花嫁の声を食べる鬼神さま

 翌朝、鈴音は夜明け前に目を覚ました。

 障子の向こうはまだ薄暗く、山の空気は冷えていた。けれど、胸の奥だけが熱を持っている。

 常盤家の蔵。

 母の声。

 そこに真実がある。

 前日の夕暮れ、村の嘘の音の中から聞こえた母の声は、夜が明けても鈴音の耳に残っていた。

 ――鈴音、そこに来てはなりません。

 ――でも、知らなければ、あなたはまた奪われる。

 その二つの言葉は、矛盾しているようで、どちらも母らしかった。

 守りたい。

 でも、真実を託したい。

 鈴音は布団の上で、白い守り紐を両手に包んだ。

 朔夜から渡された、花嫁の証。

 小さな鈴が、手の中でかすかに鳴る。

 ちりん。

 その音を聞くと、鈴音は少しだけ落ち着いた。

 もう、常盤家にいた頃の自分ではない。

 声はまだ弱い。喉には痛みが残っている。真実を知ることも、琴乃の影に触れることも怖い。

 それでも、今の鈴音には選ぶことができる。

 知ることを。

 戻ることを。

 そして、奪われた声を取り戻すことを。

 襖の向こうから、朔夜の声がした。

「起きているな」

 鈴音は小さく頷いた。

 襖が開き、朔夜が入ってくる。

 彼は鈴音の顔を見るなり、何も聞かずに言った。

「行くか」

 鈴音は紙を引き寄せた。

『はい』

 筆先は震えなかった。

 朔夜はその文字を見て、静かに頷く。

「ならば、準備をする」

 社の清水の前で、鈴音は呼吸を整えた。

 朔夜は、前日の花嫁修行の続きとして、嘘の音を遮る術を教えてくれた。

 難しいものではない。

 まず、自分の呼吸を聞く。

 次に、守り紐の鈴の音を聞く。

 最後に、自分が聞くべき声だけを選ぶ。

「嘘の音は、こちらが無防備であればいくらでも流れ込んでくる」

 朔夜は言った。

「だが、お前は器ではない。すべてを受け止める必要はない。聞くものを選べ」

 聞くものを選ぶ。

 鈴音にとって、それは新しい考え方だった。

 常盤家では、聞きたくない言葉ほど聞かされた。

 災いの娘。

 役立たず。

 声も出ないくせに。

 鬼の餌にはなれる。

 それらを拒む術などなかった。

 耳を塞いでも、言葉は胸に入ってきた。

 けれど朔夜は言う。

 選んでいいと。

 鈴音は目を閉じた。

 息を吸う。

 吐く。

 守り紐の鈴が、胸元で小さく鳴る。

 ちりん。

 その音を中心に、自分の周りに薄い膜を作るように意識する。

 千景が横で見守っていた。

「いい感じです。昨日よりずっと安定してます」

 褒められて、鈴音は少しだけ目を開ける。

 千景は照れたようにそっぽを向いた。

「まあ、僕の教えがいいんですけどね」

 鈴音は小さく笑った。

 そこへ朔夜が近づき、鈴音の前に白い札を一枚差し出した。

「これを持て」

 札には、見慣れない文字と、鈴の形をした印が描かれていた。

『これは?』

「声を守る札だ。強い呪いに触れたとき、喉を締める糸を一度だけ弾く」

 鈴音は札を受け取った。

 薄い紙なのに、不思議と温かい。

 千景が得意げに言った。

「朔夜さまが昨夜ずっと作ってたんですよ。鈴音さんが寝たあとも、全然休まずに」

 鈴音は驚いて朔夜を見る。

 朔夜は千景を一瞥した。

「余計なことを言うな」

「事実です」

 鈴音は紙に書いた。

『ありがとうございます。休まなくて大丈夫ですか』

 朔夜は少しだけ目を伏せる。

「お前に言われるとはな」

 千景が吹き出しそうになった。

 鈴音は恥ずかしくなって俯く。

 確かに、自分はつい最近まで休むのが苦手だと書いたばかりだった。

 朔夜は札を鈴音の手に握らせ、静かに言う。

「危ういと思えば、すぐに引く。いいな」

 鈴音は頷いた。

『でも、逃げるためではなく、戻ってくるために引きます』

 朔夜はその文字を読み、わずかに目を細めた。

「強くなったな」

 胸の奥が、ふわりと温かくなった。

 強くなった。

 そんなふうに言われたのは、初めてだった。

 常盤家へ向かう道は、前よりも短く感じた。

 朔夜が隣にいて、千景が少し前を歩いている。村人たちは遠巻きにこちらを見ていたが、前回ほど声は気にならなかった。

 ひそひそ。

 鬼神がまた来た。

 声の出ない娘が生きている。

 常盤家で何かあったらしい。

 そんな嘘と噂の音が、遠くでざわめいている。

 けれど鈴音は、守り紐の鈴に意識を向けた。

 ちりん。

 自分の音。

 自分の場所。

 すると、村のざわめきは少し遠のいた。

 常盤家の門前に立つと、胸が冷えた。

 あの門をくぐれば、また過去に戻されるような気がした。

 けれど朔夜が隣に立っている。

 千景も振り返り、言った。

「鈴音さん。今日は、こっちが勝手に入る番です」

 その言い方があまりに堂々としていて、鈴音は少しだけ笑った。

 門番の下男は、朔夜の姿を見るなり腰を抜かしそうになった。

「お、お待ちください、旦那さまにお取次ぎを――」

「必要ない」

 朔夜は短く言い、門をくぐった。

 鈴音も後に続く。

 屋敷の中は騒然となった。

 女中たちが慌てて廊下を走る。誰かが奥へ父を呼びに行く。八重の声が遠くで響いた。

「また鬼神さまが? 鈴音も一緒なの?」

 その声を聞いた瞬間、鈴音の喉が少し痛んだ。

 嘘の音が、屋敷中から滲み出してくる。

 きしきし。

 ひそひそ。

 隠せ。

 知られるな。

 見られてはいけない。

 鈴音は守り紐を握る。

 ちりん。

 大丈夫。

 自分の音を聞く。

 朔夜が横目で鈴音を見た。

「行けるか」

 鈴音は頷いた。

 常盤家の蔵は、屋敷の北側にあった。

 幼い頃から、鈴音はそこへ近づいてはいけないと言われていた。

 古くて危ないから。

 中に大切なものがあるから。

 災いの娘が近づけば、家に不幸が起きるから。

 理由はその時々で変わった。

 けれど今ならわかる。

 近づかせたくないものが、そこにあったのだ。

 蔵は黒い土壁でできていた。

 扉には古い錠前がかかっている。その上に、鈴音が夢で見た通り、母の鈴と同じ紋が刻まれていた。

 鈴の紋。

 真実を記憶する巫女の印。

 鈴音は蔵の扉に触れようとして、手を止めた。

 扉の隙間から、黒い靄が漏れている。

 ただの嘘ではない。

 長く閉じ込められ、腐りかけた記憶の匂いがした。

 朔夜が前に出る。

「下がれ」

 鈴音は首を横に振った。

 紙に書く。

『私が触れます』

「危険だ」

『母の声が呼んだのは、私です』

 朔夜は鈴音を見た。

 止めようとする気配があった。

 けれど、最後には静かに頷いた。

「俺の手が届くところで触れろ」

 鈴音は頷き、札を胸元に入れ、守り紐を握ったまま扉に手を当てた。

 瞬間、鈴の音が鳴った。

 ちりん。

 蔵の中から、同じ音が返ってくる。

 ちりん。

 錠前が、ひとりでに震えた。

 黒い靄が鈴音の手首へ絡みつこうとする。

 朔夜の指がその靄を払った。

「名を呼べ」

 朔夜が言う。

 鈴音は驚いて彼を見た。

「声でなくてもいい。心の中で、母の名を呼べ」

 母の名。

 澄乃。

 鈴音は目を閉じた。

 お母さま。

 澄乃さま。

 どうか、私に聞かせてください。

 扉の奥で、何かがほどける音がした。

 錠前が落ちる。

 重い扉が、ゆっくり開いた。

 中は暗かった。

 古い木の匂いと、紙の匂い。長く閉ざされていた空気が外へ流れ出す。

 その奥から、小さな鈴の音がした。

 ちりん。

 鈴音は一歩、蔵へ入った。

 壁際には古い箱が積まれていた。巻物、帳面、神具らしきもの、使われなくなった祭礼の道具。

 どれも埃をかぶっている。

 けれど蔵の中央だけ、奇妙に清められていた。

 そこに、小さな木箱が置かれている。

 鈴の紋が刻まれた箱。

 鈴音の胸が高鳴る。

 母の声が、すぐそばから聞こえた。

 ――鈴音。

 鈴音は箱の前に膝をついた。

 手を伸ばす。

 指先が箱に触れた瞬間、景色が変わった。

 蔵の中ではなかった。

 鈴音は、幼い頃の常盤家の廊下に立っていた。

 雨の音がしている。

 夜だった。

 母の部屋の前に、小さな鈴音が立っている。

 幼い鈴音の手には、小さな布人形が握られていた。

 部屋の中から、母の声が聞こえる。

「宗一郎さま、これ以上は見過ごせません」

 父の声がした。

「黙れ、澄乃」

「村人たちは鬼神さまを恐れています。けれど、本当に村を穢しているのは鬼神さまではありません。常盤家が祟りの名を使って、罪を隠しているのです」

 父の沈黙。

 次に、八重の声。

「先妻であったからといって、言葉が過ぎますよ。あなたはもう、表に立つべき人ではないわ」

 母は怯まなかった。

「私が表に立たなくても、鈴音はいずれ気づきます。あの子の声は、嘘を震わせる。あなた方の隠し事も、いつか必ず」

 鈴音の心臓が跳ねた。

 自分のことを話している。

 幼い鈴音は、襖の隙間から中を見ていた。

 母は座敷の中央に座っている。白い着物姿で、顔色は悪い。けれど瞳は強かった。

 父はその前に立ち、苦々しい顔をしている。

 八重は少し離れた場所で、冷たい目をしていた。

 そして、部屋の隅には綾乃がいた。

 まだ幼い綾乃。

 泣きそうな顔で、大人たちのやり取りを聞いている。

 母は胸元から小さな鈴を取り出した。

「この鈴には、記憶を残しました。常盤家が鬼神さまに押しつけてきた嘘。村の供物を横流しした証。百年前の琴乃さまの記録。そして、鈴音の声にかけられようとしている呪いのことも」

 父の顔色が変わる。

「なぜ、それを知っている」

「八重さまが呪具を用意しているのを見ました。鈴音の声を封じるつもりですね」

 八重が扇を握りしめた。

「災いを防ぐためです。あの子の声は危うい。常盤家を壊す」

「壊れるべきものなら、壊れればいい」

 母の声は、静かだった。

「嘘の上に立つ家など、守る価値はありません」

 次の瞬間、父が母を打った。

 鈴音は息を呑んだ。

 幼い鈴音も、襖の陰で小さく震えている。

 母の体が畳に倒れる。

 父は荒い息をしていた。

「お前が余計なことを言うからだ」

 母はそれでも、手の中の鈴を握りしめていた。

「鈴音だけは……あの子だけは、あなた方の嘘に使わせません」

 八重が立ち上がった。

「では、あなたには黙っていただきましょう」

 鈴音は叫びたかった。

 やめて。

 お母さまに触らないで。

 けれどこれは記憶だ。

 何もできない。

 八重が母の茶碗へ何かを落とす場面が見えた。

 母がそれを飲んだのは、その前だったのか、後だったのか。記憶は断片的に揺れる。

 父は止めなかった。

 ただ、顔を背けていた。

 母の呼吸が苦しげになる。

 幼い綾乃が震える声で言った。

「お母さま、澄乃さまが……」

 八重が低く言う。

「見てはいけません。あなたは何も見ていないの」

 綾乃の目に涙が浮かぶ。

「でも……」

「あなたは常盤家の娘でしょう」

 その言葉に、綾乃は口を閉ざした。

 鈴音は胸が張り裂けそうだった。

 幼い自分が、襖を開けて部屋へ飛び込む。

 母のそばへ駆け寄る。

 母は苦しげに息をしながら、幼い鈴音の頬に触れた。

「鈴音……逃げて」

 鈴音は泣きながら首を横に振っている。

 母の手から、小さな鈴が転がった。

 ちりん。

 その音が、記憶の中で響く。

 鈴音は叫ぼうとした。

 お母さまは殺された。

 そう叫ぼうとした。

 その瞬間、八重の手が鈴音の喉に触れた。

「その声は、災いを呼ぶのよ」

 綾乃が泣いている。

 でも、綾乃は目をそらさない。

 八重に言われるまま、小さな呪いの紐を差し出している。

 黒い糸が、幼い鈴音の喉へ巻きついた。

 鈴音は叫ぼうとした。

 けれど声は出ない。

 母の名も、助けてという言葉も、真実も、すべて喉の奥で焼け落ちた。

 最後に見えたのは、母の唇だった。

 ――ごめんね。

 そこで記憶は途切れた。

 鈴音は蔵の中で目を覚ました。

 息ができなかった。

 喉が焼ける。

 胸が痛い。

 目から涙がこぼれていることに、少し遅れて気づいた。

 朔夜がすぐそばで鈴音を支えていた。

「鈴音!」

 千景の声も聞こえる。

 鈴音は、手の中に小さな鈴を握っていた。

 木箱の中に入っていたのだろう。

 母の鈴。

 銀色の小さな鈴には、血のような赤い錆が少しだけ残っていた。

 鈴音は声を出そうとした。

 出ない。

 喉が痛い。

 でも、今度はただ黙っていることができなかった。

 鈴音は震える手で紙を探そうとしたが、涙で視界が滲んでうまく見えない。

 朔夜が紙と筆を差し出す。

 鈴音は、文字を書いた。

『母は病ではありません』

 墨が滲む。

『殺されたのです』

 書き終えた瞬間、蔵の中に黒い靄が噴き出した。

 木箱の奥から、古い帳面が現れる。

 そこには、常盤家の不正の記録が残されていた。

 供物の横流し。

 村人から集めた金の使途。

 鬼神の祟りと称して隠された事故。

 百年前の琴乃の件に関する断片的な記述。

 そして、鈴音の声を封じるために用意された呪具の記録。

 朔夜の表情が冷たくなる。

「証だな」

 鈴音は母の鈴を握りしめた。

 手の中で、鈴が鳴る。

 ちりん。

 その音に重なるように、母の声が響いた。

 ――鈴音。あなたの声は、奪われても消えません。

 鈴音は涙を流しながら、鈴を胸に抱いた。

 ――本当のことを言うために生まれた声は、必ず戻ります。

 鈴音の喉の奥で、何かが震えた。

 声にならない声。

 ずっと閉じ込められていた、幼い日の叫び。

 お母さま。

 言いたかった。

 助けたかった。

 でも、できなかった。

 鈴音は喉を押さえ、苦しい息の中で唇を動かした。

「……お、かあ……さま」

 かすれた声だった。

 途切れ途切れで、泣き声に近かった。

 それでも、確かに音になった。

 蔵の中の鈴が、一斉に鳴ったように感じた。

 朔夜が鈴音を支えたまま、静かに言う。

「届いた」

 鈴音は泣きながら首を横に振る。

 届いたのなら、なぜ母はいないのか。

 なぜ、あの夜に届かなかったのか。

 そんな思いが胸を刺す。

 朔夜は鈴音の喉に手をかざし、痛みを鎮めながら言った。

「今からでも、届く声はある」

 鈴音は朔夜を見た。

 金色の瞳は、静かに鈴音を見ている。

「死者は戻らぬ。だが、黙らされた真実は戻せる」

 その言葉に、鈴音の胸が震えた。

 母は戻らない。

 それでも、母の声はここに残っていた。

 鈴に。

 記録に。

 そして鈴音の中に。

 蔵の外が騒がしくなった。

「何をしている!」

 父の声だった。

 宗一郎が、八重と数人の使用人を連れて蔵へ駆け込んでくる。

 父は鈴音の手にある鈴と、木箱から出された帳面を見るなり、顔色を変えた。

「それに触るな!」

 八重の目も大きく見開かれている。

「鈴音、それはあなたには関係のないものです。返しなさい」

 関係のないもの。

 その言葉に、鈴音の中で何かが静かに燃えた。

 母の鈴だ。

 母の記録だ。

 自分の声を奪った証だ。

 関係がないはずがない。

 鈴音は立ち上がろうとした。

 体が震える。

 朔夜が支えようとしたが、鈴音はそっと首を横に振った。

 自分で立ちたい。

 そう思った。

 鈴音は震える足で立ち、父と八重を見た。

 声はまだ頼りない。

 けれど、もう黙っていたくなかった。

 喉が痛む。

 札が胸元で熱を持つ。

 守り紐の鈴が鳴る。

 ちりん。

 鈴音は、息を吸った。

「……母、さまは」

 父の顔が強張る。

 八重が一歩後ずさる。

 鈴音は喉を押さえながら、言葉を続けた。

「病では、ありません」

 声は震えていた。

 掠れて、今にも消えそうだった。

 それでも、確かに自分の口から出た言葉だった。

 父が怒鳴る。

「黙れ!」

 その言葉に、鈴音の喉へ黒い糸が巻きつこうとした。

 だが胸元の札が白く光り、その糸を弾いた。

 朔夜の瞳が金色に燃える。

「鈴音に黙れと言うな」

 蔵の中の空気が震えた。

 父は息を呑む。

 八重も言葉を失う。

 鈴音は母の鈴を胸に抱いた。

 今はまだ、すべてを言えない。

 声も弱い。

 体も震えている。

 けれど、確かに一言は言えた。

 母は病ではない。

 その真実の最初の一欠片を、自分の声で告げた。

 朔夜は低く言った。

「今日はここまでだ。鈴音はこれ以上、喉が持たぬ」

 父が慌てて言う。

「待て、その帳面を置いていけ!」

 千景が帳面を抱え、狐火をちらつかせた。

「嫌です。これは証拠品です」

「証拠だと?」

 八重の声が震える。

 千景はにやりと笑った。

「ええ。鬼神さまの花嫁の声を奪った証拠です」

 鈴音は母の鈴を握りしめたまま、蔵を出た。

 足元はふらついていた。

 けれど、以前のように逃げ出すのではない。

 取り戻すために、一度引くのだ。

 常盤家の門を出たところで、鈴音は振り返った。

 父と八重が、蔵の前に立ち尽くしている。

 その顔には、初めて恐れが浮かんでいた。

 鈴音は胸に手を当てる。

 怖いのは、自分だけではなかった。

 真実を隠した者たちもまた、真実が戻ってくることを恐れている。

 社へ戻る山道で、鈴音は一度も泣かなかった。

 涙は、蔵で出し尽くしたようだった。

 代わりに、胸の奥には静かな決意があった。

 朔夜が隣を歩きながら言う。

「無理をしたな」

 鈴音は紙に書いた。

『でも、言えました』

 朔夜はその文字を見て、頷いた。

「ああ。聞こえた」

 その言葉に、鈴音の胸が温かくなる。

 聞こえた。

 母にも、聞こえただろうか。

 鈴音は手の中の鈴を見た。

 小さな鈴は、夕暮れの光を受けてかすかに輝いている。

 ちりん。

 音が鳴った。

 鈴音には、それが母の返事のように思えた。

 社へ戻ると、朔夜は帳面と鈴を清めの間に置いた。

「この記録は、大きな鍵になる」

 千景が深く頷く。

「常盤家、真っ黒ですね。思った以上に真っ黒です」

 鈴音は紙に書いた。

『母は、このために殺されたのですね』

 朔夜はしばらく黙っていた。

「おそらくな」

 その言葉は、鈴音の胸を再び刺した。

 けれど、今度は崩れなかった。

 母は、真実を守ろうとして死んだ。

 鈴音を守ろうとして、声を封じられることを止めようとしてくれた。

 その母の声を、もう一度黙らせるわけにはいかない。

 鈴音は紙に書いた。

『もう一度、常盤家へ行きます』

 千景が驚く。

「え、またですか? 今日あんな目に遭ったばかりなのに?」

 鈴音は頷いた。

『今度は、呼ばれたからではありません』

 朔夜が鈴音を見る。

 鈴音は、ゆっくり筆を進めた。

『私の意思で戻ります。母の真実を、私の声で言うために』

 部屋の中が静かになった。

 朔夜の瞳が、深く鈴音を映す。

「まだ喉は万全ではない」

『わかっています』

「常盤家は、お前をまた黙らせようとする」

『それも、わかっています』

 鈴音は母の鈴を手に取った。

 小さな鈴は、冷たく、けれど確かにそこにあった。

『でも、私はもう黙りたくありません』

 その文字を書き終えた瞬間、母の鈴が鳴った。

 ちりん。

 澄んだ音だった。

 社の奥に眠る鈴たちも、それに応えるようにかすかに鳴る。

 朔夜は鈴音の前に膝をつき、静かに言った。

「ならば、俺は隣に立つ」

 守る、ではなく。

 連れていく、でもなく。

 隣に立つ。

 その言葉に、鈴音の胸がいっぱいになった。

 鈴音はまだ弱い。

 声も完全には戻っていない。

 母の死を思い出すたび、胸は裂けそうになる。

 それでも、もう誰かに差し出されるだけの花嫁ではない。

 鈴音は母の鈴と、朔夜の守り紐を胸に抱いた。

 次に常盤家へ戻るとき、自分は真実を告げる。

 たとえ声が震えても。

 たとえ涙が出ても。

 たとえ、また喉を焼かれそうになっても。

 母の死を、病などという嘘の中に置き去りにはしない。

 夜の社に、鈴の音が静かに響いていた。

 ちりん。

 それは、死者の声ではなく。

 これから真実を告げに行く者の、始まりの音だった。