深淵の外れ

「ねえ」
 僕は声をかけた。
「彼女。そこのオジョウサン」
 くるりと彼女が振り返り僕を見上げた。僕は言った。
「それやるんだったら、僕と行かない?」
 彼女はどこへとは聞かず、小さく頷いて僕のところへ来た。僕は彼女の細い腕に自分の腕を絡ませてゆっくりと歩いた。その腕はまだ乾いたままだった。
 切符を買い、電車を待つ間、彼女は一言も喋らず、僕も話さなかった。
 電車に揺られ、静かな車内で、僕らだけになっても言葉が交わされることはなかった。
 駅に降り立った。空っぽになった電車は細々とした風情で走り去っていった。
 電車がいなくなった後、駅には僕ら二人だけが残っていた。
 僕はそのまま線路に降り立ち、線路を越えて、砂を踏んだ。
 あたりには何も無い。人影がなく、人の息すら届かない。何も遮るものがない世界が三百六十度、広がっている。空が世界を覆い、遠くから繫がる灰色の波が砂浜の裾まで浸っている。
 もう彼女の腕を捕らえてはいなかった。彼女は何も言わず僕の後ろについてきたから。
 海風にさらされ、髪も服もべたついてくる感触。すわり…と足元が砂にもたれる感触。全てが包み込まれる。彼女も感じているだろうと、振り返って確かめる必要は無かった。
 何も無い。目的もなく歩いた。ただ平たく形を変える砂の上に二人分の足跡が続くだけ。言葉もなく互いを見ることもせず、ただ海の世界に溶け込む。
 しばらく歩き続けてその均衡は崩れた。振り返った僕に、彼女は目の前まで近づいていた。
「お腹すいた」
 細くて凛とした一言に、海の世界は支配力を薄め、僕の腹も我をはった。ぐうと音が響き、彼女は僕を見た。
「あんまん食べたい」
 彼女の目がほのかに笑った。僕は頷いた。
「もうちょっと歩こう。向こうに行けば、あるはずだから」
 僕らは歩き出したが、腕を組まなかった。付かず離れずの間で、僕らは横に並んで歩いていたから。
 しばらく行くと予想通りあった。コンビニの明るさが別の世界の入り口のように見えた。
 コンビニから出てほっとした。ふと僕は彼女を見た彼女も僕を見た。
「電車に乗りたい」
 僕は迷った。そんな僕に彼女の手が僕の腕に触れ、悩みは抜けていった。
 僕らは駅まで歩いた。彼女が腕を絡ませた。僕らは寄り添うようにして駅に辿り着き、誰もいないホームで電車を待った。やはり僕ら以外に人の姿は無く、とろとろとやってきた電車内にも人の姿は無かった。
 歩いてきた景色を車窓から二人で眺める。長い間歩いてきた道はたった一駅分だった。
 コンビニであんまんを買った僕らは他にもいくつかお菓子を持ち帰り、元の駅に戻った。あんまんは車内で食べた。その間僕らは一度だけ顔を見合わせ、その後はまた静かに寄り添って窓の外を眺めていた。
 電車を降り、その後ろ姿を見送って、線路を渡り、砂浜を歩いた。
 相変わらず何も無い世界。海の世界がそこにはあって、僕らはすぐに身体を寄せ合った。それでも足りなくて、互いの腰を抱いてみた。海の支配は僕ら二人に重くのしかかり僕らは当てもなく歩き出した。
 カシャカシャとコンビニの袋が鳴る度に、風の冷たい仕打ちを苦く噛み締めた。
 しばらく歩き、ようやく影を見つけてそこに身を寄せた。湿って冷たい風に足を縮め、僕は彼女の肩を抱いた。彼女は身震いして、僕にもたれかかった。そうしていても僕らは許してもらえず、ずっと二人で抱き合っていた。
 日が暮れる頃、夜がひっそりと忍び寄っていて、僕は彼女の肩を掴んで一緒に立ち上がらせ、駅に向かった。彼女は前を見ていたけれど、その足元に眠気を引きずっていた。
 一足先に、僕は現実に戻ってしまった。いや、彼女に置いていかれたのか。僕も眠気に捕われてしまえばよかった。そうすれば幸せの中、眠れたのかもしれない。けれど、朝陽の力に全て消されてしまう。海も素に戻る。その中でもし目覚めれば、僕らはきっと消えてしまう。どうしても、僕らは去らねばならなかった。どちらにしても、僕らの時間に幕を引く時が来た。
 電車がやってきた。闇を切り開き、後を濁さず、通り行くそれに乗り込んだ。座席に着いた時、僕は彼女を離した。
 彼女は眠った。僕を置いて。僕は窓に映る車内と向こうの町並みを眺め、そうして電車を降りた。彼女を起こさず。
 眠った彼女を乗せて電車は出発した。僕はもう見送らず、一つだけ握った手を上着のポケットにしまった。食べなかったお菓子を彼女が食べるだろうと思いながら。すぐに手を出して、降りる時に彼女から掠め取ったかみそりを線路に投げ捨てた。
 すぐ、カンカンカン…と鐘が鳴った。最後のあんまんの甘さを思い出した。でも、もうさよならだ。彼女は別れられたのかな。ぷあんと鳴らされて、僕は外へ、ぽんと飛んだ。
 すぐ後ろで連なった電車が僕の影だけ踏んで、重い騒音をたてて走り去っていった。
 僕は消えた。彼女はいない。
 道を、人が通り過ぎ、街の灯りが零れる。
 夜の商店街は明るく騒々しく僕を迎えた。
「ただいま」
 ぽつりと言ったその後ろで、
「おかえり」
 と声がした。