「加藤、川上、北野……は、今日も休みか」
翌日の金曜日、朝のホームルームで出欠をとる時間になっても、北野くんは学校に現れなかった。朝の予鈴が鳴るまでの間、「きっと来てくれる」と信じて、教室の前後の入り口をもう何度確認しただろう。
南田くんたちはガッカリするどころか、ぼそりと「やっぱりな」と呟いている。
その冷めた落胆を、俺はとても悔しい気持ちで聞いていた。まだ来ないって決まったわけじゃないよ、と言い返したい言葉を、ぐっと拳の中で握りつぶす。
「じゃあ、このまま一時間目のロングホームルームに移るぞ。議題は体育祭の走順と、騎馬戦の大将役決めだ。それから、クラスTシャツの注文……これだけ何も決まってないの、うちのクラスだけだぞ、お前らどうするつもりだ」
担任の先生は椅子の背もたれにギイ、と寄りかかりながら、出欠簿を片手に呆れかえっている。そもそも体育祭委員は誰だという話になると、全員が「俺じゃねーし」と自分の役割すら忘れ、面倒事を押し付け合い始めた。
「んじゃあ、こういう時の学級委員長だな。田浦、進行は頼んだぞ」
ちょいちょい、と手招きをされて、俺は渋々教壇に立つ。先生に言われた内容を黒板に書き、振り返ってみれば――予想通り、「どうでもいい」という空気が教室全体に漂っていた。
「ダルいから、あみだくじで良くね?」
「賛成。騎馬戦は軽い奴じゃないと担ぐの大変だし、適当に細い奴にしとこ」
考えなしの発言の数々で、教室は相変わらず好き放題に盛り上がっている。
本当にそんな適当なノリで大丈夫なのか……と呆れつつも視線を巡らせると、教卓の上に置かれたクラスTシャツのカタログを手に取る。そこに記された文字に、俺は思わず目を疑った。
「印刷所への注文期限は、今週金曜日の十八時まで……?」
「え、じゃあそれって今日じゃん。ヤバくね? ウケる」
俺の独り言を拾い上げたクラスメイトがぷはっ、と吹き出し、それに続いてみんなは「もうなんでもよくね」と野次を飛ばした。本音を言えば、確かにクラスTシャツなんて当日しか着ないわけだし、その後は三千円を払った高級なルームウェアになるだけだ。
「まず、体育祭のクラスTシャツについて意見を聞かせてください。デザインと文字は今ここで決めておかないと間に合わないので、何か希望があれば――」
「え、うーちゃんが適当にいい感じの絵とか描いてよ。いけるっしょ」
「余裕余裕。色とかもマジで何でもいいし、お前に任せた!」
もう何も考えたくないから俺に任せておこう、という魂胆が見え見えだ。
こっちは真面目に考えているのに、みんなは「イラストのセンスが絶望的にみんな無な人間」にそれを丸投げしていることに気付いていない。頼られているというより、都合よく使われているだけなのかな、と思うと、しゅんと気持ちが萎んだ。
ここは一つ、俺の前衛的な美術センスを発揮して、正気を疑うような奇怪なTシャツを発注してやろうか。全員がそれを着て体育祭を走り回るのは、なかなかの地獄絵図だ。
俺一人だけが色やらロゴやらのデザインに頭を悩ませ、周りはスマホやお菓子を取り出してゆるく時間をやり過ごしている。いくら俺が大きな声で「あの」「アイディアありませんか」と声を張っても無視され困り果てていると、教室のドアが、がらりと勢いよく開いた。
「はざーっす」
ワイシャツの上に、黒のジップパーカーを羽織り、スクールバッグを片手で担いだ姿。さらりと揺れる銀髪。ざわめく教室を他所に、一直線に一番後ろの席へ向かい、そこにどかりと腰を下ろしたのは――久しぶりに見る、制服姿の北野くんだった。
「え、北野がキタ」
「……おもんな。てか、いま何の時間?」
南田くんのあまりにも低レベルすぎるダジャレを一蹴し、スマホをいじりながら頬杖をつく北野くんは、ふとちらりと俺に視線を向けた。笑顔でもないし、怒っているようにも見えないけれど……どこか憮然としている。
(な、なんだろう。低血圧で朝はご機嫌が麗しくないタイプなのかな)
いったいどういう気持ちで俺に目線を送っているんだろうと不思議に思いつつ、挨拶のつもりで教壇の上からそっと片手を上げてみせると、思い切り「ふん」と顔を背けられた。
「あー、体育祭のいろいろメンドイこと決めてる。でも、Tシャツのデザインはうーちゃんが全部なんとかしてくれるから、まあ多分どうにかなるっしょ」
「……ふーん。でも、アイツの事だから、めちゃくちゃダサいの作ってきそうじゃね?」
とんでもなく失礼な言い草だな、と心の中でツッコミを入れつつも、俺は驚いていた。さっきまで「もう何でもいいや」と面倒くさそうにしていた面々が、北野くんの一言で顔を持ち上げたからだ。
「確かに、ダサいのはさすがに嫌だな」
「じゃあ俺らもちゃんと考えるか?」
あちこちで机が寄せられ、顔と顔が突き合わされていく。「どんなのがいい?」「これカッコよくね?」と、俺の手からカタログが奪い合われるまで、ものの一分もかからなかった。
「おい」
「な、なんでしょう」
「黒板にデザインのタイプと価格、あと入れられる文字数もまとめて書いといて」
「あっ……うん、了解です」
北野くんに言われた通り、みんなが比較しやすいようにTシャツの注文に必要な情報をスラスラと書き出していく。俺が少し真面目すぎる説明をすると、北野くんがそれを遮って「要するにこういうことだろ」と大きな声でクラス全員に向けて翻訳し、ズバズバとスピード感のあるテンポで話をまとめていく。
「グラウンドでも目立つように、デカくて派手なデザインにしようぜ。値段がそんな変わんねぇなら、速乾タイプのがいいと思うんだけど。値段計算して」
「えっと……速乾タイプは普通タイプより三百円高いけど、割引を全部使えば二百六十円引きだから、差額は実質四十円で済むよ」
チョークを持つ手を止めて、俺は北野くんの顔をつい見つめてしまった。ふと目が合うと、北野くんはわずかに視線を泳がせてから、「なに見てんだよ、書け」と黒板を顎で示す。
頼もしさと、助けてもらった嬉しさと、ほんの少しの気恥ずかしさが入り混じって、どこか浮き立つような熱が体の内側に灯っていた。
***
その日の放課後、すっかり日が暮れた教室の隅。俺は、ひとり残ってTシャツのデザイン画を下書きしていた。本来の下校時間はとっくに過ぎている。それを先生に頼み込んで、なんとか一時間だけ特別に残らせてもらっているような状況だ。
結局、イラストと注文手続の仕事とは俺に回ってきたわけだけれど――北野くんの謎のリーダーシップによって決まったクラスTシャツの色は濃紫、そしてスローガンは「永遠の幼稚園児」に決定した。提出した用紙を見た先生は、あまりのセンスに目元を覆って絶句していたけれど、俺としてはこの上ないくらいうちのクラスにぴったりな標語だと思う。
「……うーん、なんか物足りない?」
参考にしたイラストは、俺のあだ名の由来でもあるゆるキャラ、「うーちゃん」をオマージュしたものだ。本来は二頭身でつぶらな瞳が可愛いはずなのだが、なぜか描いているうちに足だけが異様に発達した、ちょっと直視したくない二足歩行の獣に仕上がってしまっている。集中して可愛い子ウサギを描いていたのに、どうしてこうなった……と首を傾げていると、ぬっと背後から肩のあたりに人の気配を感じたかと思えば、耳元に低い声が落ちてきた。
「うわー、なにこれ。悲しきクリーチャーじゃん」
「ひゃっ……、北野くん?」
「え、なにその声。お耳激弱界隈?」
「誰だって今のはビックリすると思うよ。というか、なんでまだ学校に」
まさかの人物の登場に、俺はぱちぱちと瞬きをしながら振り返る。
どうして北野くんは、いついかなる時も真正面から声を掛けられないんだろう。もしかして、正面から向き合うと変に照れくさいからという(少し遅めの)思春期特有の恥じらいが、抜けきらないままなんだろうか。
「速攻で帰ろうとしたら、担任に捕まって。そのまま学年主任のところに強制連行。そんで、職員室のど真ん中でネチネチと長い説教をフルコースで食らってきたんだよ」
「それは可哀想に」
「やめろ、憐れむな俺を。久しぶりに登校して一発目から説教とか、激萎え過ぎて辛い」
心底うんざりした顔を見て、俺はほんのすこしだけ口元を緩めた。それから、不機嫌そうにスマホの画面をスクロールしている北野くんに向かって、「あのさ」と話を切り出す。
「北野くん。約束を守ってくれて、ありがとう」
「は? なに、いきなり」
「ちゃんと、『次の日から登校する』って約束を果たしてくれたから。今まで来なかった理由は俺には分からないけれど、久しぶりの登校なんて、誰だって緊張するものだと思うからさ」
「別にぃー? 俺が来ないと田浦が寂しくて泣くかなと思って、仕方なく来てやっただけ」
すぐに軽口を叩いて茶化してみせるけれど、頬がほんのりと赤いのは隠しきれていない。俺がじっ、とその顔を見つめ返すと、北野くんは居心地悪そうに腕を組んで、ふんぞりかえってみせた。きちんと北野くんと顔を合わせて話すのはこれが三回目だけれど、いつもは雑に「お前」呼ばわりされていたところを、ここにきて急に苗字で呼ばれるとは思ってもみなかった。ちょっと、いや、かなり嬉しい。
(ついに、北野くんが俺の苗字を呼んでくれるようになった……!)
まるで「うちの子が初めて自分の名前を言えました!」とでも言うかのような感動と親心に似た感銘をひとりで噛み締めていると、北野くんは俺の手元を覗き込み、またしても顔をしかめた。
「……で、このままだとこのキモいイラストが俺らのクラスTシャツになるってこと?」
「キ、キモいは言いすぎじゃない? アートのつもりなんだけど」
「いや、三六〇度どこから見てもヤベェだろ。これは」
「自分でも、この線のタッチというか、全体的な仕上がりにはまだ納得いっていない部分はあるけど……。細部を描き込めば、きっとアヴァンギャルドな芸術として昇華されると思うんだ」
「クラスTシャツにアヴァンギャルド求めてねぇし。そもそもなんだよこれ、なんでこのサイケデリックな謎の生き物の頭上に『永遠の幼稚園児』って明朝体でデカデカと入ってんだよ。意味不明すぎるだろ、狂ってんのか!」
「言葉を返すようで悪いけれど、そもそもスローガンって、一致団結するために決めるものだよ。それを北野くんがふざけたからこうなったのであって……まあ確かに、うちのクラスの風紀の乱れや学級崩壊気味な雰囲気を言い得て妙ではあるけれど、本来なら無難な四字熟語の方が……」
「だーっ、うるせぇな、早口すぎんだよ! なんだその、句読点すら感じさせないキチキチした喋り方は。情報過多でなに言われてんのか分かりづれぇんだよ」
「北野くんが『句読点』とか、『情報過多』って単語を知っているのがすごく意外!」
「お前、俺のことなめてる? なめてなかったら逆になんなん?」
決してそのようなことは、と首を左右に振りながら手のひらを向けてみせると、北野くんは「腹立つわぁ」と顔を歪めながら、机の上にあった清書用のデザイン用紙をひらりと奪い、断りも無く俺のシャープペンシルを握りしめた。
「北野くん」
「なんだよ」
「ひょっとして、俺を手伝おうとしてくれてる?」
「は? 勘違いすんなって。こんな罰ゲームみたいなダサいクラスTシャツを着せられた挙句、全校生徒の前で晒し者にされるとか普通に無理だし。だいたい、高い金払った上に部屋着にもなんねぇゴミみたいな布とかマジでいらんから」
「でも、俺からしてみれば本当に助かるよ。ありがとう」
北野くん本人には毛頭そんなつもりはないらしいが、口では散々悪態をつきながらも、俺の『うーちゃんもどき』を爆速でポップでクールなアメリカンチックなキャラクターに生まれ変わらせている。
「北野くんにこんな絵心があったとは。正直、心が震えてるよ」
「俺はお前の絵心に震えてる」
「デザインの才能があると思うよ、すごく上手に描けてるし」
「バーカ。ちょっとした落書きだろ、こんなん」
気まずそうに鼻を掻きながら、シャープペンシルを器用にくるくると回している。
消しゴムのカスをぴっ、と指先で乱暴に払うと、北野くんはぺらりと紙の向きを変えて完成したデザイン画を見せてくれた。すごい。まるでプロのイラストレーターが描いたみたいな仕上がりだ。
「北野くん、ありがとう。印刷所に画像を送信すれば、納期も十分に間に合うよ」
「じゃあ、とりあえずクラスのグループラインに『デザインはこんな感じで決まり』って流しておくか」
「グループラインって、なんのこと?」
「……田浦、お前、もしかして招待されてねぇの?」
「そもそもそんなコミュニティが出来てたのも知らなかった、というか……」
誰からも俺は招待状を貰っていない。声を掛けてもらった記憶もないのに、一体いつの間に? と首を傾げる俺に、北野くんはスマホの画面に一度だけ視線を落とすと、「あー……」と盛大に天を仰いで、自分の髪をがしがしと荒々しく掻きむしった。なんだろう、なにかものすごく不都合な真実を知ってしまったような顔をしている。
「……まずは、俺が田浦を個人で友だち追加するところから始めるしかないな」
「北野くんの『友達リスト』に、俺も入って良いの? 地味に嬉しい」
「『地味に』が余計過ぎる。もっと喜べよな」
文句を言いながらも、北野くんは渋々といった様子で二台のスマホを机の上に並べた。ものすごい速さで俺の設定をいじくり回し、『招待』のボタンを躊躇なく押す。瞬く間に俺は、クラスのグループチャットの一員になった。
「ありがとう、北野くん。見かけによらず、根っからのいい人だね」
「そうだよ、今さら気付いたのかよ。つーか俺は元から普通にいい奴だし、面倒見もいいし、割と義理堅いタイプだし、だいたい誰にでも優しいっていうか、いやそういうことじゃなくて……あー、もう、うるせぇ、今の忘れろ!」
「俺はなにも、うるさくしてないよ」
なにをそんなに慌てる必要があるのかと思うほど、北野くんは突然の早口で言い訳を並べ立てて、最後には片手で顔を覆ってしまった。
忙しい人だなあと感心しつつ、顔を伏せたままの北野くんが自力で浮上してくるのを穏やかに待っていると、完全下校を知らせるチャイムの音が鳴り響く。
「俺、先生にもこの用紙を見せて報告してくる。また来週、学校でね。北野くん」
「なにそれ。お前、このまま帰る気?」
「えっ……だって下校時刻だし、職員室に寄ったらもう用事もないし」
「あっさりし過ぎだろ! 俺ら二人しか居ないんだから、途中まで一緒に帰ろうぜとか、そういう青春っぽい発想はねぇのかよ!」
それって、北野くんは(言い方は別として)俺と一緒に帰りたいって申し出てくれているってことなんだろうか。高校に入って、クラスメイトにそんな風に言ってもらえたのは初めてだ。自然と笑みがこぼれて、俺はスクールバッグの肩紐を握りしめる。
「いいの?」
「……なんだよその顔」
「まさか、北野くんと一緒に帰れるなんて思ってなかったから……嬉しくて」
「あっそ」と言いながら背を向けて早足で歩き出した北野くんの背中に向かって、ぽつりと本音を零した瞬間、前を歩いていた北野くんの足が盛大にもつれ、教室の角に置いてあったプラスチック製の大きなゴミ箱へとダイレクトに激突した。心配になって駆け寄ろうとすると、北野くんはものすごい勢いで「来るな!」と制止の片手を突き出し、ほうほうの体で立ち上がるのだった。
***
なんだかんだと(大型犬みたいに)文句を吠えながらも、北野くんは俺が職員室で先生にデザインを報告する間も廊下で待ってくれていたし、駐輪場へ自転車を取りに行く間もついて来てくれた。聞いたところによると、北野くんはバス通学らしい。
わざわざ一緒に正門まで歩くと言い張るなんて、案外寂しがり屋なんだろうかと思ったものの、これ以上からかってまた憤慨されても困るので黙っておくことにした。
「いや……田浦、お前さぁ」
「えっと……どうかした?」
「そのヘルメット、どっからどう見ても完全に工事現場のやつじゃん。どういうこと?」
「あぁ、これ。中学生の時、建設作業員として働いていたじいちゃんが定年退職することになったとき、お下がりで貰ったんだ。機能性は抜群でね、顎紐のジャストフィット感といい、厚手のクッション性といい……」
後ろには「田浦」とデカデカと印字されているし、両サイドには「安全第一」の緑十字マークつき。安全性を追求し尽くした、立派すぎる自慢のヘルメットだ。
「もっとこう……今時のロードバイク用のシュッとしたやつとか、いくらでもマシなのあるだろうがよ」
「命を乗せて走る自転車に、ファッション性は必要ないかなって。このヘルメットこそ、耐衝撃性と抜群の視認性が――」
手を広げて熱弁していると、二人乗りで駐輪場を走り抜けていく先輩たちに『あいつヤバくね』とゲラゲラ笑いながら指を差された。ぽかん、と棒立ちのまま、今の「あいつ」っていうのは俺のことを言ってたのかな……と瞬きする。
「俺の半径三メートル以内に近づいて歩かないでくれ、頼む」
「どうして?」
「あまりにも目立ちすぎるから」
「一緒に帰りたいって先に言い出したのは、北野くんのほうだよ?」
ぐぬぬ、と悔しそうに拳を握り締める北野くんをよそに、俺はじいちゃんの『安全第一』ヘルメットの顎紐をカチリと小気味よく締め直した。
「…………」
「…………」
歩き出したはいいものの、ぎこちない沈黙が流れる。こういう静けさは正直、どうにも居心地が悪くて苦手だ。何か話をしなければ……と焦れば焦るほど、頭に浮かぶ共通の話題が思いつかない。悩みに悩んで、俺は無難すぎる質問を投げかけることにした。
「北野くん。今日は久しぶりに学校へ来てみて、どうだった?」
「……別に、どうもしねぇよ。ただ適当に授業受けて、面倒くさい説教食らって帰ってきただけだし」
「そっか。ならよかった」
「なんでだよ。どう考えたって良くはないだろ」
「本当はね、北野くんが何か辛い理由があって学校を休んでいたのだとしたら、俺が無理を言って登校させてしまったんじゃないかって、少し心配だったから」
「ふーん……」
まさか一週間で本当に北野くんを連れてくるとは思っていなかったらしく、職員室で先生は「さすが田浦だ」と大喜びしていたのだけれど、俺の心の中には、どこか複雑な気持ちがくすぶっていた。
初めは、自分の内申書をよくするために北野くんへ声を掛けた。だけど今は、そんな打算はとっくに消え失せて、純粋に「学校にいてくれて嬉しい」と思っている。
(本当は、最初は内申書目当てだったって、正直に打ち明けるべきなんだろうけど……)
どうして一か月以上も登校してこなかったのか、その肝心な理由はまだ分からないままだ。もしここで「実は最初はね」なんて切り出して、ようやく心を開きかけている北野くんを傷つけて、また不登校にさせてしまうのは、どうしても避けたかった。
「……その、もし嫌じゃなければ。どうして休みがちになったのか、理由を聞いてもいい?」
肩から下げたスクールバッグを自転車のカゴに入れ、ハンドルを押し進めながら並んで歩く。北野くんは俺のことを斜め上からちらりと見下ろしながら、少しだけ間をおいて言った。
「別に、そんな大した理由じゃねぇけど。簡単に言うと……怪我だな」
「怪我?」
「ゴールデンウィークの遠征試合で派手に負傷した。そのあと医者から『もう前みたいにハンドボールを続けるのは無理だ』ってハッキリ言われてよ」
「…………」
「俺、見た目はこんなんだけど一応スポーツ特待生として入ったわけ。でも、それも当然取り消しになって。簡単に言えば、もう全部どうでもよくなって、グレたって感じ」
けろ、とわざと明るい調子で言われて、俺が「それは……」と言いかけると、北野くんはまっぴらごめんだと言うように、ひらひらと手を振ってみせた。
「あっ、同情とか慰めとかマジでいらないから。メンタルだけは鋼だし、もうそんなこと気にしてねぇし」
目を合わせないように早口でまくし立てるその言葉は、どう聞いたって信ぴょう性に欠ける。けれど、そこには北野くんなりのプライドがあるのだろう。俺は深く詮索せず、「そっか」と静かに頷くにとどめておいた。
そうやって強がりながらも、きっと心の中では誰にも言えない葛藤や絶望を抱えていたはずだ。けれど、スポーツにそこまで熱中した経験のない俺が、中途半端な言葉で部活のことを語るのは憚られる。
きゅっと唇に力をこめると、俺はかつて自分が抱いていた理不尽な過去の痛みを思い出しながら、隣を歩く北野くんの横顔を見つめた。
「まったく同じ経験だとは言えないけれど、俺も自分が……どうしてこんな目に、と思うような出来事に遭遇したことがある。だから、この高校に入った時は、正直すごくやさぐれてたんだ」
「は? 田浦が?」
「うん。中学の時に、交通事故に遭って。体調が整わないまま受験して、志望校にも落ちて。自分でも『なんでこんな高校に』って思いながら、毎日教室に来てたというか」
「……怪我とか、そういうのは大丈夫なん」
「あ、うん。それはもう平気なんだけど。少しずつ、気持ちも前を向かなきゃって今は思っている所で……どんな不本意な状況におかれても、その場でできる全力を尽くすことに、きっと意味があるって考えるようになったというか」
「……おい。俺、さっき慰めんなって言ったよな」
「違う、慰めたいわけじゃないよ。ただ、北野くんが登校してくれるなら、クラスメイトとして純粋に嬉しい。それに、いつかその学校生活の中で、北野くんがまた熱くなれる瞬間に出会えたらいいなって、心から思ってる」
校門の手前まで来ると、お互いに自然と足が止まった。
向こうの道路からは、夕暮れの光の中をヘッドライトをつけてゆっくりとこちらへ向かってくるバスが見える。じゃあここで、と話を切り上げようとして自転車のサドルにまたがると、北野くんは慌てたように俺のハンドルを握る手首をグッと掴んだ。
「なぁ、田浦」
「はい」
「来週の日曜って暇?」
「どうしたの、急に」
「いや、その……出掛けねぇ? どっか、ふたりで」
「な、なんで……?」
今の話の流れからどうしてそうなるんだと内心戸惑いつつも、北野くんは俺の手首を掴んだまま離してくれない。休日になぜ出かけるのか、どこに行くのか、どうして二人なのかと聞きたいことは山ほどあったけれど、北野くんは気恥ずかしさを隠すように、最後はぽん、と俺の『安全第一』ヘルメットに軽く手を置いた。それから、急に耳元へと顔を寄せ、低い声で「あとは、ラインで」とだけ呟く。
「き、北野くんっ!」
照れくささを誤魔化すように振り返りもせず、北野くんは足早にバスに乗り込んでいった。ぶぅん、と重く低いアイドリングの音を立てるバスの車内。窓際の席に座り、頬杖をついている北野くんの姿を見つけて、俺は思わず大きく両手を振って声を張り上げる。
「連絡待ってるね! でも、九時過ぎにはお風呂に入るから、返事が遅れるかも!」
同じように窓際に座る乗客たちが、クスクスと笑いながら俺が手を振るのを見ている。
それを窓越しに聞いた北野くんは「げっ」という顔をして、慌てて窓とは反対の通路側へとプイッと顔を背けてしまった。そのまま、バスは白い排気ガスを揺らしながら走り去っていく。
(誘ってもらえたのは嬉しいけど、どうして急に……?)
北野くんからの連絡が来るのを大前提で返しちゃったけれど、本当は俺から送るべきなんだろうか。最後に手を振り返してくれなかったのは、ちょっとだけ寂しいな。
そんなふうに、次々と湧き上がってくるそわそわとした落ち着かない期待で、頭の中がずっと忙しい。
こんなにも自分のペースをぐちゃぐちゃに乱されたのは、北野くんが初めてだった。
翌日の金曜日、朝のホームルームで出欠をとる時間になっても、北野くんは学校に現れなかった。朝の予鈴が鳴るまでの間、「きっと来てくれる」と信じて、教室の前後の入り口をもう何度確認しただろう。
南田くんたちはガッカリするどころか、ぼそりと「やっぱりな」と呟いている。
その冷めた落胆を、俺はとても悔しい気持ちで聞いていた。まだ来ないって決まったわけじゃないよ、と言い返したい言葉を、ぐっと拳の中で握りつぶす。
「じゃあ、このまま一時間目のロングホームルームに移るぞ。議題は体育祭の走順と、騎馬戦の大将役決めだ。それから、クラスTシャツの注文……これだけ何も決まってないの、うちのクラスだけだぞ、お前らどうするつもりだ」
担任の先生は椅子の背もたれにギイ、と寄りかかりながら、出欠簿を片手に呆れかえっている。そもそも体育祭委員は誰だという話になると、全員が「俺じゃねーし」と自分の役割すら忘れ、面倒事を押し付け合い始めた。
「んじゃあ、こういう時の学級委員長だな。田浦、進行は頼んだぞ」
ちょいちょい、と手招きをされて、俺は渋々教壇に立つ。先生に言われた内容を黒板に書き、振り返ってみれば――予想通り、「どうでもいい」という空気が教室全体に漂っていた。
「ダルいから、あみだくじで良くね?」
「賛成。騎馬戦は軽い奴じゃないと担ぐの大変だし、適当に細い奴にしとこ」
考えなしの発言の数々で、教室は相変わらず好き放題に盛り上がっている。
本当にそんな適当なノリで大丈夫なのか……と呆れつつも視線を巡らせると、教卓の上に置かれたクラスTシャツのカタログを手に取る。そこに記された文字に、俺は思わず目を疑った。
「印刷所への注文期限は、今週金曜日の十八時まで……?」
「え、じゃあそれって今日じゃん。ヤバくね? ウケる」
俺の独り言を拾い上げたクラスメイトがぷはっ、と吹き出し、それに続いてみんなは「もうなんでもよくね」と野次を飛ばした。本音を言えば、確かにクラスTシャツなんて当日しか着ないわけだし、その後は三千円を払った高級なルームウェアになるだけだ。
「まず、体育祭のクラスTシャツについて意見を聞かせてください。デザインと文字は今ここで決めておかないと間に合わないので、何か希望があれば――」
「え、うーちゃんが適当にいい感じの絵とか描いてよ。いけるっしょ」
「余裕余裕。色とかもマジで何でもいいし、お前に任せた!」
もう何も考えたくないから俺に任せておこう、という魂胆が見え見えだ。
こっちは真面目に考えているのに、みんなは「イラストのセンスが絶望的にみんな無な人間」にそれを丸投げしていることに気付いていない。頼られているというより、都合よく使われているだけなのかな、と思うと、しゅんと気持ちが萎んだ。
ここは一つ、俺の前衛的な美術センスを発揮して、正気を疑うような奇怪なTシャツを発注してやろうか。全員がそれを着て体育祭を走り回るのは、なかなかの地獄絵図だ。
俺一人だけが色やらロゴやらのデザインに頭を悩ませ、周りはスマホやお菓子を取り出してゆるく時間をやり過ごしている。いくら俺が大きな声で「あの」「アイディアありませんか」と声を張っても無視され困り果てていると、教室のドアが、がらりと勢いよく開いた。
「はざーっす」
ワイシャツの上に、黒のジップパーカーを羽織り、スクールバッグを片手で担いだ姿。さらりと揺れる銀髪。ざわめく教室を他所に、一直線に一番後ろの席へ向かい、そこにどかりと腰を下ろしたのは――久しぶりに見る、制服姿の北野くんだった。
「え、北野がキタ」
「……おもんな。てか、いま何の時間?」
南田くんのあまりにも低レベルすぎるダジャレを一蹴し、スマホをいじりながら頬杖をつく北野くんは、ふとちらりと俺に視線を向けた。笑顔でもないし、怒っているようにも見えないけれど……どこか憮然としている。
(な、なんだろう。低血圧で朝はご機嫌が麗しくないタイプなのかな)
いったいどういう気持ちで俺に目線を送っているんだろうと不思議に思いつつ、挨拶のつもりで教壇の上からそっと片手を上げてみせると、思い切り「ふん」と顔を背けられた。
「あー、体育祭のいろいろメンドイこと決めてる。でも、Tシャツのデザインはうーちゃんが全部なんとかしてくれるから、まあ多分どうにかなるっしょ」
「……ふーん。でも、アイツの事だから、めちゃくちゃダサいの作ってきそうじゃね?」
とんでもなく失礼な言い草だな、と心の中でツッコミを入れつつも、俺は驚いていた。さっきまで「もう何でもいいや」と面倒くさそうにしていた面々が、北野くんの一言で顔を持ち上げたからだ。
「確かに、ダサいのはさすがに嫌だな」
「じゃあ俺らもちゃんと考えるか?」
あちこちで机が寄せられ、顔と顔が突き合わされていく。「どんなのがいい?」「これカッコよくね?」と、俺の手からカタログが奪い合われるまで、ものの一分もかからなかった。
「おい」
「な、なんでしょう」
「黒板にデザインのタイプと価格、あと入れられる文字数もまとめて書いといて」
「あっ……うん、了解です」
北野くんに言われた通り、みんなが比較しやすいようにTシャツの注文に必要な情報をスラスラと書き出していく。俺が少し真面目すぎる説明をすると、北野くんがそれを遮って「要するにこういうことだろ」と大きな声でクラス全員に向けて翻訳し、ズバズバとスピード感のあるテンポで話をまとめていく。
「グラウンドでも目立つように、デカくて派手なデザインにしようぜ。値段がそんな変わんねぇなら、速乾タイプのがいいと思うんだけど。値段計算して」
「えっと……速乾タイプは普通タイプより三百円高いけど、割引を全部使えば二百六十円引きだから、差額は実質四十円で済むよ」
チョークを持つ手を止めて、俺は北野くんの顔をつい見つめてしまった。ふと目が合うと、北野くんはわずかに視線を泳がせてから、「なに見てんだよ、書け」と黒板を顎で示す。
頼もしさと、助けてもらった嬉しさと、ほんの少しの気恥ずかしさが入り混じって、どこか浮き立つような熱が体の内側に灯っていた。
***
その日の放課後、すっかり日が暮れた教室の隅。俺は、ひとり残ってTシャツのデザイン画を下書きしていた。本来の下校時間はとっくに過ぎている。それを先生に頼み込んで、なんとか一時間だけ特別に残らせてもらっているような状況だ。
結局、イラストと注文手続の仕事とは俺に回ってきたわけだけれど――北野くんの謎のリーダーシップによって決まったクラスTシャツの色は濃紫、そしてスローガンは「永遠の幼稚園児」に決定した。提出した用紙を見た先生は、あまりのセンスに目元を覆って絶句していたけれど、俺としてはこの上ないくらいうちのクラスにぴったりな標語だと思う。
「……うーん、なんか物足りない?」
参考にしたイラストは、俺のあだ名の由来でもあるゆるキャラ、「うーちゃん」をオマージュしたものだ。本来は二頭身でつぶらな瞳が可愛いはずなのだが、なぜか描いているうちに足だけが異様に発達した、ちょっと直視したくない二足歩行の獣に仕上がってしまっている。集中して可愛い子ウサギを描いていたのに、どうしてこうなった……と首を傾げていると、ぬっと背後から肩のあたりに人の気配を感じたかと思えば、耳元に低い声が落ちてきた。
「うわー、なにこれ。悲しきクリーチャーじゃん」
「ひゃっ……、北野くん?」
「え、なにその声。お耳激弱界隈?」
「誰だって今のはビックリすると思うよ。というか、なんでまだ学校に」
まさかの人物の登場に、俺はぱちぱちと瞬きをしながら振り返る。
どうして北野くんは、いついかなる時も真正面から声を掛けられないんだろう。もしかして、正面から向き合うと変に照れくさいからという(少し遅めの)思春期特有の恥じらいが、抜けきらないままなんだろうか。
「速攻で帰ろうとしたら、担任に捕まって。そのまま学年主任のところに強制連行。そんで、職員室のど真ん中でネチネチと長い説教をフルコースで食らってきたんだよ」
「それは可哀想に」
「やめろ、憐れむな俺を。久しぶりに登校して一発目から説教とか、激萎え過ぎて辛い」
心底うんざりした顔を見て、俺はほんのすこしだけ口元を緩めた。それから、不機嫌そうにスマホの画面をスクロールしている北野くんに向かって、「あのさ」と話を切り出す。
「北野くん。約束を守ってくれて、ありがとう」
「は? なに、いきなり」
「ちゃんと、『次の日から登校する』って約束を果たしてくれたから。今まで来なかった理由は俺には分からないけれど、久しぶりの登校なんて、誰だって緊張するものだと思うからさ」
「別にぃー? 俺が来ないと田浦が寂しくて泣くかなと思って、仕方なく来てやっただけ」
すぐに軽口を叩いて茶化してみせるけれど、頬がほんのりと赤いのは隠しきれていない。俺がじっ、とその顔を見つめ返すと、北野くんは居心地悪そうに腕を組んで、ふんぞりかえってみせた。きちんと北野くんと顔を合わせて話すのはこれが三回目だけれど、いつもは雑に「お前」呼ばわりされていたところを、ここにきて急に苗字で呼ばれるとは思ってもみなかった。ちょっと、いや、かなり嬉しい。
(ついに、北野くんが俺の苗字を呼んでくれるようになった……!)
まるで「うちの子が初めて自分の名前を言えました!」とでも言うかのような感動と親心に似た感銘をひとりで噛み締めていると、北野くんは俺の手元を覗き込み、またしても顔をしかめた。
「……で、このままだとこのキモいイラストが俺らのクラスTシャツになるってこと?」
「キ、キモいは言いすぎじゃない? アートのつもりなんだけど」
「いや、三六〇度どこから見てもヤベェだろ。これは」
「自分でも、この線のタッチというか、全体的な仕上がりにはまだ納得いっていない部分はあるけど……。細部を描き込めば、きっとアヴァンギャルドな芸術として昇華されると思うんだ」
「クラスTシャツにアヴァンギャルド求めてねぇし。そもそもなんだよこれ、なんでこのサイケデリックな謎の生き物の頭上に『永遠の幼稚園児』って明朝体でデカデカと入ってんだよ。意味不明すぎるだろ、狂ってんのか!」
「言葉を返すようで悪いけれど、そもそもスローガンって、一致団結するために決めるものだよ。それを北野くんがふざけたからこうなったのであって……まあ確かに、うちのクラスの風紀の乱れや学級崩壊気味な雰囲気を言い得て妙ではあるけれど、本来なら無難な四字熟語の方が……」
「だーっ、うるせぇな、早口すぎんだよ! なんだその、句読点すら感じさせないキチキチした喋り方は。情報過多でなに言われてんのか分かりづれぇんだよ」
「北野くんが『句読点』とか、『情報過多』って単語を知っているのがすごく意外!」
「お前、俺のことなめてる? なめてなかったら逆になんなん?」
決してそのようなことは、と首を左右に振りながら手のひらを向けてみせると、北野くんは「腹立つわぁ」と顔を歪めながら、机の上にあった清書用のデザイン用紙をひらりと奪い、断りも無く俺のシャープペンシルを握りしめた。
「北野くん」
「なんだよ」
「ひょっとして、俺を手伝おうとしてくれてる?」
「は? 勘違いすんなって。こんな罰ゲームみたいなダサいクラスTシャツを着せられた挙句、全校生徒の前で晒し者にされるとか普通に無理だし。だいたい、高い金払った上に部屋着にもなんねぇゴミみたいな布とかマジでいらんから」
「でも、俺からしてみれば本当に助かるよ。ありがとう」
北野くん本人には毛頭そんなつもりはないらしいが、口では散々悪態をつきながらも、俺の『うーちゃんもどき』を爆速でポップでクールなアメリカンチックなキャラクターに生まれ変わらせている。
「北野くんにこんな絵心があったとは。正直、心が震えてるよ」
「俺はお前の絵心に震えてる」
「デザインの才能があると思うよ、すごく上手に描けてるし」
「バーカ。ちょっとした落書きだろ、こんなん」
気まずそうに鼻を掻きながら、シャープペンシルを器用にくるくると回している。
消しゴムのカスをぴっ、と指先で乱暴に払うと、北野くんはぺらりと紙の向きを変えて完成したデザイン画を見せてくれた。すごい。まるでプロのイラストレーターが描いたみたいな仕上がりだ。
「北野くん、ありがとう。印刷所に画像を送信すれば、納期も十分に間に合うよ」
「じゃあ、とりあえずクラスのグループラインに『デザインはこんな感じで決まり』って流しておくか」
「グループラインって、なんのこと?」
「……田浦、お前、もしかして招待されてねぇの?」
「そもそもそんなコミュニティが出来てたのも知らなかった、というか……」
誰からも俺は招待状を貰っていない。声を掛けてもらった記憶もないのに、一体いつの間に? と首を傾げる俺に、北野くんはスマホの画面に一度だけ視線を落とすと、「あー……」と盛大に天を仰いで、自分の髪をがしがしと荒々しく掻きむしった。なんだろう、なにかものすごく不都合な真実を知ってしまったような顔をしている。
「……まずは、俺が田浦を個人で友だち追加するところから始めるしかないな」
「北野くんの『友達リスト』に、俺も入って良いの? 地味に嬉しい」
「『地味に』が余計過ぎる。もっと喜べよな」
文句を言いながらも、北野くんは渋々といった様子で二台のスマホを机の上に並べた。ものすごい速さで俺の設定をいじくり回し、『招待』のボタンを躊躇なく押す。瞬く間に俺は、クラスのグループチャットの一員になった。
「ありがとう、北野くん。見かけによらず、根っからのいい人だね」
「そうだよ、今さら気付いたのかよ。つーか俺は元から普通にいい奴だし、面倒見もいいし、割と義理堅いタイプだし、だいたい誰にでも優しいっていうか、いやそういうことじゃなくて……あー、もう、うるせぇ、今の忘れろ!」
「俺はなにも、うるさくしてないよ」
なにをそんなに慌てる必要があるのかと思うほど、北野くんは突然の早口で言い訳を並べ立てて、最後には片手で顔を覆ってしまった。
忙しい人だなあと感心しつつ、顔を伏せたままの北野くんが自力で浮上してくるのを穏やかに待っていると、完全下校を知らせるチャイムの音が鳴り響く。
「俺、先生にもこの用紙を見せて報告してくる。また来週、学校でね。北野くん」
「なにそれ。お前、このまま帰る気?」
「えっ……だって下校時刻だし、職員室に寄ったらもう用事もないし」
「あっさりし過ぎだろ! 俺ら二人しか居ないんだから、途中まで一緒に帰ろうぜとか、そういう青春っぽい発想はねぇのかよ!」
それって、北野くんは(言い方は別として)俺と一緒に帰りたいって申し出てくれているってことなんだろうか。高校に入って、クラスメイトにそんな風に言ってもらえたのは初めてだ。自然と笑みがこぼれて、俺はスクールバッグの肩紐を握りしめる。
「いいの?」
「……なんだよその顔」
「まさか、北野くんと一緒に帰れるなんて思ってなかったから……嬉しくて」
「あっそ」と言いながら背を向けて早足で歩き出した北野くんの背中に向かって、ぽつりと本音を零した瞬間、前を歩いていた北野くんの足が盛大にもつれ、教室の角に置いてあったプラスチック製の大きなゴミ箱へとダイレクトに激突した。心配になって駆け寄ろうとすると、北野くんはものすごい勢いで「来るな!」と制止の片手を突き出し、ほうほうの体で立ち上がるのだった。
***
なんだかんだと(大型犬みたいに)文句を吠えながらも、北野くんは俺が職員室で先生にデザインを報告する間も廊下で待ってくれていたし、駐輪場へ自転車を取りに行く間もついて来てくれた。聞いたところによると、北野くんはバス通学らしい。
わざわざ一緒に正門まで歩くと言い張るなんて、案外寂しがり屋なんだろうかと思ったものの、これ以上からかってまた憤慨されても困るので黙っておくことにした。
「いや……田浦、お前さぁ」
「えっと……どうかした?」
「そのヘルメット、どっからどう見ても完全に工事現場のやつじゃん。どういうこと?」
「あぁ、これ。中学生の時、建設作業員として働いていたじいちゃんが定年退職することになったとき、お下がりで貰ったんだ。機能性は抜群でね、顎紐のジャストフィット感といい、厚手のクッション性といい……」
後ろには「田浦」とデカデカと印字されているし、両サイドには「安全第一」の緑十字マークつき。安全性を追求し尽くした、立派すぎる自慢のヘルメットだ。
「もっとこう……今時のロードバイク用のシュッとしたやつとか、いくらでもマシなのあるだろうがよ」
「命を乗せて走る自転車に、ファッション性は必要ないかなって。このヘルメットこそ、耐衝撃性と抜群の視認性が――」
手を広げて熱弁していると、二人乗りで駐輪場を走り抜けていく先輩たちに『あいつヤバくね』とゲラゲラ笑いながら指を差された。ぽかん、と棒立ちのまま、今の「あいつ」っていうのは俺のことを言ってたのかな……と瞬きする。
「俺の半径三メートル以内に近づいて歩かないでくれ、頼む」
「どうして?」
「あまりにも目立ちすぎるから」
「一緒に帰りたいって先に言い出したのは、北野くんのほうだよ?」
ぐぬぬ、と悔しそうに拳を握り締める北野くんをよそに、俺はじいちゃんの『安全第一』ヘルメットの顎紐をカチリと小気味よく締め直した。
「…………」
「…………」
歩き出したはいいものの、ぎこちない沈黙が流れる。こういう静けさは正直、どうにも居心地が悪くて苦手だ。何か話をしなければ……と焦れば焦るほど、頭に浮かぶ共通の話題が思いつかない。悩みに悩んで、俺は無難すぎる質問を投げかけることにした。
「北野くん。今日は久しぶりに学校へ来てみて、どうだった?」
「……別に、どうもしねぇよ。ただ適当に授業受けて、面倒くさい説教食らって帰ってきただけだし」
「そっか。ならよかった」
「なんでだよ。どう考えたって良くはないだろ」
「本当はね、北野くんが何か辛い理由があって学校を休んでいたのだとしたら、俺が無理を言って登校させてしまったんじゃないかって、少し心配だったから」
「ふーん……」
まさか一週間で本当に北野くんを連れてくるとは思っていなかったらしく、職員室で先生は「さすが田浦だ」と大喜びしていたのだけれど、俺の心の中には、どこか複雑な気持ちがくすぶっていた。
初めは、自分の内申書をよくするために北野くんへ声を掛けた。だけど今は、そんな打算はとっくに消え失せて、純粋に「学校にいてくれて嬉しい」と思っている。
(本当は、最初は内申書目当てだったって、正直に打ち明けるべきなんだろうけど……)
どうして一か月以上も登校してこなかったのか、その肝心な理由はまだ分からないままだ。もしここで「実は最初はね」なんて切り出して、ようやく心を開きかけている北野くんを傷つけて、また不登校にさせてしまうのは、どうしても避けたかった。
「……その、もし嫌じゃなければ。どうして休みがちになったのか、理由を聞いてもいい?」
肩から下げたスクールバッグを自転車のカゴに入れ、ハンドルを押し進めながら並んで歩く。北野くんは俺のことを斜め上からちらりと見下ろしながら、少しだけ間をおいて言った。
「別に、そんな大した理由じゃねぇけど。簡単に言うと……怪我だな」
「怪我?」
「ゴールデンウィークの遠征試合で派手に負傷した。そのあと医者から『もう前みたいにハンドボールを続けるのは無理だ』ってハッキリ言われてよ」
「…………」
「俺、見た目はこんなんだけど一応スポーツ特待生として入ったわけ。でも、それも当然取り消しになって。簡単に言えば、もう全部どうでもよくなって、グレたって感じ」
けろ、とわざと明るい調子で言われて、俺が「それは……」と言いかけると、北野くんはまっぴらごめんだと言うように、ひらひらと手を振ってみせた。
「あっ、同情とか慰めとかマジでいらないから。メンタルだけは鋼だし、もうそんなこと気にしてねぇし」
目を合わせないように早口でまくし立てるその言葉は、どう聞いたって信ぴょう性に欠ける。けれど、そこには北野くんなりのプライドがあるのだろう。俺は深く詮索せず、「そっか」と静かに頷くにとどめておいた。
そうやって強がりながらも、きっと心の中では誰にも言えない葛藤や絶望を抱えていたはずだ。けれど、スポーツにそこまで熱中した経験のない俺が、中途半端な言葉で部活のことを語るのは憚られる。
きゅっと唇に力をこめると、俺はかつて自分が抱いていた理不尽な過去の痛みを思い出しながら、隣を歩く北野くんの横顔を見つめた。
「まったく同じ経験だとは言えないけれど、俺も自分が……どうしてこんな目に、と思うような出来事に遭遇したことがある。だから、この高校に入った時は、正直すごくやさぐれてたんだ」
「は? 田浦が?」
「うん。中学の時に、交通事故に遭って。体調が整わないまま受験して、志望校にも落ちて。自分でも『なんでこんな高校に』って思いながら、毎日教室に来てたというか」
「……怪我とか、そういうのは大丈夫なん」
「あ、うん。それはもう平気なんだけど。少しずつ、気持ちも前を向かなきゃって今は思っている所で……どんな不本意な状況におかれても、その場でできる全力を尽くすことに、きっと意味があるって考えるようになったというか」
「……おい。俺、さっき慰めんなって言ったよな」
「違う、慰めたいわけじゃないよ。ただ、北野くんが登校してくれるなら、クラスメイトとして純粋に嬉しい。それに、いつかその学校生活の中で、北野くんがまた熱くなれる瞬間に出会えたらいいなって、心から思ってる」
校門の手前まで来ると、お互いに自然と足が止まった。
向こうの道路からは、夕暮れの光の中をヘッドライトをつけてゆっくりとこちらへ向かってくるバスが見える。じゃあここで、と話を切り上げようとして自転車のサドルにまたがると、北野くんは慌てたように俺のハンドルを握る手首をグッと掴んだ。
「なぁ、田浦」
「はい」
「来週の日曜って暇?」
「どうしたの、急に」
「いや、その……出掛けねぇ? どっか、ふたりで」
「な、なんで……?」
今の話の流れからどうしてそうなるんだと内心戸惑いつつも、北野くんは俺の手首を掴んだまま離してくれない。休日になぜ出かけるのか、どこに行くのか、どうして二人なのかと聞きたいことは山ほどあったけれど、北野くんは気恥ずかしさを隠すように、最後はぽん、と俺の『安全第一』ヘルメットに軽く手を置いた。それから、急に耳元へと顔を寄せ、低い声で「あとは、ラインで」とだけ呟く。
「き、北野くんっ!」
照れくささを誤魔化すように振り返りもせず、北野くんは足早にバスに乗り込んでいった。ぶぅん、と重く低いアイドリングの音を立てるバスの車内。窓際の席に座り、頬杖をついている北野くんの姿を見つけて、俺は思わず大きく両手を振って声を張り上げる。
「連絡待ってるね! でも、九時過ぎにはお風呂に入るから、返事が遅れるかも!」
同じように窓際に座る乗客たちが、クスクスと笑いながら俺が手を振るのを見ている。
それを窓越しに聞いた北野くんは「げっ」という顔をして、慌てて窓とは反対の通路側へとプイッと顔を背けてしまった。そのまま、バスは白い排気ガスを揺らしながら走り去っていく。
(誘ってもらえたのは嬉しいけど、どうして急に……?)
北野くんからの連絡が来るのを大前提で返しちゃったけれど、本当は俺から送るべきなんだろうか。最後に手を振り返してくれなかったのは、ちょっとだけ寂しいな。
そんなふうに、次々と湧き上がってくるそわそわとした落ち着かない期待で、頭の中がずっと忙しい。
こんなにも自分のペースをぐちゃぐちゃに乱されたのは、北野くんが初めてだった。



