花嫁の声を食べる鬼神さま

 朔夜は、部屋の入口に座っていた。

 背を向けたまま、夜が明けるまで一度も動かなかった。

 鈴音は何度も眠りに落ち、何度も目を覚ました。そのたびに、襖の向こうではなく、同じ部屋の入口に黒い背中があった。

 そこにいる。

 ただそれだけで、胸の奥に絡みついていた琴乃の声が少し遠のいた。

 ――お前もいずれ、この鬼に喰われる。

 あの言葉は、まだ消えない。

 けれど、鈴音は知っている。

 朔夜は鈴音を喰わなかった。

 社に来た夜、鈴音が震えていても、朔夜は距離を取ってくれた。温かい粥を出し、筆と紙を用意し、喉に絡んだ嘘を喰らってくれた。

 昨夜も、鈴音が「いかないで」と声にならない唇で願っただけで、彼はここにいてくれた。

 それでも、琴乃の言葉が嘘だけだとは思えなかった。

 朔夜自身も言った。

 すべてが嘘ではない、と。

 百年前、琴乃を救えなかった、と。

 障子の外が白み始めた頃、朔夜が静かに立ち上がった。

 鈴音は布団の中から、その背を見つめた。

 朔夜は振り返らない。

「起きていたのか」

 鈴音は小さく頷いた。

 背を向けていても、わかるらしい。

「喉は」

 鈴音は枕元の紙を引き寄せ、筆を取った。

『少し痛みます。でも、大丈夫です』

 書いてから、鈴音は手を止めた。

 大丈夫。

 その言葉は、常盤家にいた頃から何度も使ってきた。

 本当は大丈夫ではないのに、大丈夫と書いた。痛くても、苦しくても、怖くても、そう書けばそれ以上責められずに済んだから。

 鈴音は、まだ乾かない墨の横に、もう一行足した。

『本当は、少し怖いです』

 朔夜が振り返った。

 金色の瞳が、鈴音の手元の紙を見る。

 長い沈黙のあと、彼は言った。

「そうか」

 それだけだった。

 怖がるな、とも言わない。

 弱い、とも言わない。

 その静かな受け止め方に、鈴音は少しだけ息をつく。

 朔夜は部屋の外へ視線を向けた。

「朝餉のあと、話す」

 鈴音は顔を上げた。

「琴乃のことを」

 胸がどきりと鳴る。

 朔夜の横顔は、いつもより遠く見えた。

「お前には、知る権利がある」

 朝餉は、千景が運んできた。

 いつもより口数が少ない。

 盆の上には柔らかい粥と、湯気の立つ薬草茶、喉に良いという蜜漬けの実が添えられていた。千景は盆を置いたあと、鈴音と朔夜を交互に見た。

「本当に話すんですか」

 朔夜は頷いた。

 千景の耳がわずかに伏せる。

「鈴音さんには、まだ早いんじゃ……」

「琴乃はもう姿を見せた。知らぬままの方が危うい」

 千景は唇を噛んだ。

 鈴音は紙に書いた。

『千景さんも、百年前のことを知っているのですか』

 千景は少し困ったような顔をした。

「僕はまだ生まれてません。でも、眷属たちから聞いています。朔夜さまがどれだけ……」

 そこまで言って、千景は口をつぐんだ。

 朔夜が静かに言う。

「千景」

「……すみません」

 千景は盆を置いたまま、部屋の隅に座った。

「僕もいます。鈴音さんが気分悪くなったら、すぐ止めますから」

 鈴音は、少しだけ笑った。

 声は出ない。

 けれど千景はそっぽを向きながら、薬草茶を鈴音の方へ押した。

「笑ってないで、飲んでください」

 苦い茶を飲み、粥を食べ終えると、朔夜は鈴音を社の奥へ連れていった。

 そこは、これまで入ったことのない場所だった。

 本殿のさらに奥。薄暗い廊下を進んだ先に、古い扉がある。朔夜が手をかざすと、扉に張られていた御札が淡く光り、音もなく開いた。

 中は、石造りの小さな部屋だった。

 壁には古い鈴がいくつも掛けられている。大きいもの、小さいもの、錆びついたもの、紐が切れたもの。どれも長い年月を感じさせた。

 中央には、白い布に包まれた古い木箱が置かれていた。

 鈴音は喉元に手を当てる。

 この部屋は、静かすぎる。

 けれど、耳を澄ますと何かが聞こえる気がした。

 誰かの声。

 誰かが、ずっと言えなかった言葉。

 朔夜は木箱の前に立った。

「ここは、花嫁たちの声を鎮める場所だ」

 鈴音は息を呑んだ。

 花嫁たち。

 自分の前に、この社へ送られた娘たち。

「皆、鬼に喰われたと村では語られている」

 朔夜の声は静かだった。

「だが、俺は誰一人喰っていない」

 鈴音は朔夜を見た。

 彼の横顔には、怒りよりも深い疲れがあった。

「花嫁として送られた娘の多くは、社へ来る前にすでに壊れていた。家のため、村のため、神のためと言われ、自分の意思を奪われていた。俺は彼女たちを帰そうとした。だが、帰ればまた村に利用される。帰れぬ者は、ここで暮らした。短い者も、長い者もいた」

 朔夜が木箱に手を置く。

「死んだ者の声は、この鈴に残した。恨みも、願いも、言えなかった言葉も」

 鈴音は壁の鈴を見た。

 こんなにたくさんの声が、この社に眠っている。

 自分のように、声を奪われた娘がいたのだろうか。

 琴乃も、その一人だったのだろうか。

 朔夜は一番奥に掛けられている鈴へ視線を向けた。

 他の鈴よりも小さい。

 銀色だったのだろうが、今は黒ずみ、紐も半分ほど焼け焦げている。

「それが、琴乃の鈴だ」

 鈴音は足が動かなくなった。

 琴乃。

 綾乃の中に棲む、百年前の花嫁。

 鈴音の声を狙い、朔夜を責め、悲しみを刃に変えた女。

 その人の鈴が、ここにある。

 朔夜は、鈴に触れなかった。

 触れることを恐れているようにも見えた。

「琴乃は、百年前、村の巫女だった」

 朔夜の声が、石の部屋に低く響く。

「お前と同じく、真実を響かせる声を持っていた。人が嘘をつけば、その声は嘘を震わせた。罪を隠せば、言葉の奥から黒い穢れを浮かび上がらせた」

 鈴音は喉に手を当てた。

 自分にも、そんな力があるのだろうか。

 今はまだ、嘘が黒い糸や靄のように見えるだけだ。けれど琴乃は、それを声で暴いたのだ。

「最初、村人たちは琴乃を重宝した」

 朔夜は続ける。

「盗み、裏切り、揉め事。人は、自分が被害を受けたときだけ真実を求める。琴乃の声は、そのために使われた」

 鈴音は胸が重くなった。

 人は、自分が知りたい真実だけを欲しがる。

 都合の悪い真実は、きっと見たがらない。

「だが琴乃は、村の中心にあった嘘に気づいた。供物の横流し。土地の売買をめぐる不正。鬼神の祟りとされていた災いの多くが、人間の欲によって起きていたこと」

 朔夜の声がわずかに低くなる。

「琴乃はそれを告げようとした。俺のもとにも来た。村が嘘で穢れていると。もう喰いきれぬほどの嘘が溜まっていると」

 鈴音は紙を取り出し、書いた。

『朔夜さまは、そのとき琴乃さまの声を聞いたのですか』

 朔夜は頷いた。

「聞いた」

 その一言に、後悔が滲んでいた。

「だが、俺は遅かった」

 鈴音は筆を止める。

 朔夜は琴乃の鈴を見つめたまま、言葉を続けた。

「当時の常盤家は、今よりも強い力を持っていた。巫女の血を管理し、鬼神への祭礼を取り仕切っていた。村人たちは俺を敬っているふりをしながら、恐れてもいた。俺が嘘を喰う神であることを知っていたからだ」

 朔夜の指が、かすかに動く。

「琴乃が告発しようとしていることを知った常盤家は、俺を社の奥に封じた」

 鈴音は息を呑んだ。

 前章で琴乃が言っていたこと。

 村人たちが、朔夜を封じた。

 それは本当だったのだ。

「封じた、といっても、完全なものではない。人間に俺を殺す力はない。ただ、社の結界を逆に利用し、外へ出るのを遅らせた。琴乃が山へ送られた夜、俺はその封を破ろうとしていた」

 朔夜は目を伏せる。

「だが間に合わなかった」

 部屋の鈴が、かすかに震えた気がした。

 鈴音の胸が痛む。

 朔夜は感情を抑えた声で続ける。

「俺が外へ出たとき、琴乃はもう倒れていた。白無垢は血に染まり、村人たちは逃げたあとだった。琴乃は、まだ息があった」

 鈴音は紙を握りしめた。

 聞くのが怖い。

 けれど、目をそらしてはいけないと思った。

「琴乃は俺を見て言った」

 朔夜の声が低くなる。

「どうして、来てくださらなかったのですか、と」

 鈴音の胸が、ぎゅっと締めつけられた。

 琴乃の最後の言葉。

 救いを待っていた人の声。

 朔夜はその声を、百年間抱えてきたのだ。

「俺は何も答えられなかった。遅かった。守ると約束したわけでもない。だが、琴乃は俺の神域に助けを求めて来ていた。俺はその声を聞いていた。それなのに、救えなかった」

 鈴音は、朔夜の横顔を見る。

 いつも静かな鬼神の顔が、今は痛みに耐えるように硬い。

 琴乃の恨みは、朔夜に向けられている。

 けれど、鈴音には思えなかった。

 朔夜が琴乃を殺したのではない。

 救えなかったことと、殺したことは違う。

 でも、救えなかった側に残る痛みは、きっとそんな理屈では消えない。

 朔夜は、琴乃の鈴へ手を伸ばした。

 しかし触れる直前で、指が止まる。

「琴乃の魂は、その場で消えなかった。声を奪われ、真実を埋められた恨みが強すぎた。俺はその恨みを鎮めようとしたが、できなかった。彼女の声は、俺ではなく、人間に聞いてほしかったのだろう」

 鈴音は、前章の琴乃の言葉を思い出した。

 誰も私の声を聞かなかった。

 鬼神さまも、人間も、誰も。

 あれは恨みであり、叫びだった。

「それから、琴乃の怨みは村に残った。弱い心を持つ者、愛されたいと飢えた者、誰かの声を憎む者に取り憑く。完全に取り込むのではない。もともとある感情を増幅する」

 鈴音の脳裏に、綾乃の涙が浮かぶ。

 どうして、鈴音なの。

 どうして、いつも鈴音なの。

 綾乃の中にあった嫉妬。

 琴乃はそれを見つけ、育て、鈴音の声を奪う呪いへ導いた。

 鈴音は紙に書いた。

『綾乃さまは、琴乃さまに操られているのですか』

 朔夜は少し考えてから、首を横に振った。

「操られているだけなら、切り離せば済む。だが違う。琴乃は綾乃の中にあるものを使っている。綾乃が抱いた妬み、孤独、愛されたい飢え。それらが琴乃と結びついた」

 鈴音の指が止まる。

 では、綾乃にも責任がある。

 琴乃だけのせいにはできない。

 けれど、綾乃もまた、琴乃に食い込まれている。

 単純な敵ではない。

 その事実が、鈴音の心を重くした。

 千景が部屋の入口で黙って聞いていた。

 いつの間にかついてきていたらしい。

 彼は悔しそうに拳を握っている。

「朔夜さまは、ずっと悪くないのに」

 朔夜は振り返らない。

「悪くない、では済まぬ」

「でも!」

「千景」

 静かな一言で、千景は口を閉ざした。

 朔夜は低く言った。

「救えなかった声がある。それは事実だ」

 その言葉に、鈴音は胸が痛くなった。

 朔夜は、自分を責めている。

 百年前からずっと。

 村人に嘘を押しつけられ、鬼と呼ばれ、それでも嘘を喰い続けてきた。琴乃を救えなかった罪悪感を抱えたまま、この社に残り続けてきた。

 鈴音は筆を握る。

 何かを書きたい。

 でも、何を書けばいいのかわからない。

 簡単に「あなたは悪くありません」と書けば、それは朔夜の痛みを軽く扱うことになる気がした。

 けれど、琴乃の言葉のように、朔夜を責めることもできない。

 鈴音は紙を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 そのとき、朔夜が静かに言った。

「鈴音」

 鈴音は顔を上げる。

「お前が恐れるなら、俺から離れてもいい」

 鈴音は目を見開いた。

「琴乃の言葉は、すべて嘘ではない。俺は琴乃を救えなかった。俺の力は万能ではない。お前の声も、必ず守りきれるとは限らぬ」

 朔夜の金の瞳が、鈴音をまっすぐに見る。

「それでも俺のそばにいれば、お前は百年前の嘘に巻き込まれる。常盤家の罪にも、村の怨みにも触れることになる」

 鈴音は紙を握りしめた。

「お前は、俺の花嫁でいることを強いられた。生贄として差し出され、この社へ来た。だから、今なら選べる」

 選べる。

 その言葉が、鈴音の胸に深く刺さった。

 鈴音は常盤家で、何も選べなかった。

 声を失ったことも、鬼神の花嫁にされたことも、常盤家へ戻ったことさえ、自分で選んだようでいて、いつも誰かの嘘に押されていた。

 でも今、朔夜は選べと言う。

 ここに残るか。

 離れるか。

 鈴音は、震える手で筆を取った。

 まず、こう書いた。

『怖いです』

 朔夜は静かに見ている。

 鈴音は続ける。

『琴乃さまも、常盤家も、私の声に絡んでいる嘘も怖いです』

 筆先が少し震える。

『でも、何も知らないまま戻る方が怖いです』

 鈴音は、深く息を吸った。

 喉がひりつく。

 けれど、今日は逃げたくなかった。

『朔夜さまのそばにいることを、私は選びます』

 書いた瞬間、胸が熱くなった。

 誰かに命じられたからではない。

 家のためでも、村のためでもない。

 鈴音が、鈴音自身で選んだ。

 朔夜はその文字を見つめたまま、長い間黙っていた。

 千景が息を止めているのがわかった。

 やがて、朔夜が低く言う。

「……後悔するかもしれぬ」

 鈴音はもう一度筆を動かす。

『それでも、私の選んだことです』

 朔夜の表情が、ほんの少しだけ崩れた。

 驚いたような、苦しそうな、救われたような顔だった。

 その顔を見た瞬間、鈴音の中に言葉が生まれた。

 紙ではなく、声で言いたい。

 そう思った。

 無理をしてはいけないと、朔夜に言われている。

 でも、これは叫びではない。

 誰かに奪われたものを取り返すための、鈴音自身の言葉だった。

 鈴音は喉に手を当てた。

 朔夜が気づく。

「無理をするな」

 鈴音は首を横に振った。

 少しだけ。

 ほんの少しだけでいい。

 鈴音は息を吸った。

 朝の清水で教わったように、焦らず、喉の奥へ空気を通す。

 小さな震えが生まれる。

 黒い糸が反応するように、喉の奥が熱を持つ。

 それでも、鈴音は目をそらさなかった。

 朔夜を見つめる。

 そして、かすれた息のような声で言った。

「……しん、じ……ます」

 自分でも驚くほど、弱い声だった。

 ほとんど音になっていない。

 けれど、石の部屋にあった鈴が一斉に震えた。

 ちりん。

 ちりん。

 いくつもの鈴が、かすかに鳴った。

 千景が目を見開く。

 朔夜は動かない。

 金の瞳だけが、静かに揺れていた。

 鈴音は喉を押さえ、少し咳き込む。

 朔夜がすぐに近づき、喉へ手をかざした。

「だから、無理をするなと言った」

 叱る声なのに、いつもの冷静さが少し乱れていた。

 鈴音は苦しい息の中で、紙に書く。

『言いたかったのです』

 朔夜はその文字を見て、言葉を失ったように黙った。

 鈴音は続ける。

『あなたを信じると、私の声で言いたかった』

 朔夜の指先が、鈴音の喉元で止まる。

 その手が、わずかに震えているように見えた。

 鈴音は驚いた。

 鬼神である朔夜の手が、震える。

 そんなことがあるのだろうか。

 朔夜は静かに目を伏せた。

「……そうか」

 それだけだった。

 けれど、その一言はひどく深かった。

 まるで、百年凍っていた湖の表面に、小さなひびが入ったような響きだった。

 そのとき、部屋の奥で、琴乃の鈴が鳴った。

 ちりん。

 ほかの鈴とは違う、細く、かすれた音。

 鈴音は息を止める。

 朔夜も振り返った。

 琴乃の鈴が、ひとりでに揺れている。

 ちりん。

 ちりん。

 鈴の奥から、かすかな声が漏れた。

 ――信じる?

 鈴音の背筋が冷える。

 それは琴乃の声だった。

 だが、綾乃の中で聞いた怨みに満ちた声よりも、ずっとか細い。

 少女のような声だった。

 ――私も、そう言ったわ。

 鈴音は琴乃の鈴を見つめる。

 声はすぐに消えた。

 鈴の揺れも止まる。

 朔夜の表情が固くなる。

 千景が青ざめた。

「今の……」

 朔夜は低く言う。

「琴乃の残り声だ」

 鈴音は喉を押さえた。

 残り声。

 鈴に残された、琴乃の言えなかった声。

 さっきの声は、綾乃に取り憑いた琴乃とは違って聞こえた。

 怨霊ではなく、百年前にまだ救いを待っていた少女の声。

 鈴音はそのことに胸が痛くなる。

 琴乃は最初から怨霊だったわけではない。

 信じたいと思った人だった。

 助けを待った人だった。

 だからこそ、裏切られた痛みが百年も消えなかったのだ。

 朔夜は琴乃の鈴を見つめたまま、静かに言った。

「鈴音。お前の声は、琴乃の残り声に届いたのかもしれぬ」

 鈴音は目を見開いた。

 自分の声が?

「お前の力は、嘘を暴くことだけではないのかもしれない」

 朔夜の声には、わずかな驚きがあった。

「黙らされた声に、触れる力があるのかもしれぬ」

 鈴音は胸に手を当てた。

 黙らされた声。

 琴乃の声。

 母の声。

 そして、自分自身の声。

 すべてが、どこかで繋がっている。

 そう感じた瞬間、鈴音の中に新しい怖さと、新しい願いが生まれた。

 知りたい。

 自分の力が何なのか。

 母が何を守ろうとしていたのか。

 琴乃が本当は何を叫びたかったのか。

 そして、朔夜が百年抱えてきた罪の重さを、どうすれば少しでも軽くできるのか。

 朔夜は木箱の前に立ち、古い布を開いた。

 中には、小さな鈴の紐がいくつも納められていた。その中に、ひとつだけ新しい白い紐がある。

 朔夜はそれを取り出し、鈴音へ差し出した。

「これは、花嫁の守り紐だ。本来なら、婚礼の夜に渡すものだった」

 鈴音は両手でそれを受け取った。

 白い紐には、小さな鈴が一つ結ばれている。

 枕元に置いていた呼び鈴とは違う。

 もっと古く、もっと澄んだ音がした。

「花嫁が自分の意思で社に残ると決めたとき、鬼神はこれを渡す」

 鈴音は朔夜を見る。

 朔夜は静かに言った。

「お前は、選んだ。だから渡す」

 鈴音は白い紐を胸に抱いた。

 自分の意思で選んだ証。

 誰かに差し出された生贄ではなく、朔夜の隣にいることを選んだ花嫁としての証。

 鈴音の目に涙が滲む。

 朔夜は言った。

「ただし、これは鎖ではない。お前が離れると決めたら、いつでも外していい」

 鈴音は首を横に振った。

 今は、外したくない。

 そう思った。

 千景が後ろで、少し鼻をすすった。

 鈴音が振り返ると、千景は慌てて顔を背けた。

「泣いてませんから」

 鈴音は少しだけ笑う。

 その小さな笑いに、鈴がちりんと鳴った。

 その音は、石の部屋の中でやさしく響いた。

 その夜、鈴音は白い守り紐を枕元に置いて眠った。

 喉はまだ痛む。

 声も、ほんの少ししか出ない。

 けれど胸の奥には、確かなものがあった。

 私は、選んだ。

 朔夜のそばにいることを。

 真実を知ることを。

 声を取り戻すことを。

 そして、百年前から続く嘘に触れることを。

 眠りに落ちる前、部屋の外から朔夜の気配がした。

 今夜も、彼は近くにいる。

 鈴音は紙に小さく書いた。

『おやすみなさい』

 襖の向こうで、少し間があった。

 それから、朔夜の声がした。

「おやすみ、鈴音」

 その声を聞きながら、鈴音は目を閉じた。

 夢の中で、鈴が鳴った。

 ちりん。

 鈴音は、白い霧の中に立っていた。

 遠くに、白無垢の少女がいる。

 顔は見えない。

 けれど、綾乃の中で見た琴乃の影よりも、小さく、寂しそうだった。

 少女は鈴音に背を向けたまま言った。

 ――あなたは、信じるのね。

 鈴音は声を出そうとした。

 夢の中なのに、喉が痛む。

 それでも、唇を動かす。

 ――はい。

 音にはならない。

 けれど、白無垢の少女は少しだけ振り返った。

 顔はまだ見えない。

 ただ、涙の跡だけが見えた。

 ――なら、見て。

 霧が晴れる。

 鈴音の目の前に、常盤家の古い蔵が現れた。

 今は使われていない、屋敷の北側にある古い蔵。

 その扉に、母の鈴と同じ紋が刻まれている。

 鈴音は目を見開いた。

 蔵の奥から、母の声が聞こえた。

 ――鈴音、そこに真実があります。

 鈴音は息を呑む。

 次の瞬間、夢は黒く塗りつぶされた。

 目を覚ますと、夜明け前だった。

 鈴音の喉は痛んでいたが、胸の奥にははっきりと残っていた。

 常盤家の古い蔵。

 母の声。

 そこに真実がある。

 鈴音は布団から起き上がり、枕元の紙に震える手で書いた。

『母の真実は、常盤家の蔵にあります』

 書き終えた瞬間、白い守り紐の鈴が鳴った。

 ちりん。

 それは、鈴音の声に応えるような音だった。