花嫁の声を食べる鬼神さま

 常盤家の古い蔵。

 母の声。

 そこに真実がある。

 夜明け前に見た夢の残響は、朝になっても鈴音の胸から消えなかった。

 枕元の紙には、震える文字でこう書かれている。

『母の真実は、常盤家の蔵にあります』

 その文字を見つめるたび、喉の奥が熱を持つ。

 行かなければ。

 知りたい。

 そう思うのに、体はすぐに動かなかった。

 常盤家へ戻ったばかりだ。綾乃の中に棲む琴乃を見たばかりだ。あの屋敷が、嘘そのもののように黒い靄を吐く場所だと知ったばかりだ。

 もう一度あそこへ行くのは、怖い。

 けれど、行かなければ母のことはわからない。

 鈴音は白い守り紐を両手で包んだ。

 朔夜から渡された、花嫁の証。

 自分の意思で社に残ると決めた者に渡されるもの。

 小さな鈴が、手の中でかすかに鳴った。

 ちりん。

 その音に少しだけ勇気をもらい、鈴音は布団から起き上がった。

 襖の向こうには、いつものように朔夜の気配があった。

 昨夜もそばにいてくれたのだろう。

 鈴音が筆を取る前に、襖の向こうから声がした。

「起きたか」

 鈴音は少し驚き、それから頷いた。見えていないはずなのに、朔夜には伝わったようだった。

「入るぞ」

 襖が開き、朔夜が姿を見せる。

 黒衣の姿はいつもと変わらない。けれど、鈴音は以前より少しだけ、その表情のわずかな変化がわかるようになっていた。

 今日の朔夜は、眉間に薄く皺が寄っている。

 心配している顔だ。

 鈴音はそう思った。

 朔夜は枕元の紙を見た。

「常盤家の蔵、か」

 鈴音は頷く。

 紙に書く。

『夢で見ました。琴乃さまの声と、母の声が聞こえました』

 朔夜はしばらく黙った。

「琴乃の残り声がお前を導いたのかもしれぬ」

『琴乃さまは、私を助けようとしているのですか』

 書いてから、鈴音は自分でも迷った。

 琴乃は恐ろしい。

 綾乃の中で笑い、鈴音の声を狙い、朔夜を責めた。

 けれど夢の中の琴乃は、あの白無垢の影とは違っていた。悲しく、寂しく、まだ誰かを信じたかった少女のように見えた。

 朔夜は鈴音の問いを見て、すぐには答えなかった。

「琴乃の中には、二つの声があるのかもしれぬ」

 鈴音は顔を上げる。

「恨みに染まった声と、死ぬ前に誰かへ届いてほしかった声だ。お前が聞いたのは、後者かもしれない」

 鈴音は胸に手を当てた。

 死ぬ前に届いてほしかった声。

 それは、自分にもわかる気がした。

 声が出ない間、鈴音は何度も思った。

 誰かに聞いてほしい。

 本当は苦しいと。

 私は災いではないと。

 母の死には何かがあると。

 けれど声は出なかった。

 だからこそ、琴乃の届かなかった声が胸に刺さる。

『蔵へ行きたいです』

 鈴音はそう書いた。

 朔夜は予想していたのか、静かに首を横に振った。

「今すぐは駄目だ」

 鈴音は息を呑む。

 反射的に、また自分の意思が退けられたような痛みが走った。

 しかし朔夜は続ける。

「行くなと言っているのではない。準備なしに戻れば、お前の喉も心も持たない。常盤家には琴乃がいる。綾乃がいる。八重も、宗一郎もいる。あの屋敷そのものに嘘が染みついている」

 鈴音は俯いた。

 確かに、あの屋敷に入っただけで喉が痛んだ。綾乃の一言で、声が奪われそうになった。

 また無理をすれば、せっかく戻りかけた声を失うかもしれない。

「まず、花嫁としての役目を覚えろ」

 鈴音は顔を上げる。

 朔夜は言った。

「この社の花嫁は、生贄ではない。鬼神の隣で、土地の声を聞き、嘘の流れを見極める者だ」

 花嫁。

 その言葉の意味が、少しずつ変わっていく。

 常盤家では、花嫁とは差し出されるものだった。

 家のため、村のため、誰かの都合のために白無垢を着せられ、黙って山へ送られるもの。

 けれど朔夜の言う花嫁は違う。

 隣に立つ者。

 声を聞く者。

 嘘の流れを見極める者。

 鈴音は守り紐を握りしめ、ゆっくり頷いた。

『教えてください』

 朔夜の目が、少しだけやわらかくなった。

「わかった」

 花嫁修行は、思っていたより地味だった。

 まず千景に渡されたのは、箒だった。

「花嫁の最初の役目は掃除です」

 千景は胸を張って言った。

 鈴音は箒を見つめた。

 常盤家でも掃除はしていた。

 庭を掃き、廊下を拭き、座敷を整える。鈴音にとって掃除は、使用人の仕事であり、押しつけられるものだった。

 千景はそんな鈴音の顔を見て、すぐに言う。

「あ、違いますからね。こき使うわけじゃありません」

 鈴音は首を傾げる。

「社を清めるんです。落ち葉や埃だけじゃなく、淀んだ気配を払う。雑に掃くと、穢れが隅に溜まります」

 千景は小さな手で箒を持ち、境内の一角をさっと掃いてみせた。

 ただ落ち葉を集めているように見える。

 けれど、箒の先が通った場所の空気がわずかに澄んだ気がした。

「ほら、やってみてください」

 鈴音は箒を受け取った。

 いつもの癖で、急いで動こうとしてしまう。

 千景がすぐに叫んだ。

「速い! 違います! そんなに力を入れたら、穢れが舞うだけです!」

 鈴音はびくっとして手を止めた。

 怒られた。

 そう思って身が縮む。

 すると千景は慌てたように耳を伏せた。

「あ、違います。怒ってるんじゃなくて。ええと、教えてるんです」

 鈴音は千景を見る。

 千景は頬をかきながら、小さく言った。

「常盤家みたいに怒鳴るつもりはないです。ここでは、失敗したらやり直せばいいだけですから」

 鈴音は目を瞬かせた。

 失敗したら、やり直せばいい。

 常盤家では、失敗は責められるものだった。鈴音が茶をこぼせば、声も出ないくせに手まで不器用なのかと笑われた。掃除が遅ければ、役立たずと言われた。

 やり直せばいい、と言われたことなどなかった。

 鈴音は紙に書いた。

『もう一度、教えてください』

 千景は少し照れたように鼻を鳴らした。

「仕方ありませんね。よく見てください」

 箒の持ち方。

 足の運び方。

 風の向きを読むこと。

 落ち葉を集めながら、空気の重い場所を探すこと。

 千景の教え方は、口こそ悪いが丁寧だった。

 鈴音は何度も失敗した。

 落ち葉を散らし、石段の隅に小さな黒い靄を残してしまい、千景に「そこ、見逃してます」と指摘された。

 けれど不思議と、嫌ではなかった。

 できないことを責められているのではなく、できるようになるために教えられているとわかったからだ。

 昼前には、鈴音の額に汗がにじんでいた。

 朔夜が社の縁側から見ていた。

 鈴音がそれに気づくと、朔夜は短く言った。

「上達したな」

 たった一言。

 それだけなのに、鈴音の胸が温かくなった。

 千景が得意げに胸を張る。

「僕の教え方がいいんです」

「そうか」

「そこは否定しないでくださいよ」

 朔夜と千景のやり取りを見て、鈴音は小さく笑った。

 声は出ない。

 けれど、笑うことは少しずつ増えていた。

 午後は、供物の作法を習った。

 供物といっても、血や肉ではない。

 米、水、塩、季節の果実、小さな花。

 それらを神前に供える。

 鈴音は驚いた。

 村では、鬼神は人を喰うと言われていた。だからもっと恐ろしいものを捧げるのだと思っていた。

 千景は呆れたように言う。

「朔夜さまは人を喰わないって何度言えば覚えるんですか」

 鈴音は少し申し訳なくなり、紙に書く。

『頭ではわかっています。でも、長くそう聞かされていたので』

 千景は口を閉じた。

 少し気まずそうに尾を揺らす。

「まあ……それは、仕方ないですけど」

 供物は、土地への感謝を形にするものだという。

 水は流れへ。

 米は実りへ。

 塩は清めへ。

 花は、声なきものへの慰めへ。

 鈴音は花を手にした。

 白い小花だった。

 朝露のように小さな花びらを見つめていると、ふと琴乃の白無垢が浮かんだ。

 あの人にも、誰かが花を供えたのだろうか。

 殺されたあと、鬼に喰われたことにされ、声ごと埋められた花嫁に。

 鈴音は、花を神前に置いた。

 その瞬間、小さな鈴の音がした。

 ちりん。

 守り紐の鈴ではない。

 社の奥に眠る、誰かの鈴が鳴ったようだった。

 朔夜が横から言う。

「聞こえたか」

 鈴音は頷く。

「花は、黙らされた声を慰める。お前には、その音が届きやすいのだろう」

 黙らされた声。

 鈴音は花を見つめたまま、胸が締めつけられた。

 自分の力が、少しずつわかりかけている。

 嘘を見る力。

 声を聞く力。

 そして、声を失った者たちの残響に触れる力。

 それは、ただ便利な力ではなかった。

 聞こえてしまうものがある。

 見えてしまうものがある。

 それに耐えられる強さが、自分にあるのだろうか。

 夕方近く、朔夜は鈴音を社の石段の上へ連れていった。

 そこからは、村が見下ろせた。

 田畑、民家、常盤家の大きな屋根。

 夕日に照らされれば穏やかな景色に見える。けれど鈴音には、ところどころに黒い靄が漂っているのが見えた。

 最初は煙かと思った。

 けれど違う。

 煙なら風に流れるはずだ。あの黒いものは、家々の上に沈むように溜まっている。

「見えるな」

 朔夜が言った。

 鈴音は頷く。

「村の嘘だ」

 鈴音は息を呑んだ。

 朔夜は、村を見下ろしたまま続ける。

「小さな嘘は、誰でもつく。自分を守る嘘。誰かを傷つけぬための嘘。だが嘘が積もり、誰かを黙らせ、罪を隠すようになると、土地を穢す」

 黒い靄が、夕暮れの中でゆらゆらと揺れている。

 鈴音は耳を澄ませた。

 すると、音が聞こえた。

 最初は風の音かと思った。

 けれど違う。

 ざわざわ。

 きしきし。

 ひそひそ。

 村のあちこちから、かすかな音が漂ってくる。

 それは言葉ではない。

 でも、意味がある。

 誰かが誰かを妬む音。

 笑顔の裏で舌打ちする音。

 ありがたいと言いながら、面倒だと思う音。

 謝りながら、少しも悪いと思っていない音。

 鈴音は思わず耳を塞いだ。

 音は消えない。

 耳ではなく、胸の奥へ響いてくる。

 苦しい。

 気持ち悪い。

 鈴音はその場に膝をついた。

 朔夜がすぐに支える。

「聞こえすぎたか」

 鈴音は震えながら頷いた。

 村の嘘の音。

 それは、思っていたよりもずっと多く、濁っていた。

 常盤家だけではない。

 村全体に、小さな嘘が溜まっている。

 朔夜は鈴音の耳元で低く言った。

「すべてを聞こうとするな」

 鈴音は朔夜を見る。

「お前の力は、まだ開き始めたばかりだ。流れてくるものをすべて受け止めれば、壊れる」

 鈴音は息を整えようとする。

 けれど音はまだ続いている。

 ひそひそ。

 きしきし。

 あの子が悪い。

 私は悪くない。

 見なかったことにしよう。

 仕方なかった。

 誰かがやった。

 鬼神のせいだ。

 鬼神のせい。

 鬼神のせい。

 その音だけが、いくつも重なって鈴音の胸を締めつける。

 鈴音は朔夜の袖を掴んだ。

 朔夜は鈴音の背に手を添える。

「自分の音を探せ」

 鈴音は苦しげに朔夜を見上げる。

「他人の嘘に呑まれるな。お前自身の息、お前自身の鼓動、お前自身の願いを聞け」

 自分の音。

 鈴音は目を閉じた。

 嘘の音はまだ押し寄せてくる。

 けれどその奥で、自分の呼吸を探す。

 吸う。

 吐く。

 喉は少し痛い。

 胸が震える。

 守り紐の鈴が、かすかに鳴った。

 ちりん。

 その音を頼りに、鈴音は自分の中へ戻っていく。

 私は、ここにいる。

 私は、村の嘘ではない。

 常盤家の罪でもない。

 誰かの代わりに黙るために生まれたのではない。

 そう思った瞬間、嘘の音が少し遠のいた。

 鈴音はようやく息を吸えた。

 朔夜が静かに言う。

「そうだ」

 鈴音は目を開けた。

 朔夜の顔が近くにあった。

 金の瞳が、まっすぐ鈴音を見ている。

「よく戻った」

 その言葉に、鈴音の胸が熱くなった。

 また、戻れた。

 嘘の音の中から、自分の場所へ。

 鈴音は紙を出そうとしたが、手が震えてうまく書けなかった。

 朔夜は何も急かさない。

 ただ隣で待っている。

 鈴音は深く息を吸い、かすれた声を探した。

 喉の奥が震える。

「……あり、が……」

 途中で声は途切れた。

 喉が痛む。

 けれど、朔夜は目を見開いた。

 鈴音は慌てて口を閉じる。

 無理をしたと怒られるかと思った。

 しかし朔夜は、低く言った。

「礼は紙でもいい」

 少しだけ、声がやわらかい。

「だが、聞こえた」

 聞こえた。

 その言葉だけで、鈴音は泣きそうになった。

 声はまだ弱い。

 言葉にもなりきらない。

 それでも、届いた。

 鈴音は紙に書いた。

『ありがとうございます。嘘の音に呑まれそうでした』

 朔夜は村を見下ろす。

「慣れるまでは、長く聞くな。嘘は、知ればいいというものではない」

 鈴音は首を傾げる。

 朔夜は続けた。

「人は誰しも、些細な嘘を抱えている。すべてを暴けば正しいわけではない。大切なのは、その嘘が誰かを傷つけ、黙らせ、罪を隠しているかどうかを見極めることだ」

 鈴音はその言葉を胸に刻んだ。

 真実を知りたい。

 でも、すべての嘘を裁くことが目的ではない。

 声は、誰かを傷つけるためだけのものではない。

 母も言っていた。

 ――鈴音の声は、誰かを裁くためのものではありません。誰かを救うためのものです。

 その記憶が蘇った瞬間、鈴音の胸の奥で何かが鳴った。

 ちりん。

 守り紐ではない。

 もっと遠く。

 もっと懐かしい音。

 鈴音は顔を上げた。

 村の方から、ひとつだけ違う音が聞こえる。

 嘘の音ではない。

 ひそひそでも、きしきしでもない。

 澄んだ、小さな鈴の音。

 ちりん。

 ちりん。

 それは常盤家の方角から響いていた。

 鈴音は耳を澄ませる。

 音の奥に、声が混じった。

 ――鈴音。

 息が止まった。

 母の声だった。

 鈴音は目を見開く。

 朔夜がすぐに気づく。

「どうした」

 鈴音は震える手で村を指さした。

 常盤家。

 あの古い蔵の方角。

 また、声が聞こえる。

 ――鈴音、そこに来てはなりません。

 鈴音は喉を押さえた。

 来てはならない?

 夢では、そこに真実があると言っていた。

 なのに今は、来てはならないと言う。

 声はさらにかすかに響いた。

 ――でも、知らなければ、あなたはまた奪われる。

 矛盾する言葉。

 行くな。

 でも、知らなければならない。

 母の声は揺れていた。

 まるで、鈴音を守りたい気持ちと、真実を託したい気持ちの間で引き裂かれているようだった。

 鈴音の喉が熱くなる。

「……お、かあ……」

 声がかすれた。

 朔夜が鈴音を支える。

「鈴音、落ち着け」

 鈴音は紙を掴み、必死に書いた。

『母の声が聞こえます。常盤家の蔵から』

 朔夜の表情が変わった。

「蔵か」

 鈴音は頷く。

『行くなと言っています。でも、知らなければまた奪われるとも』

 千景がいつの間にか石段の下に来ていた。

 鈴音の紙を見て、顔をしかめる。

「それ、罠じゃないですか? 琴乃か綾乃が鈴音さんを誘ってるとか」

 鈴音は首を横に振りきれなかった。

 確かに、罠かもしれない。

 琴乃は鈴音の声を狙っている。常盤家の蔵へ誘い込もうとしている可能性もある。

 けれど、あの声は母だった。

 鈴音にはそう思えた。

 朔夜は静かに言った。

「罠かどうかは、確かめるしかない」

 鈴音は朔夜を見る。

「だが、今日ではない」

 鈴音は頷いた。

 今なら、前よりその意味がわかる。

 準備が必要だ。

 嘘の音に呑まれないために。

 声を奪われないために。

 そして、真実を知っても壊れないために。

 朔夜は村を見下ろしたまま言った。

「明日から、蔵へ入るための準備をする。結界の張り方、嘘の音の遮り方、声を守る術。すべて覚えろ」

 鈴音は白い守り紐を握りしめた。

 怖い。

 けれど、逃げない。

 鈴音は紙に書いた。

『覚えます』

 朔夜が頷く。

 千景も、珍しく真面目な顔で言った。

「僕も手伝います。今度こそ、常盤家の連中に好き勝手させません」

 鈴音は千景を見て、小さく頭を下げた。

 夕暮れの風が、三人の間を抜けていく。

 村の嘘の音は、まだ遠くで鳴っている。

 ひそひそ。

 きしきし。

 でも、その中に母の鈴の音もあった。

 ちりん。

 小さく、確かに。

 鈴音は喉に手を当てた。

 花嫁修行は、ただ作法を覚えることではない。

 自分の声を守ること。

 嘘の音に呑まれないこと。

 聞くべき声を聞き分けること。

 そして、必要な真実の前から逃げないこと。

 鈴音は、常盤家の屋根を見つめた。

 あそこに、母の真実がある。

 あそこに、自分の声を奪った何かがある。

 次に戻るとき、鈴音はただ震えるだけの娘ではない。

 鬼神の隣に立つ花嫁として、戻るのだ。

 その決意に応えるように、守り紐の鈴が鳴った。

 ちりん。

 鈴音はその音を胸に抱き、沈みゆく夕日を見つめた。