お前だけが幸せになるのか。
琴乃の問いは、社へ戻ってからも鈴音の胸に残り続けた。
喉の痛みは、前よりも少し落ち着いていた。声を出せる時間は増えている。けれど、長く話せばまだ熱を持つ。
それでも、もう声が完全に閉ざされることはなかった。
母の死を告げた。
自分は災いではないと言えた。
朔夜を呼び戻した。
村人たちの前で、常盤家の嘘を暴いた。
鈴音の声は、少しずつ戻ってきている。
けれど、戻れば戻るほど、聞こえるものも増えていった。
村に残る嘘の音。
常盤家の奥に沈む黒い気配。
綾乃の中で眠る琴乃の声。
そして、あの問い。
――お前だけが幸せになるのか。
鈴音は、清めの間で琴乃の鈴を見つめていた。
黒ずみ、割れた小さな鈴。
百年前、花嫁として山へ送られた少女の声が残る鈴。
今は静かだった。
けれど鈴音には、その奥からかすかな泣き声が聞こえる気がした。
朔夜は少し離れた場所に座っている。
第11章で村中の嘘を喰らいかけてから、朔夜はまだ本調子ではなかった。顔色は白く、指先には薄く黒い穢れが残っている。
それでも、鈴音のそばを離れようとはしない。
鈴音は紙を取り、書いた。
『朔夜さま、体は大丈夫ですか』
朔夜は鈴音の文字を見る。
「お前に心配されるほどではない」
千景が横からすぐに言った。
「心配されるほどです」
朔夜が千景を見る。
千景は怯まなかった。
「鈴音さんの前だから平気なふりしてるだけです。嘘を喰いすぎた後は、いつも三日は動きが鈍くなるんですから」
鈴音は朔夜を見た。
朔夜は少しだけ目をそらした。
その仕草だけで、千景の言葉が本当なのだとわかった。
鈴音は胸が痛む。
また、自分のために朔夜が傷ついた。
そう思いかけて、鈴音は首を横に振った。
違う。
すべてを自分のせいにするのは、朔夜がすべてを自分の罪にするのと同じだ。
村の嘘は、村のもの。
常盤家の罪は、常盤家のもの。
琴乃の怨みは、琴乃のもの。
鈴音は、それらを聞く。
けれど、全部を背負うためではない。
鈴音は紙に書いた。
『今日は、琴乃さまの声を聞きたいです』
千景の耳がぴんと立った。
「今日ですか? もう少し休んでからでも」
鈴音は首を横に振る。
『琴乃さまは、待っている気がします』
朔夜は、琴乃の鈴へ視線を向けた。
「琴乃の声に触れれば、百年前の記憶を見ることになる」
鈴音は頷く。
「見れば、傷つくかもしれぬ」
『それでも、聞くと言いました』
朔夜は鈴音の文字を見つめた。
鈴音はさらに書いた。
『琴乃さまの声を聞かないまま、幸せになることはできません』
それは、琴乃への答えでもあり、自分自身への答えでもあった。
幸せになりたい。
朔夜の隣にいたい。
自分の声で生きたい。
その願いは本当だ。
でも、そのために琴乃を災いのまま置き去りにしたくはなかった。
朔夜は長い沈黙のあと、静かに頷いた。
「わかった」
清めの間に、白い布が敷かれた。
中央に琴乃の鈴。
その隣に、母の鈴。
鈴音の胸元には、朔夜から受け取った守り紐の鈴がある。
三つの鈴が並ぶと、空気が細く震えた。
ちりん。
ちりん。
まだ触れていないのに、鈴の音が鳴った。
朔夜は鈴音の正面に座る。
「琴乃の声は強い。恨みに引き込まれそうになったら、俺の名を呼べ」
鈴音は小さく頷いた。
千景もすぐそばに座る。
「僕もいますから。変なものが出たら燃やします」
「燃やすな。まず見極めろ」
「はいはい」
いつものやり取りに、鈴音は少しだけ笑った。
それだけで、張り詰めていた心が緩む。
鈴音は琴乃の鈴へ手を伸ばした。
指先が、黒ずんだ鈴に触れる。
瞬間、耳元で琴乃の声がした。
――来たのね。
景色が白く染まった。
鈴音は、知らない村に立っていた。
今の村よりも家は少なく、道は細い。空は夕暮れの色に沈み、田には冷たい風が吹いている。
鈴音の前を、ひとりの少女が歩いていた。
白い小袖を着た、細い少女。
まだ白無垢ではない。
長い黒髪を背に流し、胸元には小さな鈴を提げている。
琴乃だ。
顔は、影ではなかった。
まだ生きている琴乃は、驚くほど普通の少女だった。
怨霊のような赤い唇も、冷たい笑みもない。目は大きく、どこか不安げで、それでも人を信じたい光があった。
琴乃は村人たちに囲まれていた。
「琴乃さま、この者が米を盗んだのです」
「違う! 私はやっていない!」
琴乃は静かに二人の声を聞き、胸元の鈴に触れた。
ちりん。
鈴が鳴る。
すると、片方の男の口元から黒い靄が漏れた。
琴乃は悲しそうに目を伏せる。
「嘘をついているのは、あなたです」
村人たちがどよめく。
男は顔色を変え、やがて膝をついた。
「すまない……」
人々は琴乃を褒めた。
「さすが巫女さまだ」
「琴乃さまの声があれば、村は清らかになる」
「鬼神さまに選ばれた娘だ」
琴乃は微笑んだ。
けれど、その微笑みは少し寂しそうだった。
鈴音にはわかった。
琴乃は、褒められても嬉しそうではない。
人々は琴乃を見ているようで、彼女の力しか見ていない。
景色が変わる。
琴乃は、ひとりで山の社へ向かっていた。
まだ若い朔夜が、社の前に立っている。
姿は今とほとんど変わらない。
琴乃は朔夜の前で頭を下げた。
「鬼神さま。村に、嘘が溜まっています」
朔夜は琴乃を見た。
「何を見た」
「供物が横流しされています。村長と、巫女を管理する家が関わっています。災いのいくつかは、鬼神さまの怒りではありません。人の欲が招いたことです」
朔夜の表情が険しくなる。
「証は」
「集めています」
琴乃の手が震えていた。
「でも、怖いのです。私が言えば、村は私を信じるでしょうか。それとも、私の声を憎むでしょうか」
朔夜はしばらく黙り、言った。
「真実を告げる声は、必ずしも歓迎されぬ」
琴乃は小さく笑った。
「優しいことは言ってくださらないのですね」
「嘘は言わぬ」
「では、私はどうすればいいのでしょう」
朔夜は琴乃を見つめた。
「ひとりで抱えるな。声を上げると決めたなら、俺の社へ来い」
琴乃の目が、少しだけ明るくなった。
「聞いてくださるのですか」
「聞く」
その一言に、琴乃は泣きそうな顔で笑った。
鈴音の胸が痛んだ。
琴乃は、この言葉を信じたのだ。
朔夜なら聞いてくれる。
朔夜なら助けてくれる。
そう思ってしまったのだ。
また景色が変わる。
夜の村。
琴乃は白無垢を着せられていた。
髪は結われ、唇には紅が差されている。けれど顔は青ざめ、手は震えていた。
村人たちが周囲を囲んでいる。
「鬼神さまがお怒りだ」
「琴乃の声が災いを呼んだ」
「花嫁として差し出せば、村は鎮まる」
琴乃は叫ぶ。
「違います! 鬼神さまのせいではありません! 村の嘘が土地を穢しているのです!」
その声に、村人たちの口元から黒い靄が噴き出す。
人々は怯えた。
けれど、怯えはすぐ怒りに変わった。
「やはり災いの声だ」
「黙らせろ」
「鬼に魅入られた娘だ」
琴乃は首を横に振る。
胸元の鈴が激しく鳴る。
ちりん。
ちりん。
けれど誰も聞かない。
誰も琴乃の声を受け取らない。
鈴音は叫びたくなった。
違う。
琴乃は嘘を言っていない。
でも、これは過去だ。
鈴音は見ることしかできない。
琴乃は山へ連れていかれた。
社の前で、ひとり座らされる。
白無垢の袖が泥に汚れている。
琴乃は震えながら、社の奥へ向かって叫んだ。
「朔夜さま!」
返事はない。
「聞いてくださると、言ったではありませんか!」
社の奥には、結界が張られていた。
朔夜の気配がある。
けれど、出てこられない。
琴乃はそれに気づいていない。
ただ、待っている。
信じている。
やがて、背後から松明の明かりが近づいた。
村人たちだった。
琴乃は立ち上がる。
「なぜ、あなたたちが……」
誰かが言った。
「これで終わりにする」
琴乃は後ずさる。
「私は嘘を言っていません」
「だから困るんだ」
その言葉に、琴乃の顔が凍った。
鈴音の胸も凍った。
だから困る。
真実だから、困る。
嘘ではないから、黙らせる。
琴乃は逃げようとした。
しかし白無垢の裾が足に絡まり、転んだ。
村人たちが近づく。
鈴音は目を閉じたくなった。
けれど、琴乃の声を聞くと決めた。
目をそらさない。
琴乃は最後まで叫んでいた。
「私は、鬼に喰われるのではありません!」
「私は、嘘を言っていません!」
「誰か、聞いて!」
最後の言葉だけが、鈴音の胸を貫いた。
誰か、聞いて。
それは、怨霊の言葉ではなかった。
ただ、ひとりの少女の叫びだった。
景色が黒く沈む。
次に見えたのは、朔夜だった。
結界を破り、社の外へ飛び出す朔夜。
白無垢の琴乃は、すでに地面に倒れていた。
白い衣が、赤く染まっている。
琴乃はまだ息をしていた。
朔夜が膝をつく。
「琴乃」
琴乃の目が、かすかに開く。
「……どうして」
朔夜は何も言えない。
「どうして、来てくださらなかったのですか」
朔夜の手が震えていた。
琴乃は涙を流していた。
「聞いてくださると……言ったのに」
朔夜は、琴乃の血に濡れた手を握る。
「遅かった」
琴乃は笑った。
それは、絶望の笑みだった。
「遅いのです」
その言葉が、鈴音の胸にも突き刺さった。
琴乃は朔夜を恨んでいた。
でも、本当に恨んでいたのは、朔夜に来てほしかったからだ。
信じていたからだ。
最後に間に合わなかったことが、裏切りに見えたからだ。
琴乃の唇が震える。
「私を……鬼に喰われたことに、しないで……」
朔夜の目が見開かれる。
「私は……嘘を、言っていない……」
琴乃の鈴が鳴った。
ちりん。
その音は、途中で割れるように途切れた。
琴乃の手から力が抜けた。
朔夜は、何も言わずにその場に座り尽くしていた。
その背に、村人たちの嘘が降り積もっていく。
鬼が喰った。
鬼神が怒った。
花嫁が喰われたから、村は救われた。
その嘘が、黒い泥のように朔夜の背を覆った。
朔夜は、その嘘を喰った。
喰うしかなかった。
喰わなければ、琴乃の死が穢れとなって村を呑むから。
けれど喰ったことで、朔夜は「琴乃を喰った鬼」という嘘を自分の中へ取り込んでしまった。
鈴音は泣いていた。
声が出ない。
記憶の中なのに、喉が痛む。
琴乃の最期の声が、胸の奥で鳴り続けている。
私は、嘘を言っていない。
鬼に喰われたことにしないで。
誰か、聞いて。
景色が白く溶けた。
鈴音は霧の中に立っていた。
そこに、琴乃がいた。
白無垢姿の少女。
けれど、今度は顔が見えた。
怨霊の赤い唇ではない。
泣き腫らした目をした、百年前の少女だった。
「見たでしょう」
琴乃が言った。
「私の声は、誰にも届かなかった」
鈴音は唇を震わせた。
声を出す。
夢の中でも、痛い。
でも、言わなければならない。
「……聞きました」
琴乃の瞳が揺れる。
鈴音は続けた。
「あなたは、嘘を言っていません」
琴乃の顔が歪む。
「遅いわ」
「はい」
鈴音は頷いた。
「遅いです。百年も、遅いです」
琴乃の涙がこぼれる。
「じゃあ、何になるの。今さら聞いたって。私はもう死んでいる。私の声は奪われた。私の幸せは、どこにもない」
鈴音は胸を押さえた。
お前だけが幸せになるのか。
その問いの痛みが、今ならわかる気がした。
琴乃は、鈴音が憎かったのではない。
救われる鈴音を見るのが苦しかったのだ。
自分にはなかったものを、鈴音が手にしているように見えた。
声を聞く者。
隣に立つ者。
自分を災いではないと言ってくれる者。
鈴音は琴乃を見つめた。
「私も、幸せになりたいです」
琴乃の表情が強張る。
「でも、あなたを嘘のままにはしません」
鈴音は一歩近づいた。
「あなたは鬼に喰われた花嫁ではありません」
琴乃が震える。
「あなたは、真実を言おうとして殺された人です」
琴乃の白無垢から、黒い靄が少しずつ剥がれ落ちていく。
鈴音は手を伸ばした。
「あなたの声を、私が聞きます」
琴乃はその手を見つめる。
「許せと言うの」
鈴音は首を横に振った。
「言いません」
「恨むなと?」
「言いません」
「じゃあ、どうすればいいの」
琴乃の声が崩れた。
「私は、何をすれば、この痛みを終われるの」
鈴音は答えを持っていなかった。
でも、逃げずに言った。
「一緒に、言いましょう」
琴乃が顔を上げる。
「あなたが鬼に喰われたのではないと。嘘を言っていなかったと。あなたの声は、災いではなかったと」
琴乃の手が震える。
鈴音は、その手を取った。
冷たい。
けれど確かに、そこにあった。
琴乃は声を殺して泣いた。
百年分の恨みがすべて消えたわけではない。
それでも、黒い靄の奥から、小さな鈴の音が鳴った。
ちりん。
その音とともに、鈴音は清めの間へ戻った。
目を開けると、琴乃の鈴が震えていた。
黒ずんでいた鈴の表面に、ほんの少しだけ銀色が戻っている。
朔夜が鈴音を支えていた。
千景が泣きそうな顔で言った。
「鈴音さん……戻りましたか」
鈴音は頷く。
喉が痛い。
でも、声が出る。
「聞きました」
朔夜の目が揺れる。
鈴音は彼を見る。
「琴乃さまは……鬼に、喰われていません」
朔夜は静かに目を閉じた。
百年間、誰も言ってくれなかった言葉。
朔夜自身が知っていても、誰にも信じてもらえなかった真実。
鈴音の声で、それがようやく外へ出た。
朔夜は低く言った。
「……ああ」
それだけだった。
けれど、その声には深い震えがあった。
鈴音は琴乃の鈴を見つめる。
「琴乃さまの怨みは、まだ消えていません」
千景が息を呑む。
「でも、声は届きました」
そのとき、社の外で大きな音がした。
何かが倒れる音。
続いて、焦げた匂いが流れ込んできた。
千景が跳ねるように立ち上がる。
「火です!」
鈴音は息を呑んだ。
朔夜が外へ出る。
鈴音も続いた。
社の向こう、山道の下から赤い光が揺れていた。
火の手が上がっている。
しかも、近づいてくる。
千景が空へ飛ぶように駆け、すぐに戻ってきた。
顔が青ざめている。
「綾乃さんです!」
鈴音の胸が凍る。
「綾乃さんが、火を持ってこっちに向かってます。常盤家の使用人たちを振り切って……様子がおかしいです」
朔夜の顔が険しくなる。
「琴乃の声が届いたことで、綾乃の中の最後の悪意が暴れ出したか」
鈴音は喉に手を当てた。
琴乃の怨みは薄れた。
でも、綾乃自身の嫉妬と罪は残っている。
綾乃は、琴乃に操られていただけではない。
鈴音の声を奪いたいと願ったのは、綾乃自身でもあった。
その綾乃が、火を持って社へ向かっている。
朔夜が鈴音を振り返る。
「中にいろ」
鈴音は首を横に振った。
「行きます」
「危険だ」
「綾乃さまと、話します」
声は震えていた。
けれど、引かなかった。
次に向き合うべきは、百年前の花嫁ではない。
今を生きている姉だ。
鈴音は母の鈴と守り紐を握りしめた。
遠くで、炎の赤が夜を染め始めている。
綾乃との最後の対峙が、近づいていた。
琴乃の問いは、社へ戻ってからも鈴音の胸に残り続けた。
喉の痛みは、前よりも少し落ち着いていた。声を出せる時間は増えている。けれど、長く話せばまだ熱を持つ。
それでも、もう声が完全に閉ざされることはなかった。
母の死を告げた。
自分は災いではないと言えた。
朔夜を呼び戻した。
村人たちの前で、常盤家の嘘を暴いた。
鈴音の声は、少しずつ戻ってきている。
けれど、戻れば戻るほど、聞こえるものも増えていった。
村に残る嘘の音。
常盤家の奥に沈む黒い気配。
綾乃の中で眠る琴乃の声。
そして、あの問い。
――お前だけが幸せになるのか。
鈴音は、清めの間で琴乃の鈴を見つめていた。
黒ずみ、割れた小さな鈴。
百年前、花嫁として山へ送られた少女の声が残る鈴。
今は静かだった。
けれど鈴音には、その奥からかすかな泣き声が聞こえる気がした。
朔夜は少し離れた場所に座っている。
第11章で村中の嘘を喰らいかけてから、朔夜はまだ本調子ではなかった。顔色は白く、指先には薄く黒い穢れが残っている。
それでも、鈴音のそばを離れようとはしない。
鈴音は紙を取り、書いた。
『朔夜さま、体は大丈夫ですか』
朔夜は鈴音の文字を見る。
「お前に心配されるほどではない」
千景が横からすぐに言った。
「心配されるほどです」
朔夜が千景を見る。
千景は怯まなかった。
「鈴音さんの前だから平気なふりしてるだけです。嘘を喰いすぎた後は、いつも三日は動きが鈍くなるんですから」
鈴音は朔夜を見た。
朔夜は少しだけ目をそらした。
その仕草だけで、千景の言葉が本当なのだとわかった。
鈴音は胸が痛む。
また、自分のために朔夜が傷ついた。
そう思いかけて、鈴音は首を横に振った。
違う。
すべてを自分のせいにするのは、朔夜がすべてを自分の罪にするのと同じだ。
村の嘘は、村のもの。
常盤家の罪は、常盤家のもの。
琴乃の怨みは、琴乃のもの。
鈴音は、それらを聞く。
けれど、全部を背負うためではない。
鈴音は紙に書いた。
『今日は、琴乃さまの声を聞きたいです』
千景の耳がぴんと立った。
「今日ですか? もう少し休んでからでも」
鈴音は首を横に振る。
『琴乃さまは、待っている気がします』
朔夜は、琴乃の鈴へ視線を向けた。
「琴乃の声に触れれば、百年前の記憶を見ることになる」
鈴音は頷く。
「見れば、傷つくかもしれぬ」
『それでも、聞くと言いました』
朔夜は鈴音の文字を見つめた。
鈴音はさらに書いた。
『琴乃さまの声を聞かないまま、幸せになることはできません』
それは、琴乃への答えでもあり、自分自身への答えでもあった。
幸せになりたい。
朔夜の隣にいたい。
自分の声で生きたい。
その願いは本当だ。
でも、そのために琴乃を災いのまま置き去りにしたくはなかった。
朔夜は長い沈黙のあと、静かに頷いた。
「わかった」
清めの間に、白い布が敷かれた。
中央に琴乃の鈴。
その隣に、母の鈴。
鈴音の胸元には、朔夜から受け取った守り紐の鈴がある。
三つの鈴が並ぶと、空気が細く震えた。
ちりん。
ちりん。
まだ触れていないのに、鈴の音が鳴った。
朔夜は鈴音の正面に座る。
「琴乃の声は強い。恨みに引き込まれそうになったら、俺の名を呼べ」
鈴音は小さく頷いた。
千景もすぐそばに座る。
「僕もいますから。変なものが出たら燃やします」
「燃やすな。まず見極めろ」
「はいはい」
いつものやり取りに、鈴音は少しだけ笑った。
それだけで、張り詰めていた心が緩む。
鈴音は琴乃の鈴へ手を伸ばした。
指先が、黒ずんだ鈴に触れる。
瞬間、耳元で琴乃の声がした。
――来たのね。
景色が白く染まった。
鈴音は、知らない村に立っていた。
今の村よりも家は少なく、道は細い。空は夕暮れの色に沈み、田には冷たい風が吹いている。
鈴音の前を、ひとりの少女が歩いていた。
白い小袖を着た、細い少女。
まだ白無垢ではない。
長い黒髪を背に流し、胸元には小さな鈴を提げている。
琴乃だ。
顔は、影ではなかった。
まだ生きている琴乃は、驚くほど普通の少女だった。
怨霊のような赤い唇も、冷たい笑みもない。目は大きく、どこか不安げで、それでも人を信じたい光があった。
琴乃は村人たちに囲まれていた。
「琴乃さま、この者が米を盗んだのです」
「違う! 私はやっていない!」
琴乃は静かに二人の声を聞き、胸元の鈴に触れた。
ちりん。
鈴が鳴る。
すると、片方の男の口元から黒い靄が漏れた。
琴乃は悲しそうに目を伏せる。
「嘘をついているのは、あなたです」
村人たちがどよめく。
男は顔色を変え、やがて膝をついた。
「すまない……」
人々は琴乃を褒めた。
「さすが巫女さまだ」
「琴乃さまの声があれば、村は清らかになる」
「鬼神さまに選ばれた娘だ」
琴乃は微笑んだ。
けれど、その微笑みは少し寂しそうだった。
鈴音にはわかった。
琴乃は、褒められても嬉しそうではない。
人々は琴乃を見ているようで、彼女の力しか見ていない。
景色が変わる。
琴乃は、ひとりで山の社へ向かっていた。
まだ若い朔夜が、社の前に立っている。
姿は今とほとんど変わらない。
琴乃は朔夜の前で頭を下げた。
「鬼神さま。村に、嘘が溜まっています」
朔夜は琴乃を見た。
「何を見た」
「供物が横流しされています。村長と、巫女を管理する家が関わっています。災いのいくつかは、鬼神さまの怒りではありません。人の欲が招いたことです」
朔夜の表情が険しくなる。
「証は」
「集めています」
琴乃の手が震えていた。
「でも、怖いのです。私が言えば、村は私を信じるでしょうか。それとも、私の声を憎むでしょうか」
朔夜はしばらく黙り、言った。
「真実を告げる声は、必ずしも歓迎されぬ」
琴乃は小さく笑った。
「優しいことは言ってくださらないのですね」
「嘘は言わぬ」
「では、私はどうすればいいのでしょう」
朔夜は琴乃を見つめた。
「ひとりで抱えるな。声を上げると決めたなら、俺の社へ来い」
琴乃の目が、少しだけ明るくなった。
「聞いてくださるのですか」
「聞く」
その一言に、琴乃は泣きそうな顔で笑った。
鈴音の胸が痛んだ。
琴乃は、この言葉を信じたのだ。
朔夜なら聞いてくれる。
朔夜なら助けてくれる。
そう思ってしまったのだ。
また景色が変わる。
夜の村。
琴乃は白無垢を着せられていた。
髪は結われ、唇には紅が差されている。けれど顔は青ざめ、手は震えていた。
村人たちが周囲を囲んでいる。
「鬼神さまがお怒りだ」
「琴乃の声が災いを呼んだ」
「花嫁として差し出せば、村は鎮まる」
琴乃は叫ぶ。
「違います! 鬼神さまのせいではありません! 村の嘘が土地を穢しているのです!」
その声に、村人たちの口元から黒い靄が噴き出す。
人々は怯えた。
けれど、怯えはすぐ怒りに変わった。
「やはり災いの声だ」
「黙らせろ」
「鬼に魅入られた娘だ」
琴乃は首を横に振る。
胸元の鈴が激しく鳴る。
ちりん。
ちりん。
けれど誰も聞かない。
誰も琴乃の声を受け取らない。
鈴音は叫びたくなった。
違う。
琴乃は嘘を言っていない。
でも、これは過去だ。
鈴音は見ることしかできない。
琴乃は山へ連れていかれた。
社の前で、ひとり座らされる。
白無垢の袖が泥に汚れている。
琴乃は震えながら、社の奥へ向かって叫んだ。
「朔夜さま!」
返事はない。
「聞いてくださると、言ったではありませんか!」
社の奥には、結界が張られていた。
朔夜の気配がある。
けれど、出てこられない。
琴乃はそれに気づいていない。
ただ、待っている。
信じている。
やがて、背後から松明の明かりが近づいた。
村人たちだった。
琴乃は立ち上がる。
「なぜ、あなたたちが……」
誰かが言った。
「これで終わりにする」
琴乃は後ずさる。
「私は嘘を言っていません」
「だから困るんだ」
その言葉に、琴乃の顔が凍った。
鈴音の胸も凍った。
だから困る。
真実だから、困る。
嘘ではないから、黙らせる。
琴乃は逃げようとした。
しかし白無垢の裾が足に絡まり、転んだ。
村人たちが近づく。
鈴音は目を閉じたくなった。
けれど、琴乃の声を聞くと決めた。
目をそらさない。
琴乃は最後まで叫んでいた。
「私は、鬼に喰われるのではありません!」
「私は、嘘を言っていません!」
「誰か、聞いて!」
最後の言葉だけが、鈴音の胸を貫いた。
誰か、聞いて。
それは、怨霊の言葉ではなかった。
ただ、ひとりの少女の叫びだった。
景色が黒く沈む。
次に見えたのは、朔夜だった。
結界を破り、社の外へ飛び出す朔夜。
白無垢の琴乃は、すでに地面に倒れていた。
白い衣が、赤く染まっている。
琴乃はまだ息をしていた。
朔夜が膝をつく。
「琴乃」
琴乃の目が、かすかに開く。
「……どうして」
朔夜は何も言えない。
「どうして、来てくださらなかったのですか」
朔夜の手が震えていた。
琴乃は涙を流していた。
「聞いてくださると……言ったのに」
朔夜は、琴乃の血に濡れた手を握る。
「遅かった」
琴乃は笑った。
それは、絶望の笑みだった。
「遅いのです」
その言葉が、鈴音の胸にも突き刺さった。
琴乃は朔夜を恨んでいた。
でも、本当に恨んでいたのは、朔夜に来てほしかったからだ。
信じていたからだ。
最後に間に合わなかったことが、裏切りに見えたからだ。
琴乃の唇が震える。
「私を……鬼に喰われたことに、しないで……」
朔夜の目が見開かれる。
「私は……嘘を、言っていない……」
琴乃の鈴が鳴った。
ちりん。
その音は、途中で割れるように途切れた。
琴乃の手から力が抜けた。
朔夜は、何も言わずにその場に座り尽くしていた。
その背に、村人たちの嘘が降り積もっていく。
鬼が喰った。
鬼神が怒った。
花嫁が喰われたから、村は救われた。
その嘘が、黒い泥のように朔夜の背を覆った。
朔夜は、その嘘を喰った。
喰うしかなかった。
喰わなければ、琴乃の死が穢れとなって村を呑むから。
けれど喰ったことで、朔夜は「琴乃を喰った鬼」という嘘を自分の中へ取り込んでしまった。
鈴音は泣いていた。
声が出ない。
記憶の中なのに、喉が痛む。
琴乃の最期の声が、胸の奥で鳴り続けている。
私は、嘘を言っていない。
鬼に喰われたことにしないで。
誰か、聞いて。
景色が白く溶けた。
鈴音は霧の中に立っていた。
そこに、琴乃がいた。
白無垢姿の少女。
けれど、今度は顔が見えた。
怨霊の赤い唇ではない。
泣き腫らした目をした、百年前の少女だった。
「見たでしょう」
琴乃が言った。
「私の声は、誰にも届かなかった」
鈴音は唇を震わせた。
声を出す。
夢の中でも、痛い。
でも、言わなければならない。
「……聞きました」
琴乃の瞳が揺れる。
鈴音は続けた。
「あなたは、嘘を言っていません」
琴乃の顔が歪む。
「遅いわ」
「はい」
鈴音は頷いた。
「遅いです。百年も、遅いです」
琴乃の涙がこぼれる。
「じゃあ、何になるの。今さら聞いたって。私はもう死んでいる。私の声は奪われた。私の幸せは、どこにもない」
鈴音は胸を押さえた。
お前だけが幸せになるのか。
その問いの痛みが、今ならわかる気がした。
琴乃は、鈴音が憎かったのではない。
救われる鈴音を見るのが苦しかったのだ。
自分にはなかったものを、鈴音が手にしているように見えた。
声を聞く者。
隣に立つ者。
自分を災いではないと言ってくれる者。
鈴音は琴乃を見つめた。
「私も、幸せになりたいです」
琴乃の表情が強張る。
「でも、あなたを嘘のままにはしません」
鈴音は一歩近づいた。
「あなたは鬼に喰われた花嫁ではありません」
琴乃が震える。
「あなたは、真実を言おうとして殺された人です」
琴乃の白無垢から、黒い靄が少しずつ剥がれ落ちていく。
鈴音は手を伸ばした。
「あなたの声を、私が聞きます」
琴乃はその手を見つめる。
「許せと言うの」
鈴音は首を横に振った。
「言いません」
「恨むなと?」
「言いません」
「じゃあ、どうすればいいの」
琴乃の声が崩れた。
「私は、何をすれば、この痛みを終われるの」
鈴音は答えを持っていなかった。
でも、逃げずに言った。
「一緒に、言いましょう」
琴乃が顔を上げる。
「あなたが鬼に喰われたのではないと。嘘を言っていなかったと。あなたの声は、災いではなかったと」
琴乃の手が震える。
鈴音は、その手を取った。
冷たい。
けれど確かに、そこにあった。
琴乃は声を殺して泣いた。
百年分の恨みがすべて消えたわけではない。
それでも、黒い靄の奥から、小さな鈴の音が鳴った。
ちりん。
その音とともに、鈴音は清めの間へ戻った。
目を開けると、琴乃の鈴が震えていた。
黒ずんでいた鈴の表面に、ほんの少しだけ銀色が戻っている。
朔夜が鈴音を支えていた。
千景が泣きそうな顔で言った。
「鈴音さん……戻りましたか」
鈴音は頷く。
喉が痛い。
でも、声が出る。
「聞きました」
朔夜の目が揺れる。
鈴音は彼を見る。
「琴乃さまは……鬼に、喰われていません」
朔夜は静かに目を閉じた。
百年間、誰も言ってくれなかった言葉。
朔夜自身が知っていても、誰にも信じてもらえなかった真実。
鈴音の声で、それがようやく外へ出た。
朔夜は低く言った。
「……ああ」
それだけだった。
けれど、その声には深い震えがあった。
鈴音は琴乃の鈴を見つめる。
「琴乃さまの怨みは、まだ消えていません」
千景が息を呑む。
「でも、声は届きました」
そのとき、社の外で大きな音がした。
何かが倒れる音。
続いて、焦げた匂いが流れ込んできた。
千景が跳ねるように立ち上がる。
「火です!」
鈴音は息を呑んだ。
朔夜が外へ出る。
鈴音も続いた。
社の向こう、山道の下から赤い光が揺れていた。
火の手が上がっている。
しかも、近づいてくる。
千景が空へ飛ぶように駆け、すぐに戻ってきた。
顔が青ざめている。
「綾乃さんです!」
鈴音の胸が凍る。
「綾乃さんが、火を持ってこっちに向かってます。常盤家の使用人たちを振り切って……様子がおかしいです」
朔夜の顔が険しくなる。
「琴乃の声が届いたことで、綾乃の中の最後の悪意が暴れ出したか」
鈴音は喉に手を当てた。
琴乃の怨みは薄れた。
でも、綾乃自身の嫉妬と罪は残っている。
綾乃は、琴乃に操られていただけではない。
鈴音の声を奪いたいと願ったのは、綾乃自身でもあった。
その綾乃が、火を持って社へ向かっている。
朔夜が鈴音を振り返る。
「中にいろ」
鈴音は首を横に振った。
「行きます」
「危険だ」
「綾乃さまと、話します」
声は震えていた。
けれど、引かなかった。
次に向き合うべきは、百年前の花嫁ではない。
今を生きている姉だ。
鈴音は母の鈴と守り紐を握りしめた。
遠くで、炎の赤が夜を染め始めている。
綾乃との最後の対峙が、近づいていた。



