花嫁の声を食べる鬼神さま

 お前だけが幸せになるのか。

 琴乃の問いは、社へ戻ってからも鈴音の胸に残り続けた。

 喉の痛みは、前よりも少し落ち着いていた。声を出せる時間は増えている。けれど、長く話せばまだ熱を持つ。

 それでも、もう声が完全に閉ざされることはなかった。

 母の死を告げた。
 自分は災いではないと言えた。
 朔夜を呼び戻した。
 村人たちの前で、常盤家の嘘を暴いた。

 鈴音の声は、少しずつ戻ってきている。

 けれど、戻れば戻るほど、聞こえるものも増えていった。

 村に残る嘘の音。

 常盤家の奥に沈む黒い気配。

 綾乃の中で眠る琴乃の声。

 そして、あの問い。

 ――お前だけが幸せになるのか。

 鈴音は、清めの間で琴乃の鈴を見つめていた。

 黒ずみ、割れた小さな鈴。

 百年前、花嫁として山へ送られた少女の声が残る鈴。

 今は静かだった。

 けれど鈴音には、その奥からかすかな泣き声が聞こえる気がした。

 朔夜は少し離れた場所に座っている。

 第11章で村中の嘘を喰らいかけてから、朔夜はまだ本調子ではなかった。顔色は白く、指先には薄く黒い穢れが残っている。

 それでも、鈴音のそばを離れようとはしない。

 鈴音は紙を取り、書いた。

『朔夜さま、体は大丈夫ですか』

 朔夜は鈴音の文字を見る。

「お前に心配されるほどではない」

 千景が横からすぐに言った。

「心配されるほどです」

 朔夜が千景を見る。

 千景は怯まなかった。

「鈴音さんの前だから平気なふりしてるだけです。嘘を喰いすぎた後は、いつも三日は動きが鈍くなるんですから」

 鈴音は朔夜を見た。

 朔夜は少しだけ目をそらした。

 その仕草だけで、千景の言葉が本当なのだとわかった。

 鈴音は胸が痛む。

 また、自分のために朔夜が傷ついた。

 そう思いかけて、鈴音は首を横に振った。

 違う。

 すべてを自分のせいにするのは、朔夜がすべてを自分の罪にするのと同じだ。

 村の嘘は、村のもの。

 常盤家の罪は、常盤家のもの。

 琴乃の怨みは、琴乃のもの。

 鈴音は、それらを聞く。

 けれど、全部を背負うためではない。

 鈴音は紙に書いた。

『今日は、琴乃さまの声を聞きたいです』

 千景の耳がぴんと立った。

「今日ですか? もう少し休んでからでも」

 鈴音は首を横に振る。

『琴乃さまは、待っている気がします』

 朔夜は、琴乃の鈴へ視線を向けた。

「琴乃の声に触れれば、百年前の記憶を見ることになる」

 鈴音は頷く。

「見れば、傷つくかもしれぬ」

『それでも、聞くと言いました』

 朔夜は鈴音の文字を見つめた。

 鈴音はさらに書いた。

『琴乃さまの声を聞かないまま、幸せになることはできません』

 それは、琴乃への答えでもあり、自分自身への答えでもあった。

 幸せになりたい。

 朔夜の隣にいたい。

 自分の声で生きたい。

 その願いは本当だ。

 でも、そのために琴乃を災いのまま置き去りにしたくはなかった。

 朔夜は長い沈黙のあと、静かに頷いた。

「わかった」

 清めの間に、白い布が敷かれた。

 中央に琴乃の鈴。

 その隣に、母の鈴。

 鈴音の胸元には、朔夜から受け取った守り紐の鈴がある。

 三つの鈴が並ぶと、空気が細く震えた。

 ちりん。

 ちりん。

 まだ触れていないのに、鈴の音が鳴った。

 朔夜は鈴音の正面に座る。

「琴乃の声は強い。恨みに引き込まれそうになったら、俺の名を呼べ」

 鈴音は小さく頷いた。

 千景もすぐそばに座る。

「僕もいますから。変なものが出たら燃やします」

「燃やすな。まず見極めろ」

「はいはい」

 いつものやり取りに、鈴音は少しだけ笑った。

 それだけで、張り詰めていた心が緩む。

 鈴音は琴乃の鈴へ手を伸ばした。

 指先が、黒ずんだ鈴に触れる。

 瞬間、耳元で琴乃の声がした。

 ――来たのね。

 景色が白く染まった。

 鈴音は、知らない村に立っていた。

 今の村よりも家は少なく、道は細い。空は夕暮れの色に沈み、田には冷たい風が吹いている。

 鈴音の前を、ひとりの少女が歩いていた。

 白い小袖を着た、細い少女。

 まだ白無垢ではない。

 長い黒髪を背に流し、胸元には小さな鈴を提げている。

 琴乃だ。

 顔は、影ではなかった。

 まだ生きている琴乃は、驚くほど普通の少女だった。

 怨霊のような赤い唇も、冷たい笑みもない。目は大きく、どこか不安げで、それでも人を信じたい光があった。

 琴乃は村人たちに囲まれていた。

「琴乃さま、この者が米を盗んだのです」

「違う! 私はやっていない!」

 琴乃は静かに二人の声を聞き、胸元の鈴に触れた。

 ちりん。

 鈴が鳴る。

 すると、片方の男の口元から黒い靄が漏れた。

 琴乃は悲しそうに目を伏せる。

「嘘をついているのは、あなたです」

 村人たちがどよめく。

 男は顔色を変え、やがて膝をついた。

「すまない……」

 人々は琴乃を褒めた。

「さすが巫女さまだ」

「琴乃さまの声があれば、村は清らかになる」

「鬼神さまに選ばれた娘だ」

 琴乃は微笑んだ。

 けれど、その微笑みは少し寂しそうだった。

 鈴音にはわかった。

 琴乃は、褒められても嬉しそうではない。

 人々は琴乃を見ているようで、彼女の力しか見ていない。

 景色が変わる。

 琴乃は、ひとりで山の社へ向かっていた。

 まだ若い朔夜が、社の前に立っている。

 姿は今とほとんど変わらない。

 琴乃は朔夜の前で頭を下げた。

「鬼神さま。村に、嘘が溜まっています」

 朔夜は琴乃を見た。

「何を見た」

「供物が横流しされています。村長と、巫女を管理する家が関わっています。災いのいくつかは、鬼神さまの怒りではありません。人の欲が招いたことです」

 朔夜の表情が険しくなる。

「証は」

「集めています」

 琴乃の手が震えていた。

「でも、怖いのです。私が言えば、村は私を信じるでしょうか。それとも、私の声を憎むでしょうか」

 朔夜はしばらく黙り、言った。

「真実を告げる声は、必ずしも歓迎されぬ」

 琴乃は小さく笑った。

「優しいことは言ってくださらないのですね」

「嘘は言わぬ」

「では、私はどうすればいいのでしょう」

 朔夜は琴乃を見つめた。

「ひとりで抱えるな。声を上げると決めたなら、俺の社へ来い」

 琴乃の目が、少しだけ明るくなった。

「聞いてくださるのですか」

「聞く」

 その一言に、琴乃は泣きそうな顔で笑った。

 鈴音の胸が痛んだ。

 琴乃は、この言葉を信じたのだ。

 朔夜なら聞いてくれる。

 朔夜なら助けてくれる。

 そう思ってしまったのだ。

 また景色が変わる。

 夜の村。

 琴乃は白無垢を着せられていた。

 髪は結われ、唇には紅が差されている。けれど顔は青ざめ、手は震えていた。

 村人たちが周囲を囲んでいる。

「鬼神さまがお怒りだ」

「琴乃の声が災いを呼んだ」

「花嫁として差し出せば、村は鎮まる」

 琴乃は叫ぶ。

「違います! 鬼神さまのせいではありません! 村の嘘が土地を穢しているのです!」

 その声に、村人たちの口元から黒い靄が噴き出す。

 人々は怯えた。

 けれど、怯えはすぐ怒りに変わった。

「やはり災いの声だ」

「黙らせろ」

「鬼に魅入られた娘だ」

 琴乃は首を横に振る。

 胸元の鈴が激しく鳴る。

 ちりん。

 ちりん。

 けれど誰も聞かない。

 誰も琴乃の声を受け取らない。

 鈴音は叫びたくなった。

 違う。

 琴乃は嘘を言っていない。

 でも、これは過去だ。

 鈴音は見ることしかできない。

 琴乃は山へ連れていかれた。

 社の前で、ひとり座らされる。

 白無垢の袖が泥に汚れている。

 琴乃は震えながら、社の奥へ向かって叫んだ。

「朔夜さま!」

 返事はない。

「聞いてくださると、言ったではありませんか!」

 社の奥には、結界が張られていた。

 朔夜の気配がある。

 けれど、出てこられない。

 琴乃はそれに気づいていない。

 ただ、待っている。

 信じている。

 やがて、背後から松明の明かりが近づいた。

 村人たちだった。

 琴乃は立ち上がる。

「なぜ、あなたたちが……」

 誰かが言った。

「これで終わりにする」

 琴乃は後ずさる。

「私は嘘を言っていません」

「だから困るんだ」

 その言葉に、琴乃の顔が凍った。

 鈴音の胸も凍った。

 だから困る。

 真実だから、困る。

 嘘ではないから、黙らせる。

 琴乃は逃げようとした。

 しかし白無垢の裾が足に絡まり、転んだ。

 村人たちが近づく。

 鈴音は目を閉じたくなった。

 けれど、琴乃の声を聞くと決めた。

 目をそらさない。

 琴乃は最後まで叫んでいた。

「私は、鬼に喰われるのではありません!」

「私は、嘘を言っていません!」

「誰か、聞いて!」

 最後の言葉だけが、鈴音の胸を貫いた。

 誰か、聞いて。

 それは、怨霊の言葉ではなかった。

 ただ、ひとりの少女の叫びだった。

 景色が黒く沈む。

 次に見えたのは、朔夜だった。

 結界を破り、社の外へ飛び出す朔夜。

 白無垢の琴乃は、すでに地面に倒れていた。

 白い衣が、赤く染まっている。

 琴乃はまだ息をしていた。

 朔夜が膝をつく。

「琴乃」

 琴乃の目が、かすかに開く。

「……どうして」

 朔夜は何も言えない。

「どうして、来てくださらなかったのですか」

 朔夜の手が震えていた。

 琴乃は涙を流していた。

「聞いてくださると……言ったのに」

 朔夜は、琴乃の血に濡れた手を握る。

「遅かった」

 琴乃は笑った。

 それは、絶望の笑みだった。

「遅いのです」

 その言葉が、鈴音の胸にも突き刺さった。

 琴乃は朔夜を恨んでいた。

 でも、本当に恨んでいたのは、朔夜に来てほしかったからだ。

 信じていたからだ。

 最後に間に合わなかったことが、裏切りに見えたからだ。

 琴乃の唇が震える。

「私を……鬼に喰われたことに、しないで……」

 朔夜の目が見開かれる。

「私は……嘘を、言っていない……」

 琴乃の鈴が鳴った。

 ちりん。

 その音は、途中で割れるように途切れた。

 琴乃の手から力が抜けた。

 朔夜は、何も言わずにその場に座り尽くしていた。

 その背に、村人たちの嘘が降り積もっていく。

 鬼が喰った。

 鬼神が怒った。

 花嫁が喰われたから、村は救われた。

 その嘘が、黒い泥のように朔夜の背を覆った。

 朔夜は、その嘘を喰った。

 喰うしかなかった。

 喰わなければ、琴乃の死が穢れとなって村を呑むから。

 けれど喰ったことで、朔夜は「琴乃を喰った鬼」という嘘を自分の中へ取り込んでしまった。

 鈴音は泣いていた。

 声が出ない。

 記憶の中なのに、喉が痛む。

 琴乃の最期の声が、胸の奥で鳴り続けている。

 私は、嘘を言っていない。

 鬼に喰われたことにしないで。

 誰か、聞いて。

 景色が白く溶けた。

 鈴音は霧の中に立っていた。

 そこに、琴乃がいた。

 白無垢姿の少女。

 けれど、今度は顔が見えた。

 怨霊の赤い唇ではない。

 泣き腫らした目をした、百年前の少女だった。

「見たでしょう」

 琴乃が言った。

「私の声は、誰にも届かなかった」

 鈴音は唇を震わせた。

 声を出す。

 夢の中でも、痛い。

 でも、言わなければならない。

「……聞きました」

 琴乃の瞳が揺れる。

 鈴音は続けた。

「あなたは、嘘を言っていません」

 琴乃の顔が歪む。

「遅いわ」

「はい」

 鈴音は頷いた。

「遅いです。百年も、遅いです」

 琴乃の涙がこぼれる。

「じゃあ、何になるの。今さら聞いたって。私はもう死んでいる。私の声は奪われた。私の幸せは、どこにもない」

 鈴音は胸を押さえた。

 お前だけが幸せになるのか。

 その問いの痛みが、今ならわかる気がした。

 琴乃は、鈴音が憎かったのではない。

 救われる鈴音を見るのが苦しかったのだ。

 自分にはなかったものを、鈴音が手にしているように見えた。

 声を聞く者。

 隣に立つ者。

 自分を災いではないと言ってくれる者。

 鈴音は琴乃を見つめた。

「私も、幸せになりたいです」

 琴乃の表情が強張る。

「でも、あなたを嘘のままにはしません」

 鈴音は一歩近づいた。

「あなたは鬼に喰われた花嫁ではありません」

 琴乃が震える。

「あなたは、真実を言おうとして殺された人です」

 琴乃の白無垢から、黒い靄が少しずつ剥がれ落ちていく。

 鈴音は手を伸ばした。

「あなたの声を、私が聞きます」

 琴乃はその手を見つめる。

「許せと言うの」

 鈴音は首を横に振った。

「言いません」

「恨むなと?」

「言いません」

「じゃあ、どうすればいいの」

 琴乃の声が崩れた。

「私は、何をすれば、この痛みを終われるの」

 鈴音は答えを持っていなかった。

 でも、逃げずに言った。

「一緒に、言いましょう」

 琴乃が顔を上げる。

「あなたが鬼に喰われたのではないと。嘘を言っていなかったと。あなたの声は、災いではなかったと」

 琴乃の手が震える。

 鈴音は、その手を取った。

 冷たい。

 けれど確かに、そこにあった。

 琴乃は声を殺して泣いた。

 百年分の恨みがすべて消えたわけではない。

 それでも、黒い靄の奥から、小さな鈴の音が鳴った。

 ちりん。

 その音とともに、鈴音は清めの間へ戻った。

 目を開けると、琴乃の鈴が震えていた。

 黒ずんでいた鈴の表面に、ほんの少しだけ銀色が戻っている。

 朔夜が鈴音を支えていた。

 千景が泣きそうな顔で言った。

「鈴音さん……戻りましたか」

 鈴音は頷く。

 喉が痛い。

 でも、声が出る。

「聞きました」

 朔夜の目が揺れる。

 鈴音は彼を見る。

「琴乃さまは……鬼に、喰われていません」

 朔夜は静かに目を閉じた。

 百年間、誰も言ってくれなかった言葉。

 朔夜自身が知っていても、誰にも信じてもらえなかった真実。

 鈴音の声で、それがようやく外へ出た。

 朔夜は低く言った。

「……ああ」

 それだけだった。

 けれど、その声には深い震えがあった。

 鈴音は琴乃の鈴を見つめる。

「琴乃さまの怨みは、まだ消えていません」

 千景が息を呑む。

「でも、声は届きました」

 そのとき、社の外で大きな音がした。

 何かが倒れる音。

 続いて、焦げた匂いが流れ込んできた。

 千景が跳ねるように立ち上がる。

「火です!」

 鈴音は息を呑んだ。

 朔夜が外へ出る。

 鈴音も続いた。

 社の向こう、山道の下から赤い光が揺れていた。

 火の手が上がっている。

 しかも、近づいてくる。

 千景が空へ飛ぶように駆け、すぐに戻ってきた。

 顔が青ざめている。

「綾乃さんです!」

 鈴音の胸が凍る。

「綾乃さんが、火を持ってこっちに向かってます。常盤家の使用人たちを振り切って……様子がおかしいです」

 朔夜の顔が険しくなる。

「琴乃の声が届いたことで、綾乃の中の最後の悪意が暴れ出したか」

 鈴音は喉に手を当てた。

 琴乃の怨みは薄れた。

 でも、綾乃自身の嫉妬と罪は残っている。

 綾乃は、琴乃に操られていただけではない。

 鈴音の声を奪いたいと願ったのは、綾乃自身でもあった。

 その綾乃が、火を持って社へ向かっている。

 朔夜が鈴音を振り返る。

「中にいろ」

 鈴音は首を横に振った。

「行きます」

「危険だ」

「綾乃さまと、話します」

 声は震えていた。

 けれど、引かなかった。

 次に向き合うべきは、百年前の花嫁ではない。

 今を生きている姉だ。

 鈴音は母の鈴と守り紐を握りしめた。

 遠くで、炎の赤が夜を染め始めている。

 綾乃との最後の対峙が、近づいていた。