鈴音は、鬼神の花嫁になった。
そう言われても、自分の身に何が起きたのか、まだ少しも理解できなかった。
夜の社は静かだった。
山の奥にあるというのに、獣の鳴き声すら聞こえない。風が木々を揺らす音も遠く、まるでこの社だけが世界から切り離されているようだった。
鈴音は、社の奥にある一室へ通された。
古い畳の香りがする部屋だった。床の間には白い花が生けられ、隅には小さな行灯が置かれている。灯りは淡く、部屋の影をやわらかく揺らしていた。
鬼神の住まう場所など、もっと恐ろしいところだと思っていた。
血の匂いがして、骨が転がっていて、花嫁たちの悲鳴が染みついた場所。
村で語られていた鬼神の社は、いつもそういう場所だった。
けれど、目の前の部屋は清められていて、寒さをしのぐための火鉢まで用意されていた。
それがかえって怖かった。
優しいものほど、あとで裏切られると知っているからだ。
鈴音は部屋の中央に座ったまま、膝の上で手を握りしめていた。
白無垢の袖は、土で少し汚れている。山道で転びそうになったときについた汚れだった。常盤家なら、きっと叱られている。
役目の花嫁なのに、みっともない。
そう言われるに決まっていた。
鈴音は袖の汚れを指で隠そうとした。
そのとき、襖の向こうから足音が近づいてきた。
鈴音の肩がびくりと震える。
入ってきたのは、朔夜だった。
黒衣をまとった鬼神は、先ほどと変わらず美しかった。月明かりのように白い肌。夜そのものを流したような黒髪。人ならざる金の瞳。
その瞳が鈴音を見た瞬間、鈴音は反射的に身を縮めた。
喰われる。
頭の奥で、綾乃の声が蘇る。
――怖がらなくていいのよ。喰べられるのは、きっと一瞬だから。
息が浅くなる。
喉が痛い。
声が出ないのに、叫びそうになる。
朔夜はそれに気づいたのか、部屋の入口で足を止めた。
「近づかぬ方がいいか」
鈴音は目を見開いた。
問いかけられたことに驚いた。
常盤家では、鈴音の意思など尋ねられなかった。食べるものも、着るものも、眠る場所も、行く先も、いつも誰かが勝手に決めた。
嫌かどうかなど、誰も聞かなかった。
それなのに鬼神は、鈴音が怯えていると見て、近づかずに立ち止まった。
鈴音は、どう答えればいいかわからない。
首を横に振るのも怖い。頷くのも失礼かもしれない。
迷っていると、朔夜は静かに言った。
「無理に答えなくてよい。ここへ置く」
朔夜は部屋の入口近くに盆を置いた。
そこには、温かい粥と、湯気の立つ椀、漬物が少し、そして小さな甘い菓子がのっていた。
鈴音は盆を見つめた。
食事。
自分のために用意された食事。
鬼神の社で最初に出されたものが、牙でも刃でもなく、粥であることが信じられなかった。
「毒など入っていない」
朔夜が淡々と言う。
「人を喰うつもりなら、わざわざ粥を出す意味もない」
その言葉に、鈴音は思わず顔を上げた。
朔夜の表情は変わらない。
けれど、ほんのわずかに困っているようにも見えた。
「もっとも、俺が言っても信じられぬだろうが」
鈴音は盆へ視線を落とす。
腹は空いていた。
朝からまともなものを食べていない。白無垢を着せられる前に、女中が冷えた飯を少し置いていっただけだった。
けれど食べていいのかわからない。
花嫁として差し出された自分に、食事を与える理由がわからない。
鈴音が動けずにいると、朔夜は少し眉を寄せた。
「箸が持てぬほど弱っているのか」
違う。
鈴音は慌てて首を横に振った。
食べられます。
そう伝えたいのに、声が出ない。
手で何かを示そうとして、途中で止まる。どうすればいいのかわからない。
すると朔夜は、懐から紙と筆を取り出した。
先ほど鈴音の名を書かせたものとは違い、きちんとした筆談用の紙だった。
「声が出ぬなら、書けばよい」
鈴音はまた驚いた。
用意してくれたのか。
自分のために。
朔夜は紙と筆を畳の上に置くと、鈴音から少し離れた場所に座った。近すぎず、遠すぎない距離だった。
鈴音はそろそろと手を伸ばし、筆を取る。
指がかじかんでいて、うまく動かなかった。
それでも鈴音は紙に書いた。
『食べても、よいのですか』
書いてから、自分で胸が痛くなった。
なんて情けない問いだろう。
食べてもよいか。
生きていてもよいかと聞いているようなものだ。
朔夜はその文字を見て、しばらく黙った。
怒らせただろうか。
鈴音が身を固くすると、朔夜は低く言った。
「食べるために出した」
そして、少しだけ声を和らげた。
「温かいうちに食べろ。喉に痛みが残っているはずだ。粥なら通る」
鈴音は喉元を押さえた。
確かに、まだ痛む。
第1章で朔夜が黒い糸を噛み切ったあとから、喉の奥にずっと熱が残っている。けれど以前のような締めつける痛みではない。
少し、息がしやすい。
鈴音は盆を引き寄せ、箸を取った。
粥を一口すくい、恐る恐る口に運ぶ。
温かかった。
米の甘みと、ほんの少しの塩気。胃の中に落ちていくと、体の奥からじんわりと熱が広がる。
鈴音はもう一口食べた。
それから、また一口。
気づけば手が止まらなくなっていた。
常盤家で食べるものは、いつも冷えていた。余り物か、誰かが手をつけなかったもの。味があるかどうかより、腹を満たせればよいというものばかりだった。
こんなふうに、自分の体を気遣うための食事を出されたのは、いつ以来だろう。
鈴音は粥を食べながら、涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。
泣くな。
泣けば、また弱いと思われる。
そう自分に言い聞かせる。
けれど朔夜は、鈴音が涙をこらえていることに気づいても、何も言わなかった。
憐れむような顔もしない。
ただ静かに、火鉢の炭を足している。
その沈黙が、不思議と怖くなかった。
食事を終えると、鈴音は紙に書いた。
『ありがとうございます』
朔夜は一瞬、その文字を見つめた。
「礼を言われることではない」
そう言ってから、少し間を置いた。
「だが、受け取っておく」
鈴音は小さく頷いた。
そのとき、廊下の向こうから勢いよく足音が響いた。
「朔夜さま!」
襖がすぱんと開く。
現れたのは、十二、三歳ほどの少年だった。白茶の髪に、琥珀色の瞳。人間の子どものように見えるが、頭の上にはぴんと立った狐の耳があり、背後にはふさふさした尾が揺れている。
鈴音は驚いて筆を落としそうになった。
少年は鈴音を見るなり、露骨に顔をしかめた。
「本当に連れてきたんですか、その花嫁」
「千景」
朔夜の声が低くなる。
少年――千景は肩をすくめた。
「だって、また村の連中が押しつけてきたんでしょう? どうせ泣いて喚いて、明日には帰りたいって言い出しますよ」
鈴音はうつむいた。
泣いて喚く。
自分には、それすらできない。
千景は鈴音の白無垢をじろじろと見た。
「しかも声が出ないって。村もひどいことしますよね。黙ってるから都合がいいってことですか」
その言葉は、鋭く胸に刺さった。
けれど、千景の声には嘲りだけではなく、怒りも混じっているように聞こえた。
朔夜が言う。
「この娘は鈴音だ」
「名前なんて聞いてません」
「なら今聞いた。覚えろ」
千景は不満そうに唇を尖らせた。
「……鈴音」
少年が名を呼ぶ。
ぎこちない呼び方だったが、それでも鈴音は顔を上げた。
また、名前を呼ばれた。
今日は二度も。
千景はその反応に少し気まずそうな顔をした。
「な、なんですか」
鈴音は慌てて首を横に振る。
何でもありません。
ただ、名前を呼ばれたのが嬉しかった。
そんなこと、説明しようもない。
千景は鼻を鳴らした。
「まあいいですけど。朔夜さま、本当にこの子を置くんですか? また人間に裏切られるだけです」
また。
その言葉に、鈴音は引っかかった。
朔夜は千景を見た。
「下がれ」
「でも」
「下がれ、千景」
今度の声には、命令があった。
千景は耳を伏せる。
「……はいはい。わかりましたよ。鈴音さん、変なことしたら許しませんからね。朔夜さまは優しすぎるんです」
そう言い残して、千景は襖を閉めた。
部屋に再び静けさが戻る。
鈴音は紙を引き寄せ、迷いながら書いた。
『また、とは何ですか』
書いてから、踏み込みすぎたかもしれないと不安になる。
朔夜はすぐには答えなかった。
火鉢の赤い炭を見つめ、低く言う。
「昔も、花嫁が来たことがある」
鈴音は息を止めた。
花嫁。
自分の前に、誰かがいた。
その人はどうなったのだろう。
やはり、鬼神に喰われたのだろうか。
鈴音の顔に出ていたのか、朔夜は目を伏せた。
「俺は喰っていない」
その言葉は、弁解のようではなかった。
ただ、長い間誰にも信じられなかった事実を、淡々と置いたようだった。
「だが村では、俺が喰ったことになっている」
鈴音は紙に書く。
『なぜ』
「その方が、人には都合がよかったのだろう」
朔夜の声は静かだった。
けれど、その静けさの底に深い疲れがある。
鈴音はそれ以上、聞けなかった。
朔夜は話を変えるように、鈴音の喉元へ視線を向けた。
「先ほどの続きだ。お前の喉には嘘が絡んでいる」
鈴音は無意識に喉を押さえた。
あの黒い糸。
自分の中から引き出された、気味の悪いもの。
「人の嘘には種類がある。ただの見栄。保身。優しさのためにつくもの。誰かを傷つけるためのもの。そして、誰かの人生を縛るためのもの」
朔夜は鈴音を見た。
「お前に絡んでいるのは最後のものだ」
鈴音は指先が冷たくなるのを感じた。
誰かの人生を縛る嘘。
それが、自分の喉にある。
「この呪いは、お前が真実を言おうとすると強く締まる。だからお前は、言葉を発しようとするたびに痛む。特に、過去に関わることや、誰かが隠した罪に触れることを言おうとしたときはな」
鈴音の脳裏に、いくつもの記憶がよぎる。
母が死んだ夜のことを思い出そうとしたとき。
父に何かを訴えようとしたとき。
綾乃の言葉に「違う」と言おうとしたとき。
いつも喉が焼けた。
声が出ないのではない。
出そうとすると、止められていた。
鈴音は震える手で筆を取った。
『誰が』
短い文字。
けれど、書いた瞬間に喉が痛んだ。
鈴音は苦しげに息を吸う。
朔夜がすぐに手を伸ばしかけ、途中で止める。
「触れてよいか」
鈴音は驚いた。
こんなときでさえ、朔夜は許しを求める。
鈴音は迷ったあと、小さく頷いた。
朔夜の指が喉に触れる。
今度は、最初ほど怖くなかった。
冷たい指先から、不思議な力が流れ込む。喉の奥を締めていた痛みが、少しずつ緩んでいく。
「まだ探れぬ。呪いが深すぎる」
朔夜が言う。
「無理に剥がせば、お前の声そのものを壊す」
鈴音は目を伏せた。
声そのものを壊す。
では、今の自分はまだ壊れきってはいないのだろうか。
取り戻せるのだろうか。
鈴音は紙に書いた。
『声は、戻りますか』
朔夜は迷わず答えた。
「戻る」
鈴音の指が止まった。
あまりにもはっきり言われたので、胸がついていけなかった。
本当に。
本当に、戻るのか。
また誰かの名を呼べるのか。
ありがとうも、嫌ですも、違いますも、助けてすら言えなかった自分が。
「ただし、一度にではない」
朔夜は続ける。
「喉に絡んだ嘘を一つずつ喰らい、お前自身が封じられた記憶と向き合う必要がある。声は喉だけのものではない。お前が何を言おうとしていたのかを思い出さねば、本当には戻らぬ」
鈴音は膝の上で手を握った。
何を言おうとしていたのか。
母が死んだ夜。
自分は何を叫ぼうとしたのか。
思い出そうとすると、また胸がざわめく。
暗い部屋。倒れている母。血のような匂い。誰かの手。綾乃の声。八重の冷たい指。
そして、幼い自分が叫ぼうとしていた言葉。
そこまで思い出しかけて、鈴音は息を詰まらせた。
怖い。
思い出すのが怖い。
でも、知らないままでは、ずっとこのままだ。
鈴音は筆を取った。
手が震えて、字が少し歪む。
『私は、何を言おうとしていたのですか』
書いた瞬間、部屋の空気が変わった。
行灯の火が小さく揺れ、社のどこかで鈴が鳴る。
ちりん。
朔夜はその文字をじっと見つめた。
そして、ゆっくりと鈴音を見る。
「それを知る覚悟があるか」
鈴音はすぐには頷けなかった。
覚悟。
そんな立派なものが、自分にあるのかわからない。
ただ、このまま黙ったまま死にたくない。
自分を災いと呼んだ人たちに、違うと言いたい。
母が死んだ夜に何があったのかを知りたい。
そしてもし本当に誰かが自分の声を奪ったのなら、その人に問いたい。
どうして、と。
鈴音はもう一度、筆を走らせた。
『怖いです』
正直な言葉だった。
書いたあと、怒られるかと思った。
覚悟が足りないと、呆れられるかと思った。
けれど朔夜は、ただ頷いた。
「怖くて当然だ」
鈴音は顔を上げる。
朔夜は静かに言った。
「真実は、いつも優しいものではない。時に、嘘よりも鋭く人を傷つける」
鈴音は紙を見る。
朔夜は続ける。
「だが、嘘に縛られたまま生きるよりはいい。少なくとも、俺はそう思う」
鈴音は、その言葉を胸の中で繰り返した。
嘘に縛られたまま生きるよりはいい。
自分のこれまでの人生は、まさにそれだったのだろうか。
誰かがついた嘘の中で、鈴音は災いの娘にされた。声を失った娘にされた。何も言えない娘にされた。
でも本当は違うのかもしれない。
鈴音は深く息を吸った。
喉はまだ痛む。けれど、息は通る。
今夜、初めて少しだけ、自分の中に道ができたような気がした。
鈴音は紙に書いた。
『声を取り戻したいです』
書いた瞬間、涙が落ちた。
墨が少しにじむ。
鈴音は慌てて袖で拭おうとした。
その前に、朔夜が別の布を差し出した。
「白無垢で拭くな。汚れる」
鈴音は布を受け取った。
柔らかな手拭いだった。
常盤家では、汚れるから泣くなと言われた。
けれど朔夜の声は、泣くなとは言っていなかった。ただ、袖ではなく手拭いを使えと言っただけだった。
それが妙におかしくて、鈴音は涙の中でほんの少しだけ息を漏らした。
笑ったつもりだった。
声は出なかったが、朔夜はそれを見て、わずかに目を細めた。
「その方がよい」
鈴音は首を傾げる。
朔夜は言う。
「怯えているより、ずっとよい」
胸が熱くなった。
鈴音は慌てて視線を落とす。
鬼神なのに。
人を喰うと恐れられているのに。
どうしてこの人の言葉は、常盤家の誰よりも怖くないのだろう。
そのとき、部屋の外から千景の声がした。
「朔夜さま、湯殿の準備できましたよ。あと、替えの着物も。花嫁衣装のまま寝かせるわけにはいかないでしょう」
朔夜が立ち上がる。
「聞こえたか。湯を使え。山道で冷えただろう」
鈴音は驚いて首を横に振りそうになった。
そんな贅沢は。
そう思ったが、朔夜は先に言った。
「遠慮はいらぬ。ここにいる間、お前は客ではない。俺の花嫁だ」
花嫁。
その言葉に、鈴音の胸が跳ねる。
生贄ではない。
餌ではない。
鬼神はそう言った。
鈴音は紙に書いた。
『私は、何をすればよいのですか』
朔夜は少し考えた。
「まず食べる。眠る。体を温める」
鈴音は目を瞬かせる。
「声を取り戻すのは、それからだ。壊れかけた者に無理をさせる趣味はない」
壊れかけた者。
その言葉は少し痛かった。
けれど同時に、胸の奥がほどけるようだった。
壊れていると言われたのではない。
壊れかけているから、これ以上壊さないと言われた。
鈴音は小さく頷いた。
湯殿へ向かう前、朔夜は部屋を出ようとして、ふと足を止めた。
「鈴音」
名を呼ばれて、鈴音は顔を上げる。
朔夜は振り返らずに言った。
「お前がこの社にいる限り、誰にも勝手に黙らせはしない」
鈴音は息を呑んだ。
それは守るという言葉よりも、鈴音にとっては強かった。
黙らせない。
誰にも。
鈴音は紙を手に取り、急いで書いた。
『朔夜さまは、なぜ私を助けるのですか』
朔夜は振り返った。
金の瞳に、行灯の火が映る。
その光の奥に、一瞬だけ、深い後悔のようなものが揺れた。
「昔、助けられなかった声がある」
鈴音は動けなくなる。
「だから今度は、聞き逃したくない」
朔夜はそれだけ言って、襖を閉めた。
鈴音はしばらく、その場に座ったままだった。
昔、助けられなかった声。
それは、先ほど千景が言っていた「また」という言葉と関係しているのだろうか。
前の花嫁。
村では鬼神に喰われたと語られている誰か。
鈴音は喉に手を当てた。
自分の声も、誰かに聞き逃され続けてきた。
でも朔夜は、聞くと言った。
聞き逃したくないと。
その言葉を信じていいのか、まだわからない。
鬼神は人を喰わないと言った。
けれど、村も家族も、ずっと逆のことを教えてきた。
何が嘘で、何が本当なのか。
鈴音にはまだわからない。
けれど少なくとも、今夜、鈴音は喰われなかった。
温かい粥を与えられた。
筆を与えられた。
名前を呼ばれた。
声は戻ると言われた。
それだけで、胸の奥に小さな灯りがともる。
鈴音は、畳の上に置いた紙を見た。
『声を取り戻したいです』
にじんだ墨の文字。
それは、鈴音が久しぶりに自分のために書いた願いだった。
しばらくして、湯を終えた鈴音は、白無垢ではなく淡い水色の着物を着せられた。
千景が用意したものらしい。
「古いけど、清めてありますから」
千景はそう言って、目を合わせない。
鈴音が紙に『ありがとうございます』と書くと、千景は耳を赤くしてそっぽを向いた。
「別に。朔夜さまの命令です」
湯で温まった体は、久しぶりに軽かった。
布団も敷かれていた。
ふかふかというほどではないが、清潔で、日干しした匂いがした。
鈴音は布団に入る前、部屋の隅に置かれた筆と紙を見た。
声はない。
けれど今夜、鈴音には言葉を書く場所があった。
それだけで、ひとりではないような気がした。
眠りにつく直前、襖の向こうで朔夜の気配がした。
見張っているのだろうか。
それとも、守っているのだろうか。
鈴音にはまだわからない。
ただ、不思議と怖くなかった。
夜半、鈴音は夢を見た。
暗い部屋。
倒れている母。
幼い自分の手に触れる、冷たくなった指。
誰かが言う。
「見てはいけません」
また別の誰かが言う。
「この子が喋れば、すべて終わる」
幼い鈴音は泣いている。
喉が裂けるほど叫ぼうとしている。
お母さまは――。
そこまで言いかけた瞬間、黒い糸が口の中に入り込んだ。
鈴音は目を覚ました。
喉が痛い。
息が苦しい。
布団の上で体を丸めると、襖が開いた。
「鈴音」
朔夜が駆け寄ってくる。
今度は許しを求める余裕もないのか、すぐに鈴音の喉へ手を当てた。
冷たい力が流れ込み、痛みが少しずつ退いていく。
鈴音は涙を流しながら、必死に息を吸った。
「夢を見たな」
鈴音は震えながら頷く。
朔夜の瞳が険しくなる。
「呪いが反応している。お前が真実へ近づいた証だ」
鈴音は布団の中で指を握る。
怖い。
でも、知りたい。
その二つの感情が胸の中でぶつかる。
朔夜は鈴音の手元に紙を置いた。
「書けるか」
鈴音は頷き、震える指で筆を取った。
夢で聞いた言葉を書こうとする。
『この子が喋れば、すべて終わる』
書いた瞬間、黒い靄が紙の上に滲んだ。
鈴音は息を呑む。
朔夜はその靄を指先ですくい上げた。
「これも嘘の欠片だ」
黒い靄は、虫のように蠢いている。
朔夜はそれを見つめ、静かに口元へ運んだ。
そして喰らった。
闇を噛み砕くような音がした。
鈴音の喉の痛みが少し引く。
朔夜は鈴音を見た。
「鈴音」
名を呼ばれる。
鈴音は、涙で濡れた顔を上げた。
「俺は人を喰わない」
朔夜は低く、はっきりと言った。
「だが、お前を縛る嘘なら喰う」
鈴音の胸が大きく震えた。
朔夜は続ける。
「お前が望むなら、喉に絡んだ嘘も、過去を覆う嘘も、すべて喰らってやる」
鈴音は紙を見つめた。
自分が何を言おうとしていたのか。
母の死の夜に何があったのか。
誰が自分の声を奪ったのか。
知るのは怖い。
でも、もう知らないふりをして生きたくない。
鈴音は筆を握った。
今度は震えずに、ゆっくりと書いた。
『私の声を、取り戻したいです』
朔夜はその文字を見て、深く頷いた。
そして、鈴音の前に片膝をついた。
鬼神であるはずの男が、まるで誓いを立てるように。
「ならば俺が、お前の嘘を喰らってやる」
社の鈴が鳴った。
ちりん。
夜の奥で、その音は長く長く響いた。
鈴音は喉に手を当てる。
声はまだ出ない。
けれど、胸の奥では確かに何かが動き始めていた。
それは、失われた声が帰るための、最初の音だった。
そう言われても、自分の身に何が起きたのか、まだ少しも理解できなかった。
夜の社は静かだった。
山の奥にあるというのに、獣の鳴き声すら聞こえない。風が木々を揺らす音も遠く、まるでこの社だけが世界から切り離されているようだった。
鈴音は、社の奥にある一室へ通された。
古い畳の香りがする部屋だった。床の間には白い花が生けられ、隅には小さな行灯が置かれている。灯りは淡く、部屋の影をやわらかく揺らしていた。
鬼神の住まう場所など、もっと恐ろしいところだと思っていた。
血の匂いがして、骨が転がっていて、花嫁たちの悲鳴が染みついた場所。
村で語られていた鬼神の社は、いつもそういう場所だった。
けれど、目の前の部屋は清められていて、寒さをしのぐための火鉢まで用意されていた。
それがかえって怖かった。
優しいものほど、あとで裏切られると知っているからだ。
鈴音は部屋の中央に座ったまま、膝の上で手を握りしめていた。
白無垢の袖は、土で少し汚れている。山道で転びそうになったときについた汚れだった。常盤家なら、きっと叱られている。
役目の花嫁なのに、みっともない。
そう言われるに決まっていた。
鈴音は袖の汚れを指で隠そうとした。
そのとき、襖の向こうから足音が近づいてきた。
鈴音の肩がびくりと震える。
入ってきたのは、朔夜だった。
黒衣をまとった鬼神は、先ほどと変わらず美しかった。月明かりのように白い肌。夜そのものを流したような黒髪。人ならざる金の瞳。
その瞳が鈴音を見た瞬間、鈴音は反射的に身を縮めた。
喰われる。
頭の奥で、綾乃の声が蘇る。
――怖がらなくていいのよ。喰べられるのは、きっと一瞬だから。
息が浅くなる。
喉が痛い。
声が出ないのに、叫びそうになる。
朔夜はそれに気づいたのか、部屋の入口で足を止めた。
「近づかぬ方がいいか」
鈴音は目を見開いた。
問いかけられたことに驚いた。
常盤家では、鈴音の意思など尋ねられなかった。食べるものも、着るものも、眠る場所も、行く先も、いつも誰かが勝手に決めた。
嫌かどうかなど、誰も聞かなかった。
それなのに鬼神は、鈴音が怯えていると見て、近づかずに立ち止まった。
鈴音は、どう答えればいいかわからない。
首を横に振るのも怖い。頷くのも失礼かもしれない。
迷っていると、朔夜は静かに言った。
「無理に答えなくてよい。ここへ置く」
朔夜は部屋の入口近くに盆を置いた。
そこには、温かい粥と、湯気の立つ椀、漬物が少し、そして小さな甘い菓子がのっていた。
鈴音は盆を見つめた。
食事。
自分のために用意された食事。
鬼神の社で最初に出されたものが、牙でも刃でもなく、粥であることが信じられなかった。
「毒など入っていない」
朔夜が淡々と言う。
「人を喰うつもりなら、わざわざ粥を出す意味もない」
その言葉に、鈴音は思わず顔を上げた。
朔夜の表情は変わらない。
けれど、ほんのわずかに困っているようにも見えた。
「もっとも、俺が言っても信じられぬだろうが」
鈴音は盆へ視線を落とす。
腹は空いていた。
朝からまともなものを食べていない。白無垢を着せられる前に、女中が冷えた飯を少し置いていっただけだった。
けれど食べていいのかわからない。
花嫁として差し出された自分に、食事を与える理由がわからない。
鈴音が動けずにいると、朔夜は少し眉を寄せた。
「箸が持てぬほど弱っているのか」
違う。
鈴音は慌てて首を横に振った。
食べられます。
そう伝えたいのに、声が出ない。
手で何かを示そうとして、途中で止まる。どうすればいいのかわからない。
すると朔夜は、懐から紙と筆を取り出した。
先ほど鈴音の名を書かせたものとは違い、きちんとした筆談用の紙だった。
「声が出ぬなら、書けばよい」
鈴音はまた驚いた。
用意してくれたのか。
自分のために。
朔夜は紙と筆を畳の上に置くと、鈴音から少し離れた場所に座った。近すぎず、遠すぎない距離だった。
鈴音はそろそろと手を伸ばし、筆を取る。
指がかじかんでいて、うまく動かなかった。
それでも鈴音は紙に書いた。
『食べても、よいのですか』
書いてから、自分で胸が痛くなった。
なんて情けない問いだろう。
食べてもよいか。
生きていてもよいかと聞いているようなものだ。
朔夜はその文字を見て、しばらく黙った。
怒らせただろうか。
鈴音が身を固くすると、朔夜は低く言った。
「食べるために出した」
そして、少しだけ声を和らげた。
「温かいうちに食べろ。喉に痛みが残っているはずだ。粥なら通る」
鈴音は喉元を押さえた。
確かに、まだ痛む。
第1章で朔夜が黒い糸を噛み切ったあとから、喉の奥にずっと熱が残っている。けれど以前のような締めつける痛みではない。
少し、息がしやすい。
鈴音は盆を引き寄せ、箸を取った。
粥を一口すくい、恐る恐る口に運ぶ。
温かかった。
米の甘みと、ほんの少しの塩気。胃の中に落ちていくと、体の奥からじんわりと熱が広がる。
鈴音はもう一口食べた。
それから、また一口。
気づけば手が止まらなくなっていた。
常盤家で食べるものは、いつも冷えていた。余り物か、誰かが手をつけなかったもの。味があるかどうかより、腹を満たせればよいというものばかりだった。
こんなふうに、自分の体を気遣うための食事を出されたのは、いつ以来だろう。
鈴音は粥を食べながら、涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。
泣くな。
泣けば、また弱いと思われる。
そう自分に言い聞かせる。
けれど朔夜は、鈴音が涙をこらえていることに気づいても、何も言わなかった。
憐れむような顔もしない。
ただ静かに、火鉢の炭を足している。
その沈黙が、不思議と怖くなかった。
食事を終えると、鈴音は紙に書いた。
『ありがとうございます』
朔夜は一瞬、その文字を見つめた。
「礼を言われることではない」
そう言ってから、少し間を置いた。
「だが、受け取っておく」
鈴音は小さく頷いた。
そのとき、廊下の向こうから勢いよく足音が響いた。
「朔夜さま!」
襖がすぱんと開く。
現れたのは、十二、三歳ほどの少年だった。白茶の髪に、琥珀色の瞳。人間の子どものように見えるが、頭の上にはぴんと立った狐の耳があり、背後にはふさふさした尾が揺れている。
鈴音は驚いて筆を落としそうになった。
少年は鈴音を見るなり、露骨に顔をしかめた。
「本当に連れてきたんですか、その花嫁」
「千景」
朔夜の声が低くなる。
少年――千景は肩をすくめた。
「だって、また村の連中が押しつけてきたんでしょう? どうせ泣いて喚いて、明日には帰りたいって言い出しますよ」
鈴音はうつむいた。
泣いて喚く。
自分には、それすらできない。
千景は鈴音の白無垢をじろじろと見た。
「しかも声が出ないって。村もひどいことしますよね。黙ってるから都合がいいってことですか」
その言葉は、鋭く胸に刺さった。
けれど、千景の声には嘲りだけではなく、怒りも混じっているように聞こえた。
朔夜が言う。
「この娘は鈴音だ」
「名前なんて聞いてません」
「なら今聞いた。覚えろ」
千景は不満そうに唇を尖らせた。
「……鈴音」
少年が名を呼ぶ。
ぎこちない呼び方だったが、それでも鈴音は顔を上げた。
また、名前を呼ばれた。
今日は二度も。
千景はその反応に少し気まずそうな顔をした。
「な、なんですか」
鈴音は慌てて首を横に振る。
何でもありません。
ただ、名前を呼ばれたのが嬉しかった。
そんなこと、説明しようもない。
千景は鼻を鳴らした。
「まあいいですけど。朔夜さま、本当にこの子を置くんですか? また人間に裏切られるだけです」
また。
その言葉に、鈴音は引っかかった。
朔夜は千景を見た。
「下がれ」
「でも」
「下がれ、千景」
今度の声には、命令があった。
千景は耳を伏せる。
「……はいはい。わかりましたよ。鈴音さん、変なことしたら許しませんからね。朔夜さまは優しすぎるんです」
そう言い残して、千景は襖を閉めた。
部屋に再び静けさが戻る。
鈴音は紙を引き寄せ、迷いながら書いた。
『また、とは何ですか』
書いてから、踏み込みすぎたかもしれないと不安になる。
朔夜はすぐには答えなかった。
火鉢の赤い炭を見つめ、低く言う。
「昔も、花嫁が来たことがある」
鈴音は息を止めた。
花嫁。
自分の前に、誰かがいた。
その人はどうなったのだろう。
やはり、鬼神に喰われたのだろうか。
鈴音の顔に出ていたのか、朔夜は目を伏せた。
「俺は喰っていない」
その言葉は、弁解のようではなかった。
ただ、長い間誰にも信じられなかった事実を、淡々と置いたようだった。
「だが村では、俺が喰ったことになっている」
鈴音は紙に書く。
『なぜ』
「その方が、人には都合がよかったのだろう」
朔夜の声は静かだった。
けれど、その静けさの底に深い疲れがある。
鈴音はそれ以上、聞けなかった。
朔夜は話を変えるように、鈴音の喉元へ視線を向けた。
「先ほどの続きだ。お前の喉には嘘が絡んでいる」
鈴音は無意識に喉を押さえた。
あの黒い糸。
自分の中から引き出された、気味の悪いもの。
「人の嘘には種類がある。ただの見栄。保身。優しさのためにつくもの。誰かを傷つけるためのもの。そして、誰かの人生を縛るためのもの」
朔夜は鈴音を見た。
「お前に絡んでいるのは最後のものだ」
鈴音は指先が冷たくなるのを感じた。
誰かの人生を縛る嘘。
それが、自分の喉にある。
「この呪いは、お前が真実を言おうとすると強く締まる。だからお前は、言葉を発しようとするたびに痛む。特に、過去に関わることや、誰かが隠した罪に触れることを言おうとしたときはな」
鈴音の脳裏に、いくつもの記憶がよぎる。
母が死んだ夜のことを思い出そうとしたとき。
父に何かを訴えようとしたとき。
綾乃の言葉に「違う」と言おうとしたとき。
いつも喉が焼けた。
声が出ないのではない。
出そうとすると、止められていた。
鈴音は震える手で筆を取った。
『誰が』
短い文字。
けれど、書いた瞬間に喉が痛んだ。
鈴音は苦しげに息を吸う。
朔夜がすぐに手を伸ばしかけ、途中で止める。
「触れてよいか」
鈴音は驚いた。
こんなときでさえ、朔夜は許しを求める。
鈴音は迷ったあと、小さく頷いた。
朔夜の指が喉に触れる。
今度は、最初ほど怖くなかった。
冷たい指先から、不思議な力が流れ込む。喉の奥を締めていた痛みが、少しずつ緩んでいく。
「まだ探れぬ。呪いが深すぎる」
朔夜が言う。
「無理に剥がせば、お前の声そのものを壊す」
鈴音は目を伏せた。
声そのものを壊す。
では、今の自分はまだ壊れきってはいないのだろうか。
取り戻せるのだろうか。
鈴音は紙に書いた。
『声は、戻りますか』
朔夜は迷わず答えた。
「戻る」
鈴音の指が止まった。
あまりにもはっきり言われたので、胸がついていけなかった。
本当に。
本当に、戻るのか。
また誰かの名を呼べるのか。
ありがとうも、嫌ですも、違いますも、助けてすら言えなかった自分が。
「ただし、一度にではない」
朔夜は続ける。
「喉に絡んだ嘘を一つずつ喰らい、お前自身が封じられた記憶と向き合う必要がある。声は喉だけのものではない。お前が何を言おうとしていたのかを思い出さねば、本当には戻らぬ」
鈴音は膝の上で手を握った。
何を言おうとしていたのか。
母が死んだ夜。
自分は何を叫ぼうとしたのか。
思い出そうとすると、また胸がざわめく。
暗い部屋。倒れている母。血のような匂い。誰かの手。綾乃の声。八重の冷たい指。
そして、幼い自分が叫ぼうとしていた言葉。
そこまで思い出しかけて、鈴音は息を詰まらせた。
怖い。
思い出すのが怖い。
でも、知らないままでは、ずっとこのままだ。
鈴音は筆を取った。
手が震えて、字が少し歪む。
『私は、何を言おうとしていたのですか』
書いた瞬間、部屋の空気が変わった。
行灯の火が小さく揺れ、社のどこかで鈴が鳴る。
ちりん。
朔夜はその文字をじっと見つめた。
そして、ゆっくりと鈴音を見る。
「それを知る覚悟があるか」
鈴音はすぐには頷けなかった。
覚悟。
そんな立派なものが、自分にあるのかわからない。
ただ、このまま黙ったまま死にたくない。
自分を災いと呼んだ人たちに、違うと言いたい。
母が死んだ夜に何があったのかを知りたい。
そしてもし本当に誰かが自分の声を奪ったのなら、その人に問いたい。
どうして、と。
鈴音はもう一度、筆を走らせた。
『怖いです』
正直な言葉だった。
書いたあと、怒られるかと思った。
覚悟が足りないと、呆れられるかと思った。
けれど朔夜は、ただ頷いた。
「怖くて当然だ」
鈴音は顔を上げる。
朔夜は静かに言った。
「真実は、いつも優しいものではない。時に、嘘よりも鋭く人を傷つける」
鈴音は紙を見る。
朔夜は続ける。
「だが、嘘に縛られたまま生きるよりはいい。少なくとも、俺はそう思う」
鈴音は、その言葉を胸の中で繰り返した。
嘘に縛られたまま生きるよりはいい。
自分のこれまでの人生は、まさにそれだったのだろうか。
誰かがついた嘘の中で、鈴音は災いの娘にされた。声を失った娘にされた。何も言えない娘にされた。
でも本当は違うのかもしれない。
鈴音は深く息を吸った。
喉はまだ痛む。けれど、息は通る。
今夜、初めて少しだけ、自分の中に道ができたような気がした。
鈴音は紙に書いた。
『声を取り戻したいです』
書いた瞬間、涙が落ちた。
墨が少しにじむ。
鈴音は慌てて袖で拭おうとした。
その前に、朔夜が別の布を差し出した。
「白無垢で拭くな。汚れる」
鈴音は布を受け取った。
柔らかな手拭いだった。
常盤家では、汚れるから泣くなと言われた。
けれど朔夜の声は、泣くなとは言っていなかった。ただ、袖ではなく手拭いを使えと言っただけだった。
それが妙におかしくて、鈴音は涙の中でほんの少しだけ息を漏らした。
笑ったつもりだった。
声は出なかったが、朔夜はそれを見て、わずかに目を細めた。
「その方がよい」
鈴音は首を傾げる。
朔夜は言う。
「怯えているより、ずっとよい」
胸が熱くなった。
鈴音は慌てて視線を落とす。
鬼神なのに。
人を喰うと恐れられているのに。
どうしてこの人の言葉は、常盤家の誰よりも怖くないのだろう。
そのとき、部屋の外から千景の声がした。
「朔夜さま、湯殿の準備できましたよ。あと、替えの着物も。花嫁衣装のまま寝かせるわけにはいかないでしょう」
朔夜が立ち上がる。
「聞こえたか。湯を使え。山道で冷えただろう」
鈴音は驚いて首を横に振りそうになった。
そんな贅沢は。
そう思ったが、朔夜は先に言った。
「遠慮はいらぬ。ここにいる間、お前は客ではない。俺の花嫁だ」
花嫁。
その言葉に、鈴音の胸が跳ねる。
生贄ではない。
餌ではない。
鬼神はそう言った。
鈴音は紙に書いた。
『私は、何をすればよいのですか』
朔夜は少し考えた。
「まず食べる。眠る。体を温める」
鈴音は目を瞬かせる。
「声を取り戻すのは、それからだ。壊れかけた者に無理をさせる趣味はない」
壊れかけた者。
その言葉は少し痛かった。
けれど同時に、胸の奥がほどけるようだった。
壊れていると言われたのではない。
壊れかけているから、これ以上壊さないと言われた。
鈴音は小さく頷いた。
湯殿へ向かう前、朔夜は部屋を出ようとして、ふと足を止めた。
「鈴音」
名を呼ばれて、鈴音は顔を上げる。
朔夜は振り返らずに言った。
「お前がこの社にいる限り、誰にも勝手に黙らせはしない」
鈴音は息を呑んだ。
それは守るという言葉よりも、鈴音にとっては強かった。
黙らせない。
誰にも。
鈴音は紙を手に取り、急いで書いた。
『朔夜さまは、なぜ私を助けるのですか』
朔夜は振り返った。
金の瞳に、行灯の火が映る。
その光の奥に、一瞬だけ、深い後悔のようなものが揺れた。
「昔、助けられなかった声がある」
鈴音は動けなくなる。
「だから今度は、聞き逃したくない」
朔夜はそれだけ言って、襖を閉めた。
鈴音はしばらく、その場に座ったままだった。
昔、助けられなかった声。
それは、先ほど千景が言っていた「また」という言葉と関係しているのだろうか。
前の花嫁。
村では鬼神に喰われたと語られている誰か。
鈴音は喉に手を当てた。
自分の声も、誰かに聞き逃され続けてきた。
でも朔夜は、聞くと言った。
聞き逃したくないと。
その言葉を信じていいのか、まだわからない。
鬼神は人を喰わないと言った。
けれど、村も家族も、ずっと逆のことを教えてきた。
何が嘘で、何が本当なのか。
鈴音にはまだわからない。
けれど少なくとも、今夜、鈴音は喰われなかった。
温かい粥を与えられた。
筆を与えられた。
名前を呼ばれた。
声は戻ると言われた。
それだけで、胸の奥に小さな灯りがともる。
鈴音は、畳の上に置いた紙を見た。
『声を取り戻したいです』
にじんだ墨の文字。
それは、鈴音が久しぶりに自分のために書いた願いだった。
しばらくして、湯を終えた鈴音は、白無垢ではなく淡い水色の着物を着せられた。
千景が用意したものらしい。
「古いけど、清めてありますから」
千景はそう言って、目を合わせない。
鈴音が紙に『ありがとうございます』と書くと、千景は耳を赤くしてそっぽを向いた。
「別に。朔夜さまの命令です」
湯で温まった体は、久しぶりに軽かった。
布団も敷かれていた。
ふかふかというほどではないが、清潔で、日干しした匂いがした。
鈴音は布団に入る前、部屋の隅に置かれた筆と紙を見た。
声はない。
けれど今夜、鈴音には言葉を書く場所があった。
それだけで、ひとりではないような気がした。
眠りにつく直前、襖の向こうで朔夜の気配がした。
見張っているのだろうか。
それとも、守っているのだろうか。
鈴音にはまだわからない。
ただ、不思議と怖くなかった。
夜半、鈴音は夢を見た。
暗い部屋。
倒れている母。
幼い自分の手に触れる、冷たくなった指。
誰かが言う。
「見てはいけません」
また別の誰かが言う。
「この子が喋れば、すべて終わる」
幼い鈴音は泣いている。
喉が裂けるほど叫ぼうとしている。
お母さまは――。
そこまで言いかけた瞬間、黒い糸が口の中に入り込んだ。
鈴音は目を覚ました。
喉が痛い。
息が苦しい。
布団の上で体を丸めると、襖が開いた。
「鈴音」
朔夜が駆け寄ってくる。
今度は許しを求める余裕もないのか、すぐに鈴音の喉へ手を当てた。
冷たい力が流れ込み、痛みが少しずつ退いていく。
鈴音は涙を流しながら、必死に息を吸った。
「夢を見たな」
鈴音は震えながら頷く。
朔夜の瞳が険しくなる。
「呪いが反応している。お前が真実へ近づいた証だ」
鈴音は布団の中で指を握る。
怖い。
でも、知りたい。
その二つの感情が胸の中でぶつかる。
朔夜は鈴音の手元に紙を置いた。
「書けるか」
鈴音は頷き、震える指で筆を取った。
夢で聞いた言葉を書こうとする。
『この子が喋れば、すべて終わる』
書いた瞬間、黒い靄が紙の上に滲んだ。
鈴音は息を呑む。
朔夜はその靄を指先ですくい上げた。
「これも嘘の欠片だ」
黒い靄は、虫のように蠢いている。
朔夜はそれを見つめ、静かに口元へ運んだ。
そして喰らった。
闇を噛み砕くような音がした。
鈴音の喉の痛みが少し引く。
朔夜は鈴音を見た。
「鈴音」
名を呼ばれる。
鈴音は、涙で濡れた顔を上げた。
「俺は人を喰わない」
朔夜は低く、はっきりと言った。
「だが、お前を縛る嘘なら喰う」
鈴音の胸が大きく震えた。
朔夜は続ける。
「お前が望むなら、喉に絡んだ嘘も、過去を覆う嘘も、すべて喰らってやる」
鈴音は紙を見つめた。
自分が何を言おうとしていたのか。
母の死の夜に何があったのか。
誰が自分の声を奪ったのか。
知るのは怖い。
でも、もう知らないふりをして生きたくない。
鈴音は筆を握った。
今度は震えずに、ゆっくりと書いた。
『私の声を、取り戻したいです』
朔夜はその文字を見て、深く頷いた。
そして、鈴音の前に片膝をついた。
鬼神であるはずの男が、まるで誓いを立てるように。
「ならば俺が、お前の嘘を喰らってやる」
社の鈴が鳴った。
ちりん。
夜の奥で、その音は長く長く響いた。
鈴音は喉に手を当てる。
声はまだ出ない。
けれど、胸の奥では確かに何かが動き始めていた。
それは、失われた声が帰るための、最初の音だった。



