琴乃。
朔夜がその名を呼んだ瞬間、常盤家の奥座敷から音が消えた。
風の音も、誰かの息遣いも、畳の軋むかすかな気配さえ遠のいたように思えた。
綾乃の背後に立つ白無垢の女は、顔のない影のまま、赤い唇だけをゆっくりと笑ませた。
「覚えていてくださったのね、朔夜さま」
その声は、鈴音と似ていた。
似ているのに、まるで違う。
鈴音のまだ戻りきらない声が、春のはじめに震える小さな鈴だとしたら、琴乃の声は、長く水底に沈んで錆びついた鈴の音だった。
美しい。
けれど、冷たい。
聞いているだけで、胸の奥に黒い水が流れ込んでくるようだった。
鈴音は喉を押さえたまま、朔夜の背に庇われていた。綾乃の言葉で締めつけられた喉は、まだじんじんと痛んでいる。
――まだ声なんて出ると思っているの?
その一言は、ただの言葉ではなかった。
鈴音の喉に残っていた黒い糸を呼び覚ます鍵のようだった。幼い頃から何度も浴びせられてきた嘲り。言い返せないことを知っている相手だからこそ、安心して突き刺せる刃。
鈴音は、初めてはっきりと思った。
綾乃は知っていたのだ。
鈴音が何を言われれば苦しむのかを。
どうすれば声を出そうとして、また声を失うのかを。
父の宗一郎は、畳に片手をついたまま、血の気の引いた顔で白無垢の影を見ていた。八重は扇で口元を隠していたが、その指先は震えている。
千景は襖の前に立ち、狐火を指先に灯した。いつもの軽口は消え、琥珀色の瞳には強い警戒が宿っている。
「朔夜さま、あれは……」
「近づくな」
朔夜の声は低かった。
「ただの怨霊ではない」
琴乃の影は、綾乃の肩に腕を回すように寄り添っていた。影の腕は綾乃の体をすり抜けているように見えるのに、綾乃はその重みに押しつぶされるように、浅く息をしている。
けれど、綾乃の口元は笑っていた。
それが綾乃自身の笑みなのか、琴乃に操られた笑みなのか、鈴音には判断できなかった。
「鈴音」
綾乃が呼んだ。
人前で見せる、妹を案じるような甘い声だった。
「怖がらなくていいのよ。この方は、ずっと私を守ってくださっていたの」
守る。
その言葉に、琴乃の影がくすくすと笑った。
「そう。私はこの娘を守ってあげたの。愛されない苦しみを知っている娘だったから」
愛されない苦しみ。
鈴音は綾乃を見た。
綾乃が?
常盤家の誇りと呼ばれ、父にも八重にも村人にも大切にされてきた姉が?
綾乃は、いつも鈴音より多くを持っていた。美しい着物も、温かな食事も、父の微笑みも、八重の手も、村人たちの称賛も。
それでも、綾乃は愛されていなかったと言うのだろうか。
八重が鋭く声を上げた。
「綾乃、何を言っているの。あなたは病なのよ。そんなものに惑わされてはなりません」
その声を聞いた瞬間、綾乃の肩がびくりと跳ねた。
叱られた子どものような反応だった。
鈴音は息を呑んだ。
綾乃はゆっくりと八重を見た。
「お母さまは、いつもそう」
声が低くなる。
「笑いなさい。背筋を伸ばしなさい。常盤家の娘らしくなさい。泣いてはいけない。怒ってはいけない。鈴音よりも優れていなければならない。都の御家に嫁げるよう、誰からも選ばれる娘でいなさい」
八重の顔がひきつった。
「それは、あなたのためを思って――」
「私のため?」
綾乃は薄く笑った。
「私がつらいと言ったとき、お母さまは一度でも聞いてくれた? 私はいつも、常盤家のための綾乃だった。お母さまの誇りになるための綾乃だった」
鈴音は初めて見る姉の顔に、言葉を失った。
綾乃の美しい顔は、怒りに歪んでいた。だがその奥に、寂しさがあった。
ずっと見えていなかった。
鈴音にとって綾乃は、奪う側の人間だった。鈴音を笑い、鈴音を見下し、鈴音の居場所を奪ってきた姉。
けれど綾乃もまた、別の形で縛られていたのかもしれない。
だからといって、鈴音の痛みが消えるわけではない。
琴乃の影が、愛おしそうに綾乃の頬へ手を添える。
「この娘は、私に似ていた。愛されたいのに、愛され方を知らない娘。完璧でなければ捨てられると信じていた娘。だから私は、教えてあげたの」
朔夜の声が冷える。
「何を教えた」
琴乃の赤い唇が歪む。
「鈴音の声さえ奪えば、一番になれると」
鈴音の胸が、音を立てずに割れた。
喉の痛みとは違う。
もっと奥、心の柔らかい場所を踏み潰されるような痛みだった。
声を奪えば、一番になれる。
鈴音は、綾乃を見た。
綾乃は視線をそらした。
それだけで十分だった。
綾乃は知っていた。
鈴音の声が自然に失われたわけではないと。
呪いで封じられたものだと。
そして、その呪いに関わっていた。
鈴音は息を吸おうとした。
喉が痛む。
言いたいことが胸の中にあふれているのに、声は出ない。
どうして。
なぜ私だったの。
私はあなたから何も奪っていない。
そう言いたい。
けれど、声は出なかった。
代わりに、朔夜が言った。
「綾乃の苦しみは、鈴音の罪ではない」
その言葉は静かだったが、座敷の空気をはっきりと裂いた。
綾乃が朔夜を見る。
朔夜は続ける。
「愛されたいと願うことは罪ではない。だが、その飢えを理由に誰かから声を奪うなら、それは罪だ」
綾乃の顔が歪んだ。
「鬼神さまは、鈴音の味方なのですね」
「俺は真実を言っただけだ」
「真実、真実って……」
綾乃の声が震える。
「その声があるから、みんな鈴音を見るのよ。お母さまも、父上も、村の者も、今度はあなたまで」
鈴音は、思わず綾乃を見つめた。
みんなが鈴音を見ていた?
そんなことはない。
鈴音は、ずっと見えない存在だった。常盤家で誰よりも小さく扱われ、言葉を持たないからと都合よく使われ、いらなくなれば鬼神に差し出された。
けれど綾乃には、違って見えていたのだ。
声を持っていた頃の鈴音。
母に抱かれ、春の鈴のような声だと微笑まれていた鈴音。
綾乃が欲しかったものを、鈴音だけが持っていたように見えたのだ。
琴乃が、楽しそうに笑った。
「人は、自分にないものを持つ相手を憎むものよ」
鈴音はその言葉に、ぞっとした。
琴乃は綾乃を慰めているようでいて、綾乃の中の最も暗い感情を撫でている。
愛されなかったね。
奪われたね。
だから奪っていいのよ。
そう囁いている。
それは救いではない。
底なしの沼へ引きずり込む声だった。
朔夜が低く言った。
「琴乃。お前は百年前に死んだはずだ」
「ええ、死んだわ」
琴乃の影が揺れる。
「白無垢を着せられて、花嫁として山へ送られた。村のため、家のため、鬼神さまのため。そう言われて」
その声が座敷を満たした瞬間、鈴音の目の前に知らない景色が浮かんだ。
古い村。
雨に濡れた道。
今よりも粗末な家々。
松明の明かり。
白無垢を着た少女が、震えながら山道を歩いている。
鈴音ではない。
けれど、その背中は鈴音とよく似ていた。
「私は巫女だった」
琴乃が語る。
「人の嘘を聞き分ける声を持っていた。真実を響かせる声。村人たちは最初、その力をありがたがったわ。誰が盗んだのか。誰が裏切ったのか。誰が神前で嘘をついたのか。みんな私に聞かせた」
琴乃の声が、暗く沈む。
「でも、真実はいつも、都合のいいものではないの」
鈴音は喉を押さえた。
真実を響かせる声。
それは、自分の声と同じものなのだろうか。
「村の長が供物を横流ししていた。巫女を守るはずの家が、村人から集めた金を隠していた。鬼神さまの怒りだと言われていた災いのいくつかは、人間の欲のせいだった」
琴乃は笑った。
「私がそれを告げようとしたら、村人たちは言ったの。琴乃は鬼に魅入られた。嘘を暴く声は、災いを呼ぶ声だと」
災いを呼ぶ声。
鈴音の背筋に冷たいものが走った。
同じだ。
鈴音も、そう呼ばれてきた。
「それで、私を花嫁にした」
琴乃の影が、鈴音へ一歩近づく。
朔夜がすぐに鈴音の前へ出た。
琴乃は立ち止まり、朔夜を見上げる。
「朔夜さま。あなたは来なかった」
朔夜の表情がわずかに動いた。
「私が山へ送られた夜、あなたは来なかった。いいえ、来られなかったのでしょう? 村人たちが、あなたを社の奥に封じていたから」
千景が息を呑んだ。
「そんな……」
朔夜は答えない。
それが答えのようだった。
琴乃の声は、甘く、残酷だった。
「私は待ったわ。鬼神さまなら、私の声を聞いてくれる。私を救ってくれる。そう思って。でも、来たのは村人たちだった」
鈴音の視界に、また別の景色が浮かぶ。
夜の社。
白無垢の少女。
松明を持つ男たち。
怯えた声。
怒号。
泣き叫ぶ少女。
そして、赤い色。
鈴音は目をつぶった。
見たくない。
けれど、琴乃の声は耳から離れない。
「私は鬼に喰われたことにされた。でも本当は違う。村人たちに殺されたのよ。私の声ごと、真実を埋めるために」
座敷に沈黙が落ちた。
父も、八重も、女中たちも、誰も否定しなかった。
朔夜が静かに言う。
「俺は、お前を救えなかった」
琴乃の笑みが消えた。
「ええ」
たった一言。
そこには百年分の恨みが詰まっていた。
「だから私は、もう誰も信じないことにしたの」
琴乃の影が、綾乃の中へさらに深く沈むように寄り添う。
「この娘は、私を呼んだ。鈴音の声が憎い。鈴音さえいなければいい。鈴音が黙れば、自分が愛される。そう願った」
綾乃が耳を塞ごうとした。
「違う……私は、そこまでは……」
「願ったわ」
琴乃が囁く。
「声さえなければいいと思った。あの子が黙っていれば、自分が一番の娘でいられると思った」
綾乃の頬を涙が伝った。
鈴音はその涙を見た。
姉が本当に泣くところを、初めて見た気がした。
それでも、鈴音の喉には黒い糸が絡んでいる。
綾乃の涙で、鈴音の痛みが消えるわけではない。
鈴音は震える手で筆を取った。
書くのも苦しかった。
それでも、書かなければならないと思った。
『苦しかったのですね』
紙を見た綾乃の目が、揺れた。
鈴音は続ける。
『でも、私の声を奪っていい理由にはなりません』
綾乃の顔から色が消えた。
琴乃の笑みも、ほんの少し消えた。
鈴音はさらに書く。
『あなたが苦しかったことと、私を傷つけたことは、同じではありません』
筆先が震え、墨がにじむ。
それでも、鈴音は書き切った。
憐れだと思った。
綾乃も、琴乃も。
でも、許せるわけではなかった。
朔夜が静かに言った。
「憐れむことと、許すことは同じではない」
それは、以前朔夜が鈴音に言った言葉だった。
鈴音は紙を握りしめる。
そうだ。
かわいそうだからといって、奪われたことをなかったことにはできない。
琴乃の影が、低く笑った。
「優しいのね、鈴音。でも、その優しさはすぐに折れるわ」
白無垢の影が、ゆらりと揺れる。
「あなたはまだ知らない。真実を響かせる声が、どれほど人に憎まれるか。利用されるか。黙らされるか」
鈴音の喉が熱を持つ。
琴乃の赤い唇が、ゆっくり動いた。
「そして最後には、鬼に喰われたことにされる」
朔夜の気配が鋭くなる。
「琴乃」
「だってそうでしょう?」
琴乃は笑った。
「私は救われなかった。百年前、私はこの白無垢のまま死んだ。誰も私の声を聞かなかった。鬼神さまも、人間も、誰も」
その言葉には、初めて本当の悲しみがあった。
憎しみでは隠しきれない、深い孤独。
鈴音は胸が痛んだ。
琴乃もまた、黙らされた花嫁だった。
誰にも声を聞いてもらえず、死んだ人だった。
だからこそ、怖かった。
悲しみは、人を救うこともある。
けれど、聞いてもらえなかった悲しみは、誰かを同じ闇へ引きずり込む刃にもなる。
朔夜が手を上げた。
指先に黒い炎のような力が宿る。
「綾乃から離れろ」
「嫌よ」
琴乃の声が、鈴音の喉を震わせた。
次の瞬間、座敷中に黒い糸が走った。
畳の隙間から、柱の影から、襖の奥から、無数の糸が湧き出す。糸は鈴音へ向かって伸び、喉に絡みつこうとした。
朔夜が袖を払う。
黒い炎が糸を焼き払った。
千景も狐火を放ち、女中たちを廊下へ逃がす。
「下がって! 早く!」
父と八重は逃げようとしたが、足がすくんで動けない。
琴乃は笑い続けていた。
「この家は嘘で満ちている。常盤の家は、百年前から何も変わっていない。鬼神を利用し、巫女を利用し、都合の悪い真実を埋める」
鈴音の喉元に、一番太い黒糸が絡みつこうとする。
その糸は、綾乃の胸元から伸びていた。
いや、それだけではない。
八重の影からも伸びている。
父の沈黙からも伸びている。
常盤家の壁そのものから、無数の嘘が鈴音へ向かっている。
朔夜は太い糸を掴んだ。
触れた瞬間、彼の手から黒い煙が上がる。
「朔夜さま!」
千景が叫ぶ。
朔夜は顔色を変えず、糸を引きちぎろうとした。
だが琴乃が囁く。
「無理よ。それを断てば、この娘の喉も裂ける。綾乃の心も壊れる。あなたはまた、花嫁を救えない」
朔夜の手が止まった。
その一瞬の迷いを、鈴音は見た。
百年前の傷。
救えなかった花嫁。
琴乃は、それをわかっていて抉っている。
鈴音は苦しい息の中で、朔夜の袖を掴んだ。
朔夜が振り返る。
鈴音は声を出せない。
筆も持てない。
けれど、どうしても伝えたかった。
あなたは悪くない。
琴乃を殺したのは、あなたではない。
鈴音は唇を動かした。
音にはならなかった。
けれど朔夜は、鈴音の目を見て、静かに頷いた。
「わかっている」
その一言で、鈴音の目に涙が滲んだ。
朔夜は太い糸を無理に切るのをやめた。代わりに、糸の表面にまとわりつく黒い靄だけを指先で剥がし、口元へ運ぶ。
そして、喰らった。
鈴音の喉の締めつけが少し緩む。
綾乃が悲鳴を上げた。
琴乃の影が歪む。
「また嘘を食べるのね、朔夜さま。人間のために」
「鈴音のためだ」
朔夜は即座に言った。
その言葉に、鈴音の胸が跳ねた。
綾乃の顔が歪む。
「どうして……」
それは綾乃自身の声だった。
「どうして、鈴音なの」
声は、泣いている子どものようだった。
「どうして、いつも鈴音なの」
鈴音は綾乃を見た。
綾乃も、誰かに選ばれたかったのだ。
完璧だからではなく、役に立つからでもなく、ただ綾乃自身として見てほしかった。
でも。
だからといって。
鈴音は、震える手で紙を引き寄せた。
『私は、あなたの代わりに傷つくために生まれたのではありません』
綾乃の目が見開かれる。
『あなたが苦しかったことと、私の声を奪ったことは、別です』
座敷に、重い沈黙が落ちた。
琴乃の影が、綾乃を包み込む。
「もういいわ、綾乃。この子はあなたをわかってくれない。誰も、あなたをわかってくれない」
綾乃の瞳が虚ろになる。
朔夜が低く言った。
「それ以上、取り込まれるな」
綾乃は答えない。
琴乃は鈴音を見た。
「あなたは、私とは違うと思っているのね」
鈴音は喉を押さえたまま、琴乃を見る。
「鬼神に守られて、自分だけは救われると思っている」
違う。
そう言いたいのに、声は出ない。
琴乃は赤い唇を吊り上げた。
「覚えておきなさい」
その声は、鈴音の喉の奥に直接入り込んできた。
「お前もいずれ、この鬼に喰われる」
瞬間、部屋の灯りがふっと消えた。
黒い糸が弾け、琴乃の影が綾乃の体の中へ沈んでいく。
綾乃は糸の切れた人形のように畳へ倒れた。
「綾乃!」
八重が叫び、駆け寄る。
朔夜は鈴音を支えたまま、倒れた綾乃を見下ろしていた。
琴乃の姿はもう見えない。
けれど、消えたわけではなかった。
鈴音にはわかった。
あの百年前の花嫁は、まだ姉の中にいる。
そして、鈴音の声を狙っている。
常盤家を出るとき、父は何か言いかけた。
けれど朔夜が一瞥すると、口を閉ざした。
八重は綾乃を抱きしめながら泣いていたが、その涙の奥に、怯えと怒りが見えた。
鈴音は一度だけ振り返った。
倒れた綾乃の白い手が、畳の上に投げ出されている。その指先には、まだ黒い糸が絡んでいた。
姉は敵だ。
けれど、姉だけが敵ではない。
鈴音はそのことを知ってしまった。
帰りの山道で、誰も言葉を発しなかった。
千景でさえ黙っていた。
夕暮れの山道は赤く染まり、木々の影が長く伸びている。
鈴音は朔夜の隣を歩きながら、何度もその横顔を見上げた。
聞きたいことがたくさんあった。
琴乃とは何者なのか。
百年前に何があったのか。
朔夜は本当に、何もできなかったのか。
けれど、今は聞けなかった。
朔夜も何も言わない。
ただ一度、鈴音の歩みが遅れたとき、彼は立ち止まって待ってくれた。
それだけで、鈴音の胸は少し温かくなった。
社の鳥居が見えた頃、朔夜がようやく口を開いた。
「鈴音」
鈴音は顔を上げる。
「琴乃の言葉を、すべて信じるな」
鈴音は小さく頷いた。
朔夜は続ける。
「だが、すべてが嘘でもない」
その声は、ひどく重かった。
「俺は百年前、琴乃を救えなかった」
鈴音は胸を押さえた。
朔夜はそれ以上言わなかった。
今はまだ、言えないのだろう。
鈴音は紙を取り出し、短く書いた。
『朔夜さまが、琴乃さまを殺したのではありません』
朔夜の足が止まる。
鈴音は続けた。
『私は、そう思います』
朔夜は長い間、その文字を見つめていた。
やがて、静かに目を伏せる。
「……お前は、危ういほど優しいな」
鈴音は首を横に振った。
優しいわけではない。
綾乃を許せない。
琴乃が怖い。
父も八重も信じられない。
それでも、朔夜がすべてを背負うのは違うと思っただけだ。
鈴音はもう一度、紙に書いた。
『憐れむことと、許すことは同じではないと、朔夜さまが教えてくれました』
朔夜は少しだけ目を見開いた。
それから、かすかに笑ったように見えた。
「そうだったな」
社の鈴が鳴る。
ちりん。
その音は、疲れ果てた鈴音の胸に静かに染み込んだ。
けれど琴乃の最後の言葉は、まだ消えない。
お前もいずれ、この鬼に喰われる。
鈴音は喉に手を当てた。
怖い。
でも、知りたい。
自分の声がなぜ奪われたのか。
母が何を守ろうとしたのか。
朔夜がなぜ、百年前の花嫁を救えなかったのか。
そして、綾乃の中で泣いているものの正体を。
夜の社に戻ると、朔夜は鈴音を部屋まで送った。
「今日は休め」
鈴音は頷いた。
朔夜が去ろうとしたとき、鈴音は思わず彼の袖を掴んだ。
朔夜が振り返る。
鈴音は紙を出す余裕もなく、ただ唇を動かした。
いかないで。
声にはならない。
けれど、朔夜には伝わった。
「ここにいる」
その言葉に、鈴音の目に涙が滲んだ。
朔夜は部屋の入口に腰を下ろした。背を向けているが、その気配はすぐそばにある。
鈴音は布団に横たわり、喉を押さえた。
声はまだ戻りきっていない。
けれど今夜は、声が出なくても届いた。
朔夜が、ここにいてくれる。
それだけで、琴乃の呪いの言葉が少し遠のいた。
社の外では、夜の闇が静かに降りていた。
遠く、常盤家の方角から、かすかな黒い靄が空へ昇っている。
百年前の花嫁は、まだ終わっていない。
鈴音の声を巡る嘘も、まだほどけていない。
けれど鈴音は、もう何も知らない娘ではなかった。
喉に残る痛みと、胸に灯った小さな怒りを抱えながら、鈴音は目を閉じる。
声を取り戻す。
母の真実を知る。
奪われたものを、奪われたままにしない。
その願いだけは、もう誰にも黙らせない。
朔夜がその名を呼んだ瞬間、常盤家の奥座敷から音が消えた。
風の音も、誰かの息遣いも、畳の軋むかすかな気配さえ遠のいたように思えた。
綾乃の背後に立つ白無垢の女は、顔のない影のまま、赤い唇だけをゆっくりと笑ませた。
「覚えていてくださったのね、朔夜さま」
その声は、鈴音と似ていた。
似ているのに、まるで違う。
鈴音のまだ戻りきらない声が、春のはじめに震える小さな鈴だとしたら、琴乃の声は、長く水底に沈んで錆びついた鈴の音だった。
美しい。
けれど、冷たい。
聞いているだけで、胸の奥に黒い水が流れ込んでくるようだった。
鈴音は喉を押さえたまま、朔夜の背に庇われていた。綾乃の言葉で締めつけられた喉は、まだじんじんと痛んでいる。
――まだ声なんて出ると思っているの?
その一言は、ただの言葉ではなかった。
鈴音の喉に残っていた黒い糸を呼び覚ます鍵のようだった。幼い頃から何度も浴びせられてきた嘲り。言い返せないことを知っている相手だからこそ、安心して突き刺せる刃。
鈴音は、初めてはっきりと思った。
綾乃は知っていたのだ。
鈴音が何を言われれば苦しむのかを。
どうすれば声を出そうとして、また声を失うのかを。
父の宗一郎は、畳に片手をついたまま、血の気の引いた顔で白無垢の影を見ていた。八重は扇で口元を隠していたが、その指先は震えている。
千景は襖の前に立ち、狐火を指先に灯した。いつもの軽口は消え、琥珀色の瞳には強い警戒が宿っている。
「朔夜さま、あれは……」
「近づくな」
朔夜の声は低かった。
「ただの怨霊ではない」
琴乃の影は、綾乃の肩に腕を回すように寄り添っていた。影の腕は綾乃の体をすり抜けているように見えるのに、綾乃はその重みに押しつぶされるように、浅く息をしている。
けれど、綾乃の口元は笑っていた。
それが綾乃自身の笑みなのか、琴乃に操られた笑みなのか、鈴音には判断できなかった。
「鈴音」
綾乃が呼んだ。
人前で見せる、妹を案じるような甘い声だった。
「怖がらなくていいのよ。この方は、ずっと私を守ってくださっていたの」
守る。
その言葉に、琴乃の影がくすくすと笑った。
「そう。私はこの娘を守ってあげたの。愛されない苦しみを知っている娘だったから」
愛されない苦しみ。
鈴音は綾乃を見た。
綾乃が?
常盤家の誇りと呼ばれ、父にも八重にも村人にも大切にされてきた姉が?
綾乃は、いつも鈴音より多くを持っていた。美しい着物も、温かな食事も、父の微笑みも、八重の手も、村人たちの称賛も。
それでも、綾乃は愛されていなかったと言うのだろうか。
八重が鋭く声を上げた。
「綾乃、何を言っているの。あなたは病なのよ。そんなものに惑わされてはなりません」
その声を聞いた瞬間、綾乃の肩がびくりと跳ねた。
叱られた子どものような反応だった。
鈴音は息を呑んだ。
綾乃はゆっくりと八重を見た。
「お母さまは、いつもそう」
声が低くなる。
「笑いなさい。背筋を伸ばしなさい。常盤家の娘らしくなさい。泣いてはいけない。怒ってはいけない。鈴音よりも優れていなければならない。都の御家に嫁げるよう、誰からも選ばれる娘でいなさい」
八重の顔がひきつった。
「それは、あなたのためを思って――」
「私のため?」
綾乃は薄く笑った。
「私がつらいと言ったとき、お母さまは一度でも聞いてくれた? 私はいつも、常盤家のための綾乃だった。お母さまの誇りになるための綾乃だった」
鈴音は初めて見る姉の顔に、言葉を失った。
綾乃の美しい顔は、怒りに歪んでいた。だがその奥に、寂しさがあった。
ずっと見えていなかった。
鈴音にとって綾乃は、奪う側の人間だった。鈴音を笑い、鈴音を見下し、鈴音の居場所を奪ってきた姉。
けれど綾乃もまた、別の形で縛られていたのかもしれない。
だからといって、鈴音の痛みが消えるわけではない。
琴乃の影が、愛おしそうに綾乃の頬へ手を添える。
「この娘は、私に似ていた。愛されたいのに、愛され方を知らない娘。完璧でなければ捨てられると信じていた娘。だから私は、教えてあげたの」
朔夜の声が冷える。
「何を教えた」
琴乃の赤い唇が歪む。
「鈴音の声さえ奪えば、一番になれると」
鈴音の胸が、音を立てずに割れた。
喉の痛みとは違う。
もっと奥、心の柔らかい場所を踏み潰されるような痛みだった。
声を奪えば、一番になれる。
鈴音は、綾乃を見た。
綾乃は視線をそらした。
それだけで十分だった。
綾乃は知っていた。
鈴音の声が自然に失われたわけではないと。
呪いで封じられたものだと。
そして、その呪いに関わっていた。
鈴音は息を吸おうとした。
喉が痛む。
言いたいことが胸の中にあふれているのに、声は出ない。
どうして。
なぜ私だったの。
私はあなたから何も奪っていない。
そう言いたい。
けれど、声は出なかった。
代わりに、朔夜が言った。
「綾乃の苦しみは、鈴音の罪ではない」
その言葉は静かだったが、座敷の空気をはっきりと裂いた。
綾乃が朔夜を見る。
朔夜は続ける。
「愛されたいと願うことは罪ではない。だが、その飢えを理由に誰かから声を奪うなら、それは罪だ」
綾乃の顔が歪んだ。
「鬼神さまは、鈴音の味方なのですね」
「俺は真実を言っただけだ」
「真実、真実って……」
綾乃の声が震える。
「その声があるから、みんな鈴音を見るのよ。お母さまも、父上も、村の者も、今度はあなたまで」
鈴音は、思わず綾乃を見つめた。
みんなが鈴音を見ていた?
そんなことはない。
鈴音は、ずっと見えない存在だった。常盤家で誰よりも小さく扱われ、言葉を持たないからと都合よく使われ、いらなくなれば鬼神に差し出された。
けれど綾乃には、違って見えていたのだ。
声を持っていた頃の鈴音。
母に抱かれ、春の鈴のような声だと微笑まれていた鈴音。
綾乃が欲しかったものを、鈴音だけが持っていたように見えたのだ。
琴乃が、楽しそうに笑った。
「人は、自分にないものを持つ相手を憎むものよ」
鈴音はその言葉に、ぞっとした。
琴乃は綾乃を慰めているようでいて、綾乃の中の最も暗い感情を撫でている。
愛されなかったね。
奪われたね。
だから奪っていいのよ。
そう囁いている。
それは救いではない。
底なしの沼へ引きずり込む声だった。
朔夜が低く言った。
「琴乃。お前は百年前に死んだはずだ」
「ええ、死んだわ」
琴乃の影が揺れる。
「白無垢を着せられて、花嫁として山へ送られた。村のため、家のため、鬼神さまのため。そう言われて」
その声が座敷を満たした瞬間、鈴音の目の前に知らない景色が浮かんだ。
古い村。
雨に濡れた道。
今よりも粗末な家々。
松明の明かり。
白無垢を着た少女が、震えながら山道を歩いている。
鈴音ではない。
けれど、その背中は鈴音とよく似ていた。
「私は巫女だった」
琴乃が語る。
「人の嘘を聞き分ける声を持っていた。真実を響かせる声。村人たちは最初、その力をありがたがったわ。誰が盗んだのか。誰が裏切ったのか。誰が神前で嘘をついたのか。みんな私に聞かせた」
琴乃の声が、暗く沈む。
「でも、真実はいつも、都合のいいものではないの」
鈴音は喉を押さえた。
真実を響かせる声。
それは、自分の声と同じものなのだろうか。
「村の長が供物を横流ししていた。巫女を守るはずの家が、村人から集めた金を隠していた。鬼神さまの怒りだと言われていた災いのいくつかは、人間の欲のせいだった」
琴乃は笑った。
「私がそれを告げようとしたら、村人たちは言ったの。琴乃は鬼に魅入られた。嘘を暴く声は、災いを呼ぶ声だと」
災いを呼ぶ声。
鈴音の背筋に冷たいものが走った。
同じだ。
鈴音も、そう呼ばれてきた。
「それで、私を花嫁にした」
琴乃の影が、鈴音へ一歩近づく。
朔夜がすぐに鈴音の前へ出た。
琴乃は立ち止まり、朔夜を見上げる。
「朔夜さま。あなたは来なかった」
朔夜の表情がわずかに動いた。
「私が山へ送られた夜、あなたは来なかった。いいえ、来られなかったのでしょう? 村人たちが、あなたを社の奥に封じていたから」
千景が息を呑んだ。
「そんな……」
朔夜は答えない。
それが答えのようだった。
琴乃の声は、甘く、残酷だった。
「私は待ったわ。鬼神さまなら、私の声を聞いてくれる。私を救ってくれる。そう思って。でも、来たのは村人たちだった」
鈴音の視界に、また別の景色が浮かぶ。
夜の社。
白無垢の少女。
松明を持つ男たち。
怯えた声。
怒号。
泣き叫ぶ少女。
そして、赤い色。
鈴音は目をつぶった。
見たくない。
けれど、琴乃の声は耳から離れない。
「私は鬼に喰われたことにされた。でも本当は違う。村人たちに殺されたのよ。私の声ごと、真実を埋めるために」
座敷に沈黙が落ちた。
父も、八重も、女中たちも、誰も否定しなかった。
朔夜が静かに言う。
「俺は、お前を救えなかった」
琴乃の笑みが消えた。
「ええ」
たった一言。
そこには百年分の恨みが詰まっていた。
「だから私は、もう誰も信じないことにしたの」
琴乃の影が、綾乃の中へさらに深く沈むように寄り添う。
「この娘は、私を呼んだ。鈴音の声が憎い。鈴音さえいなければいい。鈴音が黙れば、自分が愛される。そう願った」
綾乃が耳を塞ごうとした。
「違う……私は、そこまでは……」
「願ったわ」
琴乃が囁く。
「声さえなければいいと思った。あの子が黙っていれば、自分が一番の娘でいられると思った」
綾乃の頬を涙が伝った。
鈴音はその涙を見た。
姉が本当に泣くところを、初めて見た気がした。
それでも、鈴音の喉には黒い糸が絡んでいる。
綾乃の涙で、鈴音の痛みが消えるわけではない。
鈴音は震える手で筆を取った。
書くのも苦しかった。
それでも、書かなければならないと思った。
『苦しかったのですね』
紙を見た綾乃の目が、揺れた。
鈴音は続ける。
『でも、私の声を奪っていい理由にはなりません』
綾乃の顔から色が消えた。
琴乃の笑みも、ほんの少し消えた。
鈴音はさらに書く。
『あなたが苦しかったことと、私を傷つけたことは、同じではありません』
筆先が震え、墨がにじむ。
それでも、鈴音は書き切った。
憐れだと思った。
綾乃も、琴乃も。
でも、許せるわけではなかった。
朔夜が静かに言った。
「憐れむことと、許すことは同じではない」
それは、以前朔夜が鈴音に言った言葉だった。
鈴音は紙を握りしめる。
そうだ。
かわいそうだからといって、奪われたことをなかったことにはできない。
琴乃の影が、低く笑った。
「優しいのね、鈴音。でも、その優しさはすぐに折れるわ」
白無垢の影が、ゆらりと揺れる。
「あなたはまだ知らない。真実を響かせる声が、どれほど人に憎まれるか。利用されるか。黙らされるか」
鈴音の喉が熱を持つ。
琴乃の赤い唇が、ゆっくり動いた。
「そして最後には、鬼に喰われたことにされる」
朔夜の気配が鋭くなる。
「琴乃」
「だってそうでしょう?」
琴乃は笑った。
「私は救われなかった。百年前、私はこの白無垢のまま死んだ。誰も私の声を聞かなかった。鬼神さまも、人間も、誰も」
その言葉には、初めて本当の悲しみがあった。
憎しみでは隠しきれない、深い孤独。
鈴音は胸が痛んだ。
琴乃もまた、黙らされた花嫁だった。
誰にも声を聞いてもらえず、死んだ人だった。
だからこそ、怖かった。
悲しみは、人を救うこともある。
けれど、聞いてもらえなかった悲しみは、誰かを同じ闇へ引きずり込む刃にもなる。
朔夜が手を上げた。
指先に黒い炎のような力が宿る。
「綾乃から離れろ」
「嫌よ」
琴乃の声が、鈴音の喉を震わせた。
次の瞬間、座敷中に黒い糸が走った。
畳の隙間から、柱の影から、襖の奥から、無数の糸が湧き出す。糸は鈴音へ向かって伸び、喉に絡みつこうとした。
朔夜が袖を払う。
黒い炎が糸を焼き払った。
千景も狐火を放ち、女中たちを廊下へ逃がす。
「下がって! 早く!」
父と八重は逃げようとしたが、足がすくんで動けない。
琴乃は笑い続けていた。
「この家は嘘で満ちている。常盤の家は、百年前から何も変わっていない。鬼神を利用し、巫女を利用し、都合の悪い真実を埋める」
鈴音の喉元に、一番太い黒糸が絡みつこうとする。
その糸は、綾乃の胸元から伸びていた。
いや、それだけではない。
八重の影からも伸びている。
父の沈黙からも伸びている。
常盤家の壁そのものから、無数の嘘が鈴音へ向かっている。
朔夜は太い糸を掴んだ。
触れた瞬間、彼の手から黒い煙が上がる。
「朔夜さま!」
千景が叫ぶ。
朔夜は顔色を変えず、糸を引きちぎろうとした。
だが琴乃が囁く。
「無理よ。それを断てば、この娘の喉も裂ける。綾乃の心も壊れる。あなたはまた、花嫁を救えない」
朔夜の手が止まった。
その一瞬の迷いを、鈴音は見た。
百年前の傷。
救えなかった花嫁。
琴乃は、それをわかっていて抉っている。
鈴音は苦しい息の中で、朔夜の袖を掴んだ。
朔夜が振り返る。
鈴音は声を出せない。
筆も持てない。
けれど、どうしても伝えたかった。
あなたは悪くない。
琴乃を殺したのは、あなたではない。
鈴音は唇を動かした。
音にはならなかった。
けれど朔夜は、鈴音の目を見て、静かに頷いた。
「わかっている」
その一言で、鈴音の目に涙が滲んだ。
朔夜は太い糸を無理に切るのをやめた。代わりに、糸の表面にまとわりつく黒い靄だけを指先で剥がし、口元へ運ぶ。
そして、喰らった。
鈴音の喉の締めつけが少し緩む。
綾乃が悲鳴を上げた。
琴乃の影が歪む。
「また嘘を食べるのね、朔夜さま。人間のために」
「鈴音のためだ」
朔夜は即座に言った。
その言葉に、鈴音の胸が跳ねた。
綾乃の顔が歪む。
「どうして……」
それは綾乃自身の声だった。
「どうして、鈴音なの」
声は、泣いている子どものようだった。
「どうして、いつも鈴音なの」
鈴音は綾乃を見た。
綾乃も、誰かに選ばれたかったのだ。
完璧だからではなく、役に立つからでもなく、ただ綾乃自身として見てほしかった。
でも。
だからといって。
鈴音は、震える手で紙を引き寄せた。
『私は、あなたの代わりに傷つくために生まれたのではありません』
綾乃の目が見開かれる。
『あなたが苦しかったことと、私の声を奪ったことは、別です』
座敷に、重い沈黙が落ちた。
琴乃の影が、綾乃を包み込む。
「もういいわ、綾乃。この子はあなたをわかってくれない。誰も、あなたをわかってくれない」
綾乃の瞳が虚ろになる。
朔夜が低く言った。
「それ以上、取り込まれるな」
綾乃は答えない。
琴乃は鈴音を見た。
「あなたは、私とは違うと思っているのね」
鈴音は喉を押さえたまま、琴乃を見る。
「鬼神に守られて、自分だけは救われると思っている」
違う。
そう言いたいのに、声は出ない。
琴乃は赤い唇を吊り上げた。
「覚えておきなさい」
その声は、鈴音の喉の奥に直接入り込んできた。
「お前もいずれ、この鬼に喰われる」
瞬間、部屋の灯りがふっと消えた。
黒い糸が弾け、琴乃の影が綾乃の体の中へ沈んでいく。
綾乃は糸の切れた人形のように畳へ倒れた。
「綾乃!」
八重が叫び、駆け寄る。
朔夜は鈴音を支えたまま、倒れた綾乃を見下ろしていた。
琴乃の姿はもう見えない。
けれど、消えたわけではなかった。
鈴音にはわかった。
あの百年前の花嫁は、まだ姉の中にいる。
そして、鈴音の声を狙っている。
常盤家を出るとき、父は何か言いかけた。
けれど朔夜が一瞥すると、口を閉ざした。
八重は綾乃を抱きしめながら泣いていたが、その涙の奥に、怯えと怒りが見えた。
鈴音は一度だけ振り返った。
倒れた綾乃の白い手が、畳の上に投げ出されている。その指先には、まだ黒い糸が絡んでいた。
姉は敵だ。
けれど、姉だけが敵ではない。
鈴音はそのことを知ってしまった。
帰りの山道で、誰も言葉を発しなかった。
千景でさえ黙っていた。
夕暮れの山道は赤く染まり、木々の影が長く伸びている。
鈴音は朔夜の隣を歩きながら、何度もその横顔を見上げた。
聞きたいことがたくさんあった。
琴乃とは何者なのか。
百年前に何があったのか。
朔夜は本当に、何もできなかったのか。
けれど、今は聞けなかった。
朔夜も何も言わない。
ただ一度、鈴音の歩みが遅れたとき、彼は立ち止まって待ってくれた。
それだけで、鈴音の胸は少し温かくなった。
社の鳥居が見えた頃、朔夜がようやく口を開いた。
「鈴音」
鈴音は顔を上げる。
「琴乃の言葉を、すべて信じるな」
鈴音は小さく頷いた。
朔夜は続ける。
「だが、すべてが嘘でもない」
その声は、ひどく重かった。
「俺は百年前、琴乃を救えなかった」
鈴音は胸を押さえた。
朔夜はそれ以上言わなかった。
今はまだ、言えないのだろう。
鈴音は紙を取り出し、短く書いた。
『朔夜さまが、琴乃さまを殺したのではありません』
朔夜の足が止まる。
鈴音は続けた。
『私は、そう思います』
朔夜は長い間、その文字を見つめていた。
やがて、静かに目を伏せる。
「……お前は、危ういほど優しいな」
鈴音は首を横に振った。
優しいわけではない。
綾乃を許せない。
琴乃が怖い。
父も八重も信じられない。
それでも、朔夜がすべてを背負うのは違うと思っただけだ。
鈴音はもう一度、紙に書いた。
『憐れむことと、許すことは同じではないと、朔夜さまが教えてくれました』
朔夜は少しだけ目を見開いた。
それから、かすかに笑ったように見えた。
「そうだったな」
社の鈴が鳴る。
ちりん。
その音は、疲れ果てた鈴音の胸に静かに染み込んだ。
けれど琴乃の最後の言葉は、まだ消えない。
お前もいずれ、この鬼に喰われる。
鈴音は喉に手を当てた。
怖い。
でも、知りたい。
自分の声がなぜ奪われたのか。
母が何を守ろうとしたのか。
朔夜がなぜ、百年前の花嫁を救えなかったのか。
そして、綾乃の中で泣いているものの正体を。
夜の社に戻ると、朔夜は鈴音を部屋まで送った。
「今日は休め」
鈴音は頷いた。
朔夜が去ろうとしたとき、鈴音は思わず彼の袖を掴んだ。
朔夜が振り返る。
鈴音は紙を出す余裕もなく、ただ唇を動かした。
いかないで。
声にはならない。
けれど、朔夜には伝わった。
「ここにいる」
その言葉に、鈴音の目に涙が滲んだ。
朔夜は部屋の入口に腰を下ろした。背を向けているが、その気配はすぐそばにある。
鈴音は布団に横たわり、喉を押さえた。
声はまだ戻りきっていない。
けれど今夜は、声が出なくても届いた。
朔夜が、ここにいてくれる。
それだけで、琴乃の呪いの言葉が少し遠のいた。
社の外では、夜の闇が静かに降りていた。
遠く、常盤家の方角から、かすかな黒い靄が空へ昇っている。
百年前の花嫁は、まだ終わっていない。
鈴音の声を巡る嘘も、まだほどけていない。
けれど鈴音は、もう何も知らない娘ではなかった。
喉に残る痛みと、胸に灯った小さな怒りを抱えながら、鈴音は目を閉じる。
声を取り戻す。
母の真実を知る。
奪われたものを、奪われたままにしない。
その願いだけは、もう誰にも黙らせない。



