花嫁の声を食べる鬼神さま

 鈴音が朔夜の名を呼んだ夜から、二日が過ぎた。

 声は、まだ戻ったとは言えなかった。

 喉の奥に小さな道ができたような感覚はある。息を吐くと、ときおり震えのようなものが生まれる。けれど、それを音にしようとすると、すぐに喉が熱を持った。

 朔夜は無理をさせなかった。

 清水の前で息を整える。
 薬草茶を飲む。
 夢で見た断片を、紙に書き留める。
 そして、痛みが出ればすぐに休む。

 それが、この数日の鈴音の役目だった。

 常盤家にいた頃なら、休むことは怠けることだった。痛みを訴えることは甘えだった。声の出ない鈴音が苦しんでいても、誰も気づかないふりをした。

 けれどこの社では、違った。

 千景は口では文句を言いながらも、毎朝喉にやさしい食事を持ってきてくれる。薬草茶が苦すぎると鈴音が顔をしかめれば、「効くんです」と言いながら、次の日には少しだけ蜂蜜を入れてくれた。

 朔夜は、鈴音が紙に文字を書き続けて疲れると、何も言わず筆を置かせた。

 ここでは、鈴音が無理をすると叱られる。

 それがまだ不思議で、少しだけくすぐったかった。

 朝の清水のそばで、鈴音はゆっくり息を吐いた。

 喉の奥が、かすかに震える。

 音にならない音。

 あの夜、朔夜の名を呼んだときに生まれた響き。

 鈴音は、それをもう一度探そうとしていた。

「焦るな」

 そばに立つ朔夜が言った。

 鈴音は小さく頷く。

 焦っているつもりはなかった。けれど本当は、早く声を取り戻したかった。

 朔夜の名を呼べたことが、嬉しかった。

 けれど同時に、怖くもなった。

 一度声が出てしまったからこそ、もう二度と出なかったらどうしようと思ってしまう。

 声を取り戻しかけて、また奪われたら。

 そう考えると、喉の奥がきゅっと縮む。

 朔夜は、鈴音の表情だけでそれを見抜いたらしい。

「戻ったものは、消えぬ」

 鈴音は顔を上げた。

「一度、お前の声は道を開いた。まだ細く、脆い道だが、確かにある」

 鈴音は胸に手を当てる。

 道。

 自分の中に、声へ続く道がある。

 そう思うだけで、少しだけ息がしやすくなった。

 そのとき、境内の方から千景の声がした。

「朔夜さま!」

 切迫した声だった。

 朔夜の目が細くなる。

 鈴音も振り返った。

 千景が石段の方から駆けてくる。狐耳がぴんと立ち、尾が警戒したように膨らんでいた。

「常盤家の使いが来ています」

 常盤家。

 その名を聞いた瞬間、鈴音の喉がひくりと震えた。

 胸の奥が冷える。

 朔夜の顔から温度が消えた。

「通すなと言ったはずだ」

「鳥居の外で騒いでます。鈴音さんを帰せって」

 鈴音は息を呑んだ。

 帰せ。

 自分を?

 なぜ。

 常盤家は、鈴音を鬼神の花嫁として差し出したはずだった。いらないものとして、山へ置いていったはずだった。

 それなのに、今さら帰せとは。

 朔夜は鈴音を見る。

「ここにいろ」

 鈴音は反射的に頷きかけた。

 けれど、すぐに止まる。

 胸の中に、別の思いが湧いた。

 常盤家が自分を呼ぶ理由。

 それを知らなければならない気がした。

 鈴音は筆と紙を取り出す。

『私も行きます』

 朔夜の眉がわずかに動いた。

「行く必要はない」

 鈴音は首を横に振り、続けて書いた。

『私を呼ぶ理由を知りたいです』

「嘘だ」

 朔夜は短く言った。

 鈴音は彼を見上げる。

「使いの言葉に、すでに嘘の匂いがする。お前を案じて来たわけではない」

 やはり。

 胸が痛んだが、驚きはなかった。

 鈴音は紙に書いた。

『それでも、知りたいです』

 朔夜は黙った。

 千景が不安げに言う。

「鈴音さん、やめた方がいいです。あの家、ろくでもない気配がします」

 鈴音は千景を見る。

 千景の声には、本気の心配が混じっていた。

 それが嬉しくて、同時に胸が苦しくなる。

 鈴音はまた書いた。

『私は、何も知らないままここに来ました。母のことも、声のことも、常盤家が何を隠しているのかも。だから、もう知らないふりをしたくありません』

 字は少し震えていた。

 けれど、書いていることは本心だった。

 朔夜はその文字を長く見つめた。

 やがて、静かに息を吐く。

「わかった」

 鈴音は顔を上げる。

「ただし、俺も行く」

 鈴音は目を瞬かせた。

 朔夜は当然のように言った。

「お前をひとりであの家へ戻す気はない」

 その言葉に、胸の奥が小さく鳴った。

 常盤家へ戻る。

 そう思うだけで怖い。

 けれど、ひとりではない。

 朔夜が隣にいる。

 鈴音は紙に小さく書いた。

『ありがとうございます』

 朔夜は目を伏せた。

「礼を言うことではない。俺の花嫁を、俺が連れていくだけだ」

 花嫁。

 その言葉に、鈴音は頬が熱くなるのを感じ、慌ててうつむいた。

 鳥居の外には、常盤家の使いが二人立っていた。

 見覚えのある男たちだった。屋敷で父の用をしていた下男と、八重に仕える女中だ。

 彼らは朔夜の姿を見るなり、顔色を変えて膝をついた。

「鬼神さまにおかれましては、ご機嫌麗しく……」

 下男の声は震えていた。

 朔夜は冷ややかに見下ろす。

「用件を言え」

 下男は額に汗を浮かべたまま、懐から文を取り出した。

「常盤家当主より、鈴音さまにお戻りいただきたいとのお達しにございます」

 鈴音さま。

 その呼び方に、鈴音は違和感を覚えた。

 常盤家で、鈴音をそんなふうに呼ぶ者はいなかった。

 朔夜は文を受け取らず、言った。

「理由は」

 女中が顔を上げる。

「綾乃さまが、突然お倒れになりました。医者にも原因がわからず、奥さまがたいそうお心を痛めておられます。綾乃さまが、どうしても妹君に会いたいと……」

 妹君。

 鈴音の胸がざわめく。

 綾乃が、自分に会いたい?

 ありえない。

 綾乃は鈴音が鬼に喰われることを楽しんでいた。別れ際にも、喰べられるのは一瞬だと笑っていた。

 なぜ今さら。

 朔夜の瞳が金色に鋭く光る。

「嘘が混じっている」

 下男と女中がびくりと震えた。

 鈴音も息を呑む。

 朔夜は二人を見る。

「倒れた、は半分本当だな。だが病ではない。会いたがっている、も嘘だ。呼び戻したいのは綾乃ではなく、お前たちの主人だ」

 下男の顔から血の気が引く。

「そ、それは……」

 朔夜が一歩近づくと、二人は地面に伏せた。

「嘘を重ねるなら、その舌ごと喰う」

 鈴音は慌てて朔夜の袖をそっと引いた。

 朔夜が振り返る。

 鈴音は紙に書いた。

『行きます』

 千景が後ろで息を呑んだ。

「鈴音さん」

 鈴音は続けて書く。

『綾乃さまが本当に倒れたなら、何が起きたのか知りたいです。嘘なら、なおさら知りたいです』

 朔夜はしばらく鈴音を見ていた。

「恐ろしくないのか」

 鈴音は紙を見つめた。

 恐ろしくないはずがない。

 常盤家の門。八重の目。父の沈黙。綾乃の甘い声。

 思い出すだけで、喉が痛む。

 鈴音は正直に書いた。

『恐ろしいです』

 朔夜は何も言わない。

 鈴音は、もう一行書き足した。

『でも、知らないまま生きる方が、もっと怖いです』

 朔夜の瞳が少しだけ揺れた。

 やがて彼は、鈴音の前に立つように向きを変えた。

「ならば行く。ただし、お前が戻りたいと思えば、その時点で連れ帰る」

 鈴音は頷いた。

 千景が不満そうに耳を伏せる。

「僕も行きます」

「社に残れ」

「嫌です。常盤家の連中なんて信用できません。鈴音さんがまた黙らされそうになったら、誰が騒ぐんですか」

 鈴音は千景を見た。

 千景はぷいと顔をそらす。

「別に心配してるわけじゃありません。朔夜さまの花嫁に何かあったら、朔夜さまが怒るから面倒なだけです」

 鈴音はほんの少し笑った。

 声は出なかったが、千景には伝わったらしい。

「笑わないでください」

 朔夜は短く息を吐いた。

「好きにしろ」

 山を下りる道は、鈴音が花嫁として連れてこられた夜とはまるで違って見えた。

 あの夜は、白無垢の裾を引きずりながら、ただ死へ向かっている気がしていた。

 今は違う。

 水色の着物をまとい、朔夜が隣を歩いている。千景は少し前を警戒しながら進んでいた。

 山の木々は青く、風は静かだった。

 けれど、村へ近づくほど、空気が重くなっていく。

 畑で働いていた村人たちは、朔夜の姿を見るなり腰を抜かした。何人かはその場にひれ伏し、何人かは家の中へ逃げ込んだ。

 視線が刺さる。

 鬼神だ。

 花嫁を連れて戻ってきた。

 声の出ない娘が、生きている。

 そんな声が、直接聞こえなくても伝わってくる。

 鈴音はうつむきそうになった。

 そのとき、朔夜が言った。

「前を見ろ」

 鈴音ははっとする。

「お前は悪いことをして戻るのではない」

 鈴音は胸に手を当てた。

 そうだ。

 自分は逃げ帰るのではない。

 真実を知るために戻るのだ。

 鈴音は顔を上げた。

 常盤家の門は、以前と変わらず立派だった。

 黒い門扉。磨かれた敷石。手入れされた庭木。

 けれど鈴音には、その奥に渦巻く黒いものが見えるような気がした。

 門前には、父の宗一郎と八重が待っていた。

 父は朔夜の姿を見ると、顔をこわばらせながらも深く頭を下げた。

「鬼神さま自らお越しいただけるとは、恐れ多いことでございます」

 朔夜は答えない。

 八重は鈴音へ歩み寄った。

 その顔には、涙を浮かべたような表情が貼りついている。

「鈴音、よく戻ってきてくれましたね。心配していたのよ」

 心配。

 鈴音の喉が少し痛んだ。

 嘘だ。

 そう思った瞬間、鈴音の目に、八重の口元から黒い糸のようなものがふっと漏れるのが見えた。

 鈴音は息を呑む。

 見えた。

 嘘が。

 朔夜が横目で鈴音を見る。

「見えるようになったか」

 鈴音は小さく頷いた。

 八重は気づかず、鈴音の手を取ろうとした。

 その前に、朔夜が一歩前に出る。

「触るな」

 八重の手が空中で止まった。

「お前の嘘は濁っている。鈴音に触れさせる気はない」

 八重の顔が一瞬引きつった。

 しかしすぐに、悲しげな母の顔を作る。

「まあ、鬼神さま。私はただ、この子を案じて……」

 朔夜の金の瞳が冷たく光る。

「その口で、まだ嘘を吐くか」

 空気が凍った。

 父が慌てて間に入る。

「鬼神さま、どうかお鎮まりを。まずは中へ。綾乃も奥で待っております」

 鈴音は父を見た。

 父は鈴音と目を合わせなかった。

 それだけで、胸の奥が冷える。

 屋敷の中は、何も変わっていなかった。

 磨かれた廊下。香の匂い。庭に面した明るい座敷。

 けれど鈴音にとっては、息苦しい場所だった。

 廊下を歩くたび、女中たちがこちらを見てすぐに目を伏せる。以前なら、鈴音を見ても頭を下げなかった者たちが、今は朔夜を恐れて平伏している。

 鈴音にではない。

 朔夜に、だ。

 それでも、鈴音は以前のように小さくなりそうになる自分を抑えた。

 奥座敷の前で、八重が足を止める。

「綾乃は中におります。鈴音、妹として声をかけてあげてちょうだい」

 声を。

 その言葉に、鈴音の喉がひくりと痛んだ。

 八重はわざと言ったのだ。

 声が出ない鈴音に、声をかけろと。

 鈴音の手が震える。

 朔夜の気配がわずかに鋭くなった。

 鈴音は袖の中で、そっと指を握った。

 大丈夫。

 ここには朔夜がいる。

 千景もいる。

 襖が開かれる。

 座敷の奥に、綾乃が寝かされていた。

 白い肌はいつもより青ざめ、額には冷たい汗がにじんでいる。けれど、その美しさは少しも損なわれていない。むしろ病に伏す姫君のようで、誰かの同情を誘う姿だった。

 綾乃は鈴音を見ると、弱々しく微笑んだ。

「鈴音……来てくれたのね」

 その声はか細く、妹を思う姉のようだった。

 けれど鈴音には、見えた。

 綾乃の唇の端から、黒い靄が揺れている。

 嘘。

 鈴音は胸を押さえた。

 綾乃は布団の上で手を伸ばす。

「こちらへ来て。あなたと二人で話がしたいの」

 朔夜が即座に言う。

「駄目だ」

 綾乃の目が、一瞬だけ冷たく光った。

「鬼神さまは、妹と姉の語らいまでお許しくださらないのですか?」

「嘘で塗れた口に、鈴音を近づける気はない」

 八重が青ざめたふりをした。

「なんてことを……綾乃は病なのですよ」

 朔夜は八重を見もせずに言う。

「病ではない。何かに憑かれている」

 その言葉に、部屋の空気が変わった。

 父の顔が強張る。

 八重の扇を持つ指が止まる。

 綾乃だけが、ゆっくりと笑った。

 弱々しい笑みではない。

 鈴音がよく知る、あの笑み。

「鈴音」

 綾乃が呼んだ。

 鈴音の背筋が冷える。

「少しだけでいいの。そばへ来て」

 鈴音は動けなかった。

 行きたくない。

 でも、ここまで来たのだ。

 綾乃が何を隠しているのか、知りたい。

 鈴音は朔夜を見た。

 朔夜は鈴音の瞳を読み、低く言った。

「俺の手が届く範囲までだ」

 鈴音は頷き、綾乃の布団から少し離れた場所に座った。

 千景が襖のそばで尾を逆立てている。

 綾乃は鈴音を見つめた。

 その瞳に、幼い頃と同じ嫉妬の色が揺れていた。

「生きていたのね」

 声は小さかった。

 鈴音は唇を結ぶ。

「鬼に喰われればよかったのに」

 綾乃の声は、鈴音にだけ届くほど低かった。

 けれど朔夜の目が鋭くなる。

 聞こえていたのだろう。

 綾乃はなおも微笑む。

「ねえ、鈴音。どうしてあなたばかり、誰かに見つけてもらえるの?」

 鈴音は息を止めた。

「お母さまも、昔からあなたばかり見ていた。今度は鬼神さままで、あなたを守るのね」

 その言葉には、病の弱さなどなかった。

 長年積もった妬みが、刃のように滲んでいる。

 鈴音は紙を取り出そうとした。

 何を言えばいいのかわからない。

 けれど、何かを書かなければ。

 そのとき、綾乃が顔を近づける。

 甘い香の匂いがした。

 綾乃は、あの日と同じ声で囁いた。

「まだ声なんて出ると思っているの?」

 瞬間、鈴音の喉に激痛が走った。

 黒い糸が、内側から一気に巻きつく。

「っ……!」

 息が止まる。

 視界が歪む。

 鈴音は喉を押さえ、畳に手をついた。

 朔夜が動いた。

「鈴音!」

 彼の手が鈴音の喉に触れる。

 同時に、部屋中に黒い靄が噴き出した。

 父の背後から。
 八重の口元から。
 綾乃の胸元から。
 壁の隙間から。

 この屋敷そのものが、嘘を吐いているようだった。

 朔夜の瞳が金色に燃える。

「なるほど」

 低い声が、座敷を震わせた。

「この家は、嘘でできている」

 朔夜は鈴音の喉から黒い糸を引き抜いた。

 それはこれまでよりも太く、どす黒かった。先端が綾乃の胸元へ伸びている。

 綾乃は苦しげに息をつきながらも、笑った。

「あら、見えるのね」

 朔夜はその糸を掴み、噛み切った。

 鈴音の喉が少し楽になる。

 しかし同時に、綾乃の背後の空気が歪んだ。

 黒い影が、ゆっくりと立ち上がる。

 白無垢をまとった女。

 顔は見えない。

 けれど、その唇だけが赤く、笑っていた。

 鈴音の体が凍りつく。

 その女の影が、鈴音と同じ声で笑った。

「見つけた」

 朔夜が鈴音を背に庇う。

 千景が牙を剥く。

 父が腰を抜かし、八重が悲鳴を飲み込む。

 綾乃の瞳の奥で、黒いものが蠢いていた。

 白無垢の影は、鈴音を見つめる。

「その声、まだ私に寄越しなさい」

 鈴音の喉が、再び熱を持った。

 朔夜の手が、鈴音の肩を支える。

 そして彼は、怒りを抑えた声で言った。

「百年ぶりだな」

 影が笑う。

 綾乃の背後で、白無垢の女がゆらりと揺れた。

 朔夜の金の瞳が、鋭く細まる。

「琴乃」

 その名を聞いた瞬間、社で鳴るはずのない鈴の音が、鈴音の胸の奥で響いた。

 ちりん。

 嘘を運ぶ里帰りは、ここで終わらなかった。

 むしろ、ここから本当の嘘が姿を現そうとしていた。