さな魚の群れがひとつの生き物みたいに向きを変え、一斉にきらりと銀色の腹を返す。
「すごいね……海の中にいるみたい」
「……だな。思ってたよりは、割といい雰囲気じゃん」
小声で言い合って、ふたり並んでゆっくりと歩く。ときどき肩が触れそうになるたびに、自分の歩幅を半歩だけ調整してしまうのが、自分でも不思議だった。
「あ、見て北野くん。ドクターフィッシュだって。一緒に手を入れてみようよ」
「なんだこれ、人食い魚?」
「そんな物騒じゃないよ。人間の古い角質を食べてくれるお魚さんなんだ」
面白がって水槽の縁に歩み寄り、北野くんを急かすように促す。恐る恐るといった様子で、北野くんが袖をまくり、浅い水槽にそっと片手を浸した。俺もそれに倣って、水面へと指先を滑り込ませる。水に入れた瞬間、無数の小さな魚たちが「待ってました」とばかりに群がり、指のまわりをツンツンと小突いてきた。
「っ、うわ、なんだこれ……! なんかめっちゃ吸われる、こそばゆっ……!」
「ふふ、本当だ、くすぐったいね」
角質をつままれる独特の刺激に思わず笑みをこぼすと、隣の北野くんは身をよじりながらも、楽しげに目を細めていた。いつも尖らせている気負った雰囲気がすっかり抜け落ちていて、その横顔は驚くほど穏やかで柔らかい。ふと目が合うと、北野くんは照れくさそうに片方の口角を上げ、同じように柔らかく笑い返してくれた。
(北野くんって、こういう顔で笑うこともあるのか……)
学校では決して見たことのない笑顔。それを知ってるのは自分だけなのかな、なんてちょっとした優越感に浸りたくなる。
水槽の縁から離れてさらに奥へ進むと、薄暗い通路の角を曲がった先で、ひときわ大きな水槽が目の前に現れた。赤や白、深い朱色の金魚たちが、まるで絹の衣を纏うようにゆらゆらと優雅に泳いでいる。下から当てられたブルーの光が水を通して揺らめき、ヒラヒラと動く美しい尾びれが、まるで薄いレースのような影を壁や天井に映し出していた。
ガラスの向こうで、色とりどりの光がゆっくりと滲んでは溶けていく。
「……わ、すっごい綺麗」
あまりの美しさに思わず声が漏れて、大水槽の前で足が止まる。
大きな尾を翻した一匹の赤い金魚が、目の前をゆっくりと横切っていった。その優美な姿を目で追っていると、ふと、隣から視線を感じる。気になってそちらを振り返ると、青い光に照らされた北野くんの顔は、水槽の金魚ではなく、まっすぐに俺を捉えていた。
「北野くん? どうしたの」
「あぁ、いや。なんでもない」
「ごめん、もしかしてこういうの、あんまり興味なかった?」
「いや、見惚れてただけ」
その声があまりにも自然なトーンで、ほんの一瞬、意味を取り損ねた。
……金魚のことだよね。きっと。
「ほんと? なら良かった。アートアクアリウムって、こんな感じなんだねぇ」
北野くんは前にも来たことある? と見上げると、すっと目を逸らされた。片手を首の後ろにあてたまま、行き場のなくなった視線を水槽の揺らめきへ泳がせている。やっぱり、唐突すぎたし、北野くんにとっては退屈だったろうか。
「あのさ……北野くん」
「うん?」
「ごめん、その……俺、こうやって友達と出かけること自体が滅多になくてさ。本当なら、北野くんも楽しめるような場所をスマートに提案できれば良かったんだけど……」
「そんなことない。俺的には、田浦って普段何が好きで、どういうところに行くのかなって、興味あるし知りたい」
「…………」
仕方なく俺に付き合ってくれているわけじゃないのかな、と胸の奥で小さく呟く。
北野くんは、そんな俺の不安を見透かすように、照れながら言葉をつけ足した。
「クラスTシャツのデザインを手伝ってやっただろ、って言ったけど、あれはぶっちゃけ口実だから」
唐突に打ち明けられ、俺は「え?」と驚いて思わず足を止めた。
一体、どういうことだろう。
「だから、その……俺が田浦と遊びに行く口実が欲しくて。ああいう回りくどい言い方しかできなかっただけ。本当は、お前のこともっと知りたくて誘った」
喉元まで出かかった「えっ」や「あの」を必死で飲み込む。北野くんがこんなに真っ直ぐ向き合ってくれているのが分かるから、ちゃんと考えて受け止めなきゃいけない。
(それって……)
北野くんが、俺に特別な興味を持ってくれていて、もっと仲良くなりたいと思ってくれているってことで合ってるんだろうか。喜びと驚きが混ざり合い、それから、ほんの少しの気恥ずかしさが広がる。うまい返事が見つからなくて俯いた俺を促すように、北野くんは再びゆっくりと歩き出した。その横並びのわずかな隙間を埋めるようにして、後をついていく。
「おっ、俺の生態に興味を持ってくれたのは嬉しいけどさ。物好きなんだね、北野くん」
「生態って。まぁ……最初とはだいぶ印象違うからさ、余計に気になるというか。なんというか、珍獣枠?」
「珍獣……」
「だって、『学校来いよ』なんてわざわざ言いに来る奴、お前くらいだよ。正直、今だから言うけど……なんか本気で心配されてる? って、変な感じでテンションあがったし」
どこか気恥ずかしそうに微笑みながら頬を掻く北野くんに、申し訳ない気持ちが膨らんでいく。ちゃんと謝るべきだ。本当は自分の真心なんかじゃなくて、先生に言われて行っただけなんだ、と。
俺は、そのまま先へ歩き出そうとする北野くんのTシャツの裾をそっと掴んだ。
すぅ、はぁ……と大きく息を吸い、ゆっくりと吐いてから、意を決して顔を上げる。
「ごめん、北野くん。俺、どうしても謝らなきゃいけないことがある」
「ん? なんだよ」
「……あのとき、学校に来てほしいって言った気持ち自体は嘘じゃないんだ。でも、最初から自発的に『プリントを届けよう』『学校に来てって言おう』って思ったわけじゃない。先生に『北野が学校に来られるようになったら、内申書にいい評価を書けるかもしれない』って言われて、それで……」
言い終えるより先に、喉の奥からあふれ出た罪悪感に耐えかねて、「ごめんなさい」と深く頭を下げた。太腿の上で両手をぴたりと揃えて、自分のスニーカーの先を見つめる。
怒られるだろうか。見損なった、と軽蔑されるかもしれない――そんな恐怖に怯えながら、北野くんの反応を窺っていると、ぽん、と心地よい温もりのある重みが頭の上に置かれた。
「分かってたっつーの」
「えっ?」
「最初に来たときから、どうせ担任の回し者だろうなって思ってた。今までまともに喋ったこともない奴がそんなに必死になるなら、裏でなんか条件でもつけられてるんだろうなってのは、だいたい予想ついてたし」
低く静かな声は、いつものぶっきらぼうな響きではなく、どこか穏やかで、すべてのトゲが削ぎ落とされたような優しさに満ちていた。
俺が唇を引き結んで恐る恐る顔を上げると、北野くんは照れくさそうに目を逸らし、うなじのあたりを掻いている。
「でもさ、『信じたい』って言ってくれただろ。その一言は、田浦自身の利益のためとかそんなんじゃないって、ちゃんと伝わってきたから」
「それって……」
「ゲーセンで南田たちに言い返してるの、聞こえてた。てか、最初からあそこに居た」
「さ、最初っから?」
「休日も放課後も、あそこのゲーセンの台を占領する勢いで、アホみたいに練習してたのも知ってる。必死にボタン叩きすぎて、自分の指を押さえて痛がってるのとかも、ずっと後ろで見てたし」
そこまで一気にまくし立ててから、北野くんははっとしたように気まずそうな顔をし、急に堰を切ったように早口になった。
「別にストーカーとかじゃなくて。たまたま通りかかっただけっつーか、そもそも暇だったし、断じてそういうんじゃねぇからな」
「う、うん……」
「まさかあんなに必死こいて特訓するとは思わねぇじゃん。なんか、こう……あまりにもバカ真面目だし、必死すぎてさ」
「すぎて、なに?」
「……ちょっと、可愛いなって思っただけ」
吐き捨てるようにそう言い切ると、北野くんは顔を真っ赤にしてスタスタと歩みを速めようとする。
その言葉と不器用な照れ隠しが、胸の奥でぽわんと温かい熱を宿した。
北野くんが最初から全部分かったうえで自分の不器用さを受け止めてくれていたこと。俺のことを知りたくて、こうして一緒に付き合ってくれていること。じわりと広がっていく気恥ずかしさと愛おしさに胸がいっぱいになり、堪えきれなくなった俺は、逃げ出そうとする北野くんの腕に思わずコアラのようにしがみついた。
「っな……!? おい、田浦っ、急になんだよ、離せって」
「離さない」
「どこ行くんだよ、人の腕にしがみつくな!」
「行こう、ゲームセンター。帰る前に、もう一回だけ俺と勝負しようよ」
「なんで急にそうなるんだよ! 台無しだろ、せっかく良いムードが……」
「ムードって?」
急な提案に目を白黒させ、切れ長の目をぱちくりと驚きに丸くしていた北野くんは、ごにょごにょと言い淀んでいる。
「……そんなに行きたい?」
「だって、俺と北野くんが一番お互いを分かり合えて、一番楽しめる場所って、やっぱりあそこだなって今ひらめいたから」
「はぁ。お前と居ると、マジで調子狂う」
そう呟きながらも、北野くんは拒むどころか、優しく俺の背中にそっと手を添えて「こっちだ」と誘導し、しっかりとその歩幅を合わせてくれた。
待ち合わせ場所に辿り着くまでの間、新幹線乗り場の場所を見知らぬ外国人に英語で尋ねられて道案内をしたり、駅のホームで財布の中身を盛大にぶちまけてしまったおじさんの硬貨拾いを必死で手伝っていたら、約束の時間から五分少々遅刻してしまった。
息を切らして頭を下げたものの、待ち合わせの柱にもたれかかりながらポケットに手を突っ込んでいる北野くんは、最高に浮かない顔をしている。
やはり初めてのお出かけで遅刻というのは、印象が悪すぎた。
焦ってさらに深く頭を下げようとすると、北野くんはわなわなと肩を震わせて口元を引きつらせた。
「なんで休日なのに、今日もその現場メット被ってきてんだよ……」
「自転車を駐輪場に停めて、荷物カゴに置いてくるつもりだったのを忘れちゃって」
「田浦って、バ……じゃなくて、天然……?」
「少なくとも、養殖ではないことだけは確かだよ」
「そういう意味じゃねぇよ! なんだよ養殖って、お前はハマチか!」
「俺の生い立ちに何か不審な点でもあったのかと」
「お前がたまに起こすその会話のバグが一番不審だよ!」
俺がリュックにヘルメットをしまいながら不思議がった顔をすると、北野くんは「はいはい、もういいわ」と髪を鬱陶しげにかきあげ、映画館の建物に向かって歩き出した。
エスカレーターに乗る時だけ、北野くんがワンテンポ後から同じ段の後ろに乗り込んでくる。いつもは見上げている北野くんの顔をこうして見下ろすというのは、なんだかとても変な感じがした。
「ところで、北野くん。この前のラインで言っていた、入場者特典の『めじるしチャーム』って、一体何種類あるの?」
「全五種類。俺としては、どうしても『うーちゃん』のやつが欲しいんだよ。だからもし、田浦がうーちゃんを引いたら、俺の持ってるやつと無条件で交換して」
「分かった。俺、くじ運は絶望的にないからお力になれるか分からないけれど……ええっと、全五種類の中からふたりがそれぞれ一個ずつ引く場合、どちらもうーちゃんを引かない確率が五分の四の二乗で二十五分の十六。だから、少なくとも一人が引く確率は二十五分の九、約三十六パーセントだよ」
「あー、うん。なんか全然分かんねぇけど、とりあえず気合入れて引いて」
北野くんとのラインのやりとりは、ここ一週間ずっと続いていた。
向こうから先に「日曜のことだけど」と連絡が来て、要約すると、今やっているアニメ『うーちゃん』の劇場版アニメの入場者特典に、めじるしチャームなるものがランダムで配られるのだとか。
北野くんはそのお目当てのキャラクターがどうしても欲しいらしいのだけれど、大の男がひとりでアニメの映画館のチケットを買うのはいかんせんハードルが高すぎる。だから、付き添いの友人として一緒に観に行ってほしいというものだった。
(正直、一緒に行く相手は俺じゃなくてもいいんじゃないかと思うけど……)
南田くんたちに『お前ら、俺とうーちゃんの映画観にいかねぇ?』と誘うのは、もしかしたら北野くんのプライドが許さないのかもしれない。
ラインでどうして俺を誘ってくれたのかと尋ねても、北野くんはただ一文で、『クラスTシャツ作んの、助けてやったじゃん』と、貸しがあることを主張してくるばかりだった。
めじるしチャームに俺はなんの興味もないし、特にうーちゃんの映画が観たい訳でもないけれど、北野くんが「他の人には頼みにくいことを頼める相手」として俺を選んでくれたのは、純粋に嬉しい。
「ただいまより、六番シアターで上映の『うーちゃんの大冒険・ワクワクパラダイス』のご入場案内を開始いたします。お手元にチケットをご用意の上――」
北野くんと隣り合わせの座席を選び、券売機で発券を済ませる。ぞろぞろと続く家族連れの長い列の最後尾に並ぶと、係員のお兄さんが小さなカゴの中に山のように入った銀色の入場者特典の袋をひとつずつ取るよう促した。北野くんとちらりと目を合わせ、お互いに心の中で念を込めながら、カゴの中の銀色の袋に手を突っ込んで、これだと思った感触のものを探る。
「あれっ?」
「おい、田浦」
「ごめんね、なんか温かいなって思ったら。北野くんの指だった」
慌てて袋を取り直すと、北野くんはカゴの中からものすごい勢いで自分の分をひったくり、無言のままスタスタと歩いて行ってしまう。
「えっ、北野くん、ちょっと待って」
「いいから早く選べよ、予告も全部見たい派なんだよ俺は」
なんと傍若無人な言い草だろうか。係員のお兄さんも、スクリーンに向かって大股で歩く北野くんの後ろ姿にぽかんと口を開けている。
すみません、うちの子がお騒がせして……と保護者目線で心の中でぺこりと頭を下げ、俺は小走りで北野くんに追いつき、隣の席にちょこんと腰を下ろした。
北野くんはジュースとポップコーンの入ったバケットを脇に挟み、血相を変えてさっそく銀色の袋をビリビリと破り始めている。ぺり、とその横で俺もパッケージを開こうとすると、北野くんはまるで合格発表の通知を見るかのように緊張した面持ちでこちらを向いて手で制した。
「ちょい待ち。やっぱり『いっせーの』で開けようぜ」
「封入物はすでに決まっているから、時間の経過がランダム性を変えることは――」
「イベントとしてのロマンを理解しろ、ロマンを。ほら、いっせーの」
ころん、とお互いの手のひらのなかに転がり出たのは、白い小さなうさぎだった。
人差し指の腹でそっと正面をむかせると、そこには満面の笑みの紛うことなき「うーちゃん」が、ちょこんと座っている。
「うわ、よっしゃあ! てか、二人とも同じ奴じゃん」
北野くんは嬉しそうに目を見張り、普段の鋭い表情からは想像もつかないほど感激した顔を浮かべた。……えっ、可愛い。
いや、顔のつくりは間違いなく「男前」に分類されるのだけれど、目の前の嬉しそうな表情と雰囲気が、これまで見てきたどの瞬間よりも少年っぽく感じられてしまう。
北野くんの新しい一面を見つけられた喜びを噛みしめていると、ふいに、きゅっと胸が詰まるような不思議な息苦しさを覚えた。何だろう、体の内側がそわそわと落ちつかない。
「北野くん、もし欲しかったら俺のうーちゃんもあげようか」
「は? 要らね」
「どうして? これが欲しくて、わざわざ映画に……」
「なに、嫌なん? 俺とお揃いになるの」
「ううん、嫌ではないけど」
「じゃあ、持っとけよ」
ふてくされたように向けられた言葉に、俺は思わず瞬きをした。
「めじるしって言っても、そもそもどこに付けたらいいのか分からないし。目印が無くても、自分の持ち物はすべて正確に認識できてるよ?」
「別にみんながみんな、マジで目印として使ってる訳じゃねぇよ。キーホルダー感覚」
手のひらの中でコロンと転がる小さなうーちゃんに視線を落とす。はて、どこに付けるべきか、と真面目に悩んでいると、北野くんは気恥ずかしそうに肘掛に片肘をつき、チラリと横顔を一瞥しながらボソッと呟いた。
「……筆箱にでも、付けておけばいいだろ」
なんだかんだと言いつつも、俺が困っているとこうしてさりげなく助け舟を出してくれる。たまに飛び出す不器用な暴言の数々はさておき、こうして初めての「お揃い」の品を手にすると、なんだか身体を左右に揺らしたくなるくらい舞い上がってしまう。
「友達」――って、俺はもう勝手に心の中でそう呼んでいるけれど、北野くん的にはどう思っているんだろう。休日にこうして二人で遊びに来ていたら、もう立派な友達、ということにならないだろうか。……そんなことを考えていると、天井のスピーカーから上映開始を告げるアナウンスが流れ、館内の明るい照明がすっと落ちた。
映画が始まって暗くなった空間の中、巨大なスクリーンを見つめる北野くんの横顔を、俺はそっと盗み見る。
今日まであまり深く考えたことはなかったけれど、こうして近くで見ると、北野くんはすごく整った顔をしている。世間一般で言うところの「イケメン」ってやつなのだろう。
呑気な感心とともにまじまじと見つめていると、不意に北野くんがその視線に気付いて、スッとこちらを向いた。
「……ん? なに、どうした」
「は、いや、なんでもないれす」
暗闇の中、すぐ近くで覗き込まれるように目が合った瞬間、見事に盛大に噛んでしまい、北野くんに小さく笑みを向けられる。俺は慌てて前へと視線を戻し、ポケットの中で、うーちゃんのチャームを強く握りしめた。映画館が真っ暗になっていて、本当に良かった。
さっきからずっと、頬の辺りがほんのり熱くて。
自然と緩んでしまう口元を、北野くんに見られずに済んだから。
***
映画を観終えた俺たちは、劇場のビルに入っているファミレスへと移動し、ささっと昼食を済ませた。俺の食べっぷりが意外だったらしく、向かいの席に座る北野くんは「その見た目でどんだけ食うんだよ」と目を丸くしていたけれど、こっちだって十六歳の男子高校生だ。運動はやっていないし、筋肉量も人並み以下かもしれないけれど、育ち盛りで食べる量はそれなりにある。
俺が腕時計にチラリと視線を落とすと、北野くんが柔らかい笑みを浮かべた。
どこか行きたいところはないのか、と乗り込んだエレベーターのなかで瞳を見つめられる。あんなにラインでは「貸しがあるんだからな」と強気で押してきたくせに、今になって「今日は俺が付き合わせたし」なんて、ポロリと不器用な本音が零れる。その可愛い矛盾には、あえて突っ込まないでおくことにした。
「うーん、俺が行きたいのは……」
こういう時、一体どんな場所を提案したらいいんだろう。
普段、休日の街で友達と遊ぶことなんてほとんどなかったから、ぱっとすぐには思いつかない。俺の休みの過ごし方といえば、両親と買い物に行くか、静かな図書館で開館から昼過ぎまでひたすら本を読みまくるくらいだ。的外れな場所を提案したら、「うげっ」という顔をされてしまうかもしれない。スマホを取り出して、今すぐ「男友達 休日 遊ぶ場所」で検索をかけたいところだけれど、目の前に本人がいるのにそんなことをするのはいくらなんでも失礼すぎる。
どうしよう、とカチコチに固まって両手を握ったり開いたりしていると、不意にエレベーターが途中の階で停まり、たくさんの買い物袋を持った人たちが一斉になだれ込んできた。あっという間に狭い空間が押し合いへし合いになり、俺はできるだけ邪魔にならないよう、慌てて壁に背中をくっつけて息を詰める。
一階に着くまであと少しの辛抱だ、とじっと下を向いていると、突然背後から手が回って来て、耳を覆うようにして後頭部を引き寄せられた。
(え……?)
驚いてそちらを見るより先に、鼻先を掠めた微かな甘い香りで、それが北野くんだ分かった。混雑する乗客に押されそうになった俺を庇うように、北野くんは自分の身体のほうへと抱き寄せ、さらに腕を回して肩をガードしてくれている。そのまま手がするすると下へ降りていって、流れるような動作で左手を、軽く握りしめられた。
「救出。潰されそうになってたから」
「あ、ありがとう」
「……手汗やば。なんでそんな緊張してんの?」
「えっ、いや、その、これは……っ」
耳元で落とされた低めの声に、心臓が跳ね上がる。言い訳しようと声を裏返らせた俺に、北野くんはわざとらしく「やれやれ」といった顔をした。突然手を繋がれたことに動揺し、握り返していいものか分からず手がぶるぶると震えてしまう。
すると、北野くんは気まずそうにさっと目を泳がせ、耐えかねたように、ぱっと自分のほうから手を離してしまった。
(いや、繋ぎ返したらおかしいし。これで良かったんだよな……?)
ガコン、と重い音を立ててエレベーターの扉が開く。目の前に現れたのは、柱に貼られた大きな特設のポスターだった。そこには『期間限定・館内回遊型アクアリウムフェア』という華やかな文字と、青く光る水槽の写真が大きく印刷されている。
すぐ目の前のイベントゾーンには、天井から差し込む光の筋の下で、無数の熱帯魚たちがゆらゆらと泳いでいる青く薄暗い空間が広がっていた。
「き、北野くん。俺、ここに行きたい! ダメかな」
「……いいけど。へー、すげぇ。こんなのやってるの知らなかったわ」
その場を乗り切るための、ほぼ勢いみたいな誘いだった。それでも北野くんも興味深げに左右を見渡し、いくつもの水槽の間を通り抜けて行く。
足を踏み入れた途端、外の音がすっと遠のいた。低く流れる音楽と、水の循環するかすかな気配だけが青い空間を満たしている。壁一面の水槽では、クラゲが傘をゆっくり開いては閉じ、薄い光をまとって浮かんでいた。その横を、手のひらほどの小さな魚の群れがひとつの生き物みたいに向きを変え、一斉にきらりと銀色の腹を返す。
「すごいね……海の中にいるみたい」
「……だな。思ってたよりは、割といい雰囲気じゃん」
小声で言い合って、ふたり並んでゆっくりと歩く。ときどき肩が触れそうになるたびに、自分の歩幅を半歩だけ調整してしまうのが、自分でも不思議だった。
「あ、見て北野くん。ドクターフィッシュだって。一緒に手を入れてみようよ」
「なんだこれ、人食い魚?」
「そんな物騒じゃないよ。人間の古い角質を食べてくれるお魚さんなんだ」
面白がって水槽の縁に歩み寄り、北野くんを急かすように促す。恐る恐るといった様子で、北野くんが袖をまくり、浅い水槽にそっと片手を浸した。俺もそれに倣って、水面へと指先を滑り込ませる。水に入れた瞬間、無数の小さな魚たちが「待ってました」とばかりに群がり、指のまわりをツンツンと小突いてきた。
「っ、うわ、なんだこれ……! なんかめっちゃ吸われる、こそばゆっ……!」
「ふふ、本当だ、くすぐったいね」
角質をつままれる独特の刺激に思わず笑みをこぼすと、隣の北野くんは身をよじりながらも、楽しげに目を細めていた。いつも尖らせている気負った雰囲気がすっかり抜け落ちていて、その横顔は驚くほど穏やかで柔らかい。ふと目が合うと、北野くんは照れくさそうに片方の口角を上げ、同じように柔らかく笑い返してくれた。
(北野くんって、こういう顔で笑うこともあるのか……)
学校では決して見たことのない笑顔。それを知ってるのは自分だけなのかな、なんてちょっとした優越感に浸りたくなる。
水槽の縁から離れてさらに奥へ進むと、薄暗い通路の角を曲がった先で、ひときわ大きな水槽が目の前に現れた。赤や白、深い朱色の金魚たちが、まるで絹の衣を纏うようにゆらゆらと優雅に泳いでいる。下から当てられたブルーの光が水を通して揺らめき、ヒラヒラと動く美しい尾びれが、まるで薄いレースのような影を壁や天井に映し出していた。
ガラスの向こうで、色とりどりの光がゆっくりと滲んでは溶けていく。
「……わ、すっごい綺麗」
あまりの美しさに思わず声が漏れて、大水槽の前で足が止まる。
大きな尾を翻した一匹の赤い金魚が、目の前をゆっくりと横切っていった。その優美な姿を目で追っていると、ふと、隣から視線を感じる。気になってそちらを振り返ると、青い光に照らされた北野くんの顔は、水槽の金魚ではなく、まっすぐに俺を捉えていた。
「北野くん? どうしたの」
「あぁ、いや。なんでもない」
「ごめん、もしかしてこういうの、あんまり興味なかった?」
「いや、見惚れてただけ」
その声があまりにも自然なトーンで、ほんの一瞬、意味を取り損ねた。
……金魚のことだよね。きっと。
「ほんと? なら良かった。アートアクアリウムって、こんな感じなんだねぇ」
北野くんは前にも来たことある? と見上げると、すっと目を逸らされた。片手を首の後ろにあてたまま、行き場のなくなった視線を水槽の揺らめきへ泳がせている。やっぱり、唐突すぎたし、北野くんにとっては退屈だったろうか。
「あのさ……北野くん」
「うん?」
「ごめん、その……俺、こうやって友達と出かけること自体が滅多になくてさ。本当なら、北野くんも楽しめるような場所をスマートに提案できれば良かったんだけど……」
「そんなことない。俺的には、田浦って普段何が好きで、どういうところに行くのかなって、興味あるし知りたい」
「…………」
仕方なく俺に付き合ってくれているわけじゃないのかな、と胸の奥で小さく呟く。
北野くんは、そんな俺の不安を見透かすように、照れながら言葉をつけ足した。
「クラスTシャツのデザインを手伝ってやっただろ、って言ったけど、あれはぶっちゃけ口実だから」
唐突に打ち明けられ、俺は「え?」と驚いて思わず足を止めた。
一体、どういうことだろう。
「だから、その……俺が田浦と遊びに行く口実が欲しくて。ああいう回りくどい言い方しかできなかっただけ。本当は、お前のこともっと知りたくて誘った」
喉元まで出かかった「えっ」や「あの」を必死で飲み込む。北野くんがこんなに真っ直ぐ向き合ってくれているのが分かるから、ちゃんと考えて受け止めなきゃいけない。
(それって……)
北野くんが、俺に特別な興味を持ってくれていて、もっと仲良くなりたいと思ってくれているってことで合ってるんだろうか。喜びと驚きが混ざり合い、それから、ほんの少しの気恥ずかしさが広がる。うまい返事が見つからなくて俯いた俺を促すように、北野くんは再びゆっくりと歩き出した。その横並びのわずかな隙間を埋めるようにして、後をついていく。
「おっ、俺の生態に興味を持ってくれたのは嬉しいけどさ。物好きなんだね、北野くん」
「生態って。まぁ……最初とはだいぶ印象違うからさ、余計に気になるというか。なんというか、珍獣枠?」
「珍獣……」
「だって、『学校来いよ』なんてわざわざ言いに来る奴、お前くらいだよ。正直、今だから言うけど……なんか本気で心配されてる? って、変な感じでテンションあがったし」
どこか気恥ずかしそうに微笑みながら頬を掻く北野くんに、申し訳ない気持ちが膨らんでいく。ちゃんと謝るべきだ。本当は自分の真心なんかじゃなくて、先生に言われて行っただけなんだ、と。
俺は、そのまま先へ歩き出そうとする北野くんのTシャツの裾をそっと掴んだ。
すぅ、はぁ……と大きく息を吸い、ゆっくりと吐いてから、意を決して顔を上げる。
「ごめん、北野くん。俺、どうしても謝らなきゃいけないことがある」
「ん? なんだよ」
「……あのとき、学校に来てほしいって言った気持ち自体は嘘じゃないんだ。でも、最初から自発的に『プリントを届けよう』『学校に来てって言おう』って思ったわけじゃない。先生に『北野が学校に来られるようになったら、内申書にいい評価を書けるかもしれない』って言われて、それで……」
言い終えるより先に、喉の奥からあふれ出た罪悪感に耐えかねて、「ごめんなさい」と深く頭を下げた。太腿の上で両手をぴたりと揃えて、自分のスニーカーの先を見つめる。
怒られるだろうか。見損なった、と軽蔑されるかもしれない――そんな恐怖に怯えながら、北野くんの反応を窺っていると、ぽん、と心地よい温もりのある重みが頭の上に置かれた。
「分かってたっつーの」
「えっ?」
「最初に来たときから、どうせ担任の回し者だろうなって思ってた。今までまともに喋ったこともない奴がそんなに必死になるなら、裏でなんか条件でもつけられてるんだろうなってのは、だいたい予想ついてたし」
低く静かな声は、いつものぶっきらぼうな響きではなく、どこか穏やかで、すべてのトゲが削ぎ落とされたような優しさに満ちていた。
俺が唇を引き結んで恐る恐る顔を上げると、北野くんは照れくさそうに目を逸らし、うなじのあたりを掻いている。
「でもさ、『信じたい』って言ってくれただろ。その一言は、田浦自身の利益のためとかそんなんじゃないって、ちゃんと伝わってきたから」
「それって……」
「ゲーセンで南田たちに言い返してるの、聞こえてた。てか、最初からあそこに居た」
「さ、最初っから?」
「休日も放課後も、あそこのゲーセンの台を占領する勢いで、アホみたいに練習してたのも知ってる。必死にボタン叩きすぎて、自分の指を押さえて痛がってるのとかも、ずっと後ろで見てたし」
そこまで一気にまくし立ててから、北野くんははっとしたように気まずそうな顔をし、急に堰を切ったように早口になった。
「別にストーカーとかじゃなくて。たまたま通りかかっただけっつーか、そもそも暇だったし、断じてそういうんじゃねぇからな」
「う、うん……」
「まさかあんなに必死こいて特訓するとは思わねぇじゃん。なんか、こう……あまりにもバカ真面目だし、必死すぎてさ」
「すぎて、なに?」
「……ちょっと、可愛いなって思っただけ」
吐き捨てるようにそう言い切ると、北野くんは顔を真っ赤にしてスタスタと歩みを速めようとする。
その言葉と不器用な照れ隠しが、胸の奥でぽわんと温かい熱を宿した。
北野くんが最初から全部分かったうえで自分の不器用さを受け止めてくれていたこと。俺のことを知りたくて、こうして一緒に付き合ってくれていること。じわりと広がっていく気恥ずかしさと愛おしさに胸がいっぱいになり、堪えきれなくなった俺は、逃げ出そうとする北野くんの腕に思わずコアラのようにしがみついた。
「っな……!? おい、田浦っ、急になんだよ、離せって」
「離さない」
「どこ行くんだよ、人の腕にしがみつくな!」
「行こう、ゲームセンター。帰る前に、もう一回だけ俺と勝負しようよ」
「なんで急にそうなるんだよ! 台無しだろ、せっかく良いムードが……」
「ムードって?」
急な提案に目を白黒させ、切れ長の目をぱちくりと驚きに丸くしていた北野くんは、ごにょごにょと言い淀んでいる。
「……そんなに行きたい?」
「だって、俺と北野くんが一番お互いを分かり合えて、一番楽しめる場所って、やっぱりあそこだなって今ひらめいたから」
「はぁ。お前と居ると、マジで調子狂う」
そう呟きながらも、北野くんは拒むどころか、優しく俺の背中にそっと手を添えて「こっちだ」と誘導し、しっかりとその歩幅を合わせてくれた。



