山道の下から、赤い光が揺れていた。
夜の闇を裂くように、炎が近づいてくる。
ぱち、ぱち、と枝の爆ぜる音がする。乾いた落ち葉に火が移り、煙が低く流れてきた。
鈴音は社の鳥居の前に立ち、喉に手を当てた。
胸元では、母の鈴と守り紐の鈴が重なって鳴っている。
ちりん。
ちりん。
その音は、警告のようでもあり、背中を押す音のようでもあった。
千景が狐火をまといながら、鈴音の前へ出る。
「鈴音さん、下がってください。火を持っているのは綾乃さんですけど、中に何が残っているかわかりません」
鈴音は首を横に振った。
「話します」
声は掠れていたが、以前よりはっきりしていた。
千景は困ったように耳を伏せる。
「そう言うと思いましたけど……」
朔夜は黙っていた。
ただ、鈴音の隣に立っている。
彼の顔色はまだ悪い。村の嘘を喰らい、鬼へ堕ちかけたばかりだ。琴乃の記憶を開いたあとも、朔夜はほとんど休んでいない。
それなのに、鈴音の前へ出るのではなく、隣に立ってくれている。
鈴音はそれがわかった。
守るだけではなく、鈴音が自分の声で向き合えるようにしてくれているのだ。
赤い光が近づく。
やがて鳥居の向こうに、白い着物姿の綾乃が現れた。
手には燃える松明を持っている。
髪は乱れ、頬には涙の跡があった。いつもの美しい姫君の姿ではない。病の儚さを装った顔でもない。
ただ、傷つき、怒り、追い詰められたひとりの娘がそこにいた。
綾乃は鈴音を見つけると、笑った。
乾いた笑いだった。
「ここにいたのね」
鈴音は一歩、前へ出た。
「綾乃さま」
「その声で呼ばないで」
綾乃の顔が歪む。
「やっと戻った声で、私の名前を呼ばないで」
その言葉に、鈴音の喉が少し痛んだ。
けれど、黒い糸はもう以前のように鈴音を縛れなかった。
母の鈴が鳴る。
ちりん。
綾乃の背後に、薄い白無垢の影が浮かぶ。
琴乃だった。
しかし、その姿はもう濃くない。赤い唇も笑っていない。ただ、綾乃の背中に残る古い悲しみのように揺れているだけだった。
琴乃の怨みは、鈴音の声に触れ、少しほどけた。
けれど、綾乃の中のものはまだ残っている。
嫉妬。
怒り。
奪った罪。
奪ったことを認められない恐れ。
それは、琴乃だけのものではない。
綾乃自身のものだった。
綾乃は松明を掲げ、社を見上げた。
「ここを燃やせば、終わるかと思ったの」
千景が牙を剥く。
「何を言ってるんですか!」
「鈴音の声も、鬼神さまも、琴乃さまの鈴も、澄乃さまの鈴も、全部ここにあるのでしょう?」
綾乃は笑った。
「なら、全部燃やしてしまえばいい」
鈴音の胸が冷える。
「綾乃さま、やめてください」
「やめて?」
綾乃の目が鈴音へ戻る。
「あなたは私に、何をやめろと言うの? あなたを憎むこと? あなたの声を羨むこと? あなたばかり救われるのを見て、何も思わないこと?」
鈴音は唇を結んだ。
綾乃は一歩、鳥居をくぐる。
炎の明かりが、彼女の顔を赤く染めた。
「あなたはいいわね、鈴音。声を奪われたかわいそうな娘。鬼神さまに見つけてもらって、母の真実まで取り戻して、今度は百年前の花嫁の声まで聞いてあげるの?」
言葉が、炎のように鈴音へ向けられる。
「みんな、あなたを見ている。鬼神さまも、千景も、村人も、死んだ母親も、琴乃さままで」
綾乃の声が震える。
「どうして、いつもあなたなの」
それは第5章でも聞いた問いだった。
けれど今は、もっと剥き出しだった。
誰かに操られた声ではない。
綾乃自身の叫びだった。
「私はずっと、ちゃんとしていた」
綾乃は涙を浮かべた。
「笑いなさいと言われれば笑ったわ。泣くなと言われれば泣かなかった。常盤家の娘らしく、村人に優しく、父上に恥をかかせないように、母上の望む娘でいるように。ずっと、ずっと」
松明の火が揺れる。
「それなのに、澄乃さまはあなたの声を褒めた。父上も、本当はあなたの力を恐れていた。恐れるということは、見ていたということよ。母上だって、あなたを消すために私を使った」
鈴音は何も言えなかった。
綾乃の痛みは本物だった。
けれど、その痛みが自分の喉を焼いたことも本物だった。
綾乃は、鈴音を睨んだ。
「私には何があったの? 綺麗な着物? 常盤家の誇り? 姫君? そんなもの、全部、私じゃないわ」
その言葉に、鈴音の胸が痛む。
偽りの姫君。
綾乃もまた、自分を偽って生きていた。
だが、その偽りの影で、鈴音は声を失った。
鈴音は息を吸った。
喉が痛む。
それでも、声を出す。
「綾乃さまが、苦しかったことは……わかりました」
綾乃の顔が一瞬だけ揺れる。
鈴音は続けた。
「でも、私の声を奪っていい理由にはなりません」
綾乃の涙が止まる。
鈴音はまっすぐ姉を見た。
「羨ましかったから奪ったのですか」
声が震える。
怒りで。
悲しみで。
「なら、私はあなたを許しません」
綾乃の瞳が見開かれた。
許さない。
その言葉を、鈴音は初めてはっきり姉へ向けた。
綾乃の唇が震える。
「……ひどい」
「はい」
鈴音は頷いた。
「私は、ひどいと言われてもいいです。優しい妹にはなれません。あなたを許せません」
炎の音が大きくなる。
綾乃の手にある松明から火の粉が散った。
「でも、あなたを殺しません」
綾乃の顔が歪む。
「殺せばいいじゃない」
その声は、悲鳴に近かった。
「許せないなら、私を恨めばいい。琴乃さまみたいに、全部憎めばいい。そうすれば、あなたも少しは私の気持ちがわかるわ」
鈴音は首を横に振る。
「恨みます」
綾乃が黙る。
「私は、あなたを恨みます。声を奪われた夜を、忘れません。母の前で、あなたが黒い紐を鳴らしたことも、忘れません」
鈴音の手が震えた。
それでも、言った。
「でも、私の声を、恨むためだけには使いません」
綾乃の背後の琴乃の影が、かすかに揺れた。
鈴音は言葉を続ける。
「あなたの罪は、あなたが生きて背負ってください」
綾乃は笑った。
泣きながら、笑った。
「生きて? 何を背負って? 村人は私を姫君だと思っていたのよ。父上と母上は、私を常盤家の誇りだと言ったのよ。今さら、私が鈴音の声を奪いましたって言えばいいの?」
「はい」
「私が澄乃さまの死を見ていましたって? 鈴音が叫ぼうとしたのを、止めましたって? 母上に従って、呪具を鳴らしましたって?」
「はい」
「そんなこと、できるわけない!」
綾乃が叫び、松明を社の方へ投げた。
千景が狐火で弾こうとする。
しかし松明は社の注連縄に当たり、乾いた藁に火が移った。
ぱちん、と音がする。
炎が一気に広がった。
「千景!」
朔夜が叫ぶ。
「はい!」
千景が狐火を放ち、延焼を止めようとする。
だが、ただの火ではなかった。
黒い靄が炎に混じっている。
常盤家から、綾乃の中から、そして琴乃の残り香から出た嘘と怨みが、炎に絡みついている。
社の柱に、黒い炎が走った。
朔夜が手をかざし、炎を押し返す。
けれど第11章で受けた穢れがまだ残っているせいか、力が鈍い。
鈴音はそれに気づいた。
「朔夜さま!」
「下がれ!」
朔夜の声が鋭い。
社の奥には、花嫁たちの鈴がある。
琴乃の鈴。
母の記録。
これまで黙らされてきた声たち。
このまま燃えれば、それらも失われる。
鈴音は足を踏み出した。
千景が叫ぶ。
「鈴音さん、駄目です!」
けれど綾乃も同時に動いた。
炎の中へ、ふらふらと歩いていく。
「綾乃さま!」
鈴音は叫んだ。
綾乃は振り返らない。
燃える社へ向かいながら、彼女は笑っていた。
「全部なくなればいいの」
その声は弱かった。
「私も、あなたも、声も、鈴も、鬼神さまも。何も残らなければ、誰も責められない」
鈴音は走った。
炎の熱が頬を打つ。
煙が喉に入る。
朔夜が鈴音を止めようとするより早く、鈴音は綾乃の袖を掴んだ。
「来てください!」
綾乃が振り返る。
目には涙が溢れていた。
「どうして助けるの」
「殺したくないからです!」
鈴音の声が炎の中で響いた。
「許さないと言ったでしょう。でも、死んで終わりにさせたくありません!」
綾乃の顔が歪む。
「生きていたら、ずっと苦しいわ」
「そうです」
鈴音は言った。
「背負うというのは、そういうことです」
綾乃は、鈴音を見た。
その顔から、怒りが少しずつ抜けていく。
代わりに残ったのは、幼い子どものような怯えだった。
「私……本当は」
綾乃の声が震える。
「鈴音に、見てほしかった」
鈴音は息を呑む。
「羨ましかった。憎かった。でも、それだけじゃなかった。鈴音が声を失ってから、あなたは私を見なくなった。うつむいて、黙って、どこか遠くへ行ってしまった」
綾乃の涙が炎の光を受けて光る。
「私が奪ったのに。私がそうしたのに。あなたが何も言わなくなったら、私は……もっと空っぽになった」
鈴音は胸が痛んだ。
綾乃は矛盾している。
自分で奪いながら、奪った相手に見てほしかった。
傷つけながら、傷ついた顔を見ることで自分の存在を確かめていた。
その歪みが、哀れだった。
でも、やはり許せない。
鈴音は綾乃の手を掴んだ。
「出ましょう」
「鈴音……」
その瞬間、綾乃の背後から黒い糸が伸びた。
まだ残っていた琴乃の怨みではない。
綾乃自身の、最後の悪意。
自分だけが裁かれるくらいなら、鈴音も道連れにしたいという衝動。
綾乃の目が、再び暗く染まる。
「でも、やっぱり嫌」
鈴音の手を、綾乃が強く握り返した。
「あなたが生きて、幸せになるのを見るのは嫌」
炎に包まれた梁が、音を立てて崩れ始める。
千景が叫ぶ。
「鈴音さん!」
朔夜が炎の中へ飛び込んだ。
黒い衣が火を裂く。
朔夜は鈴音へ手を伸ばした。
「鈴音!」
鈴音は綾乃の手を離せなかった。
離せば、綾乃は燃える。
けれどこのままでは、自分も。
綾乃の顔に、恐怖が戻った。
自分が何をしているのか、今になって気づいたようだった。
「いや……私、死にたくない……」
その言葉は、あまりにも人間らしかった。
鈴音は声を振り絞る。
「千景さん!」
千景が狐火を飛ばし、綾乃の足元を包む。
綾乃の体が炎の外へ弾き出されるように転がった。
千景が受け止める。
「重っ……じゃなくて、無事です!」
鈴音は安堵した。
その瞬間、頭上の梁が落ちた。
朔夜が鈴音を抱き込む。
強く、痛いほどに。
黒い衣が視界を覆う。
轟音。
熱。
煙。
鈴音は朔夜の胸に抱かれたまま、何かが砕ける音を聞いた。
「朔夜さま……?」
答えはない。
けれど、朔夜の腕は鈴音を守るように強く回されている。
鈴音は必死に顔を上げた。
朔夜の背に、崩れた梁が落ちていた。
黒い炎が、その体に絡みついている。
「朔夜さま!」
鈴音は叫んだ。
朔夜は苦しげに目を開ける。
金色の瞳が、鈴音を見る。
「無事か」
そんなことを聞くのか。
こんなときまで、自分のことではなく鈴音のことを。
鈴音は涙をこぼしながら首を横に振る。
「嫌です……朔夜さま、逃げて……」
「お前を置いては行かぬ」
朔夜は、かすかに笑った。
その笑みがあまりにも穏やかで、鈴音は怖くなった。
炎の奥から、花嫁たちの鈴が鳴っている。
ちりん。
ちりん。
その音が、朔夜の体へ集まっていく。
彼は、社に残った穢れと炎を自分の中へ封じ込めようとしているのだ。
鈴音はそれに気づいた。
「だめ!」
声が裂ける。
「また、全部背負わないで!」
朔夜は鈴音の頬に手を伸ばした。
冷たい指先が涙を拭う。
「全部ではない」
鈴音は息を詰める。
「お前が、声を残した」
朔夜の体が、黒い光に包まれ始める。
鈴音は必死に彼の衣を掴んだ。
「行かないで」
言えた。
今度は声で。
あの日、部屋の入口に座る朔夜へ唇だけで伝えた願いを、今度は声で。
「朔夜さま、行かないで!」
朔夜の瞳が揺れた。
けれど黒い光は止まらない。
炎と穢れが、朔夜を社の奥へ引き込もうとしている。
「鈴音」
朔夜の声が遠くなる。
「お前はもう、黙らされぬ」
「そんな言葉を最後みたいに言わないで!」
鈴音は叫んだ。
「私は、あなたの花嫁です。だから、勝手に置いていかないで!」
朔夜は何かを言おうとした。
けれど、その声は炎に飲まれた。
次の瞬間、強い風が吹いた。
鈴音の体が社の外へ押し出される。
千景が叫びながら受け止めた。
「鈴音さん!」
鈴音はすぐに起き上がろうとする。
しかし、目の前で社が大きく崩れた。
炎が夜空へ噴き上がる。
黒い光が、その中心で一瞬だけ輝いた。
そして、消えた。
鈴音は呆然とした。
音が遠い。
千景が何か叫んでいる。
綾乃が地面に倒れたまま泣いている。
村人たちが山道の下から駆けつけてくる。
でも、鈴音には何も聞こえない。
燃え落ちた社の前に、黒い羽織が落ちていた。
朔夜がいつもまとっていた羽織。
鈴音はふらつきながら、それへ近づいた。
熱で膝が震える。
手を伸ばす。
羽織は焦げていたが、まだ朔夜の気配が残っていた。
冷たい、夜のような気配。
鈴音はそれを抱きしめた。
「朔夜さま……」
声が震える。
返事はない。
どこにも、朔夜の姿はなかった。
鈴音は羽織を胸に抱き、燃え落ちる社の前で膝をついた。
炎の中で、最後の鈴が鳴った。
ちりん。
それは、婚礼の鈴のようだった。
けれど隣にいるはずの鬼神は、もうそこにはいなかった。
夜の闇を裂くように、炎が近づいてくる。
ぱち、ぱち、と枝の爆ぜる音がする。乾いた落ち葉に火が移り、煙が低く流れてきた。
鈴音は社の鳥居の前に立ち、喉に手を当てた。
胸元では、母の鈴と守り紐の鈴が重なって鳴っている。
ちりん。
ちりん。
その音は、警告のようでもあり、背中を押す音のようでもあった。
千景が狐火をまといながら、鈴音の前へ出る。
「鈴音さん、下がってください。火を持っているのは綾乃さんですけど、中に何が残っているかわかりません」
鈴音は首を横に振った。
「話します」
声は掠れていたが、以前よりはっきりしていた。
千景は困ったように耳を伏せる。
「そう言うと思いましたけど……」
朔夜は黙っていた。
ただ、鈴音の隣に立っている。
彼の顔色はまだ悪い。村の嘘を喰らい、鬼へ堕ちかけたばかりだ。琴乃の記憶を開いたあとも、朔夜はほとんど休んでいない。
それなのに、鈴音の前へ出るのではなく、隣に立ってくれている。
鈴音はそれがわかった。
守るだけではなく、鈴音が自分の声で向き合えるようにしてくれているのだ。
赤い光が近づく。
やがて鳥居の向こうに、白い着物姿の綾乃が現れた。
手には燃える松明を持っている。
髪は乱れ、頬には涙の跡があった。いつもの美しい姫君の姿ではない。病の儚さを装った顔でもない。
ただ、傷つき、怒り、追い詰められたひとりの娘がそこにいた。
綾乃は鈴音を見つけると、笑った。
乾いた笑いだった。
「ここにいたのね」
鈴音は一歩、前へ出た。
「綾乃さま」
「その声で呼ばないで」
綾乃の顔が歪む。
「やっと戻った声で、私の名前を呼ばないで」
その言葉に、鈴音の喉が少し痛んだ。
けれど、黒い糸はもう以前のように鈴音を縛れなかった。
母の鈴が鳴る。
ちりん。
綾乃の背後に、薄い白無垢の影が浮かぶ。
琴乃だった。
しかし、その姿はもう濃くない。赤い唇も笑っていない。ただ、綾乃の背中に残る古い悲しみのように揺れているだけだった。
琴乃の怨みは、鈴音の声に触れ、少しほどけた。
けれど、綾乃の中のものはまだ残っている。
嫉妬。
怒り。
奪った罪。
奪ったことを認められない恐れ。
それは、琴乃だけのものではない。
綾乃自身のものだった。
綾乃は松明を掲げ、社を見上げた。
「ここを燃やせば、終わるかと思ったの」
千景が牙を剥く。
「何を言ってるんですか!」
「鈴音の声も、鬼神さまも、琴乃さまの鈴も、澄乃さまの鈴も、全部ここにあるのでしょう?」
綾乃は笑った。
「なら、全部燃やしてしまえばいい」
鈴音の胸が冷える。
「綾乃さま、やめてください」
「やめて?」
綾乃の目が鈴音へ戻る。
「あなたは私に、何をやめろと言うの? あなたを憎むこと? あなたの声を羨むこと? あなたばかり救われるのを見て、何も思わないこと?」
鈴音は唇を結んだ。
綾乃は一歩、鳥居をくぐる。
炎の明かりが、彼女の顔を赤く染めた。
「あなたはいいわね、鈴音。声を奪われたかわいそうな娘。鬼神さまに見つけてもらって、母の真実まで取り戻して、今度は百年前の花嫁の声まで聞いてあげるの?」
言葉が、炎のように鈴音へ向けられる。
「みんな、あなたを見ている。鬼神さまも、千景も、村人も、死んだ母親も、琴乃さままで」
綾乃の声が震える。
「どうして、いつもあなたなの」
それは第5章でも聞いた問いだった。
けれど今は、もっと剥き出しだった。
誰かに操られた声ではない。
綾乃自身の叫びだった。
「私はずっと、ちゃんとしていた」
綾乃は涙を浮かべた。
「笑いなさいと言われれば笑ったわ。泣くなと言われれば泣かなかった。常盤家の娘らしく、村人に優しく、父上に恥をかかせないように、母上の望む娘でいるように。ずっと、ずっと」
松明の火が揺れる。
「それなのに、澄乃さまはあなたの声を褒めた。父上も、本当はあなたの力を恐れていた。恐れるということは、見ていたということよ。母上だって、あなたを消すために私を使った」
鈴音は何も言えなかった。
綾乃の痛みは本物だった。
けれど、その痛みが自分の喉を焼いたことも本物だった。
綾乃は、鈴音を睨んだ。
「私には何があったの? 綺麗な着物? 常盤家の誇り? 姫君? そんなもの、全部、私じゃないわ」
その言葉に、鈴音の胸が痛む。
偽りの姫君。
綾乃もまた、自分を偽って生きていた。
だが、その偽りの影で、鈴音は声を失った。
鈴音は息を吸った。
喉が痛む。
それでも、声を出す。
「綾乃さまが、苦しかったことは……わかりました」
綾乃の顔が一瞬だけ揺れる。
鈴音は続けた。
「でも、私の声を奪っていい理由にはなりません」
綾乃の涙が止まる。
鈴音はまっすぐ姉を見た。
「羨ましかったから奪ったのですか」
声が震える。
怒りで。
悲しみで。
「なら、私はあなたを許しません」
綾乃の瞳が見開かれた。
許さない。
その言葉を、鈴音は初めてはっきり姉へ向けた。
綾乃の唇が震える。
「……ひどい」
「はい」
鈴音は頷いた。
「私は、ひどいと言われてもいいです。優しい妹にはなれません。あなたを許せません」
炎の音が大きくなる。
綾乃の手にある松明から火の粉が散った。
「でも、あなたを殺しません」
綾乃の顔が歪む。
「殺せばいいじゃない」
その声は、悲鳴に近かった。
「許せないなら、私を恨めばいい。琴乃さまみたいに、全部憎めばいい。そうすれば、あなたも少しは私の気持ちがわかるわ」
鈴音は首を横に振る。
「恨みます」
綾乃が黙る。
「私は、あなたを恨みます。声を奪われた夜を、忘れません。母の前で、あなたが黒い紐を鳴らしたことも、忘れません」
鈴音の手が震えた。
それでも、言った。
「でも、私の声を、恨むためだけには使いません」
綾乃の背後の琴乃の影が、かすかに揺れた。
鈴音は言葉を続ける。
「あなたの罪は、あなたが生きて背負ってください」
綾乃は笑った。
泣きながら、笑った。
「生きて? 何を背負って? 村人は私を姫君だと思っていたのよ。父上と母上は、私を常盤家の誇りだと言ったのよ。今さら、私が鈴音の声を奪いましたって言えばいいの?」
「はい」
「私が澄乃さまの死を見ていましたって? 鈴音が叫ぼうとしたのを、止めましたって? 母上に従って、呪具を鳴らしましたって?」
「はい」
「そんなこと、できるわけない!」
綾乃が叫び、松明を社の方へ投げた。
千景が狐火で弾こうとする。
しかし松明は社の注連縄に当たり、乾いた藁に火が移った。
ぱちん、と音がする。
炎が一気に広がった。
「千景!」
朔夜が叫ぶ。
「はい!」
千景が狐火を放ち、延焼を止めようとする。
だが、ただの火ではなかった。
黒い靄が炎に混じっている。
常盤家から、綾乃の中から、そして琴乃の残り香から出た嘘と怨みが、炎に絡みついている。
社の柱に、黒い炎が走った。
朔夜が手をかざし、炎を押し返す。
けれど第11章で受けた穢れがまだ残っているせいか、力が鈍い。
鈴音はそれに気づいた。
「朔夜さま!」
「下がれ!」
朔夜の声が鋭い。
社の奥には、花嫁たちの鈴がある。
琴乃の鈴。
母の記録。
これまで黙らされてきた声たち。
このまま燃えれば、それらも失われる。
鈴音は足を踏み出した。
千景が叫ぶ。
「鈴音さん、駄目です!」
けれど綾乃も同時に動いた。
炎の中へ、ふらふらと歩いていく。
「綾乃さま!」
鈴音は叫んだ。
綾乃は振り返らない。
燃える社へ向かいながら、彼女は笑っていた。
「全部なくなればいいの」
その声は弱かった。
「私も、あなたも、声も、鈴も、鬼神さまも。何も残らなければ、誰も責められない」
鈴音は走った。
炎の熱が頬を打つ。
煙が喉に入る。
朔夜が鈴音を止めようとするより早く、鈴音は綾乃の袖を掴んだ。
「来てください!」
綾乃が振り返る。
目には涙が溢れていた。
「どうして助けるの」
「殺したくないからです!」
鈴音の声が炎の中で響いた。
「許さないと言ったでしょう。でも、死んで終わりにさせたくありません!」
綾乃の顔が歪む。
「生きていたら、ずっと苦しいわ」
「そうです」
鈴音は言った。
「背負うというのは、そういうことです」
綾乃は、鈴音を見た。
その顔から、怒りが少しずつ抜けていく。
代わりに残ったのは、幼い子どものような怯えだった。
「私……本当は」
綾乃の声が震える。
「鈴音に、見てほしかった」
鈴音は息を呑む。
「羨ましかった。憎かった。でも、それだけじゃなかった。鈴音が声を失ってから、あなたは私を見なくなった。うつむいて、黙って、どこか遠くへ行ってしまった」
綾乃の涙が炎の光を受けて光る。
「私が奪ったのに。私がそうしたのに。あなたが何も言わなくなったら、私は……もっと空っぽになった」
鈴音は胸が痛んだ。
綾乃は矛盾している。
自分で奪いながら、奪った相手に見てほしかった。
傷つけながら、傷ついた顔を見ることで自分の存在を確かめていた。
その歪みが、哀れだった。
でも、やはり許せない。
鈴音は綾乃の手を掴んだ。
「出ましょう」
「鈴音……」
その瞬間、綾乃の背後から黒い糸が伸びた。
まだ残っていた琴乃の怨みではない。
綾乃自身の、最後の悪意。
自分だけが裁かれるくらいなら、鈴音も道連れにしたいという衝動。
綾乃の目が、再び暗く染まる。
「でも、やっぱり嫌」
鈴音の手を、綾乃が強く握り返した。
「あなたが生きて、幸せになるのを見るのは嫌」
炎に包まれた梁が、音を立てて崩れ始める。
千景が叫ぶ。
「鈴音さん!」
朔夜が炎の中へ飛び込んだ。
黒い衣が火を裂く。
朔夜は鈴音へ手を伸ばした。
「鈴音!」
鈴音は綾乃の手を離せなかった。
離せば、綾乃は燃える。
けれどこのままでは、自分も。
綾乃の顔に、恐怖が戻った。
自分が何をしているのか、今になって気づいたようだった。
「いや……私、死にたくない……」
その言葉は、あまりにも人間らしかった。
鈴音は声を振り絞る。
「千景さん!」
千景が狐火を飛ばし、綾乃の足元を包む。
綾乃の体が炎の外へ弾き出されるように転がった。
千景が受け止める。
「重っ……じゃなくて、無事です!」
鈴音は安堵した。
その瞬間、頭上の梁が落ちた。
朔夜が鈴音を抱き込む。
強く、痛いほどに。
黒い衣が視界を覆う。
轟音。
熱。
煙。
鈴音は朔夜の胸に抱かれたまま、何かが砕ける音を聞いた。
「朔夜さま……?」
答えはない。
けれど、朔夜の腕は鈴音を守るように強く回されている。
鈴音は必死に顔を上げた。
朔夜の背に、崩れた梁が落ちていた。
黒い炎が、その体に絡みついている。
「朔夜さま!」
鈴音は叫んだ。
朔夜は苦しげに目を開ける。
金色の瞳が、鈴音を見る。
「無事か」
そんなことを聞くのか。
こんなときまで、自分のことではなく鈴音のことを。
鈴音は涙をこぼしながら首を横に振る。
「嫌です……朔夜さま、逃げて……」
「お前を置いては行かぬ」
朔夜は、かすかに笑った。
その笑みがあまりにも穏やかで、鈴音は怖くなった。
炎の奥から、花嫁たちの鈴が鳴っている。
ちりん。
ちりん。
その音が、朔夜の体へ集まっていく。
彼は、社に残った穢れと炎を自分の中へ封じ込めようとしているのだ。
鈴音はそれに気づいた。
「だめ!」
声が裂ける。
「また、全部背負わないで!」
朔夜は鈴音の頬に手を伸ばした。
冷たい指先が涙を拭う。
「全部ではない」
鈴音は息を詰める。
「お前が、声を残した」
朔夜の体が、黒い光に包まれ始める。
鈴音は必死に彼の衣を掴んだ。
「行かないで」
言えた。
今度は声で。
あの日、部屋の入口に座る朔夜へ唇だけで伝えた願いを、今度は声で。
「朔夜さま、行かないで!」
朔夜の瞳が揺れた。
けれど黒い光は止まらない。
炎と穢れが、朔夜を社の奥へ引き込もうとしている。
「鈴音」
朔夜の声が遠くなる。
「お前はもう、黙らされぬ」
「そんな言葉を最後みたいに言わないで!」
鈴音は叫んだ。
「私は、あなたの花嫁です。だから、勝手に置いていかないで!」
朔夜は何かを言おうとした。
けれど、その声は炎に飲まれた。
次の瞬間、強い風が吹いた。
鈴音の体が社の外へ押し出される。
千景が叫びながら受け止めた。
「鈴音さん!」
鈴音はすぐに起き上がろうとする。
しかし、目の前で社が大きく崩れた。
炎が夜空へ噴き上がる。
黒い光が、その中心で一瞬だけ輝いた。
そして、消えた。
鈴音は呆然とした。
音が遠い。
千景が何か叫んでいる。
綾乃が地面に倒れたまま泣いている。
村人たちが山道の下から駆けつけてくる。
でも、鈴音には何も聞こえない。
燃え落ちた社の前に、黒い羽織が落ちていた。
朔夜がいつもまとっていた羽織。
鈴音はふらつきながら、それへ近づいた。
熱で膝が震える。
手を伸ばす。
羽織は焦げていたが、まだ朔夜の気配が残っていた。
冷たい、夜のような気配。
鈴音はそれを抱きしめた。
「朔夜さま……」
声が震える。
返事はない。
どこにも、朔夜の姿はなかった。
鈴音は羽織を胸に抱き、燃え落ちる社の前で膝をついた。
炎の中で、最後の鈴が鳴った。
ちりん。
それは、婚礼の鈴のようだった。
けれど隣にいるはずの鬼神は、もうそこにはいなかった。



