村人たちは、誰も動けずにいた。
常盤家の門前には、黒い靄の名残がまだ漂っている。地面には、朔夜が喰いきれなかった嘘の欠片が焦げ跡のように残り、ところどころで細い煙を上げていた。
さっきまで、村人たちは鈴音を責めていた。
災いの娘。
鬼神に魅入られた花嫁。
常盤家を乱す者。
そんな言葉が、村のあちこちから鈴音へ向けられていた。
けれど今は、誰も何も言わない。
彼らは見たのだ。
自分たちが吐き、隠し、押しつけてきた嘘が黒い靄となって噴き出すところを。
朔夜がそれを喰らい、鬼へ堕ちかけるところを。
そして、鈴音の声がその朔夜を呼び戻すところを。
鈴音は、朔夜の手を握っていた。
彼の手は冷たかった。いつもよりもずっと冷たく、指先にはまだ黒い穢れが残っている。
鬼の角は消え、爪も元に戻っていた。けれど、その顔色は白く、金色の瞳にも疲労が滲んでいる。
「朔夜さま」
鈴音が呼ぶと、朔夜は静かに目を向けた。
「大丈夫だ」
そう言った声は、あまり大丈夫には聞こえなかった。
鈴音は首を横に振りかけたが、朔夜の視線が村人たちへ向く。
「今、言うべきことがあるのだろう」
鈴音は息を呑んだ。
喉は痛い。
第11章で、朔夜を呼び戻すために何度も声を張った。声の道は開いているが、まだ傷つきやすい。今も少し息を吸うだけで、喉の奥がひりついた。
けれど、今言わなければならない。
村人たちが見ている。
常盤家が見ている。
八重は倒れた綾乃を抱きしめたまま、鈴音を睨んでいた。宗一郎は地面に片膝をつき、顔色を失っている。
綾乃は目を閉じたまま動かない。
その体の奥に、琴乃がいる。
百年前の花嫁の声が、まだ終わっていない。
鈴音は母の鈴を握りしめた。
ちりん。
小さな音が、胸の奥で広がった。
守り紐の鈴も、それに応える。
ちりん。
鈴音は一歩、前へ出た。
朔夜は隣に立っている。
千景は少し後ろで、狐火を消さずに警戒していた。
鈴音は村人たちを見た。
怯えた顔。
疑う顔。
罪悪感を隠そうとする顔。
それでも、誰も目をそらせないでいる。
鈴音は、息を吸った。
「聞いて、ください」
声は掠れていた。
けれど、村人たちは静まり返った。
「私は……災いでは、ありません」
この言葉を口にするのは、今日で三度目だった。
一度目は、自分を取り戻すため。
二度目は、村に向けて。
そして今は、嘘の根を断つため。
「母も、災いでは、ありませんでした」
鈴音は胸に抱いた鈴を掲げた。
「母、澄乃は……病で亡くなったのでは、ありません」
村人たちの間に、ざわめきが走る。
宗一郎が顔を上げた。
「鈴音、やめろ」
弱い声だった。
かつての当主の威厳はなかった。
鈴音は父を見た。
昔なら、その一言で黙っていた。
怖かった。
父に見捨てられるのが怖かった。
けれど今は、もう見捨てられていたことを知っている。
だから、止まらない。
「母は、常盤家の嘘を暴こうとしました」
鈴音は言った。
「鬼神さまの祟りだと言われていた災いの中には、常盤家が隠した不正がありました。供物の横流し。村人から集めた金の使い込み。事故を祟りと偽った記録。そして……百年前の花嫁、琴乃さまの死を隠した記録も」
千景が帳面を開き、村人たちの前に掲げた。
「証拠ならあります。澄乃さんが残した記録です。常盤家の蔵に封じられていました」
村人たちの視線が、帳面へ集まる。
年老いた男が震える声で言った。
「琴乃……その名は、祖母から聞いたことがある。鬼に喰われた花嫁だと……」
「喰われていません」
鈴音は、はっきり言った。
喉の奥が焼けるように痛む。
それでも言葉を続けた。
「琴乃さまは、鬼神さまに喰われたのではありません。村人たちに殺されました。真実を告げようとしたから。常盤家と村の罪を暴こうとしたから」
ざわめきが大きくなる。
「そんな……」
「百年前のことだろう」
「今の我々には関係ない」
その言葉に、黒い靄が小さく漏れた。
鈴音には見えた。
関係ない。
それは逃げるための嘘だ。
百年前のことでも、今の村はその嘘の上に立っている。
鬼神を恐れ、都合の悪いことを誰かのせいにし、また鈴音を災いにしようとした。
鈴音は村人たちを見渡した。
「関係ないことでは、ありません」
村人たちが黙る。
「琴乃さまが災いにされたように、母も黙らされました。母の死を病にされました。そして私は、母が殺されたことを言おうとして、声を奪われました」
八重が叫んだ。
「違う! あれは鈴音のためだった! あの声は危うかったのよ。常盤家を壊す声だった!」
その言葉から、濃い黒い糸が伸びた。
朔夜の目が鋭くなる。
しかし、鈴音は首を横に振った。
ここは、朔夜に喰ってもらう場面ではない。
鈴音自身が、言葉で返さなければならない。
「私のためでは、ありません」
鈴音の声は震えた。
でも、逃げなかった。
「あなた方のためでした。常盤家を守るため。罪を隠すため。綾乃さまを守るため。そして、私を黙らせるため」
八重の顔が歪む。
「あなたに何がわかるの! 私は綾乃を守りたかっただけよ!」
「はい」
鈴音は頷いた。
八重が一瞬、言葉を失う。
「あなたは、綾乃さまを守りたかったのだと思います。でも、そのために私の声を奪いました。母の死を隠しました。綾乃さまにも、罪を背負わせました」
八重の瞳が揺れた。
綾乃を抱く腕に力がこもる。
鈴音は、綾乃を見た。
倒れた姉の顔は青白い。
美しい姫君。
偽りの姫君。
でも、その偽りの下で、ずっと泣いていた娘。
「綾乃さまも、苦しかったのだと思います」
鈴音の声が少しだけかすれる。
「でも……苦しかったからといって、私の声を奪っていい理由にはなりません」
その言葉に、綾乃の指先がぴくりと動いた。
八重が息を呑む。
綾乃はまだ目を開けない。
けれど、その頬に一筋だけ涙が伝った。
鈴音は胸が痛んだ。
それでも、言う。
「私は、綾乃さまを許しません」
村人たちがどよめいた。
鈴音は続ける。
「八重さまも、父も、許せません。私の声を奪ったこと。母の死を隠したこと。私を災いにしたこと。なかったことにはできません」
その言葉を言うのに、喉よりも胸が痛んだ。
許しません。
その言葉は重かった。
けれど、必要だった。
鈴音は聖女ではない。
すべてを微笑んで許すために声を取り戻したのではない。
奪われた痛みを、なかったことにしないために声を取り戻している。
宗一郎が、かすれた声で言った。
「鈴音……私は……」
鈴音は父を見た。
父の目には怯えがあった。
後悔ではない。
自分の罪が露わになることへの怯え。
それがわかって、鈴音の胸は少しだけ冷めた。
「父上」
その呼び名を声にしたのは、何年ぶりだろう。
宗一郎が顔を上げる。
「あなたは、母が倒れたとき、見ていました」
宗一郎の唇が震える。
「あなたは、私の喉に呪いがかけられるのを、止めませんでした」
「違う、私は……」
「見ていました」
鈴音は繰り返した。
その一言に、宗一郎の背が小さく丸まる。
鈴音は思った。
父は、何もしなかったのではない。
何もしないことを選んだのだ。
それもまた、罪だった。
村人たちの中から、泣き声が聞こえた。
年配の女が膝をついている。
「澄乃さま……私は、知っていた。あの夜、奥の方から騒ぎ声がして……でも、常盤家のことだからと……」
別の男がうつむいた。
「琴乃さまのことも、うちの家に古い話が残っていた。鬼に喰われたのではないかもしれないと……でも、誰も言わなかった」
ひとり、またひとりと、村人たちの口から言葉がこぼれ始める。
「怖かった」
「常盤家に逆らえなかった」
「自分の家が無事なら、それでいいと思った」
「鈴音さまを災いと言えば、他のことを考えずに済んだ」
黒い糸が、村人たちの足元から浮かび上がる。
けれどそれは、さっきまでのように朔夜へ流れ込まなかった。
村人たち自身の前に、形を持って現れている。
自分の嘘を、自分で見ている。
朔夜が静かに言った。
「鈴音の声が、嘘を外へ出している」
千景が息を呑む。
「じゃあ、朔夜さまが全部喰わなくても……」
「ああ」
朔夜の声は低い。
「まずは、吐いた者が見るべきだ」
鈴音は、その言葉を聞いて胸が震えた。
そうだ。
すべてを朔夜に喰わせてはいけない。
すべてを琴乃に背負わせてもいけない。
自分も、もう背負わない。
それぞれが、自分の嘘と向き合わなければならない。
そのとき、綾乃の体が大きく震えた。
八重が叫ぶ。
「綾乃!」
綾乃の口から、黒い靄があふれる。
その背後に、白無垢の影が浮かび上がった。
琴乃。
今までよりも、輪郭がはっきりしている。
だが、その表情は見えない。
顔のない花嫁の赤い唇だけが、かすかに震えていた。
「きれいなことを言うのね、鈴音」
琴乃の声がした。
「みんなで罪と向き合いましょう。嘘を誰かに押しつけるのはやめましょう。まるで、真実を言えば救われるみたいに」
鈴音は琴乃を見た。
怖い。
けれど、目をそらさなかった。
琴乃の足元からは、無数の黒い糸が伸びている。
村人の嘘、常盤家の罪、綾乃の嫉妬、そして琴乃自身の悲しみが絡み合っている。
琴乃は笑った。
「私は真実を言おうとしたわ。結果はどうだった?」
鈴音は答えられない。
「殺された。鬼に喰われたことにされた。私の声は、誰にも届かなかった」
琴乃の声が震える。
「あなたは今、みんなに聞いてもらえている。鬼神さまに守られて、花嫁として隣に立ってもらえている。母の鈴もある。証もある。味方もいる」
その言葉には、毒のような羨望が混じっていた。
「私は、ひとりだったのに」
鈴音の胸が痛む。
琴乃は怨霊だ。
鈴音を苦しめた存在だ。
けれどその奥に、ひとりで死んだ少女がいる。
助けを待っていた花嫁がいる。
鈴音は、一歩前へ出た。
朔夜がわずかに動いたが、止めなかった。
鈴音は琴乃を見つめる。
「琴乃さま」
喉が痛む。
でも、この声だけは届けたかった。
「あなたは、災いではありません」
琴乃の影が揺れた。
「あなたの声も、間違っていません」
黒い糸が、一瞬だけ動きを止める。
鈴音は続けた。
「でも、あなたが苦しかったからといって、綾乃さまを使って、私の声を奪っていいことにはなりません」
琴乃の赤い唇が歪む。
「また、それ?」
「はい」
鈴音は頷いた。
「あなたも、綾乃さまも、母も、私も、みんな黙らされました。でも、だからといって、次の誰かを黙らせていいことにはなりません」
琴乃の影が、かすかに震える。
怒りなのか、悲しみなのかわからない。
鈴音は母の鈴を握りしめた。
「私は、あなたを許すとは言えません」
琴乃が黙る。
「でも、聞きます」
鈴音は、はっきり言った。
「あなたの声を、災いにしないために」
その瞬間、琴乃の胸元に黒い塊が浮かび上がった。
それは、怨霊の核だった。
黒い糸が幾重にも巻きつき、その中心に小さな鈴がある。
割れた鈴。
血のように赤黒く錆びた鈴。
その鈴から、かすかな声が漏れた。
――聞いて。
鈴音は息を呑む。
それは琴乃の声だった。
けれど、怨みではなかった。
死ぬ直前の少女の声。
誰にも届かなかった声。
琴乃の影が苦しげに胸を押さえる。
「やめて……見ないで……」
鈴音はゆっくり近づく。
黒い糸が鈴音を拒むように揺れるが、母の鈴と守り紐が鳴り、道を作る。
ちりん。
ちりん。
琴乃の核から、さらに声が漏れた。
――私は、鬼に喰われたんじゃない。
――私は、嘘をついたわけじゃない。
――私は、ただ、聞いてほしかった。
鈴音の目に涙が滲んだ。
琴乃の本当の声。
百年、誰にも届かなかった声。
琴乃の赤い唇が震える。
「聞かないで」
言葉とは逆に、その声は泣いていた。
「聞いてしまったら……私は、何を恨めばいいの」
鈴音は立ち止まった。
琴乃は、恨みで存在していた。
恨まなければ、声を失ったまま死んだ自分を支えられなかったのかもしれない。
朔夜が低く言う。
「琴乃」
その声に、琴乃の影がびくりと震える。
朔夜は一歩進み出た。
「俺は、お前を救えなかった」
琴乃は顔のないまま、朔夜を見る。
「それは、百年経っても消えぬ事実だ。言い訳はしない」
鈴音は朔夜を見る。
彼の声は静かだった。
逃げていない。
自分の傷からも、琴乃の恨みからも。
「だが、俺が喰ったことにされた嘘は、今日ここで終わらせる」
琴乃の影が揺れる。
「お前は、俺に喰われてなどいない。お前の声は、嘘ではない」
琴乃の胸元の割れた鈴が、大きく震えた。
ちりん、と歪んだ音が鳴る。
鈴音は、そっと声を重ねた。
「琴乃さま」
自分の声が震えているのがわかった。
「あなたの声を、私が聞きます」
黒い糸がほどける。
少しだけ。
琴乃の影の中に、少女の輪郭が見えた気がした。
白無垢を着せられ、泣きながら夜の社で待っていた少女。
その少女が、鈴音を見た。
目は見えない。
でも、泣いていることだけはわかった。
「お前だけが……」
琴乃の声が震える。
「お前だけが、幸せになるのか」
その問いは、呪いではなかった。
叫びだった。
怒りであり、悲しみであり、置いていかれた者の声だった。
村人たちは何も言えない。
綾乃は八重の腕の中で涙を流している。
朔夜は目を伏せる。
鈴音は、琴乃を見つめた。
その問いへの答えは、すぐには出なかった。
自分は幸せになりたい。
朔夜の隣にいたい。
声を取り戻して、生きたい。
でも、それは琴乃を置き去りにすることなのだろうか。
幸せになることは、救われなかった誰かへの裏切りなのだろうか。
鈴音は母の鈴を握った。
ちりん。
小さな音がした。
その音に導かれるように、鈴音は息を吸う。
「私は……幸せに、なりたいです」
琴乃の影が揺れる。
鈴音は続けた。
「でも、あなたの声を聞かないまま、幸せにはなりません」
喉が痛む。
けれど、言葉を止めない。
「あなたが、何を奪われたのか。何を言いたかったのか。全部はまだ、わかりません。でも、聞きます」
琴乃の影が、泣いているように震えた。
そのとき、綾乃がかすかに目を開けた。
「……鈴音」
弱い声だった。
綾乃自身の声。
鈴音は姉を見る。
綾乃の瞳には、いつもの作られた優しさも、美しい偽りもなかった。
ただ、恐怖と後悔と、幼い日の嫉妬が残っていた。
琴乃の影が綾乃へ戻ろうとする。
しかし、胸元の割れた鈴がまだ露わになっている。
朔夜が低く言った。
「今なら、核が見えている」
千景が狐火を構える。
「祓いますか」
鈴音は首を横に振った。
今、力で祓えば、琴乃の声をまた聞かないまま消してしまう気がした。
鈴音は言った。
「まだです」
朔夜は鈴音を見た。
鈴音は、琴乃の問いを胸に抱いたまま、静かに続ける。
「次は、琴乃さまの声を聞きます」
琴乃の影が、ゆっくりと綾乃の中へ沈んでいく。
消える直前、その声が鈴音の耳元に届いた。
「なら、来なさい」
冷たく、寂しい声だった。
「百年前の花嫁が、どう死んだのか。見てもなお、お前が幸せになると言えるなら」
白無垢の影は、綾乃の体へ溶けた。
黒い靄も少しずつ薄れていく。
完全には消えない。
だが、村の上空を覆っていた闇は、先ほどよりも薄くなっていた。
村人たちは、まだ誰も動けない。
嘘を見せられた者たちが、初めて自分の足元を見ている。
鈴音は息を吐いた。
体から力が抜けそうになる。
朔夜がすぐに支えた。
「よく言った」
その声が、胸に沁みた。
鈴音はかすかに頷く。
今日はすべてを終わらせられなかった。
けれど、真実は村の前に置かれた。
母の死も、常盤家の罪も、琴乃の声も。
もう、誰か一人の災いとして押し込めることはできない。
鈴音は、綾乃の中に沈んだ琴乃の影を見つめた。
次は、百年前の花嫁。
琴乃の問いに、答えを探さなければならない。
お前だけが幸せになるのか。
その声は、いつまでも鈴音の胸の奥で鳴り続けていた。
常盤家の門前には、黒い靄の名残がまだ漂っている。地面には、朔夜が喰いきれなかった嘘の欠片が焦げ跡のように残り、ところどころで細い煙を上げていた。
さっきまで、村人たちは鈴音を責めていた。
災いの娘。
鬼神に魅入られた花嫁。
常盤家を乱す者。
そんな言葉が、村のあちこちから鈴音へ向けられていた。
けれど今は、誰も何も言わない。
彼らは見たのだ。
自分たちが吐き、隠し、押しつけてきた嘘が黒い靄となって噴き出すところを。
朔夜がそれを喰らい、鬼へ堕ちかけるところを。
そして、鈴音の声がその朔夜を呼び戻すところを。
鈴音は、朔夜の手を握っていた。
彼の手は冷たかった。いつもよりもずっと冷たく、指先にはまだ黒い穢れが残っている。
鬼の角は消え、爪も元に戻っていた。けれど、その顔色は白く、金色の瞳にも疲労が滲んでいる。
「朔夜さま」
鈴音が呼ぶと、朔夜は静かに目を向けた。
「大丈夫だ」
そう言った声は、あまり大丈夫には聞こえなかった。
鈴音は首を横に振りかけたが、朔夜の視線が村人たちへ向く。
「今、言うべきことがあるのだろう」
鈴音は息を呑んだ。
喉は痛い。
第11章で、朔夜を呼び戻すために何度も声を張った。声の道は開いているが、まだ傷つきやすい。今も少し息を吸うだけで、喉の奥がひりついた。
けれど、今言わなければならない。
村人たちが見ている。
常盤家が見ている。
八重は倒れた綾乃を抱きしめたまま、鈴音を睨んでいた。宗一郎は地面に片膝をつき、顔色を失っている。
綾乃は目を閉じたまま動かない。
その体の奥に、琴乃がいる。
百年前の花嫁の声が、まだ終わっていない。
鈴音は母の鈴を握りしめた。
ちりん。
小さな音が、胸の奥で広がった。
守り紐の鈴も、それに応える。
ちりん。
鈴音は一歩、前へ出た。
朔夜は隣に立っている。
千景は少し後ろで、狐火を消さずに警戒していた。
鈴音は村人たちを見た。
怯えた顔。
疑う顔。
罪悪感を隠そうとする顔。
それでも、誰も目をそらせないでいる。
鈴音は、息を吸った。
「聞いて、ください」
声は掠れていた。
けれど、村人たちは静まり返った。
「私は……災いでは、ありません」
この言葉を口にするのは、今日で三度目だった。
一度目は、自分を取り戻すため。
二度目は、村に向けて。
そして今は、嘘の根を断つため。
「母も、災いでは、ありませんでした」
鈴音は胸に抱いた鈴を掲げた。
「母、澄乃は……病で亡くなったのでは、ありません」
村人たちの間に、ざわめきが走る。
宗一郎が顔を上げた。
「鈴音、やめろ」
弱い声だった。
かつての当主の威厳はなかった。
鈴音は父を見た。
昔なら、その一言で黙っていた。
怖かった。
父に見捨てられるのが怖かった。
けれど今は、もう見捨てられていたことを知っている。
だから、止まらない。
「母は、常盤家の嘘を暴こうとしました」
鈴音は言った。
「鬼神さまの祟りだと言われていた災いの中には、常盤家が隠した不正がありました。供物の横流し。村人から集めた金の使い込み。事故を祟りと偽った記録。そして……百年前の花嫁、琴乃さまの死を隠した記録も」
千景が帳面を開き、村人たちの前に掲げた。
「証拠ならあります。澄乃さんが残した記録です。常盤家の蔵に封じられていました」
村人たちの視線が、帳面へ集まる。
年老いた男が震える声で言った。
「琴乃……その名は、祖母から聞いたことがある。鬼に喰われた花嫁だと……」
「喰われていません」
鈴音は、はっきり言った。
喉の奥が焼けるように痛む。
それでも言葉を続けた。
「琴乃さまは、鬼神さまに喰われたのではありません。村人たちに殺されました。真実を告げようとしたから。常盤家と村の罪を暴こうとしたから」
ざわめきが大きくなる。
「そんな……」
「百年前のことだろう」
「今の我々には関係ない」
その言葉に、黒い靄が小さく漏れた。
鈴音には見えた。
関係ない。
それは逃げるための嘘だ。
百年前のことでも、今の村はその嘘の上に立っている。
鬼神を恐れ、都合の悪いことを誰かのせいにし、また鈴音を災いにしようとした。
鈴音は村人たちを見渡した。
「関係ないことでは、ありません」
村人たちが黙る。
「琴乃さまが災いにされたように、母も黙らされました。母の死を病にされました。そして私は、母が殺されたことを言おうとして、声を奪われました」
八重が叫んだ。
「違う! あれは鈴音のためだった! あの声は危うかったのよ。常盤家を壊す声だった!」
その言葉から、濃い黒い糸が伸びた。
朔夜の目が鋭くなる。
しかし、鈴音は首を横に振った。
ここは、朔夜に喰ってもらう場面ではない。
鈴音自身が、言葉で返さなければならない。
「私のためでは、ありません」
鈴音の声は震えた。
でも、逃げなかった。
「あなた方のためでした。常盤家を守るため。罪を隠すため。綾乃さまを守るため。そして、私を黙らせるため」
八重の顔が歪む。
「あなたに何がわかるの! 私は綾乃を守りたかっただけよ!」
「はい」
鈴音は頷いた。
八重が一瞬、言葉を失う。
「あなたは、綾乃さまを守りたかったのだと思います。でも、そのために私の声を奪いました。母の死を隠しました。綾乃さまにも、罪を背負わせました」
八重の瞳が揺れた。
綾乃を抱く腕に力がこもる。
鈴音は、綾乃を見た。
倒れた姉の顔は青白い。
美しい姫君。
偽りの姫君。
でも、その偽りの下で、ずっと泣いていた娘。
「綾乃さまも、苦しかったのだと思います」
鈴音の声が少しだけかすれる。
「でも……苦しかったからといって、私の声を奪っていい理由にはなりません」
その言葉に、綾乃の指先がぴくりと動いた。
八重が息を呑む。
綾乃はまだ目を開けない。
けれど、その頬に一筋だけ涙が伝った。
鈴音は胸が痛んだ。
それでも、言う。
「私は、綾乃さまを許しません」
村人たちがどよめいた。
鈴音は続ける。
「八重さまも、父も、許せません。私の声を奪ったこと。母の死を隠したこと。私を災いにしたこと。なかったことにはできません」
その言葉を言うのに、喉よりも胸が痛んだ。
許しません。
その言葉は重かった。
けれど、必要だった。
鈴音は聖女ではない。
すべてを微笑んで許すために声を取り戻したのではない。
奪われた痛みを、なかったことにしないために声を取り戻している。
宗一郎が、かすれた声で言った。
「鈴音……私は……」
鈴音は父を見た。
父の目には怯えがあった。
後悔ではない。
自分の罪が露わになることへの怯え。
それがわかって、鈴音の胸は少しだけ冷めた。
「父上」
その呼び名を声にしたのは、何年ぶりだろう。
宗一郎が顔を上げる。
「あなたは、母が倒れたとき、見ていました」
宗一郎の唇が震える。
「あなたは、私の喉に呪いがかけられるのを、止めませんでした」
「違う、私は……」
「見ていました」
鈴音は繰り返した。
その一言に、宗一郎の背が小さく丸まる。
鈴音は思った。
父は、何もしなかったのではない。
何もしないことを選んだのだ。
それもまた、罪だった。
村人たちの中から、泣き声が聞こえた。
年配の女が膝をついている。
「澄乃さま……私は、知っていた。あの夜、奥の方から騒ぎ声がして……でも、常盤家のことだからと……」
別の男がうつむいた。
「琴乃さまのことも、うちの家に古い話が残っていた。鬼に喰われたのではないかもしれないと……でも、誰も言わなかった」
ひとり、またひとりと、村人たちの口から言葉がこぼれ始める。
「怖かった」
「常盤家に逆らえなかった」
「自分の家が無事なら、それでいいと思った」
「鈴音さまを災いと言えば、他のことを考えずに済んだ」
黒い糸が、村人たちの足元から浮かび上がる。
けれどそれは、さっきまでのように朔夜へ流れ込まなかった。
村人たち自身の前に、形を持って現れている。
自分の嘘を、自分で見ている。
朔夜が静かに言った。
「鈴音の声が、嘘を外へ出している」
千景が息を呑む。
「じゃあ、朔夜さまが全部喰わなくても……」
「ああ」
朔夜の声は低い。
「まずは、吐いた者が見るべきだ」
鈴音は、その言葉を聞いて胸が震えた。
そうだ。
すべてを朔夜に喰わせてはいけない。
すべてを琴乃に背負わせてもいけない。
自分も、もう背負わない。
それぞれが、自分の嘘と向き合わなければならない。
そのとき、綾乃の体が大きく震えた。
八重が叫ぶ。
「綾乃!」
綾乃の口から、黒い靄があふれる。
その背後に、白無垢の影が浮かび上がった。
琴乃。
今までよりも、輪郭がはっきりしている。
だが、その表情は見えない。
顔のない花嫁の赤い唇だけが、かすかに震えていた。
「きれいなことを言うのね、鈴音」
琴乃の声がした。
「みんなで罪と向き合いましょう。嘘を誰かに押しつけるのはやめましょう。まるで、真実を言えば救われるみたいに」
鈴音は琴乃を見た。
怖い。
けれど、目をそらさなかった。
琴乃の足元からは、無数の黒い糸が伸びている。
村人の嘘、常盤家の罪、綾乃の嫉妬、そして琴乃自身の悲しみが絡み合っている。
琴乃は笑った。
「私は真実を言おうとしたわ。結果はどうだった?」
鈴音は答えられない。
「殺された。鬼に喰われたことにされた。私の声は、誰にも届かなかった」
琴乃の声が震える。
「あなたは今、みんなに聞いてもらえている。鬼神さまに守られて、花嫁として隣に立ってもらえている。母の鈴もある。証もある。味方もいる」
その言葉には、毒のような羨望が混じっていた。
「私は、ひとりだったのに」
鈴音の胸が痛む。
琴乃は怨霊だ。
鈴音を苦しめた存在だ。
けれどその奥に、ひとりで死んだ少女がいる。
助けを待っていた花嫁がいる。
鈴音は、一歩前へ出た。
朔夜がわずかに動いたが、止めなかった。
鈴音は琴乃を見つめる。
「琴乃さま」
喉が痛む。
でも、この声だけは届けたかった。
「あなたは、災いではありません」
琴乃の影が揺れた。
「あなたの声も、間違っていません」
黒い糸が、一瞬だけ動きを止める。
鈴音は続けた。
「でも、あなたが苦しかったからといって、綾乃さまを使って、私の声を奪っていいことにはなりません」
琴乃の赤い唇が歪む。
「また、それ?」
「はい」
鈴音は頷いた。
「あなたも、綾乃さまも、母も、私も、みんな黙らされました。でも、だからといって、次の誰かを黙らせていいことにはなりません」
琴乃の影が、かすかに震える。
怒りなのか、悲しみなのかわからない。
鈴音は母の鈴を握りしめた。
「私は、あなたを許すとは言えません」
琴乃が黙る。
「でも、聞きます」
鈴音は、はっきり言った。
「あなたの声を、災いにしないために」
その瞬間、琴乃の胸元に黒い塊が浮かび上がった。
それは、怨霊の核だった。
黒い糸が幾重にも巻きつき、その中心に小さな鈴がある。
割れた鈴。
血のように赤黒く錆びた鈴。
その鈴から、かすかな声が漏れた。
――聞いて。
鈴音は息を呑む。
それは琴乃の声だった。
けれど、怨みではなかった。
死ぬ直前の少女の声。
誰にも届かなかった声。
琴乃の影が苦しげに胸を押さえる。
「やめて……見ないで……」
鈴音はゆっくり近づく。
黒い糸が鈴音を拒むように揺れるが、母の鈴と守り紐が鳴り、道を作る。
ちりん。
ちりん。
琴乃の核から、さらに声が漏れた。
――私は、鬼に喰われたんじゃない。
――私は、嘘をついたわけじゃない。
――私は、ただ、聞いてほしかった。
鈴音の目に涙が滲んだ。
琴乃の本当の声。
百年、誰にも届かなかった声。
琴乃の赤い唇が震える。
「聞かないで」
言葉とは逆に、その声は泣いていた。
「聞いてしまったら……私は、何を恨めばいいの」
鈴音は立ち止まった。
琴乃は、恨みで存在していた。
恨まなければ、声を失ったまま死んだ自分を支えられなかったのかもしれない。
朔夜が低く言う。
「琴乃」
その声に、琴乃の影がびくりと震える。
朔夜は一歩進み出た。
「俺は、お前を救えなかった」
琴乃は顔のないまま、朔夜を見る。
「それは、百年経っても消えぬ事実だ。言い訳はしない」
鈴音は朔夜を見る。
彼の声は静かだった。
逃げていない。
自分の傷からも、琴乃の恨みからも。
「だが、俺が喰ったことにされた嘘は、今日ここで終わらせる」
琴乃の影が揺れる。
「お前は、俺に喰われてなどいない。お前の声は、嘘ではない」
琴乃の胸元の割れた鈴が、大きく震えた。
ちりん、と歪んだ音が鳴る。
鈴音は、そっと声を重ねた。
「琴乃さま」
自分の声が震えているのがわかった。
「あなたの声を、私が聞きます」
黒い糸がほどける。
少しだけ。
琴乃の影の中に、少女の輪郭が見えた気がした。
白無垢を着せられ、泣きながら夜の社で待っていた少女。
その少女が、鈴音を見た。
目は見えない。
でも、泣いていることだけはわかった。
「お前だけが……」
琴乃の声が震える。
「お前だけが、幸せになるのか」
その問いは、呪いではなかった。
叫びだった。
怒りであり、悲しみであり、置いていかれた者の声だった。
村人たちは何も言えない。
綾乃は八重の腕の中で涙を流している。
朔夜は目を伏せる。
鈴音は、琴乃を見つめた。
その問いへの答えは、すぐには出なかった。
自分は幸せになりたい。
朔夜の隣にいたい。
声を取り戻して、生きたい。
でも、それは琴乃を置き去りにすることなのだろうか。
幸せになることは、救われなかった誰かへの裏切りなのだろうか。
鈴音は母の鈴を握った。
ちりん。
小さな音がした。
その音に導かれるように、鈴音は息を吸う。
「私は……幸せに、なりたいです」
琴乃の影が揺れる。
鈴音は続けた。
「でも、あなたの声を聞かないまま、幸せにはなりません」
喉が痛む。
けれど、言葉を止めない。
「あなたが、何を奪われたのか。何を言いたかったのか。全部はまだ、わかりません。でも、聞きます」
琴乃の影が、泣いているように震えた。
そのとき、綾乃がかすかに目を開けた。
「……鈴音」
弱い声だった。
綾乃自身の声。
鈴音は姉を見る。
綾乃の瞳には、いつもの作られた優しさも、美しい偽りもなかった。
ただ、恐怖と後悔と、幼い日の嫉妬が残っていた。
琴乃の影が綾乃へ戻ろうとする。
しかし、胸元の割れた鈴がまだ露わになっている。
朔夜が低く言った。
「今なら、核が見えている」
千景が狐火を構える。
「祓いますか」
鈴音は首を横に振った。
今、力で祓えば、琴乃の声をまた聞かないまま消してしまう気がした。
鈴音は言った。
「まだです」
朔夜は鈴音を見た。
鈴音は、琴乃の問いを胸に抱いたまま、静かに続ける。
「次は、琴乃さまの声を聞きます」
琴乃の影が、ゆっくりと綾乃の中へ沈んでいく。
消える直前、その声が鈴音の耳元に届いた。
「なら、来なさい」
冷たく、寂しい声だった。
「百年前の花嫁が、どう死んだのか。見てもなお、お前が幸せになると言えるなら」
白無垢の影は、綾乃の体へ溶けた。
黒い靄も少しずつ薄れていく。
完全には消えない。
だが、村の上空を覆っていた闇は、先ほどよりも薄くなっていた。
村人たちは、まだ誰も動けない。
嘘を見せられた者たちが、初めて自分の足元を見ている。
鈴音は息を吐いた。
体から力が抜けそうになる。
朔夜がすぐに支えた。
「よく言った」
その声が、胸に沁みた。
鈴音はかすかに頷く。
今日はすべてを終わらせられなかった。
けれど、真実は村の前に置かれた。
母の死も、常盤家の罪も、琴乃の声も。
もう、誰か一人の災いとして押し込めることはできない。
鈴音は、綾乃の中に沈んだ琴乃の影を見つめた。
次は、百年前の花嫁。
琴乃の問いに、答えを探さなければならない。
お前だけが幸せになるのか。
その声は、いつまでも鈴音の胸の奥で鳴り続けていた。



