花嫁の声を食べる鬼神さま

 山道の下から、赤い光が揺れていた。

 夜の闇を裂くように、炎が近づいてくる。

 ぱち、ぱち、と枝の爆ぜる音がする。乾いた落ち葉に火が移り、煙が低く流れてきた。

 鈴音は社の鳥居の前に立ち、喉に手を当てた。

 胸元では、母の鈴と守り紐の鈴が重なって鳴っている。

 ちりん。

 ちりん。

 その音は、警告のようでもあり、背中を押す音のようでもあった。

 千景が狐火をまといながら、鈴音の前へ出る。

「鈴音さん、下がってください。火を持っているのは綾乃さんですけど、中に何が残っているかわかりません」

 鈴音は首を横に振った。

「話します」

 声は掠れていたが、以前よりはっきりしていた。

 千景は困ったように耳を伏せる。

「そう言うと思いましたけど……」

 朔夜は黙っていた。

 ただ、鈴音の隣に立っている。

 彼の顔色はまだ悪い。村の嘘を喰らい、鬼へ堕ちかけたばかりだ。琴乃の記憶を開いたあとも、朔夜はほとんど休んでいない。

 それなのに、鈴音の前へ出るのではなく、隣に立ってくれている。

 鈴音はそれがわかった。

 守るだけではなく、鈴音が自分の声で向き合えるようにしてくれているのだ。

 赤い光が近づく。

 やがて鳥居の向こうに、白い着物姿の綾乃が現れた。

 手には燃える松明を持っている。

 髪は乱れ、頬には涙の跡があった。いつもの美しい姫君の姿ではない。病の儚さを装った顔でもない。

 ただ、傷つき、怒り、追い詰められたひとりの娘がそこにいた。

 綾乃は鈴音を見つけると、笑った。

 乾いた笑いだった。

「ここにいたのね」

 鈴音は一歩、前へ出た。

「綾乃さま」

「その声で呼ばないで」

 綾乃の顔が歪む。

「やっと戻った声で、私の名前を呼ばないで」

 その言葉に、鈴音の喉が少し痛んだ。

 けれど、黒い糸はもう以前のように鈴音を縛れなかった。

 母の鈴が鳴る。

 ちりん。

 綾乃の背後に、薄い白無垢の影が浮かぶ。

 琴乃だった。

 しかし、その姿はもう濃くない。赤い唇も笑っていない。ただ、綾乃の背中に残る古い悲しみのように揺れているだけだった。

 琴乃の怨みは、鈴音の声に触れ、少しほどけた。

 けれど、綾乃の中のものはまだ残っている。

 嫉妬。

 怒り。

 奪った罪。

 奪ったことを認められない恐れ。

 それは、琴乃だけのものではない。

 綾乃自身のものだった。

 綾乃は松明を掲げ、社を見上げた。

「ここを燃やせば、終わるかと思ったの」

 千景が牙を剥く。

「何を言ってるんですか!」

「鈴音の声も、鬼神さまも、琴乃さまの鈴も、澄乃さまの鈴も、全部ここにあるのでしょう?」

 綾乃は笑った。

「なら、全部燃やしてしまえばいい」

 鈴音の胸が冷える。

「綾乃さま、やめてください」

「やめて?」

 綾乃の目が鈴音へ戻る。

「あなたは私に、何をやめろと言うの? あなたを憎むこと? あなたの声を羨むこと? あなたばかり救われるのを見て、何も思わないこと?」

 鈴音は唇を結んだ。

 綾乃は一歩、鳥居をくぐる。

 炎の明かりが、彼女の顔を赤く染めた。

「あなたはいいわね、鈴音。声を奪われたかわいそうな娘。鬼神さまに見つけてもらって、母の真実まで取り戻して、今度は百年前の花嫁の声まで聞いてあげるの?」

 言葉が、炎のように鈴音へ向けられる。

「みんな、あなたを見ている。鬼神さまも、千景も、村人も、死んだ母親も、琴乃さままで」

 綾乃の声が震える。

「どうして、いつもあなたなの」

 それは第5章でも聞いた問いだった。

 けれど今は、もっと剥き出しだった。

 誰かに操られた声ではない。

 綾乃自身の叫びだった。

「私はずっと、ちゃんとしていた」

 綾乃は涙を浮かべた。

「笑いなさいと言われれば笑ったわ。泣くなと言われれば泣かなかった。常盤家の娘らしく、村人に優しく、父上に恥をかかせないように、母上の望む娘でいるように。ずっと、ずっと」

 松明の火が揺れる。

「それなのに、澄乃さまはあなたの声を褒めた。父上も、本当はあなたの力を恐れていた。恐れるということは、見ていたということよ。母上だって、あなたを消すために私を使った」

 鈴音は何も言えなかった。

 綾乃の痛みは本物だった。

 けれど、その痛みが自分の喉を焼いたことも本物だった。

 綾乃は、鈴音を睨んだ。

「私には何があったの? 綺麗な着物? 常盤家の誇り? 姫君? そんなもの、全部、私じゃないわ」

 その言葉に、鈴音の胸が痛む。

 偽りの姫君。

 綾乃もまた、自分を偽って生きていた。

 だが、その偽りの影で、鈴音は声を失った。

 鈴音は息を吸った。

 喉が痛む。

 それでも、声を出す。

「綾乃さまが、苦しかったことは……わかりました」

 綾乃の顔が一瞬だけ揺れる。

 鈴音は続けた。

「でも、私の声を奪っていい理由にはなりません」

 綾乃の涙が止まる。

 鈴音はまっすぐ姉を見た。

「羨ましかったから奪ったのですか」

 声が震える。

 怒りで。

 悲しみで。

「なら、私はあなたを許しません」

 綾乃の瞳が見開かれた。

 許さない。

 その言葉を、鈴音は初めてはっきり姉へ向けた。

 綾乃の唇が震える。

「……ひどい」

「はい」

 鈴音は頷いた。

「私は、ひどいと言われてもいいです。優しい妹にはなれません。あなたを許せません」

 炎の音が大きくなる。

 綾乃の手にある松明から火の粉が散った。

「でも、あなたを殺しません」

 綾乃の顔が歪む。

「殺せばいいじゃない」

 その声は、悲鳴に近かった。

「許せないなら、私を恨めばいい。琴乃さまみたいに、全部憎めばいい。そうすれば、あなたも少しは私の気持ちがわかるわ」

 鈴音は首を横に振る。

「恨みます」

 綾乃が黙る。

「私は、あなたを恨みます。声を奪われた夜を、忘れません。母の前で、あなたが黒い紐を鳴らしたことも、忘れません」

 鈴音の手が震えた。

 それでも、言った。

「でも、私の声を、恨むためだけには使いません」

 綾乃の背後の琴乃の影が、かすかに揺れた。

 鈴音は言葉を続ける。

「あなたの罪は、あなたが生きて背負ってください」

 綾乃は笑った。

 泣きながら、笑った。

「生きて? 何を背負って? 村人は私を姫君だと思っていたのよ。父上と母上は、私を常盤家の誇りだと言ったのよ。今さら、私が鈴音の声を奪いましたって言えばいいの?」

「はい」

「私が澄乃さまの死を見ていましたって? 鈴音が叫ぼうとしたのを、止めましたって? 母上に従って、呪具を鳴らしましたって?」

「はい」

「そんなこと、できるわけない!」

 綾乃が叫び、松明を社の方へ投げた。

 千景が狐火で弾こうとする。

 しかし松明は社の注連縄に当たり、乾いた藁に火が移った。

 ぱちん、と音がする。

 炎が一気に広がった。

「千景!」

 朔夜が叫ぶ。

「はい!」

 千景が狐火を放ち、延焼を止めようとする。

 だが、ただの火ではなかった。

 黒い靄が炎に混じっている。

 常盤家から、綾乃の中から、そして琴乃の残り香から出た嘘と怨みが、炎に絡みついている。

 社の柱に、黒い炎が走った。

 朔夜が手をかざし、炎を押し返す。

 けれど第11章で受けた穢れがまだ残っているせいか、力が鈍い。

 鈴音はそれに気づいた。

「朔夜さま!」

「下がれ!」

 朔夜の声が鋭い。

 社の奥には、花嫁たちの鈴がある。

 琴乃の鈴。

 母の記録。

 これまで黙らされてきた声たち。

 このまま燃えれば、それらも失われる。

 鈴音は足を踏み出した。

 千景が叫ぶ。

「鈴音さん、駄目です!」

 けれど綾乃も同時に動いた。

 炎の中へ、ふらふらと歩いていく。

「綾乃さま!」

 鈴音は叫んだ。

 綾乃は振り返らない。

 燃える社へ向かいながら、彼女は笑っていた。

「全部なくなればいいの」

 その声は弱かった。

「私も、あなたも、声も、鈴も、鬼神さまも。何も残らなければ、誰も責められない」

 鈴音は走った。

 炎の熱が頬を打つ。

 煙が喉に入る。

 朔夜が鈴音を止めようとするより早く、鈴音は綾乃の袖を掴んだ。

「来てください!」

 綾乃が振り返る。

 目には涙が溢れていた。

「どうして助けるの」

「殺したくないからです!」

 鈴音の声が炎の中で響いた。

「許さないと言ったでしょう。でも、死んで終わりにさせたくありません!」

 綾乃の顔が歪む。

「生きていたら、ずっと苦しいわ」

「そうです」

 鈴音は言った。

「背負うというのは、そういうことです」

 綾乃は、鈴音を見た。

 その顔から、怒りが少しずつ抜けていく。

 代わりに残ったのは、幼い子どものような怯えだった。

「私……本当は」

 綾乃の声が震える。

「鈴音に、見てほしかった」

 鈴音は息を呑む。

「羨ましかった。憎かった。でも、それだけじゃなかった。鈴音が声を失ってから、あなたは私を見なくなった。うつむいて、黙って、どこか遠くへ行ってしまった」

 綾乃の涙が炎の光を受けて光る。

「私が奪ったのに。私がそうしたのに。あなたが何も言わなくなったら、私は……もっと空っぽになった」

 鈴音は胸が痛んだ。

 綾乃は矛盾している。

 自分で奪いながら、奪った相手に見てほしかった。

 傷つけながら、傷ついた顔を見ることで自分の存在を確かめていた。

 その歪みが、哀れだった。

 でも、やはり許せない。

 鈴音は綾乃の手を掴んだ。

「出ましょう」

「鈴音……」

 その瞬間、綾乃の背後から黒い糸が伸びた。

 まだ残っていた琴乃の怨みではない。

 綾乃自身の、最後の悪意。

 自分だけが裁かれるくらいなら、鈴音も道連れにしたいという衝動。

 綾乃の目が、再び暗く染まる。

「でも、やっぱり嫌」

 鈴音の手を、綾乃が強く握り返した。

「あなたが生きて、幸せになるのを見るのは嫌」

 炎に包まれた梁が、音を立てて崩れ始める。

 千景が叫ぶ。

「鈴音さん!」

 朔夜が炎の中へ飛び込んだ。

 黒い衣が火を裂く。

 朔夜は鈴音へ手を伸ばした。

「鈴音!」

 鈴音は綾乃の手を離せなかった。

 離せば、綾乃は燃える。

 けれどこのままでは、自分も。

 綾乃の顔に、恐怖が戻った。

 自分が何をしているのか、今になって気づいたようだった。

「いや……私、死にたくない……」

 その言葉は、あまりにも人間らしかった。

 鈴音は声を振り絞る。

「千景さん!」

 千景が狐火を飛ばし、綾乃の足元を包む。

 綾乃の体が炎の外へ弾き出されるように転がった。

 千景が受け止める。

「重っ……じゃなくて、無事です!」

 鈴音は安堵した。

 その瞬間、頭上の梁が落ちた。

 朔夜が鈴音を抱き込む。

 強く、痛いほどに。

 黒い衣が視界を覆う。

 轟音。

 熱。

 煙。

 鈴音は朔夜の胸に抱かれたまま、何かが砕ける音を聞いた。

「朔夜さま……?」

 答えはない。

 けれど、朔夜の腕は鈴音を守るように強く回されている。

 鈴音は必死に顔を上げた。

 朔夜の背に、崩れた梁が落ちていた。

 黒い炎が、その体に絡みついている。

「朔夜さま!」

 鈴音は叫んだ。

 朔夜は苦しげに目を開ける。

 金色の瞳が、鈴音を見る。

「無事か」

 そんなことを聞くのか。

 こんなときまで、自分のことではなく鈴音のことを。

 鈴音は涙をこぼしながら首を横に振る。

「嫌です……朔夜さま、逃げて……」

「お前を置いては行かぬ」

 朔夜は、かすかに笑った。

 その笑みがあまりにも穏やかで、鈴音は怖くなった。

 炎の奥から、花嫁たちの鈴が鳴っている。

 ちりん。

 ちりん。

 その音が、朔夜の体へ集まっていく。

 彼は、社に残った穢れと炎を自分の中へ封じ込めようとしているのだ。

 鈴音はそれに気づいた。

「だめ!」

 声が裂ける。

「また、全部背負わないで!」

 朔夜は鈴音の頬に手を伸ばした。

 冷たい指先が涙を拭う。

「全部ではない」

 鈴音は息を詰める。

「お前が、声を残した」

 朔夜の体が、黒い光に包まれ始める。

 鈴音は必死に彼の衣を掴んだ。

「行かないで」

 言えた。

 今度は声で。

 あの日、部屋の入口に座る朔夜へ唇だけで伝えた願いを、今度は声で。

「朔夜さま、行かないで!」

 朔夜の瞳が揺れた。

 けれど黒い光は止まらない。

 炎と穢れが、朔夜を社の奥へ引き込もうとしている。

「鈴音」

 朔夜の声が遠くなる。

「お前はもう、黙らされぬ」

「そんな言葉を最後みたいに言わないで!」

 鈴音は叫んだ。

「私は、あなたの花嫁です。だから、勝手に置いていかないで!」

 朔夜は何かを言おうとした。

 けれど、その声は炎に飲まれた。

 次の瞬間、強い風が吹いた。

 鈴音の体が社の外へ押し出される。

 千景が叫びながら受け止めた。

「鈴音さん!」

 鈴音はすぐに起き上がろうとする。

 しかし、目の前で社が大きく崩れた。

 炎が夜空へ噴き上がる。

 黒い光が、その中心で一瞬だけ輝いた。

 そして、消えた。

 鈴音は呆然とした。

 音が遠い。

 千景が何か叫んでいる。

 綾乃が地面に倒れたまま泣いている。

 村人たちが山道の下から駆けつけてくる。

 でも、鈴音には何も聞こえない。

 燃え落ちた社の前に、黒い羽織が落ちていた。

 朔夜がいつもまとっていた羽織。

 鈴音はふらつきながら、それへ近づいた。

 熱で膝が震える。

 手を伸ばす。

 羽織は焦げていたが、まだ朔夜の気配が残っていた。

 冷たい、夜のような気配。

 鈴音はそれを抱きしめた。

「朔夜さま……」

 声が震える。

 返事はない。

 どこにも、朔夜の姿はなかった。

 鈴音は羽織を胸に抱き、燃え落ちる社の前で膝をついた。

 炎の中で、最後の鈴が鳴った。

 ちりん。

 それは、婚礼の鈴のようだった。

 けれど隣にいるはずの鬼神は、もうそこにはいなかった。