「それでは、改めて体育祭での優勝を祝して。乾杯――!」
グラス同士が勢いよくぶつかり合う音が、賑やかな店内のあちこちで響き渡る。もくもくと立ち込める香ばしい煙と、食欲をそそる肉の焼ける匂い。ジュージューと網の上で音を立てるカルビに、タレが焦げる香りが鼻をくすぐる、活気あふれる焼肉店の一角。 今日は、みんなが待ちに待っていた打ち上げの日だ。
食べ盛りの俺たちは、せめて先生の財布に与えるダメージを少しでも少なくしようと、当初の高級焼肉という案から、みんなでワイワイ気兼ねなく楽しめる食べ放題のお店へとプランを変更した。テーブルの上には、これ以上は乗り切らないというほどのお肉のプレートがずらりと並んでいる。
「いや~、先生の金で食う焼肉は最高やな」
「ゲスすぎて笑う。でも、俺らマジで頑張ったよな。体育祭もその後の追試も」
俺と北野くんの向かい側で、西谷くんと南田くんが楽しげに話している。
焼きあがった肉をハフハフと冷ましながら白米にのせていると、東山くんが、ちらりと俺と北野くんを交互に見て微笑んだ。
「で、今日のデートはどうだったん?」
「ごふっ」
「うわ、北野。お前なぁ」
まさかの角度から飛んできた質問に、俺よりも動揺した北野くんが、口元を押さえて盛大に咳き込んでいる。おろおろしながら水の入ったグラスを渡すと、「健気やわぁ」と西谷くんが、いつものケラケラした調子でからかった。
そう。あのあと両想いになった俺と北野くんは、今日はじめての休日デートをした。
平日の放課後に一緒に帰ったり、コンビニに寄り道したりすることは何度かあったけれど、学校のない日に、ちゃんと待ち合わせをして出かけるのは、映画の日以来だ。
行き先は、生き物好きの俺の希望を汲んで、北野くんが水族館を選んでくれた。
広い館内を歩き回って、時折俺が膝を気遣って「休憩する?」と声を掛けるたび、北野くんは「サンキュ」と頭を撫でてくれて。そういう、お互いを大切に思い合えていると伝え合う瞬間が、デート中にいくつもあって……。
「すっごく楽しかったよ。北野くんが前の日にメモを送ってくれて、その通りに回って」
「へぇ、そのメモ見せて」
東山くんが、俺のスマホを覗き込もうとする。見せていいのかな、とちらりと北野くんを見ると、咽たばかりでぜぇぜぇと息を整えながら、俺の肩をがしっと掴んだ。
「絶対ダメ。それは、俺が田浦にしか見せたくないやつだから」
「でも、せっかくこんなに丁寧に書いてくれたのに?」
すっかり習慣になった寝る前の通話のあと、北野くんが送ってきてくれた一枚の画像。何かの景品でもらったのか、電気屋さんのロゴが入ったメモ用紙に、イルカショーの時間や、お昼を食べるお店の名前まで、きっちり書いてある。こんなに真面目に考えてくれたことが嬉しくて、つい自慢したくなったのだけれど、まさかの即却下だった。
「まぁ、幸せそうで何よりですわ」
「本当ほんと。ずっと見てる側としては、めっちゃジレったかったけどな」
照れくささで肩をすくめる俺に、北野くんはテーブルの下で繋いだ手を一度だけ親指でそっと撫でた。それだけで今日一日が同じ満ち足りた気持ちだったのだと伝わってくる。
ちなみに、付き合うことになった、というのはつい最近、三人に報告したばかりだ。
「お前らー、盛り上がってるのはいいことだけどなぁ。来週の夏休み前に、進路希望調査票を絶っ対に提出しろよ。そうじゃないと、お前らの家に一軒ずつ電話をかけて回収に行くからなぁ」
みんながワイワイと盛り上がる中、先生が金曜日のホームルームで口酸っぱく言っていた内容を再びアナウンスした。来週の半ばには、高校に入って初めての夏休みが始まる。
やっぱりというか、もうお決まりのようにみんなが「げぇ」という顔をしてみせると、先生はガッハッハと大笑いしてみせた。
「……あー、俺まだ出してねぇや。田浦はもう提出した?」
「ううん、まだ」
「え、でも志望校は帝都大って決まってるんだろ」
「あ……うん、でもね。本当にそれでいいのか、今はちょっと迷ってて」
俺が言いづらさで苦笑いして見せると、北野くんもみんなも不思議そうな顔をしている。
実は、と切り出すと、ちくんと小骨のように刺さっていた何かが取れた気がした。
「その……俺、あの紙を見た時に『なんで帝都がいいのかな』って考えて。今までは、なんの脈絡もなく難関大にこだわってたんじゃないかって気づいたんだ」
「どういうことだよ」
「高校受験に失敗した。こんなところに来るはずじゃなかった。だから、誰も見返す相手なんかいないのに、悔しさだけでそういう目標を立ててたんだと思う」
それだけじゃない。この教室は本当の自分の居場所じゃないと自分の中で線を引いて、みんなが声を掛けて来てくれても、どこか捻くれた気持ちを抱えたまま「とっつきにくい自分」でいたのは、紛れもない自分自身のせいだと今なら分かる。
それは他でもない北野くんが、その線越しに何度も俺に、見守りながら、迷いながら目を掛け、声を掛けてくれた日々があったからだ。
「ちゃんと、自分が何をしたいのかちゃんと考えて、大学は選び直そうかなって」
「なんとなくだけど、俺は田浦は先生とか向いてるような気がする」
「ど、どうして」
「勉強を教えるのが上手いのもあるけど、生徒と同じ目線で親身になりそうだから」
「確かに、北野くんたちに勉強を教えてる時間は結構好き、かも」
「……いいじゃん、応援する。俺も、選手以外の形でハンドに関われる進路を考えるわ」
スポーツ推薦以外での進学なら、北野くんは何が勉強したいんだろう。聞いていいのかな、と迷った。多分今までの俺なら言葉を胸にしまっていたけれど、じっ、とその瞳を見つめて問いかける。
「北野くんは、周りの人を動かす力があると思う。だから、そういう職種につけるような進路を目指していくといいんじゃないかな」
「……え、それガチ? 俺、単純だから割と本気で受け取るけど」
「本当だよ。たぶん、それは周りのみんなも思ってるんじゃないかな」
俺の言葉に、三人も穏やかに頷く。はっとしたように息を詰めて、北野くんは嬉しさを噛みしめるように笑って見せた。
「田浦はやっぱすげぇよ」
「ど、どうして?」
「田浦のそういう言葉で、いくらでも心強くなれるから」
北野くんに顔を近づけて微笑まれ、黙って聞いていた南田くんたちが思わず耐えかねたように声を上げる。
「おいおい、俺らの前でイチャイチャすんなって!」
「ま、でも、お前らがやっとくっついてくれてマジで良かったわ。末永く爆ぜろよ!」
「ほんまにそれ。ごちそうさまです~!」
冷やかし交じりの野次と、からかうような笑い声がテーブルを包む。
顔を真っ赤にして俯く俺の隣で、北野くんはいつもと同じく「お前らうるせぇよ」と言いながら、テーブルの下で繋いだ手をもう一度力強く握り直してくれた。
***
お腹がいっぱいになるまでお肉を食べて、食後のソフトクリームを取って席へ戻ってきたら、北野くんが何やら南田くんに詰められていた。
「北野、どこまで進んだん?」なんて肩を組んで、周囲に聞こえないように(しているけど、バレバレで)声をひそめている。宿題の範囲の話でもしてるんだろうか。
そんなことを考えながら、俺はソフトクリームの乗ったお皿を持って、北野くんの隣に何気なく無言で腰を下ろした瞬間、まるで全員が同じタイミングで地雷でも踏んだかのようにひっくり返って、一目散に蜘蛛の子を散らすようにいなくなっていった。
「どうしたの、俺が聞いちゃいけない話?」
「な、なんでもねぇから。早くそれ食えって」
やがて、そろそろお開きにしようという空気になり、ぞろぞろとお店の外へ出る。
夜風が火照った頬に心地いい。店の前で、まだほんのりと顔を赤らめている北野くんは、顎でしゃくるようにみんなと反対の方向を示した。
「北野くん?」
「……家まで送る」
ぶっきらぼうな言い方だけれど、最初からそのつもりでいてくれたんだなと分かって、胸の奥がほわほわと温かくなる。
付き合うようになってから気づいたけれど、北野くんは見た目によらず、というか、思った以上に相手を大切にしてくれるタイプらしい。
この前初めて家まで送ってくれたのだけれど、わざわざ二十分も遠回りになる道を、時間を惜しむようにずっと隣を歩いてくれる。
それに――そうしたいのは、俺だけだと言ってくれるものだから、余計に胸が詰まる。
「夏休みの課題、全教科合わせたら大変なことになりそうだね」
「ほんとそれ。なぁ、一緒にどっかでやったりしねぇ?」
「いいよ。一日のペースを決めて、それが終わったら遊んだりもしたい」
「それいい。今年こそ締切守って提出できる気しかしないわ」
「うん。今年から、毎年北野くんはちゃんと守れるようになると思うよ」
ふふ、と意味を込めて笑ってみせると、北野くんは目を細めてつられたように笑った。
二人で、せっかくの夏だから海とか、プール、花火なんかも観に行きたいなんて、いかにも夏らしい話題で盛り上がる。
……と、人気のない住宅街にさしかかったところで、俺はポケットに手を入れっぱなしの北野くんに気づいてほしくて、わざと左手をひらりと振ってみせた。それでも気づいてもらえなくて、少しだけ歩幅を狭め、さり気なく自分の手を北野くんの腕にコツンとぶつけてみる。
「……田浦」
「なに?」
「それ、手を繋いでほしいアピール?」
「ううん、『手が空いてますよアピール』だよ」
俺の精一杯の強がりに、北野くんが「同じだろ」と言いながら可笑しそうに笑った。
そのままそっと周囲を一度だけ確認すると、空いていた距離を体を寄せるようにぐっと縮めて、俺の指と自分の指を深く絡め合わせる。そのぴたりと吸い付くようなフィット感は、まるでパズルのピースがかちりとはまったみたいな感覚だ。
嬉しくて、くすぐったい気持ちが広がる。
「ちょっとこっち来て」
その甘ったるい声に、心の中でぎゅん、と物凄い勢いでレースカーが駆け抜けるような衝撃が走る。きゅん、とかドキッ、とかそんな可愛いレベルじゃない。――ぎゅんだ。
「北野くん、どこ行くの」
「……帰る前にキスしたいって思ってんの、俺だけ?」
手を繋いだまま、振り返りながらぼそっと問いかけられる。あまりにもストレートな言葉に、俺は「ううん」と返すのがやっとだった。ずんずんと足早に、いつもの家の前にある小さな公園へ向かう北野くんの背中は、なんだか待ちきれないように急いている。
今日のデート中も、正直何度か「あれ?」という瞬間はあった。
エスカレーターで俺が上から顔を覗き込んだ時とか、エレベーターの閉じられた密室とか。少し薄暗い水族館の熱帯魚の展示ゾーンでも、なんというかすごく……北野くんが、キスしたそうな顔をしていたから。全く同じ状況でも、映画を観に行った時とは全然違う。
したくなかったかと聞かれれば、答えはもちろんノーだ。俺だって、そういう北野くんの顔を見るたびに熱に浮かされたように頬が火照って、あの甘い香りや、すべてを閉じ込めるみたいに強く抱きしめられた腕の感触を思い出していたのだから。
「こっち、座って」
おそらく誰も通りはしないけれど、ここは思いっきり屋外だ。
公園のベンチに二人で浅く腰掛け、植え込みの陰に身を隠すように、少しずつ距離を詰めていく。お互いに腕を伸ばすと、俺は少し照れくささをごまかすように、北野くんの背中にそっと腕を回して密着した。
「……俺のこと好き?」
「う、うん。好き。大好きだよ」
「ちゃんと、名前呼んで。好きって言って」
意地悪く囁かれて、うう、と恥ずかしさで俺が唸ると、北野くんは鼻先を俺の髪に埋めるように寄せ、さら、と指先で髪を梳きながら、俺の言葉を待った。
「た、たっ……た……!」
「たーき。何で言えねぇの、たった二文字だろ」
「わ、分かるよ! 分かってるけど、急にそんな至近距離で言われると緊張する!」
かぁっと顔を真っ赤に染めながら「た」を連呼する俺。
さっきまでの、胸が高鳴るようなドラマチックな雰囲気が音を立てて崩れ去っていく。
素直に「瀧くん」と言いたい。出来れば、ありったけの好きという想いを込めて。でも、それがなかなかに恥ずかしいのだ。ロマンチックの欠片もない自分の不甲斐なさに、その場で頭を抱えたくなる。
けれど、恥ずかしさで俯く俺の顎を、瀧くんがそっと優しく持ち上げてくれた。
「……瀧くん。大好きだよ」
顔を真っ赤にしながら絞り出すように告げると、瀧くんは満足したように目尻を下げて、柔らかく息を漏らした。
「ん、俺も。謠のことが好きでたまんない」
名前を呼ばれた恥ずかしさと愛おしさが同時に押し寄せて、胸がいっぱいになる。
そんな俺を愛おしむように、瀧くんの顔がスッと近づいてきて――甘く柔らかく、すべてを溶かすようなキスが落とされる。
名残惜しそうに唇を離した瀧くんは、息を整えながら額を俺の額へ合わせてきた。
「……はぁ、本当に。謠といると時間がいくらあっても足りねぇな」
「うん。でも、夏休みは瀧くんといっぱい、ふたりでいろんな楽しいことしたいな」
もう一度、今度はごく自然にその名前を呼ぶと、瀧くんはたまらないと言ったように再び強く抱きしめて、俺の首筋に顔をうずめた。ひんやりとした夏の夜風が吹き抜けるのに、繋ぎ合わせた手や、ぴたりと重なり合う体温は、とろけるほど熱い。
「……ねえ、瀧くん」
「ん?」
「いつもの道じゃない帰り方で帰ってもいい?」
「なんでだよ」
「遠回りしたいから」
驚いたように瞬きをしたあと、瀧くんは優しく愛おしそうに笑って、さらに強く腕のなかに包み込んでくれた。
何度抱き寄せられてもやっぱり、大好きだと思う。
たまらなく幸せな温もりに身を委ねるように、俺はそっと目を閉じて、頬をすり寄せた。
(終)
グラス同士が勢いよくぶつかり合う音が、賑やかな店内のあちこちで響き渡る。もくもくと立ち込める香ばしい煙と、食欲をそそる肉の焼ける匂い。ジュージューと網の上で音を立てるカルビに、タレが焦げる香りが鼻をくすぐる、活気あふれる焼肉店の一角。 今日は、みんなが待ちに待っていた打ち上げの日だ。
食べ盛りの俺たちは、せめて先生の財布に与えるダメージを少しでも少なくしようと、当初の高級焼肉という案から、みんなでワイワイ気兼ねなく楽しめる食べ放題のお店へとプランを変更した。テーブルの上には、これ以上は乗り切らないというほどのお肉のプレートがずらりと並んでいる。
「いや~、先生の金で食う焼肉は最高やな」
「ゲスすぎて笑う。でも、俺らマジで頑張ったよな。体育祭もその後の追試も」
俺と北野くんの向かい側で、西谷くんと南田くんが楽しげに話している。
焼きあがった肉をハフハフと冷ましながら白米にのせていると、東山くんが、ちらりと俺と北野くんを交互に見て微笑んだ。
「で、今日のデートはどうだったん?」
「ごふっ」
「うわ、北野。お前なぁ」
まさかの角度から飛んできた質問に、俺よりも動揺した北野くんが、口元を押さえて盛大に咳き込んでいる。おろおろしながら水の入ったグラスを渡すと、「健気やわぁ」と西谷くんが、いつものケラケラした調子でからかった。
そう。あのあと両想いになった俺と北野くんは、今日はじめての休日デートをした。
平日の放課後に一緒に帰ったり、コンビニに寄り道したりすることは何度かあったけれど、学校のない日に、ちゃんと待ち合わせをして出かけるのは、映画の日以来だ。
行き先は、生き物好きの俺の希望を汲んで、北野くんが水族館を選んでくれた。
広い館内を歩き回って、時折俺が膝を気遣って「休憩する?」と声を掛けるたび、北野くんは「サンキュ」と頭を撫でてくれて。そういう、お互いを大切に思い合えていると伝え合う瞬間が、デート中にいくつもあって……。
「すっごく楽しかったよ。北野くんが前の日にメモを送ってくれて、その通りに回って」
「へぇ、そのメモ見せて」
東山くんが、俺のスマホを覗き込もうとする。見せていいのかな、とちらりと北野くんを見ると、咽たばかりでぜぇぜぇと息を整えながら、俺の肩をがしっと掴んだ。
「絶対ダメ。それは、俺が田浦にしか見せたくないやつだから」
「でも、せっかくこんなに丁寧に書いてくれたのに?」
すっかり習慣になった寝る前の通話のあと、北野くんが送ってきてくれた一枚の画像。何かの景品でもらったのか、電気屋さんのロゴが入ったメモ用紙に、イルカショーの時間や、お昼を食べるお店の名前まで、きっちり書いてある。こんなに真面目に考えてくれたことが嬉しくて、つい自慢したくなったのだけれど、まさかの即却下だった。
「まぁ、幸せそうで何よりですわ」
「本当ほんと。ずっと見てる側としては、めっちゃジレったかったけどな」
照れくささで肩をすくめる俺に、北野くんはテーブルの下で繋いだ手を一度だけ親指でそっと撫でた。それだけで今日一日が同じ満ち足りた気持ちだったのだと伝わってくる。
ちなみに、付き合うことになった、というのはつい最近、三人に報告したばかりだ。
「お前らー、盛り上がってるのはいいことだけどなぁ。来週の夏休み前に、進路希望調査票を絶っ対に提出しろよ。そうじゃないと、お前らの家に一軒ずつ電話をかけて回収に行くからなぁ」
みんながワイワイと盛り上がる中、先生が金曜日のホームルームで口酸っぱく言っていた内容を再びアナウンスした。来週の半ばには、高校に入って初めての夏休みが始まる。
やっぱりというか、もうお決まりのようにみんなが「げぇ」という顔をしてみせると、先生はガッハッハと大笑いしてみせた。
「……あー、俺まだ出してねぇや。田浦はもう提出した?」
「ううん、まだ」
「え、でも志望校は帝都大って決まってるんだろ」
「あ……うん、でもね。本当にそれでいいのか、今はちょっと迷ってて」
俺が言いづらさで苦笑いして見せると、北野くんもみんなも不思議そうな顔をしている。
実は、と切り出すと、ちくんと小骨のように刺さっていた何かが取れた気がした。
「その……俺、あの紙を見た時に『なんで帝都がいいのかな』って考えて。今までは、なんの脈絡もなく難関大にこだわってたんじゃないかって気づいたんだ」
「どういうことだよ」
「高校受験に失敗した。こんなところに来るはずじゃなかった。だから、誰も見返す相手なんかいないのに、悔しさだけでそういう目標を立ててたんだと思う」
それだけじゃない。この教室は本当の自分の居場所じゃないと自分の中で線を引いて、みんなが声を掛けて来てくれても、どこか捻くれた気持ちを抱えたまま「とっつきにくい自分」でいたのは、紛れもない自分自身のせいだと今なら分かる。
それは他でもない北野くんが、その線越しに何度も俺に、見守りながら、迷いながら目を掛け、声を掛けてくれた日々があったからだ。
「ちゃんと、自分が何をしたいのかちゃんと考えて、大学は選び直そうかなって」
「なんとなくだけど、俺は田浦は先生とか向いてるような気がする」
「ど、どうして」
「勉強を教えるのが上手いのもあるけど、生徒と同じ目線で親身になりそうだから」
「確かに、北野くんたちに勉強を教えてる時間は結構好き、かも」
「……いいじゃん、応援する。俺も、選手以外の形でハンドに関われる進路を考えるわ」
スポーツ推薦以外での進学なら、北野くんは何が勉強したいんだろう。聞いていいのかな、と迷った。多分今までの俺なら言葉を胸にしまっていたけれど、じっ、とその瞳を見つめて問いかける。
「北野くんは、周りの人を動かす力があると思う。だから、そういう職種につけるような進路を目指していくといいんじゃないかな」
「……え、それガチ? 俺、単純だから割と本気で受け取るけど」
「本当だよ。たぶん、それは周りのみんなも思ってるんじゃないかな」
俺の言葉に、三人も穏やかに頷く。はっとしたように息を詰めて、北野くんは嬉しさを噛みしめるように笑って見せた。
「田浦はやっぱすげぇよ」
「ど、どうして?」
「田浦のそういう言葉で、いくらでも心強くなれるから」
北野くんに顔を近づけて微笑まれ、黙って聞いていた南田くんたちが思わず耐えかねたように声を上げる。
「おいおい、俺らの前でイチャイチャすんなって!」
「ま、でも、お前らがやっとくっついてくれてマジで良かったわ。末永く爆ぜろよ!」
「ほんまにそれ。ごちそうさまです~!」
冷やかし交じりの野次と、からかうような笑い声がテーブルを包む。
顔を真っ赤にして俯く俺の隣で、北野くんはいつもと同じく「お前らうるせぇよ」と言いながら、テーブルの下で繋いだ手をもう一度力強く握り直してくれた。
***
お腹がいっぱいになるまでお肉を食べて、食後のソフトクリームを取って席へ戻ってきたら、北野くんが何やら南田くんに詰められていた。
「北野、どこまで進んだん?」なんて肩を組んで、周囲に聞こえないように(しているけど、バレバレで)声をひそめている。宿題の範囲の話でもしてるんだろうか。
そんなことを考えながら、俺はソフトクリームの乗ったお皿を持って、北野くんの隣に何気なく無言で腰を下ろした瞬間、まるで全員が同じタイミングで地雷でも踏んだかのようにひっくり返って、一目散に蜘蛛の子を散らすようにいなくなっていった。
「どうしたの、俺が聞いちゃいけない話?」
「な、なんでもねぇから。早くそれ食えって」
やがて、そろそろお開きにしようという空気になり、ぞろぞろとお店の外へ出る。
夜風が火照った頬に心地いい。店の前で、まだほんのりと顔を赤らめている北野くんは、顎でしゃくるようにみんなと反対の方向を示した。
「北野くん?」
「……家まで送る」
ぶっきらぼうな言い方だけれど、最初からそのつもりでいてくれたんだなと分かって、胸の奥がほわほわと温かくなる。
付き合うようになってから気づいたけれど、北野くんは見た目によらず、というか、思った以上に相手を大切にしてくれるタイプらしい。
この前初めて家まで送ってくれたのだけれど、わざわざ二十分も遠回りになる道を、時間を惜しむようにずっと隣を歩いてくれる。
それに――そうしたいのは、俺だけだと言ってくれるものだから、余計に胸が詰まる。
「夏休みの課題、全教科合わせたら大変なことになりそうだね」
「ほんとそれ。なぁ、一緒にどっかでやったりしねぇ?」
「いいよ。一日のペースを決めて、それが終わったら遊んだりもしたい」
「それいい。今年こそ締切守って提出できる気しかしないわ」
「うん。今年から、毎年北野くんはちゃんと守れるようになると思うよ」
ふふ、と意味を込めて笑ってみせると、北野くんは目を細めてつられたように笑った。
二人で、せっかくの夏だから海とか、プール、花火なんかも観に行きたいなんて、いかにも夏らしい話題で盛り上がる。
……と、人気のない住宅街にさしかかったところで、俺はポケットに手を入れっぱなしの北野くんに気づいてほしくて、わざと左手をひらりと振ってみせた。それでも気づいてもらえなくて、少しだけ歩幅を狭め、さり気なく自分の手を北野くんの腕にコツンとぶつけてみる。
「……田浦」
「なに?」
「それ、手を繋いでほしいアピール?」
「ううん、『手が空いてますよアピール』だよ」
俺の精一杯の強がりに、北野くんが「同じだろ」と言いながら可笑しそうに笑った。
そのままそっと周囲を一度だけ確認すると、空いていた距離を体を寄せるようにぐっと縮めて、俺の指と自分の指を深く絡め合わせる。そのぴたりと吸い付くようなフィット感は、まるでパズルのピースがかちりとはまったみたいな感覚だ。
嬉しくて、くすぐったい気持ちが広がる。
「ちょっとこっち来て」
その甘ったるい声に、心の中でぎゅん、と物凄い勢いでレースカーが駆け抜けるような衝撃が走る。きゅん、とかドキッ、とかそんな可愛いレベルじゃない。――ぎゅんだ。
「北野くん、どこ行くの」
「……帰る前にキスしたいって思ってんの、俺だけ?」
手を繋いだまま、振り返りながらぼそっと問いかけられる。あまりにもストレートな言葉に、俺は「ううん」と返すのがやっとだった。ずんずんと足早に、いつもの家の前にある小さな公園へ向かう北野くんの背中は、なんだか待ちきれないように急いている。
今日のデート中も、正直何度か「あれ?」という瞬間はあった。
エスカレーターで俺が上から顔を覗き込んだ時とか、エレベーターの閉じられた密室とか。少し薄暗い水族館の熱帯魚の展示ゾーンでも、なんというかすごく……北野くんが、キスしたそうな顔をしていたから。全く同じ状況でも、映画を観に行った時とは全然違う。
したくなかったかと聞かれれば、答えはもちろんノーだ。俺だって、そういう北野くんの顔を見るたびに熱に浮かされたように頬が火照って、あの甘い香りや、すべてを閉じ込めるみたいに強く抱きしめられた腕の感触を思い出していたのだから。
「こっち、座って」
おそらく誰も通りはしないけれど、ここは思いっきり屋外だ。
公園のベンチに二人で浅く腰掛け、植え込みの陰に身を隠すように、少しずつ距離を詰めていく。お互いに腕を伸ばすと、俺は少し照れくささをごまかすように、北野くんの背中にそっと腕を回して密着した。
「……俺のこと好き?」
「う、うん。好き。大好きだよ」
「ちゃんと、名前呼んで。好きって言って」
意地悪く囁かれて、うう、と恥ずかしさで俺が唸ると、北野くんは鼻先を俺の髪に埋めるように寄せ、さら、と指先で髪を梳きながら、俺の言葉を待った。
「た、たっ……た……!」
「たーき。何で言えねぇの、たった二文字だろ」
「わ、分かるよ! 分かってるけど、急にそんな至近距離で言われると緊張する!」
かぁっと顔を真っ赤に染めながら「た」を連呼する俺。
さっきまでの、胸が高鳴るようなドラマチックな雰囲気が音を立てて崩れ去っていく。
素直に「瀧くん」と言いたい。出来れば、ありったけの好きという想いを込めて。でも、それがなかなかに恥ずかしいのだ。ロマンチックの欠片もない自分の不甲斐なさに、その場で頭を抱えたくなる。
けれど、恥ずかしさで俯く俺の顎を、瀧くんがそっと優しく持ち上げてくれた。
「……瀧くん。大好きだよ」
顔を真っ赤にしながら絞り出すように告げると、瀧くんは満足したように目尻を下げて、柔らかく息を漏らした。
「ん、俺も。謠のことが好きでたまんない」
名前を呼ばれた恥ずかしさと愛おしさが同時に押し寄せて、胸がいっぱいになる。
そんな俺を愛おしむように、瀧くんの顔がスッと近づいてきて――甘く柔らかく、すべてを溶かすようなキスが落とされる。
名残惜しそうに唇を離した瀧くんは、息を整えながら額を俺の額へ合わせてきた。
「……はぁ、本当に。謠といると時間がいくらあっても足りねぇな」
「うん。でも、夏休みは瀧くんといっぱい、ふたりでいろんな楽しいことしたいな」
もう一度、今度はごく自然にその名前を呼ぶと、瀧くんはたまらないと言ったように再び強く抱きしめて、俺の首筋に顔をうずめた。ひんやりとした夏の夜風が吹き抜けるのに、繋ぎ合わせた手や、ぴたりと重なり合う体温は、とろけるほど熱い。
「……ねえ、瀧くん」
「ん?」
「いつもの道じゃない帰り方で帰ってもいい?」
「なんでだよ」
「遠回りしたいから」
驚いたように瞬きをしたあと、瀧くんは優しく愛おしそうに笑って、さらに強く腕のなかに包み込んでくれた。
何度抱き寄せられてもやっぱり、大好きだと思う。
たまらなく幸せな温もりに身を委ねるように、俺はそっと目を閉じて、頬をすり寄せた。
(終)



