翌日、常盤家から使者は来なかった。
代わりに、村中へ噂が走った。
鈴音が鬼神を連れて常盤家の蔵を荒らした。
病に伏せる綾乃を脅し、母の形見だと偽って古い鈴を盗んだ。
鬼神に魅入られた鈴音は、常盤家を滅ぼし、村に災いを呼ぼうとしている。
その噂は、朝露より早く村の隅々まで広がった。
社の石段に立つ鈴音にも、その音は届いていた。
ひそひそ。
ざわざわ。
あの娘はやはり災いだった。
声が出ないはずなのに、鬼神の力で喋ったらしい。
綾乃さまがおかわいそう。
常盤家は、ずっと鈴音を守ってきたのに。
嘘の音が、村の方から黒い靄となって立ち昇っている。
前なら、その音だけで膝をついていたかもしれない。自分が悪いのだと思ったかもしれない。
けれど、今は違う。
鈴音は胸元の守り紐を握った。
ちりん。
小さな鈴の音が、自分の内側へ帰る道を教えてくれる。
鈴音は災いではない。
鬼神に魅入られたわけでもない。
母の鈴を盗んだのではない。
真実を取り戻したのだ。
背後から、朔夜が近づいてきた。
「聞こえているな」
鈴音は頷いた。
紙に書く。
『村中が、私を悪者にしています』
「そうだな」
朔夜は否定しなかった。
その正直さが、今はありがたかった。
「常盤家が流したのだろう。先手を打ったつもりだ」
千景が境内の端から駆けてくる。
「ひどいですよ。鈴音さんが鬼神さまをたぶらかしたとか、綾乃さんを呪ったとか、めちゃくちゃ言われてます」
鈴音は息を吸った。
胸が痛まないわけではない。
だが、不思議と涙は出なかった。
あまりにも覚えのあるやり方だったからだ。
鈴音が言葉を持たない間、常盤家はずっとそうしてきた。
鈴音が何も言えないことをいいことに、鈴音のせいにした。
声が出ないから、否定できない。
否定できないから、真実になっていく。
それが、鈴音の十七年だった。
鈴音は紙に書いた。
『常盤家へ行きます』
朔夜は鈴音を見た。
「村人も集まっている。お前を責める声もあるだろう」
『わかっています』
「喉もまだ万全ではない」
『それも、わかっています』
鈴音は、母の鈴を手に取った。
小さな銀の鈴は、昨日より澄んだ光を帯びているように見えた。
『でも、今日行かなければ、また私の真実が誰かの嘘に変えられます』
朔夜の金の瞳が、静かに鈴音を映した。
彼は、止めなかった。
ただ、低く言った。
「ならば、隣に立つ」
鈴音の胸が温かくなる。
守るでもなく、連れていくでもなく。
隣に立つ。
その言葉が、鈴音をまっすぐ前へ向かわせた。
千景が腕をまくる。
「僕も行きます。今日は遠慮しませんからね。誰かが変なこと言ったら、狐火で髪を焦がしてやります」
鈴音は少し慌てて首を横に振った。
千景は不満そうに耳を伏せる。
「冗談です。半分くらい」
朔夜が冷ややかに言う。
「半分も本気にするな」
そのやり取りに、鈴音はほんの少し笑った。
声はまだ出ない。
けれど、その笑みだけで、胸の強張りが少し解けた。
常盤家へ向かう山道は、これまでで一番長く感じた。
村へ近づくほど、嘘の音は濃くなった。
ひそひそ。
ざわざわ。
鈴音だ。
鬼神さまもいる。
やっぱり生きていた。
綾乃さまを苦しめたのは、あの子らしい。
かわいそうに、声も出ないふりをしていたのかもしれない。
鈴音は胸元の守り紐を握りしめた。
ちりん。
自分の音を聞く。
朔夜の教えを思い出す。
すべての嘘を受け止めなくていい。
聞くものを選ぶ。
鈴音は、自分の呼吸に意識を戻した。
常盤家の門前には、村人が集まっていた。
まるで祭礼の日のようだった。
けれど、そこにあるのは期待でも祝福でもない。
好奇心、恐れ、怒り、そして誰かを責めたいという濁った熱。
門の前には、父の宗一郎が立っていた。
その隣には八重。
そして、綾乃もいた。
綾乃は白い衣をまとい、薄く化粧をしていた。顔色は悪い。けれど、その儚ささえ美しく見えるよう整えられている。
病に伏す可憐な姫君。
村人たちの目には、そう映っているのだろう。
綾乃は鈴音を見ると、弱々しく微笑んだ。
「鈴音……来てくれたのね」
その声に、周囲の村人たちがざわめく。
「綾乃さまは、あんなに妹を心配しておられるのに」
「鈴音さまは、なぜ常盤家に逆らうのだ」
「やはり鬼神に惑わされて……」
鈴音の喉が少し痛んだ。
けれど、守り札が胸元で温かくなる。
朔夜が一歩前に出ようとした。
鈴音はそっと袖を引いた。
朔夜が振り返る。
鈴音は首を横に振った。
まずは、自分で立ちたい。
朔夜はしばらく鈴音を見たあと、静かに一歩下がった。
隣に、いてくれる。
けれど、前には出ない。
その距離が、今の鈴音には何より心強かった。
八重が涙ぐんだ顔で言った。
「鈴音、お願いです。もうこれ以上、家を乱さないでちょうだい。あなたが苦しんできたことはわかっています。でも、だからといって綾乃を苦しめてよい理由にはならないでしょう?」
村人たちが同情の目を八重へ向ける。
母が娘を諭すような、優しい声。
けれど鈴音には、八重の口元から黒い糸が滲んでいるのが見えた。
嘘だ。
わかっている。
それでも、その嘘は美しい形をしていた。
鈴音を責めるための、母親らしい言葉。
宗一郎も重々しく口を開いた。
「鈴音。お前が母を慕う気持ちはわかる。だが、澄乃は病で亡くなった。それを今さら、家の罪だなどと言い立てるのは、死者への冒涜だ」
母の名が出た瞬間、鈴音の胸が冷たくなった。
澄乃。
父の口から母の名が出る。
それなのに、そこには少しの悔いもない。
あるのは、隠し通したいという焦りだけだ。
鈴音は母の鈴を握った。
ちりん。
小さく鳴る。
その音を聞いた綾乃の顔が、わずかに歪んだ。
すぐに儚い笑みへ戻したが、鈴音には見えた。
綾乃は、あの鈴を恐れている。
綾乃が一歩前に出た。
「鈴音、お願い。私のことが憎いなら、それでいいの。でも、お父さまとお母さまを苦しめないで」
村人たちが息を呑む。
なんて健気な姫君だろう。
病の身で、妹をかばっている。
そういう空気が広がっていく。
綾乃は胸に手を当て、か細い声で続けた。
「あなたが鬼神さまのもとでつらい思いをしたのなら、私が代わりに謝ります。だから、もう戻ってきて。私たちは家族でしょう?」
家族。
その言葉に、鈴音の喉へ黒い糸が伸びた。
甘く、優しく、逃げ道を塞ぐ言葉。
家族だから我慢しろ。
家族だから許せ。
家族だから真実を黙っていろ。
鈴音は一瞬、息を詰まらせた。
胸元の札が白く光る。
黒い糸が弾かれた。
朔夜の気配が鋭くなる。
けれど鈴音は、自分で息を吸った。
声を出す。
そう決めた。
喉はまだ弱い。
長くは話せない。
でも、最初の一言だけは、自分で言いたかった。
鈴音は守り紐の鈴を握る。
自分の呼吸を聞く。
嘘の音を遠ざける。
村人たちの視線が突き刺さる。
父が睨む。
八重が泣き顔を作る。
綾乃が優しい姉のふりをしている。
そのすべての前で、鈴音は唇を開いた。
「……私は」
掠れた声だった。
村人たちがどよめく。
「声が……」
「鈴音さまが喋った」
「鬼神の力か?」
鈴音は喉の痛みに耐えながら、続けた。
「災いでは、ありません」
その瞬間、門前に集まっていた人々のざわめきが止まった。
ほんの短い言葉。
けれど、鈴音が十七年間、ずっと言えなかった言葉だった。
私は災いではない。
ただ、それだけ。
それだけなのに、胸の奥で何かがほどけていく。
同時に、村人たちの周囲にまとわりついていた小さな黒い糸が、ぷつぷつと切れ始めた。
誰かが小さく息を呑む。
嘘が剥がれていく。
鈴音を災いだと思い込むことで、安心していた人々の小さな嘘。
何か悪いことが起これば、声の出ない娘のせいにすればよいという都合のいい嘘。
それが、鈴音の声に震えている。
八重の顔から涙の演技が消えた。
「鈴音、無理をしないで。あなたはまだ混乱しているのよ」
また黒い糸が伸びる。
朔夜が動こうとしたが、鈴音は手で制した。
もう一度、息を吸う。
喉が痛む。
けれど、母の鈴が鳴った。
ちりん。
「母は……病では、ありません」
宗一郎が怒鳴った。
「黙れ!」
黒い糸が鈴音の喉へ絡みつこうとする。
だが、朔夜の金の瞳が燃えた。
「鈴音に黙れと言うな」
低い声が、門前の空気を震わせる。
村人たちは一斉に後ずさった。
鈴音は朔夜を見た。
彼は隣に立っている。
守ってくれている。
でも、言葉を奪わない。
鈴音は母の鈴を掲げた。
千景が帳面を開く。
「ここに記録があります。常盤家が供物を横流ししていたこと。鬼神さまの祟りとされた災いの裏に、人間の不正があったこと。そして、鈴音さんの声を封じる呪具の記録も」
村人たちがざわめく。
「供物の横流し?」
「常盤家が?」
「そんなはずは……」
八重が叫ぶ。
「その帳面は偽物です! 鈴音が鬼神さまと共に作った偽りです!」
その言葉から、濃い黒い靄が噴き出した。
鈴音の目には、はっきり見えた。
嘘。
濁った、濃い嘘。
朔夜は冷ややかに言った。
「偽りかどうか、俺が喰えばわかる」
八重の顔が引きつる。
朔夜が帳面に指をかざすと、紙の上に黒い靄が浮かんだ。けれどそれは、帳面そのものから出たものではなかった。
帳面を否定しようとする八重と宗一郎の言葉から出たものだった。
朔夜はその靄を指先で摘み、口元へ運ぶ。
村人たちが息を呑む中、彼はそれを喰らった。
ぱきり、と小さな音がした。
次の瞬間、八重の顔が青ざめる。
宗一郎の額に汗が浮かぶ。
鈴音の耳に、隠されていた声が少しだけ聞こえた。
ばれる。
澄乃が残したものが。
鈴音の声が戻れば、すべて終わる。
それは、誰の心の声だったのか。
父か、八重か。
あるいは、この家そのものか。
綾乃がよろめくように一歩前へ出た。
「やめて……」
その声だけは、本当に弱っているように聞こえた。
村人たちは綾乃を見る。
彼女は涙を浮かべ、鈴音に手を伸ばした。
「鈴音、お願い。もうやめて。私、怖いの」
鈴音の胸が痛んだ。
綾乃は、本当に怖がっている。
けれど、何を怖がっているのか。
鈴音に責められることか。
罪が暴かれることか。
それとも、綾乃の中にいる琴乃が表へ出ることか。
鈴音は紙を取り出し、書こうとした。
だが、綾乃が一瞬だけ笑った。
鈴音だけに見える角度で。
その唇が、小さく動く。
声は出ていない。
けれど、鈴音には読めた。
まだ声なんて出ると思っているの?
喉が一気に熱くなる。
綾乃の足元から、黒い糸が伸びた。
鈴音の喉へ。
その瞬間、母の鈴が激しく鳴った。
ちりん。
ちりん。
鈴音は喉を押さえながらも、綾乃を見た。
今なら、わかる。
綾乃の中には、綾乃自身の嫉妬がある。
その奥に、琴乃の恨みがある。
その二つが絡み合い、鈴音の声を縛っている。
鈴音は声を振り絞った。
「綾乃、さま」
村人たちがまたざわめく。
綾乃の目が大きく見開かれた。
鈴音が名前を呼んだことが、予想外だったのだろう。
「私は……あなたを、許せません」
声は震えていた。
息も途切れそうだった。
それでも、鈴音は言い切った。
「でも……あなたの苦しみで、私の声を奪っていいことには、なりません」
綾乃の顔が歪む。
村人たちは意味を理解できず、互いに顔を見合わせる。
八重が叫んだ。
「何を言っているの、鈴音! 綾乃はあなたを心配して――」
「嘘です」
今度は、鈴音が言った。
短く。
けれど、はっきり。
その一言に、八重の口元から黒い糸が弾けた。
村人たちの間から悲鳴が上がる。
「今、何か黒いものが……」
「見えたぞ」
「八重さまの口から……」
嘘が、他の者にも見え始めていた。
鈴音の声が、嘘を形にしているのだ。
宗一郎が鈴音へ歩み寄ろうとした。
「やめろ、鈴音。これ以上は――」
朔夜が一歩前に出る。
「近づくな」
宗一郎の足が止まった。
朔夜は静かに言う。
「お前が隠してきた嘘は、もう鈴音を縛れない」
その言葉に、宗一郎の顔が歪む。
綾乃が突然、笑った。
それは、綾乃の笑い方ではなかった。
か細く儚い姫君の笑みではない。
喉の奥から漏れるような、古い、湿った笑い声。
村人たちが一斉に綾乃を見る。
綾乃は両手で顔を覆った。
けれど指の隙間から、黒い靄が溢れている。
「ひどいわ、鈴音」
声が変わっていた。
綾乃の声に、別の女の声が重なっている。
「姉を責めるの? 苦しんでいた姉を。愛されたかっただけの姉を」
朔夜の顔が険しくなる。
「琴乃」
綾乃の背後に、白無垢の影がゆらりと立ち上がった。
村人たちが悲鳴を上げて後ずさる。
顔のない花嫁。
赤い唇。
黒く濁った鈴の音。
ちりん。
ちりん。
琴乃の影は、門前に集まった村人たちを見渡した。
「懐かしいわね」
その声に、年老いた村人の何人かが青ざめた。
百年前のことなど直接知る者はいないはずだ。
だが、家々の中で語られ、隠され、恐れられてきた名を、本能で感じ取ったのだろう。
琴乃が笑う。
「この村は、まだ同じことをしているのね。誰かに嘘を押しつけて、誰かを災いにして、自分たちだけは清らかな顔をして」
黒い靄が、村人たちの足元から湧き上がる。
鈴音の耳に、さらに多くの嘘の音が流れ込む。
私は知らない。
昔のことだ。
常盤家が言ったから。
鬼神が怖かったから。
仕方なかった。
仕方なかった。
仕方なかった。
鈴音はよろめいた。
朔夜が支える。
「聞くな。呑まれる」
けれど、琴乃は鈴音を見て笑った。
「聞きなさい、鈴音。これが真実よ。あなた一人が災いではない。この村そのものが、嘘で腐っている」
鈴音は胸を押さえた。
琴乃の言葉は恐ろしい。
けれど、すべてが嘘ではない。
村は確かに、誰かを犠牲にしてきた。
琴乃を。
母を。
そして、鈴音を。
綾乃の口が開く。
いや、琴乃が綾乃の口を使っている。
「ならば、この村ごと真実に沈めてやる」
その声が響いた瞬間、常盤家の門の奥から黒い靄が噴き出した。
空が陰る。
村人たちが逃げ惑う。
八重が綾乃の名を叫ぶ。
宗一郎が腰を抜かす。
千景が狐火を放ち、黒い靄を押し返す。
「鈴音さん、下がって!」
しかし鈴音は、動かなかった。
綾乃の中で笑う琴乃。
泣いている綾乃。
恐れる村人たち。
嘘を隠そうとする父と八重。
すべてが絡み合っている。
ここで逃げれば、また誰かが誰かを災いにする。
また誰かが黙らされる。
鈴音は母の鈴を握りしめた。
喉が痛い。
声はもう限界に近い。
それでも、鈴音は朔夜を見た。
朔夜は鈴音の目を見て、低く言った。
「無理をするな、と言いたい」
鈴音は小さく頷く。
「だが、お前が言うべきだと思うなら、俺は支える」
その言葉に、鈴音は息を吸った。
支えてくれる。
代わりに言うのではなく。
鈴音の声が届くように、隣で支えてくれる。
鈴音は、一歩前に出た。
黒い靄が頬をかすめる。
母の鈴が鳴る。
守り紐が鳴る。
社に眠る鈴たちも、遠くで応えている気がした。
ちりん。
ちりん。
鈴音は、綾乃を見た。
「私は……災いでは、ありません」
一度言った言葉を、もう一度言う。
今度は、村全体へ向けて。
「琴乃さまも……災いでは、ありません」
琴乃の影が、ぴたりと動きを止めた。
鈴音は喉の痛みに耐えながら続ける。
「母も……災いでは、ありません」
黒い靄が揺れる。
「声を、奪った人たちが……嘘を、押しつけた人たちが……真実を、隠した人たちが……災いを、作ったのです」
村人たちが静まり返った。
鈴音の声は弱い。
かすれている。
けれど、その弱い声に、黒い靄が震えていた。
琴乃の影が、初めて笑わなくなった。
その赤い唇が、わずかに開く。
「あなたに、何がわかるの」
鈴音は答えられなかった。
喉が限界だった。
代わりに、紙を取り出す。
震える手で書いた。
『わかりません。だから、聞きます』
琴乃が沈黙する。
鈴音は続けて書く。
『あなたの声も、綾乃さまの声も、母の声も。聞かないまま災いにしません』
綾乃の目から、涙が一筋こぼれた。
それが綾乃のものか、琴乃のものかはわからない。
だが、白無垢の影がわずかに揺らいだ。
次の瞬間、琴乃は低く笑った。
「綺麗事ね」
そして、綾乃の体を包み込むように黒い靄をまとった。
「なら、聞いてみなさい。全部聞いて、それでも壊れずにいられるなら」
白無垢の影が、綾乃の中へ沈んでいく。
綾乃はその場に崩れ落ちた。
「綾乃!」
八重が駆け寄る。
黒い靄は完全には消えていない。
むしろ、常盤家の屋敷の奥へ、濃く流れ込んでいく。
朔夜が低く言った。
「怨霊が奥へ引いた。まだ終わっていない」
鈴音は膝から崩れそうになった。
朔夜が支える。
村人たちは、誰も声を出せなかった。
さっきまで鈴音を責めていた人々が、今はただ、恐れと戸惑いの目で鈴音を見ている。
鈴音は思った。
今日ですべてが変わるわけではない。
父も八重も、まだ罪を認めていない。
綾乃の中には琴乃がいる。
村人たちも、すぐに自分たちの嘘と向き合えるわけではない。
でも、最初の嘘は剥がれた。
鈴音は災いではない。
その声は、村の前で確かに響いた。
社へ戻る道で、鈴音はほとんど歩けなかった。
喉は焼けるように痛み、体は重かった。
朔夜が何も言わず、鈴音を抱き上げた。
鈴音は驚いて身じろぎしたが、朔夜は低く言う。
「今日は歩くな」
鈴音は抗議しようとしたが、声も出ず、筆も持てない。
千景が横から言った。
「今回は素直に運ばれてください。鈴音さん、顔真っ白ですよ」
鈴音は諦めて、朔夜の衣をそっと掴んだ。
朔夜の腕は冷たいのに、安心する。
山道を進む間、村の嘘の音は遠ざかっていった。
代わりに、母の鈴が胸元で小さく鳴っている。
ちりん。
鈴音は目を閉じた。
今日は言えた。
私は災いではない。
母も、琴乃も、災いではない。
真実を隠した嘘こそが、災いを作った。
その言葉は、まだ小さな一歩かもしれない。
けれど鈴音にとっては、長い沈黙を破る大きな一歩だった。
社に着くと、朔夜は鈴音を部屋へ運んだ。
喉に手をかざし、痛みを鎮める。
「無茶をした」
声は静かだったが、少しだけ怒っているようにも聞こえた。
鈴音は紙を探した。
千景がすぐに差し出してくれる。
鈴音は震える手で書いた。
『言えてよかったです』
朔夜はそれを見て、長く黙った。
やがて、小さく息を吐く。
「そうだな」
その一言に、鈴音は安心して目を閉じた。
朔夜が続ける。
「だが、次は俺の支えをもっと使え」
鈴音は薄く目を開ける。
朔夜は静かに言った。
「隣に立つと言った。お前一人で全部を背負う必要はない」
鈴音の胸が、じんわり温かくなった。
紙に、ゆっくり書く。
『はい』
それだけ書くと、力が抜けた。
眠りに落ちる寸前、鈴音は綾乃の涙を思い出した。
偽りの姫君。
ずっとそう見えていた姉。
けれど、偽りをまとわなければ立っていられなかった姉。
許せない。
けれど、聞かなければならない。
鈴音は目を閉じた。
夢の中で、白無垢の影が遠くに立っていた。
琴乃は笑っていなかった。
ただ、鈴音を見ていた。
その足元には、壊れた鈴が落ちている。
鈴音が近づこうとすると、琴乃は背を向けて言った。
――次は、声を奪った夜を見せてあげる。
鈴音は息を呑む。
白い霧の奥で、幼い綾乃の泣き声が聞こえた。
そして、八重の声。
――その子の声を封じなさい。
鈴音は目を覚ました。
喉が熱い。
胸元の母の鈴が鳴っている。
ちりん。
次に向き合うべき真実は、もうわかっていた。
声を奪った夜。
綾乃が、八重が、そして自分が、何を見て何を失ったのか。
鈴音は震える手で、枕元の紙に書いた。
『次は、声を奪われた夜です』
その文字の上に、窓の外から朝の光が落ちた。
代わりに、村中へ噂が走った。
鈴音が鬼神を連れて常盤家の蔵を荒らした。
病に伏せる綾乃を脅し、母の形見だと偽って古い鈴を盗んだ。
鬼神に魅入られた鈴音は、常盤家を滅ぼし、村に災いを呼ぼうとしている。
その噂は、朝露より早く村の隅々まで広がった。
社の石段に立つ鈴音にも、その音は届いていた。
ひそひそ。
ざわざわ。
あの娘はやはり災いだった。
声が出ないはずなのに、鬼神の力で喋ったらしい。
綾乃さまがおかわいそう。
常盤家は、ずっと鈴音を守ってきたのに。
嘘の音が、村の方から黒い靄となって立ち昇っている。
前なら、その音だけで膝をついていたかもしれない。自分が悪いのだと思ったかもしれない。
けれど、今は違う。
鈴音は胸元の守り紐を握った。
ちりん。
小さな鈴の音が、自分の内側へ帰る道を教えてくれる。
鈴音は災いではない。
鬼神に魅入られたわけでもない。
母の鈴を盗んだのではない。
真実を取り戻したのだ。
背後から、朔夜が近づいてきた。
「聞こえているな」
鈴音は頷いた。
紙に書く。
『村中が、私を悪者にしています』
「そうだな」
朔夜は否定しなかった。
その正直さが、今はありがたかった。
「常盤家が流したのだろう。先手を打ったつもりだ」
千景が境内の端から駆けてくる。
「ひどいですよ。鈴音さんが鬼神さまをたぶらかしたとか、綾乃さんを呪ったとか、めちゃくちゃ言われてます」
鈴音は息を吸った。
胸が痛まないわけではない。
だが、不思議と涙は出なかった。
あまりにも覚えのあるやり方だったからだ。
鈴音が言葉を持たない間、常盤家はずっとそうしてきた。
鈴音が何も言えないことをいいことに、鈴音のせいにした。
声が出ないから、否定できない。
否定できないから、真実になっていく。
それが、鈴音の十七年だった。
鈴音は紙に書いた。
『常盤家へ行きます』
朔夜は鈴音を見た。
「村人も集まっている。お前を責める声もあるだろう」
『わかっています』
「喉もまだ万全ではない」
『それも、わかっています』
鈴音は、母の鈴を手に取った。
小さな銀の鈴は、昨日より澄んだ光を帯びているように見えた。
『でも、今日行かなければ、また私の真実が誰かの嘘に変えられます』
朔夜の金の瞳が、静かに鈴音を映した。
彼は、止めなかった。
ただ、低く言った。
「ならば、隣に立つ」
鈴音の胸が温かくなる。
守るでもなく、連れていくでもなく。
隣に立つ。
その言葉が、鈴音をまっすぐ前へ向かわせた。
千景が腕をまくる。
「僕も行きます。今日は遠慮しませんからね。誰かが変なこと言ったら、狐火で髪を焦がしてやります」
鈴音は少し慌てて首を横に振った。
千景は不満そうに耳を伏せる。
「冗談です。半分くらい」
朔夜が冷ややかに言う。
「半分も本気にするな」
そのやり取りに、鈴音はほんの少し笑った。
声はまだ出ない。
けれど、その笑みだけで、胸の強張りが少し解けた。
常盤家へ向かう山道は、これまでで一番長く感じた。
村へ近づくほど、嘘の音は濃くなった。
ひそひそ。
ざわざわ。
鈴音だ。
鬼神さまもいる。
やっぱり生きていた。
綾乃さまを苦しめたのは、あの子らしい。
かわいそうに、声も出ないふりをしていたのかもしれない。
鈴音は胸元の守り紐を握りしめた。
ちりん。
自分の音を聞く。
朔夜の教えを思い出す。
すべての嘘を受け止めなくていい。
聞くものを選ぶ。
鈴音は、自分の呼吸に意識を戻した。
常盤家の門前には、村人が集まっていた。
まるで祭礼の日のようだった。
けれど、そこにあるのは期待でも祝福でもない。
好奇心、恐れ、怒り、そして誰かを責めたいという濁った熱。
門の前には、父の宗一郎が立っていた。
その隣には八重。
そして、綾乃もいた。
綾乃は白い衣をまとい、薄く化粧をしていた。顔色は悪い。けれど、その儚ささえ美しく見えるよう整えられている。
病に伏す可憐な姫君。
村人たちの目には、そう映っているのだろう。
綾乃は鈴音を見ると、弱々しく微笑んだ。
「鈴音……来てくれたのね」
その声に、周囲の村人たちがざわめく。
「綾乃さまは、あんなに妹を心配しておられるのに」
「鈴音さまは、なぜ常盤家に逆らうのだ」
「やはり鬼神に惑わされて……」
鈴音の喉が少し痛んだ。
けれど、守り札が胸元で温かくなる。
朔夜が一歩前に出ようとした。
鈴音はそっと袖を引いた。
朔夜が振り返る。
鈴音は首を横に振った。
まずは、自分で立ちたい。
朔夜はしばらく鈴音を見たあと、静かに一歩下がった。
隣に、いてくれる。
けれど、前には出ない。
その距離が、今の鈴音には何より心強かった。
八重が涙ぐんだ顔で言った。
「鈴音、お願いです。もうこれ以上、家を乱さないでちょうだい。あなたが苦しんできたことはわかっています。でも、だからといって綾乃を苦しめてよい理由にはならないでしょう?」
村人たちが同情の目を八重へ向ける。
母が娘を諭すような、優しい声。
けれど鈴音には、八重の口元から黒い糸が滲んでいるのが見えた。
嘘だ。
わかっている。
それでも、その嘘は美しい形をしていた。
鈴音を責めるための、母親らしい言葉。
宗一郎も重々しく口を開いた。
「鈴音。お前が母を慕う気持ちはわかる。だが、澄乃は病で亡くなった。それを今さら、家の罪だなどと言い立てるのは、死者への冒涜だ」
母の名が出た瞬間、鈴音の胸が冷たくなった。
澄乃。
父の口から母の名が出る。
それなのに、そこには少しの悔いもない。
あるのは、隠し通したいという焦りだけだ。
鈴音は母の鈴を握った。
ちりん。
小さく鳴る。
その音を聞いた綾乃の顔が、わずかに歪んだ。
すぐに儚い笑みへ戻したが、鈴音には見えた。
綾乃は、あの鈴を恐れている。
綾乃が一歩前に出た。
「鈴音、お願い。私のことが憎いなら、それでいいの。でも、お父さまとお母さまを苦しめないで」
村人たちが息を呑む。
なんて健気な姫君だろう。
病の身で、妹をかばっている。
そういう空気が広がっていく。
綾乃は胸に手を当て、か細い声で続けた。
「あなたが鬼神さまのもとでつらい思いをしたのなら、私が代わりに謝ります。だから、もう戻ってきて。私たちは家族でしょう?」
家族。
その言葉に、鈴音の喉へ黒い糸が伸びた。
甘く、優しく、逃げ道を塞ぐ言葉。
家族だから我慢しろ。
家族だから許せ。
家族だから真実を黙っていろ。
鈴音は一瞬、息を詰まらせた。
胸元の札が白く光る。
黒い糸が弾かれた。
朔夜の気配が鋭くなる。
けれど鈴音は、自分で息を吸った。
声を出す。
そう決めた。
喉はまだ弱い。
長くは話せない。
でも、最初の一言だけは、自分で言いたかった。
鈴音は守り紐の鈴を握る。
自分の呼吸を聞く。
嘘の音を遠ざける。
村人たちの視線が突き刺さる。
父が睨む。
八重が泣き顔を作る。
綾乃が優しい姉のふりをしている。
そのすべての前で、鈴音は唇を開いた。
「……私は」
掠れた声だった。
村人たちがどよめく。
「声が……」
「鈴音さまが喋った」
「鬼神の力か?」
鈴音は喉の痛みに耐えながら、続けた。
「災いでは、ありません」
その瞬間、門前に集まっていた人々のざわめきが止まった。
ほんの短い言葉。
けれど、鈴音が十七年間、ずっと言えなかった言葉だった。
私は災いではない。
ただ、それだけ。
それだけなのに、胸の奥で何かがほどけていく。
同時に、村人たちの周囲にまとわりついていた小さな黒い糸が、ぷつぷつと切れ始めた。
誰かが小さく息を呑む。
嘘が剥がれていく。
鈴音を災いだと思い込むことで、安心していた人々の小さな嘘。
何か悪いことが起これば、声の出ない娘のせいにすればよいという都合のいい嘘。
それが、鈴音の声に震えている。
八重の顔から涙の演技が消えた。
「鈴音、無理をしないで。あなたはまだ混乱しているのよ」
また黒い糸が伸びる。
朔夜が動こうとしたが、鈴音は手で制した。
もう一度、息を吸う。
喉が痛む。
けれど、母の鈴が鳴った。
ちりん。
「母は……病では、ありません」
宗一郎が怒鳴った。
「黙れ!」
黒い糸が鈴音の喉へ絡みつこうとする。
だが、朔夜の金の瞳が燃えた。
「鈴音に黙れと言うな」
低い声が、門前の空気を震わせる。
村人たちは一斉に後ずさった。
鈴音は朔夜を見た。
彼は隣に立っている。
守ってくれている。
でも、言葉を奪わない。
鈴音は母の鈴を掲げた。
千景が帳面を開く。
「ここに記録があります。常盤家が供物を横流ししていたこと。鬼神さまの祟りとされた災いの裏に、人間の不正があったこと。そして、鈴音さんの声を封じる呪具の記録も」
村人たちがざわめく。
「供物の横流し?」
「常盤家が?」
「そんなはずは……」
八重が叫ぶ。
「その帳面は偽物です! 鈴音が鬼神さまと共に作った偽りです!」
その言葉から、濃い黒い靄が噴き出した。
鈴音の目には、はっきり見えた。
嘘。
濁った、濃い嘘。
朔夜は冷ややかに言った。
「偽りかどうか、俺が喰えばわかる」
八重の顔が引きつる。
朔夜が帳面に指をかざすと、紙の上に黒い靄が浮かんだ。けれどそれは、帳面そのものから出たものではなかった。
帳面を否定しようとする八重と宗一郎の言葉から出たものだった。
朔夜はその靄を指先で摘み、口元へ運ぶ。
村人たちが息を呑む中、彼はそれを喰らった。
ぱきり、と小さな音がした。
次の瞬間、八重の顔が青ざめる。
宗一郎の額に汗が浮かぶ。
鈴音の耳に、隠されていた声が少しだけ聞こえた。
ばれる。
澄乃が残したものが。
鈴音の声が戻れば、すべて終わる。
それは、誰の心の声だったのか。
父か、八重か。
あるいは、この家そのものか。
綾乃がよろめくように一歩前へ出た。
「やめて……」
その声だけは、本当に弱っているように聞こえた。
村人たちは綾乃を見る。
彼女は涙を浮かべ、鈴音に手を伸ばした。
「鈴音、お願い。もうやめて。私、怖いの」
鈴音の胸が痛んだ。
綾乃は、本当に怖がっている。
けれど、何を怖がっているのか。
鈴音に責められることか。
罪が暴かれることか。
それとも、綾乃の中にいる琴乃が表へ出ることか。
鈴音は紙を取り出し、書こうとした。
だが、綾乃が一瞬だけ笑った。
鈴音だけに見える角度で。
その唇が、小さく動く。
声は出ていない。
けれど、鈴音には読めた。
まだ声なんて出ると思っているの?
喉が一気に熱くなる。
綾乃の足元から、黒い糸が伸びた。
鈴音の喉へ。
その瞬間、母の鈴が激しく鳴った。
ちりん。
ちりん。
鈴音は喉を押さえながらも、綾乃を見た。
今なら、わかる。
綾乃の中には、綾乃自身の嫉妬がある。
その奥に、琴乃の恨みがある。
その二つが絡み合い、鈴音の声を縛っている。
鈴音は声を振り絞った。
「綾乃、さま」
村人たちがまたざわめく。
綾乃の目が大きく見開かれた。
鈴音が名前を呼んだことが、予想外だったのだろう。
「私は……あなたを、許せません」
声は震えていた。
息も途切れそうだった。
それでも、鈴音は言い切った。
「でも……あなたの苦しみで、私の声を奪っていいことには、なりません」
綾乃の顔が歪む。
村人たちは意味を理解できず、互いに顔を見合わせる。
八重が叫んだ。
「何を言っているの、鈴音! 綾乃はあなたを心配して――」
「嘘です」
今度は、鈴音が言った。
短く。
けれど、はっきり。
その一言に、八重の口元から黒い糸が弾けた。
村人たちの間から悲鳴が上がる。
「今、何か黒いものが……」
「見えたぞ」
「八重さまの口から……」
嘘が、他の者にも見え始めていた。
鈴音の声が、嘘を形にしているのだ。
宗一郎が鈴音へ歩み寄ろうとした。
「やめろ、鈴音。これ以上は――」
朔夜が一歩前に出る。
「近づくな」
宗一郎の足が止まった。
朔夜は静かに言う。
「お前が隠してきた嘘は、もう鈴音を縛れない」
その言葉に、宗一郎の顔が歪む。
綾乃が突然、笑った。
それは、綾乃の笑い方ではなかった。
か細く儚い姫君の笑みではない。
喉の奥から漏れるような、古い、湿った笑い声。
村人たちが一斉に綾乃を見る。
綾乃は両手で顔を覆った。
けれど指の隙間から、黒い靄が溢れている。
「ひどいわ、鈴音」
声が変わっていた。
綾乃の声に、別の女の声が重なっている。
「姉を責めるの? 苦しんでいた姉を。愛されたかっただけの姉を」
朔夜の顔が険しくなる。
「琴乃」
綾乃の背後に、白無垢の影がゆらりと立ち上がった。
村人たちが悲鳴を上げて後ずさる。
顔のない花嫁。
赤い唇。
黒く濁った鈴の音。
ちりん。
ちりん。
琴乃の影は、門前に集まった村人たちを見渡した。
「懐かしいわね」
その声に、年老いた村人の何人かが青ざめた。
百年前のことなど直接知る者はいないはずだ。
だが、家々の中で語られ、隠され、恐れられてきた名を、本能で感じ取ったのだろう。
琴乃が笑う。
「この村は、まだ同じことをしているのね。誰かに嘘を押しつけて、誰かを災いにして、自分たちだけは清らかな顔をして」
黒い靄が、村人たちの足元から湧き上がる。
鈴音の耳に、さらに多くの嘘の音が流れ込む。
私は知らない。
昔のことだ。
常盤家が言ったから。
鬼神が怖かったから。
仕方なかった。
仕方なかった。
仕方なかった。
鈴音はよろめいた。
朔夜が支える。
「聞くな。呑まれる」
けれど、琴乃は鈴音を見て笑った。
「聞きなさい、鈴音。これが真実よ。あなた一人が災いではない。この村そのものが、嘘で腐っている」
鈴音は胸を押さえた。
琴乃の言葉は恐ろしい。
けれど、すべてが嘘ではない。
村は確かに、誰かを犠牲にしてきた。
琴乃を。
母を。
そして、鈴音を。
綾乃の口が開く。
いや、琴乃が綾乃の口を使っている。
「ならば、この村ごと真実に沈めてやる」
その声が響いた瞬間、常盤家の門の奥から黒い靄が噴き出した。
空が陰る。
村人たちが逃げ惑う。
八重が綾乃の名を叫ぶ。
宗一郎が腰を抜かす。
千景が狐火を放ち、黒い靄を押し返す。
「鈴音さん、下がって!」
しかし鈴音は、動かなかった。
綾乃の中で笑う琴乃。
泣いている綾乃。
恐れる村人たち。
嘘を隠そうとする父と八重。
すべてが絡み合っている。
ここで逃げれば、また誰かが誰かを災いにする。
また誰かが黙らされる。
鈴音は母の鈴を握りしめた。
喉が痛い。
声はもう限界に近い。
それでも、鈴音は朔夜を見た。
朔夜は鈴音の目を見て、低く言った。
「無理をするな、と言いたい」
鈴音は小さく頷く。
「だが、お前が言うべきだと思うなら、俺は支える」
その言葉に、鈴音は息を吸った。
支えてくれる。
代わりに言うのではなく。
鈴音の声が届くように、隣で支えてくれる。
鈴音は、一歩前に出た。
黒い靄が頬をかすめる。
母の鈴が鳴る。
守り紐が鳴る。
社に眠る鈴たちも、遠くで応えている気がした。
ちりん。
ちりん。
鈴音は、綾乃を見た。
「私は……災いでは、ありません」
一度言った言葉を、もう一度言う。
今度は、村全体へ向けて。
「琴乃さまも……災いでは、ありません」
琴乃の影が、ぴたりと動きを止めた。
鈴音は喉の痛みに耐えながら続ける。
「母も……災いでは、ありません」
黒い靄が揺れる。
「声を、奪った人たちが……嘘を、押しつけた人たちが……真実を、隠した人たちが……災いを、作ったのです」
村人たちが静まり返った。
鈴音の声は弱い。
かすれている。
けれど、その弱い声に、黒い靄が震えていた。
琴乃の影が、初めて笑わなくなった。
その赤い唇が、わずかに開く。
「あなたに、何がわかるの」
鈴音は答えられなかった。
喉が限界だった。
代わりに、紙を取り出す。
震える手で書いた。
『わかりません。だから、聞きます』
琴乃が沈黙する。
鈴音は続けて書く。
『あなたの声も、綾乃さまの声も、母の声も。聞かないまま災いにしません』
綾乃の目から、涙が一筋こぼれた。
それが綾乃のものか、琴乃のものかはわからない。
だが、白無垢の影がわずかに揺らいだ。
次の瞬間、琴乃は低く笑った。
「綺麗事ね」
そして、綾乃の体を包み込むように黒い靄をまとった。
「なら、聞いてみなさい。全部聞いて、それでも壊れずにいられるなら」
白無垢の影が、綾乃の中へ沈んでいく。
綾乃はその場に崩れ落ちた。
「綾乃!」
八重が駆け寄る。
黒い靄は完全には消えていない。
むしろ、常盤家の屋敷の奥へ、濃く流れ込んでいく。
朔夜が低く言った。
「怨霊が奥へ引いた。まだ終わっていない」
鈴音は膝から崩れそうになった。
朔夜が支える。
村人たちは、誰も声を出せなかった。
さっきまで鈴音を責めていた人々が、今はただ、恐れと戸惑いの目で鈴音を見ている。
鈴音は思った。
今日ですべてが変わるわけではない。
父も八重も、まだ罪を認めていない。
綾乃の中には琴乃がいる。
村人たちも、すぐに自分たちの嘘と向き合えるわけではない。
でも、最初の嘘は剥がれた。
鈴音は災いではない。
その声は、村の前で確かに響いた。
社へ戻る道で、鈴音はほとんど歩けなかった。
喉は焼けるように痛み、体は重かった。
朔夜が何も言わず、鈴音を抱き上げた。
鈴音は驚いて身じろぎしたが、朔夜は低く言う。
「今日は歩くな」
鈴音は抗議しようとしたが、声も出ず、筆も持てない。
千景が横から言った。
「今回は素直に運ばれてください。鈴音さん、顔真っ白ですよ」
鈴音は諦めて、朔夜の衣をそっと掴んだ。
朔夜の腕は冷たいのに、安心する。
山道を進む間、村の嘘の音は遠ざかっていった。
代わりに、母の鈴が胸元で小さく鳴っている。
ちりん。
鈴音は目を閉じた。
今日は言えた。
私は災いではない。
母も、琴乃も、災いではない。
真実を隠した嘘こそが、災いを作った。
その言葉は、まだ小さな一歩かもしれない。
けれど鈴音にとっては、長い沈黙を破る大きな一歩だった。
社に着くと、朔夜は鈴音を部屋へ運んだ。
喉に手をかざし、痛みを鎮める。
「無茶をした」
声は静かだったが、少しだけ怒っているようにも聞こえた。
鈴音は紙を探した。
千景がすぐに差し出してくれる。
鈴音は震える手で書いた。
『言えてよかったです』
朔夜はそれを見て、長く黙った。
やがて、小さく息を吐く。
「そうだな」
その一言に、鈴音は安心して目を閉じた。
朔夜が続ける。
「だが、次は俺の支えをもっと使え」
鈴音は薄く目を開ける。
朔夜は静かに言った。
「隣に立つと言った。お前一人で全部を背負う必要はない」
鈴音の胸が、じんわり温かくなった。
紙に、ゆっくり書く。
『はい』
それだけ書くと、力が抜けた。
眠りに落ちる寸前、鈴音は綾乃の涙を思い出した。
偽りの姫君。
ずっとそう見えていた姉。
けれど、偽りをまとわなければ立っていられなかった姉。
許せない。
けれど、聞かなければならない。
鈴音は目を閉じた。
夢の中で、白無垢の影が遠くに立っていた。
琴乃は笑っていなかった。
ただ、鈴音を見ていた。
その足元には、壊れた鈴が落ちている。
鈴音が近づこうとすると、琴乃は背を向けて言った。
――次は、声を奪った夜を見せてあげる。
鈴音は息を呑む。
白い霧の奥で、幼い綾乃の泣き声が聞こえた。
そして、八重の声。
――その子の声を封じなさい。
鈴音は目を覚ました。
喉が熱い。
胸元の母の鈴が鳴っている。
ちりん。
次に向き合うべき真実は、もうわかっていた。
声を奪った夜。
綾乃が、八重が、そして自分が、何を見て何を失ったのか。
鈴音は震える手で、枕元の紙に書いた。
『次は、声を奪われた夜です』
その文字の上に、窓の外から朝の光が落ちた。



