花嫁の声を食べる鬼神さま

 翌日、常盤家から使者は来なかった。

 代わりに、村中へ噂が走った。

 鈴音が鬼神を連れて常盤家の蔵を荒らした。

 病に伏せる綾乃を脅し、母の形見だと偽って古い鈴を盗んだ。

 鬼神に魅入られた鈴音は、常盤家を滅ぼし、村に災いを呼ぼうとしている。

 その噂は、朝露より早く村の隅々まで広がった。

 社の石段に立つ鈴音にも、その音は届いていた。

 ひそひそ。

 ざわざわ。

 あの娘はやはり災いだった。

 声が出ないはずなのに、鬼神の力で喋ったらしい。

 綾乃さまがおかわいそう。

 常盤家は、ずっと鈴音を守ってきたのに。

 嘘の音が、村の方から黒い靄となって立ち昇っている。

 前なら、その音だけで膝をついていたかもしれない。自分が悪いのだと思ったかもしれない。

 けれど、今は違う。

 鈴音は胸元の守り紐を握った。

 ちりん。

 小さな鈴の音が、自分の内側へ帰る道を教えてくれる。

 鈴音は災いではない。

 鬼神に魅入られたわけでもない。

 母の鈴を盗んだのではない。

 真実を取り戻したのだ。

 背後から、朔夜が近づいてきた。

「聞こえているな」

 鈴音は頷いた。

 紙に書く。

『村中が、私を悪者にしています』

「そうだな」

 朔夜は否定しなかった。

 その正直さが、今はありがたかった。

「常盤家が流したのだろう。先手を打ったつもりだ」

 千景が境内の端から駆けてくる。

「ひどいですよ。鈴音さんが鬼神さまをたぶらかしたとか、綾乃さんを呪ったとか、めちゃくちゃ言われてます」

 鈴音は息を吸った。

 胸が痛まないわけではない。

 だが、不思議と涙は出なかった。

 あまりにも覚えのあるやり方だったからだ。

 鈴音が言葉を持たない間、常盤家はずっとそうしてきた。

 鈴音が何も言えないことをいいことに、鈴音のせいにした。

 声が出ないから、否定できない。

 否定できないから、真実になっていく。

 それが、鈴音の十七年だった。

 鈴音は紙に書いた。

『常盤家へ行きます』

 朔夜は鈴音を見た。

「村人も集まっている。お前を責める声もあるだろう」

『わかっています』

「喉もまだ万全ではない」

『それも、わかっています』

 鈴音は、母の鈴を手に取った。

 小さな銀の鈴は、昨日より澄んだ光を帯びているように見えた。

『でも、今日行かなければ、また私の真実が誰かの嘘に変えられます』

 朔夜の金の瞳が、静かに鈴音を映した。

 彼は、止めなかった。

 ただ、低く言った。

「ならば、隣に立つ」

 鈴音の胸が温かくなる。

 守るでもなく、連れていくでもなく。

 隣に立つ。

 その言葉が、鈴音をまっすぐ前へ向かわせた。

 千景が腕をまくる。

「僕も行きます。今日は遠慮しませんからね。誰かが変なこと言ったら、狐火で髪を焦がしてやります」

 鈴音は少し慌てて首を横に振った。

 千景は不満そうに耳を伏せる。

「冗談です。半分くらい」

 朔夜が冷ややかに言う。

「半分も本気にするな」

 そのやり取りに、鈴音はほんの少し笑った。

 声はまだ出ない。

 けれど、その笑みだけで、胸の強張りが少し解けた。

 常盤家へ向かう山道は、これまでで一番長く感じた。

 村へ近づくほど、嘘の音は濃くなった。

 ひそひそ。

 ざわざわ。

 鈴音だ。

 鬼神さまもいる。

 やっぱり生きていた。

 綾乃さまを苦しめたのは、あの子らしい。

 かわいそうに、声も出ないふりをしていたのかもしれない。

 鈴音は胸元の守り紐を握りしめた。

 ちりん。

 自分の音を聞く。

 朔夜の教えを思い出す。

 すべての嘘を受け止めなくていい。

 聞くものを選ぶ。

 鈴音は、自分の呼吸に意識を戻した。

 常盤家の門前には、村人が集まっていた。

 まるで祭礼の日のようだった。

 けれど、そこにあるのは期待でも祝福でもない。

 好奇心、恐れ、怒り、そして誰かを責めたいという濁った熱。

 門の前には、父の宗一郎が立っていた。

 その隣には八重。

 そして、綾乃もいた。

 綾乃は白い衣をまとい、薄く化粧をしていた。顔色は悪い。けれど、その儚ささえ美しく見えるよう整えられている。

 病に伏す可憐な姫君。

 村人たちの目には、そう映っているのだろう。

 綾乃は鈴音を見ると、弱々しく微笑んだ。

「鈴音……来てくれたのね」

 その声に、周囲の村人たちがざわめく。

「綾乃さまは、あんなに妹を心配しておられるのに」

「鈴音さまは、なぜ常盤家に逆らうのだ」

「やはり鬼神に惑わされて……」

 鈴音の喉が少し痛んだ。

 けれど、守り札が胸元で温かくなる。

 朔夜が一歩前に出ようとした。

 鈴音はそっと袖を引いた。

 朔夜が振り返る。

 鈴音は首を横に振った。

 まずは、自分で立ちたい。

 朔夜はしばらく鈴音を見たあと、静かに一歩下がった。

 隣に、いてくれる。

 けれど、前には出ない。

 その距離が、今の鈴音には何より心強かった。

 八重が涙ぐんだ顔で言った。

「鈴音、お願いです。もうこれ以上、家を乱さないでちょうだい。あなたが苦しんできたことはわかっています。でも、だからといって綾乃を苦しめてよい理由にはならないでしょう?」

 村人たちが同情の目を八重へ向ける。

 母が娘を諭すような、優しい声。

 けれど鈴音には、八重の口元から黒い糸が滲んでいるのが見えた。

 嘘だ。

 わかっている。

 それでも、その嘘は美しい形をしていた。

 鈴音を責めるための、母親らしい言葉。

 宗一郎も重々しく口を開いた。

「鈴音。お前が母を慕う気持ちはわかる。だが、澄乃は病で亡くなった。それを今さら、家の罪だなどと言い立てるのは、死者への冒涜だ」

 母の名が出た瞬間、鈴音の胸が冷たくなった。

 澄乃。

 父の口から母の名が出る。

 それなのに、そこには少しの悔いもない。

 あるのは、隠し通したいという焦りだけだ。

 鈴音は母の鈴を握った。

 ちりん。

 小さく鳴る。

 その音を聞いた綾乃の顔が、わずかに歪んだ。

 すぐに儚い笑みへ戻したが、鈴音には見えた。

 綾乃は、あの鈴を恐れている。

 綾乃が一歩前に出た。

「鈴音、お願い。私のことが憎いなら、それでいいの。でも、お父さまとお母さまを苦しめないで」

 村人たちが息を呑む。

 なんて健気な姫君だろう。

 病の身で、妹をかばっている。

 そういう空気が広がっていく。

 綾乃は胸に手を当て、か細い声で続けた。

「あなたが鬼神さまのもとでつらい思いをしたのなら、私が代わりに謝ります。だから、もう戻ってきて。私たちは家族でしょう?」

 家族。

 その言葉に、鈴音の喉へ黒い糸が伸びた。

 甘く、優しく、逃げ道を塞ぐ言葉。

 家族だから我慢しろ。

 家族だから許せ。

 家族だから真実を黙っていろ。

 鈴音は一瞬、息を詰まらせた。

 胸元の札が白く光る。

 黒い糸が弾かれた。

 朔夜の気配が鋭くなる。

 けれど鈴音は、自分で息を吸った。

 声を出す。

 そう決めた。

 喉はまだ弱い。

 長くは話せない。

 でも、最初の一言だけは、自分で言いたかった。

 鈴音は守り紐の鈴を握る。

 自分の呼吸を聞く。

 嘘の音を遠ざける。

 村人たちの視線が突き刺さる。

 父が睨む。

 八重が泣き顔を作る。

 綾乃が優しい姉のふりをしている。

 そのすべての前で、鈴音は唇を開いた。

「……私は」

 掠れた声だった。

 村人たちがどよめく。

「声が……」

「鈴音さまが喋った」

「鬼神の力か?」

 鈴音は喉の痛みに耐えながら、続けた。

「災いでは、ありません」

 その瞬間、門前に集まっていた人々のざわめきが止まった。

 ほんの短い言葉。

 けれど、鈴音が十七年間、ずっと言えなかった言葉だった。

 私は災いではない。

 ただ、それだけ。

 それだけなのに、胸の奥で何かがほどけていく。

 同時に、村人たちの周囲にまとわりついていた小さな黒い糸が、ぷつぷつと切れ始めた。

 誰かが小さく息を呑む。

 嘘が剥がれていく。

 鈴音を災いだと思い込むことで、安心していた人々の小さな嘘。

 何か悪いことが起これば、声の出ない娘のせいにすればよいという都合のいい嘘。

 それが、鈴音の声に震えている。

 八重の顔から涙の演技が消えた。

「鈴音、無理をしないで。あなたはまだ混乱しているのよ」

 また黒い糸が伸びる。

 朔夜が動こうとしたが、鈴音は手で制した。

 もう一度、息を吸う。

 喉が痛む。

 けれど、母の鈴が鳴った。

 ちりん。

「母は……病では、ありません」

 宗一郎が怒鳴った。

「黙れ!」

 黒い糸が鈴音の喉へ絡みつこうとする。

 だが、朔夜の金の瞳が燃えた。

「鈴音に黙れと言うな」

 低い声が、門前の空気を震わせる。

 村人たちは一斉に後ずさった。

 鈴音は朔夜を見た。

 彼は隣に立っている。

 守ってくれている。

 でも、言葉を奪わない。

 鈴音は母の鈴を掲げた。

 千景が帳面を開く。

「ここに記録があります。常盤家が供物を横流ししていたこと。鬼神さまの祟りとされた災いの裏に、人間の不正があったこと。そして、鈴音さんの声を封じる呪具の記録も」

 村人たちがざわめく。

「供物の横流し?」

「常盤家が?」

「そんなはずは……」

 八重が叫ぶ。

「その帳面は偽物です! 鈴音が鬼神さまと共に作った偽りです!」

 その言葉から、濃い黒い靄が噴き出した。

 鈴音の目には、はっきり見えた。

 嘘。

 濁った、濃い嘘。

 朔夜は冷ややかに言った。

「偽りかどうか、俺が喰えばわかる」

 八重の顔が引きつる。

 朔夜が帳面に指をかざすと、紙の上に黒い靄が浮かんだ。けれどそれは、帳面そのものから出たものではなかった。

 帳面を否定しようとする八重と宗一郎の言葉から出たものだった。

 朔夜はその靄を指先で摘み、口元へ運ぶ。

 村人たちが息を呑む中、彼はそれを喰らった。

 ぱきり、と小さな音がした。

 次の瞬間、八重の顔が青ざめる。

 宗一郎の額に汗が浮かぶ。

 鈴音の耳に、隠されていた声が少しだけ聞こえた。

 ばれる。

 澄乃が残したものが。

 鈴音の声が戻れば、すべて終わる。

 それは、誰の心の声だったのか。

 父か、八重か。

 あるいは、この家そのものか。

 綾乃がよろめくように一歩前へ出た。

「やめて……」

 その声だけは、本当に弱っているように聞こえた。

 村人たちは綾乃を見る。

 彼女は涙を浮かべ、鈴音に手を伸ばした。

「鈴音、お願い。もうやめて。私、怖いの」

 鈴音の胸が痛んだ。

 綾乃は、本当に怖がっている。

 けれど、何を怖がっているのか。

 鈴音に責められることか。

 罪が暴かれることか。

 それとも、綾乃の中にいる琴乃が表へ出ることか。

 鈴音は紙を取り出し、書こうとした。

 だが、綾乃が一瞬だけ笑った。

 鈴音だけに見える角度で。

 その唇が、小さく動く。

 声は出ていない。

 けれど、鈴音には読めた。

 まだ声なんて出ると思っているの?

 喉が一気に熱くなる。

 綾乃の足元から、黒い糸が伸びた。

 鈴音の喉へ。

 その瞬間、母の鈴が激しく鳴った。

 ちりん。

 ちりん。

 鈴音は喉を押さえながらも、綾乃を見た。

 今なら、わかる。

 綾乃の中には、綾乃自身の嫉妬がある。

 その奥に、琴乃の恨みがある。

 その二つが絡み合い、鈴音の声を縛っている。

 鈴音は声を振り絞った。

「綾乃、さま」

 村人たちがまたざわめく。

 綾乃の目が大きく見開かれた。

 鈴音が名前を呼んだことが、予想外だったのだろう。

「私は……あなたを、許せません」

 声は震えていた。

 息も途切れそうだった。

 それでも、鈴音は言い切った。

「でも……あなたの苦しみで、私の声を奪っていいことには、なりません」

 綾乃の顔が歪む。

 村人たちは意味を理解できず、互いに顔を見合わせる。

 八重が叫んだ。

「何を言っているの、鈴音! 綾乃はあなたを心配して――」

「嘘です」

 今度は、鈴音が言った。

 短く。

 けれど、はっきり。

 その一言に、八重の口元から黒い糸が弾けた。

 村人たちの間から悲鳴が上がる。

「今、何か黒いものが……」

「見えたぞ」

「八重さまの口から……」

 嘘が、他の者にも見え始めていた。

 鈴音の声が、嘘を形にしているのだ。

 宗一郎が鈴音へ歩み寄ろうとした。

「やめろ、鈴音。これ以上は――」

 朔夜が一歩前に出る。

「近づくな」

 宗一郎の足が止まった。

 朔夜は静かに言う。

「お前が隠してきた嘘は、もう鈴音を縛れない」

 その言葉に、宗一郎の顔が歪む。

 綾乃が突然、笑った。

 それは、綾乃の笑い方ではなかった。

 か細く儚い姫君の笑みではない。

 喉の奥から漏れるような、古い、湿った笑い声。

 村人たちが一斉に綾乃を見る。

 綾乃は両手で顔を覆った。

 けれど指の隙間から、黒い靄が溢れている。

「ひどいわ、鈴音」

 声が変わっていた。

 綾乃の声に、別の女の声が重なっている。

「姉を責めるの? 苦しんでいた姉を。愛されたかっただけの姉を」

 朔夜の顔が険しくなる。

「琴乃」

 綾乃の背後に、白無垢の影がゆらりと立ち上がった。

 村人たちが悲鳴を上げて後ずさる。

 顔のない花嫁。

 赤い唇。

 黒く濁った鈴の音。

 ちりん。

 ちりん。

 琴乃の影は、門前に集まった村人たちを見渡した。

「懐かしいわね」

 その声に、年老いた村人の何人かが青ざめた。

 百年前のことなど直接知る者はいないはずだ。

 だが、家々の中で語られ、隠され、恐れられてきた名を、本能で感じ取ったのだろう。

 琴乃が笑う。

「この村は、まだ同じことをしているのね。誰かに嘘を押しつけて、誰かを災いにして、自分たちだけは清らかな顔をして」

 黒い靄が、村人たちの足元から湧き上がる。

 鈴音の耳に、さらに多くの嘘の音が流れ込む。

 私は知らない。

 昔のことだ。

 常盤家が言ったから。

 鬼神が怖かったから。

 仕方なかった。

 仕方なかった。

 仕方なかった。

 鈴音はよろめいた。

 朔夜が支える。

「聞くな。呑まれる」

 けれど、琴乃は鈴音を見て笑った。

「聞きなさい、鈴音。これが真実よ。あなた一人が災いではない。この村そのものが、嘘で腐っている」

 鈴音は胸を押さえた。

 琴乃の言葉は恐ろしい。

 けれど、すべてが嘘ではない。

 村は確かに、誰かを犠牲にしてきた。

 琴乃を。

 母を。

 そして、鈴音を。

 綾乃の口が開く。

 いや、琴乃が綾乃の口を使っている。

「ならば、この村ごと真実に沈めてやる」

 その声が響いた瞬間、常盤家の門の奥から黒い靄が噴き出した。

 空が陰る。

 村人たちが逃げ惑う。

 八重が綾乃の名を叫ぶ。

 宗一郎が腰を抜かす。

 千景が狐火を放ち、黒い靄を押し返す。

「鈴音さん、下がって!」

 しかし鈴音は、動かなかった。

 綾乃の中で笑う琴乃。

 泣いている綾乃。

 恐れる村人たち。

 嘘を隠そうとする父と八重。

 すべてが絡み合っている。

 ここで逃げれば、また誰かが誰かを災いにする。

 また誰かが黙らされる。

 鈴音は母の鈴を握りしめた。

 喉が痛い。

 声はもう限界に近い。

 それでも、鈴音は朔夜を見た。

 朔夜は鈴音の目を見て、低く言った。

「無理をするな、と言いたい」

 鈴音は小さく頷く。

「だが、お前が言うべきだと思うなら、俺は支える」

 その言葉に、鈴音は息を吸った。

 支えてくれる。

 代わりに言うのではなく。

 鈴音の声が届くように、隣で支えてくれる。

 鈴音は、一歩前に出た。

 黒い靄が頬をかすめる。

 母の鈴が鳴る。

 守り紐が鳴る。

 社に眠る鈴たちも、遠くで応えている気がした。

 ちりん。

 ちりん。

 鈴音は、綾乃を見た。

「私は……災いでは、ありません」

 一度言った言葉を、もう一度言う。

 今度は、村全体へ向けて。

「琴乃さまも……災いでは、ありません」

 琴乃の影が、ぴたりと動きを止めた。

 鈴音は喉の痛みに耐えながら続ける。

「母も……災いでは、ありません」

 黒い靄が揺れる。

「声を、奪った人たちが……嘘を、押しつけた人たちが……真実を、隠した人たちが……災いを、作ったのです」

 村人たちが静まり返った。

 鈴音の声は弱い。

 かすれている。

 けれど、その弱い声に、黒い靄が震えていた。

 琴乃の影が、初めて笑わなくなった。

 その赤い唇が、わずかに開く。

「あなたに、何がわかるの」

 鈴音は答えられなかった。

 喉が限界だった。

 代わりに、紙を取り出す。

 震える手で書いた。

『わかりません。だから、聞きます』

 琴乃が沈黙する。

 鈴音は続けて書く。

『あなたの声も、綾乃さまの声も、母の声も。聞かないまま災いにしません』

 綾乃の目から、涙が一筋こぼれた。

 それが綾乃のものか、琴乃のものかはわからない。

 だが、白無垢の影がわずかに揺らいだ。

 次の瞬間、琴乃は低く笑った。

「綺麗事ね」

 そして、綾乃の体を包み込むように黒い靄をまとった。

「なら、聞いてみなさい。全部聞いて、それでも壊れずにいられるなら」

 白無垢の影が、綾乃の中へ沈んでいく。

 綾乃はその場に崩れ落ちた。

「綾乃!」

 八重が駆け寄る。

 黒い靄は完全には消えていない。

 むしろ、常盤家の屋敷の奥へ、濃く流れ込んでいく。

 朔夜が低く言った。

「怨霊が奥へ引いた。まだ終わっていない」

 鈴音は膝から崩れそうになった。

 朔夜が支える。

 村人たちは、誰も声を出せなかった。

 さっきまで鈴音を責めていた人々が、今はただ、恐れと戸惑いの目で鈴音を見ている。

 鈴音は思った。

 今日ですべてが変わるわけではない。

 父も八重も、まだ罪を認めていない。

 綾乃の中には琴乃がいる。

 村人たちも、すぐに自分たちの嘘と向き合えるわけではない。

 でも、最初の嘘は剥がれた。

 鈴音は災いではない。

 その声は、村の前で確かに響いた。

 社へ戻る道で、鈴音はほとんど歩けなかった。

 喉は焼けるように痛み、体は重かった。

 朔夜が何も言わず、鈴音を抱き上げた。

 鈴音は驚いて身じろぎしたが、朔夜は低く言う。

「今日は歩くな」

 鈴音は抗議しようとしたが、声も出ず、筆も持てない。

 千景が横から言った。

「今回は素直に運ばれてください。鈴音さん、顔真っ白ですよ」

 鈴音は諦めて、朔夜の衣をそっと掴んだ。

 朔夜の腕は冷たいのに、安心する。

 山道を進む間、村の嘘の音は遠ざかっていった。

 代わりに、母の鈴が胸元で小さく鳴っている。

 ちりん。

 鈴音は目を閉じた。

 今日は言えた。

 私は災いではない。

 母も、琴乃も、災いではない。

 真実を隠した嘘こそが、災いを作った。

 その言葉は、まだ小さな一歩かもしれない。

 けれど鈴音にとっては、長い沈黙を破る大きな一歩だった。

 社に着くと、朔夜は鈴音を部屋へ運んだ。

 喉に手をかざし、痛みを鎮める。

「無茶をした」

 声は静かだったが、少しだけ怒っているようにも聞こえた。

 鈴音は紙を探した。

 千景がすぐに差し出してくれる。

 鈴音は震える手で書いた。

『言えてよかったです』

 朔夜はそれを見て、長く黙った。

 やがて、小さく息を吐く。

「そうだな」

 その一言に、鈴音は安心して目を閉じた。

 朔夜が続ける。

「だが、次は俺の支えをもっと使え」

 鈴音は薄く目を開ける。

 朔夜は静かに言った。

「隣に立つと言った。お前一人で全部を背負う必要はない」

 鈴音の胸が、じんわり温かくなった。

 紙に、ゆっくり書く。

『はい』

 それだけ書くと、力が抜けた。

 眠りに落ちる寸前、鈴音は綾乃の涙を思い出した。

 偽りの姫君。

 ずっとそう見えていた姉。

 けれど、偽りをまとわなければ立っていられなかった姉。

 許せない。

 けれど、聞かなければならない。

 鈴音は目を閉じた。

 夢の中で、白無垢の影が遠くに立っていた。

 琴乃は笑っていなかった。

 ただ、鈴音を見ていた。

 その足元には、壊れた鈴が落ちている。

 鈴音が近づこうとすると、琴乃は背を向けて言った。

 ――次は、声を奪った夜を見せてあげる。

 鈴音は息を呑む。

 白い霧の奥で、幼い綾乃の泣き声が聞こえた。

 そして、八重の声。

 ――その子の声を封じなさい。

 鈴音は目を覚ました。

 喉が熱い。

 胸元の母の鈴が鳴っている。

 ちりん。

 次に向き合うべき真実は、もうわかっていた。

 声を奪った夜。

 綾乃が、八重が、そして自分が、何を見て何を失ったのか。

 鈴音は震える手で、枕元の紙に書いた。

『次は、声を奪われた夜です』

 その文字の上に、窓の外から朝の光が落ちた。