どこまでいけば答えは見つかるのだろう。
それとも答えはないのだろうか。
それとも、得ると同時に失うのだろうか。
それを望んだとして、僕は選ぶだろうか。選んでいいのだろうか。毎日繰り返される疑問に僕の神経は少しずつ削られていく。それだけが真実。いつか神経がなくなる日が来るだろうか。そしてそれまで僕はもつだろうか。神経はどこまでいこうと真実を知らせる。痛みを。苦しさを。泣き出したい不安を。少しずつ吐き出しながらここまでやってきた。けれどそれがかなわなくなったら?僕の神経は爆発するだろうか。それとも何でもない毎日をこれ以上無いほどに味わわせるだろうか。僕は何を望むだろう。渇望する死を、生きていたいとしがみつく怖さを、
耐えていけるだろうか。
「ミを取って」
声を掛けられ、僕は脇に避けておいたオレンジ色の、ミを渡す。
「はい」
「ありがとう」
削って溜まった土を、まがりを動かしてミに入れる。
「はい」
「はい」
土をいれて重くなったミを手渡され、土を盛り上げた山の上に投げ捨てる。空になったミはまた僕の手を離れて田中さんの手に渡る。仕事が速く機転も利く、有力者だ。図面だって綺麗に書き上げられるし、分からないことははっきり分からないと言える謙遜さがある。こうなりたいと思われる人の代表選手のようだ。
発掘調査補助要員。
僕のアルバイトだ。大抵人に言うとうらやましがられる。
「土器とかブラシではいたりするんでしょう?」と言われるが実際はそんなことしない。
「どかた仕事ですよ。じょれんって分かります?」と聞くと、大抵は顔にはてなが浮かぶ。じょれんとは半月型の刃がついた畑などで使われる道具だ。それが一人一本ずつ手渡されている。そのあたりで察しのいい人は気づく。
「じょれんで地面をひっかいて、住居跡や穴を探します。そしたらそこをまた掘っていきます。壁を削ったり、木の根っこ掘りしたり、体力勝負の仕事です。はけで土器をはくことは実に稀なことです、写真を撮るときとかそれぐらいで、後は地面を掘ってます」
最初は新聞の折込に募集用紙が挟まっていて、てっきり短期バイトだと思って電話したのだ。
電話して、面接の日取りを決めたのだが、こちらも細かく予定が入っていて、電話の向こうの相手と何度か同じやり取りをして笑いあった。わざわざこれを記したのには理由がある。後日談で、電話のときから面接は始まっていたのだ。つまり、相手はわざと何度も間違えてこちらの対応の仕方を見ていたのではないか、その疑いが濃いと思ったからだ。実際に確かめたわけではない。
相当数の人間が応募して面接したと聞かされたときは信じなかった。募集は十人だったからだ。そして僕は受かることを知っていた、いや直感していただけだ。案の定、説明会に来たのは僕を含め十一人だった。
採用されてからも実は様子を見られていたことを後で知った。ゴールデンウィーク明けからはじまったのには訳があった。急な体力仕事、おまけに酷暑での作業。入って一日でギブアップした人が続出したらしい。僕らは丁寧に大切に扱われていたわけだ。
土相手の仕事は楽しかった。没頭できた。でも、仕事を覚えるためにコンビを組まされたことには困惑した。誰かと一緒にいる間は何か話をしなくてはいけない。幸いというか、悪くと言うか、僕が組んだ先輩はほぼ話さない人だった。僕は何をしているかよく分からないまま作業することがほとんどだったが、話さなくてよかったのでほっとしていた。だが傍目にはよくなかったらしい。四人で仕事をすることになったとき、それが暴露され、僕らは困ったように笑いあった。その瞬間、良かったと思った。組んだ先輩は僕と同じ、だから話さなくても大丈夫、黙ったまま仕事に集中していればいい。喋るのが嫌いな僕にとっては最高の先輩だった。
僕は小さい頃から「変わって」いた。
小学生の頃のあだ名は「背後霊」だった。
中学生の頃は友達と呼べる人はいなかった。
高校生の頃、初めて自分が「変」なことに気づいた。何かを聞かれてもなんと返せばよいか分からない。簡単な問いかけにさえ答えられない。次第に質問されることはなくなった。
高校卒業後、気づいた。いわゆる「青春」が僕には無かった。年頃になれば家族より友達が大切になり、好きな人ができて騒いだり、自分の身づくろいに時間をかけたり。そういったものが一切ないまま「学生」は終わり「社会人」になった。
「社会人」初めての職場できづけば僕は窮地に立たされ、発作的に手首を切るという行動に走った。記憶するのが苦手な僕が唯一と言ってもいいほど鮮明に覚えていることの一つだ。
初めての「社会人」は失敗に終わった。同時に僕は僕を見限った。自分の手には負えない。
それからも何種類かの「社会人」を経験したが、どれもにたりよったり。そこでようやく自分が「特殊」な「変」であることが分かった。気づくきっかけとなったキーワードは「怖い」だった。これは母が気づいた。母とはよく話した。というより一方的に吐き出していた。その中で繰り返された言葉が「怖い」だったという。
記憶に留められないいろいろなことがあったと思う。僕の人生は予想だけだ。
変化が起きた一つに、「発掘」はあった。
女性だけ二十名弱。何かがあってもおかしく無いはずなのに、そこには何も無かった。不思議だった。そう、僕は女だ。だがそれについて話すことは場違いなので特に話すことはしない。
そして一気に僕は吸収し始めた。会話をしない先輩と組んでいても他の人とは話さねばならない。誰かたちの話も聞こえてくる。それで僕は「会話」を覚えた。「会話」は、覚えてみると奥が深いことがわかった。「会話」からいろんなことを学んだ。
「会話」を習得した僕は明らかに変わった。いろいろなことを考えるようになった。ありもしないたくさんの不安が消えた。けれど、もっと早く「会話」を学べば僕の学生生活も変わっていただろうか。いいや、そうは思わない。「社会人」だからこそ通用する「会話」は「学生」には通じないだろうという確信がある。
人との距離感がつかめない、と主治医に言われた。確かにそうだと思う。「社会人」は暗黙の了解としたもので当たり障りない話をする。あえて踏み込むことは決してしない。そして必ず自分を保護する膜をもっている。けれど「学生」にそれは通じない。感情のままに行動し、ときに持て余し、暴走する未熟さが生活を鮮やかに彩る。僕も同じだった。ただ感情が一色しかなかっただけだった。
発掘は、素晴らしい訓練所だった。同時に僕の狂気を深める場所でもあった。
発掘の出勤形態は特殊で、平日十五日以内、どの日に出てもよくて、十五日にならなくても問題ないうえに、当日急に休んでもかまわない。これほど自由な職場があろうか。だからこそ続けてこられたと言った先輩もいるほどだ。けれどこれは僕向きでは無かった。
朝起きて、憂鬱になる。でもこれ以上休むと十日にもならない。仕事に行かなければ。その行かねば、という思いが僕をアムカ(アームカット)に走らせた。痛みがあれば大丈夫。落ち着いて仕事にいける。頻度は上がった。腕は傷だらけになった。始業前のラジオ体操は痛みを思い出させて僕を安心させた。同時に僕は個人輸入した睡眠薬を飲むようになっていた、作業中に。
「今日ははっきりした顔してるね」と言われた。じゃあ、いつもは?
「とろんとしてるよ」
とろんとしていて当たり前なのだ、そうなるように薬を飲んでいるのだから。正気では仕事にも行けない。自分の中にもう一人の自分をつくった。傷があるだろう?だから大丈夫。もし不安なら睡眠薬を飲めばいいよ。もう一人の自分はそう言って優しく僕を傷つけ続けた。
初めは、左腕に一本二本、右腕に一本二本、と数えられていた傷口が、あっという間に数え切れなくなった。切る場所がなくなるほど腕は傷だらけだった。それでももう一人の僕は僕を励ました。ほらそこに隙間があるよ、大丈夫、もう白くなってる場所だからもう一度切れるよ。僕は励まされるまま示されるままにかみそりを当てた。
「恐怖症性不安障害」。先生の造語かと思う、聞いたことも無い病名だった。
自分で手配したのではなく、正規の薬を飲み始めた。僕は徐々にではあるが変化した。アムカをしたと報告するたび先生は困った顔で、化膿しないかどうかを気にした。がっかりした。僕のアムカの頻度は増えた。
そうして、ある日を境に僕は切ることをやめた。
どうしてだかしれない、僕は救急の椅子に座って自分の番を待っていた。当てていたティッシュが床に落ちたから拾い上げてもとの場所にあてると、看護師さんが真新しいペーパーをくれた。呼ばれてベッドの上に乗せられて麻酔の注射を受けて針で十一箇所縫われた。糸は黒かった。縫われる前、指の動きを確認されたが異常はなかった。出血もすでにとまっていたから縫う必要もなかった。無駄な一万円を払って帰った。抜糸のとき、傷の開き具合を見て「まだやっておいたほうがいいかなあ」と先生が言うので、「いつもこのくらいなのでいいです」と断った。また余計な出費をするのは面白くなかった。あとで糸が黒くてよかったと思うことになる。先生が一本取り残したのだ。それは手で摘まんで取った。手首を見て嫌になった。縫い合わせたせいだろう、手首の皮膚がつっていた。自然にくっつくのをまてばこんな歪みは出なかったのに。そう思うとすべてが馬鹿らしくなった。もう一人の僕はとっくに消えていた。それからかみそりにはふれなかった。でも、僕の狂気は消えはしなかったわけだ。
本当は包丁でやるはずだった。でも怖くなってかみそりを探した。ぐっと何本か引くと少し落ち着いた。久しぶりの痛みは鈍かった。いくらでも切れそうだったけれど、五本引いて止めにした。印旛文化財センターの人事の人に復帰の電話をして二ヶ月も経っていなかった。
椎間板ヘルニアが発覚し、一日仕事は難しいだろうと予想した。でもそれは言い訳だ。事実ではあるけれど、言い訳なのだ。僕は仕事に行かなかった。
その日のうちに母に見つけられ、父に報告された。僕は泣いていた。そして今回は父は甘やかさなかった。規則正しい生活をすること、仕事をやめること。真面目に怒るときの声で僕は涙が出た。父には一切話さなかったから。僕はしばらく休むことを田中さんに伝えた。父もとりあえずそれで呑んでくれた。
アムカをするとき、今回はリスカ(リストカット)だったけれど、しんと静かな空気の中で小さく水滴が壊れる音がする。その瞬間どんよりとした新鮮な暗がりに包まれる。切り裂いて、ねじ込んで、痛みは狂気を解放する。そうしてはじめて「正常」に引き戻される。
きっと分かってはもらえないと思う。そう思うし、そうでなければならないと思う。決して迎合してはならないものだからだ。それでも。
それでも僕はアムカをする。
それとも答えはないのだろうか。
それとも、得ると同時に失うのだろうか。
それを望んだとして、僕は選ぶだろうか。選んでいいのだろうか。毎日繰り返される疑問に僕の神経は少しずつ削られていく。それだけが真実。いつか神経がなくなる日が来るだろうか。そしてそれまで僕はもつだろうか。神経はどこまでいこうと真実を知らせる。痛みを。苦しさを。泣き出したい不安を。少しずつ吐き出しながらここまでやってきた。けれどそれがかなわなくなったら?僕の神経は爆発するだろうか。それとも何でもない毎日をこれ以上無いほどに味わわせるだろうか。僕は何を望むだろう。渇望する死を、生きていたいとしがみつく怖さを、
耐えていけるだろうか。
「ミを取って」
声を掛けられ、僕は脇に避けておいたオレンジ色の、ミを渡す。
「はい」
「ありがとう」
削って溜まった土を、まがりを動かしてミに入れる。
「はい」
「はい」
土をいれて重くなったミを手渡され、土を盛り上げた山の上に投げ捨てる。空になったミはまた僕の手を離れて田中さんの手に渡る。仕事が速く機転も利く、有力者だ。図面だって綺麗に書き上げられるし、分からないことははっきり分からないと言える謙遜さがある。こうなりたいと思われる人の代表選手のようだ。
発掘調査補助要員。
僕のアルバイトだ。大抵人に言うとうらやましがられる。
「土器とかブラシではいたりするんでしょう?」と言われるが実際はそんなことしない。
「どかた仕事ですよ。じょれんって分かります?」と聞くと、大抵は顔にはてなが浮かぶ。じょれんとは半月型の刃がついた畑などで使われる道具だ。それが一人一本ずつ手渡されている。そのあたりで察しのいい人は気づく。
「じょれんで地面をひっかいて、住居跡や穴を探します。そしたらそこをまた掘っていきます。壁を削ったり、木の根っこ掘りしたり、体力勝負の仕事です。はけで土器をはくことは実に稀なことです、写真を撮るときとかそれぐらいで、後は地面を掘ってます」
最初は新聞の折込に募集用紙が挟まっていて、てっきり短期バイトだと思って電話したのだ。
電話して、面接の日取りを決めたのだが、こちらも細かく予定が入っていて、電話の向こうの相手と何度か同じやり取りをして笑いあった。わざわざこれを記したのには理由がある。後日談で、電話のときから面接は始まっていたのだ。つまり、相手はわざと何度も間違えてこちらの対応の仕方を見ていたのではないか、その疑いが濃いと思ったからだ。実際に確かめたわけではない。
相当数の人間が応募して面接したと聞かされたときは信じなかった。募集は十人だったからだ。そして僕は受かることを知っていた、いや直感していただけだ。案の定、説明会に来たのは僕を含め十一人だった。
採用されてからも実は様子を見られていたことを後で知った。ゴールデンウィーク明けからはじまったのには訳があった。急な体力仕事、おまけに酷暑での作業。入って一日でギブアップした人が続出したらしい。僕らは丁寧に大切に扱われていたわけだ。
土相手の仕事は楽しかった。没頭できた。でも、仕事を覚えるためにコンビを組まされたことには困惑した。誰かと一緒にいる間は何か話をしなくてはいけない。幸いというか、悪くと言うか、僕が組んだ先輩はほぼ話さない人だった。僕は何をしているかよく分からないまま作業することがほとんどだったが、話さなくてよかったのでほっとしていた。だが傍目にはよくなかったらしい。四人で仕事をすることになったとき、それが暴露され、僕らは困ったように笑いあった。その瞬間、良かったと思った。組んだ先輩は僕と同じ、だから話さなくても大丈夫、黙ったまま仕事に集中していればいい。喋るのが嫌いな僕にとっては最高の先輩だった。
僕は小さい頃から「変わって」いた。
小学生の頃のあだ名は「背後霊」だった。
中学生の頃は友達と呼べる人はいなかった。
高校生の頃、初めて自分が「変」なことに気づいた。何かを聞かれてもなんと返せばよいか分からない。簡単な問いかけにさえ答えられない。次第に質問されることはなくなった。
高校卒業後、気づいた。いわゆる「青春」が僕には無かった。年頃になれば家族より友達が大切になり、好きな人ができて騒いだり、自分の身づくろいに時間をかけたり。そういったものが一切ないまま「学生」は終わり「社会人」になった。
「社会人」初めての職場できづけば僕は窮地に立たされ、発作的に手首を切るという行動に走った。記憶するのが苦手な僕が唯一と言ってもいいほど鮮明に覚えていることの一つだ。
初めての「社会人」は失敗に終わった。同時に僕は僕を見限った。自分の手には負えない。
それからも何種類かの「社会人」を経験したが、どれもにたりよったり。そこでようやく自分が「特殊」な「変」であることが分かった。気づくきっかけとなったキーワードは「怖い」だった。これは母が気づいた。母とはよく話した。というより一方的に吐き出していた。その中で繰り返された言葉が「怖い」だったという。
記憶に留められないいろいろなことがあったと思う。僕の人生は予想だけだ。
変化が起きた一つに、「発掘」はあった。
女性だけ二十名弱。何かがあってもおかしく無いはずなのに、そこには何も無かった。不思議だった。そう、僕は女だ。だがそれについて話すことは場違いなので特に話すことはしない。
そして一気に僕は吸収し始めた。会話をしない先輩と組んでいても他の人とは話さねばならない。誰かたちの話も聞こえてくる。それで僕は「会話」を覚えた。「会話」は、覚えてみると奥が深いことがわかった。「会話」からいろんなことを学んだ。
「会話」を習得した僕は明らかに変わった。いろいろなことを考えるようになった。ありもしないたくさんの不安が消えた。けれど、もっと早く「会話」を学べば僕の学生生活も変わっていただろうか。いいや、そうは思わない。「社会人」だからこそ通用する「会話」は「学生」には通じないだろうという確信がある。
人との距離感がつかめない、と主治医に言われた。確かにそうだと思う。「社会人」は暗黙の了解としたもので当たり障りない話をする。あえて踏み込むことは決してしない。そして必ず自分を保護する膜をもっている。けれど「学生」にそれは通じない。感情のままに行動し、ときに持て余し、暴走する未熟さが生活を鮮やかに彩る。僕も同じだった。ただ感情が一色しかなかっただけだった。
発掘は、素晴らしい訓練所だった。同時に僕の狂気を深める場所でもあった。
発掘の出勤形態は特殊で、平日十五日以内、どの日に出てもよくて、十五日にならなくても問題ないうえに、当日急に休んでもかまわない。これほど自由な職場があろうか。だからこそ続けてこられたと言った先輩もいるほどだ。けれどこれは僕向きでは無かった。
朝起きて、憂鬱になる。でもこれ以上休むと十日にもならない。仕事に行かなければ。その行かねば、という思いが僕をアムカ(アームカット)に走らせた。痛みがあれば大丈夫。落ち着いて仕事にいける。頻度は上がった。腕は傷だらけになった。始業前のラジオ体操は痛みを思い出させて僕を安心させた。同時に僕は個人輸入した睡眠薬を飲むようになっていた、作業中に。
「今日ははっきりした顔してるね」と言われた。じゃあ、いつもは?
「とろんとしてるよ」
とろんとしていて当たり前なのだ、そうなるように薬を飲んでいるのだから。正気では仕事にも行けない。自分の中にもう一人の自分をつくった。傷があるだろう?だから大丈夫。もし不安なら睡眠薬を飲めばいいよ。もう一人の自分はそう言って優しく僕を傷つけ続けた。
初めは、左腕に一本二本、右腕に一本二本、と数えられていた傷口が、あっという間に数え切れなくなった。切る場所がなくなるほど腕は傷だらけだった。それでももう一人の僕は僕を励ました。ほらそこに隙間があるよ、大丈夫、もう白くなってる場所だからもう一度切れるよ。僕は励まされるまま示されるままにかみそりを当てた。
「恐怖症性不安障害」。先生の造語かと思う、聞いたことも無い病名だった。
自分で手配したのではなく、正規の薬を飲み始めた。僕は徐々にではあるが変化した。アムカをしたと報告するたび先生は困った顔で、化膿しないかどうかを気にした。がっかりした。僕のアムカの頻度は増えた。
そうして、ある日を境に僕は切ることをやめた。
どうしてだかしれない、僕は救急の椅子に座って自分の番を待っていた。当てていたティッシュが床に落ちたから拾い上げてもとの場所にあてると、看護師さんが真新しいペーパーをくれた。呼ばれてベッドの上に乗せられて麻酔の注射を受けて針で十一箇所縫われた。糸は黒かった。縫われる前、指の動きを確認されたが異常はなかった。出血もすでにとまっていたから縫う必要もなかった。無駄な一万円を払って帰った。抜糸のとき、傷の開き具合を見て「まだやっておいたほうがいいかなあ」と先生が言うので、「いつもこのくらいなのでいいです」と断った。また余計な出費をするのは面白くなかった。あとで糸が黒くてよかったと思うことになる。先生が一本取り残したのだ。それは手で摘まんで取った。手首を見て嫌になった。縫い合わせたせいだろう、手首の皮膚がつっていた。自然にくっつくのをまてばこんな歪みは出なかったのに。そう思うとすべてが馬鹿らしくなった。もう一人の僕はとっくに消えていた。それからかみそりにはふれなかった。でも、僕の狂気は消えはしなかったわけだ。
本当は包丁でやるはずだった。でも怖くなってかみそりを探した。ぐっと何本か引くと少し落ち着いた。久しぶりの痛みは鈍かった。いくらでも切れそうだったけれど、五本引いて止めにした。印旛文化財センターの人事の人に復帰の電話をして二ヶ月も経っていなかった。
椎間板ヘルニアが発覚し、一日仕事は難しいだろうと予想した。でもそれは言い訳だ。事実ではあるけれど、言い訳なのだ。僕は仕事に行かなかった。
その日のうちに母に見つけられ、父に報告された。僕は泣いていた。そして今回は父は甘やかさなかった。規則正しい生活をすること、仕事をやめること。真面目に怒るときの声で僕は涙が出た。父には一切話さなかったから。僕はしばらく休むことを田中さんに伝えた。父もとりあえずそれで呑んでくれた。
アムカをするとき、今回はリスカ(リストカット)だったけれど、しんと静かな空気の中で小さく水滴が壊れる音がする。その瞬間どんよりとした新鮮な暗がりに包まれる。切り裂いて、ねじ込んで、痛みは狂気を解放する。そうしてはじめて「正常」に引き戻される。
きっと分かってはもらえないと思う。そう思うし、そうでなければならないと思う。決して迎合してはならないものだからだ。それでも。
それでも僕はアムカをする。



