花嫁の声を食べる鬼神さま

 琴乃。

 朔夜がその名を呼んだ瞬間、常盤家の奥座敷から音が消えた。

 風の音も、誰かの息遣いも、畳の軋むかすかな気配さえ遠のいたように思えた。

 綾乃の背後に立つ白無垢の女は、顔のない影のまま、赤い唇だけをゆっくりと笑ませた。

「覚えていてくださったのね、朔夜さま」

 その声は、鈴音と似ていた。

 似ているのに、まるで違う。

 鈴音のまだ戻りきらない声が、春のはじめに震える小さな鈴だとしたら、琴乃の声は、長く水底に沈んで錆びついた鈴の音だった。

 美しい。

 けれど、冷たい。

 聞いているだけで、胸の奥に黒い水が流れ込んでくるようだった。

 鈴音は喉を押さえたまま、朔夜の背に庇われていた。綾乃の言葉で締めつけられた喉は、まだじんじんと痛んでいる。

 ――まだ声なんて出ると思っているの?

 その一言は、ただの言葉ではなかった。

 鈴音の喉に残っていた黒い糸を呼び覚ます鍵のようだった。幼い頃から何度も浴びせられてきた嘲り。言い返せないことを知っている相手だからこそ、安心して突き刺せる刃。

 鈴音は、初めてはっきりと思った。

 綾乃は知っていたのだ。

 鈴音が何を言われれば苦しむのかを。

 どうすれば声を出そうとして、また声を失うのかを。

 父の宗一郎は、畳に片手をついたまま、血の気の引いた顔で白無垢の影を見ていた。八重は扇で口元を隠していたが、その指先は震えている。

 千景は襖の前に立ち、狐火を指先に灯した。いつもの軽口は消え、琥珀色の瞳には強い警戒が宿っている。

「朔夜さま、あれは……」

「近づくな」

 朔夜の声は低かった。

「ただの怨霊ではない」

 琴乃の影は、綾乃の肩に腕を回すように寄り添っていた。影の腕は綾乃の体をすり抜けているように見えるのに、綾乃はその重みに押しつぶされるように、浅く息をしている。

 けれど、綾乃の口元は笑っていた。

 それが綾乃自身の笑みなのか、琴乃に操られた笑みなのか、鈴音には判断できなかった。

「鈴音」

 綾乃が呼んだ。

 人前で見せる、妹を案じるような甘い声だった。

「怖がらなくていいのよ。この方は、ずっと私を守ってくださっていたの」

 守る。

 その言葉に、琴乃の影がくすくすと笑った。

「そう。私はこの娘を守ってあげたの。愛されない苦しみを知っている娘だったから」

 愛されない苦しみ。

 鈴音は綾乃を見た。

 綾乃が?

 常盤家の誇りと呼ばれ、父にも八重にも村人にも大切にされてきた姉が?

 綾乃は、いつも鈴音より多くを持っていた。美しい着物も、温かな食事も、父の微笑みも、八重の手も、村人たちの称賛も。

 それでも、綾乃は愛されていなかったと言うのだろうか。

 八重が鋭く声を上げた。

「綾乃、何を言っているの。あなたは病なのよ。そんなものに惑わされてはなりません」

 その声を聞いた瞬間、綾乃の肩がびくりと跳ねた。

 叱られた子どものような反応だった。

 鈴音は息を呑んだ。

 綾乃はゆっくりと八重を見た。

「お母さまは、いつもそう」

 声が低くなる。

「笑いなさい。背筋を伸ばしなさい。常盤家の娘らしくなさい。泣いてはいけない。怒ってはいけない。鈴音よりも優れていなければならない。都の御家に嫁げるよう、誰からも選ばれる娘でいなさい」

 八重の顔がひきつった。

「それは、あなたのためを思って――」

「私のため?」

 綾乃は薄く笑った。

「私がつらいと言ったとき、お母さまは一度でも聞いてくれた? 私はいつも、常盤家のための綾乃だった。お母さまの誇りになるための綾乃だった」

 鈴音は初めて見る姉の顔に、言葉を失った。

 綾乃の美しい顔は、怒りに歪んでいた。だがその奥に、寂しさがあった。

 ずっと見えていなかった。

 鈴音にとって綾乃は、奪う側の人間だった。鈴音を笑い、鈴音を見下し、鈴音の居場所を奪ってきた姉。

 けれど綾乃もまた、別の形で縛られていたのかもしれない。

 だからといって、鈴音の痛みが消えるわけではない。

 琴乃の影が、愛おしそうに綾乃の頬へ手を添える。

「この娘は、私に似ていた。愛されたいのに、愛され方を知らない娘。完璧でなければ捨てられると信じていた娘。だから私は、教えてあげたの」

 朔夜の声が冷える。

「何を教えた」

 琴乃の赤い唇が歪む。

「鈴音の声さえ奪えば、一番になれると」

 鈴音の胸が、音を立てずに割れた。

 喉の痛みとは違う。

 もっと奥、心の柔らかい場所を踏み潰されるような痛みだった。

 声を奪えば、一番になれる。

 鈴音は、綾乃を見た。

 綾乃は視線をそらした。

 それだけで十分だった。

 綾乃は知っていた。

 鈴音の声が自然に失われたわけではないと。

 呪いで封じられたものだと。

 そして、その呪いに関わっていた。

 鈴音は息を吸おうとした。

 喉が痛む。

 言いたいことが胸の中にあふれているのに、声は出ない。

 どうして。

 なぜ私だったの。

 私はあなたから何も奪っていない。

 そう言いたい。

 けれど、声は出なかった。

 代わりに、朔夜が言った。

「綾乃の苦しみは、鈴音の罪ではない」

 その言葉は静かだったが、座敷の空気をはっきりと裂いた。

 綾乃が朔夜を見る。

 朔夜は続ける。

「愛されたいと願うことは罪ではない。だが、その飢えを理由に誰かから声を奪うなら、それは罪だ」

 綾乃の顔が歪んだ。

「鬼神さまは、鈴音の味方なのですね」

「俺は真実を言っただけだ」

「真実、真実って……」

 綾乃の声が震える。

「その声があるから、みんな鈴音を見るのよ。お母さまも、父上も、村の者も、今度はあなたまで」

 鈴音は、思わず綾乃を見つめた。

 みんなが鈴音を見ていた?

 そんなことはない。

 鈴音は、ずっと見えない存在だった。常盤家で誰よりも小さく扱われ、言葉を持たないからと都合よく使われ、いらなくなれば鬼神に差し出された。

 けれど綾乃には、違って見えていたのだ。

 声を持っていた頃の鈴音。

 母に抱かれ、春の鈴のような声だと微笑まれていた鈴音。

 綾乃が欲しかったものを、鈴音だけが持っていたように見えたのだ。

 琴乃が、楽しそうに笑った。

「人は、自分にないものを持つ相手を憎むものよ」

 鈴音はその言葉に、ぞっとした。

 琴乃は綾乃を慰めているようでいて、綾乃の中の最も暗い感情を撫でている。

 愛されなかったね。

 奪われたね。

 だから奪っていいのよ。

 そう囁いている。

 それは救いではない。

 底なしの沼へ引きずり込む声だった。

 朔夜が低く言った。

「琴乃。お前は百年前に死んだはずだ」

「ええ、死んだわ」

 琴乃の影が揺れる。

「白無垢を着せられて、花嫁として山へ送られた。村のため、家のため、鬼神さまのため。そう言われて」

 その声が座敷を満たした瞬間、鈴音の目の前に知らない景色が浮かんだ。

 古い村。

 雨に濡れた道。

 今よりも粗末な家々。

 松明の明かり。

 白無垢を着た少女が、震えながら山道を歩いている。

 鈴音ではない。

 けれど、その背中は鈴音とよく似ていた。

「私は巫女だった」

 琴乃が語る。

「人の嘘を聞き分ける声を持っていた。真実を響かせる声。村人たちは最初、その力をありがたがったわ。誰が盗んだのか。誰が裏切ったのか。誰が神前で嘘をついたのか。みんな私に聞かせた」

 琴乃の声が、暗く沈む。

「でも、真実はいつも、都合のいいものではないの」

 鈴音は喉を押さえた。

 真実を響かせる声。

 それは、自分の声と同じものなのだろうか。

「村の長が供物を横流ししていた。巫女を守るはずの家が、村人から集めた金を隠していた。鬼神さまの怒りだと言われていた災いのいくつかは、人間の欲のせいだった」

 琴乃は笑った。

「私がそれを告げようとしたら、村人たちは言ったの。琴乃は鬼に魅入られた。嘘を暴く声は、災いを呼ぶ声だと」

 災いを呼ぶ声。

 鈴音の背筋に冷たいものが走った。

 同じだ。

 鈴音も、そう呼ばれてきた。

「それで、私を花嫁にした」

 琴乃の影が、鈴音へ一歩近づく。

 朔夜がすぐに鈴音の前へ出た。

 琴乃は立ち止まり、朔夜を見上げる。

「朔夜さま。あなたは来なかった」

 朔夜の表情がわずかに動いた。

「私が山へ送られた夜、あなたは来なかった。いいえ、来られなかったのでしょう? 村人たちが、あなたを社の奥に封じていたから」

 千景が息を呑んだ。

「そんな……」

 朔夜は答えない。

 それが答えのようだった。

 琴乃の声は、甘く、残酷だった。

「私は待ったわ。鬼神さまなら、私の声を聞いてくれる。私を救ってくれる。そう思って。でも、来たのは村人たちだった」

 鈴音の視界に、また別の景色が浮かぶ。

 夜の社。

 白無垢の少女。

 松明を持つ男たち。

 怯えた声。

 怒号。

 泣き叫ぶ少女。

 そして、赤い色。

 鈴音は目をつぶった。

 見たくない。

 けれど、琴乃の声は耳から離れない。

「私は鬼に喰われたことにされた。でも本当は違う。村人たちに殺されたのよ。私の声ごと、真実を埋めるために」

 座敷に沈黙が落ちた。

 父も、八重も、女中たちも、誰も否定しなかった。

 朔夜が静かに言う。

「俺は、お前を救えなかった」

 琴乃の笑みが消えた。

「ええ」

 たった一言。

 そこには百年分の恨みが詰まっていた。

「だから私は、もう誰も信じないことにしたの」

 琴乃の影が、綾乃の中へさらに深く沈むように寄り添う。

「この娘は、私を呼んだ。鈴音の声が憎い。鈴音さえいなければいい。鈴音が黙れば、自分が愛される。そう願った」

 綾乃が耳を塞ごうとした。

「違う……私は、そこまでは……」

「願ったわ」

 琴乃が囁く。

「声さえなければいいと思った。あの子が黙っていれば、自分が一番の娘でいられると思った」

 綾乃の頬を涙が伝った。

 鈴音はその涙を見た。

 姉が本当に泣くところを、初めて見た気がした。

 それでも、鈴音の喉には黒い糸が絡んでいる。

 綾乃の涙で、鈴音の痛みが消えるわけではない。

 鈴音は震える手で筆を取った。

 書くのも苦しかった。

 それでも、書かなければならないと思った。

『苦しかったのですね』

 紙を見た綾乃の目が、揺れた。

 鈴音は続ける。

『でも、私の声を奪っていい理由にはなりません』

 綾乃の顔から色が消えた。

 琴乃の笑みも、ほんの少し消えた。

 鈴音はさらに書く。

『あなたが苦しかったことと、私を傷つけたことは、同じではありません』

 筆先が震え、墨がにじむ。

 それでも、鈴音は書き切った。

 憐れだと思った。

 綾乃も、琴乃も。

 でも、許せるわけではなかった。

 朔夜が静かに言った。

「憐れむことと、許すことは同じではない」

 それは、以前朔夜が鈴音に言った言葉だった。

 鈴音は紙を握りしめる。

 そうだ。

 かわいそうだからといって、奪われたことをなかったことにはできない。

 琴乃の影が、低く笑った。

「優しいのね、鈴音。でも、その優しさはすぐに折れるわ」

 白無垢の影が、ゆらりと揺れる。

「あなたはまだ知らない。真実を響かせる声が、どれほど人に憎まれるか。利用されるか。黙らされるか」

 鈴音の喉が熱を持つ。

 琴乃の赤い唇が、ゆっくり動いた。

「そして最後には、鬼に喰われたことにされる」

 朔夜の気配が鋭くなる。

「琴乃」

「だってそうでしょう?」

 琴乃は笑った。

「私は救われなかった。百年前、私はこの白無垢のまま死んだ。誰も私の声を聞かなかった。鬼神さまも、人間も、誰も」

 その言葉には、初めて本当の悲しみがあった。

 憎しみでは隠しきれない、深い孤独。

 鈴音は胸が痛んだ。

 琴乃もまた、黙らされた花嫁だった。

 誰にも声を聞いてもらえず、死んだ人だった。

 だからこそ、怖かった。

 悲しみは、人を救うこともある。

 けれど、聞いてもらえなかった悲しみは、誰かを同じ闇へ引きずり込む刃にもなる。

 朔夜が手を上げた。

 指先に黒い炎のような力が宿る。

「綾乃から離れろ」

「嫌よ」

 琴乃の声が、鈴音の喉を震わせた。

 次の瞬間、座敷中に黒い糸が走った。

 畳の隙間から、柱の影から、襖の奥から、無数の糸が湧き出す。糸は鈴音へ向かって伸び、喉に絡みつこうとした。

 朔夜が袖を払う。

 黒い炎が糸を焼き払った。

 千景も狐火を放ち、女中たちを廊下へ逃がす。

「下がって! 早く!」

 父と八重は逃げようとしたが、足がすくんで動けない。

 琴乃は笑い続けていた。

「この家は嘘で満ちている。常盤の家は、百年前から何も変わっていない。鬼神を利用し、巫女を利用し、都合の悪い真実を埋める」

 鈴音の喉元に、一番太い黒糸が絡みつこうとする。

 その糸は、綾乃の胸元から伸びていた。

 いや、それだけではない。

 八重の影からも伸びている。

 父の沈黙からも伸びている。

 常盤家の壁そのものから、無数の嘘が鈴音へ向かっている。

 朔夜は太い糸を掴んだ。

 触れた瞬間、彼の手から黒い煙が上がる。

「朔夜さま!」

 千景が叫ぶ。

 朔夜は顔色を変えず、糸を引きちぎろうとした。

 だが琴乃が囁く。

「無理よ。それを断てば、この娘の喉も裂ける。綾乃の心も壊れる。あなたはまた、花嫁を救えない」

 朔夜の手が止まった。

 その一瞬の迷いを、鈴音は見た。

 百年前の傷。

 救えなかった花嫁。

 琴乃は、それをわかっていて抉っている。

 鈴音は苦しい息の中で、朔夜の袖を掴んだ。

 朔夜が振り返る。

 鈴音は声を出せない。

 筆も持てない。

 けれど、どうしても伝えたかった。

 あなたは悪くない。

 琴乃を殺したのは、あなたではない。

 鈴音は唇を動かした。

 音にはならなかった。

 けれど朔夜は、鈴音の目を見て、静かに頷いた。

「わかっている」

 その一言で、鈴音の目に涙が滲んだ。

 朔夜は太い糸を無理に切るのをやめた。代わりに、糸の表面にまとわりつく黒い靄だけを指先で剥がし、口元へ運ぶ。

 そして、喰らった。

 鈴音の喉の締めつけが少し緩む。

 綾乃が悲鳴を上げた。

 琴乃の影が歪む。

「また嘘を食べるのね、朔夜さま。人間のために」

「鈴音のためだ」

 朔夜は即座に言った。

 その言葉に、鈴音の胸が跳ねた。

 綾乃の顔が歪む。

「どうして……」

 それは綾乃自身の声だった。

「どうして、鈴音なの」

 声は、泣いている子どものようだった。

「どうして、いつも鈴音なの」

 鈴音は綾乃を見た。

 綾乃も、誰かに選ばれたかったのだ。

 完璧だからではなく、役に立つからでもなく、ただ綾乃自身として見てほしかった。

 でも。

 だからといって。

 鈴音は、震える手で紙を引き寄せた。

『私は、あなたの代わりに傷つくために生まれたのではありません』

 綾乃の目が見開かれる。

『あなたが苦しかったことと、私の声を奪ったことは、別です』

 座敷に、重い沈黙が落ちた。

 琴乃の影が、綾乃を包み込む。

「もういいわ、綾乃。この子はあなたをわかってくれない。誰も、あなたをわかってくれない」

 綾乃の瞳が虚ろになる。

 朔夜が低く言った。

「それ以上、取り込まれるな」

 綾乃は答えない。

 琴乃は鈴音を見た。

「あなたは、私とは違うと思っているのね」

 鈴音は喉を押さえたまま、琴乃を見る。

「鬼神に守られて、自分だけは救われると思っている」

 違う。

 そう言いたいのに、声は出ない。

 琴乃は赤い唇を吊り上げた。

「覚えておきなさい」

 その声は、鈴音の喉の奥に直接入り込んできた。

「お前もいずれ、この鬼に喰われる」

 瞬間、部屋の灯りがふっと消えた。

 黒い糸が弾け、琴乃の影が綾乃の体の中へ沈んでいく。

 綾乃は糸の切れた人形のように畳へ倒れた。

「綾乃!」

 八重が叫び、駆け寄る。

 朔夜は鈴音を支えたまま、倒れた綾乃を見下ろしていた。

 琴乃の姿はもう見えない。

 けれど、消えたわけではなかった。

 鈴音にはわかった。

 あの百年前の花嫁は、まだ姉の中にいる。

 そして、鈴音の声を狙っている。

 常盤家を出るとき、父は何か言いかけた。

 けれど朔夜が一瞥すると、口を閉ざした。

 八重は綾乃を抱きしめながら泣いていたが、その涙の奥に、怯えと怒りが見えた。

 鈴音は一度だけ振り返った。

 倒れた綾乃の白い手が、畳の上に投げ出されている。その指先には、まだ黒い糸が絡んでいた。

 姉は敵だ。

 けれど、姉だけが敵ではない。

 鈴音はそのことを知ってしまった。

 帰りの山道で、誰も言葉を発しなかった。

 千景でさえ黙っていた。

 夕暮れの山道は赤く染まり、木々の影が長く伸びている。

 鈴音は朔夜の隣を歩きながら、何度もその横顔を見上げた。

 聞きたいことがたくさんあった。

 琴乃とは何者なのか。

 百年前に何があったのか。

 朔夜は本当に、何もできなかったのか。

 けれど、今は聞けなかった。

 朔夜も何も言わない。

 ただ一度、鈴音の歩みが遅れたとき、彼は立ち止まって待ってくれた。

 それだけで、鈴音の胸は少し温かくなった。

 社の鳥居が見えた頃、朔夜がようやく口を開いた。

「鈴音」

 鈴音は顔を上げる。

「琴乃の言葉を、すべて信じるな」

 鈴音は小さく頷いた。

 朔夜は続ける。

「だが、すべてが嘘でもない」

 その声は、ひどく重かった。

「俺は百年前、琴乃を救えなかった」

 鈴音は胸を押さえた。

 朔夜はそれ以上言わなかった。

 今はまだ、言えないのだろう。

 鈴音は紙を取り出し、短く書いた。

『朔夜さまが、琴乃さまを殺したのではありません』

 朔夜の足が止まる。

 鈴音は続けた。

『私は、そう思います』

 朔夜は長い間、その文字を見つめていた。

 やがて、静かに目を伏せる。

「……お前は、危ういほど優しいな」

 鈴音は首を横に振った。

 優しいわけではない。

 綾乃を許せない。

 琴乃が怖い。

 父も八重も信じられない。

 それでも、朔夜がすべてを背負うのは違うと思っただけだ。

 鈴音はもう一度、紙に書いた。

『憐れむことと、許すことは同じではないと、朔夜さまが教えてくれました』

 朔夜は少しだけ目を見開いた。

 それから、かすかに笑ったように見えた。

「そうだったな」

 社の鈴が鳴る。

 ちりん。

 その音は、疲れ果てた鈴音の胸に静かに染み込んだ。

 けれど琴乃の最後の言葉は、まだ消えない。

 お前もいずれ、この鬼に喰われる。

 鈴音は喉に手を当てた。

 怖い。

 でも、知りたい。

 自分の声がなぜ奪われたのか。

 母が何を守ろうとしたのか。

 朔夜がなぜ、百年前の花嫁を救えなかったのか。

 そして、綾乃の中で泣いているものの正体を。

 夜の社に戻ると、朔夜は鈴音を部屋まで送った。

「今日は休め」

 鈴音は頷いた。

 朔夜が去ろうとしたとき、鈴音は思わず彼の袖を掴んだ。

 朔夜が振り返る。

 鈴音は紙を出す余裕もなく、ただ唇を動かした。

 いかないで。

 声にはならない。

 けれど、朔夜には伝わった。

「ここにいる」

 その言葉に、鈴音の目に涙が滲んだ。

 朔夜は部屋の入口に腰を下ろした。背を向けているが、その気配はすぐそばにある。

 鈴音は布団に横たわり、喉を押さえた。

 声はまだ戻りきっていない。

 けれど今夜は、声が出なくても届いた。

 朔夜が、ここにいてくれる。

 それだけで、琴乃の呪いの言葉が少し遠のいた。

 社の外では、夜の闇が静かに降りていた。

 遠く、常盤家の方角から、かすかな黒い靄が空へ昇っている。

 百年前の花嫁は、まだ終わっていない。

 鈴音の声を巡る嘘も、まだほどけていない。

 けれど鈴音は、もう何も知らない娘ではなかった。

 喉に残る痛みと、胸に灯った小さな怒りを抱えながら、鈴音は目を閉じる。

 声を取り戻す。

 母の真実を知る。

 奪われたものを、奪われたままにしない。

 その願いだけは、もう誰にも黙らせない。