「それじゃあ、中間の成績表を返却するぞー」
先生の気だるげな声に、教室のあちこちから「ええーっ」「マジかよ」と一斉にブーイングが起こった。
六月の半ばに終わったばかりの前期中間考査。各教科の答案用紙自体はすでに手元に戻ってきていたものの、全教科の得点と学年順位が記された正式な通知表が配られるのは、これが初めてだ。
「えー、わが一年四組には、なんと学年首席と学年ビリが同時に存在するという、大変珍しい考査結果でした。そして、驚くべきことにこのクラスのほぼ全員が、赤点で三者面談のリストに名を連ねています」
先生の容赦ない言葉に、クラスメイトがあちこちで頭を抱えている。そんな中、斜め後ろの席から、ひょいと顔を突き出すように声をかけられた。
「首席ってことは絶対、うーちゃんじゃん。すげえな」
「う、うん。どうもありがとう」
流石だな、と背中を軽く叩かれて、俺は素直に頭を下げた。ただ頷くのは感じが悪いし、そんなことないって、と謙遜するのもなんだか気恥ずかしくて、居心地が悪いからだ。
……まあ、そんな俺の些細な葛藤なんて誰も気付くわけもなく、話しかけてきた本人はもうすでに隣の席の男子と「親になんて言い訳する?」と盛り上がっている。
ちなみに、「うーちゃん」というのは、俺、田浦謠のあだ名だ。上から読んでも下から読んでも「たうらうた」。名前をそのままもじっただけじゃなくて、いま流行のゆるキャラ『ウサギのうーちゃん』の名前にも掛けている。クラスメイトが悪ノリで定着させた、というのが実際のところだ。
「まずは田浦から。学年首席、おめでとう」
先生は満面の笑みを浮かべ、俺に成績表を手渡した。周囲に見えないようそっと中身を開くと、並んでいるのは百点、百点、百点。実技科目はどれも九十五点だったけれど、主要五教科はすべて満点という結果だった。
「うーちゃん、学校が終わっても家で毎日三百ページくらい参考書読んでそうだよな」
「いや……確かに読書は好きだけど、平日はさすがに厳しいかな。一日の可処分時間から逆算しても、せいぜい五十ページが妥当な……」
「マジレスつらいって。頭良すぎて、マジで何言ってるのか一ミリもわかんねぇ」
「別に難しいことは言ってないよ。単純な時間配分の話で」
「あーっ! もう、頭痛くなるわ、やめてくれ!」
成績表の返却を巡ってあんなに大騒ぎしていたのも束の間、クラスメイトたちはすっかり諦め半分、開き直り半分で机に突っ伏して寝ているし、持ち込み禁止の雑誌を堂々と広げている人もいる。さらには、ティッシュを丸めて即席のボール代わりにし、前後の席で投げ合っている姿まで見える始末だ。
あまりにも自由すぎる――というか、前後左右どこを見渡しても、全方位に自由人しかいない。大きな声では言えないけれど、「名前さえ書けば誰でも入れるバカ男子校」として知られるこの高校を、ただ家から一番近いという安易な理由だけで選んでしまったことを、俺はこの二ヶ月の間に何度も後悔していた。
(話しかけられても、すぐに切り上げられるんだよな……真面目に答えてるだけなのに)
今まで誰にも言ったことはないけれど、そもそもこの高校に入学したのは、俺の中では決して望んだ未来なんかじゃなかった。
中学三年の冬、受験会場の下見に向かう帰り道。俺と両親を乗せた車が、後方から突っ込んできた乗用車に追突された。幸い全員軽傷で済んだけれど、一番追い込みが大事な時期に首の痛みが引かず、机に向かっても文字を追えない日々が続いた。
その結果、第一志望の難関校には惨敗し、入るつもりなんて毛頭なかった滑り止めのこの高校に入学するほかなかったのだ。かつて思い描いていた未来から遠く離れた場所で、はからずも俺は「天才」だの「超真面目」だのと持て囃されている。
「先生、ちなみに今回の最下位って、北野ですか?」
「あぁ、あいつはそもそもテストの日に欠席だからな。お前ら、誰か連絡取れてないのか」
「ラインはしてます。既読がつく時もあれば、つかない時もあるけど。学校は『ダルいから行く気しねぇ』って」
「そうか、参ったなぁ……このままだと、本当に留年もあり得るぞ」
帰りのホームルーム終了のチャイムが鳴り響き、挨拶もせず次々と教室の外へと飛び出していくクラスメイトたちの背中を眺めていると、先生がファイルに挟まれた大量のプリントの束を片手に俺の席までやってきた。
「すまん、田浦。ちょっと、お前しか頼めない仕事があってな」
「はい」
「この溜まった小テストや課題のプリントなんだが……北野の家に届けて貰えないか」
「えっ……俺が、ですか?」
申し訳なさそうに眉をハの字に下げる先生に、思わず素の驚きが混じった声を漏らしてしまった。普段なら、先生の頼みはできるだけ穏便に引き受けるようにしている。けれど、「わかりました」とすぐには頷けない理由があった。
先生は気まずそうに頭を掻きながら、話を続ける。
「北野の家には、学校からも何度も電話を入れているんだが、仕事が忙しいのか連絡がつかなくてな。自宅に行っても不在のことが多いし……」
「それで、プリントがこんなに溜まっちゃったんですね」
机にドンと置かれたプリントの束を俺が見下ろすと、先生は悩ましげに腕を組んで、天を仰いでみせた。ちょっと大げさな演技だな、と思いながらも「あはは……」と引きつった笑いを返す。
「学級委員長として、北野にこれを届けてやってほしいんだよ。それに、もしインターフォン越しでもいいから本人と話ができたら、『そろそろ学校に来てみない?』とかなんとか、優しい声をかけてやってほしいんだ」
普通のクラスメイトであれば、二つ返事で了承していたかもしれない。けれど、その相手が北野くんとなると、話はまったく別だった。
北野瀧。五月のゴールデンウィークが明けてから、一日も登校してきていないクラスメイトだ。四月の始業式の頃は、派手な髪色と着崩した制服がかなり周囲の目を引いていて、自己紹介の時には「中学の時はハンドボール部で、強豪校にいた」と話していたのを覚えている。それがいつの間にか欠席がちになり、気付けばもう一か月以上も学校に姿を見せていない。
初めて名簿で名前を見つけた時は、俺と同じ「回文の名前仲間だ」と一方的に親近感を抱いていたけれど、実物はあまりにも雰囲気が俺とは違いすぎたので、話しかけたことはない。
関わりの薄い、いわゆる「不登校かつ不良のクラスメイト」の家を訪ねるなんて。
正直、出来れば関わりたくないという気持ち以外の何物でもない。
「田浦は帝都大を目指してるだろう? それこそ、もしも北野が学校に来られるようになったら、『学級委員長としてクラスメイトに寄り添い、登校を支援した』っていう評価を、内申書に書いてあげられるかもしれない」
だから頼むよ、と軽い調子で肩を叩かれ、「帝都大」や「推薦」という言葉にめっぽう弱い俺は、こくりと頷いてしまった。打算的で不純すぎる動機だ。
けれど、第一志望の道が閉ざされ、この滑り止めのド底辺高校から這い上がるためには、使えるものは何でも使って難関大に近づく材料にしたい。
「でも、北野くんの家がどこにあるか分からないんですけど」
「それなら大丈夫だ。住所を書いておいたから」
頼む前から、きっと俺が行くことは先生の中で既に決定事項だったんだろう。
これって個人情報なのでは……と思いつつ、先生からメモを受け取る。重たいプリントの束を抱えて教室を出ようとすると、後ろで輪になっていた男子たちにひらりと手を挙げて声を掛けられた。
「うーちゃん、それ北野のプリント?」
「あ……うん。先生に頼まれて、これから家に届けに行こうと思って」
「うわ、マジで? あいつの家に行っても絶対留守だぜ。あんま期待しない方がいいって。めんどいなら、適当にポストに突っ込んでおけば?」
「えっ……北野くんって普段、どこで何してるの?」
「んー、知らねえけど、駅前のゲーセンとかによく入り浸ってんじゃね? ……あ、ちょうど噂をすれば。ほら見てみろよ」
入学して間もない頃、クラスでいつも北野くんとつるんでいた南田くんが、面白がるようにスマートフォンの画面をひょいと俺に見せてきた。通知のポップアップ画面、「Taki」の名前の横に並ぶ吹き出しには、「ゲーセン来たけど暇だわ」というメッセージが表示されている。
普段はゲームセンターなんて、足を踏み入れたことがない。けれど、突然他人の家を訪ねてインターフォンを押すプレッシャーに比べれば、駅前の一角でサクッと渡して一声かけるというミッションを終わらせるほうがずっと楽に思えた。
(本人に直接会って、「学校で会えるの、待ってるね」って伝えて、すぐに帰ればいいだけなら、わざわざ遠回りもしなくて済むし)
俺は南田くんに「教えてくれてありがとう」とお礼を告げ、足取りを速めて昇降口へと向かった。外に出ると、夕方の空はどこまでも鮮やかな茜色に染まっている。
(北野くんと話したことは無いけど、まぁ流石に……学級委員長としての顔くらいは覚えられてる、よな?)
あまり自信は無かったけれど、引き受けてしまった以上は行くしかない。重たいファイルを腕に抱え、運動部の外練習をぼんやりと眺めながら、俺は最寄りの駅前へと自転車を走らせた。
***
こんなに治安の悪い場所だなんて分かっていたら、ここへ来ることなんて選ばなかった。
高校進学と同じ悪夢を、まさか繰り返すことになるとは……。
店内のあちこちから鳴り響くゲームの電子音。薄暗い空間にはタバコの匂いが立ち込め、同世代の男女がそこかしこでたむろしている。それは、学校と自宅を真面目に往復するだけの俺にとって、あまりにも縁遠い非日常の風景だった。
(こんなところで、北野くんは毎日を過ごしてるのか。怖くないのかな……)
きょろきょろと辺りを見渡せば、プリントシール機のあたりでは女子高生たちが楽しそうにはしゃいでいるけれど、奥のアーケードゲームの島では、いかにも不良といった風体の男子たちが盛り上がっている。
一刻も早く北野くんを見つけなければと足を進めた時、店内のけたたましい電子音と有線のBGMに混じって、聞き覚えのある名前と気だるげな声が耳朶を打った。
「ねえ、瀧くん。このあと三階のカラオケ行こうよぉ」
「いいけど。俺が歌ってるの見たら惚れちゃうかも」
「きゃーっ、何それ~。顔が良すぎて否定できなーい」
「それ、絶対に他の女の子たちにも言ってるでしょう」
「うん。今なら日曜日と月曜日の『彼女枠』なら空いてるよ。どうする?」
会話の内容から察するに、どうやら北野くんが複数の女子に囲まれているらしい。
中学、高校と特定のコミュニティに属したこともなければ、業務連絡以外で女子と会話したことのない俺からすれば、そのやり取りはあまりにも眩しく、ひどく刺激的なものに聞こえた。楽しそうにキャッキャと笑い合う気配のほうへ、恐る恐る目を向ける。
「出た、瀧くんの日替わり彼女。どうしたら瀧くんの本命になれるの?」
「俺、彼女とか作るつもりないからなー」
「えーっ、これだけその気にさせておいて?」
「んー? リホちゃん、もうだいぶ俺のこと好きになっちゃってるじゃん」
そこには、学校を一か月以上もサボり続けているはずの北野くんが、派手な私服姿で女の子たちをはべらせ、中心でさも当然のようにチヤホヤされている姿があった。
ふと、北野くんは隣にいた女子の華奢な肩に片手を回すと、器用にその顎をくいっと指先で持ち上げてからかうように微笑む。突然の至近距離での色仕掛けに、女子は大きな目を瞬かせた後、真っ赤になって心を撃ち抜かれたかのように胸を押さえた。
どこか抗いがたい色気をまとった北野くんを呆然と見つめていたが、はっとして本来の目的を思い出す。俺はプリントを胸の前で抱え直して、ずいっと彼へ歩み寄った。
「あ、あの」
「…………誰?」
「田浦謠です。北野くんと同じクラスの」
「ごめん、マジで全然覚えてない。タウラ、ウタ……?」
「先生から、北野くんにこのプリントを渡して欲しいって頼まれて」
「いや、普通にいらない。その辺に捨てて帰っていいよ」
「で、でも」
要らないと言われても、「はいそうですか」と捨てることなんて出来ない。なんとか受け取ってもらおうとファイルを差し出すと、北野くんは黙り込んだまま、面倒くさそうに舌打ちした。
「瀧くん、可哀想だよ。わざわざ来てくれたんだし、受け取ってあげたら?」
「そうそう。初めておつかいに来た男の子って感じ~。緊張してるの?」
「瀧くんと同い年には見えないね。なんていうか……顔は可愛いけど、芋っぽい?」
これでも見た目は一応最低限の清潔感に気を配っているつもりなのだけれど、江戸時代の「芋侍」を連想させる文脈で容姿を揶揄されたのは人生で初めてだ。
きゃはは、と北野くんの肩を軽く叩きながら笑う女の子たちが「はー、面白……」とひとしきり笑い終えるのを黙って見届けると、まだ立ち去らないことを不愉快に思われたのか、今度は無言で「まだ何かあるの?」という冷めた視線を向けられてしまった。
なんでこんな目に……と思いつつも、もう一つの用件に取り掛かる。
「それから、北野くんに伝えたいことがあって」
「なに」
「もし、気が向いたらでいいんだけど。そろそろ教室に来てみない?」
「なにそれ。俺とちゃんと喋るの今日が初だろ、距離感バグってんじゃん」
「学校に来なくなってから、一か月以上経ってるから。クラスのみんなも心配してるし、ちょっと顔を見せに来るだけでも……」
「はは、絶対嫌だ。だるいし暑いし無理」
即答だった。まぁ、俺みたいなのがお願いしたところで、そりゃ素直に「わかった」なんて言うわけないよなと肩を落とす。けれど、北野くんは悪戯っぽくニヤリと笑いながら顔を覗き込んでくると、こう付け加えた。
「まあでも、どうしてもって言うなら……そこのゲームで俺に勝てたら、学校行ってあげてもいーよ」
北野くんが面白そうに親指で指して見せたのは、今まで一度も触ったことのない大きなゲームの筐体だった。画面の手前にある四つの大きなお椀型のボタンを叩く、いわゆる「音ゲー」というものらしい。もちろん、俺の人生においてそんなもので遊んだ経験は、一度もない。
「えっと……これは」
「譜面に合わせて、タイミングよくボタンを叩くだけ。簡単だろ?」
「……もしも俺が勝てたら、本当に学校に来てくれる?」
「うん。次の日からちゃんと学校行くって約束する」
どうする? と試すような笑みを浮かべた北野くんは、タンクトップの上にさらりと羽織っていたシャツの袖をまくり、ラフに身なりを整えた。
もし、ビギナーズラックで勝って教室に北野くんを連れ戻すことができれば、きっと先生も大喜びで学級委員長としての俺を褒めてくれるに違いない。内申書の材料にもなるし、帝都大への道だって近づく。願ったり叶ったりだ。
「分かった、やるよ」
「へー、大人しそうな顔して意外と強気じゃん。おもしろ」
「強気というか、これは確率と期待値の問題だから。初見だとしても、パターン自体は音楽理論の応用で説明がつくはずなんだ」
「……は?」
「譜面をソルフェージュ的に読み替えれば、ボタンを叩くタイミングは論理的に導き出せる。感覚じゃなくて、計算で勝てると思う」
「あー……なんか思い出したわ、確かに教室にこういうダルい奴が居た気がする。まぁ、計算で勝てると思うならやってみれば?」
ポケットから取り出した百円玉をそれぞれ投入し、画面の指示に従って対戦モードを選ぶ。北野くんが慣れた手つきで選んだアバターは、いかにもやり慣れていそうな黒い狼だった。それに対して、俺は画面の隅にいた、やわらかそうな白いうさぎを適当に選ぶ。
ゲームが始まると、アップテンポな曲とともに上から次々と降ってくる色とりどりの音符に、頭が真っ白になりそうだった。初めて触る四つのボタンは、画面を見ただけですぐに位置を見失ってしまう。
隣でプレイする北野くんは余裕のある表情を崩さないまま、まるで楽器を演奏するかのようにリズミカルで正確な音を打ち鳴らしていた。一瞬の迷いが命取りになり、俺の画面のライフゲージはみるみるうちに減っていく。
「あっ……」
必死にボタンを叩き続けたものの、曲の後半に差し掛かる前に、俺の画面は無情にも「GAME OVER」の文字を表示していた。少し遅れてクリアした北野くんが、やれやれといったふうに伸びをし、爽やかに笑ってこちらを振り返る。
「はい、お疲れ~。んじゃ、そろそろカラオケ行きますか」
「き、北野くん、待って」
「負けたんだから、さっさと帰れよ。真面目クンがこんなとこで制服のままうろついてると、変な奴にカモられるぞ」
食い下がる俺を振り返り、北野くんは制服のネクタイを片手でくんっと軽く引っ張った。「わっ」と間抜けな声を漏らす俺の顔を至近距離で覗き込んで、ふ、と挑発的な笑みをこぼす。
「俺にそんな簡単に勝てると思ってる時点で、ウブすぎて可愛いね」
「……でも、一回勝負とは言ってなかったよ」
「は?」
「今日のところは、いったん負けを認めて出直す。一週間あれば、スマホにリズム系のアプリを入れて、このゲーセンでも実技練習を重ねれば、ある程度の精度までは持っていけるはずだから」
「……いや、ガチで語り出すじゃん。なに急にスイッチ入れてんだよ」
「来週の金曜、もう一度ここに来る。その時俺が勝ったら、ちゃんと学校に来てほしい」
「お前、しつこくね? そんなに時間と金を無駄にしてまで、一体何がしたいわけ」
「北野くんに、どうしても学校に来て貰いたいから」
「だから言ってんじゃん。行きたくねーんだよ」
「もし、学校に来られない理由が……先生とか、周りの友達に言いにくい何かがあるなら、俺がいつでも相談に乗るよ!」
「はぁ? 別に、いじめられて不登校とか、そんなダサい理由じゃないから。勝手に同情して決めつけんなよ」
さっきまでの余裕はどこへ行ったのか、北野くんは眉をひそめると、苛立ちを滲ませた顔で俺のネクタイから乱暴に手を離した。
その両腕には、いつの間にかさっきの女の子たちがべったりと絡みついている。片方は北野くんの肩に頭を預けるようにしなだれかかり、もう片方の子は彼の腕に自分の腕を絡めたまま、不機嫌そうにこちらを見ていた。
「と、とにかく。金曜日にまたここへ来るので」
「俺に勝つなんて、絶対無理だと思うけど。どうしても学校に来させたいなら、せいぜい頑張ってな。真面目クン」
北野くんは一度も振り返ることなく、両脇に女の子たちを抱いた絵に描いたようなハーレムの真ん中で、からかうようにひらりと片手を振ってみせる。
階段を上がっていく彼の後ろ姿を見つめ、俺はずっしりと重たいプリントのファイルを抱えたまま、後ろ髪を引かれる思いでゲームセンターを後にした。
***
内申書のためなら、自分にできることなら、何だってする。
ゲームセンターでの大敗を喫してから、俺は北野くんを負かすべく、徹底的な対策を立てた。
まずは、アミューズメント会社が配信している公式アプリのダウンロード。授業の合間の休み時間や、わずかなスキマ時間を見つけては徹底的に指を動かす。家に帰ってからも、予習と宿題を終わらせたら就寝時間ギリギリまで、タイミングの取り方を体に叩き込んだ。勝つために必要な要素を一つずつ洗い出し、メモアプリにまとめては苦手を潰していく。日曜日以降は一人でゲームセンターに通い詰め、秘密の自主練を重ねた。
イメージトレーニングも大事だけれど、実際にボタンを叩くフィジカルの練習も同じくらい重要だ。要するに、これはいわば「受験勉強における過去問演習と模試の対策」のようなものである。
そして迎えた、木曜日の放課後。俺はついに練習の最終日を迎えていた。
「あれ? なんでうーちゃんがこんなところに居るんだよ」
「南田くんと……その他の愉快な仲間のみなさん。学校の外で会うのは初めてだね」
「おい待て、俺たちを雑なモブ扱いすんな!」
二回目のプレイを終えたところで、そんな威勢のいい声が背後から飛んできた。振り返れば、見覚えのある顔ぶれがずらりと並んでいる。派手な色付きのシャツにジャラジャラとアクセサリーを揺らした一団。たしか、四月の頃はこのメンバーの中心に北野くんがいたはずだ。
「実は先週、北野くんが『このゲームで俺に勝ったら、学校に来る』って約束してくれたんだ。だから今、必死に自主練を重ねているところ」
「約束ぅ?」
俺の返事に南田くんが呆れたように鼻を鳴らすと、すぐ隣で派手な金髪の男子(たしか、東山くん)がケラケラと笑った。
「それ絶対嘘だって。うーちゃん、お前完全にいいように丸め込まれてんぞ」
「そうそう! 北野は約束なんて秒で忘れるタイプだぜ。仮に勝ったところで、どっちみち学校になんか来るわけないっての」
「確かに、北野くんの見た目は派手だけれど……」
みんなは一様に、北野くんのことを「どうせ口だけだ」「まともに相手するだけ無駄だ」と言い切った。でも、あの日のわずかなやり取りだけで、北野くん自身をそういう人間だと中身まで決めつけてしまうのはどうなんだろう。北野くんが実際に約束を破る決定的な瞬間を見たことがあれば、「そっか」と納得できたかもしれない。
なにより、翌週の勝負を申し込まれた時の北野くんの瞳は、決してその場しのぎの適当を言っているようには見えなかった。
「俺はまだ、ちゃんと北野くんと話したことがないから。……だから、結果的に約束が反故にされたとしても、今は信じてみたいって思ってるんだ」
みんなの冷めた言葉を受け流し、気を取り直して三回目の自主練をしようと前を向き直った次の瞬間。どん、と強い衝撃とともに、ゲームの画面に手が叩きつけられた。
振り返れば、いつの間にか背後に立っていた北野くんが、長い腕で俺を囲い込むような体勢を作っている。
「なーに俺の噂話で盛り上がってんの、真面目クン」
「き、北野くん!」
オーバーサイズのデニムジャケットに、シンプルな白いTシャツ。繁華街を私服でうろついてここへ流れてきたのだろうか、と目の前の北野くんを頭の先からつま先まで観察した。そんな俺の視線に気づいて、北野くんは面白がるように端正な顔を近づけ、ふっと息を吐き出す。
「なに、そんなに穴の開くほど見て。もしかして俺の顔に見惚れてる?」
「いや、全く」
「否定するスピードえぐいな。じゃあ、何でそんなジロジロ見てくんだよ」
「やけに背伸びした服を着ているけれど、補導されないための対策なのかなって」
思った事をありのまま伝えると、ポカンとした北野くんの後ろで、南田くんたちが声にならない声をあげて、お腹を抱えて大爆笑しているのが見えた。ひっ、と息を漏らしながら、それ以上声を出さないようにプルプルと震えて必死に耐えている。
「マジでお前みたいなおもんない奴、初めてだわ」
「本当に? 北野くんみたいな交友関係の広そうな人にそう言って貰えるのは、ちょっと嬉しいかも。初めての人種ってことだよね?」
「おい、俺は一ミリも褒めてねぇぞ」
ふ、と微笑み返すと、「うーちゃん、めちゃくちゃ煽るじゃん」とみんながついにゲラゲラと笑い出した。何も、煽っているつもりなんてない。ただ、言われたことに思った事をそのまま返しているだけ……なのだけれど。
北野くんは小さく舌打ちをすると、ポケットから百円玉を取り出して俺の隣にあった機械に滑り込ませた。「え」と目を丸くする俺をよそに、淡々と対戦モードのボタンを押し、この間と同じオオカミのキャラクターを選んでいる。
「待って。約束は金曜日のはずじゃ――」
「別にいいだろ。こうして偶然エンカウントしたんだし、明日まで待たなくても」
「でも、俺は今日が仕上げ練習のつもりで」
「一日くらい勝負が早まったっていいだろ。どうせ勝つのは俺だし」
画面に現れた「対戦モードを受け入れますか?」の表示を見て、俺は仕方なく青色のボタンを押した。この前と同じ曲を選択すると、北野くんはちらりとこちらを一瞥し、すでに勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
ゲームが始まり、北野くんはどこか面倒くさそうな仕草をしながらも、流れるようにリズミカルにボタンをさばき始めた。勝算は低いけれど、練習を始めた頃は画面の端に表示される点差が一万を超えていたのに、今日は千五百まで縮まっている。
(これでもし俺が負けたら、北野くんは本当に学校に来るチャンスを失うかも)
そんな考えが頭を過った瞬間、俺は勝敗が決まる前に、どうしても伝えなければならない「ある大切な気付き」があることに思い至った。
「北野くん、あのね」
「なんだよ、話しかけんな」
「この一週間、教室を見ていて思ったことがあるんだけど」
「……プレイ中にそんな雑談する余裕あんの?」
画面から目を離さず、俺は淡々と言葉を続けた。
きちんと顔を合わせて話すのはこれがまだ二度目だというのに。北野くんを学校に来させなければと奔走するうち、ずっと空席のままの教室の風景に対して、俺は次第に強い違和感を覚えるようになっていたのだ。
「今までは北野くんの席が空いていても、ただ空席があるだけで何も思わなかったんだけど。そこに、北野くんがいつか戻ってきて座るのを、自然と想像するようになってさ」
「ふーん、そんで?」
気だるげに返す低い声には、わずかにトゲが混じっている。
それでも俺は構わず、気持ちを伝えたい一心で言葉を紡いだ。
「そこがずっと空いたままなのは……やっぱり、少し寂しいなって思ったんだ」
曲のサビに向かってサウンドが一際盛り上がるのに合わせて、せわしなく指を動かす。ここからはサビ直前の高速連打。普段の北野くんなら、取りこぼすはずのない箇所だ。
しかし、隣から聞こえてくるはずの軽快なタップ音がぴたりと止まった。
不審に思ってチラリと横に視線を向けると、北野くんはボタンの上に手を置いたまま硬直し、耳まで真っ赤に染め上げて俺を凝視している。その間に、画面のスコアは北野くんを一気に追い越していた。
「……北野くん、どうかしたの?」
画面上では叩くべき音符のマークがどんどん落下していき、いくつもの「MISS」が点滅している。いったい何事かと首を傾げる俺の目の前で、北野くんの画面には「GAME OVER」の文字がどんと大きく浮かび上がった。
「あっ、俺の勝ち」
「えっ? あっ、うわ、マジかよ」
「良い勝負だったね、北野くん」
「ずるいだろ、あんなタイミングで、真顔であんなこと言ってくるとか!」
「男に二言は無しだよ。アプリ版での通算プレイ回数百三十五回、睡眠時間を削って培った筋肉の記憶が、きっと今回の勝因なのかも」
「調子こいてんじゃねえよ。今のは無し、絶対になし!」
くるりと背中を向けて逃げ出そうとする北野くんを逃がすまいと、俺はすかさずそのジャケットの裾を勢いよく掴んだ。
「おい、離せコラ。慣れ慣れしく触ってんじゃねーよ」
「待って。ちゃんと俺が勝ったんだから、約束は守ってくれるよね?」
「…………」
「明日、教室で待ってる」
目を見つめてはっきり言い切ると、北野くんは突如として、陸に上がった鯉のように口をぱくぱくと動かした。そして、棒読みの声音で「無理」「クソ」「バカじゃねーの」と、小学校低学年並みの悪口を三連続で俺に向かってぶつけてくる。
……もしかすると、まさかの敗北と恥ずかしさが同時に押し寄せて、キャパシティがオーバーしてしまったのかもしれない。
スポーツマンシップにのっとって(というのも変だけど)、最後は円満に握手で終わろうと手を伸ばしたが、「最悪」と低く呟かれてあっさり手を弾かれてしまった。
北野くんは勢いよくこちらを振り返りかけたものの、ハッとしたように慌てて再び前を向き直る。かと思えば、その場で数歩バタバタと足踏みをし、明らかに挙動不審な動きを始めた。
一体どうしたのだろうと、俺は首を傾げながら、最後には恥ずかしさを懸命に誤魔化すように早足でゲームセンターから去っていく北野くんの背中を見送った。
先生の気だるげな声に、教室のあちこちから「ええーっ」「マジかよ」と一斉にブーイングが起こった。
六月の半ばに終わったばかりの前期中間考査。各教科の答案用紙自体はすでに手元に戻ってきていたものの、全教科の得点と学年順位が記された正式な通知表が配られるのは、これが初めてだ。
「えー、わが一年四組には、なんと学年首席と学年ビリが同時に存在するという、大変珍しい考査結果でした。そして、驚くべきことにこのクラスのほぼ全員が、赤点で三者面談のリストに名を連ねています」
先生の容赦ない言葉に、クラスメイトがあちこちで頭を抱えている。そんな中、斜め後ろの席から、ひょいと顔を突き出すように声をかけられた。
「首席ってことは絶対、うーちゃんじゃん。すげえな」
「う、うん。どうもありがとう」
流石だな、と背中を軽く叩かれて、俺は素直に頭を下げた。ただ頷くのは感じが悪いし、そんなことないって、と謙遜するのもなんだか気恥ずかしくて、居心地が悪いからだ。
……まあ、そんな俺の些細な葛藤なんて誰も気付くわけもなく、話しかけてきた本人はもうすでに隣の席の男子と「親になんて言い訳する?」と盛り上がっている。
ちなみに、「うーちゃん」というのは、俺、田浦謠のあだ名だ。上から読んでも下から読んでも「たうらうた」。名前をそのままもじっただけじゃなくて、いま流行のゆるキャラ『ウサギのうーちゃん』の名前にも掛けている。クラスメイトが悪ノリで定着させた、というのが実際のところだ。
「まずは田浦から。学年首席、おめでとう」
先生は満面の笑みを浮かべ、俺に成績表を手渡した。周囲に見えないようそっと中身を開くと、並んでいるのは百点、百点、百点。実技科目はどれも九十五点だったけれど、主要五教科はすべて満点という結果だった。
「うーちゃん、学校が終わっても家で毎日三百ページくらい参考書読んでそうだよな」
「いや……確かに読書は好きだけど、平日はさすがに厳しいかな。一日の可処分時間から逆算しても、せいぜい五十ページが妥当な……」
「マジレスつらいって。頭良すぎて、マジで何言ってるのか一ミリもわかんねぇ」
「別に難しいことは言ってないよ。単純な時間配分の話で」
「あーっ! もう、頭痛くなるわ、やめてくれ!」
成績表の返却を巡ってあんなに大騒ぎしていたのも束の間、クラスメイトたちはすっかり諦め半分、開き直り半分で机に突っ伏して寝ているし、持ち込み禁止の雑誌を堂々と広げている人もいる。さらには、ティッシュを丸めて即席のボール代わりにし、前後の席で投げ合っている姿まで見える始末だ。
あまりにも自由すぎる――というか、前後左右どこを見渡しても、全方位に自由人しかいない。大きな声では言えないけれど、「名前さえ書けば誰でも入れるバカ男子校」として知られるこの高校を、ただ家から一番近いという安易な理由だけで選んでしまったことを、俺はこの二ヶ月の間に何度も後悔していた。
(話しかけられても、すぐに切り上げられるんだよな……真面目に答えてるだけなのに)
今まで誰にも言ったことはないけれど、そもそもこの高校に入学したのは、俺の中では決して望んだ未来なんかじゃなかった。
中学三年の冬、受験会場の下見に向かう帰り道。俺と両親を乗せた車が、後方から突っ込んできた乗用車に追突された。幸い全員軽傷で済んだけれど、一番追い込みが大事な時期に首の痛みが引かず、机に向かっても文字を追えない日々が続いた。
その結果、第一志望の難関校には惨敗し、入るつもりなんて毛頭なかった滑り止めのこの高校に入学するほかなかったのだ。かつて思い描いていた未来から遠く離れた場所で、はからずも俺は「天才」だの「超真面目」だのと持て囃されている。
「先生、ちなみに今回の最下位って、北野ですか?」
「あぁ、あいつはそもそもテストの日に欠席だからな。お前ら、誰か連絡取れてないのか」
「ラインはしてます。既読がつく時もあれば、つかない時もあるけど。学校は『ダルいから行く気しねぇ』って」
「そうか、参ったなぁ……このままだと、本当に留年もあり得るぞ」
帰りのホームルーム終了のチャイムが鳴り響き、挨拶もせず次々と教室の外へと飛び出していくクラスメイトたちの背中を眺めていると、先生がファイルに挟まれた大量のプリントの束を片手に俺の席までやってきた。
「すまん、田浦。ちょっと、お前しか頼めない仕事があってな」
「はい」
「この溜まった小テストや課題のプリントなんだが……北野の家に届けて貰えないか」
「えっ……俺が、ですか?」
申し訳なさそうに眉をハの字に下げる先生に、思わず素の驚きが混じった声を漏らしてしまった。普段なら、先生の頼みはできるだけ穏便に引き受けるようにしている。けれど、「わかりました」とすぐには頷けない理由があった。
先生は気まずそうに頭を掻きながら、話を続ける。
「北野の家には、学校からも何度も電話を入れているんだが、仕事が忙しいのか連絡がつかなくてな。自宅に行っても不在のことが多いし……」
「それで、プリントがこんなに溜まっちゃったんですね」
机にドンと置かれたプリントの束を俺が見下ろすと、先生は悩ましげに腕を組んで、天を仰いでみせた。ちょっと大げさな演技だな、と思いながらも「あはは……」と引きつった笑いを返す。
「学級委員長として、北野にこれを届けてやってほしいんだよ。それに、もしインターフォン越しでもいいから本人と話ができたら、『そろそろ学校に来てみない?』とかなんとか、優しい声をかけてやってほしいんだ」
普通のクラスメイトであれば、二つ返事で了承していたかもしれない。けれど、その相手が北野くんとなると、話はまったく別だった。
北野瀧。五月のゴールデンウィークが明けてから、一日も登校してきていないクラスメイトだ。四月の始業式の頃は、派手な髪色と着崩した制服がかなり周囲の目を引いていて、自己紹介の時には「中学の時はハンドボール部で、強豪校にいた」と話していたのを覚えている。それがいつの間にか欠席がちになり、気付けばもう一か月以上も学校に姿を見せていない。
初めて名簿で名前を見つけた時は、俺と同じ「回文の名前仲間だ」と一方的に親近感を抱いていたけれど、実物はあまりにも雰囲気が俺とは違いすぎたので、話しかけたことはない。
関わりの薄い、いわゆる「不登校かつ不良のクラスメイト」の家を訪ねるなんて。
正直、出来れば関わりたくないという気持ち以外の何物でもない。
「田浦は帝都大を目指してるだろう? それこそ、もしも北野が学校に来られるようになったら、『学級委員長としてクラスメイトに寄り添い、登校を支援した』っていう評価を、内申書に書いてあげられるかもしれない」
だから頼むよ、と軽い調子で肩を叩かれ、「帝都大」や「推薦」という言葉にめっぽう弱い俺は、こくりと頷いてしまった。打算的で不純すぎる動機だ。
けれど、第一志望の道が閉ざされ、この滑り止めのド底辺高校から這い上がるためには、使えるものは何でも使って難関大に近づく材料にしたい。
「でも、北野くんの家がどこにあるか分からないんですけど」
「それなら大丈夫だ。住所を書いておいたから」
頼む前から、きっと俺が行くことは先生の中で既に決定事項だったんだろう。
これって個人情報なのでは……と思いつつ、先生からメモを受け取る。重たいプリントの束を抱えて教室を出ようとすると、後ろで輪になっていた男子たちにひらりと手を挙げて声を掛けられた。
「うーちゃん、それ北野のプリント?」
「あ……うん。先生に頼まれて、これから家に届けに行こうと思って」
「うわ、マジで? あいつの家に行っても絶対留守だぜ。あんま期待しない方がいいって。めんどいなら、適当にポストに突っ込んでおけば?」
「えっ……北野くんって普段、どこで何してるの?」
「んー、知らねえけど、駅前のゲーセンとかによく入り浸ってんじゃね? ……あ、ちょうど噂をすれば。ほら見てみろよ」
入学して間もない頃、クラスでいつも北野くんとつるんでいた南田くんが、面白がるようにスマートフォンの画面をひょいと俺に見せてきた。通知のポップアップ画面、「Taki」の名前の横に並ぶ吹き出しには、「ゲーセン来たけど暇だわ」というメッセージが表示されている。
普段はゲームセンターなんて、足を踏み入れたことがない。けれど、突然他人の家を訪ねてインターフォンを押すプレッシャーに比べれば、駅前の一角でサクッと渡して一声かけるというミッションを終わらせるほうがずっと楽に思えた。
(本人に直接会って、「学校で会えるの、待ってるね」って伝えて、すぐに帰ればいいだけなら、わざわざ遠回りもしなくて済むし)
俺は南田くんに「教えてくれてありがとう」とお礼を告げ、足取りを速めて昇降口へと向かった。外に出ると、夕方の空はどこまでも鮮やかな茜色に染まっている。
(北野くんと話したことは無いけど、まぁ流石に……学級委員長としての顔くらいは覚えられてる、よな?)
あまり自信は無かったけれど、引き受けてしまった以上は行くしかない。重たいファイルを腕に抱え、運動部の外練習をぼんやりと眺めながら、俺は最寄りの駅前へと自転車を走らせた。
***
こんなに治安の悪い場所だなんて分かっていたら、ここへ来ることなんて選ばなかった。
高校進学と同じ悪夢を、まさか繰り返すことになるとは……。
店内のあちこちから鳴り響くゲームの電子音。薄暗い空間にはタバコの匂いが立ち込め、同世代の男女がそこかしこでたむろしている。それは、学校と自宅を真面目に往復するだけの俺にとって、あまりにも縁遠い非日常の風景だった。
(こんなところで、北野くんは毎日を過ごしてるのか。怖くないのかな……)
きょろきょろと辺りを見渡せば、プリントシール機のあたりでは女子高生たちが楽しそうにはしゃいでいるけれど、奥のアーケードゲームの島では、いかにも不良といった風体の男子たちが盛り上がっている。
一刻も早く北野くんを見つけなければと足を進めた時、店内のけたたましい電子音と有線のBGMに混じって、聞き覚えのある名前と気だるげな声が耳朶を打った。
「ねえ、瀧くん。このあと三階のカラオケ行こうよぉ」
「いいけど。俺が歌ってるの見たら惚れちゃうかも」
「きゃーっ、何それ~。顔が良すぎて否定できなーい」
「それ、絶対に他の女の子たちにも言ってるでしょう」
「うん。今なら日曜日と月曜日の『彼女枠』なら空いてるよ。どうする?」
会話の内容から察するに、どうやら北野くんが複数の女子に囲まれているらしい。
中学、高校と特定のコミュニティに属したこともなければ、業務連絡以外で女子と会話したことのない俺からすれば、そのやり取りはあまりにも眩しく、ひどく刺激的なものに聞こえた。楽しそうにキャッキャと笑い合う気配のほうへ、恐る恐る目を向ける。
「出た、瀧くんの日替わり彼女。どうしたら瀧くんの本命になれるの?」
「俺、彼女とか作るつもりないからなー」
「えーっ、これだけその気にさせておいて?」
「んー? リホちゃん、もうだいぶ俺のこと好きになっちゃってるじゃん」
そこには、学校を一か月以上もサボり続けているはずの北野くんが、派手な私服姿で女の子たちをはべらせ、中心でさも当然のようにチヤホヤされている姿があった。
ふと、北野くんは隣にいた女子の華奢な肩に片手を回すと、器用にその顎をくいっと指先で持ち上げてからかうように微笑む。突然の至近距離での色仕掛けに、女子は大きな目を瞬かせた後、真っ赤になって心を撃ち抜かれたかのように胸を押さえた。
どこか抗いがたい色気をまとった北野くんを呆然と見つめていたが、はっとして本来の目的を思い出す。俺はプリントを胸の前で抱え直して、ずいっと彼へ歩み寄った。
「あ、あの」
「…………誰?」
「田浦謠です。北野くんと同じクラスの」
「ごめん、マジで全然覚えてない。タウラ、ウタ……?」
「先生から、北野くんにこのプリントを渡して欲しいって頼まれて」
「いや、普通にいらない。その辺に捨てて帰っていいよ」
「で、でも」
要らないと言われても、「はいそうですか」と捨てることなんて出来ない。なんとか受け取ってもらおうとファイルを差し出すと、北野くんは黙り込んだまま、面倒くさそうに舌打ちした。
「瀧くん、可哀想だよ。わざわざ来てくれたんだし、受け取ってあげたら?」
「そうそう。初めておつかいに来た男の子って感じ~。緊張してるの?」
「瀧くんと同い年には見えないね。なんていうか……顔は可愛いけど、芋っぽい?」
これでも見た目は一応最低限の清潔感に気を配っているつもりなのだけれど、江戸時代の「芋侍」を連想させる文脈で容姿を揶揄されたのは人生で初めてだ。
きゃはは、と北野くんの肩を軽く叩きながら笑う女の子たちが「はー、面白……」とひとしきり笑い終えるのを黙って見届けると、まだ立ち去らないことを不愉快に思われたのか、今度は無言で「まだ何かあるの?」という冷めた視線を向けられてしまった。
なんでこんな目に……と思いつつも、もう一つの用件に取り掛かる。
「それから、北野くんに伝えたいことがあって」
「なに」
「もし、気が向いたらでいいんだけど。そろそろ教室に来てみない?」
「なにそれ。俺とちゃんと喋るの今日が初だろ、距離感バグってんじゃん」
「学校に来なくなってから、一か月以上経ってるから。クラスのみんなも心配してるし、ちょっと顔を見せに来るだけでも……」
「はは、絶対嫌だ。だるいし暑いし無理」
即答だった。まぁ、俺みたいなのがお願いしたところで、そりゃ素直に「わかった」なんて言うわけないよなと肩を落とす。けれど、北野くんは悪戯っぽくニヤリと笑いながら顔を覗き込んでくると、こう付け加えた。
「まあでも、どうしてもって言うなら……そこのゲームで俺に勝てたら、学校行ってあげてもいーよ」
北野くんが面白そうに親指で指して見せたのは、今まで一度も触ったことのない大きなゲームの筐体だった。画面の手前にある四つの大きなお椀型のボタンを叩く、いわゆる「音ゲー」というものらしい。もちろん、俺の人生においてそんなもので遊んだ経験は、一度もない。
「えっと……これは」
「譜面に合わせて、タイミングよくボタンを叩くだけ。簡単だろ?」
「……もしも俺が勝てたら、本当に学校に来てくれる?」
「うん。次の日からちゃんと学校行くって約束する」
どうする? と試すような笑みを浮かべた北野くんは、タンクトップの上にさらりと羽織っていたシャツの袖をまくり、ラフに身なりを整えた。
もし、ビギナーズラックで勝って教室に北野くんを連れ戻すことができれば、きっと先生も大喜びで学級委員長としての俺を褒めてくれるに違いない。内申書の材料にもなるし、帝都大への道だって近づく。願ったり叶ったりだ。
「分かった、やるよ」
「へー、大人しそうな顔して意外と強気じゃん。おもしろ」
「強気というか、これは確率と期待値の問題だから。初見だとしても、パターン自体は音楽理論の応用で説明がつくはずなんだ」
「……は?」
「譜面をソルフェージュ的に読み替えれば、ボタンを叩くタイミングは論理的に導き出せる。感覚じゃなくて、計算で勝てると思う」
「あー……なんか思い出したわ、確かに教室にこういうダルい奴が居た気がする。まぁ、計算で勝てると思うならやってみれば?」
ポケットから取り出した百円玉をそれぞれ投入し、画面の指示に従って対戦モードを選ぶ。北野くんが慣れた手つきで選んだアバターは、いかにもやり慣れていそうな黒い狼だった。それに対して、俺は画面の隅にいた、やわらかそうな白いうさぎを適当に選ぶ。
ゲームが始まると、アップテンポな曲とともに上から次々と降ってくる色とりどりの音符に、頭が真っ白になりそうだった。初めて触る四つのボタンは、画面を見ただけですぐに位置を見失ってしまう。
隣でプレイする北野くんは余裕のある表情を崩さないまま、まるで楽器を演奏するかのようにリズミカルで正確な音を打ち鳴らしていた。一瞬の迷いが命取りになり、俺の画面のライフゲージはみるみるうちに減っていく。
「あっ……」
必死にボタンを叩き続けたものの、曲の後半に差し掛かる前に、俺の画面は無情にも「GAME OVER」の文字を表示していた。少し遅れてクリアした北野くんが、やれやれといったふうに伸びをし、爽やかに笑ってこちらを振り返る。
「はい、お疲れ~。んじゃ、そろそろカラオケ行きますか」
「き、北野くん、待って」
「負けたんだから、さっさと帰れよ。真面目クンがこんなとこで制服のままうろついてると、変な奴にカモられるぞ」
食い下がる俺を振り返り、北野くんは制服のネクタイを片手でくんっと軽く引っ張った。「わっ」と間抜けな声を漏らす俺の顔を至近距離で覗き込んで、ふ、と挑発的な笑みをこぼす。
「俺にそんな簡単に勝てると思ってる時点で、ウブすぎて可愛いね」
「……でも、一回勝負とは言ってなかったよ」
「は?」
「今日のところは、いったん負けを認めて出直す。一週間あれば、スマホにリズム系のアプリを入れて、このゲーセンでも実技練習を重ねれば、ある程度の精度までは持っていけるはずだから」
「……いや、ガチで語り出すじゃん。なに急にスイッチ入れてんだよ」
「来週の金曜、もう一度ここに来る。その時俺が勝ったら、ちゃんと学校に来てほしい」
「お前、しつこくね? そんなに時間と金を無駄にしてまで、一体何がしたいわけ」
「北野くんに、どうしても学校に来て貰いたいから」
「だから言ってんじゃん。行きたくねーんだよ」
「もし、学校に来られない理由が……先生とか、周りの友達に言いにくい何かがあるなら、俺がいつでも相談に乗るよ!」
「はぁ? 別に、いじめられて不登校とか、そんなダサい理由じゃないから。勝手に同情して決めつけんなよ」
さっきまでの余裕はどこへ行ったのか、北野くんは眉をひそめると、苛立ちを滲ませた顔で俺のネクタイから乱暴に手を離した。
その両腕には、いつの間にかさっきの女の子たちがべったりと絡みついている。片方は北野くんの肩に頭を預けるようにしなだれかかり、もう片方の子は彼の腕に自分の腕を絡めたまま、不機嫌そうにこちらを見ていた。
「と、とにかく。金曜日にまたここへ来るので」
「俺に勝つなんて、絶対無理だと思うけど。どうしても学校に来させたいなら、せいぜい頑張ってな。真面目クン」
北野くんは一度も振り返ることなく、両脇に女の子たちを抱いた絵に描いたようなハーレムの真ん中で、からかうようにひらりと片手を振ってみせる。
階段を上がっていく彼の後ろ姿を見つめ、俺はずっしりと重たいプリントのファイルを抱えたまま、後ろ髪を引かれる思いでゲームセンターを後にした。
***
内申書のためなら、自分にできることなら、何だってする。
ゲームセンターでの大敗を喫してから、俺は北野くんを負かすべく、徹底的な対策を立てた。
まずは、アミューズメント会社が配信している公式アプリのダウンロード。授業の合間の休み時間や、わずかなスキマ時間を見つけては徹底的に指を動かす。家に帰ってからも、予習と宿題を終わらせたら就寝時間ギリギリまで、タイミングの取り方を体に叩き込んだ。勝つために必要な要素を一つずつ洗い出し、メモアプリにまとめては苦手を潰していく。日曜日以降は一人でゲームセンターに通い詰め、秘密の自主練を重ねた。
イメージトレーニングも大事だけれど、実際にボタンを叩くフィジカルの練習も同じくらい重要だ。要するに、これはいわば「受験勉強における過去問演習と模試の対策」のようなものである。
そして迎えた、木曜日の放課後。俺はついに練習の最終日を迎えていた。
「あれ? なんでうーちゃんがこんなところに居るんだよ」
「南田くんと……その他の愉快な仲間のみなさん。学校の外で会うのは初めてだね」
「おい待て、俺たちを雑なモブ扱いすんな!」
二回目のプレイを終えたところで、そんな威勢のいい声が背後から飛んできた。振り返れば、見覚えのある顔ぶれがずらりと並んでいる。派手な色付きのシャツにジャラジャラとアクセサリーを揺らした一団。たしか、四月の頃はこのメンバーの中心に北野くんがいたはずだ。
「実は先週、北野くんが『このゲームで俺に勝ったら、学校に来る』って約束してくれたんだ。だから今、必死に自主練を重ねているところ」
「約束ぅ?」
俺の返事に南田くんが呆れたように鼻を鳴らすと、すぐ隣で派手な金髪の男子(たしか、東山くん)がケラケラと笑った。
「それ絶対嘘だって。うーちゃん、お前完全にいいように丸め込まれてんぞ」
「そうそう! 北野は約束なんて秒で忘れるタイプだぜ。仮に勝ったところで、どっちみち学校になんか来るわけないっての」
「確かに、北野くんの見た目は派手だけれど……」
みんなは一様に、北野くんのことを「どうせ口だけだ」「まともに相手するだけ無駄だ」と言い切った。でも、あの日のわずかなやり取りだけで、北野くん自身をそういう人間だと中身まで決めつけてしまうのはどうなんだろう。北野くんが実際に約束を破る決定的な瞬間を見たことがあれば、「そっか」と納得できたかもしれない。
なにより、翌週の勝負を申し込まれた時の北野くんの瞳は、決してその場しのぎの適当を言っているようには見えなかった。
「俺はまだ、ちゃんと北野くんと話したことがないから。……だから、結果的に約束が反故にされたとしても、今は信じてみたいって思ってるんだ」
みんなの冷めた言葉を受け流し、気を取り直して三回目の自主練をしようと前を向き直った次の瞬間。どん、と強い衝撃とともに、ゲームの画面に手が叩きつけられた。
振り返れば、いつの間にか背後に立っていた北野くんが、長い腕で俺を囲い込むような体勢を作っている。
「なーに俺の噂話で盛り上がってんの、真面目クン」
「き、北野くん!」
オーバーサイズのデニムジャケットに、シンプルな白いTシャツ。繁華街を私服でうろついてここへ流れてきたのだろうか、と目の前の北野くんを頭の先からつま先まで観察した。そんな俺の視線に気づいて、北野くんは面白がるように端正な顔を近づけ、ふっと息を吐き出す。
「なに、そんなに穴の開くほど見て。もしかして俺の顔に見惚れてる?」
「いや、全く」
「否定するスピードえぐいな。じゃあ、何でそんなジロジロ見てくんだよ」
「やけに背伸びした服を着ているけれど、補導されないための対策なのかなって」
思った事をありのまま伝えると、ポカンとした北野くんの後ろで、南田くんたちが声にならない声をあげて、お腹を抱えて大爆笑しているのが見えた。ひっ、と息を漏らしながら、それ以上声を出さないようにプルプルと震えて必死に耐えている。
「マジでお前みたいなおもんない奴、初めてだわ」
「本当に? 北野くんみたいな交友関係の広そうな人にそう言って貰えるのは、ちょっと嬉しいかも。初めての人種ってことだよね?」
「おい、俺は一ミリも褒めてねぇぞ」
ふ、と微笑み返すと、「うーちゃん、めちゃくちゃ煽るじゃん」とみんながついにゲラゲラと笑い出した。何も、煽っているつもりなんてない。ただ、言われたことに思った事をそのまま返しているだけ……なのだけれど。
北野くんは小さく舌打ちをすると、ポケットから百円玉を取り出して俺の隣にあった機械に滑り込ませた。「え」と目を丸くする俺をよそに、淡々と対戦モードのボタンを押し、この間と同じオオカミのキャラクターを選んでいる。
「待って。約束は金曜日のはずじゃ――」
「別にいいだろ。こうして偶然エンカウントしたんだし、明日まで待たなくても」
「でも、俺は今日が仕上げ練習のつもりで」
「一日くらい勝負が早まったっていいだろ。どうせ勝つのは俺だし」
画面に現れた「対戦モードを受け入れますか?」の表示を見て、俺は仕方なく青色のボタンを押した。この前と同じ曲を選択すると、北野くんはちらりとこちらを一瞥し、すでに勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
ゲームが始まり、北野くんはどこか面倒くさそうな仕草をしながらも、流れるようにリズミカルにボタンをさばき始めた。勝算は低いけれど、練習を始めた頃は画面の端に表示される点差が一万を超えていたのに、今日は千五百まで縮まっている。
(これでもし俺が負けたら、北野くんは本当に学校に来るチャンスを失うかも)
そんな考えが頭を過った瞬間、俺は勝敗が決まる前に、どうしても伝えなければならない「ある大切な気付き」があることに思い至った。
「北野くん、あのね」
「なんだよ、話しかけんな」
「この一週間、教室を見ていて思ったことがあるんだけど」
「……プレイ中にそんな雑談する余裕あんの?」
画面から目を離さず、俺は淡々と言葉を続けた。
きちんと顔を合わせて話すのはこれがまだ二度目だというのに。北野くんを学校に来させなければと奔走するうち、ずっと空席のままの教室の風景に対して、俺は次第に強い違和感を覚えるようになっていたのだ。
「今までは北野くんの席が空いていても、ただ空席があるだけで何も思わなかったんだけど。そこに、北野くんがいつか戻ってきて座るのを、自然と想像するようになってさ」
「ふーん、そんで?」
気だるげに返す低い声には、わずかにトゲが混じっている。
それでも俺は構わず、気持ちを伝えたい一心で言葉を紡いだ。
「そこがずっと空いたままなのは……やっぱり、少し寂しいなって思ったんだ」
曲のサビに向かってサウンドが一際盛り上がるのに合わせて、せわしなく指を動かす。ここからはサビ直前の高速連打。普段の北野くんなら、取りこぼすはずのない箇所だ。
しかし、隣から聞こえてくるはずの軽快なタップ音がぴたりと止まった。
不審に思ってチラリと横に視線を向けると、北野くんはボタンの上に手を置いたまま硬直し、耳まで真っ赤に染め上げて俺を凝視している。その間に、画面のスコアは北野くんを一気に追い越していた。
「……北野くん、どうかしたの?」
画面上では叩くべき音符のマークがどんどん落下していき、いくつもの「MISS」が点滅している。いったい何事かと首を傾げる俺の目の前で、北野くんの画面には「GAME OVER」の文字がどんと大きく浮かび上がった。
「あっ、俺の勝ち」
「えっ? あっ、うわ、マジかよ」
「良い勝負だったね、北野くん」
「ずるいだろ、あんなタイミングで、真顔であんなこと言ってくるとか!」
「男に二言は無しだよ。アプリ版での通算プレイ回数百三十五回、睡眠時間を削って培った筋肉の記憶が、きっと今回の勝因なのかも」
「調子こいてんじゃねえよ。今のは無し、絶対になし!」
くるりと背中を向けて逃げ出そうとする北野くんを逃がすまいと、俺はすかさずそのジャケットの裾を勢いよく掴んだ。
「おい、離せコラ。慣れ慣れしく触ってんじゃねーよ」
「待って。ちゃんと俺が勝ったんだから、約束は守ってくれるよね?」
「…………」
「明日、教室で待ってる」
目を見つめてはっきり言い切ると、北野くんは突如として、陸に上がった鯉のように口をぱくぱくと動かした。そして、棒読みの声音で「無理」「クソ」「バカじゃねーの」と、小学校低学年並みの悪口を三連続で俺に向かってぶつけてくる。
……もしかすると、まさかの敗北と恥ずかしさが同時に押し寄せて、キャパシティがオーバーしてしまったのかもしれない。
スポーツマンシップにのっとって(というのも変だけど)、最後は円満に握手で終わろうと手を伸ばしたが、「最悪」と低く呟かれてあっさり手を弾かれてしまった。
北野くんは勢いよくこちらを振り返りかけたものの、ハッとしたように慌てて再び前を向き直る。かと思えば、その場で数歩バタバタと足踏みをし、明らかに挙動不審な動きを始めた。
一体どうしたのだろうと、俺は首を傾げながら、最後には恥ずかしさを懸命に誤魔化すように早足でゲームセンターから去っていく北野くんの背中を見送った。



