翌朝、鈴音は夜明け前に目を覚ました。
障子の向こうはまだ薄暗く、山の空気は冷えていた。けれど、胸の奥だけが熱を持っている。
常盤家の蔵。
母の声。
そこに真実がある。
前日の夕暮れ、村の嘘の音の中から聞こえた母の声は、夜が明けても鈴音の耳に残っていた。
――鈴音、そこに来てはなりません。
――でも、知らなければ、あなたはまた奪われる。
その二つの言葉は、矛盾しているようで、どちらも母らしかった。
守りたい。
でも、真実を託したい。
鈴音は布団の上で、白い守り紐を両手に包んだ。
朔夜から渡された、花嫁の証。
小さな鈴が、手の中でかすかに鳴る。
ちりん。
その音を聞くと、鈴音は少しだけ落ち着いた。
もう、常盤家にいた頃の自分ではない。
声はまだ弱い。喉には痛みが残っている。真実を知ることも、琴乃の影に触れることも怖い。
それでも、今の鈴音には選ぶことができる。
知ることを。
戻ることを。
そして、奪われた声を取り戻すことを。
襖の向こうから、朔夜の声がした。
「起きているな」
鈴音は小さく頷いた。
襖が開き、朔夜が入ってくる。
彼は鈴音の顔を見るなり、何も聞かずに言った。
「行くか」
鈴音は紙を引き寄せた。
『はい』
筆先は震えなかった。
朔夜はその文字を見て、静かに頷く。
「ならば、準備をする」
社の清水の前で、鈴音は呼吸を整えた。
朔夜は、前日の花嫁修行の続きとして、嘘の音を遮る術を教えてくれた。
難しいものではない。
まず、自分の呼吸を聞く。
次に、守り紐の鈴の音を聞く。
最後に、自分が聞くべき声だけを選ぶ。
「嘘の音は、こちらが無防備であればいくらでも流れ込んでくる」
朔夜は言った。
「だが、お前は器ではない。すべてを受け止める必要はない。聞くものを選べ」
聞くものを選ぶ。
鈴音にとって、それは新しい考え方だった。
常盤家では、聞きたくない言葉ほど聞かされた。
災いの娘。
役立たず。
声も出ないくせに。
鬼の餌にはなれる。
それらを拒む術などなかった。
耳を塞いでも、言葉は胸に入ってきた。
けれど朔夜は言う。
選んでいいと。
鈴音は目を閉じた。
息を吸う。
吐く。
守り紐の鈴が、胸元で小さく鳴る。
ちりん。
その音を中心に、自分の周りに薄い膜を作るように意識する。
千景が横で見守っていた。
「いい感じです。昨日よりずっと安定してます」
褒められて、鈴音は少しだけ目を開ける。
千景は照れたようにそっぽを向いた。
「まあ、僕の教えがいいんですけどね」
鈴音は小さく笑った。
そこへ朔夜が近づき、鈴音の前に白い札を一枚差し出した。
「これを持て」
札には、見慣れない文字と、鈴の形をした印が描かれていた。
『これは?』
「声を守る札だ。強い呪いに触れたとき、喉を締める糸を一度だけ弾く」
鈴音は札を受け取った。
薄い紙なのに、不思議と温かい。
千景が得意げに言った。
「朔夜さまが昨夜ずっと作ってたんですよ。鈴音さんが寝たあとも、全然休まずに」
鈴音は驚いて朔夜を見る。
朔夜は千景を一瞥した。
「余計なことを言うな」
「事実です」
鈴音は紙に書いた。
『ありがとうございます。休まなくて大丈夫ですか』
朔夜は少しだけ目を伏せる。
「お前に言われるとはな」
千景が吹き出しそうになった。
鈴音は恥ずかしくなって俯く。
確かに、自分はつい最近まで休むのが苦手だと書いたばかりだった。
朔夜は札を鈴音の手に握らせ、静かに言う。
「危ういと思えば、すぐに引く。いいな」
鈴音は頷いた。
『でも、逃げるためではなく、戻ってくるために引きます』
朔夜はその文字を読み、わずかに目を細めた。
「強くなったな」
胸の奥が、ふわりと温かくなった。
強くなった。
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
常盤家へ向かう道は、前よりも短く感じた。
朔夜が隣にいて、千景が少し前を歩いている。村人たちは遠巻きにこちらを見ていたが、前回ほど声は気にならなかった。
ひそひそ。
鬼神がまた来た。
声の出ない娘が生きている。
常盤家で何かあったらしい。
そんな嘘と噂の音が、遠くでざわめいている。
けれど鈴音は、守り紐の鈴に意識を向けた。
ちりん。
自分の音。
自分の場所。
すると、村のざわめきは少し遠のいた。
常盤家の門前に立つと、胸が冷えた。
あの門をくぐれば、また過去に戻されるような気がした。
けれど朔夜が隣に立っている。
千景も振り返り、言った。
「鈴音さん。今日は、こっちが勝手に入る番です」
その言い方があまりに堂々としていて、鈴音は少しだけ笑った。
門番の下男は、朔夜の姿を見るなり腰を抜かしそうになった。
「お、お待ちください、旦那さまにお取次ぎを――」
「必要ない」
朔夜は短く言い、門をくぐった。
鈴音も後に続く。
屋敷の中は騒然となった。
女中たちが慌てて廊下を走る。誰かが奥へ父を呼びに行く。八重の声が遠くで響いた。
「また鬼神さまが? 鈴音も一緒なの?」
その声を聞いた瞬間、鈴音の喉が少し痛んだ。
嘘の音が、屋敷中から滲み出してくる。
きしきし。
ひそひそ。
隠せ。
知られるな。
見られてはいけない。
鈴音は守り紐を握る。
ちりん。
大丈夫。
自分の音を聞く。
朔夜が横目で鈴音を見た。
「行けるか」
鈴音は頷いた。
常盤家の蔵は、屋敷の北側にあった。
幼い頃から、鈴音はそこへ近づいてはいけないと言われていた。
古くて危ないから。
中に大切なものがあるから。
災いの娘が近づけば、家に不幸が起きるから。
理由はその時々で変わった。
けれど今ならわかる。
近づかせたくないものが、そこにあったのだ。
蔵は黒い土壁でできていた。
扉には古い錠前がかかっている。その上に、鈴音が夢で見た通り、母の鈴と同じ紋が刻まれていた。
鈴の紋。
真実を記憶する巫女の印。
鈴音は蔵の扉に触れようとして、手を止めた。
扉の隙間から、黒い靄が漏れている。
ただの嘘ではない。
長く閉じ込められ、腐りかけた記憶の匂いがした。
朔夜が前に出る。
「下がれ」
鈴音は首を横に振った。
紙に書く。
『私が触れます』
「危険だ」
『母の声が呼んだのは、私です』
朔夜は鈴音を見た。
止めようとする気配があった。
けれど、最後には静かに頷いた。
「俺の手が届くところで触れろ」
鈴音は頷き、札を胸元に入れ、守り紐を握ったまま扉に手を当てた。
瞬間、鈴の音が鳴った。
ちりん。
蔵の中から、同じ音が返ってくる。
ちりん。
錠前が、ひとりでに震えた。
黒い靄が鈴音の手首へ絡みつこうとする。
朔夜の指がその靄を払った。
「名を呼べ」
朔夜が言う。
鈴音は驚いて彼を見た。
「声でなくてもいい。心の中で、母の名を呼べ」
母の名。
澄乃。
鈴音は目を閉じた。
お母さま。
澄乃さま。
どうか、私に聞かせてください。
扉の奥で、何かがほどける音がした。
錠前が落ちる。
重い扉が、ゆっくり開いた。
中は暗かった。
古い木の匂いと、紙の匂い。長く閉ざされていた空気が外へ流れ出す。
その奥から、小さな鈴の音がした。
ちりん。
鈴音は一歩、蔵へ入った。
壁際には古い箱が積まれていた。巻物、帳面、神具らしきもの、使われなくなった祭礼の道具。
どれも埃をかぶっている。
けれど蔵の中央だけ、奇妙に清められていた。
そこに、小さな木箱が置かれている。
鈴の紋が刻まれた箱。
鈴音の胸が高鳴る。
母の声が、すぐそばから聞こえた。
――鈴音。
鈴音は箱の前に膝をついた。
手を伸ばす。
指先が箱に触れた瞬間、景色が変わった。
蔵の中ではなかった。
鈴音は、幼い頃の常盤家の廊下に立っていた。
雨の音がしている。
夜だった。
母の部屋の前に、小さな鈴音が立っている。
幼い鈴音の手には、小さな布人形が握られていた。
部屋の中から、母の声が聞こえる。
「宗一郎さま、これ以上は見過ごせません」
父の声がした。
「黙れ、澄乃」
「村人たちは鬼神さまを恐れています。けれど、本当に村を穢しているのは鬼神さまではありません。常盤家が祟りの名を使って、罪を隠しているのです」
父の沈黙。
次に、八重の声。
「先妻であったからといって、言葉が過ぎますよ。あなたはもう、表に立つべき人ではないわ」
母は怯まなかった。
「私が表に立たなくても、鈴音はいずれ気づきます。あの子の声は、嘘を震わせる。あなた方の隠し事も、いつか必ず」
鈴音の心臓が跳ねた。
自分のことを話している。
幼い鈴音は、襖の隙間から中を見ていた。
母は座敷の中央に座っている。白い着物姿で、顔色は悪い。けれど瞳は強かった。
父はその前に立ち、苦々しい顔をしている。
八重は少し離れた場所で、冷たい目をしていた。
そして、部屋の隅には綾乃がいた。
まだ幼い綾乃。
泣きそうな顔で、大人たちのやり取りを聞いている。
母は胸元から小さな鈴を取り出した。
「この鈴には、記憶を残しました。常盤家が鬼神さまに押しつけてきた嘘。村の供物を横流しした証。百年前の琴乃さまの記録。そして、鈴音の声にかけられようとしている呪いのことも」
父の顔色が変わる。
「なぜ、それを知っている」
「八重さまが呪具を用意しているのを見ました。鈴音の声を封じるつもりですね」
八重が扇を握りしめた。
「災いを防ぐためです。あの子の声は危うい。常盤家を壊す」
「壊れるべきものなら、壊れればいい」
母の声は、静かだった。
「嘘の上に立つ家など、守る価値はありません」
次の瞬間、父が母を打った。
鈴音は息を呑んだ。
幼い鈴音も、襖の陰で小さく震えている。
母の体が畳に倒れる。
父は荒い息をしていた。
「お前が余計なことを言うからだ」
母はそれでも、手の中の鈴を握りしめていた。
「鈴音だけは……あの子だけは、あなた方の嘘に使わせません」
八重が立ち上がった。
「では、あなたには黙っていただきましょう」
鈴音は叫びたかった。
やめて。
お母さまに触らないで。
けれどこれは記憶だ。
何もできない。
八重が母の茶碗へ何かを落とす場面が見えた。
母がそれを飲んだのは、その前だったのか、後だったのか。記憶は断片的に揺れる。
父は止めなかった。
ただ、顔を背けていた。
母の呼吸が苦しげになる。
幼い綾乃が震える声で言った。
「お母さま、澄乃さまが……」
八重が低く言う。
「見てはいけません。あなたは何も見ていないの」
綾乃の目に涙が浮かぶ。
「でも……」
「あなたは常盤家の娘でしょう」
その言葉に、綾乃は口を閉ざした。
鈴音は胸が張り裂けそうだった。
幼い自分が、襖を開けて部屋へ飛び込む。
母のそばへ駆け寄る。
母は苦しげに息をしながら、幼い鈴音の頬に触れた。
「鈴音……逃げて」
鈴音は泣きながら首を横に振っている。
母の手から、小さな鈴が転がった。
ちりん。
その音が、記憶の中で響く。
鈴音は叫ぼうとした。
お母さまは殺された。
そう叫ぼうとした。
その瞬間、八重の手が鈴音の喉に触れた。
「その声は、災いを呼ぶのよ」
綾乃が泣いている。
でも、綾乃は目をそらさない。
八重に言われるまま、小さな呪いの紐を差し出している。
黒い糸が、幼い鈴音の喉へ巻きついた。
鈴音は叫ぼうとした。
けれど声は出ない。
母の名も、助けてという言葉も、真実も、すべて喉の奥で焼け落ちた。
最後に見えたのは、母の唇だった。
――ごめんね。
そこで記憶は途切れた。
鈴音は蔵の中で目を覚ました。
息ができなかった。
喉が焼ける。
胸が痛い。
目から涙がこぼれていることに、少し遅れて気づいた。
朔夜がすぐそばで鈴音を支えていた。
「鈴音!」
千景の声も聞こえる。
鈴音は、手の中に小さな鈴を握っていた。
木箱の中に入っていたのだろう。
母の鈴。
銀色の小さな鈴には、血のような赤い錆が少しだけ残っていた。
鈴音は声を出そうとした。
出ない。
喉が痛い。
でも、今度はただ黙っていることができなかった。
鈴音は震える手で紙を探そうとしたが、涙で視界が滲んでうまく見えない。
朔夜が紙と筆を差し出す。
鈴音は、文字を書いた。
『母は病ではありません』
墨が滲む。
『殺されたのです』
書き終えた瞬間、蔵の中に黒い靄が噴き出した。
木箱の奥から、古い帳面が現れる。
そこには、常盤家の不正の記録が残されていた。
供物の横流し。
村人から集めた金の使途。
鬼神の祟りと称して隠された事故。
百年前の琴乃の件に関する断片的な記述。
そして、鈴音の声を封じるために用意された呪具の記録。
朔夜の表情が冷たくなる。
「証だな」
鈴音は母の鈴を握りしめた。
手の中で、鈴が鳴る。
ちりん。
その音に重なるように、母の声が響いた。
――鈴音。あなたの声は、奪われても消えません。
鈴音は涙を流しながら、鈴を胸に抱いた。
――本当のことを言うために生まれた声は、必ず戻ります。
鈴音の喉の奥で、何かが震えた。
声にならない声。
ずっと閉じ込められていた、幼い日の叫び。
お母さま。
言いたかった。
助けたかった。
でも、できなかった。
鈴音は喉を押さえ、苦しい息の中で唇を動かした。
「……お、かあ……さま」
かすれた声だった。
途切れ途切れで、泣き声に近かった。
それでも、確かに音になった。
蔵の中の鈴が、一斉に鳴ったように感じた。
朔夜が鈴音を支えたまま、静かに言う。
「届いた」
鈴音は泣きながら首を横に振る。
届いたのなら、なぜ母はいないのか。
なぜ、あの夜に届かなかったのか。
そんな思いが胸を刺す。
朔夜は鈴音の喉に手をかざし、痛みを鎮めながら言った。
「今からでも、届く声はある」
鈴音は朔夜を見た。
金色の瞳は、静かに鈴音を見ている。
「死者は戻らぬ。だが、黙らされた真実は戻せる」
その言葉に、鈴音の胸が震えた。
母は戻らない。
それでも、母の声はここに残っていた。
鈴に。
記録に。
そして鈴音の中に。
蔵の外が騒がしくなった。
「何をしている!」
父の声だった。
宗一郎が、八重と数人の使用人を連れて蔵へ駆け込んでくる。
父は鈴音の手にある鈴と、木箱から出された帳面を見るなり、顔色を変えた。
「それに触るな!」
八重の目も大きく見開かれている。
「鈴音、それはあなたには関係のないものです。返しなさい」
関係のないもの。
その言葉に、鈴音の中で何かが静かに燃えた。
母の鈴だ。
母の記録だ。
自分の声を奪った証だ。
関係がないはずがない。
鈴音は立ち上がろうとした。
体が震える。
朔夜が支えようとしたが、鈴音はそっと首を横に振った。
自分で立ちたい。
そう思った。
鈴音は震える足で立ち、父と八重を見た。
声はまだ頼りない。
けれど、もう黙っていたくなかった。
喉が痛む。
札が胸元で熱を持つ。
守り紐の鈴が鳴る。
ちりん。
鈴音は、息を吸った。
「……母、さまは」
父の顔が強張る。
八重が一歩後ずさる。
鈴音は喉を押さえながら、言葉を続けた。
「病では、ありません」
声は震えていた。
掠れて、今にも消えそうだった。
それでも、確かに自分の口から出た言葉だった。
父が怒鳴る。
「黙れ!」
その言葉に、鈴音の喉へ黒い糸が巻きつこうとした。
だが胸元の札が白く光り、その糸を弾いた。
朔夜の瞳が金色に燃える。
「鈴音に黙れと言うな」
蔵の中の空気が震えた。
父は息を呑む。
八重も言葉を失う。
鈴音は母の鈴を胸に抱いた。
今はまだ、すべてを言えない。
声も弱い。
体も震えている。
けれど、確かに一言は言えた。
母は病ではない。
その真実の最初の一欠片を、自分の声で告げた。
朔夜は低く言った。
「今日はここまでだ。鈴音はこれ以上、喉が持たぬ」
父が慌てて言う。
「待て、その帳面を置いていけ!」
千景が帳面を抱え、狐火をちらつかせた。
「嫌です。これは証拠品です」
「証拠だと?」
八重の声が震える。
千景はにやりと笑った。
「ええ。鬼神さまの花嫁の声を奪った証拠です」
鈴音は母の鈴を握りしめたまま、蔵を出た。
足元はふらついていた。
けれど、以前のように逃げ出すのではない。
取り戻すために、一度引くのだ。
常盤家の門を出たところで、鈴音は振り返った。
父と八重が、蔵の前に立ち尽くしている。
その顔には、初めて恐れが浮かんでいた。
鈴音は胸に手を当てる。
怖いのは、自分だけではなかった。
真実を隠した者たちもまた、真実が戻ってくることを恐れている。
社へ戻る山道で、鈴音は一度も泣かなかった。
涙は、蔵で出し尽くしたようだった。
代わりに、胸の奥には静かな決意があった。
朔夜が隣を歩きながら言う。
「無理をしたな」
鈴音は紙に書いた。
『でも、言えました』
朔夜はその文字を見て、頷いた。
「ああ。聞こえた」
その言葉に、鈴音の胸が温かくなる。
聞こえた。
母にも、聞こえただろうか。
鈴音は手の中の鈴を見た。
小さな鈴は、夕暮れの光を受けてかすかに輝いている。
ちりん。
音が鳴った。
鈴音には、それが母の返事のように思えた。
社へ戻ると、朔夜は帳面と鈴を清めの間に置いた。
「この記録は、大きな鍵になる」
千景が深く頷く。
「常盤家、真っ黒ですね。思った以上に真っ黒です」
鈴音は紙に書いた。
『母は、このために殺されたのですね』
朔夜はしばらく黙っていた。
「おそらくな」
その言葉は、鈴音の胸を再び刺した。
けれど、今度は崩れなかった。
母は、真実を守ろうとして死んだ。
鈴音を守ろうとして、声を封じられることを止めようとしてくれた。
その母の声を、もう一度黙らせるわけにはいかない。
鈴音は紙に書いた。
『もう一度、常盤家へ行きます』
千景が驚く。
「え、またですか? 今日あんな目に遭ったばかりなのに?」
鈴音は頷いた。
『今度は、呼ばれたからではありません』
朔夜が鈴音を見る。
鈴音は、ゆっくり筆を進めた。
『私の意思で戻ります。母の真実を、私の声で言うために』
部屋の中が静かになった。
朔夜の瞳が、深く鈴音を映す。
「まだ喉は万全ではない」
『わかっています』
「常盤家は、お前をまた黙らせようとする」
『それも、わかっています』
鈴音は母の鈴を手に取った。
小さな鈴は、冷たく、けれど確かにそこにあった。
『でも、私はもう黙りたくありません』
その文字を書き終えた瞬間、母の鈴が鳴った。
ちりん。
澄んだ音だった。
社の奥に眠る鈴たちも、それに応えるようにかすかに鳴る。
朔夜は鈴音の前に膝をつき、静かに言った。
「ならば、俺は隣に立つ」
守る、ではなく。
連れていく、でもなく。
隣に立つ。
その言葉に、鈴音の胸がいっぱいになった。
鈴音はまだ弱い。
声も完全には戻っていない。
母の死を思い出すたび、胸は裂けそうになる。
それでも、もう誰かに差し出されるだけの花嫁ではない。
鈴音は母の鈴と、朔夜の守り紐を胸に抱いた。
次に常盤家へ戻るとき、自分は真実を告げる。
たとえ声が震えても。
たとえ涙が出ても。
たとえ、また喉を焼かれそうになっても。
母の死を、病などという嘘の中に置き去りにはしない。
夜の社に、鈴の音が静かに響いていた。
ちりん。
それは、死者の声ではなく。
これから真実を告げに行く者の、始まりの音だった。
障子の向こうはまだ薄暗く、山の空気は冷えていた。けれど、胸の奥だけが熱を持っている。
常盤家の蔵。
母の声。
そこに真実がある。
前日の夕暮れ、村の嘘の音の中から聞こえた母の声は、夜が明けても鈴音の耳に残っていた。
――鈴音、そこに来てはなりません。
――でも、知らなければ、あなたはまた奪われる。
その二つの言葉は、矛盾しているようで、どちらも母らしかった。
守りたい。
でも、真実を託したい。
鈴音は布団の上で、白い守り紐を両手に包んだ。
朔夜から渡された、花嫁の証。
小さな鈴が、手の中でかすかに鳴る。
ちりん。
その音を聞くと、鈴音は少しだけ落ち着いた。
もう、常盤家にいた頃の自分ではない。
声はまだ弱い。喉には痛みが残っている。真実を知ることも、琴乃の影に触れることも怖い。
それでも、今の鈴音には選ぶことができる。
知ることを。
戻ることを。
そして、奪われた声を取り戻すことを。
襖の向こうから、朔夜の声がした。
「起きているな」
鈴音は小さく頷いた。
襖が開き、朔夜が入ってくる。
彼は鈴音の顔を見るなり、何も聞かずに言った。
「行くか」
鈴音は紙を引き寄せた。
『はい』
筆先は震えなかった。
朔夜はその文字を見て、静かに頷く。
「ならば、準備をする」
社の清水の前で、鈴音は呼吸を整えた。
朔夜は、前日の花嫁修行の続きとして、嘘の音を遮る術を教えてくれた。
難しいものではない。
まず、自分の呼吸を聞く。
次に、守り紐の鈴の音を聞く。
最後に、自分が聞くべき声だけを選ぶ。
「嘘の音は、こちらが無防備であればいくらでも流れ込んでくる」
朔夜は言った。
「だが、お前は器ではない。すべてを受け止める必要はない。聞くものを選べ」
聞くものを選ぶ。
鈴音にとって、それは新しい考え方だった。
常盤家では、聞きたくない言葉ほど聞かされた。
災いの娘。
役立たず。
声も出ないくせに。
鬼の餌にはなれる。
それらを拒む術などなかった。
耳を塞いでも、言葉は胸に入ってきた。
けれど朔夜は言う。
選んでいいと。
鈴音は目を閉じた。
息を吸う。
吐く。
守り紐の鈴が、胸元で小さく鳴る。
ちりん。
その音を中心に、自分の周りに薄い膜を作るように意識する。
千景が横で見守っていた。
「いい感じです。昨日よりずっと安定してます」
褒められて、鈴音は少しだけ目を開ける。
千景は照れたようにそっぽを向いた。
「まあ、僕の教えがいいんですけどね」
鈴音は小さく笑った。
そこへ朔夜が近づき、鈴音の前に白い札を一枚差し出した。
「これを持て」
札には、見慣れない文字と、鈴の形をした印が描かれていた。
『これは?』
「声を守る札だ。強い呪いに触れたとき、喉を締める糸を一度だけ弾く」
鈴音は札を受け取った。
薄い紙なのに、不思議と温かい。
千景が得意げに言った。
「朔夜さまが昨夜ずっと作ってたんですよ。鈴音さんが寝たあとも、全然休まずに」
鈴音は驚いて朔夜を見る。
朔夜は千景を一瞥した。
「余計なことを言うな」
「事実です」
鈴音は紙に書いた。
『ありがとうございます。休まなくて大丈夫ですか』
朔夜は少しだけ目を伏せる。
「お前に言われるとはな」
千景が吹き出しそうになった。
鈴音は恥ずかしくなって俯く。
確かに、自分はつい最近まで休むのが苦手だと書いたばかりだった。
朔夜は札を鈴音の手に握らせ、静かに言う。
「危ういと思えば、すぐに引く。いいな」
鈴音は頷いた。
『でも、逃げるためではなく、戻ってくるために引きます』
朔夜はその文字を読み、わずかに目を細めた。
「強くなったな」
胸の奥が、ふわりと温かくなった。
強くなった。
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
常盤家へ向かう道は、前よりも短く感じた。
朔夜が隣にいて、千景が少し前を歩いている。村人たちは遠巻きにこちらを見ていたが、前回ほど声は気にならなかった。
ひそひそ。
鬼神がまた来た。
声の出ない娘が生きている。
常盤家で何かあったらしい。
そんな嘘と噂の音が、遠くでざわめいている。
けれど鈴音は、守り紐の鈴に意識を向けた。
ちりん。
自分の音。
自分の場所。
すると、村のざわめきは少し遠のいた。
常盤家の門前に立つと、胸が冷えた。
あの門をくぐれば、また過去に戻されるような気がした。
けれど朔夜が隣に立っている。
千景も振り返り、言った。
「鈴音さん。今日は、こっちが勝手に入る番です」
その言い方があまりに堂々としていて、鈴音は少しだけ笑った。
門番の下男は、朔夜の姿を見るなり腰を抜かしそうになった。
「お、お待ちください、旦那さまにお取次ぎを――」
「必要ない」
朔夜は短く言い、門をくぐった。
鈴音も後に続く。
屋敷の中は騒然となった。
女中たちが慌てて廊下を走る。誰かが奥へ父を呼びに行く。八重の声が遠くで響いた。
「また鬼神さまが? 鈴音も一緒なの?」
その声を聞いた瞬間、鈴音の喉が少し痛んだ。
嘘の音が、屋敷中から滲み出してくる。
きしきし。
ひそひそ。
隠せ。
知られるな。
見られてはいけない。
鈴音は守り紐を握る。
ちりん。
大丈夫。
自分の音を聞く。
朔夜が横目で鈴音を見た。
「行けるか」
鈴音は頷いた。
常盤家の蔵は、屋敷の北側にあった。
幼い頃から、鈴音はそこへ近づいてはいけないと言われていた。
古くて危ないから。
中に大切なものがあるから。
災いの娘が近づけば、家に不幸が起きるから。
理由はその時々で変わった。
けれど今ならわかる。
近づかせたくないものが、そこにあったのだ。
蔵は黒い土壁でできていた。
扉には古い錠前がかかっている。その上に、鈴音が夢で見た通り、母の鈴と同じ紋が刻まれていた。
鈴の紋。
真実を記憶する巫女の印。
鈴音は蔵の扉に触れようとして、手を止めた。
扉の隙間から、黒い靄が漏れている。
ただの嘘ではない。
長く閉じ込められ、腐りかけた記憶の匂いがした。
朔夜が前に出る。
「下がれ」
鈴音は首を横に振った。
紙に書く。
『私が触れます』
「危険だ」
『母の声が呼んだのは、私です』
朔夜は鈴音を見た。
止めようとする気配があった。
けれど、最後には静かに頷いた。
「俺の手が届くところで触れろ」
鈴音は頷き、札を胸元に入れ、守り紐を握ったまま扉に手を当てた。
瞬間、鈴の音が鳴った。
ちりん。
蔵の中から、同じ音が返ってくる。
ちりん。
錠前が、ひとりでに震えた。
黒い靄が鈴音の手首へ絡みつこうとする。
朔夜の指がその靄を払った。
「名を呼べ」
朔夜が言う。
鈴音は驚いて彼を見た。
「声でなくてもいい。心の中で、母の名を呼べ」
母の名。
澄乃。
鈴音は目を閉じた。
お母さま。
澄乃さま。
どうか、私に聞かせてください。
扉の奥で、何かがほどける音がした。
錠前が落ちる。
重い扉が、ゆっくり開いた。
中は暗かった。
古い木の匂いと、紙の匂い。長く閉ざされていた空気が外へ流れ出す。
その奥から、小さな鈴の音がした。
ちりん。
鈴音は一歩、蔵へ入った。
壁際には古い箱が積まれていた。巻物、帳面、神具らしきもの、使われなくなった祭礼の道具。
どれも埃をかぶっている。
けれど蔵の中央だけ、奇妙に清められていた。
そこに、小さな木箱が置かれている。
鈴の紋が刻まれた箱。
鈴音の胸が高鳴る。
母の声が、すぐそばから聞こえた。
――鈴音。
鈴音は箱の前に膝をついた。
手を伸ばす。
指先が箱に触れた瞬間、景色が変わった。
蔵の中ではなかった。
鈴音は、幼い頃の常盤家の廊下に立っていた。
雨の音がしている。
夜だった。
母の部屋の前に、小さな鈴音が立っている。
幼い鈴音の手には、小さな布人形が握られていた。
部屋の中から、母の声が聞こえる。
「宗一郎さま、これ以上は見過ごせません」
父の声がした。
「黙れ、澄乃」
「村人たちは鬼神さまを恐れています。けれど、本当に村を穢しているのは鬼神さまではありません。常盤家が祟りの名を使って、罪を隠しているのです」
父の沈黙。
次に、八重の声。
「先妻であったからといって、言葉が過ぎますよ。あなたはもう、表に立つべき人ではないわ」
母は怯まなかった。
「私が表に立たなくても、鈴音はいずれ気づきます。あの子の声は、嘘を震わせる。あなた方の隠し事も、いつか必ず」
鈴音の心臓が跳ねた。
自分のことを話している。
幼い鈴音は、襖の隙間から中を見ていた。
母は座敷の中央に座っている。白い着物姿で、顔色は悪い。けれど瞳は強かった。
父はその前に立ち、苦々しい顔をしている。
八重は少し離れた場所で、冷たい目をしていた。
そして、部屋の隅には綾乃がいた。
まだ幼い綾乃。
泣きそうな顔で、大人たちのやり取りを聞いている。
母は胸元から小さな鈴を取り出した。
「この鈴には、記憶を残しました。常盤家が鬼神さまに押しつけてきた嘘。村の供物を横流しした証。百年前の琴乃さまの記録。そして、鈴音の声にかけられようとしている呪いのことも」
父の顔色が変わる。
「なぜ、それを知っている」
「八重さまが呪具を用意しているのを見ました。鈴音の声を封じるつもりですね」
八重が扇を握りしめた。
「災いを防ぐためです。あの子の声は危うい。常盤家を壊す」
「壊れるべきものなら、壊れればいい」
母の声は、静かだった。
「嘘の上に立つ家など、守る価値はありません」
次の瞬間、父が母を打った。
鈴音は息を呑んだ。
幼い鈴音も、襖の陰で小さく震えている。
母の体が畳に倒れる。
父は荒い息をしていた。
「お前が余計なことを言うからだ」
母はそれでも、手の中の鈴を握りしめていた。
「鈴音だけは……あの子だけは、あなた方の嘘に使わせません」
八重が立ち上がった。
「では、あなたには黙っていただきましょう」
鈴音は叫びたかった。
やめて。
お母さまに触らないで。
けれどこれは記憶だ。
何もできない。
八重が母の茶碗へ何かを落とす場面が見えた。
母がそれを飲んだのは、その前だったのか、後だったのか。記憶は断片的に揺れる。
父は止めなかった。
ただ、顔を背けていた。
母の呼吸が苦しげになる。
幼い綾乃が震える声で言った。
「お母さま、澄乃さまが……」
八重が低く言う。
「見てはいけません。あなたは何も見ていないの」
綾乃の目に涙が浮かぶ。
「でも……」
「あなたは常盤家の娘でしょう」
その言葉に、綾乃は口を閉ざした。
鈴音は胸が張り裂けそうだった。
幼い自分が、襖を開けて部屋へ飛び込む。
母のそばへ駆け寄る。
母は苦しげに息をしながら、幼い鈴音の頬に触れた。
「鈴音……逃げて」
鈴音は泣きながら首を横に振っている。
母の手から、小さな鈴が転がった。
ちりん。
その音が、記憶の中で響く。
鈴音は叫ぼうとした。
お母さまは殺された。
そう叫ぼうとした。
その瞬間、八重の手が鈴音の喉に触れた。
「その声は、災いを呼ぶのよ」
綾乃が泣いている。
でも、綾乃は目をそらさない。
八重に言われるまま、小さな呪いの紐を差し出している。
黒い糸が、幼い鈴音の喉へ巻きついた。
鈴音は叫ぼうとした。
けれど声は出ない。
母の名も、助けてという言葉も、真実も、すべて喉の奥で焼け落ちた。
最後に見えたのは、母の唇だった。
――ごめんね。
そこで記憶は途切れた。
鈴音は蔵の中で目を覚ました。
息ができなかった。
喉が焼ける。
胸が痛い。
目から涙がこぼれていることに、少し遅れて気づいた。
朔夜がすぐそばで鈴音を支えていた。
「鈴音!」
千景の声も聞こえる。
鈴音は、手の中に小さな鈴を握っていた。
木箱の中に入っていたのだろう。
母の鈴。
銀色の小さな鈴には、血のような赤い錆が少しだけ残っていた。
鈴音は声を出そうとした。
出ない。
喉が痛い。
でも、今度はただ黙っていることができなかった。
鈴音は震える手で紙を探そうとしたが、涙で視界が滲んでうまく見えない。
朔夜が紙と筆を差し出す。
鈴音は、文字を書いた。
『母は病ではありません』
墨が滲む。
『殺されたのです』
書き終えた瞬間、蔵の中に黒い靄が噴き出した。
木箱の奥から、古い帳面が現れる。
そこには、常盤家の不正の記録が残されていた。
供物の横流し。
村人から集めた金の使途。
鬼神の祟りと称して隠された事故。
百年前の琴乃の件に関する断片的な記述。
そして、鈴音の声を封じるために用意された呪具の記録。
朔夜の表情が冷たくなる。
「証だな」
鈴音は母の鈴を握りしめた。
手の中で、鈴が鳴る。
ちりん。
その音に重なるように、母の声が響いた。
――鈴音。あなたの声は、奪われても消えません。
鈴音は涙を流しながら、鈴を胸に抱いた。
――本当のことを言うために生まれた声は、必ず戻ります。
鈴音の喉の奥で、何かが震えた。
声にならない声。
ずっと閉じ込められていた、幼い日の叫び。
お母さま。
言いたかった。
助けたかった。
でも、できなかった。
鈴音は喉を押さえ、苦しい息の中で唇を動かした。
「……お、かあ……さま」
かすれた声だった。
途切れ途切れで、泣き声に近かった。
それでも、確かに音になった。
蔵の中の鈴が、一斉に鳴ったように感じた。
朔夜が鈴音を支えたまま、静かに言う。
「届いた」
鈴音は泣きながら首を横に振る。
届いたのなら、なぜ母はいないのか。
なぜ、あの夜に届かなかったのか。
そんな思いが胸を刺す。
朔夜は鈴音の喉に手をかざし、痛みを鎮めながら言った。
「今からでも、届く声はある」
鈴音は朔夜を見た。
金色の瞳は、静かに鈴音を見ている。
「死者は戻らぬ。だが、黙らされた真実は戻せる」
その言葉に、鈴音の胸が震えた。
母は戻らない。
それでも、母の声はここに残っていた。
鈴に。
記録に。
そして鈴音の中に。
蔵の外が騒がしくなった。
「何をしている!」
父の声だった。
宗一郎が、八重と数人の使用人を連れて蔵へ駆け込んでくる。
父は鈴音の手にある鈴と、木箱から出された帳面を見るなり、顔色を変えた。
「それに触るな!」
八重の目も大きく見開かれている。
「鈴音、それはあなたには関係のないものです。返しなさい」
関係のないもの。
その言葉に、鈴音の中で何かが静かに燃えた。
母の鈴だ。
母の記録だ。
自分の声を奪った証だ。
関係がないはずがない。
鈴音は立ち上がろうとした。
体が震える。
朔夜が支えようとしたが、鈴音はそっと首を横に振った。
自分で立ちたい。
そう思った。
鈴音は震える足で立ち、父と八重を見た。
声はまだ頼りない。
けれど、もう黙っていたくなかった。
喉が痛む。
札が胸元で熱を持つ。
守り紐の鈴が鳴る。
ちりん。
鈴音は、息を吸った。
「……母、さまは」
父の顔が強張る。
八重が一歩後ずさる。
鈴音は喉を押さえながら、言葉を続けた。
「病では、ありません」
声は震えていた。
掠れて、今にも消えそうだった。
それでも、確かに自分の口から出た言葉だった。
父が怒鳴る。
「黙れ!」
その言葉に、鈴音の喉へ黒い糸が巻きつこうとした。
だが胸元の札が白く光り、その糸を弾いた。
朔夜の瞳が金色に燃える。
「鈴音に黙れと言うな」
蔵の中の空気が震えた。
父は息を呑む。
八重も言葉を失う。
鈴音は母の鈴を胸に抱いた。
今はまだ、すべてを言えない。
声も弱い。
体も震えている。
けれど、確かに一言は言えた。
母は病ではない。
その真実の最初の一欠片を、自分の声で告げた。
朔夜は低く言った。
「今日はここまでだ。鈴音はこれ以上、喉が持たぬ」
父が慌てて言う。
「待て、その帳面を置いていけ!」
千景が帳面を抱え、狐火をちらつかせた。
「嫌です。これは証拠品です」
「証拠だと?」
八重の声が震える。
千景はにやりと笑った。
「ええ。鬼神さまの花嫁の声を奪った証拠です」
鈴音は母の鈴を握りしめたまま、蔵を出た。
足元はふらついていた。
けれど、以前のように逃げ出すのではない。
取り戻すために、一度引くのだ。
常盤家の門を出たところで、鈴音は振り返った。
父と八重が、蔵の前に立ち尽くしている。
その顔には、初めて恐れが浮かんでいた。
鈴音は胸に手を当てる。
怖いのは、自分だけではなかった。
真実を隠した者たちもまた、真実が戻ってくることを恐れている。
社へ戻る山道で、鈴音は一度も泣かなかった。
涙は、蔵で出し尽くしたようだった。
代わりに、胸の奥には静かな決意があった。
朔夜が隣を歩きながら言う。
「無理をしたな」
鈴音は紙に書いた。
『でも、言えました』
朔夜はその文字を見て、頷いた。
「ああ。聞こえた」
その言葉に、鈴音の胸が温かくなる。
聞こえた。
母にも、聞こえただろうか。
鈴音は手の中の鈴を見た。
小さな鈴は、夕暮れの光を受けてかすかに輝いている。
ちりん。
音が鳴った。
鈴音には、それが母の返事のように思えた。
社へ戻ると、朔夜は帳面と鈴を清めの間に置いた。
「この記録は、大きな鍵になる」
千景が深く頷く。
「常盤家、真っ黒ですね。思った以上に真っ黒です」
鈴音は紙に書いた。
『母は、このために殺されたのですね』
朔夜はしばらく黙っていた。
「おそらくな」
その言葉は、鈴音の胸を再び刺した。
けれど、今度は崩れなかった。
母は、真実を守ろうとして死んだ。
鈴音を守ろうとして、声を封じられることを止めようとしてくれた。
その母の声を、もう一度黙らせるわけにはいかない。
鈴音は紙に書いた。
『もう一度、常盤家へ行きます』
千景が驚く。
「え、またですか? 今日あんな目に遭ったばかりなのに?」
鈴音は頷いた。
『今度は、呼ばれたからではありません』
朔夜が鈴音を見る。
鈴音は、ゆっくり筆を進めた。
『私の意思で戻ります。母の真実を、私の声で言うために』
部屋の中が静かになった。
朔夜の瞳が、深く鈴音を映す。
「まだ喉は万全ではない」
『わかっています』
「常盤家は、お前をまた黙らせようとする」
『それも、わかっています』
鈴音は母の鈴を手に取った。
小さな鈴は、冷たく、けれど確かにそこにあった。
『でも、私はもう黙りたくありません』
その文字を書き終えた瞬間、母の鈴が鳴った。
ちりん。
澄んだ音だった。
社の奥に眠る鈴たちも、それに応えるようにかすかに鳴る。
朔夜は鈴音の前に膝をつき、静かに言った。
「ならば、俺は隣に立つ」
守る、ではなく。
連れていく、でもなく。
隣に立つ。
その言葉に、鈴音の胸がいっぱいになった。
鈴音はまだ弱い。
声も完全には戻っていない。
母の死を思い出すたび、胸は裂けそうになる。
それでも、もう誰かに差し出されるだけの花嫁ではない。
鈴音は母の鈴と、朔夜の守り紐を胸に抱いた。
次に常盤家へ戻るとき、自分は真実を告げる。
たとえ声が震えても。
たとえ涙が出ても。
たとえ、また喉を焼かれそうになっても。
母の死を、病などという嘘の中に置き去りにはしない。
夜の社に、鈴の音が静かに響いていた。
ちりん。
それは、死者の声ではなく。
これから真実を告げに行く者の、始まりの音だった。



