朝の光で目を覚ましたとき、鈴音は一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
見慣れた常盤家の納戸ではない。湿った板の間でも、薄い布団でもない。障子越しに差し込む光はやわらかく、畳には清められた草のような香りが残っている。
鈴音は布団の中で、そっと喉に手を当てた。
痛みは、まだあった。
けれど、昨日までの痛みとは違う。何かを言おうとするたび喉の奥を焼かれるような、あの鋭い痛みではない。今は、長く閉ざされていた扉が少しだけ開いたあとの、熱を持った痛みに近かった。
鈴音は唇を開いた。
息が漏れる。
声にはならない。
それでも、空気が喉を通った。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が震えた。
声は戻る。
朔夜は、そう言った。
鬼神は人を喰わない。人の嘘を喰う。鈴音の喉に絡んだ黒い糸も、夢にまとわりついていた嘘の欠片も、昨夜、朔夜は喰らってくれた。
そのせいで、鈴音はまだ生きている。
鬼に捧げられた花嫁なのに、喰われずに朝を迎えている。
不思議だった。
怖いはずなのに、常盤家にいたときよりも、少しだけ息がしやすい。
襖の向こうで、軽い足音が止まった。
「起きてます?」
千景の声だった。
鈴音は慌てて起き上がり、枕元に置かれた紙と筆を探す。返事をしようとしても声が出ないことを、まだ体が覚えきれていない。
襖が細く開き、狐耳の少年が顔をのぞかせた。
「入りますよ。返事がないのはわかってますから」
千景は盆を持って部屋へ入ってきた。
盆には白湯と、小さなおにぎり、湯気の立つ味噌汁が載っている。味噌汁の具は細かく刻まれていて、喉に負担がかからないようにされているのがわかった。
「朔夜さまが、喉にやさしいものにしろって。朝から細かいんですよ。熱すぎるな、固くするな、塩を強くするなって」
千景は不満そうに言ったが、盆を置く手つきは丁寧だった。
鈴音は筆を取った。
『ありがとうございます』
千景はそれを見て、少し目をそらした。
「僕に礼を言われても。命じたのは朔夜さまです」
鈴音はもう一度書く。
『でも、作ってくださったのは千景さんです』
千景の狐耳がぴくりと動いた。
「……変な人ですね」
鈴音は小さく首を傾げた。
礼を言うことが、変なのだろうか。
常盤家では、鈴音が何かをしても礼を言われることはなかった。水を運んでも、掃除をしても、綾乃の髪を梳いても、当然のように受け取られた。
だからだろうか。
自分のために用意された食事を見るだけで、鈴音は胸が詰まりそうになる。
千景は腕を組み、鈴音をじっと見た。
「言っておきますけど、僕はまだあなたを信用してませんからね」
鈴音は箸を持つ手を止めた。
「人間はすぐ嘘をつきます。朔夜さまに助けてって泣きつくくせに、助けてもらったら鬼だ、化け物だって逃げる。花嫁だってそうです。みんな朔夜さまを怖がった。誰も、あの方のことを見ようとしなかった」
その声には、怒りがあった。
けれど怒りの下にあるのは、悲しみだった。
千景は朔夜を大切に思っている。だから、人間である鈴音を警戒しているのだ。
鈴音は紙に書いた。
『私も、まだ朔夜さまのことを知りません』
千景が眉を寄せる。
鈴音は続けた。
『でも、知りたいです。鬼神さまではなく、朔夜さまのことを』
千景はしばらく黙っていた。
やがて、小さく鼻を鳴らす。
「……逃げ出すって書かないだけ、ましです」
そう言って、盆を鈴音の前へ押しやった。
「冷めますよ」
鈴音は頷き、朝餉を口にした。
おにぎりはやわらかく握られていた。味噌汁は熱すぎず、喉を通ると体の中から温かくなった。
食事を終えると、千景は盆を片づけながら言った。
「食べ終わったら、社の裏へ。朔夜さまが待ってます」
鈴音は喉に手を当てた。
声を取り戻すための、何かが始まる。
そう思うと、怖さと期待が同時に胸を満たした。
社の裏手には、小さな清水が湧いていた。
岩の間から澄んだ水が流れ、小さな池を作っている。水面には朝の光が反射し、白い小花が揺れていた。
朔夜はそのそばに立っていた。
黒衣をまとった姿は、朝の光の中でも人ならざる気配を放っている。けれど、昨夜見たときのような恐怖だけではなかった。静かな山そのもののように、そこにあるだけで空気を鎮める力がある。
鈴音が近づくと、朔夜は振り返った。
「眠れたか」
鈴音は少し考え、頷いた。
怖い夢は見た。けれど、最後には眠れた。
それは嘘ではない。
朔夜は鈴音の喉元へ視線を向ける。
「痛みは」
鈴音は紙に書いた。
『少しあります。でも、昨日より息がしやすいです』
「なら、今日は声の道を探る」
声の道。
鈴音は首を傾げた。
朔夜は清水の前に膝をついた。
「声を出そうとするな」
鈴音は驚いて朔夜を見る。
声を取り戻すために来たのに、声を出してはいけないのか。
「今のお前が無理に声を出そうとすれば、呪いが反応する。まずは息を通す。次に、音にならぬ音を探る」
朔夜はゆっくり息を吸い、吐いてみせた。
「同じようにしろ」
鈴音は従った。
息を吸う。
胸が少し痛む。
息を吐く。
喉の奥がざらりと引っかかる。
けれど、空気は通る。
鈴音はもう一度、息を吸った。
吐く。
また吸う。
何度も繰り返すうち、喉の奥で小さな震えが生まれた。
音ではない。
けれど、ただの息でもない。
鈴音は驚いて喉を押さえた。
朔夜の金の瞳が、わずかに細まる。
「今の感覚を覚えておけ」
鈴音は頷いた。
もう一度、同じように息を通そうとする。
しかし次の瞬間、喉がきゅっと締まった。
「っ……」
声にならない痛みが漏れる。
黒い糸が喉の内側で暴れたようだった。
朔夜がすぐに言う。
「そこまでだ」
鈴音は首を横に振りかけた。
もう少し。
もう少しで何かが出そうだった。
けれど朔夜の声は厳しかった。
「焦れば、呪いに喉を裂かれる」
鈴音は動きを止めた。
朔夜は少しだけ声を和らげる。
「お前は長く黙らされていた。すぐに戻らぬのは当然だ」
黙らされていた。
その言葉を聞くたび、鈴音の胸には小さな火が灯る。
自分は黙っていたのではない。
誰かに、黙らされていた。
鈴音は紙を手に取った。
『私は、誰に声を奪われたのですか』
そこまで書いた瞬間、喉が激しく痛んだ。
視界が白く染まる。
息ができない。
鈴音はその場にうずくまった。
「鈴音」
朔夜が膝をつく。
「その問いはまだ早い。呪いが強く反応している」
朔夜の指先が、鈴音の喉の手前で止まる。
「触れるぞ」
鈴音は必死に頷いた。
朔夜の指が喉に触れる。
冷たい力が流れ込み、黒い糸が少しずつほどけていく。やがて朔夜は、鈴音の喉元から細い黒糸を一本引き出した。
糸は生き物のように蠢いていた。
「問いに蓋をしている糸だ」
朔夜はそれを噛み切った。
ぱきん、と小さな音がする。
痛みがわずかに引いた瞬間、鈴音の頭の奥で何かが弾けた。
暗い廊下。
雨の音。
母の部屋から聞こえる声。
「このままでは、あの子まで利用されます」
母の声だった。
鈴音は息を呑む。
次に、男の低い声。
「余計なことを言うな」
また母の声。
「鈴音の声は、誰かを裁くためのものではありません。誰かを救うためのものです」
そこで記憶は途切れた。
鈴音は震える手で紙に書いた。
『母の声が聞こえました』
朔夜は静かに頷いた。
「封じられた記憶が戻り始めている」
母の声。
鈴音は胸を押さえた。
懐かしい。会いたい。もっと聞きたい。
けれど同時に、怖かった。
母の声の奥には、何か恐ろしいものが隠れている。そこへ近づけば、二度と戻れない気がした。
「今日はここまでだ」
朔夜が言った。
鈴音は顔を上げる。
まだ、もう少しできる。
そう書こうとした鈴音の手を、朔夜の言葉が止めた。
「できるかどうかではない。壊さずに進めるかどうかだ」
鈴音は筆を握りしめた。
「お前は、無理をすることを当然だと思わされてきたのだろう」
その言葉に、胸が詰まる。
常盤家では、痛くても、疲れても、喉が焼けるように痛んでも、鈴音の仕事は減らなかった。
無理をしていることに気づかれることすら、なかった。
「この社では違う。苦しければ止まれ。痛めば休め。お前の声を取り戻すために、お前自身を壊しては意味がない」
鈴音はうつむき、紙に書いた。
『休むのは、苦手です』
朔夜はその文字を見て、少しだけ眉を下げた。
「なら、覚えろ」
短い言葉だった。
けれど、命令ではなく、許しのように聞こえた。
その日の午後、鈴音は縁側で薬草茶を飲んだ。
千景が持ってきた茶は苦かった。あまりに苦くて、鈴音は思わず眉を寄せた。
それを見て、千景が少し笑う。
「苦いでしょう。でも効きます。喉にいいんです」
鈴音は紙に書いた。
『朔夜さまも飲むのですか』
千景の顔から、笑みが消えた。
「朔夜さまは、喉じゃなくて腹の中です」
鈴音は首を傾げる。
「嘘を喰うと、穢れが溜まるんです。あの方は平気な顔をしますけど、平気なわけじゃありません」
鈴音は手元の湯呑を見つめた。
昨夜も今朝も、朔夜は鈴音の黒い糸を喰った。
それはつまり、朔夜の中に穢れを溜めたということなのか。
『私のせいで、朔夜さまが苦しくなるのですか』
鈴音がそう書くと、千景は慌てたように首を横に振った。
「そういう意味じゃ……でも、苦しくないとは言えません。村の人間は知らないんです。どれだけ朔夜さまが、自分たちの嘘を呑み込んできたか」
千景は膝を抱えた。
「自分たちで汚したものを押しつけて、それであの方を鬼だ、化け物だって怖がるんです」
鈴音は朔夜の背中を思い出した。
静かで、強くて、どこか寂しそうな背中。
鈴音もまた、常盤家で「災いの娘」という嘘を着せられてきた。
朔夜は「人を喰う鬼」という嘘を着せられてきた。
形は違っても、似ているのかもしれない。
鈴音は紙に書いた。
『朔夜さまは、怖い方ではありません』
千景は目を丸くした。
「……あなた、本当に変ですね」
また変と言われた。
鈴音が少し困った顔をすると、千景はそっぽを向く。
「でも、少しだけ見る目はあるかもしれません」
狐の尾が、ほんの少し揺れていた。
その夜、鈴音は枕元に小さな鈴を置いて眠った。
朔夜がくれたものだ。
声が出ないなら、これを鳴らせ。そう言って渡してくれた。
鈴を鳴らせば、朔夜に届く。
誰かを呼んでもいい。
助けを求めてもいい。
それだけで、鈴音には信じられないことだった。
眠りは浅かった。
やがて夢の中で、鈴音は幼い姿に戻っていた。
常盤家の廊下。
雨の音。
母の部屋へ走る自分。
襖が少し開いている。
中には、倒れている母がいた。
白い寝間着の袖が、床に広がっている。
幼い鈴音は息を止めた。
母の唇が動く。
――鈴音、逃げて。
その背後で、八重の声がした。
「この子が喋れば、すべて終わる」
綾乃の震える声も聞こえた。
「でも、お母さま、この子、本当に見て……」
「だから、声を封じるの」
冷たい指が、幼い鈴音の喉に触れた。
黒い糸が口の中へ入り込む。
苦しい。
息ができない。
言わなければ。
誰かに言わなければ。
お母さまは――。
そこで鈴音は目を覚ました。
喉が焼けるように痛い。
布団の中で体を丸め、枕元の鈴に手を伸ばす。
けれど、指が震えて届かない。
黒い糸が喉を締める。
苦しい。
助けて。
そう思った瞬間、鈴音の胸の奥で、朝の清水の前に感じた小さな震えが蘇った。
音にならない音。
喉の奥に残っていた、本来の響き。
鈴音は涙を流しながら息を吸った。
痛い。
けれど、言いたい。
初めて、自分の意思で誰かを呼びたい。
唇が震える。
「……さ」
かすれた音が漏れた。
鈴音は目を見開いた。
今、音が出た。
でも痛い。
喉が焼ける。
それでも、もう一度。
鈴音は布団を握りしめ、声を絞り出した。
「……さく、や」
襖が勢いよく開いた。
朔夜が飛び込んでくる。
いつもの静かな鬼神とは違い、黒衣の裾が乱れ、金の瞳には明らかな焦りが浮かんでいた。
「鈴音!」
朔夜は鈴音のそばへ膝をつき、喉に手を当てた。
冷たい力が流れ込む。
黒い糸がほどけ、息が戻る。
鈴音は涙で濡れた顔を上げた。
呼べた。
声が出た。
朔夜の名を呼べた。
それを伝えたいのに、もう喉は限界だった。
朔夜は鈴音の喉元から黒い糸を一本引き抜き、噛み砕いた。
痛みがすっと引く。
鈴音の体から力が抜け、朔夜の袖を掴んだまま崩れそうになる。
朔夜はその手を振りほどかなかった。
「無理をしたな」
低い声だった。
叱っているようで、どこか震えているようにも聞こえた。
鈴音は首を横に振る。
無理でもよかった。
呼びたかった。
自分の声で、朔夜を呼びたかった。
唇だけが、もう一度その名を形にする。
音は出なかった。
けれど朔夜は、確かに頷いた。
「聞こえた」
鈴音の目から、涙がこぼれた。
「よく戻ってきた」
その言葉に、鈴音は泣いた。
声はまだ戻っていない。
ほんの一欠片だけだ。
けれど、その一欠片は、たしかに鈴音自身のものだった。
廊下の向こうから、千景の足音が駆けてくる。
「朔夜さま!? 今の声、まさか……」
部屋の入口で立ち止まった千景は、鈴音と朔夜を見て目を丸くした。
朔夜は振り返らずに言った。
「少しだけ戻った」
「本当に……」
千景の声には、驚きと安堵が混じっていた。
鈴音は朔夜の袖を離そうとした。
掴んだままでは迷惑だと思った。
けれど朔夜は、鈴音の手をそっと包んだ。
「離さなくていい」
その手は冷たい。
けれど、鈴音にはその冷たさが安心だった。
朔夜は鈴音を布団へ横たえ、枕元の鈴を手に取る。
「次は、これを鳴らせ」
鈴音は涙の残る目で、申し訳なさそうに朔夜を見た。
朔夜は静かに続ける。
「だが、呼んだことを責めているのではない。お前が呼んだから、俺は来られた」
呼んだから、来てくれた。
自分の声が、誰かに届いた。
それは鈴音にとって、奇跡のような出来事だった。
朔夜は鈴音の額に手をかざした。
淡い光が部屋に満ちる。
「今夜はもう眠れ。夢は俺が遠ざける」
鈴音は朔夜を見つめた。
ありがとう、と言いたい。
けれど声はもう出ない。
紙を探そうとすると、朔夜が先に言った。
「礼はいらぬ。呼ばれたから来た」
鈴音は目を閉じた。
胸の奥が温かい。
最初に戻ってきた声で、自分は朔夜の名を呼んだ。
そのことが、恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。
眠りに落ちる直前、鈴音は唇だけを動かした。
おやすみなさい。
朔夜は小さく頷く。
「眠れ、鈴音」
その声を聞きながら、鈴音は深い眠りに落ちた。
翌朝。
山の社から離れた常盤家の奥座敷で、綾乃は鏡の前に座っていた。
艶やかな黒髪に櫛を通す手が、ふと止まる。
部屋の隅に、黒い影が滲んでいた。
それは人でも獣でもない。
白無垢をまとった、顔の見えない女の影。
綾乃は鏡越しにそれを見る。
「……戻ったの?」
影が揺れる。
声はない。
けれど綾乃には、その言葉が聞こえていた。
――鈴音の声が、戻り始めた。
綾乃の指に力がこもる。
櫛が、ぱきりと折れた。
「誰の名を呼んだの」
黒い影が、鈴音とよく似た声で囁く。
――鬼神の名を。
綾乃の美しい顔から、表情が消えた。
「……そう」
その声は、人前で見せる優しい姉のものではなかった。
冷たく、暗く、嫉妬に濡れた声。
「鈴音に声なんて、似合わないのに」
黒い影が、綾乃の背中へ溶け込んでいく。
鏡の中の綾乃の瞳に、黒い光が宿った。
山の社では、朝の鈴が鳴っていた。
ちりん。
鈴音はまだ眠っている。
朔夜はその枕元で、静かに彼女の寝息を聞いていた。
昨夜の声が、まだ耳に残っている。
かすれて、弱く、今にも消えそうな声。
けれど確かに、鈴音自身の声だった。
朔夜は目を伏せ、低く呟いた。
「今度こそ、聞き逃さぬ」
朝の光が障子を白く染める。
鈴音の声は、まだほんの一欠片しか戻っていない。
けれどその一欠片は、確かに夜を越えた。
そして、常盤家に潜む黒いものもまた、その声を聞いていた。
見慣れた常盤家の納戸ではない。湿った板の間でも、薄い布団でもない。障子越しに差し込む光はやわらかく、畳には清められた草のような香りが残っている。
鈴音は布団の中で、そっと喉に手を当てた。
痛みは、まだあった。
けれど、昨日までの痛みとは違う。何かを言おうとするたび喉の奥を焼かれるような、あの鋭い痛みではない。今は、長く閉ざされていた扉が少しだけ開いたあとの、熱を持った痛みに近かった。
鈴音は唇を開いた。
息が漏れる。
声にはならない。
それでも、空気が喉を通った。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が震えた。
声は戻る。
朔夜は、そう言った。
鬼神は人を喰わない。人の嘘を喰う。鈴音の喉に絡んだ黒い糸も、夢にまとわりついていた嘘の欠片も、昨夜、朔夜は喰らってくれた。
そのせいで、鈴音はまだ生きている。
鬼に捧げられた花嫁なのに、喰われずに朝を迎えている。
不思議だった。
怖いはずなのに、常盤家にいたときよりも、少しだけ息がしやすい。
襖の向こうで、軽い足音が止まった。
「起きてます?」
千景の声だった。
鈴音は慌てて起き上がり、枕元に置かれた紙と筆を探す。返事をしようとしても声が出ないことを、まだ体が覚えきれていない。
襖が細く開き、狐耳の少年が顔をのぞかせた。
「入りますよ。返事がないのはわかってますから」
千景は盆を持って部屋へ入ってきた。
盆には白湯と、小さなおにぎり、湯気の立つ味噌汁が載っている。味噌汁の具は細かく刻まれていて、喉に負担がかからないようにされているのがわかった。
「朔夜さまが、喉にやさしいものにしろって。朝から細かいんですよ。熱すぎるな、固くするな、塩を強くするなって」
千景は不満そうに言ったが、盆を置く手つきは丁寧だった。
鈴音は筆を取った。
『ありがとうございます』
千景はそれを見て、少し目をそらした。
「僕に礼を言われても。命じたのは朔夜さまです」
鈴音はもう一度書く。
『でも、作ってくださったのは千景さんです』
千景の狐耳がぴくりと動いた。
「……変な人ですね」
鈴音は小さく首を傾げた。
礼を言うことが、変なのだろうか。
常盤家では、鈴音が何かをしても礼を言われることはなかった。水を運んでも、掃除をしても、綾乃の髪を梳いても、当然のように受け取られた。
だからだろうか。
自分のために用意された食事を見るだけで、鈴音は胸が詰まりそうになる。
千景は腕を組み、鈴音をじっと見た。
「言っておきますけど、僕はまだあなたを信用してませんからね」
鈴音は箸を持つ手を止めた。
「人間はすぐ嘘をつきます。朔夜さまに助けてって泣きつくくせに、助けてもらったら鬼だ、化け物だって逃げる。花嫁だってそうです。みんな朔夜さまを怖がった。誰も、あの方のことを見ようとしなかった」
その声には、怒りがあった。
けれど怒りの下にあるのは、悲しみだった。
千景は朔夜を大切に思っている。だから、人間である鈴音を警戒しているのだ。
鈴音は紙に書いた。
『私も、まだ朔夜さまのことを知りません』
千景が眉を寄せる。
鈴音は続けた。
『でも、知りたいです。鬼神さまではなく、朔夜さまのことを』
千景はしばらく黙っていた。
やがて、小さく鼻を鳴らす。
「……逃げ出すって書かないだけ、ましです」
そう言って、盆を鈴音の前へ押しやった。
「冷めますよ」
鈴音は頷き、朝餉を口にした。
おにぎりはやわらかく握られていた。味噌汁は熱すぎず、喉を通ると体の中から温かくなった。
食事を終えると、千景は盆を片づけながら言った。
「食べ終わったら、社の裏へ。朔夜さまが待ってます」
鈴音は喉に手を当てた。
声を取り戻すための、何かが始まる。
そう思うと、怖さと期待が同時に胸を満たした。
社の裏手には、小さな清水が湧いていた。
岩の間から澄んだ水が流れ、小さな池を作っている。水面には朝の光が反射し、白い小花が揺れていた。
朔夜はそのそばに立っていた。
黒衣をまとった姿は、朝の光の中でも人ならざる気配を放っている。けれど、昨夜見たときのような恐怖だけではなかった。静かな山そのもののように、そこにあるだけで空気を鎮める力がある。
鈴音が近づくと、朔夜は振り返った。
「眠れたか」
鈴音は少し考え、頷いた。
怖い夢は見た。けれど、最後には眠れた。
それは嘘ではない。
朔夜は鈴音の喉元へ視線を向ける。
「痛みは」
鈴音は紙に書いた。
『少しあります。でも、昨日より息がしやすいです』
「なら、今日は声の道を探る」
声の道。
鈴音は首を傾げた。
朔夜は清水の前に膝をついた。
「声を出そうとするな」
鈴音は驚いて朔夜を見る。
声を取り戻すために来たのに、声を出してはいけないのか。
「今のお前が無理に声を出そうとすれば、呪いが反応する。まずは息を通す。次に、音にならぬ音を探る」
朔夜はゆっくり息を吸い、吐いてみせた。
「同じようにしろ」
鈴音は従った。
息を吸う。
胸が少し痛む。
息を吐く。
喉の奥がざらりと引っかかる。
けれど、空気は通る。
鈴音はもう一度、息を吸った。
吐く。
また吸う。
何度も繰り返すうち、喉の奥で小さな震えが生まれた。
音ではない。
けれど、ただの息でもない。
鈴音は驚いて喉を押さえた。
朔夜の金の瞳が、わずかに細まる。
「今の感覚を覚えておけ」
鈴音は頷いた。
もう一度、同じように息を通そうとする。
しかし次の瞬間、喉がきゅっと締まった。
「っ……」
声にならない痛みが漏れる。
黒い糸が喉の内側で暴れたようだった。
朔夜がすぐに言う。
「そこまでだ」
鈴音は首を横に振りかけた。
もう少し。
もう少しで何かが出そうだった。
けれど朔夜の声は厳しかった。
「焦れば、呪いに喉を裂かれる」
鈴音は動きを止めた。
朔夜は少しだけ声を和らげる。
「お前は長く黙らされていた。すぐに戻らぬのは当然だ」
黙らされていた。
その言葉を聞くたび、鈴音の胸には小さな火が灯る。
自分は黙っていたのではない。
誰かに、黙らされていた。
鈴音は紙を手に取った。
『私は、誰に声を奪われたのですか』
そこまで書いた瞬間、喉が激しく痛んだ。
視界が白く染まる。
息ができない。
鈴音はその場にうずくまった。
「鈴音」
朔夜が膝をつく。
「その問いはまだ早い。呪いが強く反応している」
朔夜の指先が、鈴音の喉の手前で止まる。
「触れるぞ」
鈴音は必死に頷いた。
朔夜の指が喉に触れる。
冷たい力が流れ込み、黒い糸が少しずつほどけていく。やがて朔夜は、鈴音の喉元から細い黒糸を一本引き出した。
糸は生き物のように蠢いていた。
「問いに蓋をしている糸だ」
朔夜はそれを噛み切った。
ぱきん、と小さな音がする。
痛みがわずかに引いた瞬間、鈴音の頭の奥で何かが弾けた。
暗い廊下。
雨の音。
母の部屋から聞こえる声。
「このままでは、あの子まで利用されます」
母の声だった。
鈴音は息を呑む。
次に、男の低い声。
「余計なことを言うな」
また母の声。
「鈴音の声は、誰かを裁くためのものではありません。誰かを救うためのものです」
そこで記憶は途切れた。
鈴音は震える手で紙に書いた。
『母の声が聞こえました』
朔夜は静かに頷いた。
「封じられた記憶が戻り始めている」
母の声。
鈴音は胸を押さえた。
懐かしい。会いたい。もっと聞きたい。
けれど同時に、怖かった。
母の声の奥には、何か恐ろしいものが隠れている。そこへ近づけば、二度と戻れない気がした。
「今日はここまでだ」
朔夜が言った。
鈴音は顔を上げる。
まだ、もう少しできる。
そう書こうとした鈴音の手を、朔夜の言葉が止めた。
「できるかどうかではない。壊さずに進めるかどうかだ」
鈴音は筆を握りしめた。
「お前は、無理をすることを当然だと思わされてきたのだろう」
その言葉に、胸が詰まる。
常盤家では、痛くても、疲れても、喉が焼けるように痛んでも、鈴音の仕事は減らなかった。
無理をしていることに気づかれることすら、なかった。
「この社では違う。苦しければ止まれ。痛めば休め。お前の声を取り戻すために、お前自身を壊しては意味がない」
鈴音はうつむき、紙に書いた。
『休むのは、苦手です』
朔夜はその文字を見て、少しだけ眉を下げた。
「なら、覚えろ」
短い言葉だった。
けれど、命令ではなく、許しのように聞こえた。
その日の午後、鈴音は縁側で薬草茶を飲んだ。
千景が持ってきた茶は苦かった。あまりに苦くて、鈴音は思わず眉を寄せた。
それを見て、千景が少し笑う。
「苦いでしょう。でも効きます。喉にいいんです」
鈴音は紙に書いた。
『朔夜さまも飲むのですか』
千景の顔から、笑みが消えた。
「朔夜さまは、喉じゃなくて腹の中です」
鈴音は首を傾げる。
「嘘を喰うと、穢れが溜まるんです。あの方は平気な顔をしますけど、平気なわけじゃありません」
鈴音は手元の湯呑を見つめた。
昨夜も今朝も、朔夜は鈴音の黒い糸を喰った。
それはつまり、朔夜の中に穢れを溜めたということなのか。
『私のせいで、朔夜さまが苦しくなるのですか』
鈴音がそう書くと、千景は慌てたように首を横に振った。
「そういう意味じゃ……でも、苦しくないとは言えません。村の人間は知らないんです。どれだけ朔夜さまが、自分たちの嘘を呑み込んできたか」
千景は膝を抱えた。
「自分たちで汚したものを押しつけて、それであの方を鬼だ、化け物だって怖がるんです」
鈴音は朔夜の背中を思い出した。
静かで、強くて、どこか寂しそうな背中。
鈴音もまた、常盤家で「災いの娘」という嘘を着せられてきた。
朔夜は「人を喰う鬼」という嘘を着せられてきた。
形は違っても、似ているのかもしれない。
鈴音は紙に書いた。
『朔夜さまは、怖い方ではありません』
千景は目を丸くした。
「……あなた、本当に変ですね」
また変と言われた。
鈴音が少し困った顔をすると、千景はそっぽを向く。
「でも、少しだけ見る目はあるかもしれません」
狐の尾が、ほんの少し揺れていた。
その夜、鈴音は枕元に小さな鈴を置いて眠った。
朔夜がくれたものだ。
声が出ないなら、これを鳴らせ。そう言って渡してくれた。
鈴を鳴らせば、朔夜に届く。
誰かを呼んでもいい。
助けを求めてもいい。
それだけで、鈴音には信じられないことだった。
眠りは浅かった。
やがて夢の中で、鈴音は幼い姿に戻っていた。
常盤家の廊下。
雨の音。
母の部屋へ走る自分。
襖が少し開いている。
中には、倒れている母がいた。
白い寝間着の袖が、床に広がっている。
幼い鈴音は息を止めた。
母の唇が動く。
――鈴音、逃げて。
その背後で、八重の声がした。
「この子が喋れば、すべて終わる」
綾乃の震える声も聞こえた。
「でも、お母さま、この子、本当に見て……」
「だから、声を封じるの」
冷たい指が、幼い鈴音の喉に触れた。
黒い糸が口の中へ入り込む。
苦しい。
息ができない。
言わなければ。
誰かに言わなければ。
お母さまは――。
そこで鈴音は目を覚ました。
喉が焼けるように痛い。
布団の中で体を丸め、枕元の鈴に手を伸ばす。
けれど、指が震えて届かない。
黒い糸が喉を締める。
苦しい。
助けて。
そう思った瞬間、鈴音の胸の奥で、朝の清水の前に感じた小さな震えが蘇った。
音にならない音。
喉の奥に残っていた、本来の響き。
鈴音は涙を流しながら息を吸った。
痛い。
けれど、言いたい。
初めて、自分の意思で誰かを呼びたい。
唇が震える。
「……さ」
かすれた音が漏れた。
鈴音は目を見開いた。
今、音が出た。
でも痛い。
喉が焼ける。
それでも、もう一度。
鈴音は布団を握りしめ、声を絞り出した。
「……さく、や」
襖が勢いよく開いた。
朔夜が飛び込んでくる。
いつもの静かな鬼神とは違い、黒衣の裾が乱れ、金の瞳には明らかな焦りが浮かんでいた。
「鈴音!」
朔夜は鈴音のそばへ膝をつき、喉に手を当てた。
冷たい力が流れ込む。
黒い糸がほどけ、息が戻る。
鈴音は涙で濡れた顔を上げた。
呼べた。
声が出た。
朔夜の名を呼べた。
それを伝えたいのに、もう喉は限界だった。
朔夜は鈴音の喉元から黒い糸を一本引き抜き、噛み砕いた。
痛みがすっと引く。
鈴音の体から力が抜け、朔夜の袖を掴んだまま崩れそうになる。
朔夜はその手を振りほどかなかった。
「無理をしたな」
低い声だった。
叱っているようで、どこか震えているようにも聞こえた。
鈴音は首を横に振る。
無理でもよかった。
呼びたかった。
自分の声で、朔夜を呼びたかった。
唇だけが、もう一度その名を形にする。
音は出なかった。
けれど朔夜は、確かに頷いた。
「聞こえた」
鈴音の目から、涙がこぼれた。
「よく戻ってきた」
その言葉に、鈴音は泣いた。
声はまだ戻っていない。
ほんの一欠片だけだ。
けれど、その一欠片は、たしかに鈴音自身のものだった。
廊下の向こうから、千景の足音が駆けてくる。
「朔夜さま!? 今の声、まさか……」
部屋の入口で立ち止まった千景は、鈴音と朔夜を見て目を丸くした。
朔夜は振り返らずに言った。
「少しだけ戻った」
「本当に……」
千景の声には、驚きと安堵が混じっていた。
鈴音は朔夜の袖を離そうとした。
掴んだままでは迷惑だと思った。
けれど朔夜は、鈴音の手をそっと包んだ。
「離さなくていい」
その手は冷たい。
けれど、鈴音にはその冷たさが安心だった。
朔夜は鈴音を布団へ横たえ、枕元の鈴を手に取る。
「次は、これを鳴らせ」
鈴音は涙の残る目で、申し訳なさそうに朔夜を見た。
朔夜は静かに続ける。
「だが、呼んだことを責めているのではない。お前が呼んだから、俺は来られた」
呼んだから、来てくれた。
自分の声が、誰かに届いた。
それは鈴音にとって、奇跡のような出来事だった。
朔夜は鈴音の額に手をかざした。
淡い光が部屋に満ちる。
「今夜はもう眠れ。夢は俺が遠ざける」
鈴音は朔夜を見つめた。
ありがとう、と言いたい。
けれど声はもう出ない。
紙を探そうとすると、朔夜が先に言った。
「礼はいらぬ。呼ばれたから来た」
鈴音は目を閉じた。
胸の奥が温かい。
最初に戻ってきた声で、自分は朔夜の名を呼んだ。
そのことが、恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。
眠りに落ちる直前、鈴音は唇だけを動かした。
おやすみなさい。
朔夜は小さく頷く。
「眠れ、鈴音」
その声を聞きながら、鈴音は深い眠りに落ちた。
翌朝。
山の社から離れた常盤家の奥座敷で、綾乃は鏡の前に座っていた。
艶やかな黒髪に櫛を通す手が、ふと止まる。
部屋の隅に、黒い影が滲んでいた。
それは人でも獣でもない。
白無垢をまとった、顔の見えない女の影。
綾乃は鏡越しにそれを見る。
「……戻ったの?」
影が揺れる。
声はない。
けれど綾乃には、その言葉が聞こえていた。
――鈴音の声が、戻り始めた。
綾乃の指に力がこもる。
櫛が、ぱきりと折れた。
「誰の名を呼んだの」
黒い影が、鈴音とよく似た声で囁く。
――鬼神の名を。
綾乃の美しい顔から、表情が消えた。
「……そう」
その声は、人前で見せる優しい姉のものではなかった。
冷たく、暗く、嫉妬に濡れた声。
「鈴音に声なんて、似合わないのに」
黒い影が、綾乃の背中へ溶け込んでいく。
鏡の中の綾乃の瞳に、黒い光が宿った。
山の社では、朝の鈴が鳴っていた。
ちりん。
鈴音はまだ眠っている。
朔夜はその枕元で、静かに彼女の寝息を聞いていた。
昨夜の声が、まだ耳に残っている。
かすれて、弱く、今にも消えそうな声。
けれど確かに、鈴音自身の声だった。
朔夜は目を伏せ、低く呟いた。
「今度こそ、聞き逃さぬ」
朝の光が障子を白く染める。
鈴音の声は、まだほんの一欠片しか戻っていない。
けれどその一欠片は、確かに夜を越えた。
そして、常盤家に潜む黒いものもまた、その声を聞いていた。



