朔夜は、部屋の入口に座っていた。
背を向けたまま、夜が明けるまで一度も動かなかった。
鈴音は何度も眠りに落ち、何度も目を覚ました。そのたびに、襖の向こうではなく、同じ部屋の入口に黒い背中があった。
そこにいる。
ただそれだけで、胸の奥に絡みついていた琴乃の声が少し遠のいた。
――お前もいずれ、この鬼に喰われる。
あの言葉は、まだ消えない。
けれど、鈴音は知っている。
朔夜は鈴音を喰わなかった。
社に来た夜、鈴音が震えていても、朔夜は距離を取ってくれた。温かい粥を出し、筆と紙を用意し、喉に絡んだ嘘を喰らってくれた。
昨夜も、鈴音が「いかないで」と声にならない唇で願っただけで、彼はここにいてくれた。
それでも、琴乃の言葉が嘘だけだとは思えなかった。
朔夜自身も言った。
すべてが嘘ではない、と。
百年前、琴乃を救えなかった、と。
障子の外が白み始めた頃、朔夜が静かに立ち上がった。
鈴音は布団の中から、その背を見つめた。
朔夜は振り返らない。
「起きていたのか」
鈴音は小さく頷いた。
背を向けていても、わかるらしい。
「喉は」
鈴音は枕元の紙を引き寄せ、筆を取った。
『少し痛みます。でも、大丈夫です』
書いてから、鈴音は手を止めた。
大丈夫。
その言葉は、常盤家にいた頃から何度も使ってきた。
本当は大丈夫ではないのに、大丈夫と書いた。痛くても、苦しくても、怖くても、そう書けばそれ以上責められずに済んだから。
鈴音は、まだ乾かない墨の横に、もう一行足した。
『本当は、少し怖いです』
朔夜が振り返った。
金色の瞳が、鈴音の手元の紙を見る。
長い沈黙のあと、彼は言った。
「そうか」
それだけだった。
怖がるな、とも言わない。
弱い、とも言わない。
その静かな受け止め方に、鈴音は少しだけ息をつく。
朔夜は部屋の外へ視線を向けた。
「朝餉のあと、話す」
鈴音は顔を上げた。
「琴乃のことを」
胸がどきりと鳴る。
朔夜の横顔は、いつもより遠く見えた。
「お前には、知る権利がある」
朝餉は、千景が運んできた。
いつもより口数が少ない。
盆の上には柔らかい粥と、湯気の立つ薬草茶、喉に良いという蜜漬けの実が添えられていた。千景は盆を置いたあと、鈴音と朔夜を交互に見た。
「本当に話すんですか」
朔夜は頷いた。
千景の耳がわずかに伏せる。
「鈴音さんには、まだ早いんじゃ……」
「琴乃はもう姿を見せた。知らぬままの方が危うい」
千景は唇を噛んだ。
鈴音は紙に書いた。
『千景さんも、百年前のことを知っているのですか』
千景は少し困ったような顔をした。
「僕はまだ生まれてません。でも、眷属たちから聞いています。朔夜さまがどれだけ……」
そこまで言って、千景は口をつぐんだ。
朔夜が静かに言う。
「千景」
「……すみません」
千景は盆を置いたまま、部屋の隅に座った。
「僕もいます。鈴音さんが気分悪くなったら、すぐ止めますから」
鈴音は、少しだけ笑った。
声は出ない。
けれど千景はそっぽを向きながら、薬草茶を鈴音の方へ押した。
「笑ってないで、飲んでください」
苦い茶を飲み、粥を食べ終えると、朔夜は鈴音を社の奥へ連れていった。
そこは、これまで入ったことのない場所だった。
本殿のさらに奥。薄暗い廊下を進んだ先に、古い扉がある。朔夜が手をかざすと、扉に張られていた御札が淡く光り、音もなく開いた。
中は、石造りの小さな部屋だった。
壁には古い鈴がいくつも掛けられている。大きいもの、小さいもの、錆びついたもの、紐が切れたもの。どれも長い年月を感じさせた。
中央には、白い布に包まれた古い木箱が置かれていた。
鈴音は喉元に手を当てる。
この部屋は、静かすぎる。
けれど、耳を澄ますと何かが聞こえる気がした。
誰かの声。
誰かが、ずっと言えなかった言葉。
朔夜は木箱の前に立った。
「ここは、花嫁たちの声を鎮める場所だ」
鈴音は息を呑んだ。
花嫁たち。
自分の前に、この社へ送られた娘たち。
「皆、鬼に喰われたと村では語られている」
朔夜の声は静かだった。
「だが、俺は誰一人喰っていない」
鈴音は朔夜を見た。
彼の横顔には、怒りよりも深い疲れがあった。
「花嫁として送られた娘の多くは、社へ来る前にすでに壊れていた。家のため、村のため、神のためと言われ、自分の意思を奪われていた。俺は彼女たちを帰そうとした。だが、帰ればまた村に利用される。帰れぬ者は、ここで暮らした。短い者も、長い者もいた」
朔夜が木箱に手を置く。
「死んだ者の声は、この鈴に残した。恨みも、願いも、言えなかった言葉も」
鈴音は壁の鈴を見た。
こんなにたくさんの声が、この社に眠っている。
自分のように、声を奪われた娘がいたのだろうか。
琴乃も、その一人だったのだろうか。
朔夜は一番奥に掛けられている鈴へ視線を向けた。
他の鈴よりも小さい。
銀色だったのだろうが、今は黒ずみ、紐も半分ほど焼け焦げている。
「それが、琴乃の鈴だ」
鈴音は足が動かなくなった。
琴乃。
綾乃の中に棲む、百年前の花嫁。
鈴音の声を狙い、朔夜を責め、悲しみを刃に変えた女。
その人の鈴が、ここにある。
朔夜は、鈴に触れなかった。
触れることを恐れているようにも見えた。
「琴乃は、百年前、村の巫女だった」
朔夜の声が、石の部屋に低く響く。
「お前と同じく、真実を響かせる声を持っていた。人が嘘をつけば、その声は嘘を震わせた。罪を隠せば、言葉の奥から黒い穢れを浮かび上がらせた」
鈴音は喉に手を当てた。
自分にも、そんな力があるのだろうか。
今はまだ、嘘が黒い糸や靄のように見えるだけだ。けれど琴乃は、それを声で暴いたのだ。
「最初、村人たちは琴乃を重宝した」
朔夜は続ける。
「盗み、裏切り、揉め事。人は、自分が被害を受けたときだけ真実を求める。琴乃の声は、そのために使われた」
鈴音は胸が重くなった。
人は、自分が知りたい真実だけを欲しがる。
都合の悪い真実は、きっと見たがらない。
「だが琴乃は、村の中心にあった嘘に気づいた。供物の横流し。土地の売買をめぐる不正。鬼神の祟りとされていた災いの多くが、人間の欲によって起きていたこと」
朔夜の声がわずかに低くなる。
「琴乃はそれを告げようとした。俺のもとにも来た。村が嘘で穢れていると。もう喰いきれぬほどの嘘が溜まっていると」
鈴音は紙を取り出し、書いた。
『朔夜さまは、そのとき琴乃さまの声を聞いたのですか』
朔夜は頷いた。
「聞いた」
その一言に、後悔が滲んでいた。
「だが、俺は遅かった」
鈴音は筆を止める。
朔夜は琴乃の鈴を見つめたまま、言葉を続けた。
「当時の常盤家は、今よりも強い力を持っていた。巫女の血を管理し、鬼神への祭礼を取り仕切っていた。村人たちは俺を敬っているふりをしながら、恐れてもいた。俺が嘘を喰う神であることを知っていたからだ」
朔夜の指が、かすかに動く。
「琴乃が告発しようとしていることを知った常盤家は、俺を社の奥に封じた」
鈴音は息を呑んだ。
前章で琴乃が言っていたこと。
村人たちが、朔夜を封じた。
それは本当だったのだ。
「封じた、といっても、完全なものではない。人間に俺を殺す力はない。ただ、社の結界を逆に利用し、外へ出るのを遅らせた。琴乃が山へ送られた夜、俺はその封を破ろうとしていた」
朔夜は目を伏せる。
「だが間に合わなかった」
部屋の鈴が、かすかに震えた気がした。
鈴音の胸が痛む。
朔夜は感情を抑えた声で続ける。
「俺が外へ出たとき、琴乃はもう倒れていた。白無垢は血に染まり、村人たちは逃げたあとだった。琴乃は、まだ息があった」
鈴音は紙を握りしめた。
聞くのが怖い。
けれど、目をそらしてはいけないと思った。
「琴乃は俺を見て言った」
朔夜の声が低くなる。
「どうして、来てくださらなかったのですか、と」
鈴音の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
琴乃の最後の言葉。
救いを待っていた人の声。
朔夜はその声を、百年間抱えてきたのだ。
「俺は何も答えられなかった。遅かった。守ると約束したわけでもない。だが、琴乃は俺の神域に助けを求めて来ていた。俺はその声を聞いていた。それなのに、救えなかった」
鈴音は、朔夜の横顔を見る。
いつも静かな鬼神の顔が、今は痛みに耐えるように硬い。
琴乃の恨みは、朔夜に向けられている。
けれど、鈴音には思えなかった。
朔夜が琴乃を殺したのではない。
救えなかったことと、殺したことは違う。
でも、救えなかった側に残る痛みは、きっとそんな理屈では消えない。
朔夜は、琴乃の鈴へ手を伸ばした。
しかし触れる直前で、指が止まる。
「琴乃の魂は、その場で消えなかった。声を奪われ、真実を埋められた恨みが強すぎた。俺はその恨みを鎮めようとしたが、できなかった。彼女の声は、俺ではなく、人間に聞いてほしかったのだろう」
鈴音は、前章の琴乃の言葉を思い出した。
誰も私の声を聞かなかった。
鬼神さまも、人間も、誰も。
あれは恨みであり、叫びだった。
「それから、琴乃の怨みは村に残った。弱い心を持つ者、愛されたいと飢えた者、誰かの声を憎む者に取り憑く。完全に取り込むのではない。もともとある感情を増幅する」
鈴音の脳裏に、綾乃の涙が浮かぶ。
どうして、鈴音なの。
どうして、いつも鈴音なの。
綾乃の中にあった嫉妬。
琴乃はそれを見つけ、育て、鈴音の声を奪う呪いへ導いた。
鈴音は紙に書いた。
『綾乃さまは、琴乃さまに操られているのですか』
朔夜は少し考えてから、首を横に振った。
「操られているだけなら、切り離せば済む。だが違う。琴乃は綾乃の中にあるものを使っている。綾乃が抱いた妬み、孤独、愛されたい飢え。それらが琴乃と結びついた」
鈴音の指が止まる。
では、綾乃にも責任がある。
琴乃だけのせいにはできない。
けれど、綾乃もまた、琴乃に食い込まれている。
単純な敵ではない。
その事実が、鈴音の心を重くした。
千景が部屋の入口で黙って聞いていた。
いつの間にかついてきていたらしい。
彼は悔しそうに拳を握っている。
「朔夜さまは、ずっと悪くないのに」
朔夜は振り返らない。
「悪くない、では済まぬ」
「でも!」
「千景」
静かな一言で、千景は口を閉ざした。
朔夜は低く言った。
「救えなかった声がある。それは事実だ」
その言葉に、鈴音は胸が痛くなった。
朔夜は、自分を責めている。
百年前からずっと。
村人に嘘を押しつけられ、鬼と呼ばれ、それでも嘘を喰い続けてきた。琴乃を救えなかった罪悪感を抱えたまま、この社に残り続けてきた。
鈴音は筆を握る。
何かを書きたい。
でも、何を書けばいいのかわからない。
簡単に「あなたは悪くありません」と書けば、それは朔夜の痛みを軽く扱うことになる気がした。
けれど、琴乃の言葉のように、朔夜を責めることもできない。
鈴音は紙を見つめたまま、しばらく動けなかった。
そのとき、朔夜が静かに言った。
「鈴音」
鈴音は顔を上げる。
「お前が恐れるなら、俺から離れてもいい」
鈴音は目を見開いた。
「琴乃の言葉は、すべて嘘ではない。俺は琴乃を救えなかった。俺の力は万能ではない。お前の声も、必ず守りきれるとは限らぬ」
朔夜の金の瞳が、鈴音をまっすぐに見る。
「それでも俺のそばにいれば、お前は百年前の嘘に巻き込まれる。常盤家の罪にも、村の怨みにも触れることになる」
鈴音は紙を握りしめた。
「お前は、俺の花嫁でいることを強いられた。生贄として差し出され、この社へ来た。だから、今なら選べる」
選べる。
その言葉が、鈴音の胸に深く刺さった。
鈴音は常盤家で、何も選べなかった。
声を失ったことも、鬼神の花嫁にされたことも、常盤家へ戻ったことさえ、自分で選んだようでいて、いつも誰かの嘘に押されていた。
でも今、朔夜は選べと言う。
ここに残るか。
離れるか。
鈴音は、震える手で筆を取った。
まず、こう書いた。
『怖いです』
朔夜は静かに見ている。
鈴音は続ける。
『琴乃さまも、常盤家も、私の声に絡んでいる嘘も怖いです』
筆先が少し震える。
『でも、何も知らないまま戻る方が怖いです』
鈴音は、深く息を吸った。
喉がひりつく。
けれど、今日は逃げたくなかった。
『朔夜さまのそばにいることを、私は選びます』
書いた瞬間、胸が熱くなった。
誰かに命じられたからではない。
家のためでも、村のためでもない。
鈴音が、鈴音自身で選んだ。
朔夜はその文字を見つめたまま、長い間黙っていた。
千景が息を止めているのがわかった。
やがて、朔夜が低く言う。
「……後悔するかもしれぬ」
鈴音はもう一度筆を動かす。
『それでも、私の選んだことです』
朔夜の表情が、ほんの少しだけ崩れた。
驚いたような、苦しそうな、救われたような顔だった。
その顔を見た瞬間、鈴音の中に言葉が生まれた。
紙ではなく、声で言いたい。
そう思った。
無理をしてはいけないと、朔夜に言われている。
でも、これは叫びではない。
誰かに奪われたものを取り返すための、鈴音自身の言葉だった。
鈴音は喉に手を当てた。
朔夜が気づく。
「無理をするな」
鈴音は首を横に振った。
少しだけ。
ほんの少しだけでいい。
鈴音は息を吸った。
朝の清水で教わったように、焦らず、喉の奥へ空気を通す。
小さな震えが生まれる。
黒い糸が反応するように、喉の奥が熱を持つ。
それでも、鈴音は目をそらさなかった。
朔夜を見つめる。
そして、かすれた息のような声で言った。
「……しん、じ……ます」
自分でも驚くほど、弱い声だった。
ほとんど音になっていない。
けれど、石の部屋にあった鈴が一斉に震えた。
ちりん。
ちりん。
いくつもの鈴が、かすかに鳴った。
千景が目を見開く。
朔夜は動かない。
金の瞳だけが、静かに揺れていた。
鈴音は喉を押さえ、少し咳き込む。
朔夜がすぐに近づき、喉へ手をかざした。
「だから、無理をするなと言った」
叱る声なのに、いつもの冷静さが少し乱れていた。
鈴音は苦しい息の中で、紙に書く。
『言いたかったのです』
朔夜はその文字を見て、言葉を失ったように黙った。
鈴音は続ける。
『あなたを信じると、私の声で言いたかった』
朔夜の指先が、鈴音の喉元で止まる。
その手が、わずかに震えているように見えた。
鈴音は驚いた。
鬼神である朔夜の手が、震える。
そんなことがあるのだろうか。
朔夜は静かに目を伏せた。
「……そうか」
それだけだった。
けれど、その一言はひどく深かった。
まるで、百年凍っていた湖の表面に、小さなひびが入ったような響きだった。
そのとき、部屋の奥で、琴乃の鈴が鳴った。
ちりん。
ほかの鈴とは違う、細く、かすれた音。
鈴音は息を止める。
朔夜も振り返った。
琴乃の鈴が、ひとりでに揺れている。
ちりん。
ちりん。
鈴の奥から、かすかな声が漏れた。
――信じる?
鈴音の背筋が冷える。
それは琴乃の声だった。
だが、綾乃の中で聞いた怨みに満ちた声よりも、ずっとか細い。
少女のような声だった。
――私も、そう言ったわ。
鈴音は琴乃の鈴を見つめる。
声はすぐに消えた。
鈴の揺れも止まる。
朔夜の表情が固くなる。
千景が青ざめた。
「今の……」
朔夜は低く言う。
「琴乃の残り声だ」
鈴音は喉を押さえた。
残り声。
鈴に残された、琴乃の言えなかった声。
さっきの声は、綾乃に取り憑いた琴乃とは違って聞こえた。
怨霊ではなく、百年前にまだ救いを待っていた少女の声。
鈴音はそのことに胸が痛くなる。
琴乃は最初から怨霊だったわけではない。
信じたいと思った人だった。
助けを待った人だった。
だからこそ、裏切られた痛みが百年も消えなかったのだ。
朔夜は琴乃の鈴を見つめたまま、静かに言った。
「鈴音。お前の声は、琴乃の残り声に届いたのかもしれぬ」
鈴音は目を見開いた。
自分の声が?
「お前の力は、嘘を暴くことだけではないのかもしれない」
朔夜の声には、わずかな驚きがあった。
「黙らされた声に、触れる力があるのかもしれぬ」
鈴音は胸に手を当てた。
黙らされた声。
琴乃の声。
母の声。
そして、自分自身の声。
すべてが、どこかで繋がっている。
そう感じた瞬間、鈴音の中に新しい怖さと、新しい願いが生まれた。
知りたい。
自分の力が何なのか。
母が何を守ろうとしていたのか。
琴乃が本当は何を叫びたかったのか。
そして、朔夜が百年抱えてきた罪の重さを、どうすれば少しでも軽くできるのか。
朔夜は木箱の前に立ち、古い布を開いた。
中には、小さな鈴の紐がいくつも納められていた。その中に、ひとつだけ新しい白い紐がある。
朔夜はそれを取り出し、鈴音へ差し出した。
「これは、花嫁の守り紐だ。本来なら、婚礼の夜に渡すものだった」
鈴音は両手でそれを受け取った。
白い紐には、小さな鈴が一つ結ばれている。
枕元に置いていた呼び鈴とは違う。
もっと古く、もっと澄んだ音がした。
「花嫁が自分の意思で社に残ると決めたとき、鬼神はこれを渡す」
鈴音は朔夜を見る。
朔夜は静かに言った。
「お前は、選んだ。だから渡す」
鈴音は白い紐を胸に抱いた。
自分の意思で選んだ証。
誰かに差し出された生贄ではなく、朔夜の隣にいることを選んだ花嫁としての証。
鈴音の目に涙が滲む。
朔夜は言った。
「ただし、これは鎖ではない。お前が離れると決めたら、いつでも外していい」
鈴音は首を横に振った。
今は、外したくない。
そう思った。
千景が後ろで、少し鼻をすすった。
鈴音が振り返ると、千景は慌てて顔を背けた。
「泣いてませんから」
鈴音は少しだけ笑う。
その小さな笑いに、鈴がちりんと鳴った。
その音は、石の部屋の中でやさしく響いた。
その夜、鈴音は白い守り紐を枕元に置いて眠った。
喉はまだ痛む。
声も、ほんの少ししか出ない。
けれど胸の奥には、確かなものがあった。
私は、選んだ。
朔夜のそばにいることを。
真実を知ることを。
声を取り戻すことを。
そして、百年前から続く嘘に触れることを。
眠りに落ちる前、部屋の外から朔夜の気配がした。
今夜も、彼は近くにいる。
鈴音は紙に小さく書いた。
『おやすみなさい』
襖の向こうで、少し間があった。
それから、朔夜の声がした。
「おやすみ、鈴音」
その声を聞きながら、鈴音は目を閉じた。
夢の中で、鈴が鳴った。
ちりん。
鈴音は、白い霧の中に立っていた。
遠くに、白無垢の少女がいる。
顔は見えない。
けれど、綾乃の中で見た琴乃の影よりも、小さく、寂しそうだった。
少女は鈴音に背を向けたまま言った。
――あなたは、信じるのね。
鈴音は声を出そうとした。
夢の中なのに、喉が痛む。
それでも、唇を動かす。
――はい。
音にはならない。
けれど、白無垢の少女は少しだけ振り返った。
顔はまだ見えない。
ただ、涙の跡だけが見えた。
――なら、見て。
霧が晴れる。
鈴音の目の前に、常盤家の古い蔵が現れた。
今は使われていない、屋敷の北側にある古い蔵。
その扉に、母の鈴と同じ紋が刻まれている。
鈴音は目を見開いた。
蔵の奥から、母の声が聞こえた。
――鈴音、そこに真実があります。
鈴音は息を呑む。
次の瞬間、夢は黒く塗りつぶされた。
目を覚ますと、夜明け前だった。
鈴音の喉は痛んでいたが、胸の奥にははっきりと残っていた。
常盤家の古い蔵。
母の声。
そこに真実がある。
鈴音は布団から起き上がり、枕元の紙に震える手で書いた。
『母の真実は、常盤家の蔵にあります』
書き終えた瞬間、白い守り紐の鈴が鳴った。
ちりん。
それは、鈴音の声に応えるような音だった。
背を向けたまま、夜が明けるまで一度も動かなかった。
鈴音は何度も眠りに落ち、何度も目を覚ました。そのたびに、襖の向こうではなく、同じ部屋の入口に黒い背中があった。
そこにいる。
ただそれだけで、胸の奥に絡みついていた琴乃の声が少し遠のいた。
――お前もいずれ、この鬼に喰われる。
あの言葉は、まだ消えない。
けれど、鈴音は知っている。
朔夜は鈴音を喰わなかった。
社に来た夜、鈴音が震えていても、朔夜は距離を取ってくれた。温かい粥を出し、筆と紙を用意し、喉に絡んだ嘘を喰らってくれた。
昨夜も、鈴音が「いかないで」と声にならない唇で願っただけで、彼はここにいてくれた。
それでも、琴乃の言葉が嘘だけだとは思えなかった。
朔夜自身も言った。
すべてが嘘ではない、と。
百年前、琴乃を救えなかった、と。
障子の外が白み始めた頃、朔夜が静かに立ち上がった。
鈴音は布団の中から、その背を見つめた。
朔夜は振り返らない。
「起きていたのか」
鈴音は小さく頷いた。
背を向けていても、わかるらしい。
「喉は」
鈴音は枕元の紙を引き寄せ、筆を取った。
『少し痛みます。でも、大丈夫です』
書いてから、鈴音は手を止めた。
大丈夫。
その言葉は、常盤家にいた頃から何度も使ってきた。
本当は大丈夫ではないのに、大丈夫と書いた。痛くても、苦しくても、怖くても、そう書けばそれ以上責められずに済んだから。
鈴音は、まだ乾かない墨の横に、もう一行足した。
『本当は、少し怖いです』
朔夜が振り返った。
金色の瞳が、鈴音の手元の紙を見る。
長い沈黙のあと、彼は言った。
「そうか」
それだけだった。
怖がるな、とも言わない。
弱い、とも言わない。
その静かな受け止め方に、鈴音は少しだけ息をつく。
朔夜は部屋の外へ視線を向けた。
「朝餉のあと、話す」
鈴音は顔を上げた。
「琴乃のことを」
胸がどきりと鳴る。
朔夜の横顔は、いつもより遠く見えた。
「お前には、知る権利がある」
朝餉は、千景が運んできた。
いつもより口数が少ない。
盆の上には柔らかい粥と、湯気の立つ薬草茶、喉に良いという蜜漬けの実が添えられていた。千景は盆を置いたあと、鈴音と朔夜を交互に見た。
「本当に話すんですか」
朔夜は頷いた。
千景の耳がわずかに伏せる。
「鈴音さんには、まだ早いんじゃ……」
「琴乃はもう姿を見せた。知らぬままの方が危うい」
千景は唇を噛んだ。
鈴音は紙に書いた。
『千景さんも、百年前のことを知っているのですか』
千景は少し困ったような顔をした。
「僕はまだ生まれてません。でも、眷属たちから聞いています。朔夜さまがどれだけ……」
そこまで言って、千景は口をつぐんだ。
朔夜が静かに言う。
「千景」
「……すみません」
千景は盆を置いたまま、部屋の隅に座った。
「僕もいます。鈴音さんが気分悪くなったら、すぐ止めますから」
鈴音は、少しだけ笑った。
声は出ない。
けれど千景はそっぽを向きながら、薬草茶を鈴音の方へ押した。
「笑ってないで、飲んでください」
苦い茶を飲み、粥を食べ終えると、朔夜は鈴音を社の奥へ連れていった。
そこは、これまで入ったことのない場所だった。
本殿のさらに奥。薄暗い廊下を進んだ先に、古い扉がある。朔夜が手をかざすと、扉に張られていた御札が淡く光り、音もなく開いた。
中は、石造りの小さな部屋だった。
壁には古い鈴がいくつも掛けられている。大きいもの、小さいもの、錆びついたもの、紐が切れたもの。どれも長い年月を感じさせた。
中央には、白い布に包まれた古い木箱が置かれていた。
鈴音は喉元に手を当てる。
この部屋は、静かすぎる。
けれど、耳を澄ますと何かが聞こえる気がした。
誰かの声。
誰かが、ずっと言えなかった言葉。
朔夜は木箱の前に立った。
「ここは、花嫁たちの声を鎮める場所だ」
鈴音は息を呑んだ。
花嫁たち。
自分の前に、この社へ送られた娘たち。
「皆、鬼に喰われたと村では語られている」
朔夜の声は静かだった。
「だが、俺は誰一人喰っていない」
鈴音は朔夜を見た。
彼の横顔には、怒りよりも深い疲れがあった。
「花嫁として送られた娘の多くは、社へ来る前にすでに壊れていた。家のため、村のため、神のためと言われ、自分の意思を奪われていた。俺は彼女たちを帰そうとした。だが、帰ればまた村に利用される。帰れぬ者は、ここで暮らした。短い者も、長い者もいた」
朔夜が木箱に手を置く。
「死んだ者の声は、この鈴に残した。恨みも、願いも、言えなかった言葉も」
鈴音は壁の鈴を見た。
こんなにたくさんの声が、この社に眠っている。
自分のように、声を奪われた娘がいたのだろうか。
琴乃も、その一人だったのだろうか。
朔夜は一番奥に掛けられている鈴へ視線を向けた。
他の鈴よりも小さい。
銀色だったのだろうが、今は黒ずみ、紐も半分ほど焼け焦げている。
「それが、琴乃の鈴だ」
鈴音は足が動かなくなった。
琴乃。
綾乃の中に棲む、百年前の花嫁。
鈴音の声を狙い、朔夜を責め、悲しみを刃に変えた女。
その人の鈴が、ここにある。
朔夜は、鈴に触れなかった。
触れることを恐れているようにも見えた。
「琴乃は、百年前、村の巫女だった」
朔夜の声が、石の部屋に低く響く。
「お前と同じく、真実を響かせる声を持っていた。人が嘘をつけば、その声は嘘を震わせた。罪を隠せば、言葉の奥から黒い穢れを浮かび上がらせた」
鈴音は喉に手を当てた。
自分にも、そんな力があるのだろうか。
今はまだ、嘘が黒い糸や靄のように見えるだけだ。けれど琴乃は、それを声で暴いたのだ。
「最初、村人たちは琴乃を重宝した」
朔夜は続ける。
「盗み、裏切り、揉め事。人は、自分が被害を受けたときだけ真実を求める。琴乃の声は、そのために使われた」
鈴音は胸が重くなった。
人は、自分が知りたい真実だけを欲しがる。
都合の悪い真実は、きっと見たがらない。
「だが琴乃は、村の中心にあった嘘に気づいた。供物の横流し。土地の売買をめぐる不正。鬼神の祟りとされていた災いの多くが、人間の欲によって起きていたこと」
朔夜の声がわずかに低くなる。
「琴乃はそれを告げようとした。俺のもとにも来た。村が嘘で穢れていると。もう喰いきれぬほどの嘘が溜まっていると」
鈴音は紙を取り出し、書いた。
『朔夜さまは、そのとき琴乃さまの声を聞いたのですか』
朔夜は頷いた。
「聞いた」
その一言に、後悔が滲んでいた。
「だが、俺は遅かった」
鈴音は筆を止める。
朔夜は琴乃の鈴を見つめたまま、言葉を続けた。
「当時の常盤家は、今よりも強い力を持っていた。巫女の血を管理し、鬼神への祭礼を取り仕切っていた。村人たちは俺を敬っているふりをしながら、恐れてもいた。俺が嘘を喰う神であることを知っていたからだ」
朔夜の指が、かすかに動く。
「琴乃が告発しようとしていることを知った常盤家は、俺を社の奥に封じた」
鈴音は息を呑んだ。
前章で琴乃が言っていたこと。
村人たちが、朔夜を封じた。
それは本当だったのだ。
「封じた、といっても、完全なものではない。人間に俺を殺す力はない。ただ、社の結界を逆に利用し、外へ出るのを遅らせた。琴乃が山へ送られた夜、俺はその封を破ろうとしていた」
朔夜は目を伏せる。
「だが間に合わなかった」
部屋の鈴が、かすかに震えた気がした。
鈴音の胸が痛む。
朔夜は感情を抑えた声で続ける。
「俺が外へ出たとき、琴乃はもう倒れていた。白無垢は血に染まり、村人たちは逃げたあとだった。琴乃は、まだ息があった」
鈴音は紙を握りしめた。
聞くのが怖い。
けれど、目をそらしてはいけないと思った。
「琴乃は俺を見て言った」
朔夜の声が低くなる。
「どうして、来てくださらなかったのですか、と」
鈴音の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
琴乃の最後の言葉。
救いを待っていた人の声。
朔夜はその声を、百年間抱えてきたのだ。
「俺は何も答えられなかった。遅かった。守ると約束したわけでもない。だが、琴乃は俺の神域に助けを求めて来ていた。俺はその声を聞いていた。それなのに、救えなかった」
鈴音は、朔夜の横顔を見る。
いつも静かな鬼神の顔が、今は痛みに耐えるように硬い。
琴乃の恨みは、朔夜に向けられている。
けれど、鈴音には思えなかった。
朔夜が琴乃を殺したのではない。
救えなかったことと、殺したことは違う。
でも、救えなかった側に残る痛みは、きっとそんな理屈では消えない。
朔夜は、琴乃の鈴へ手を伸ばした。
しかし触れる直前で、指が止まる。
「琴乃の魂は、その場で消えなかった。声を奪われ、真実を埋められた恨みが強すぎた。俺はその恨みを鎮めようとしたが、できなかった。彼女の声は、俺ではなく、人間に聞いてほしかったのだろう」
鈴音は、前章の琴乃の言葉を思い出した。
誰も私の声を聞かなかった。
鬼神さまも、人間も、誰も。
あれは恨みであり、叫びだった。
「それから、琴乃の怨みは村に残った。弱い心を持つ者、愛されたいと飢えた者、誰かの声を憎む者に取り憑く。完全に取り込むのではない。もともとある感情を増幅する」
鈴音の脳裏に、綾乃の涙が浮かぶ。
どうして、鈴音なの。
どうして、いつも鈴音なの。
綾乃の中にあった嫉妬。
琴乃はそれを見つけ、育て、鈴音の声を奪う呪いへ導いた。
鈴音は紙に書いた。
『綾乃さまは、琴乃さまに操られているのですか』
朔夜は少し考えてから、首を横に振った。
「操られているだけなら、切り離せば済む。だが違う。琴乃は綾乃の中にあるものを使っている。綾乃が抱いた妬み、孤独、愛されたい飢え。それらが琴乃と結びついた」
鈴音の指が止まる。
では、綾乃にも責任がある。
琴乃だけのせいにはできない。
けれど、綾乃もまた、琴乃に食い込まれている。
単純な敵ではない。
その事実が、鈴音の心を重くした。
千景が部屋の入口で黙って聞いていた。
いつの間にかついてきていたらしい。
彼は悔しそうに拳を握っている。
「朔夜さまは、ずっと悪くないのに」
朔夜は振り返らない。
「悪くない、では済まぬ」
「でも!」
「千景」
静かな一言で、千景は口を閉ざした。
朔夜は低く言った。
「救えなかった声がある。それは事実だ」
その言葉に、鈴音は胸が痛くなった。
朔夜は、自分を責めている。
百年前からずっと。
村人に嘘を押しつけられ、鬼と呼ばれ、それでも嘘を喰い続けてきた。琴乃を救えなかった罪悪感を抱えたまま、この社に残り続けてきた。
鈴音は筆を握る。
何かを書きたい。
でも、何を書けばいいのかわからない。
簡単に「あなたは悪くありません」と書けば、それは朔夜の痛みを軽く扱うことになる気がした。
けれど、琴乃の言葉のように、朔夜を責めることもできない。
鈴音は紙を見つめたまま、しばらく動けなかった。
そのとき、朔夜が静かに言った。
「鈴音」
鈴音は顔を上げる。
「お前が恐れるなら、俺から離れてもいい」
鈴音は目を見開いた。
「琴乃の言葉は、すべて嘘ではない。俺は琴乃を救えなかった。俺の力は万能ではない。お前の声も、必ず守りきれるとは限らぬ」
朔夜の金の瞳が、鈴音をまっすぐに見る。
「それでも俺のそばにいれば、お前は百年前の嘘に巻き込まれる。常盤家の罪にも、村の怨みにも触れることになる」
鈴音は紙を握りしめた。
「お前は、俺の花嫁でいることを強いられた。生贄として差し出され、この社へ来た。だから、今なら選べる」
選べる。
その言葉が、鈴音の胸に深く刺さった。
鈴音は常盤家で、何も選べなかった。
声を失ったことも、鬼神の花嫁にされたことも、常盤家へ戻ったことさえ、自分で選んだようでいて、いつも誰かの嘘に押されていた。
でも今、朔夜は選べと言う。
ここに残るか。
離れるか。
鈴音は、震える手で筆を取った。
まず、こう書いた。
『怖いです』
朔夜は静かに見ている。
鈴音は続ける。
『琴乃さまも、常盤家も、私の声に絡んでいる嘘も怖いです』
筆先が少し震える。
『でも、何も知らないまま戻る方が怖いです』
鈴音は、深く息を吸った。
喉がひりつく。
けれど、今日は逃げたくなかった。
『朔夜さまのそばにいることを、私は選びます』
書いた瞬間、胸が熱くなった。
誰かに命じられたからではない。
家のためでも、村のためでもない。
鈴音が、鈴音自身で選んだ。
朔夜はその文字を見つめたまま、長い間黙っていた。
千景が息を止めているのがわかった。
やがて、朔夜が低く言う。
「……後悔するかもしれぬ」
鈴音はもう一度筆を動かす。
『それでも、私の選んだことです』
朔夜の表情が、ほんの少しだけ崩れた。
驚いたような、苦しそうな、救われたような顔だった。
その顔を見た瞬間、鈴音の中に言葉が生まれた。
紙ではなく、声で言いたい。
そう思った。
無理をしてはいけないと、朔夜に言われている。
でも、これは叫びではない。
誰かに奪われたものを取り返すための、鈴音自身の言葉だった。
鈴音は喉に手を当てた。
朔夜が気づく。
「無理をするな」
鈴音は首を横に振った。
少しだけ。
ほんの少しだけでいい。
鈴音は息を吸った。
朝の清水で教わったように、焦らず、喉の奥へ空気を通す。
小さな震えが生まれる。
黒い糸が反応するように、喉の奥が熱を持つ。
それでも、鈴音は目をそらさなかった。
朔夜を見つめる。
そして、かすれた息のような声で言った。
「……しん、じ……ます」
自分でも驚くほど、弱い声だった。
ほとんど音になっていない。
けれど、石の部屋にあった鈴が一斉に震えた。
ちりん。
ちりん。
いくつもの鈴が、かすかに鳴った。
千景が目を見開く。
朔夜は動かない。
金の瞳だけが、静かに揺れていた。
鈴音は喉を押さえ、少し咳き込む。
朔夜がすぐに近づき、喉へ手をかざした。
「だから、無理をするなと言った」
叱る声なのに、いつもの冷静さが少し乱れていた。
鈴音は苦しい息の中で、紙に書く。
『言いたかったのです』
朔夜はその文字を見て、言葉を失ったように黙った。
鈴音は続ける。
『あなたを信じると、私の声で言いたかった』
朔夜の指先が、鈴音の喉元で止まる。
その手が、わずかに震えているように見えた。
鈴音は驚いた。
鬼神である朔夜の手が、震える。
そんなことがあるのだろうか。
朔夜は静かに目を伏せた。
「……そうか」
それだけだった。
けれど、その一言はひどく深かった。
まるで、百年凍っていた湖の表面に、小さなひびが入ったような響きだった。
そのとき、部屋の奥で、琴乃の鈴が鳴った。
ちりん。
ほかの鈴とは違う、細く、かすれた音。
鈴音は息を止める。
朔夜も振り返った。
琴乃の鈴が、ひとりでに揺れている。
ちりん。
ちりん。
鈴の奥から、かすかな声が漏れた。
――信じる?
鈴音の背筋が冷える。
それは琴乃の声だった。
だが、綾乃の中で聞いた怨みに満ちた声よりも、ずっとか細い。
少女のような声だった。
――私も、そう言ったわ。
鈴音は琴乃の鈴を見つめる。
声はすぐに消えた。
鈴の揺れも止まる。
朔夜の表情が固くなる。
千景が青ざめた。
「今の……」
朔夜は低く言う。
「琴乃の残り声だ」
鈴音は喉を押さえた。
残り声。
鈴に残された、琴乃の言えなかった声。
さっきの声は、綾乃に取り憑いた琴乃とは違って聞こえた。
怨霊ではなく、百年前にまだ救いを待っていた少女の声。
鈴音はそのことに胸が痛くなる。
琴乃は最初から怨霊だったわけではない。
信じたいと思った人だった。
助けを待った人だった。
だからこそ、裏切られた痛みが百年も消えなかったのだ。
朔夜は琴乃の鈴を見つめたまま、静かに言った。
「鈴音。お前の声は、琴乃の残り声に届いたのかもしれぬ」
鈴音は目を見開いた。
自分の声が?
「お前の力は、嘘を暴くことだけではないのかもしれない」
朔夜の声には、わずかな驚きがあった。
「黙らされた声に、触れる力があるのかもしれぬ」
鈴音は胸に手を当てた。
黙らされた声。
琴乃の声。
母の声。
そして、自分自身の声。
すべてが、どこかで繋がっている。
そう感じた瞬間、鈴音の中に新しい怖さと、新しい願いが生まれた。
知りたい。
自分の力が何なのか。
母が何を守ろうとしていたのか。
琴乃が本当は何を叫びたかったのか。
そして、朔夜が百年抱えてきた罪の重さを、どうすれば少しでも軽くできるのか。
朔夜は木箱の前に立ち、古い布を開いた。
中には、小さな鈴の紐がいくつも納められていた。その中に、ひとつだけ新しい白い紐がある。
朔夜はそれを取り出し、鈴音へ差し出した。
「これは、花嫁の守り紐だ。本来なら、婚礼の夜に渡すものだった」
鈴音は両手でそれを受け取った。
白い紐には、小さな鈴が一つ結ばれている。
枕元に置いていた呼び鈴とは違う。
もっと古く、もっと澄んだ音がした。
「花嫁が自分の意思で社に残ると決めたとき、鬼神はこれを渡す」
鈴音は朔夜を見る。
朔夜は静かに言った。
「お前は、選んだ。だから渡す」
鈴音は白い紐を胸に抱いた。
自分の意思で選んだ証。
誰かに差し出された生贄ではなく、朔夜の隣にいることを選んだ花嫁としての証。
鈴音の目に涙が滲む。
朔夜は言った。
「ただし、これは鎖ではない。お前が離れると決めたら、いつでも外していい」
鈴音は首を横に振った。
今は、外したくない。
そう思った。
千景が後ろで、少し鼻をすすった。
鈴音が振り返ると、千景は慌てて顔を背けた。
「泣いてませんから」
鈴音は少しだけ笑う。
その小さな笑いに、鈴がちりんと鳴った。
その音は、石の部屋の中でやさしく響いた。
その夜、鈴音は白い守り紐を枕元に置いて眠った。
喉はまだ痛む。
声も、ほんの少ししか出ない。
けれど胸の奥には、確かなものがあった。
私は、選んだ。
朔夜のそばにいることを。
真実を知ることを。
声を取り戻すことを。
そして、百年前から続く嘘に触れることを。
眠りに落ちる前、部屋の外から朔夜の気配がした。
今夜も、彼は近くにいる。
鈴音は紙に小さく書いた。
『おやすみなさい』
襖の向こうで、少し間があった。
それから、朔夜の声がした。
「おやすみ、鈴音」
その声を聞きながら、鈴音は目を閉じた。
夢の中で、鈴が鳴った。
ちりん。
鈴音は、白い霧の中に立っていた。
遠くに、白無垢の少女がいる。
顔は見えない。
けれど、綾乃の中で見た琴乃の影よりも、小さく、寂しそうだった。
少女は鈴音に背を向けたまま言った。
――あなたは、信じるのね。
鈴音は声を出そうとした。
夢の中なのに、喉が痛む。
それでも、唇を動かす。
――はい。
音にはならない。
けれど、白無垢の少女は少しだけ振り返った。
顔はまだ見えない。
ただ、涙の跡だけが見えた。
――なら、見て。
霧が晴れる。
鈴音の目の前に、常盤家の古い蔵が現れた。
今は使われていない、屋敷の北側にある古い蔵。
その扉に、母の鈴と同じ紋が刻まれている。
鈴音は目を見開いた。
蔵の奥から、母の声が聞こえた。
――鈴音、そこに真実があります。
鈴音は息を呑む。
次の瞬間、夢は黒く塗りつぶされた。
目を覚ますと、夜明け前だった。
鈴音の喉は痛んでいたが、胸の奥にははっきりと残っていた。
常盤家の古い蔵。
母の声。
そこに真実がある。
鈴音は布団から起き上がり、枕元の紙に震える手で書いた。
『母の真実は、常盤家の蔵にあります』
書き終えた瞬間、白い守り紐の鈴が鳴った。
ちりん。
それは、鈴音の声に応えるような音だった。



