鈴音が朔夜の名を呼んだ夜から、二日が過ぎた。
声は、まだ戻ったとは言えなかった。
喉の奥に小さな道ができたような感覚はある。息を吐くと、ときおり震えのようなものが生まれる。けれど、それを音にしようとすると、すぐに喉が熱を持った。
朔夜は無理をさせなかった。
清水の前で息を整える。
薬草茶を飲む。
夢で見た断片を、紙に書き留める。
そして、痛みが出ればすぐに休む。
それが、この数日の鈴音の役目だった。
常盤家にいた頃なら、休むことは怠けることだった。痛みを訴えることは甘えだった。声の出ない鈴音が苦しんでいても、誰も気づかないふりをした。
けれどこの社では、違った。
千景は口では文句を言いながらも、毎朝喉にやさしい食事を持ってきてくれる。薬草茶が苦すぎると鈴音が顔をしかめれば、「効くんです」と言いながら、次の日には少しだけ蜂蜜を入れてくれた。
朔夜は、鈴音が紙に文字を書き続けて疲れると、何も言わず筆を置かせた。
ここでは、鈴音が無理をすると叱られる。
それがまだ不思議で、少しだけくすぐったかった。
朝の清水のそばで、鈴音はゆっくり息を吐いた。
喉の奥が、かすかに震える。
音にならない音。
あの夜、朔夜の名を呼んだときに生まれた響き。
鈴音は、それをもう一度探そうとしていた。
「焦るな」
そばに立つ朔夜が言った。
鈴音は小さく頷く。
焦っているつもりはなかった。けれど本当は、早く声を取り戻したかった。
朔夜の名を呼べたことが、嬉しかった。
けれど同時に、怖くもなった。
一度声が出てしまったからこそ、もう二度と出なかったらどうしようと思ってしまう。
声を取り戻しかけて、また奪われたら。
そう考えると、喉の奥がきゅっと縮む。
朔夜は、鈴音の表情だけでそれを見抜いたらしい。
「戻ったものは、消えぬ」
鈴音は顔を上げた。
「一度、お前の声は道を開いた。まだ細く、脆い道だが、確かにある」
鈴音は胸に手を当てる。
道。
自分の中に、声へ続く道がある。
そう思うだけで、少しだけ息がしやすくなった。
そのとき、境内の方から千景の声がした。
「朔夜さま!」
切迫した声だった。
朔夜の目が細くなる。
鈴音も振り返った。
千景が石段の方から駆けてくる。狐耳がぴんと立ち、尾が警戒したように膨らんでいた。
「常盤家の使いが来ています」
常盤家。
その名を聞いた瞬間、鈴音の喉がひくりと震えた。
胸の奥が冷える。
朔夜の顔から温度が消えた。
「通すなと言ったはずだ」
「鳥居の外で騒いでます。鈴音さんを帰せって」
鈴音は息を呑んだ。
帰せ。
自分を?
なぜ。
常盤家は、鈴音を鬼神の花嫁として差し出したはずだった。いらないものとして、山へ置いていったはずだった。
それなのに、今さら帰せとは。
朔夜は鈴音を見る。
「ここにいろ」
鈴音は反射的に頷きかけた。
けれど、すぐに止まる。
胸の中に、別の思いが湧いた。
常盤家が自分を呼ぶ理由。
それを知らなければならない気がした。
鈴音は筆と紙を取り出す。
『私も行きます』
朔夜の眉がわずかに動いた。
「行く必要はない」
鈴音は首を横に振り、続けて書いた。
『私を呼ぶ理由を知りたいです』
「嘘だ」
朔夜は短く言った。
鈴音は彼を見上げる。
「使いの言葉に、すでに嘘の匂いがする。お前を案じて来たわけではない」
やはり。
胸が痛んだが、驚きはなかった。
鈴音は紙に書いた。
『それでも、知りたいです』
朔夜は黙った。
千景が不安げに言う。
「鈴音さん、やめた方がいいです。あの家、ろくでもない気配がします」
鈴音は千景を見る。
千景の声には、本気の心配が混じっていた。
それが嬉しくて、同時に胸が苦しくなる。
鈴音はまた書いた。
『私は、何も知らないままここに来ました。母のことも、声のことも、常盤家が何を隠しているのかも。だから、もう知らないふりをしたくありません』
字は少し震えていた。
けれど、書いていることは本心だった。
朔夜はその文字を長く見つめた。
やがて、静かに息を吐く。
「わかった」
鈴音は顔を上げる。
「ただし、俺も行く」
鈴音は目を瞬かせた。
朔夜は当然のように言った。
「お前をひとりであの家へ戻す気はない」
その言葉に、胸の奥が小さく鳴った。
常盤家へ戻る。
そう思うだけで怖い。
けれど、ひとりではない。
朔夜が隣にいる。
鈴音は紙に小さく書いた。
『ありがとうございます』
朔夜は目を伏せた。
「礼を言うことではない。俺の花嫁を、俺が連れていくだけだ」
花嫁。
その言葉に、鈴音は頬が熱くなるのを感じ、慌ててうつむいた。
鳥居の外には、常盤家の使いが二人立っていた。
見覚えのある男たちだった。屋敷で父の用をしていた下男と、八重に仕える女中だ。
彼らは朔夜の姿を見るなり、顔色を変えて膝をついた。
「鬼神さまにおかれましては、ご機嫌麗しく……」
下男の声は震えていた。
朔夜は冷ややかに見下ろす。
「用件を言え」
下男は額に汗を浮かべたまま、懐から文を取り出した。
「常盤家当主より、鈴音さまにお戻りいただきたいとのお達しにございます」
鈴音さま。
その呼び方に、鈴音は違和感を覚えた。
常盤家で、鈴音をそんなふうに呼ぶ者はいなかった。
朔夜は文を受け取らず、言った。
「理由は」
女中が顔を上げる。
「綾乃さまが、突然お倒れになりました。医者にも原因がわからず、奥さまがたいそうお心を痛めておられます。綾乃さまが、どうしても妹君に会いたいと……」
妹君。
鈴音の胸がざわめく。
綾乃が、自分に会いたい?
ありえない。
綾乃は鈴音が鬼に喰われることを楽しんでいた。別れ際にも、喰べられるのは一瞬だと笑っていた。
なぜ今さら。
朔夜の瞳が金色に鋭く光る。
「嘘が混じっている」
下男と女中がびくりと震えた。
鈴音も息を呑む。
朔夜は二人を見る。
「倒れた、は半分本当だな。だが病ではない。会いたがっている、も嘘だ。呼び戻したいのは綾乃ではなく、お前たちの主人だ」
下男の顔から血の気が引く。
「そ、それは……」
朔夜が一歩近づくと、二人は地面に伏せた。
「嘘を重ねるなら、その舌ごと喰う」
鈴音は慌てて朔夜の袖をそっと引いた。
朔夜が振り返る。
鈴音は紙に書いた。
『行きます』
千景が後ろで息を呑んだ。
「鈴音さん」
鈴音は続けて書く。
『綾乃さまが本当に倒れたなら、何が起きたのか知りたいです。嘘なら、なおさら知りたいです』
朔夜はしばらく鈴音を見ていた。
「恐ろしくないのか」
鈴音は紙を見つめた。
恐ろしくないはずがない。
常盤家の門。八重の目。父の沈黙。綾乃の甘い声。
思い出すだけで、喉が痛む。
鈴音は正直に書いた。
『恐ろしいです』
朔夜は何も言わない。
鈴音は、もう一行書き足した。
『でも、知らないまま生きる方が、もっと怖いです』
朔夜の瞳が少しだけ揺れた。
やがて彼は、鈴音の前に立つように向きを変えた。
「ならば行く。ただし、お前が戻りたいと思えば、その時点で連れ帰る」
鈴音は頷いた。
千景が不満そうに耳を伏せる。
「僕も行きます」
「社に残れ」
「嫌です。常盤家の連中なんて信用できません。鈴音さんがまた黙らされそうになったら、誰が騒ぐんですか」
鈴音は千景を見た。
千景はぷいと顔をそらす。
「別に心配してるわけじゃありません。朔夜さまの花嫁に何かあったら、朔夜さまが怒るから面倒なだけです」
鈴音はほんの少し笑った。
声は出なかったが、千景には伝わったらしい。
「笑わないでください」
朔夜は短く息を吐いた。
「好きにしろ」
山を下りる道は、鈴音が花嫁として連れてこられた夜とはまるで違って見えた。
あの夜は、白無垢の裾を引きずりながら、ただ死へ向かっている気がしていた。
今は違う。
水色の着物をまとい、朔夜が隣を歩いている。千景は少し前を警戒しながら進んでいた。
山の木々は青く、風は静かだった。
けれど、村へ近づくほど、空気が重くなっていく。
畑で働いていた村人たちは、朔夜の姿を見るなり腰を抜かした。何人かはその場にひれ伏し、何人かは家の中へ逃げ込んだ。
視線が刺さる。
鬼神だ。
花嫁を連れて戻ってきた。
声の出ない娘が、生きている。
そんな声が、直接聞こえなくても伝わってくる。
鈴音はうつむきそうになった。
そのとき、朔夜が言った。
「前を見ろ」
鈴音ははっとする。
「お前は悪いことをして戻るのではない」
鈴音は胸に手を当てた。
そうだ。
自分は逃げ帰るのではない。
真実を知るために戻るのだ。
鈴音は顔を上げた。
常盤家の門は、以前と変わらず立派だった。
黒い門扉。磨かれた敷石。手入れされた庭木。
けれど鈴音には、その奥に渦巻く黒いものが見えるような気がした。
門前には、父の宗一郎と八重が待っていた。
父は朔夜の姿を見ると、顔をこわばらせながらも深く頭を下げた。
「鬼神さま自らお越しいただけるとは、恐れ多いことでございます」
朔夜は答えない。
八重は鈴音へ歩み寄った。
その顔には、涙を浮かべたような表情が貼りついている。
「鈴音、よく戻ってきてくれましたね。心配していたのよ」
心配。
鈴音の喉が少し痛んだ。
嘘だ。
そう思った瞬間、鈴音の目に、八重の口元から黒い糸のようなものがふっと漏れるのが見えた。
鈴音は息を呑む。
見えた。
嘘が。
朔夜が横目で鈴音を見る。
「見えるようになったか」
鈴音は小さく頷いた。
八重は気づかず、鈴音の手を取ろうとした。
その前に、朔夜が一歩前に出る。
「触るな」
八重の手が空中で止まった。
「お前の嘘は濁っている。鈴音に触れさせる気はない」
八重の顔が一瞬引きつった。
しかしすぐに、悲しげな母の顔を作る。
「まあ、鬼神さま。私はただ、この子を案じて……」
朔夜の金の瞳が冷たく光る。
「その口で、まだ嘘を吐くか」
空気が凍った。
父が慌てて間に入る。
「鬼神さま、どうかお鎮まりを。まずは中へ。綾乃も奥で待っております」
鈴音は父を見た。
父は鈴音と目を合わせなかった。
それだけで、胸の奥が冷える。
屋敷の中は、何も変わっていなかった。
磨かれた廊下。香の匂い。庭に面した明るい座敷。
けれど鈴音にとっては、息苦しい場所だった。
廊下を歩くたび、女中たちがこちらを見てすぐに目を伏せる。以前なら、鈴音を見ても頭を下げなかった者たちが、今は朔夜を恐れて平伏している。
鈴音にではない。
朔夜に、だ。
それでも、鈴音は以前のように小さくなりそうになる自分を抑えた。
奥座敷の前で、八重が足を止める。
「綾乃は中におります。鈴音、妹として声をかけてあげてちょうだい」
声を。
その言葉に、鈴音の喉がひくりと痛んだ。
八重はわざと言ったのだ。
声が出ない鈴音に、声をかけろと。
鈴音の手が震える。
朔夜の気配がわずかに鋭くなった。
鈴音は袖の中で、そっと指を握った。
大丈夫。
ここには朔夜がいる。
千景もいる。
襖が開かれる。
座敷の奥に、綾乃が寝かされていた。
白い肌はいつもより青ざめ、額には冷たい汗がにじんでいる。けれど、その美しさは少しも損なわれていない。むしろ病に伏す姫君のようで、誰かの同情を誘う姿だった。
綾乃は鈴音を見ると、弱々しく微笑んだ。
「鈴音……来てくれたのね」
その声はか細く、妹を思う姉のようだった。
けれど鈴音には、見えた。
綾乃の唇の端から、黒い靄が揺れている。
嘘。
鈴音は胸を押さえた。
綾乃は布団の上で手を伸ばす。
「こちらへ来て。あなたと二人で話がしたいの」
朔夜が即座に言う。
「駄目だ」
綾乃の目が、一瞬だけ冷たく光った。
「鬼神さまは、妹と姉の語らいまでお許しくださらないのですか?」
「嘘で塗れた口に、鈴音を近づける気はない」
八重が青ざめたふりをした。
「なんてことを……綾乃は病なのですよ」
朔夜は八重を見もせずに言う。
「病ではない。何かに憑かれている」
その言葉に、部屋の空気が変わった。
父の顔が強張る。
八重の扇を持つ指が止まる。
綾乃だけが、ゆっくりと笑った。
弱々しい笑みではない。
鈴音がよく知る、あの笑み。
「鈴音」
綾乃が呼んだ。
鈴音の背筋が冷える。
「少しだけでいいの。そばへ来て」
鈴音は動けなかった。
行きたくない。
でも、ここまで来たのだ。
綾乃が何を隠しているのか、知りたい。
鈴音は朔夜を見た。
朔夜は鈴音の瞳を読み、低く言った。
「俺の手が届く範囲までだ」
鈴音は頷き、綾乃の布団から少し離れた場所に座った。
千景が襖のそばで尾を逆立てている。
綾乃は鈴音を見つめた。
その瞳に、幼い頃と同じ嫉妬の色が揺れていた。
「生きていたのね」
声は小さかった。
鈴音は唇を結ぶ。
「鬼に喰われればよかったのに」
綾乃の声は、鈴音にだけ届くほど低かった。
けれど朔夜の目が鋭くなる。
聞こえていたのだろう。
綾乃はなおも微笑む。
「ねえ、鈴音。どうしてあなたばかり、誰かに見つけてもらえるの?」
鈴音は息を止めた。
「お母さまも、昔からあなたばかり見ていた。今度は鬼神さままで、あなたを守るのね」
その言葉には、病の弱さなどなかった。
長年積もった妬みが、刃のように滲んでいる。
鈴音は紙を取り出そうとした。
何を言えばいいのかわからない。
けれど、何かを書かなければ。
そのとき、綾乃が顔を近づける。
甘い香の匂いがした。
綾乃は、あの日と同じ声で囁いた。
「まだ声なんて出ると思っているの?」
瞬間、鈴音の喉に激痛が走った。
黒い糸が、内側から一気に巻きつく。
「っ……!」
息が止まる。
視界が歪む。
鈴音は喉を押さえ、畳に手をついた。
朔夜が動いた。
「鈴音!」
彼の手が鈴音の喉に触れる。
同時に、部屋中に黒い靄が噴き出した。
父の背後から。
八重の口元から。
綾乃の胸元から。
壁の隙間から。
この屋敷そのものが、嘘を吐いているようだった。
朔夜の瞳が金色に燃える。
「なるほど」
低い声が、座敷を震わせた。
「この家は、嘘でできている」
朔夜は鈴音の喉から黒い糸を引き抜いた。
それはこれまでよりも太く、どす黒かった。先端が綾乃の胸元へ伸びている。
綾乃は苦しげに息をつきながらも、笑った。
「あら、見えるのね」
朔夜はその糸を掴み、噛み切った。
鈴音の喉が少し楽になる。
しかし同時に、綾乃の背後の空気が歪んだ。
黒い影が、ゆっくりと立ち上がる。
白無垢をまとった女。
顔は見えない。
けれど、その唇だけが赤く、笑っていた。
鈴音の体が凍りつく。
その女の影が、鈴音と同じ声で笑った。
「見つけた」
朔夜が鈴音を背に庇う。
千景が牙を剥く。
父が腰を抜かし、八重が悲鳴を飲み込む。
綾乃の瞳の奥で、黒いものが蠢いていた。
白無垢の影は、鈴音を見つめる。
「その声、まだ私に寄越しなさい」
鈴音の喉が、再び熱を持った。
朔夜の手が、鈴音の肩を支える。
そして彼は、怒りを抑えた声で言った。
「百年ぶりだな」
影が笑う。
綾乃の背後で、白無垢の女がゆらりと揺れた。
朔夜の金の瞳が、鋭く細まる。
「琴乃」
その名を聞いた瞬間、社で鳴るはずのない鈴の音が、鈴音の胸の奥で響いた。
ちりん。
嘘を運ぶ里帰りは、ここで終わらなかった。
むしろ、ここから本当の嘘が姿を現そうとしていた。
声は、まだ戻ったとは言えなかった。
喉の奥に小さな道ができたような感覚はある。息を吐くと、ときおり震えのようなものが生まれる。けれど、それを音にしようとすると、すぐに喉が熱を持った。
朔夜は無理をさせなかった。
清水の前で息を整える。
薬草茶を飲む。
夢で見た断片を、紙に書き留める。
そして、痛みが出ればすぐに休む。
それが、この数日の鈴音の役目だった。
常盤家にいた頃なら、休むことは怠けることだった。痛みを訴えることは甘えだった。声の出ない鈴音が苦しんでいても、誰も気づかないふりをした。
けれどこの社では、違った。
千景は口では文句を言いながらも、毎朝喉にやさしい食事を持ってきてくれる。薬草茶が苦すぎると鈴音が顔をしかめれば、「効くんです」と言いながら、次の日には少しだけ蜂蜜を入れてくれた。
朔夜は、鈴音が紙に文字を書き続けて疲れると、何も言わず筆を置かせた。
ここでは、鈴音が無理をすると叱られる。
それがまだ不思議で、少しだけくすぐったかった。
朝の清水のそばで、鈴音はゆっくり息を吐いた。
喉の奥が、かすかに震える。
音にならない音。
あの夜、朔夜の名を呼んだときに生まれた響き。
鈴音は、それをもう一度探そうとしていた。
「焦るな」
そばに立つ朔夜が言った。
鈴音は小さく頷く。
焦っているつもりはなかった。けれど本当は、早く声を取り戻したかった。
朔夜の名を呼べたことが、嬉しかった。
けれど同時に、怖くもなった。
一度声が出てしまったからこそ、もう二度と出なかったらどうしようと思ってしまう。
声を取り戻しかけて、また奪われたら。
そう考えると、喉の奥がきゅっと縮む。
朔夜は、鈴音の表情だけでそれを見抜いたらしい。
「戻ったものは、消えぬ」
鈴音は顔を上げた。
「一度、お前の声は道を開いた。まだ細く、脆い道だが、確かにある」
鈴音は胸に手を当てる。
道。
自分の中に、声へ続く道がある。
そう思うだけで、少しだけ息がしやすくなった。
そのとき、境内の方から千景の声がした。
「朔夜さま!」
切迫した声だった。
朔夜の目が細くなる。
鈴音も振り返った。
千景が石段の方から駆けてくる。狐耳がぴんと立ち、尾が警戒したように膨らんでいた。
「常盤家の使いが来ています」
常盤家。
その名を聞いた瞬間、鈴音の喉がひくりと震えた。
胸の奥が冷える。
朔夜の顔から温度が消えた。
「通すなと言ったはずだ」
「鳥居の外で騒いでます。鈴音さんを帰せって」
鈴音は息を呑んだ。
帰せ。
自分を?
なぜ。
常盤家は、鈴音を鬼神の花嫁として差し出したはずだった。いらないものとして、山へ置いていったはずだった。
それなのに、今さら帰せとは。
朔夜は鈴音を見る。
「ここにいろ」
鈴音は反射的に頷きかけた。
けれど、すぐに止まる。
胸の中に、別の思いが湧いた。
常盤家が自分を呼ぶ理由。
それを知らなければならない気がした。
鈴音は筆と紙を取り出す。
『私も行きます』
朔夜の眉がわずかに動いた。
「行く必要はない」
鈴音は首を横に振り、続けて書いた。
『私を呼ぶ理由を知りたいです』
「嘘だ」
朔夜は短く言った。
鈴音は彼を見上げる。
「使いの言葉に、すでに嘘の匂いがする。お前を案じて来たわけではない」
やはり。
胸が痛んだが、驚きはなかった。
鈴音は紙に書いた。
『それでも、知りたいです』
朔夜は黙った。
千景が不安げに言う。
「鈴音さん、やめた方がいいです。あの家、ろくでもない気配がします」
鈴音は千景を見る。
千景の声には、本気の心配が混じっていた。
それが嬉しくて、同時に胸が苦しくなる。
鈴音はまた書いた。
『私は、何も知らないままここに来ました。母のことも、声のことも、常盤家が何を隠しているのかも。だから、もう知らないふりをしたくありません』
字は少し震えていた。
けれど、書いていることは本心だった。
朔夜はその文字を長く見つめた。
やがて、静かに息を吐く。
「わかった」
鈴音は顔を上げる。
「ただし、俺も行く」
鈴音は目を瞬かせた。
朔夜は当然のように言った。
「お前をひとりであの家へ戻す気はない」
その言葉に、胸の奥が小さく鳴った。
常盤家へ戻る。
そう思うだけで怖い。
けれど、ひとりではない。
朔夜が隣にいる。
鈴音は紙に小さく書いた。
『ありがとうございます』
朔夜は目を伏せた。
「礼を言うことではない。俺の花嫁を、俺が連れていくだけだ」
花嫁。
その言葉に、鈴音は頬が熱くなるのを感じ、慌ててうつむいた。
鳥居の外には、常盤家の使いが二人立っていた。
見覚えのある男たちだった。屋敷で父の用をしていた下男と、八重に仕える女中だ。
彼らは朔夜の姿を見るなり、顔色を変えて膝をついた。
「鬼神さまにおかれましては、ご機嫌麗しく……」
下男の声は震えていた。
朔夜は冷ややかに見下ろす。
「用件を言え」
下男は額に汗を浮かべたまま、懐から文を取り出した。
「常盤家当主より、鈴音さまにお戻りいただきたいとのお達しにございます」
鈴音さま。
その呼び方に、鈴音は違和感を覚えた。
常盤家で、鈴音をそんなふうに呼ぶ者はいなかった。
朔夜は文を受け取らず、言った。
「理由は」
女中が顔を上げる。
「綾乃さまが、突然お倒れになりました。医者にも原因がわからず、奥さまがたいそうお心を痛めておられます。綾乃さまが、どうしても妹君に会いたいと……」
妹君。
鈴音の胸がざわめく。
綾乃が、自分に会いたい?
ありえない。
綾乃は鈴音が鬼に喰われることを楽しんでいた。別れ際にも、喰べられるのは一瞬だと笑っていた。
なぜ今さら。
朔夜の瞳が金色に鋭く光る。
「嘘が混じっている」
下男と女中がびくりと震えた。
鈴音も息を呑む。
朔夜は二人を見る。
「倒れた、は半分本当だな。だが病ではない。会いたがっている、も嘘だ。呼び戻したいのは綾乃ではなく、お前たちの主人だ」
下男の顔から血の気が引く。
「そ、それは……」
朔夜が一歩近づくと、二人は地面に伏せた。
「嘘を重ねるなら、その舌ごと喰う」
鈴音は慌てて朔夜の袖をそっと引いた。
朔夜が振り返る。
鈴音は紙に書いた。
『行きます』
千景が後ろで息を呑んだ。
「鈴音さん」
鈴音は続けて書く。
『綾乃さまが本当に倒れたなら、何が起きたのか知りたいです。嘘なら、なおさら知りたいです』
朔夜はしばらく鈴音を見ていた。
「恐ろしくないのか」
鈴音は紙を見つめた。
恐ろしくないはずがない。
常盤家の門。八重の目。父の沈黙。綾乃の甘い声。
思い出すだけで、喉が痛む。
鈴音は正直に書いた。
『恐ろしいです』
朔夜は何も言わない。
鈴音は、もう一行書き足した。
『でも、知らないまま生きる方が、もっと怖いです』
朔夜の瞳が少しだけ揺れた。
やがて彼は、鈴音の前に立つように向きを変えた。
「ならば行く。ただし、お前が戻りたいと思えば、その時点で連れ帰る」
鈴音は頷いた。
千景が不満そうに耳を伏せる。
「僕も行きます」
「社に残れ」
「嫌です。常盤家の連中なんて信用できません。鈴音さんがまた黙らされそうになったら、誰が騒ぐんですか」
鈴音は千景を見た。
千景はぷいと顔をそらす。
「別に心配してるわけじゃありません。朔夜さまの花嫁に何かあったら、朔夜さまが怒るから面倒なだけです」
鈴音はほんの少し笑った。
声は出なかったが、千景には伝わったらしい。
「笑わないでください」
朔夜は短く息を吐いた。
「好きにしろ」
山を下りる道は、鈴音が花嫁として連れてこられた夜とはまるで違って見えた。
あの夜は、白無垢の裾を引きずりながら、ただ死へ向かっている気がしていた。
今は違う。
水色の着物をまとい、朔夜が隣を歩いている。千景は少し前を警戒しながら進んでいた。
山の木々は青く、風は静かだった。
けれど、村へ近づくほど、空気が重くなっていく。
畑で働いていた村人たちは、朔夜の姿を見るなり腰を抜かした。何人かはその場にひれ伏し、何人かは家の中へ逃げ込んだ。
視線が刺さる。
鬼神だ。
花嫁を連れて戻ってきた。
声の出ない娘が、生きている。
そんな声が、直接聞こえなくても伝わってくる。
鈴音はうつむきそうになった。
そのとき、朔夜が言った。
「前を見ろ」
鈴音ははっとする。
「お前は悪いことをして戻るのではない」
鈴音は胸に手を当てた。
そうだ。
自分は逃げ帰るのではない。
真実を知るために戻るのだ。
鈴音は顔を上げた。
常盤家の門は、以前と変わらず立派だった。
黒い門扉。磨かれた敷石。手入れされた庭木。
けれど鈴音には、その奥に渦巻く黒いものが見えるような気がした。
門前には、父の宗一郎と八重が待っていた。
父は朔夜の姿を見ると、顔をこわばらせながらも深く頭を下げた。
「鬼神さま自らお越しいただけるとは、恐れ多いことでございます」
朔夜は答えない。
八重は鈴音へ歩み寄った。
その顔には、涙を浮かべたような表情が貼りついている。
「鈴音、よく戻ってきてくれましたね。心配していたのよ」
心配。
鈴音の喉が少し痛んだ。
嘘だ。
そう思った瞬間、鈴音の目に、八重の口元から黒い糸のようなものがふっと漏れるのが見えた。
鈴音は息を呑む。
見えた。
嘘が。
朔夜が横目で鈴音を見る。
「見えるようになったか」
鈴音は小さく頷いた。
八重は気づかず、鈴音の手を取ろうとした。
その前に、朔夜が一歩前に出る。
「触るな」
八重の手が空中で止まった。
「お前の嘘は濁っている。鈴音に触れさせる気はない」
八重の顔が一瞬引きつった。
しかしすぐに、悲しげな母の顔を作る。
「まあ、鬼神さま。私はただ、この子を案じて……」
朔夜の金の瞳が冷たく光る。
「その口で、まだ嘘を吐くか」
空気が凍った。
父が慌てて間に入る。
「鬼神さま、どうかお鎮まりを。まずは中へ。綾乃も奥で待っております」
鈴音は父を見た。
父は鈴音と目を合わせなかった。
それだけで、胸の奥が冷える。
屋敷の中は、何も変わっていなかった。
磨かれた廊下。香の匂い。庭に面した明るい座敷。
けれど鈴音にとっては、息苦しい場所だった。
廊下を歩くたび、女中たちがこちらを見てすぐに目を伏せる。以前なら、鈴音を見ても頭を下げなかった者たちが、今は朔夜を恐れて平伏している。
鈴音にではない。
朔夜に、だ。
それでも、鈴音は以前のように小さくなりそうになる自分を抑えた。
奥座敷の前で、八重が足を止める。
「綾乃は中におります。鈴音、妹として声をかけてあげてちょうだい」
声を。
その言葉に、鈴音の喉がひくりと痛んだ。
八重はわざと言ったのだ。
声が出ない鈴音に、声をかけろと。
鈴音の手が震える。
朔夜の気配がわずかに鋭くなった。
鈴音は袖の中で、そっと指を握った。
大丈夫。
ここには朔夜がいる。
千景もいる。
襖が開かれる。
座敷の奥に、綾乃が寝かされていた。
白い肌はいつもより青ざめ、額には冷たい汗がにじんでいる。けれど、その美しさは少しも損なわれていない。むしろ病に伏す姫君のようで、誰かの同情を誘う姿だった。
綾乃は鈴音を見ると、弱々しく微笑んだ。
「鈴音……来てくれたのね」
その声はか細く、妹を思う姉のようだった。
けれど鈴音には、見えた。
綾乃の唇の端から、黒い靄が揺れている。
嘘。
鈴音は胸を押さえた。
綾乃は布団の上で手を伸ばす。
「こちらへ来て。あなたと二人で話がしたいの」
朔夜が即座に言う。
「駄目だ」
綾乃の目が、一瞬だけ冷たく光った。
「鬼神さまは、妹と姉の語らいまでお許しくださらないのですか?」
「嘘で塗れた口に、鈴音を近づける気はない」
八重が青ざめたふりをした。
「なんてことを……綾乃は病なのですよ」
朔夜は八重を見もせずに言う。
「病ではない。何かに憑かれている」
その言葉に、部屋の空気が変わった。
父の顔が強張る。
八重の扇を持つ指が止まる。
綾乃だけが、ゆっくりと笑った。
弱々しい笑みではない。
鈴音がよく知る、あの笑み。
「鈴音」
綾乃が呼んだ。
鈴音の背筋が冷える。
「少しだけでいいの。そばへ来て」
鈴音は動けなかった。
行きたくない。
でも、ここまで来たのだ。
綾乃が何を隠しているのか、知りたい。
鈴音は朔夜を見た。
朔夜は鈴音の瞳を読み、低く言った。
「俺の手が届く範囲までだ」
鈴音は頷き、綾乃の布団から少し離れた場所に座った。
千景が襖のそばで尾を逆立てている。
綾乃は鈴音を見つめた。
その瞳に、幼い頃と同じ嫉妬の色が揺れていた。
「生きていたのね」
声は小さかった。
鈴音は唇を結ぶ。
「鬼に喰われればよかったのに」
綾乃の声は、鈴音にだけ届くほど低かった。
けれど朔夜の目が鋭くなる。
聞こえていたのだろう。
綾乃はなおも微笑む。
「ねえ、鈴音。どうしてあなたばかり、誰かに見つけてもらえるの?」
鈴音は息を止めた。
「お母さまも、昔からあなたばかり見ていた。今度は鬼神さままで、あなたを守るのね」
その言葉には、病の弱さなどなかった。
長年積もった妬みが、刃のように滲んでいる。
鈴音は紙を取り出そうとした。
何を言えばいいのかわからない。
けれど、何かを書かなければ。
そのとき、綾乃が顔を近づける。
甘い香の匂いがした。
綾乃は、あの日と同じ声で囁いた。
「まだ声なんて出ると思っているの?」
瞬間、鈴音の喉に激痛が走った。
黒い糸が、内側から一気に巻きつく。
「っ……!」
息が止まる。
視界が歪む。
鈴音は喉を押さえ、畳に手をついた。
朔夜が動いた。
「鈴音!」
彼の手が鈴音の喉に触れる。
同時に、部屋中に黒い靄が噴き出した。
父の背後から。
八重の口元から。
綾乃の胸元から。
壁の隙間から。
この屋敷そのものが、嘘を吐いているようだった。
朔夜の瞳が金色に燃える。
「なるほど」
低い声が、座敷を震わせた。
「この家は、嘘でできている」
朔夜は鈴音の喉から黒い糸を引き抜いた。
それはこれまでよりも太く、どす黒かった。先端が綾乃の胸元へ伸びている。
綾乃は苦しげに息をつきながらも、笑った。
「あら、見えるのね」
朔夜はその糸を掴み、噛み切った。
鈴音の喉が少し楽になる。
しかし同時に、綾乃の背後の空気が歪んだ。
黒い影が、ゆっくりと立ち上がる。
白無垢をまとった女。
顔は見えない。
けれど、その唇だけが赤く、笑っていた。
鈴音の体が凍りつく。
その女の影が、鈴音と同じ声で笑った。
「見つけた」
朔夜が鈴音を背に庇う。
千景が牙を剥く。
父が腰を抜かし、八重が悲鳴を飲み込む。
綾乃の瞳の奥で、黒いものが蠢いていた。
白無垢の影は、鈴音を見つめる。
「その声、まだ私に寄越しなさい」
鈴音の喉が、再び熱を持った。
朔夜の手が、鈴音の肩を支える。
そして彼は、怒りを抑えた声で言った。
「百年ぶりだな」
影が笑う。
綾乃の背後で、白無垢の女がゆらりと揺れた。
朔夜の金の瞳が、鋭く細まる。
「琴乃」
その名を聞いた瞬間、社で鳴るはずのない鈴の音が、鈴音の胸の奥で響いた。
ちりん。
嘘を運ぶ里帰りは、ここで終わらなかった。
むしろ、ここから本当の嘘が姿を現そうとしていた。



