花嫁の声を食べる鬼神さま

 社が燃え落ちた夜、山には長い雨が降った。

 炎を消すための雨だったのか、誰かの涙だったのか、鈴音にはわからなかった。

 黒い煙が夜空へ溶け、焼けた木の匂いが山に沈んでいく。村人たちは、誰も大きな声を出さなかった。ただ濡れながら立ち尽くし、崩れた社と、その前で黒い羽織を抱きしめる鈴音を見ていた。

 朔夜の姿は、どこにもなかった。

 残っていたのは、焦げた黒い羽織だけ。

 それでも鈴音は、その羽織を離せなかった。

 胸に抱けば、まだわずかに朔夜の気配がした。夜のように冷たく、山の水のように澄んだ気配。鈴音の喉に絡む嘘を見つけ、喰らい、何度も隣に立ってくれた鬼神の気配。

「朔夜さま」

 鈴音は何度も呼んだ。

 声は出た。

 もう、喉は完全には閉じなかった。

 けれど返事はなかった。

 雨だけが、鈴音の声に答えるように降り続いた。

 綾乃は、社から少し離れた場所で千景に支えられていた。

 泣いていた。

 いつもの美しい泣き方ではなかった。誰かに見せるための涙ではなく、喉の奥から壊れていくような泣き方だった。

「私が……」

 綾乃は何度も同じ言葉を繰り返していた。

「私が、燃やした……私が……」

 鈴音は振り返らなかった。

 許せなかった。

 社を燃やしたことも、鈴音の声を奪ったことも、母の死の夜に呪具を鳴らしたことも。

 けれど、もう綾乃を責める言葉も出なかった。

 綾乃の罪は、鈴音が言葉で刺して終わるものではない。

 これから綾乃自身が、生きて背負うものだ。

 夜明け前、雨が弱まった頃、村人たちが常盤家へ向かった。

 父、宗一郎は抵抗しなかった。

 母・澄乃の死を病と偽ったこと。常盤家が鬼神信仰を利用して村の供物や金を私したこと。百年前の琴乃の死を「鬼に喰われた花嫁」として隠した記録を封じたこと。

 帳面と鈴が、すべてを語っていた。

 八重は最後まで叫んだ。

「私は綾乃を守ろうとしただけです!」

 けれどその声からは、黒い糸がいくつも漏れていた。

 村人たちは、もうそれを見ないふりができなかった。

 鈴音の声によって、一度形を持った嘘は、誰の目にも見えるものになっていた。

 宗一郎は当主の座を失った。

 常盤家は祭礼を取り仕切る権限を奪われ、蔵に眠っていた記録は村の前に開かれた。長老たちは、自分たちの家にも百年前の記録が残っているかを調べることになった。

 八重は、澄乃への毒、鈴音の声を封じる呪い、綾乃を利用して呪具を鳴らさせた罪を問われた。彼女は泣き崩れ、最後には何も言わなくなった。

 綾乃は、命を取り留めた。

 けれど常盤家には戻らなかった。

 戻れなかったのか、戻らなかったのか、鈴音にはわからない。

 ただ、綾乃は目を覚ましたあと、自分から村の人々の前に出た。

 顔色は青白く、髪は短く焼け、手には火傷の跡が残っていた。

 かつての偽りの姫君の面影は、まだある。

 けれど、その美しさはもう人を従わせるものではなかった。

 綾乃は震える声で言った。

「私は、鈴音の声を奪う呪いに関わりました」

 村人たちは静まり返った。

「母に従ったから。琴乃さまの声に唆されたから。そう言うことはできます。でも、鈴音の声がなければいいと思ったのは、私です」

 鈴音は、その場にいた。

 朔夜の羽織を腕に抱いたまま、姉の言葉を聞いていた。

 綾乃は鈴音を見た。

 涙は流していなかった。

「鈴音。あなたに許してほしいとは言いません」

 鈴音の喉が、少しだけ熱を持った。

 だが、痛みではなかった。

 綾乃は深く頭を下げた。

「ごめんなさい」

 その言葉で、何も消えはしなかった。

 声を奪われた年月も、母を失った夜も、常盤家で俯き続けた日々も。

 けれど、嘘ではなかった。

 少なくとも、その謝罪に黒い糸はなかった。

 鈴音は長い間、黙っていた。

 そして、静かに言った。

「私は、あなたを許せません」

 綾乃の肩が震えた。

「はい」

「でも、あなたが生きて罪を背負うことを、見ています」

 綾乃は顔を上げた。

 鈴音は続けた。

「逃げないでください」

 それだけだった。

 綾乃は唇を噛み、もう一度深く頭を下げた。

「はい」

 その日から、綾乃は村外れの古い家で暮らすことになった。村の仕事を手伝い、焼けた社の片づけにも加わった。

 誰も彼女を姫君とは呼ばなくなった。

 けれど、誰も石を投げなかった。

 鈴音がそれを望まなかったからだ。

 社の跡地には、焼け残った鈴がいくつか見つかった。

 琴乃の鈴も、その中にあった。

 黒ずんだ鈴は割れていたが、完全には砕けていなかった。鈴音がそっと手に取ると、かすかな音が鳴った。

 ちりん。

 その音は、以前より少し澄んでいた。

 琴乃の怨みは、すべて消えたわけではない。

 けれど、彼女はもう、ただの災いではなかった。

 百年前、真実を告げようとして殺された花嫁。

 鬼に喰われたのではないと、ようやく言ってもらえた少女。

 村人たちは、その鈴の前に花を供えた。

 最初に花を置いたのは、鈴音だった。

 次に千景。

 そして少し遅れて、綾乃が白い花を置いた。

 綾乃は鈴の前で長く黙っていた。

「琴乃さま」

 綾乃は小さく言った。

「私、あなたを言い訳にしません」

 鈴は答えなかった。

 けれど風が吹き、白い花が小さく揺れた。

 朔夜は戻らなかった。

 社を燃やした黒い炎と、村中の嘘と、常盤家に残っていた穢れを自分の中へ封じ込めたのだと、千景は言った。

「消えたわけじゃないと思います」

 千景は、焼け跡の前で何度もそう言った。

「朔夜さまは、そんなに簡単に消えません。あの方、しぶといですから。すごくしぶといですから」

 けれど、声は震えていた。

 鈴音は黒い羽織を抱きしめる。

「どこにいるのですか」

 千景は唇を噛んだ。

「たぶん、社の奥です。見えない場所に沈んでいるんです。穢れを鎮めるために、深い眠りについているのかもしれません」

「呼べば、届きますか」

 鈴音が聞くと、千景は少し迷ってから答えた。

「鈴音さんの声なら、届くかもしれません」

 それから毎日、鈴音は焼け跡に立った。

 朝に一度。

 夕暮れに一度。

 母の鈴と、守り紐の鈴を胸に下げ、黒い羽織を抱いて、朔夜の名を呼んだ。

「朔夜さま」

 最初は、声が震えた。

 泣いてしまう日もあった。

 雨の日も、風の日も、鈴音は呼び続けた。

「朔夜さま」

 返事はない。

 それでも呼んだ。

 自分の声は、もう奪われない。

 そう確かめるように。

 朔夜に届くと信じるように。

 村人たちは、少しずつ変わり始めた。

 すぐに清らかな村になったわけではない。

 人は嘘をつく。

 都合の悪いものから目をそらす。

 誰かのせいにしたくなる。

 けれど、そのたびに村人たちは社の焼け跡を見上げた。

 鬼神に押しつければ済む。

 災いの娘のせいにすれば済む。

 そう思うことが、もうできなくなっていた。

 新しい社を建てようという話が出たのは、焼け落ちた夜から七日後だった。

 最初に言い出したのは、かつて鈴音を責めていた村人のひとりだった。

「鬼神さまに詫びるためではない」

 その男は、皆の前で言った。

「今度は、嘘を押しつけるための社ではなく、真実を忘れないための社を建てたい」

 鈴音は、その言葉に黒い糸がないことを見た。

 だから頷いた。

 新しい社は、村人たちの手で建てられた。

 常盤家の金ではなく、村人たちが自分たちで出し合った木材と労力で。

 綾乃も、火傷の残る手で木片を運んだ。

 八重と宗一郎は、もうそこにはいなかった。

 彼らの罪は村と近隣の役人へ報告され、常盤家は解体されることになった。屋敷の一部は記録所となり、蔵に残された帳面は、誰でも見られる形で保管された。

 鈴音は常盤家には戻らなかった。

 戻る理由がなかった。

 あの家は、鈴音の居場所ではない。

 鈴音が選んだ場所は、焼けた社の跡に建つ、新しい社だった。

 社が形になり始める頃、山には雪が降り始めた。

 季節外れの、薄い雪だった。

 白いものが、焼け跡に静かに積もっていく。

 焦げた木の匂いを覆うように。

 鈴音は新しい社の前に立ち、今日も朔夜の名を呼んだ。

「朔夜さま」

 声はもう、かすれなかった。

 痛みは少し残る。

 長く話せば疲れる。

 けれど、鈴音の声は鈴音のものだった。

 誰かに許可を求めなくても、出せる声。

 違うと言える声。

 ありがとうと言える声。

 行かないでと叫べる声。

 そして、愛しい人の名を呼べる声。

「朔夜さま」

 雪が降る。

 返事はない。

 鈴音は黒い羽織を胸に抱いた。

「まだ、戻りませんか」

 自分で言って、涙がこぼれそうになった。

 そのときだった。

 胸元の守り紐が鳴った。

 ちりん。

 母の鈴も鳴る。

 ちりん。

 そして、新しい社の奥から、聞き覚えのある鈴の音が響いた。

 ちりん。

 鈴音は顔を上げた。

 社の扉は、閉じていた。

 けれど、その隙間から黒い霧のようなものが流れ出してくる。

 穢れではない。

 夜の気配。

 山の水のように冷たく、澄んだ気配。

 鈴音の手から、黒い羽織がふわりと浮いた。

 まるで、持ち主のもとへ帰るように。

 鈴音は息を呑む。

「朔夜さま……?」

 社の扉が、音もなく開いた。

 雪の白い光の中に、黒衣の男が立っていた。

 長い黒髪。

 金色の瞳。

 少し痩せたように見えるが、その姿は確かに朔夜だった。

 鈴音は動けなかった。

 夢かもしれないと思った。

 呼び続けた声が作った幻かもしれないと。

 朔夜は、ゆっくり鈴音の方へ歩いてくる。

 黒い羽織が彼の肩へ戻った。

 そして、懐かしい低い声が言った。

「ずいぶん呼んだな」

 鈴音の目から、涙がこぼれた。

「呼びました」

 声が震える。

 けれど、今度はちゃんと音になった。

「何度も、呼びました」

 朔夜は鈴音の前で足を止める。

 その瞳が、鈴音をまっすぐに見た。

「聞こえていた」

 鈴音は泣きながら笑った。

「なら、もっと早く返事をしてください」

 朔夜は少しだけ目を細めた。

「穢れを鎮めるのに手間取った」

「また、全部ひとりで背負ったのですか」

「……少しだけだ」

 嘘だった。

 鈴音にはわかった。

 朔夜の口元から、ほんの少し黒い靄が出たからだ。

 鈴音は涙を拭い、言った。

「嘘です」

 朔夜が一瞬、驚いた顔をした。

 それから、困ったように笑った。

「そうだったな。お前にはもう、嘘はつけぬ」

 鈴音は胸がいっぱいになった。

 朔夜が戻った。

 目の前にいる。

 声が届いた。

 ずっと呼び続けた声が、届いていた。

 朔夜は、少しだけ真剣な顔になる。

「鈴音」

「はい」

「まだ、俺の花嫁でいる気はあるか」

 あの夜、社へ置き去りにされた鈴音なら、きっと答えられなかった。

 花嫁とは、生贄のことだと思っていたから。

 誰かに差し出されるものだと思っていたから。

 でも今は違う。

 花嫁とは、隣に立つ者。

 声を聞き合う者。

 嘘ではなく真実で結ばれる者。

 鈴音は母の鈴と守り紐を握った。

 そして、はっきりと声にした。

「何度でも言えます」

 雪が静かに降っている。

 朔夜の金色の瞳が、鈴音を映す。

「私は、あなたの花嫁です」

 朔夜の表情が、静かにほどけた。

 それは、鈴音が初めて見る笑顔だった。

 恐ろしい鬼神の笑みではない。

 嘘を喰い続け、百年の罪を抱えた神の笑みでもない。

 ただ、帰る場所を見つけた人のような笑顔だった。

 朔夜は鈴音の頬に触れた。

 冷たい指先。

 けれど、もう怖くない。

「では、俺も言おう」

 朔夜は低く囁いた。

「お前は俺の花嫁だ。生贄でも、餌でも、災いでもない。俺が隣に立つと決めた、ただ一人の花嫁だ」

 鈴音は泣きながら頷いた。

 その涙を、朔夜がそっと拭った。

 千景が、少し離れた場所で大きなくしゃみをした。

「感動的なところすみませんけど、寒いです! あと、朔夜さま戻ったなら最初に僕にも声かけてください!」

 鈴音は驚いて振り返る。

 千景は泣いた顔を隠すように、袖で鼻をこすっていた。

 朔夜が静かに言う。

「泣いているのか」

「泣いてません! 雪です!」

「目から雪が降るのか」

「朔夜さま!」

 そのやり取りに、鈴音は声を上げて笑った。

 自分の笑い声が、雪の中に響いた。

 それは、かつて母が春の鈴みたいだと言ってくれた声だった。

 少し形を変え、痛みを知り、それでも戻ってきた鈴音の声だった。

 新しい社には、三つの鈴が祀られた。

 母・澄乃の鈴。

 百年前の花嫁・琴乃の鈴。

 そして、鈴音の守り紐の鈴。

 琴乃の鈴は、完全には元に戻らなかった。

 割れ目は残ったままだ。

 けれど、その音は以前より澄んでいた。

 村人たちは、その鈴の前で頭を下げる。

 鬼に喰われた花嫁としてではなく、真実を告げようとして黙らされた巫女として。

 綾乃は、新しい社に毎月花を持ってくるようになった。

 鈴音とは、まだ姉妹のように笑い合うことはできない。

 鈴音は綾乃を許していない。

 けれど、花を置く綾乃の手が震えているとき、鈴音は何も言わずそばに立つ。

 それが今の二人にできる、精いっぱいだった。

 村は変わり続けている。

 嘘が消えたわけではない。

 人は、これからも嘘をつく。

 けれど、嘘を誰かに押しつけたとき、社の鈴が鳴る。

 ちりん。

 その音を聞くと、村人たちは立ち止まる。

 その嘘は、誰かを黙らせるためのものではないか。

 誰かに罪を押しつけるためのものではないか。

 そう考えるようになった。

 朔夜は、今も嘘を喰う。

 けれど以前のように、すべてを一人で呑み込むことはしなくなった。

 鈴音が隣に立つからだ。

 鈴音は、嘘の音を聞く。

 朔夜は、土地に溜まった穢れを祓う。

 二人の間で、鈴が鳴る。

 嘘を暴くためだけではなく。

 真実で誰かを裁くためだけでもなく。

 黙らされた声を、もう一度この世に響かせるために。

 ある春の朝。

 新しい社の庭に、白い花が咲いた。

 鈴音は縁側に座り、朔夜の隣でその花を見ていた。

 風が吹く。

 花が揺れる。

 鈴が鳴る。

 ちりん。

 朔夜が言った。

「鈴音」

「はい」

「声は痛むか」

 鈴音は少し笑った。

「少しだけ。でも、もう怖くありません」

「そうか」

「だって、痛くても言えますから」

 朔夜が鈴音を見る。

 鈴音は、まっすぐ彼を見返した。

「好きです、とか」

 朔夜の瞳がわずかに見開かれた。

 鈴音は頬が熱くなるのを感じながら、それでも目をそらさなかった。

「ありがとう、とか」

 風が、二人の間を通り抜ける。

「行かないで、とか」

 朔夜の手が、鈴音の手に重なった。

「もう、勝手には行かぬ」

「嘘ではありませんか」

「嘘ではない」

 鈴音には見えた。

 その言葉に、黒い糸はない。

 嘘ではない。

 鈴音は笑った。

「なら、信じます」

 朔夜は静かに鈴音の手を握った。

 その手は冷たい。

 けれど、鈴音はもう知っている。

 冷たい手でも、人を守れることを。

 鬼と呼ばれた神でも、誰より優しく声を聞けることを。

 そして、声を奪われた娘でも、自分の言葉で未来を選べることを。

 社の鈴が鳴る。

 ちりん。

 嘘を喰う鬼神と、真実を響かせる花嫁。

 二人は、もう誰かの嘘で結ばれた生贄と神ではない。

 互いの声を聞き、互いの痛みを知り、それでも隣に立つと選んだ夫婦だった。

 鈴音は朔夜の手を握り返す。

 そして、春の光の中で、もう一度言った。

「私は、あなたの花嫁です」

 今度は、誰にも奪われない声で。