花嫁の声を食べる鬼神さま

 鈴音は、鬼神の花嫁になった。

 そう言われても、自分の身に何が起きたのか、まだ少しも理解できなかった。

 夜の社は静かだった。

 山の奥にあるというのに、獣の鳴き声すら聞こえない。風が木々を揺らす音も遠く、まるでこの社だけが世界から切り離されているようだった。

 鈴音は、社の奥にある一室へ通された。

 古い畳の香りがする部屋だった。床の間には白い花が生けられ、隅には小さな行灯が置かれている。灯りは淡く、部屋の影をやわらかく揺らしていた。

 鬼神の住まう場所など、もっと恐ろしいところだと思っていた。

 血の匂いがして、骨が転がっていて、花嫁たちの悲鳴が染みついた場所。

 村で語られていた鬼神の社は、いつもそういう場所だった。

 けれど、目の前の部屋は清められていて、寒さをしのぐための火鉢まで用意されていた。

 それがかえって怖かった。

 優しいものほど、あとで裏切られると知っているからだ。

 鈴音は部屋の中央に座ったまま、膝の上で手を握りしめていた。

 白無垢の袖は、土で少し汚れている。山道で転びそうになったときについた汚れだった。常盤家なら、きっと叱られている。

 役目の花嫁なのに、みっともない。

 そう言われるに決まっていた。

 鈴音は袖の汚れを指で隠そうとした。

 そのとき、襖の向こうから足音が近づいてきた。

 鈴音の肩がびくりと震える。

 入ってきたのは、朔夜だった。

 黒衣をまとった鬼神は、先ほどと変わらず美しかった。月明かりのように白い肌。夜そのものを流したような黒髪。人ならざる金の瞳。

 その瞳が鈴音を見た瞬間、鈴音は反射的に身を縮めた。

 喰われる。

 頭の奥で、綾乃の声が蘇る。

 ――怖がらなくていいのよ。喰べられるのは、きっと一瞬だから。

 息が浅くなる。

 喉が痛い。

 声が出ないのに、叫びそうになる。

 朔夜はそれに気づいたのか、部屋の入口で足を止めた。

「近づかぬ方がいいか」

 鈴音は目を見開いた。

 問いかけられたことに驚いた。

 常盤家では、鈴音の意思など尋ねられなかった。食べるものも、着るものも、眠る場所も、行く先も、いつも誰かが勝手に決めた。

 嫌かどうかなど、誰も聞かなかった。

 それなのに鬼神は、鈴音が怯えていると見て、近づかずに立ち止まった。

 鈴音は、どう答えればいいかわからない。

 首を横に振るのも怖い。頷くのも失礼かもしれない。

 迷っていると、朔夜は静かに言った。

「無理に答えなくてよい。ここへ置く」

 朔夜は部屋の入口近くに盆を置いた。

 そこには、温かい粥と、湯気の立つ椀、漬物が少し、そして小さな甘い菓子がのっていた。

 鈴音は盆を見つめた。

 食事。

 自分のために用意された食事。

 鬼神の社で最初に出されたものが、牙でも刃でもなく、粥であることが信じられなかった。

「毒など入っていない」

 朔夜が淡々と言う。

「人を喰うつもりなら、わざわざ粥を出す意味もない」

 その言葉に、鈴音は思わず顔を上げた。

 朔夜の表情は変わらない。

 けれど、ほんのわずかに困っているようにも見えた。

「もっとも、俺が言っても信じられぬだろうが」

 鈴音は盆へ視線を落とす。

 腹は空いていた。

 朝からまともなものを食べていない。白無垢を着せられる前に、女中が冷えた飯を少し置いていっただけだった。

 けれど食べていいのかわからない。

 花嫁として差し出された自分に、食事を与える理由がわからない。

 鈴音が動けずにいると、朔夜は少し眉を寄せた。

「箸が持てぬほど弱っているのか」

 違う。

 鈴音は慌てて首を横に振った。

 食べられます。

 そう伝えたいのに、声が出ない。

 手で何かを示そうとして、途中で止まる。どうすればいいのかわからない。

 すると朔夜は、懐から紙と筆を取り出した。

 先ほど鈴音の名を書かせたものとは違い、きちんとした筆談用の紙だった。

「声が出ぬなら、書けばよい」

 鈴音はまた驚いた。

 用意してくれたのか。

 自分のために。

 朔夜は紙と筆を畳の上に置くと、鈴音から少し離れた場所に座った。近すぎず、遠すぎない距離だった。

 鈴音はそろそろと手を伸ばし、筆を取る。

 指がかじかんでいて、うまく動かなかった。

 それでも鈴音は紙に書いた。

『食べても、よいのですか』

 書いてから、自分で胸が痛くなった。

 なんて情けない問いだろう。

 食べてもよいか。

 生きていてもよいかと聞いているようなものだ。

 朔夜はその文字を見て、しばらく黙った。

 怒らせただろうか。

 鈴音が身を固くすると、朔夜は低く言った。

「食べるために出した」

 そして、少しだけ声を和らげた。

「温かいうちに食べろ。喉に痛みが残っているはずだ。粥なら通る」

 鈴音は喉元を押さえた。

 確かに、まだ痛む。

 第1章で朔夜が黒い糸を噛み切ったあとから、喉の奥にずっと熱が残っている。けれど以前のような締めつける痛みではない。

 少し、息がしやすい。

 鈴音は盆を引き寄せ、箸を取った。

 粥を一口すくい、恐る恐る口に運ぶ。

 温かかった。

 米の甘みと、ほんの少しの塩気。胃の中に落ちていくと、体の奥からじんわりと熱が広がる。

 鈴音はもう一口食べた。

 それから、また一口。

 気づけば手が止まらなくなっていた。

 常盤家で食べるものは、いつも冷えていた。余り物か、誰かが手をつけなかったもの。味があるかどうかより、腹を満たせればよいというものばかりだった。

 こんなふうに、自分の体を気遣うための食事を出されたのは、いつ以来だろう。

 鈴音は粥を食べながら、涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。

 泣くな。

 泣けば、また弱いと思われる。

 そう自分に言い聞かせる。

 けれど朔夜は、鈴音が涙をこらえていることに気づいても、何も言わなかった。

 憐れむような顔もしない。

 ただ静かに、火鉢の炭を足している。

 その沈黙が、不思議と怖くなかった。

 食事を終えると、鈴音は紙に書いた。

『ありがとうございます』

 朔夜は一瞬、その文字を見つめた。

「礼を言われることではない」

 そう言ってから、少し間を置いた。

「だが、受け取っておく」

 鈴音は小さく頷いた。

 そのとき、廊下の向こうから勢いよく足音が響いた。

「朔夜さま!」

 襖がすぱんと開く。

 現れたのは、十二、三歳ほどの少年だった。白茶の髪に、琥珀色の瞳。人間の子どものように見えるが、頭の上にはぴんと立った狐の耳があり、背後にはふさふさした尾が揺れている。

 鈴音は驚いて筆を落としそうになった。

 少年は鈴音を見るなり、露骨に顔をしかめた。

「本当に連れてきたんですか、その花嫁」

「千景」

 朔夜の声が低くなる。

 少年――千景は肩をすくめた。

「だって、また村の連中が押しつけてきたんでしょう? どうせ泣いて喚いて、明日には帰りたいって言い出しますよ」

 鈴音はうつむいた。

 泣いて喚く。

 自分には、それすらできない。

 千景は鈴音の白無垢をじろじろと見た。

「しかも声が出ないって。村もひどいことしますよね。黙ってるから都合がいいってことですか」

 その言葉は、鋭く胸に刺さった。

 けれど、千景の声には嘲りだけではなく、怒りも混じっているように聞こえた。

 朔夜が言う。

「この娘は鈴音だ」

「名前なんて聞いてません」

「なら今聞いた。覚えろ」

 千景は不満そうに唇を尖らせた。

「……鈴音」

 少年が名を呼ぶ。

 ぎこちない呼び方だったが、それでも鈴音は顔を上げた。

 また、名前を呼ばれた。

 今日は二度も。

 千景はその反応に少し気まずそうな顔をした。

「な、なんですか」

 鈴音は慌てて首を横に振る。

 何でもありません。

 ただ、名前を呼ばれたのが嬉しかった。

 そんなこと、説明しようもない。

 千景は鼻を鳴らした。

「まあいいですけど。朔夜さま、本当にこの子を置くんですか? また人間に裏切られるだけです」

 また。

 その言葉に、鈴音は引っかかった。

 朔夜は千景を見た。

「下がれ」

「でも」

「下がれ、千景」

 今度の声には、命令があった。

 千景は耳を伏せる。

「……はいはい。わかりましたよ。鈴音さん、変なことしたら許しませんからね。朔夜さまは優しすぎるんです」

 そう言い残して、千景は襖を閉めた。

 部屋に再び静けさが戻る。

 鈴音は紙を引き寄せ、迷いながら書いた。

『また、とは何ですか』

 書いてから、踏み込みすぎたかもしれないと不安になる。

 朔夜はすぐには答えなかった。

 火鉢の赤い炭を見つめ、低く言う。

「昔も、花嫁が来たことがある」

 鈴音は息を止めた。

 花嫁。

 自分の前に、誰かがいた。

 その人はどうなったのだろう。

 やはり、鬼神に喰われたのだろうか。

 鈴音の顔に出ていたのか、朔夜は目を伏せた。

「俺は喰っていない」

 その言葉は、弁解のようではなかった。

 ただ、長い間誰にも信じられなかった事実を、淡々と置いたようだった。

「だが村では、俺が喰ったことになっている」

 鈴音は紙に書く。

『なぜ』

「その方が、人には都合がよかったのだろう」

 朔夜の声は静かだった。

 けれど、その静けさの底に深い疲れがある。

 鈴音はそれ以上、聞けなかった。

 朔夜は話を変えるように、鈴音の喉元へ視線を向けた。

「先ほどの続きだ。お前の喉には嘘が絡んでいる」

 鈴音は無意識に喉を押さえた。

 あの黒い糸。

 自分の中から引き出された、気味の悪いもの。

「人の嘘には種類がある。ただの見栄。保身。優しさのためにつくもの。誰かを傷つけるためのもの。そして、誰かの人生を縛るためのもの」

 朔夜は鈴音を見た。

「お前に絡んでいるのは最後のものだ」

 鈴音は指先が冷たくなるのを感じた。

 誰かの人生を縛る嘘。

 それが、自分の喉にある。

「この呪いは、お前が真実を言おうとすると強く締まる。だからお前は、言葉を発しようとするたびに痛む。特に、過去に関わることや、誰かが隠した罪に触れることを言おうとしたときはな」

 鈴音の脳裏に、いくつもの記憶がよぎる。

 母が死んだ夜のことを思い出そうとしたとき。

 父に何かを訴えようとしたとき。

 綾乃の言葉に「違う」と言おうとしたとき。

 いつも喉が焼けた。

 声が出ないのではない。

 出そうとすると、止められていた。

 鈴音は震える手で筆を取った。

『誰が』

 短い文字。

 けれど、書いた瞬間に喉が痛んだ。

 鈴音は苦しげに息を吸う。

 朔夜がすぐに手を伸ばしかけ、途中で止める。

「触れてよいか」

 鈴音は驚いた。

 こんなときでさえ、朔夜は許しを求める。

 鈴音は迷ったあと、小さく頷いた。

 朔夜の指が喉に触れる。

 今度は、最初ほど怖くなかった。

 冷たい指先から、不思議な力が流れ込む。喉の奥を締めていた痛みが、少しずつ緩んでいく。

「まだ探れぬ。呪いが深すぎる」

 朔夜が言う。

「無理に剥がせば、お前の声そのものを壊す」

 鈴音は目を伏せた。

 声そのものを壊す。

 では、今の自分はまだ壊れきってはいないのだろうか。

 取り戻せるのだろうか。

 鈴音は紙に書いた。

『声は、戻りますか』

 朔夜は迷わず答えた。

「戻る」

 鈴音の指が止まった。

 あまりにもはっきり言われたので、胸がついていけなかった。

 本当に。

 本当に、戻るのか。

 また誰かの名を呼べるのか。

 ありがとうも、嫌ですも、違いますも、助けてすら言えなかった自分が。

「ただし、一度にではない」

 朔夜は続ける。

「喉に絡んだ嘘を一つずつ喰らい、お前自身が封じられた記憶と向き合う必要がある。声は喉だけのものではない。お前が何を言おうとしていたのかを思い出さねば、本当には戻らぬ」

 鈴音は膝の上で手を握った。

 何を言おうとしていたのか。

 母が死んだ夜。

 自分は何を叫ぼうとしたのか。

 思い出そうとすると、また胸がざわめく。

 暗い部屋。倒れている母。血のような匂い。誰かの手。綾乃の声。八重の冷たい指。

 そして、幼い自分が叫ぼうとしていた言葉。

 そこまで思い出しかけて、鈴音は息を詰まらせた。

 怖い。

 思い出すのが怖い。

 でも、知らないままでは、ずっとこのままだ。

 鈴音は筆を取った。

 手が震えて、字が少し歪む。

『私は、何を言おうとしていたのですか』

 書いた瞬間、部屋の空気が変わった。

 行灯の火が小さく揺れ、社のどこかで鈴が鳴る。

 ちりん。

 朔夜はその文字をじっと見つめた。

 そして、ゆっくりと鈴音を見る。

「それを知る覚悟があるか」

 鈴音はすぐには頷けなかった。

 覚悟。

 そんな立派なものが、自分にあるのかわからない。

 ただ、このまま黙ったまま死にたくない。

 自分を災いと呼んだ人たちに、違うと言いたい。

 母が死んだ夜に何があったのかを知りたい。

 そしてもし本当に誰かが自分の声を奪ったのなら、その人に問いたい。

 どうして、と。

 鈴音はもう一度、筆を走らせた。

『怖いです』

 正直な言葉だった。

 書いたあと、怒られるかと思った。

 覚悟が足りないと、呆れられるかと思った。

 けれど朔夜は、ただ頷いた。

「怖くて当然だ」

 鈴音は顔を上げる。

 朔夜は静かに言った。

「真実は、いつも優しいものではない。時に、嘘よりも鋭く人を傷つける」

 鈴音は紙を見る。

 朔夜は続ける。

「だが、嘘に縛られたまま生きるよりはいい。少なくとも、俺はそう思う」

 鈴音は、その言葉を胸の中で繰り返した。

 嘘に縛られたまま生きるよりはいい。

 自分のこれまでの人生は、まさにそれだったのだろうか。

 誰かがついた嘘の中で、鈴音は災いの娘にされた。声を失った娘にされた。何も言えない娘にされた。

 でも本当は違うのかもしれない。

 鈴音は深く息を吸った。

 喉はまだ痛む。けれど、息は通る。

 今夜、初めて少しだけ、自分の中に道ができたような気がした。

 鈴音は紙に書いた。

『声を取り戻したいです』

 書いた瞬間、涙が落ちた。

 墨が少しにじむ。

 鈴音は慌てて袖で拭おうとした。

 その前に、朔夜が別の布を差し出した。

「白無垢で拭くな。汚れる」

 鈴音は布を受け取った。

 柔らかな手拭いだった。

 常盤家では、汚れるから泣くなと言われた。

 けれど朔夜の声は、泣くなとは言っていなかった。ただ、袖ではなく手拭いを使えと言っただけだった。

 それが妙におかしくて、鈴音は涙の中でほんの少しだけ息を漏らした。

 笑ったつもりだった。

 声は出なかったが、朔夜はそれを見て、わずかに目を細めた。

「その方がよい」

 鈴音は首を傾げる。

 朔夜は言う。

「怯えているより、ずっとよい」

 胸が熱くなった。

 鈴音は慌てて視線を落とす。

 鬼神なのに。

 人を喰うと恐れられているのに。

 どうしてこの人の言葉は、常盤家の誰よりも怖くないのだろう。

 そのとき、部屋の外から千景の声がした。

「朔夜さま、湯殿の準備できましたよ。あと、替えの着物も。花嫁衣装のまま寝かせるわけにはいかないでしょう」

 朔夜が立ち上がる。

「聞こえたか。湯を使え。山道で冷えただろう」

 鈴音は驚いて首を横に振りそうになった。

 そんな贅沢は。

 そう思ったが、朔夜は先に言った。

「遠慮はいらぬ。ここにいる間、お前は客ではない。俺の花嫁だ」

 花嫁。

 その言葉に、鈴音の胸が跳ねる。

 生贄ではない。

 餌ではない。

 鬼神はそう言った。

 鈴音は紙に書いた。

『私は、何をすればよいのですか』

 朔夜は少し考えた。

「まず食べる。眠る。体を温める」

 鈴音は目を瞬かせる。

「声を取り戻すのは、それからだ。壊れかけた者に無理をさせる趣味はない」

 壊れかけた者。

 その言葉は少し痛かった。

 けれど同時に、胸の奥がほどけるようだった。

 壊れていると言われたのではない。

 壊れかけているから、これ以上壊さないと言われた。

 鈴音は小さく頷いた。

 湯殿へ向かう前、朔夜は部屋を出ようとして、ふと足を止めた。

「鈴音」

 名を呼ばれて、鈴音は顔を上げる。

 朔夜は振り返らずに言った。

「お前がこの社にいる限り、誰にも勝手に黙らせはしない」

 鈴音は息を呑んだ。

 それは守るという言葉よりも、鈴音にとっては強かった。

 黙らせない。

 誰にも。

 鈴音は紙を手に取り、急いで書いた。

『朔夜さまは、なぜ私を助けるのですか』

 朔夜は振り返った。

 金の瞳に、行灯の火が映る。

 その光の奥に、一瞬だけ、深い後悔のようなものが揺れた。

「昔、助けられなかった声がある」

 鈴音は動けなくなる。

「だから今度は、聞き逃したくない」

 朔夜はそれだけ言って、襖を閉めた。

 鈴音はしばらく、その場に座ったままだった。

 昔、助けられなかった声。

 それは、先ほど千景が言っていた「また」という言葉と関係しているのだろうか。

 前の花嫁。

 村では鬼神に喰われたと語られている誰か。

 鈴音は喉に手を当てた。

 自分の声も、誰かに聞き逃され続けてきた。

 でも朔夜は、聞くと言った。

 聞き逃したくないと。

 その言葉を信じていいのか、まだわからない。

 鬼神は人を喰わないと言った。

 けれど、村も家族も、ずっと逆のことを教えてきた。

 何が嘘で、何が本当なのか。

 鈴音にはまだわからない。

 けれど少なくとも、今夜、鈴音は喰われなかった。

 温かい粥を与えられた。

 筆を与えられた。

 名前を呼ばれた。

 声は戻ると言われた。

 それだけで、胸の奥に小さな灯りがともる。

 鈴音は、畳の上に置いた紙を見た。

『声を取り戻したいです』

 にじんだ墨の文字。

 それは、鈴音が久しぶりに自分のために書いた願いだった。

 しばらくして、湯を終えた鈴音は、白無垢ではなく淡い水色の着物を着せられた。

 千景が用意したものらしい。

「古いけど、清めてありますから」

 千景はそう言って、目を合わせない。

 鈴音が紙に『ありがとうございます』と書くと、千景は耳を赤くしてそっぽを向いた。

「別に。朔夜さまの命令です」

 湯で温まった体は、久しぶりに軽かった。

 布団も敷かれていた。

 ふかふかというほどではないが、清潔で、日干しした匂いがした。

 鈴音は布団に入る前、部屋の隅に置かれた筆と紙を見た。

 声はない。

 けれど今夜、鈴音には言葉を書く場所があった。

 それだけで、ひとりではないような気がした。

 眠りにつく直前、襖の向こうで朔夜の気配がした。

 見張っているのだろうか。

 それとも、守っているのだろうか。

 鈴音にはまだわからない。

 ただ、不思議と怖くなかった。

 夜半、鈴音は夢を見た。

 暗い部屋。

 倒れている母。

 幼い自分の手に触れる、冷たくなった指。

 誰かが言う。

「見てはいけません」

 また別の誰かが言う。

「この子が喋れば、すべて終わる」

 幼い鈴音は泣いている。

 喉が裂けるほど叫ぼうとしている。

 お母さまは――。

 そこまで言いかけた瞬間、黒い糸が口の中に入り込んだ。

 鈴音は目を覚ました。

 喉が痛い。

 息が苦しい。

 布団の上で体を丸めると、襖が開いた。

「鈴音」

 朔夜が駆け寄ってくる。

 今度は許しを求める余裕もないのか、すぐに鈴音の喉へ手を当てた。

 冷たい力が流れ込み、痛みが少しずつ退いていく。

 鈴音は涙を流しながら、必死に息を吸った。

「夢を見たな」

 鈴音は震えながら頷く。

 朔夜の瞳が険しくなる。

「呪いが反応している。お前が真実へ近づいた証だ」

 鈴音は布団の中で指を握る。

 怖い。

 でも、知りたい。

 その二つの感情が胸の中でぶつかる。

 朔夜は鈴音の手元に紙を置いた。

「書けるか」

 鈴音は頷き、震える指で筆を取った。

 夢で聞いた言葉を書こうとする。

『この子が喋れば、すべて終わる』

 書いた瞬間、黒い靄が紙の上に滲んだ。

 鈴音は息を呑む。

 朔夜はその靄を指先ですくい上げた。

「これも嘘の欠片だ」

 黒い靄は、虫のように蠢いている。

 朔夜はそれを見つめ、静かに口元へ運んだ。

 そして喰らった。

 闇を噛み砕くような音がした。

 鈴音の喉の痛みが少し引く。

 朔夜は鈴音を見た。

「鈴音」

 名を呼ばれる。

 鈴音は、涙で濡れた顔を上げた。

「俺は人を喰わない」

 朔夜は低く、はっきりと言った。

「だが、お前を縛る嘘なら喰う」

 鈴音の胸が大きく震えた。

 朔夜は続ける。

「お前が望むなら、喉に絡んだ嘘も、過去を覆う嘘も、すべて喰らってやる」

 鈴音は紙を見つめた。

 自分が何を言おうとしていたのか。

 母の死の夜に何があったのか。

 誰が自分の声を奪ったのか。

 知るのは怖い。

 でも、もう知らないふりをして生きたくない。

 鈴音は筆を握った。

 今度は震えずに、ゆっくりと書いた。

『私の声を、取り戻したいです』

 朔夜はその文字を見て、深く頷いた。

 そして、鈴音の前に片膝をついた。

 鬼神であるはずの男が、まるで誓いを立てるように。

「ならば俺が、お前の嘘を喰らってやる」

 社の鈴が鳴った。

 ちりん。

 夜の奥で、その音は長く長く響いた。

 鈴音は喉に手を当てる。

 声はまだ出ない。

 けれど、胸の奥では確かに何かが動き始めていた。

 それは、失われた声が帰るための、最初の音だった。