ド真面目天然学級委員のうたくんは、クーデレ問題児のベタ惚れに気付かない

 おとといから二日連続で、北野くんは学校を休んだ。そろそろ予鈴が鳴る頃だけれど、今日もまだ教室に姿を見せてはいない。放課後には、三科目の追試もあるというのに。

(どうしたんだろう……)

 胸の奥で真っ先に膨らんだのは純粋な心配だった。それなのに俺は、あの日の帰り際に「一人にしてほしい」と自分の口で言ってしまった手前、スマホの画面を開いても「どうしたの」「体調は大丈夫?」という言葉をトーク画面に打ち込むことがどうしてもためらわれた。本当に彼の体を心配しているなら、自分のちっぽけな意地や恥ずかしさなんて気にしている場合ではないはずなのに。
 もしメッセージを送っても既読すらつかなかったらどうしよう。あるいは、俺のあの時の態度や「ひとりにして」と強く言ったせいで、北野くんが学校へ来る気力を失ってしまったのだとしたら……。考えすぎかもしれないけれど、そう想像するだけで、怖くてたまらなかった。

(南田くんたちなら、何か知っているかもしれない。聞いてみようかな)

 朝のホームルームが終わってすぐ、俺はざわめく教室を縫うようにして三人の席へと向かった。けれど、こちらが声を掛けるより早く、俺の姿を見た三人は一様に気まずそうな「あ……」という表情を浮かべる。その顔を見ただけで胸の奥が冷たく凍りつき、聞きたくない答えが返ってくることをうっすらと予感した。

「あ、あのさ……。北野くんが急に休んでる理由って、みんな知ってたりしないかな」
「……んー、ごめん、うーちゃん。教えたいのは山々なんだけど、俺らもちょっと、何とも言えなくて」

 歯切れの悪い言葉で、やんわりと断られてしまう。
 三人が本当に何も知らないのだとしたらそれはそれで不安だし、逆に「知っているけれど言えない」のだとしたら、それは俺が彼らを口止めしている原因を作ってしまったということだ。
 もしも追試までに現れなかったら、駅前のゲームセンターや家に探しに行くべき……?
と、筆箱についたうーちゃんと睨めっこをしていると、一時間目の予鈴が鳴るのとほぼ同時に、息を切らした北野くんが教室へ滑り込んで来た。

「あっぶねぇー! ギリギリセーフ」

 ひくん、と喉が震えて、スクールバッグを担いだ北野くんと目が合う。

(来てくれた)

 心の中で冷たく張り詰めていた気持ちが、お湯でゆっくりと溶かされるような安堵が広がり、思わずほうっと胸をなでおろした。

「田浦、おはよ。虎の巻、こんだけやり込んで来たから。追試ぶちかましてくるわ」

 そう言って北野くんは、ずいと目の前にヨレヨレになった虎の巻を突きだして、俺が頑なに張っていた境界線を軽々と越えてきた。今までの彼なら、どんなにぶっきらぼうでも俺の顔やしぐさの一つひとつを見て、決して無理に踏み込んでくることなんてなかったのに。
 北野くんはもう何かを吹っ切ったような、力強い眼差しで俺を見つめて笑った。

 ***

 北野くんたち四人の追試は、別教室で三時前に始まって、もう五時を過ぎていた。
 待っていてほしいと言われたわけじゃない。けれど、きっとその場で採点されるだろうから、どうしてもすぐに結果を聞きたかった。誰もいない教室の自分の席で、そわそわと落ち着かない気持ちを抱えたまま待ち続ける。
 暇つぶし用に文庫本を持ってきていたけれど、ちっともページは進まない。集中することすらできず、机の下で足首を組みながら、意味もなく教室の掲示物を見たり、窓の向こうで夕暮れに染まり始める空を見つめたりして時間を潰す。

 北野くんに「ひとりにして」と言ってから、あのあと家に帰って、さんざん後悔した。
 俺のことを心配して追いかけてきてくれたのに、あんな冷たい態度はどう考えてもなかった。もう少し言い方ってものがあったはずだ。
 追試までの数日間、北野くんは朝の挨拶こそすれど、休み時間のほとんどを俺の作った虎の巻と一緒に過ごしていた。周りのクラスメイトに「ガリ勉かよ」とからかわれても、恥ずかしがる様子もなく「いやほんと、笑えねぇんだわ」と明るく返していて。
 あんなに机に向かうのが嫌いだった北野くんが、ここまで必死になれるのは――。
もしかして、あの時ファミレスで口走った「大事にしたい子」のせいなのだろうか。
 だとしたら、恋の力って本当にすごいのかもしれない。あんなにも授業中は全部が睡眠時間みたいに机で爆睡していた北野くんが、見違えるように真剣な顔で机に齧りついているのだから。そんな、北野くんの変化を見守りたい気持ちと、ぷすぷすと焦げるような嫉妬が頭の中で燻っている。

(北野くん。ちゃんと、頑張りが報われるといいな)

 カチコチと音を立てる時計の針にもう一度視線を送ると、廊下の奥から足音と賑やかな声が聞こえてきた。

「いやマジでヤバかった。あと一問でも間違ってたら、三十九点だったわ」
「とりあえずこれで、全員追試は合格だな。うーちゃんにも……」

 南田くんと東山くんの声だ。
 はっとして立ち上がり、慌てて教室のドアを開けようとした瞬間。

「うぉっ」

 勢いよく開けたドアと、まさに中に入ろうとしていた誰かの身体が思い切りぶつかった。おでこを抑えながら、そろりと相手の顔を見上げる。

「北野くん……?」
「そんな生き急ぐなって。てか、もしかしてずっと待ってた?」
「う、うんっ。お疲れ様、ってみんなに言いたかったのと――」

 北野くんはスクールバッグを肩にかけ、手に数枚のプリントを握りしめている。
 結果を尋ねるより先に、北野くんはどこか誇らしげに自分の手元にある紙を俺に向けて見せてくれた。

「ほら。俺にしては、割と頑張っただろ」

 見せられたのは、少し皺がついた三枚の答案用紙。
 そこには、四十二点、四十五点。そして、一番上に重なった一枚には――。

「五十点……?」
「おう。俺、わりと本気出したらやれる男だったっぽくて」

 赤点回避どころか、予想以上の高得点に嬉しさがこみ上げて、思わず笑みがこぼれた。

「すごい、すごいよ北野くん! 本当によかった……!」
「田浦の作った虎の巻のおかげだわ。あれがなかったらマジで一生赤点だったと思う」
「一生は大袈裟じゃない?」

 口元に手を添えて笑ってみせると、北野くんは急に黙り込んだ。
 少しだけ眉を寄せて、何かを堪えるような、照れくさそうな表情をしている。

「あ、北野。俺ら、バスの時間あるから先に帰るわ」
「あっ……、みんなお疲れ様」
「うーちゃん、マジでありがとな。四人全員、ギリ合格したから」

 ぺこぺことふざけた調子で頭を下げながら、南田くんたちが足早に廊下を去っていく。その背中に、北野くんが横目でなにか言いたげなアイコンタクトを送っていたけれど、俺にはよく分からない。
 わやわやと去っていく足音が遠ざかり、代わりにどこかの教室から楽器の音が響く。
 その音が風にのってすーっと消えると、ドアのレールを境界線にするみたいにして立つ、俺と北野くんの間に少しだけ長い沈黙が流れた。

「あ、あの……北野くん」
「うん」
「今日、このあとってちょっと話せたりとか、しますか」

 ようやく、ぽつ、ぽつと言葉になった。緊張で敬語になってしまったけれど、目の前でポケットに手を突っ込んで立っている北野くんも、同じくらい表情が強張っているのが分かる。

「話せる、てか……話そう。俺、ずっとお前と喋りたかったし」

 少しだけ掠れた声だった。北野くんは一度咳払いをすると、意を決したように境界線を越えて、俺の隣の席にすとんと腰を下ろす。
 数日、顔が見えなかっただけ。それより少し長く、ちゃんと喋れていなかっただけ。
それなのに、ものすごく長い時間だったように思える。
 初めて北野くんに声をかけた日は、まだ梅雨の最中だったのに。窓の外は、夕方でも夏の色をしていた。

「その……学校を休んだのって、お家の事情だった?」
「え? 違う。そういうんじゃない」

 俺の質問が意外だったのか、北野くんは薄茶色の瞳を瞬かせた。そのまま、ぱちりと目が合う。じゃあどうして、と問いかけるより先に、北野くんは制服のスラックスを膝上まで捲ってみせた。そこには、湿布の上から黒いゴム製のサポーターが巻かれている。

「なんか膝がいてぇなと思って病院行ったら、ちょい悪化してたというか。まぁ、ふらふら遊びまくったツケが回ってきた感じだな」
「本当に? それって、俺が無理を言ったからじゃ」

 というか、十中八九そうだ。しょも……と俯いて、どんな言葉を尽くせばこの気持ちが伝わるだろうかと、片方の手でもう片方の手を握りしめる。
 けれど北野くんは、ゆっくりと首を振ってから、俺の顔を覗き込んできた。

「俺が無理したのは、お前に格好つけたかったからだって言ったじゃん」
「覚えてるよ。でも」
「痛いのは、ちゃんと何かをやりきった証拠みたいに思えたから後悔してねぇ。それに、ここで田浦に落ち込まれたら、俺、マジで一つも格好いいところのない男になるだろ」
「……そんな」
「初対面で勝負ふっかけて、結局負けて。膝痛めて、勉強も――」
「お、俺は北野くんのことを、格好悪いなんて思ったこと、一度もないよ」

 北野くんは、その先の言葉を待つように、正面から俺の目を見つめている。
 胸のもやもやを晴らしたくて、今まで感じてきたことを伝えたい一心で。
俺は、正直な気持ちを言葉にした。

「初めて見た時は、苦手かもって思ったけど。クラスをまとめる力には敵わないって思ったし、俺が困ってる時は、いつだって助けてくれた。辛い経験を抱えながら学校にも戻ってきて、試験だって自分の力で乗り越えて。そういう姿をずっと見てきて、格好悪いなんて思うわけないよ」

 北野くんは一度、目を見開いた。それから、ふいっと視線を逸らして、片手で口元を覆う。指の隙間から見える頬が、赤く染まっていった。

「……お前さ、そういうのを真顔で言うの、ほんとやめろ」
「ご、ごめん。でも、本当のことだから」
「だから、それがタチ悪いんだって」

 そう言いながらも、北野くんの声は、怒っているようには聞こえなかった。むしろ、堪えきれないものを必死で押さえ込んでいるみたいに、少し震えている。
 学校を休んだ理由が分かって良かった。けれど俺には、まだ、きちんと謝らなければいけないことがある。

「それから、北野くん。ファミレスの時……いきなり帰るって言ったり、ひとりにしてほしいなんて、強い言い方をしてごめん」
「いや、あんなの全然『強い』のうちに入んねぇから」
「でも、俺のなかでは人に向けちゃいけないって思ったから」
「俺こそ、でかい声で呼んで怒鳴って、ビビらせて泣かせた。ごめん」
「……え?」

 どういうこと、という顔をした俺を見て、北野くんも「は?」と眉を寄せた。
 あの時の北野くんを怖いと思ったことなんて、一度もない。
 どうして、そんな話になっているんだろう。

「俺が泣いたのは、北野くんが怖かったからじゃないよ」
「ちょっ、タンマ。どういうこと? それ以外に泣くポイント、あった?」
「俺が泣いちゃったのは、その……北野くんのせいじゃなくて。俺が勝手に傷ついたから」
「……傷ついたって、何に」

 言葉を求めるように、北野くんは身体ごとこちらへ向き直った。
 その顔を見ているだけで、胸がひりひりと痛む。分かりたくないのに、分かってしまう。こんなふうに緊張するのも、悲しいのも、一緒にいられることが嬉しいのも、全部、理由は同じだって。

「……北野くんに、大切な人がいるって分かったから」

 口を開きかけて、北野くんは言葉を止めた。
 何を言われているのか分からない、という表情をしている。
 俺は、北野くんに勉強を教えた時よりもずっと丁寧に、心のなかで絡まった糸を一本ずつほどくように、想いの先を打ち明けた。

「友達として、じゃなくて。……北野くんの、ただ一人になりたいって、思ってる。だから、大事な人がいるって聞いて、苦しかった。選ばれなかったことより、相手の子を羨ましいと思ってしまう自分が、すごく嫌だったんだ」
「…………」
「びっくりさせてごめんね。ただ、やっぱり、正直に言っておきたくて」
「……いや、待て。待て待て待て。お前、それ……」
「え?」
「俺の『大事にしたい奴』ってのは、田浦。お前のことだよ!」

 叫ぶように言われて、今度は俺が固まる番だった。
 聞き間違いじゃないよな、と北野くんの目を見つめる。でも、やっぱり信じられない。

「…………え?」
「ファミレスで言ったの、全部お前のことだよ。『今の俺じゃ相手にしてもらえない』ってのも、お前。それを、なんで勝手に女だと思うんだよ!」
「だ、だって、北野くんの周りには、女子がたくさんいたから」
「いや、そうだけど。それはもう前の話っつーか……」

 綺麗で可愛い女子が選り取り見取り。そんな北野くんが、どうして、俺なんかを。
 しどろもどろになりながら、「それはもう清算して」とか「うわ、そういうことかよ……」と独り言を言っては頭を抱えている北野くんを、俺はただ見つめていた。
 やがて北野くんは、「はぁ」と大きく深呼吸をすると、大きく開いていた膝の上に肘をついて、少しだけ前屈みになった。それから、俺の片手を両手でそっと包み込む。
 その触れ方ひとつで、本当に大切に思ってくれているという気持ちが、切ない程伝わってくる。

「……俺、ずっと田浦のことが好きだった。俺の席が空いてるのは寂しい、って言ってくれたあの日から、田浦は俺の一番の理由になったんだよ」
「…………」
「え、おい。無視すんなって。聞こえてる?」
「き、聞こえてる。でも、信じられなくて、今、頭の中で確率を計算してて」
「やめろ、計算すんな!」

 止められても、頭は勝手に過去の軌跡を計算してしまう。
 俺は事故がなければ、第一志望の難関校にいたはずだった。そもそも同じ地域、同じ学年としてこの高校に揃ったこと自体が、もう何万分の一という途方もない奇跡だ。
その上で、全四クラスの中から同じ一年四組になる確率は四分の一。
 不登校だった北野くんに、クラスを代表してプリントを届ける役目が俺に回ってくる確率は、一クラス四十人として四十分の一。さらに、ゲーセンの対戦で、素人の俺が特訓を重ねて北野くんに勝つ確率を仮に二十分の一とする。
これらを単純に掛け合わせると、その確率はおよそ「三千二百分の1」――わずか〇・〇三パーセントの壁を潜り抜けたことになる。
けれど、これはまだ「出会って、同じ空間で言葉を交わす」ところまでの話にすぎない。
元々接点のなかった二人が、特別に思うところまで心が深まり、こうして想いが重なり合う可能性。その一つひとつの確率を掛け合わせたら、もう何分の一なんて表現できないほど、果てしないゼロの並ぶ奇跡的な数字になるはずだ。それなのに、その途方もない偶然のすべてが重なって。
 いま――北野くんが、俺の隣で、俺の片手を両手でそっと包み込んでいる。

「おーい、田浦。計算終わったか」
「……ごめん。計算しようとしたけど、桁が多すぎて、途中でやめた」
「だから、するなって言っただろ」
「でも、一つだけ分かったことがあるんだ」
「なに?」
「これは、確率の問題じゃない。奇跡って呼ぶほうが、たぶん正しい」

 言い終えてから、あまりにも柄にもない臭い台詞だったことに気づいて、顔が熱くなった。声が上ずっているのが自分でも分かる。けれど、北野くんはそんな俺を笑うことなく、むしろ愛おしそうに、握った手に一層力を込めてきた。

「俺は、お前がクソ真面目でムカつくくらい不器用で。でも、誰よりも一生懸命なところが好きだから。自分にないものを持ってるのも心の底から尊敬するし、どうやったらお前に釣りあえるかって……それがずっと、俺の中のコンプレックスというか、踏み込めない一番の要因だったんだよ」
「つ、釣り合ってないのは俺のほうだよ。見た目なんて『芋侍』だし、北野くんみたいな圧倒的なオーラもカリスマ性もない。俺こそ、北野くんの隣を歩いていていいのかって、ずっと不安で……」

 動揺のせいで声が上ずる。けれど、俺たちはこれまで胸の奥に閉じ込めていた想いを、逃げることなく、これ以上ないほど素直に言葉にしていく。

「じゃあ、俺ら。お互いに『自分なんか』って引け目を感じて、勝手に遠慮してたってこと?」
「……う、うん。なんか、すごく遠回りしてたの、かも」

 正直まだ信じられない。北野くんが俺のことを、そんなふうに思っていてくれたなんて。
 でも、目の前で見たこともないくらい耳まで真っ赤にして照れている顔や、離しがたい熱を帯びた手のひらの感触が、そのすべてが嘘偽りのない真実だと告げている。北野くんが俺を「大切」に思ってくれていることが、痛いほど伝わってきた。
 これって、両想いになったってことでいいんだろうか。
恋愛経験なんてろくにない俺は、この甘やかな答え合わせのあとに、どんな顔をして、どんな声を紡いだらいいのか分からない。心の中で「あわ……」と恥ずかしさでいっぱいになっていると、ぐ、と手に引っ張られるような力が加わった。
 北野くんの顔が近づいて来る。鼻先が触れそうなほどの距離になると、北野くんの体温と、柔らかい肌の匂いがふわりと広がった。

「田浦、こっち向いて」
「……え、と……」
「俺と付き合って。俺の一番大切な人になって欲しい」

 北野くんは、ずっと俺の瞳を見つめている。いつもなら、恥ずかしさのあまり一瞬で視線を逸らしていたはずなのに、今は不思議と、吸い込まれそうなほど真剣なその瞳から、目が離せなかった。そっと下唇を指先でなぞられて、肩に力が入る。

「お、俺も北野くんの特別になりたい」
「じゃあ、キス……してもいい?」

 言葉の代わりに、ほんの少しだけ、自分の意思を込めて頷く。
 それを合図にしたみたいに、北野くんは小さく息を呑んで、ゆっくり、ゆっくりと距離を詰めてきた。吐息が混ざり合うほどの近さ。長い睫毛が静かに伏せられて、そっと重ねられた唇は、驚くほど柔らかかった。
 ただ押し当てるだけの、幼くて、けれど互いの存在を確かめ合うような、愛おしいキス。
 胸の奥いっぱいの温かさに、俺は思わず北野くんのシャツの裾をぎゅっと握りしめた。

「……息、止めるなって。鼻でちゃんと呼吸して」

 唇が離れたあと、かちこちに固まって息を詰める俺に、北野くんがふ、と笑みをこぼす。
 だって、と心の中で言い訳をした。知識として知らないわけじゃない。けれど、まさかこんなに早く求められるとは思っていなかったし、今のは、その……人生で初めてのキスだったのだ。

(どうしよう。北野くんが格好よすぎて、心臓がもたない……)

 すん、と鼻から息を吸ってみたものの、どのタイミングで息をすればいいのかさえ分からない。硬直している俺に、北野くんは「ほんと、可愛いやつ」と小さく愛おしそうに呟いて、今度は少しだけ顔の角度を変えた。唇が重なって、やさしく包み込まれる。

「……ん、北野くん」
「なに?」
「……嬉しい。北野くんと同じ気持ちになれて」

 本当だったら、ここで飛び上がって走りだしたいほど嬉しい。
 俺のそんな絞り出すような一言に、北野くんはすごく意外そうな、驚いたような顔をした後、柔らかく微笑んだ。あ、この表情。本当にたまに、一瞬しか見せてくれない、気を許したときだけの笑顔。俺のいちばん好きな、北野くんの顔だ。
 そのまま北野くんはそっと、本当に大切なものを扱う手つきでそっと俺を抱きしめると、もう一度、唇に触れるだけの優しいキスをした。