常盤家の古い蔵。
母の声。
そこに真実がある。
夜明け前に見た夢の残響は、朝になっても鈴音の胸から消えなかった。
枕元の紙には、震える文字でこう書かれている。
『母の真実は、常盤家の蔵にあります』
その文字を見つめるたび、喉の奥が熱を持つ。
行かなければ。
知りたい。
そう思うのに、体はすぐに動かなかった。
常盤家へ戻ったばかりだ。綾乃の中に棲む琴乃を見たばかりだ。あの屋敷が、嘘そのもののように黒い靄を吐く場所だと知ったばかりだ。
もう一度あそこへ行くのは、怖い。
けれど、行かなければ母のことはわからない。
鈴音は白い守り紐を両手で包んだ。
朔夜から渡された、花嫁の証。
自分の意思で社に残ると決めた者に渡されるもの。
小さな鈴が、手の中でかすかに鳴った。
ちりん。
その音に少しだけ勇気をもらい、鈴音は布団から起き上がった。
襖の向こうには、いつものように朔夜の気配があった。
昨夜もそばにいてくれたのだろう。
鈴音が筆を取る前に、襖の向こうから声がした。
「起きたか」
鈴音は少し驚き、それから頷いた。見えていないはずなのに、朔夜には伝わったようだった。
「入るぞ」
襖が開き、朔夜が姿を見せる。
黒衣の姿はいつもと変わらない。けれど、鈴音は以前より少しだけ、その表情のわずかな変化がわかるようになっていた。
今日の朔夜は、眉間に薄く皺が寄っている。
心配している顔だ。
鈴音はそう思った。
朔夜は枕元の紙を見た。
「常盤家の蔵、か」
鈴音は頷く。
紙に書く。
『夢で見ました。琴乃さまの声と、母の声が聞こえました』
朔夜はしばらく黙った。
「琴乃の残り声がお前を導いたのかもしれぬ」
『琴乃さまは、私を助けようとしているのですか』
書いてから、鈴音は自分でも迷った。
琴乃は恐ろしい。
綾乃の中で笑い、鈴音の声を狙い、朔夜を責めた。
けれど夢の中の琴乃は、あの白無垢の影とは違っていた。悲しく、寂しく、まだ誰かを信じたかった少女のように見えた。
朔夜は鈴音の問いを見て、すぐには答えなかった。
「琴乃の中には、二つの声があるのかもしれぬ」
鈴音は顔を上げる。
「恨みに染まった声と、死ぬ前に誰かへ届いてほしかった声だ。お前が聞いたのは、後者かもしれない」
鈴音は胸に手を当てた。
死ぬ前に届いてほしかった声。
それは、自分にもわかる気がした。
声が出ない間、鈴音は何度も思った。
誰かに聞いてほしい。
本当は苦しいと。
私は災いではないと。
母の死には何かがあると。
けれど声は出なかった。
だからこそ、琴乃の届かなかった声が胸に刺さる。
『蔵へ行きたいです』
鈴音はそう書いた。
朔夜は予想していたのか、静かに首を横に振った。
「今すぐは駄目だ」
鈴音は息を呑む。
反射的に、また自分の意思が退けられたような痛みが走った。
しかし朔夜は続ける。
「行くなと言っているのではない。準備なしに戻れば、お前の喉も心も持たない。常盤家には琴乃がいる。綾乃がいる。八重も、宗一郎もいる。あの屋敷そのものに嘘が染みついている」
鈴音は俯いた。
確かに、あの屋敷に入っただけで喉が痛んだ。綾乃の一言で、声が奪われそうになった。
また無理をすれば、せっかく戻りかけた声を失うかもしれない。
「まず、花嫁としての役目を覚えろ」
鈴音は顔を上げる。
朔夜は言った。
「この社の花嫁は、生贄ではない。鬼神の隣で、土地の声を聞き、嘘の流れを見極める者だ」
花嫁。
その言葉の意味が、少しずつ変わっていく。
常盤家では、花嫁とは差し出されるものだった。
家のため、村のため、誰かの都合のために白無垢を着せられ、黙って山へ送られるもの。
けれど朔夜の言う花嫁は違う。
隣に立つ者。
声を聞く者。
嘘の流れを見極める者。
鈴音は守り紐を握りしめ、ゆっくり頷いた。
『教えてください』
朔夜の目が、少しだけやわらかくなった。
「わかった」
花嫁修行は、思っていたより地味だった。
まず千景に渡されたのは、箒だった。
「花嫁の最初の役目は掃除です」
千景は胸を張って言った。
鈴音は箒を見つめた。
常盤家でも掃除はしていた。
庭を掃き、廊下を拭き、座敷を整える。鈴音にとって掃除は、使用人の仕事であり、押しつけられるものだった。
千景はそんな鈴音の顔を見て、すぐに言う。
「あ、違いますからね。こき使うわけじゃありません」
鈴音は首を傾げる。
「社を清めるんです。落ち葉や埃だけじゃなく、淀んだ気配を払う。雑に掃くと、穢れが隅に溜まります」
千景は小さな手で箒を持ち、境内の一角をさっと掃いてみせた。
ただ落ち葉を集めているように見える。
けれど、箒の先が通った場所の空気がわずかに澄んだ気がした。
「ほら、やってみてください」
鈴音は箒を受け取った。
いつもの癖で、急いで動こうとしてしまう。
千景がすぐに叫んだ。
「速い! 違います! そんなに力を入れたら、穢れが舞うだけです!」
鈴音はびくっとして手を止めた。
怒られた。
そう思って身が縮む。
すると千景は慌てたように耳を伏せた。
「あ、違います。怒ってるんじゃなくて。ええと、教えてるんです」
鈴音は千景を見る。
千景は頬をかきながら、小さく言った。
「常盤家みたいに怒鳴るつもりはないです。ここでは、失敗したらやり直せばいいだけですから」
鈴音は目を瞬かせた。
失敗したら、やり直せばいい。
常盤家では、失敗は責められるものだった。鈴音が茶をこぼせば、声も出ないくせに手まで不器用なのかと笑われた。掃除が遅ければ、役立たずと言われた。
やり直せばいい、と言われたことなどなかった。
鈴音は紙に書いた。
『もう一度、教えてください』
千景は少し照れたように鼻を鳴らした。
「仕方ありませんね。よく見てください」
箒の持ち方。
足の運び方。
風の向きを読むこと。
落ち葉を集めながら、空気の重い場所を探すこと。
千景の教え方は、口こそ悪いが丁寧だった。
鈴音は何度も失敗した。
落ち葉を散らし、石段の隅に小さな黒い靄を残してしまい、千景に「そこ、見逃してます」と指摘された。
けれど不思議と、嫌ではなかった。
できないことを責められているのではなく、できるようになるために教えられているとわかったからだ。
昼前には、鈴音の額に汗がにじんでいた。
朔夜が社の縁側から見ていた。
鈴音がそれに気づくと、朔夜は短く言った。
「上達したな」
たった一言。
それだけなのに、鈴音の胸が温かくなった。
千景が得意げに胸を張る。
「僕の教え方がいいんです」
「そうか」
「そこは否定しないでくださいよ」
朔夜と千景のやり取りを見て、鈴音は小さく笑った。
声は出ない。
けれど、笑うことは少しずつ増えていた。
午後は、供物の作法を習った。
供物といっても、血や肉ではない。
米、水、塩、季節の果実、小さな花。
それらを神前に供える。
鈴音は驚いた。
村では、鬼神は人を喰うと言われていた。だからもっと恐ろしいものを捧げるのだと思っていた。
千景は呆れたように言う。
「朔夜さまは人を喰わないって何度言えば覚えるんですか」
鈴音は少し申し訳なくなり、紙に書く。
『頭ではわかっています。でも、長くそう聞かされていたので』
千景は口を閉じた。
少し気まずそうに尾を揺らす。
「まあ……それは、仕方ないですけど」
供物は、土地への感謝を形にするものだという。
水は流れへ。
米は実りへ。
塩は清めへ。
花は、声なきものへの慰めへ。
鈴音は花を手にした。
白い小花だった。
朝露のように小さな花びらを見つめていると、ふと琴乃の白無垢が浮かんだ。
あの人にも、誰かが花を供えたのだろうか。
殺されたあと、鬼に喰われたことにされ、声ごと埋められた花嫁に。
鈴音は、花を神前に置いた。
その瞬間、小さな鈴の音がした。
ちりん。
守り紐の鈴ではない。
社の奥に眠る、誰かの鈴が鳴ったようだった。
朔夜が横から言う。
「聞こえたか」
鈴音は頷く。
「花は、黙らされた声を慰める。お前には、その音が届きやすいのだろう」
黙らされた声。
鈴音は花を見つめたまま、胸が締めつけられた。
自分の力が、少しずつわかりかけている。
嘘を見る力。
声を聞く力。
そして、声を失った者たちの残響に触れる力。
それは、ただ便利な力ではなかった。
聞こえてしまうものがある。
見えてしまうものがある。
それに耐えられる強さが、自分にあるのだろうか。
夕方近く、朔夜は鈴音を社の石段の上へ連れていった。
そこからは、村が見下ろせた。
田畑、民家、常盤家の大きな屋根。
夕日に照らされれば穏やかな景色に見える。けれど鈴音には、ところどころに黒い靄が漂っているのが見えた。
最初は煙かと思った。
けれど違う。
煙なら風に流れるはずだ。あの黒いものは、家々の上に沈むように溜まっている。
「見えるな」
朔夜が言った。
鈴音は頷く。
「村の嘘だ」
鈴音は息を呑んだ。
朔夜は、村を見下ろしたまま続ける。
「小さな嘘は、誰でもつく。自分を守る嘘。誰かを傷つけぬための嘘。だが嘘が積もり、誰かを黙らせ、罪を隠すようになると、土地を穢す」
黒い靄が、夕暮れの中でゆらゆらと揺れている。
鈴音は耳を澄ませた。
すると、音が聞こえた。
最初は風の音かと思った。
けれど違う。
ざわざわ。
きしきし。
ひそひそ。
村のあちこちから、かすかな音が漂ってくる。
それは言葉ではない。
でも、意味がある。
誰かが誰かを妬む音。
笑顔の裏で舌打ちする音。
ありがたいと言いながら、面倒だと思う音。
謝りながら、少しも悪いと思っていない音。
鈴音は思わず耳を塞いだ。
音は消えない。
耳ではなく、胸の奥へ響いてくる。
苦しい。
気持ち悪い。
鈴音はその場に膝をついた。
朔夜がすぐに支える。
「聞こえすぎたか」
鈴音は震えながら頷いた。
村の嘘の音。
それは、思っていたよりもずっと多く、濁っていた。
常盤家だけではない。
村全体に、小さな嘘が溜まっている。
朔夜は鈴音の耳元で低く言った。
「すべてを聞こうとするな」
鈴音は朔夜を見る。
「お前の力は、まだ開き始めたばかりだ。流れてくるものをすべて受け止めれば、壊れる」
鈴音は息を整えようとする。
けれど音はまだ続いている。
ひそひそ。
きしきし。
あの子が悪い。
私は悪くない。
見なかったことにしよう。
仕方なかった。
誰かがやった。
鬼神のせいだ。
鬼神のせい。
鬼神のせい。
その音だけが、いくつも重なって鈴音の胸を締めつける。
鈴音は朔夜の袖を掴んだ。
朔夜は鈴音の背に手を添える。
「自分の音を探せ」
鈴音は苦しげに朔夜を見上げる。
「他人の嘘に呑まれるな。お前自身の息、お前自身の鼓動、お前自身の願いを聞け」
自分の音。
鈴音は目を閉じた。
嘘の音はまだ押し寄せてくる。
けれどその奥で、自分の呼吸を探す。
吸う。
吐く。
喉は少し痛い。
胸が震える。
守り紐の鈴が、かすかに鳴った。
ちりん。
その音を頼りに、鈴音は自分の中へ戻っていく。
私は、ここにいる。
私は、村の嘘ではない。
常盤家の罪でもない。
誰かの代わりに黙るために生まれたのではない。
そう思った瞬間、嘘の音が少し遠のいた。
鈴音はようやく息を吸えた。
朔夜が静かに言う。
「そうだ」
鈴音は目を開けた。
朔夜の顔が近くにあった。
金の瞳が、まっすぐ鈴音を見ている。
「よく戻った」
その言葉に、鈴音の胸が熱くなった。
また、戻れた。
嘘の音の中から、自分の場所へ。
鈴音は紙を出そうとしたが、手が震えてうまく書けなかった。
朔夜は何も急かさない。
ただ隣で待っている。
鈴音は深く息を吸い、かすれた声を探した。
喉の奥が震える。
「……あり、が……」
途中で声は途切れた。
喉が痛む。
けれど、朔夜は目を見開いた。
鈴音は慌てて口を閉じる。
無理をしたと怒られるかと思った。
しかし朔夜は、低く言った。
「礼は紙でもいい」
少しだけ、声がやわらかい。
「だが、聞こえた」
聞こえた。
その言葉だけで、鈴音は泣きそうになった。
声はまだ弱い。
言葉にもなりきらない。
それでも、届いた。
鈴音は紙に書いた。
『ありがとうございます。嘘の音に呑まれそうでした』
朔夜は村を見下ろす。
「慣れるまでは、長く聞くな。嘘は、知ればいいというものではない」
鈴音は首を傾げる。
朔夜は続けた。
「人は誰しも、些細な嘘を抱えている。すべてを暴けば正しいわけではない。大切なのは、その嘘が誰かを傷つけ、黙らせ、罪を隠しているかどうかを見極めることだ」
鈴音はその言葉を胸に刻んだ。
真実を知りたい。
でも、すべての嘘を裁くことが目的ではない。
声は、誰かを傷つけるためだけのものではない。
母も言っていた。
――鈴音の声は、誰かを裁くためのものではありません。誰かを救うためのものです。
その記憶が蘇った瞬間、鈴音の胸の奥で何かが鳴った。
ちりん。
守り紐ではない。
もっと遠く。
もっと懐かしい音。
鈴音は顔を上げた。
村の方から、ひとつだけ違う音が聞こえる。
嘘の音ではない。
ひそひそでも、きしきしでもない。
澄んだ、小さな鈴の音。
ちりん。
ちりん。
それは常盤家の方角から響いていた。
鈴音は耳を澄ませる。
音の奥に、声が混じった。
――鈴音。
息が止まった。
母の声だった。
鈴音は目を見開く。
朔夜がすぐに気づく。
「どうした」
鈴音は震える手で村を指さした。
常盤家。
あの古い蔵の方角。
また、声が聞こえる。
――鈴音、そこに来てはなりません。
鈴音は喉を押さえた。
来てはならない?
夢では、そこに真実があると言っていた。
なのに今は、来てはならないと言う。
声はさらにかすかに響いた。
――でも、知らなければ、あなたはまた奪われる。
矛盾する言葉。
行くな。
でも、知らなければならない。
母の声は揺れていた。
まるで、鈴音を守りたい気持ちと、真実を託したい気持ちの間で引き裂かれているようだった。
鈴音の喉が熱くなる。
「……お、かあ……」
声がかすれた。
朔夜が鈴音を支える。
「鈴音、落ち着け」
鈴音は紙を掴み、必死に書いた。
『母の声が聞こえます。常盤家の蔵から』
朔夜の表情が変わった。
「蔵か」
鈴音は頷く。
『行くなと言っています。でも、知らなければまた奪われるとも』
千景がいつの間にか石段の下に来ていた。
鈴音の紙を見て、顔をしかめる。
「それ、罠じゃないですか? 琴乃か綾乃が鈴音さんを誘ってるとか」
鈴音は首を横に振りきれなかった。
確かに、罠かもしれない。
琴乃は鈴音の声を狙っている。常盤家の蔵へ誘い込もうとしている可能性もある。
けれど、あの声は母だった。
鈴音にはそう思えた。
朔夜は静かに言った。
「罠かどうかは、確かめるしかない」
鈴音は朔夜を見る。
「だが、今日ではない」
鈴音は頷いた。
今なら、前よりその意味がわかる。
準備が必要だ。
嘘の音に呑まれないために。
声を奪われないために。
そして、真実を知っても壊れないために。
朔夜は村を見下ろしたまま言った。
「明日から、蔵へ入るための準備をする。結界の張り方、嘘の音の遮り方、声を守る術。すべて覚えろ」
鈴音は白い守り紐を握りしめた。
怖い。
けれど、逃げない。
鈴音は紙に書いた。
『覚えます』
朔夜が頷く。
千景も、珍しく真面目な顔で言った。
「僕も手伝います。今度こそ、常盤家の連中に好き勝手させません」
鈴音は千景を見て、小さく頭を下げた。
夕暮れの風が、三人の間を抜けていく。
村の嘘の音は、まだ遠くで鳴っている。
ひそひそ。
きしきし。
でも、その中に母の鈴の音もあった。
ちりん。
小さく、確かに。
鈴音は喉に手を当てた。
花嫁修行は、ただ作法を覚えることではない。
自分の声を守ること。
嘘の音に呑まれないこと。
聞くべき声を聞き分けること。
そして、必要な真実の前から逃げないこと。
鈴音は、常盤家の屋根を見つめた。
あそこに、母の真実がある。
あそこに、自分の声を奪った何かがある。
次に戻るとき、鈴音はただ震えるだけの娘ではない。
鬼神の隣に立つ花嫁として、戻るのだ。
その決意に応えるように、守り紐の鈴が鳴った。
ちりん。
鈴音はその音を胸に抱き、沈みゆく夕日を見つめた。
母の声。
そこに真実がある。
夜明け前に見た夢の残響は、朝になっても鈴音の胸から消えなかった。
枕元の紙には、震える文字でこう書かれている。
『母の真実は、常盤家の蔵にあります』
その文字を見つめるたび、喉の奥が熱を持つ。
行かなければ。
知りたい。
そう思うのに、体はすぐに動かなかった。
常盤家へ戻ったばかりだ。綾乃の中に棲む琴乃を見たばかりだ。あの屋敷が、嘘そのもののように黒い靄を吐く場所だと知ったばかりだ。
もう一度あそこへ行くのは、怖い。
けれど、行かなければ母のことはわからない。
鈴音は白い守り紐を両手で包んだ。
朔夜から渡された、花嫁の証。
自分の意思で社に残ると決めた者に渡されるもの。
小さな鈴が、手の中でかすかに鳴った。
ちりん。
その音に少しだけ勇気をもらい、鈴音は布団から起き上がった。
襖の向こうには、いつものように朔夜の気配があった。
昨夜もそばにいてくれたのだろう。
鈴音が筆を取る前に、襖の向こうから声がした。
「起きたか」
鈴音は少し驚き、それから頷いた。見えていないはずなのに、朔夜には伝わったようだった。
「入るぞ」
襖が開き、朔夜が姿を見せる。
黒衣の姿はいつもと変わらない。けれど、鈴音は以前より少しだけ、その表情のわずかな変化がわかるようになっていた。
今日の朔夜は、眉間に薄く皺が寄っている。
心配している顔だ。
鈴音はそう思った。
朔夜は枕元の紙を見た。
「常盤家の蔵、か」
鈴音は頷く。
紙に書く。
『夢で見ました。琴乃さまの声と、母の声が聞こえました』
朔夜はしばらく黙った。
「琴乃の残り声がお前を導いたのかもしれぬ」
『琴乃さまは、私を助けようとしているのですか』
書いてから、鈴音は自分でも迷った。
琴乃は恐ろしい。
綾乃の中で笑い、鈴音の声を狙い、朔夜を責めた。
けれど夢の中の琴乃は、あの白無垢の影とは違っていた。悲しく、寂しく、まだ誰かを信じたかった少女のように見えた。
朔夜は鈴音の問いを見て、すぐには答えなかった。
「琴乃の中には、二つの声があるのかもしれぬ」
鈴音は顔を上げる。
「恨みに染まった声と、死ぬ前に誰かへ届いてほしかった声だ。お前が聞いたのは、後者かもしれない」
鈴音は胸に手を当てた。
死ぬ前に届いてほしかった声。
それは、自分にもわかる気がした。
声が出ない間、鈴音は何度も思った。
誰かに聞いてほしい。
本当は苦しいと。
私は災いではないと。
母の死には何かがあると。
けれど声は出なかった。
だからこそ、琴乃の届かなかった声が胸に刺さる。
『蔵へ行きたいです』
鈴音はそう書いた。
朔夜は予想していたのか、静かに首を横に振った。
「今すぐは駄目だ」
鈴音は息を呑む。
反射的に、また自分の意思が退けられたような痛みが走った。
しかし朔夜は続ける。
「行くなと言っているのではない。準備なしに戻れば、お前の喉も心も持たない。常盤家には琴乃がいる。綾乃がいる。八重も、宗一郎もいる。あの屋敷そのものに嘘が染みついている」
鈴音は俯いた。
確かに、あの屋敷に入っただけで喉が痛んだ。綾乃の一言で、声が奪われそうになった。
また無理をすれば、せっかく戻りかけた声を失うかもしれない。
「まず、花嫁としての役目を覚えろ」
鈴音は顔を上げる。
朔夜は言った。
「この社の花嫁は、生贄ではない。鬼神の隣で、土地の声を聞き、嘘の流れを見極める者だ」
花嫁。
その言葉の意味が、少しずつ変わっていく。
常盤家では、花嫁とは差し出されるものだった。
家のため、村のため、誰かの都合のために白無垢を着せられ、黙って山へ送られるもの。
けれど朔夜の言う花嫁は違う。
隣に立つ者。
声を聞く者。
嘘の流れを見極める者。
鈴音は守り紐を握りしめ、ゆっくり頷いた。
『教えてください』
朔夜の目が、少しだけやわらかくなった。
「わかった」
花嫁修行は、思っていたより地味だった。
まず千景に渡されたのは、箒だった。
「花嫁の最初の役目は掃除です」
千景は胸を張って言った。
鈴音は箒を見つめた。
常盤家でも掃除はしていた。
庭を掃き、廊下を拭き、座敷を整える。鈴音にとって掃除は、使用人の仕事であり、押しつけられるものだった。
千景はそんな鈴音の顔を見て、すぐに言う。
「あ、違いますからね。こき使うわけじゃありません」
鈴音は首を傾げる。
「社を清めるんです。落ち葉や埃だけじゃなく、淀んだ気配を払う。雑に掃くと、穢れが隅に溜まります」
千景は小さな手で箒を持ち、境内の一角をさっと掃いてみせた。
ただ落ち葉を集めているように見える。
けれど、箒の先が通った場所の空気がわずかに澄んだ気がした。
「ほら、やってみてください」
鈴音は箒を受け取った。
いつもの癖で、急いで動こうとしてしまう。
千景がすぐに叫んだ。
「速い! 違います! そんなに力を入れたら、穢れが舞うだけです!」
鈴音はびくっとして手を止めた。
怒られた。
そう思って身が縮む。
すると千景は慌てたように耳を伏せた。
「あ、違います。怒ってるんじゃなくて。ええと、教えてるんです」
鈴音は千景を見る。
千景は頬をかきながら、小さく言った。
「常盤家みたいに怒鳴るつもりはないです。ここでは、失敗したらやり直せばいいだけですから」
鈴音は目を瞬かせた。
失敗したら、やり直せばいい。
常盤家では、失敗は責められるものだった。鈴音が茶をこぼせば、声も出ないくせに手まで不器用なのかと笑われた。掃除が遅ければ、役立たずと言われた。
やり直せばいい、と言われたことなどなかった。
鈴音は紙に書いた。
『もう一度、教えてください』
千景は少し照れたように鼻を鳴らした。
「仕方ありませんね。よく見てください」
箒の持ち方。
足の運び方。
風の向きを読むこと。
落ち葉を集めながら、空気の重い場所を探すこと。
千景の教え方は、口こそ悪いが丁寧だった。
鈴音は何度も失敗した。
落ち葉を散らし、石段の隅に小さな黒い靄を残してしまい、千景に「そこ、見逃してます」と指摘された。
けれど不思議と、嫌ではなかった。
できないことを責められているのではなく、できるようになるために教えられているとわかったからだ。
昼前には、鈴音の額に汗がにじんでいた。
朔夜が社の縁側から見ていた。
鈴音がそれに気づくと、朔夜は短く言った。
「上達したな」
たった一言。
それだけなのに、鈴音の胸が温かくなった。
千景が得意げに胸を張る。
「僕の教え方がいいんです」
「そうか」
「そこは否定しないでくださいよ」
朔夜と千景のやり取りを見て、鈴音は小さく笑った。
声は出ない。
けれど、笑うことは少しずつ増えていた。
午後は、供物の作法を習った。
供物といっても、血や肉ではない。
米、水、塩、季節の果実、小さな花。
それらを神前に供える。
鈴音は驚いた。
村では、鬼神は人を喰うと言われていた。だからもっと恐ろしいものを捧げるのだと思っていた。
千景は呆れたように言う。
「朔夜さまは人を喰わないって何度言えば覚えるんですか」
鈴音は少し申し訳なくなり、紙に書く。
『頭ではわかっています。でも、長くそう聞かされていたので』
千景は口を閉じた。
少し気まずそうに尾を揺らす。
「まあ……それは、仕方ないですけど」
供物は、土地への感謝を形にするものだという。
水は流れへ。
米は実りへ。
塩は清めへ。
花は、声なきものへの慰めへ。
鈴音は花を手にした。
白い小花だった。
朝露のように小さな花びらを見つめていると、ふと琴乃の白無垢が浮かんだ。
あの人にも、誰かが花を供えたのだろうか。
殺されたあと、鬼に喰われたことにされ、声ごと埋められた花嫁に。
鈴音は、花を神前に置いた。
その瞬間、小さな鈴の音がした。
ちりん。
守り紐の鈴ではない。
社の奥に眠る、誰かの鈴が鳴ったようだった。
朔夜が横から言う。
「聞こえたか」
鈴音は頷く。
「花は、黙らされた声を慰める。お前には、その音が届きやすいのだろう」
黙らされた声。
鈴音は花を見つめたまま、胸が締めつけられた。
自分の力が、少しずつわかりかけている。
嘘を見る力。
声を聞く力。
そして、声を失った者たちの残響に触れる力。
それは、ただ便利な力ではなかった。
聞こえてしまうものがある。
見えてしまうものがある。
それに耐えられる強さが、自分にあるのだろうか。
夕方近く、朔夜は鈴音を社の石段の上へ連れていった。
そこからは、村が見下ろせた。
田畑、民家、常盤家の大きな屋根。
夕日に照らされれば穏やかな景色に見える。けれど鈴音には、ところどころに黒い靄が漂っているのが見えた。
最初は煙かと思った。
けれど違う。
煙なら風に流れるはずだ。あの黒いものは、家々の上に沈むように溜まっている。
「見えるな」
朔夜が言った。
鈴音は頷く。
「村の嘘だ」
鈴音は息を呑んだ。
朔夜は、村を見下ろしたまま続ける。
「小さな嘘は、誰でもつく。自分を守る嘘。誰かを傷つけぬための嘘。だが嘘が積もり、誰かを黙らせ、罪を隠すようになると、土地を穢す」
黒い靄が、夕暮れの中でゆらゆらと揺れている。
鈴音は耳を澄ませた。
すると、音が聞こえた。
最初は風の音かと思った。
けれど違う。
ざわざわ。
きしきし。
ひそひそ。
村のあちこちから、かすかな音が漂ってくる。
それは言葉ではない。
でも、意味がある。
誰かが誰かを妬む音。
笑顔の裏で舌打ちする音。
ありがたいと言いながら、面倒だと思う音。
謝りながら、少しも悪いと思っていない音。
鈴音は思わず耳を塞いだ。
音は消えない。
耳ではなく、胸の奥へ響いてくる。
苦しい。
気持ち悪い。
鈴音はその場に膝をついた。
朔夜がすぐに支える。
「聞こえすぎたか」
鈴音は震えながら頷いた。
村の嘘の音。
それは、思っていたよりもずっと多く、濁っていた。
常盤家だけではない。
村全体に、小さな嘘が溜まっている。
朔夜は鈴音の耳元で低く言った。
「すべてを聞こうとするな」
鈴音は朔夜を見る。
「お前の力は、まだ開き始めたばかりだ。流れてくるものをすべて受け止めれば、壊れる」
鈴音は息を整えようとする。
けれど音はまだ続いている。
ひそひそ。
きしきし。
あの子が悪い。
私は悪くない。
見なかったことにしよう。
仕方なかった。
誰かがやった。
鬼神のせいだ。
鬼神のせい。
鬼神のせい。
その音だけが、いくつも重なって鈴音の胸を締めつける。
鈴音は朔夜の袖を掴んだ。
朔夜は鈴音の背に手を添える。
「自分の音を探せ」
鈴音は苦しげに朔夜を見上げる。
「他人の嘘に呑まれるな。お前自身の息、お前自身の鼓動、お前自身の願いを聞け」
自分の音。
鈴音は目を閉じた。
嘘の音はまだ押し寄せてくる。
けれどその奥で、自分の呼吸を探す。
吸う。
吐く。
喉は少し痛い。
胸が震える。
守り紐の鈴が、かすかに鳴った。
ちりん。
その音を頼りに、鈴音は自分の中へ戻っていく。
私は、ここにいる。
私は、村の嘘ではない。
常盤家の罪でもない。
誰かの代わりに黙るために生まれたのではない。
そう思った瞬間、嘘の音が少し遠のいた。
鈴音はようやく息を吸えた。
朔夜が静かに言う。
「そうだ」
鈴音は目を開けた。
朔夜の顔が近くにあった。
金の瞳が、まっすぐ鈴音を見ている。
「よく戻った」
その言葉に、鈴音の胸が熱くなった。
また、戻れた。
嘘の音の中から、自分の場所へ。
鈴音は紙を出そうとしたが、手が震えてうまく書けなかった。
朔夜は何も急かさない。
ただ隣で待っている。
鈴音は深く息を吸い、かすれた声を探した。
喉の奥が震える。
「……あり、が……」
途中で声は途切れた。
喉が痛む。
けれど、朔夜は目を見開いた。
鈴音は慌てて口を閉じる。
無理をしたと怒られるかと思った。
しかし朔夜は、低く言った。
「礼は紙でもいい」
少しだけ、声がやわらかい。
「だが、聞こえた」
聞こえた。
その言葉だけで、鈴音は泣きそうになった。
声はまだ弱い。
言葉にもなりきらない。
それでも、届いた。
鈴音は紙に書いた。
『ありがとうございます。嘘の音に呑まれそうでした』
朔夜は村を見下ろす。
「慣れるまでは、長く聞くな。嘘は、知ればいいというものではない」
鈴音は首を傾げる。
朔夜は続けた。
「人は誰しも、些細な嘘を抱えている。すべてを暴けば正しいわけではない。大切なのは、その嘘が誰かを傷つけ、黙らせ、罪を隠しているかどうかを見極めることだ」
鈴音はその言葉を胸に刻んだ。
真実を知りたい。
でも、すべての嘘を裁くことが目的ではない。
声は、誰かを傷つけるためだけのものではない。
母も言っていた。
――鈴音の声は、誰かを裁くためのものではありません。誰かを救うためのものです。
その記憶が蘇った瞬間、鈴音の胸の奥で何かが鳴った。
ちりん。
守り紐ではない。
もっと遠く。
もっと懐かしい音。
鈴音は顔を上げた。
村の方から、ひとつだけ違う音が聞こえる。
嘘の音ではない。
ひそひそでも、きしきしでもない。
澄んだ、小さな鈴の音。
ちりん。
ちりん。
それは常盤家の方角から響いていた。
鈴音は耳を澄ませる。
音の奥に、声が混じった。
――鈴音。
息が止まった。
母の声だった。
鈴音は目を見開く。
朔夜がすぐに気づく。
「どうした」
鈴音は震える手で村を指さした。
常盤家。
あの古い蔵の方角。
また、声が聞こえる。
――鈴音、そこに来てはなりません。
鈴音は喉を押さえた。
来てはならない?
夢では、そこに真実があると言っていた。
なのに今は、来てはならないと言う。
声はさらにかすかに響いた。
――でも、知らなければ、あなたはまた奪われる。
矛盾する言葉。
行くな。
でも、知らなければならない。
母の声は揺れていた。
まるで、鈴音を守りたい気持ちと、真実を託したい気持ちの間で引き裂かれているようだった。
鈴音の喉が熱くなる。
「……お、かあ……」
声がかすれた。
朔夜が鈴音を支える。
「鈴音、落ち着け」
鈴音は紙を掴み、必死に書いた。
『母の声が聞こえます。常盤家の蔵から』
朔夜の表情が変わった。
「蔵か」
鈴音は頷く。
『行くなと言っています。でも、知らなければまた奪われるとも』
千景がいつの間にか石段の下に来ていた。
鈴音の紙を見て、顔をしかめる。
「それ、罠じゃないですか? 琴乃か綾乃が鈴音さんを誘ってるとか」
鈴音は首を横に振りきれなかった。
確かに、罠かもしれない。
琴乃は鈴音の声を狙っている。常盤家の蔵へ誘い込もうとしている可能性もある。
けれど、あの声は母だった。
鈴音にはそう思えた。
朔夜は静かに言った。
「罠かどうかは、確かめるしかない」
鈴音は朔夜を見る。
「だが、今日ではない」
鈴音は頷いた。
今なら、前よりその意味がわかる。
準備が必要だ。
嘘の音に呑まれないために。
声を奪われないために。
そして、真実を知っても壊れないために。
朔夜は村を見下ろしたまま言った。
「明日から、蔵へ入るための準備をする。結界の張り方、嘘の音の遮り方、声を守る術。すべて覚えろ」
鈴音は白い守り紐を握りしめた。
怖い。
けれど、逃げない。
鈴音は紙に書いた。
『覚えます』
朔夜が頷く。
千景も、珍しく真面目な顔で言った。
「僕も手伝います。今度こそ、常盤家の連中に好き勝手させません」
鈴音は千景を見て、小さく頭を下げた。
夕暮れの風が、三人の間を抜けていく。
村の嘘の音は、まだ遠くで鳴っている。
ひそひそ。
きしきし。
でも、その中に母の鈴の音もあった。
ちりん。
小さく、確かに。
鈴音は喉に手を当てた。
花嫁修行は、ただ作法を覚えることではない。
自分の声を守ること。
嘘の音に呑まれないこと。
聞くべき声を聞き分けること。
そして、必要な真実の前から逃げないこと。
鈴音は、常盤家の屋根を見つめた。
あそこに、母の真実がある。
あそこに、自分の声を奪った何かがある。
次に戻るとき、鈴音はただ震えるだけの娘ではない。
鬼神の隣に立つ花嫁として、戻るのだ。
その決意に応えるように、守り紐の鈴が鳴った。
ちりん。
鈴音はその音を胸に抱き、沈みゆく夕日を見つめた。



