花嫁の声を食べる鬼神さま

 朝の光で目を覚ましたとき、鈴音は一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。

 見慣れた常盤家の納戸ではない。湿った板の間でも、薄い布団でもない。障子越しに差し込む光はやわらかく、畳には清められた草のような香りが残っている。

 鈴音は布団の中で、そっと喉に手を当てた。

 痛みは、まだあった。

 けれど、昨日までの痛みとは違う。何かを言おうとするたび喉の奥を焼かれるような、あの鋭い痛みではない。今は、長く閉ざされていた扉が少しだけ開いたあとの、熱を持った痛みに近かった。

 鈴音は唇を開いた。

 息が漏れる。

 声にはならない。

 それでも、空気が喉を通った。

 たったそれだけのことなのに、胸の奥が震えた。

 声は戻る。

 朔夜は、そう言った。

 鬼神は人を喰わない。人の嘘を喰う。鈴音の喉に絡んだ黒い糸も、夢にまとわりついていた嘘の欠片も、昨夜、朔夜は喰らってくれた。

 そのせいで、鈴音はまだ生きている。

 鬼に捧げられた花嫁なのに、喰われずに朝を迎えている。

 不思議だった。

 怖いはずなのに、常盤家にいたときよりも、少しだけ息がしやすい。

 襖の向こうで、軽い足音が止まった。

「起きてます?」

 千景の声だった。

 鈴音は慌てて起き上がり、枕元に置かれた紙と筆を探す。返事をしようとしても声が出ないことを、まだ体が覚えきれていない。

 襖が細く開き、狐耳の少年が顔をのぞかせた。

「入りますよ。返事がないのはわかってますから」

 千景は盆を持って部屋へ入ってきた。

 盆には白湯と、小さなおにぎり、湯気の立つ味噌汁が載っている。味噌汁の具は細かく刻まれていて、喉に負担がかからないようにされているのがわかった。

「朔夜さまが、喉にやさしいものにしろって。朝から細かいんですよ。熱すぎるな、固くするな、塩を強くするなって」

 千景は不満そうに言ったが、盆を置く手つきは丁寧だった。

 鈴音は筆を取った。

『ありがとうございます』

 千景はそれを見て、少し目をそらした。

「僕に礼を言われても。命じたのは朔夜さまです」

 鈴音はもう一度書く。

『でも、作ってくださったのは千景さんです』

 千景の狐耳がぴくりと動いた。

「……変な人ですね」

 鈴音は小さく首を傾げた。

 礼を言うことが、変なのだろうか。

 常盤家では、鈴音が何かをしても礼を言われることはなかった。水を運んでも、掃除をしても、綾乃の髪を梳いても、当然のように受け取られた。

 だからだろうか。

 自分のために用意された食事を見るだけで、鈴音は胸が詰まりそうになる。

 千景は腕を組み、鈴音をじっと見た。

「言っておきますけど、僕はまだあなたを信用してませんからね」

 鈴音は箸を持つ手を止めた。

「人間はすぐ嘘をつきます。朔夜さまに助けてって泣きつくくせに、助けてもらったら鬼だ、化け物だって逃げる。花嫁だってそうです。みんな朔夜さまを怖がった。誰も、あの方のことを見ようとしなかった」

 その声には、怒りがあった。

 けれど怒りの下にあるのは、悲しみだった。

 千景は朔夜を大切に思っている。だから、人間である鈴音を警戒しているのだ。

 鈴音は紙に書いた。

『私も、まだ朔夜さまのことを知りません』

 千景が眉を寄せる。

 鈴音は続けた。

『でも、知りたいです。鬼神さまではなく、朔夜さまのことを』

 千景はしばらく黙っていた。

 やがて、小さく鼻を鳴らす。

「……逃げ出すって書かないだけ、ましです」

 そう言って、盆を鈴音の前へ押しやった。

「冷めますよ」

 鈴音は頷き、朝餉を口にした。

 おにぎりはやわらかく握られていた。味噌汁は熱すぎず、喉を通ると体の中から温かくなった。

 食事を終えると、千景は盆を片づけながら言った。

「食べ終わったら、社の裏へ。朔夜さまが待ってます」

 鈴音は喉に手を当てた。

 声を取り戻すための、何かが始まる。

 そう思うと、怖さと期待が同時に胸を満たした。

 社の裏手には、小さな清水が湧いていた。

 岩の間から澄んだ水が流れ、小さな池を作っている。水面には朝の光が反射し、白い小花が揺れていた。

 朔夜はそのそばに立っていた。

 黒衣をまとった姿は、朝の光の中でも人ならざる気配を放っている。けれど、昨夜見たときのような恐怖だけではなかった。静かな山そのもののように、そこにあるだけで空気を鎮める力がある。

 鈴音が近づくと、朔夜は振り返った。

「眠れたか」

 鈴音は少し考え、頷いた。

 怖い夢は見た。けれど、最後には眠れた。

 それは嘘ではない。

 朔夜は鈴音の喉元へ視線を向ける。

「痛みは」

 鈴音は紙に書いた。

『少しあります。でも、昨日より息がしやすいです』

「なら、今日は声の道を探る」

 声の道。

 鈴音は首を傾げた。

 朔夜は清水の前に膝をついた。

「声を出そうとするな」

 鈴音は驚いて朔夜を見る。

 声を取り戻すために来たのに、声を出してはいけないのか。

「今のお前が無理に声を出そうとすれば、呪いが反応する。まずは息を通す。次に、音にならぬ音を探る」

 朔夜はゆっくり息を吸い、吐いてみせた。

「同じようにしろ」

 鈴音は従った。

 息を吸う。

 胸が少し痛む。

 息を吐く。

 喉の奥がざらりと引っかかる。

 けれど、空気は通る。

 鈴音はもう一度、息を吸った。

 吐く。

 また吸う。

 何度も繰り返すうち、喉の奥で小さな震えが生まれた。

 音ではない。

 けれど、ただの息でもない。

 鈴音は驚いて喉を押さえた。

 朔夜の金の瞳が、わずかに細まる。

「今の感覚を覚えておけ」

 鈴音は頷いた。

 もう一度、同じように息を通そうとする。

 しかし次の瞬間、喉がきゅっと締まった。

「っ……」

 声にならない痛みが漏れる。

 黒い糸が喉の内側で暴れたようだった。

 朔夜がすぐに言う。

「そこまでだ」

 鈴音は首を横に振りかけた。

 もう少し。

 もう少しで何かが出そうだった。

 けれど朔夜の声は厳しかった。

「焦れば、呪いに喉を裂かれる」

 鈴音は動きを止めた。

 朔夜は少しだけ声を和らげる。

「お前は長く黙らされていた。すぐに戻らぬのは当然だ」

 黙らされていた。

 その言葉を聞くたび、鈴音の胸には小さな火が灯る。

 自分は黙っていたのではない。

 誰かに、黙らされていた。

 鈴音は紙を手に取った。

『私は、誰に声を奪われたのですか』

 そこまで書いた瞬間、喉が激しく痛んだ。

 視界が白く染まる。

 息ができない。

 鈴音はその場にうずくまった。

「鈴音」

 朔夜が膝をつく。

「その問いはまだ早い。呪いが強く反応している」

 朔夜の指先が、鈴音の喉の手前で止まる。

「触れるぞ」

 鈴音は必死に頷いた。

 朔夜の指が喉に触れる。

 冷たい力が流れ込み、黒い糸が少しずつほどけていく。やがて朔夜は、鈴音の喉元から細い黒糸を一本引き出した。

 糸は生き物のように蠢いていた。

「問いに蓋をしている糸だ」

 朔夜はそれを噛み切った。

 ぱきん、と小さな音がする。

 痛みがわずかに引いた瞬間、鈴音の頭の奥で何かが弾けた。

 暗い廊下。

 雨の音。

 母の部屋から聞こえる声。

「このままでは、あの子まで利用されます」

 母の声だった。

 鈴音は息を呑む。

 次に、男の低い声。

「余計なことを言うな」

 また母の声。

「鈴音の声は、誰かを裁くためのものではありません。誰かを救うためのものです」

 そこで記憶は途切れた。

 鈴音は震える手で紙に書いた。

『母の声が聞こえました』

 朔夜は静かに頷いた。

「封じられた記憶が戻り始めている」

 母の声。

 鈴音は胸を押さえた。

 懐かしい。会いたい。もっと聞きたい。

 けれど同時に、怖かった。

 母の声の奥には、何か恐ろしいものが隠れている。そこへ近づけば、二度と戻れない気がした。

「今日はここまでだ」

 朔夜が言った。

 鈴音は顔を上げる。

 まだ、もう少しできる。

 そう書こうとした鈴音の手を、朔夜の言葉が止めた。

「できるかどうかではない。壊さずに進めるかどうかだ」

 鈴音は筆を握りしめた。

「お前は、無理をすることを当然だと思わされてきたのだろう」

 その言葉に、胸が詰まる。

 常盤家では、痛くても、疲れても、喉が焼けるように痛んでも、鈴音の仕事は減らなかった。

 無理をしていることに気づかれることすら、なかった。

「この社では違う。苦しければ止まれ。痛めば休め。お前の声を取り戻すために、お前自身を壊しては意味がない」

 鈴音はうつむき、紙に書いた。

『休むのは、苦手です』

 朔夜はその文字を見て、少しだけ眉を下げた。

「なら、覚えろ」

 短い言葉だった。

 けれど、命令ではなく、許しのように聞こえた。

 その日の午後、鈴音は縁側で薬草茶を飲んだ。

 千景が持ってきた茶は苦かった。あまりに苦くて、鈴音は思わず眉を寄せた。

 それを見て、千景が少し笑う。

「苦いでしょう。でも効きます。喉にいいんです」

 鈴音は紙に書いた。

『朔夜さまも飲むのですか』

 千景の顔から、笑みが消えた。

「朔夜さまは、喉じゃなくて腹の中です」

 鈴音は首を傾げる。

「嘘を喰うと、穢れが溜まるんです。あの方は平気な顔をしますけど、平気なわけじゃありません」

 鈴音は手元の湯呑を見つめた。

 昨夜も今朝も、朔夜は鈴音の黒い糸を喰った。

 それはつまり、朔夜の中に穢れを溜めたということなのか。

『私のせいで、朔夜さまが苦しくなるのですか』

 鈴音がそう書くと、千景は慌てたように首を横に振った。

「そういう意味じゃ……でも、苦しくないとは言えません。村の人間は知らないんです。どれだけ朔夜さまが、自分たちの嘘を呑み込んできたか」

 千景は膝を抱えた。

「自分たちで汚したものを押しつけて、それであの方を鬼だ、化け物だって怖がるんです」

 鈴音は朔夜の背中を思い出した。

 静かで、強くて、どこか寂しそうな背中。

 鈴音もまた、常盤家で「災いの娘」という嘘を着せられてきた。

 朔夜は「人を喰う鬼」という嘘を着せられてきた。

 形は違っても、似ているのかもしれない。

 鈴音は紙に書いた。

『朔夜さまは、怖い方ではありません』

 千景は目を丸くした。

「……あなた、本当に変ですね」

 また変と言われた。

 鈴音が少し困った顔をすると、千景はそっぽを向く。

「でも、少しだけ見る目はあるかもしれません」

 狐の尾が、ほんの少し揺れていた。

 その夜、鈴音は枕元に小さな鈴を置いて眠った。

 朔夜がくれたものだ。

 声が出ないなら、これを鳴らせ。そう言って渡してくれた。

 鈴を鳴らせば、朔夜に届く。

 誰かを呼んでもいい。

 助けを求めてもいい。

 それだけで、鈴音には信じられないことだった。

 眠りは浅かった。

 やがて夢の中で、鈴音は幼い姿に戻っていた。

 常盤家の廊下。

 雨の音。

 母の部屋へ走る自分。

 襖が少し開いている。

 中には、倒れている母がいた。

 白い寝間着の袖が、床に広がっている。

 幼い鈴音は息を止めた。

 母の唇が動く。

 ――鈴音、逃げて。

 その背後で、八重の声がした。

「この子が喋れば、すべて終わる」

 綾乃の震える声も聞こえた。

「でも、お母さま、この子、本当に見て……」

「だから、声を封じるの」

 冷たい指が、幼い鈴音の喉に触れた。

 黒い糸が口の中へ入り込む。

 苦しい。

 息ができない。

 言わなければ。

 誰かに言わなければ。

 お母さまは――。

 そこで鈴音は目を覚ました。

 喉が焼けるように痛い。

 布団の中で体を丸め、枕元の鈴に手を伸ばす。

 けれど、指が震えて届かない。

 黒い糸が喉を締める。

 苦しい。

 助けて。

 そう思った瞬間、鈴音の胸の奥で、朝の清水の前に感じた小さな震えが蘇った。

 音にならない音。

 喉の奥に残っていた、本来の響き。

 鈴音は涙を流しながら息を吸った。

 痛い。

 けれど、言いたい。

 初めて、自分の意思で誰かを呼びたい。

 唇が震える。

「……さ」

 かすれた音が漏れた。

 鈴音は目を見開いた。

 今、音が出た。

 でも痛い。

 喉が焼ける。

 それでも、もう一度。

 鈴音は布団を握りしめ、声を絞り出した。

「……さく、や」

 襖が勢いよく開いた。

 朔夜が飛び込んでくる。

 いつもの静かな鬼神とは違い、黒衣の裾が乱れ、金の瞳には明らかな焦りが浮かんでいた。

「鈴音!」

 朔夜は鈴音のそばへ膝をつき、喉に手を当てた。

 冷たい力が流れ込む。

 黒い糸がほどけ、息が戻る。

 鈴音は涙で濡れた顔を上げた。

 呼べた。

 声が出た。

 朔夜の名を呼べた。

 それを伝えたいのに、もう喉は限界だった。

 朔夜は鈴音の喉元から黒い糸を一本引き抜き、噛み砕いた。

 痛みがすっと引く。

 鈴音の体から力が抜け、朔夜の袖を掴んだまま崩れそうになる。

 朔夜はその手を振りほどかなかった。

「無理をしたな」

 低い声だった。

 叱っているようで、どこか震えているようにも聞こえた。

 鈴音は首を横に振る。

 無理でもよかった。

 呼びたかった。

 自分の声で、朔夜を呼びたかった。

 唇だけが、もう一度その名を形にする。

 音は出なかった。

 けれど朔夜は、確かに頷いた。

「聞こえた」

 鈴音の目から、涙がこぼれた。

「よく戻ってきた」

 その言葉に、鈴音は泣いた。

 声はまだ戻っていない。

 ほんの一欠片だけだ。

 けれど、その一欠片は、たしかに鈴音自身のものだった。

 廊下の向こうから、千景の足音が駆けてくる。

「朔夜さま!? 今の声、まさか……」

 部屋の入口で立ち止まった千景は、鈴音と朔夜を見て目を丸くした。

 朔夜は振り返らずに言った。

「少しだけ戻った」

「本当に……」

 千景の声には、驚きと安堵が混じっていた。

 鈴音は朔夜の袖を離そうとした。

 掴んだままでは迷惑だと思った。

 けれど朔夜は、鈴音の手をそっと包んだ。

「離さなくていい」

 その手は冷たい。

 けれど、鈴音にはその冷たさが安心だった。

 朔夜は鈴音を布団へ横たえ、枕元の鈴を手に取る。

「次は、これを鳴らせ」

 鈴音は涙の残る目で、申し訳なさそうに朔夜を見た。

 朔夜は静かに続ける。

「だが、呼んだことを責めているのではない。お前が呼んだから、俺は来られた」

 呼んだから、来てくれた。

 自分の声が、誰かに届いた。

 それは鈴音にとって、奇跡のような出来事だった。

 朔夜は鈴音の額に手をかざした。

 淡い光が部屋に満ちる。

「今夜はもう眠れ。夢は俺が遠ざける」

 鈴音は朔夜を見つめた。

 ありがとう、と言いたい。

 けれど声はもう出ない。

 紙を探そうとすると、朔夜が先に言った。

「礼はいらぬ。呼ばれたから来た」

 鈴音は目を閉じた。

 胸の奥が温かい。

 最初に戻ってきた声で、自分は朔夜の名を呼んだ。

 そのことが、恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。

 眠りに落ちる直前、鈴音は唇だけを動かした。

 おやすみなさい。

 朔夜は小さく頷く。

「眠れ、鈴音」

 その声を聞きながら、鈴音は深い眠りに落ちた。

 翌朝。

 山の社から離れた常盤家の奥座敷で、綾乃は鏡の前に座っていた。

 艶やかな黒髪に櫛を通す手が、ふと止まる。

 部屋の隅に、黒い影が滲んでいた。

 それは人でも獣でもない。

 白無垢をまとった、顔の見えない女の影。

 綾乃は鏡越しにそれを見る。

「……戻ったの?」

 影が揺れる。

 声はない。

 けれど綾乃には、その言葉が聞こえていた。

 ――鈴音の声が、戻り始めた。

 綾乃の指に力がこもる。

 櫛が、ぱきりと折れた。

「誰の名を呼んだの」

 黒い影が、鈴音とよく似た声で囁く。

 ――鬼神の名を。

 綾乃の美しい顔から、表情が消えた。

「……そう」

 その声は、人前で見せる優しい姉のものではなかった。

 冷たく、暗く、嫉妬に濡れた声。

「鈴音に声なんて、似合わないのに」

 黒い影が、綾乃の背中へ溶け込んでいく。

 鏡の中の綾乃の瞳に、黒い光が宿った。

 山の社では、朝の鈴が鳴っていた。

 ちりん。

 鈴音はまだ眠っている。

 朔夜はその枕元で、静かに彼女の寝息を聞いていた。

 昨夜の声が、まだ耳に残っている。

 かすれて、弱く、今にも消えそうな声。

 けれど確かに、鈴音自身の声だった。

 朔夜は目を伏せ、低く呟いた。

「今度こそ、聞き逃さぬ」

 朝の光が障子を白く染める。

 鈴音の声は、まだほんの一欠片しか戻っていない。

 けれどその一欠片は、確かに夜を越えた。

 そして、常盤家に潜む黒いものもまた、その声を聞いていた。