花嫁の声を食べる鬼神さま

 村人たちは、誰も動けずにいた。

 常盤家の門前には、黒い靄の名残がまだ漂っている。地面には、朔夜が喰いきれなかった嘘の欠片が焦げ跡のように残り、ところどころで細い煙を上げていた。

 さっきまで、村人たちは鈴音を責めていた。

 災いの娘。

 鬼神に魅入られた花嫁。

 常盤家を乱す者。

 そんな言葉が、村のあちこちから鈴音へ向けられていた。

 けれど今は、誰も何も言わない。

 彼らは見たのだ。

 自分たちが吐き、隠し、押しつけてきた嘘が黒い靄となって噴き出すところを。

 朔夜がそれを喰らい、鬼へ堕ちかけるところを。

 そして、鈴音の声がその朔夜を呼び戻すところを。

 鈴音は、朔夜の手を握っていた。

 彼の手は冷たかった。いつもよりもずっと冷たく、指先にはまだ黒い穢れが残っている。

 鬼の角は消え、爪も元に戻っていた。けれど、その顔色は白く、金色の瞳にも疲労が滲んでいる。

「朔夜さま」

 鈴音が呼ぶと、朔夜は静かに目を向けた。

「大丈夫だ」

 そう言った声は、あまり大丈夫には聞こえなかった。

 鈴音は首を横に振りかけたが、朔夜の視線が村人たちへ向く。

「今、言うべきことがあるのだろう」

 鈴音は息を呑んだ。

 喉は痛い。

 第11章で、朔夜を呼び戻すために何度も声を張った。声の道は開いているが、まだ傷つきやすい。今も少し息を吸うだけで、喉の奥がひりついた。

 けれど、今言わなければならない。

 村人たちが見ている。

 常盤家が見ている。

 八重は倒れた綾乃を抱きしめたまま、鈴音を睨んでいた。宗一郎は地面に片膝をつき、顔色を失っている。

 綾乃は目を閉じたまま動かない。

 その体の奥に、琴乃がいる。

 百年前の花嫁の声が、まだ終わっていない。

 鈴音は母の鈴を握りしめた。

 ちりん。

 小さな音が、胸の奥で広がった。

 守り紐の鈴も、それに応える。

 ちりん。

 鈴音は一歩、前へ出た。

 朔夜は隣に立っている。

 千景は少し後ろで、狐火を消さずに警戒していた。

 鈴音は村人たちを見た。

 怯えた顔。

 疑う顔。

 罪悪感を隠そうとする顔。

 それでも、誰も目をそらせないでいる。

 鈴音は、息を吸った。

「聞いて、ください」

 声は掠れていた。

 けれど、村人たちは静まり返った。

「私は……災いでは、ありません」

 この言葉を口にするのは、今日で三度目だった。

 一度目は、自分を取り戻すため。

 二度目は、村に向けて。

 そして今は、嘘の根を断つため。

「母も、災いでは、ありませんでした」

 鈴音は胸に抱いた鈴を掲げた。

「母、澄乃は……病で亡くなったのでは、ありません」

 村人たちの間に、ざわめきが走る。

 宗一郎が顔を上げた。

「鈴音、やめろ」

 弱い声だった。

 かつての当主の威厳はなかった。

 鈴音は父を見た。

 昔なら、その一言で黙っていた。

 怖かった。

 父に見捨てられるのが怖かった。

 けれど今は、もう見捨てられていたことを知っている。

 だから、止まらない。

「母は、常盤家の嘘を暴こうとしました」

 鈴音は言った。

「鬼神さまの祟りだと言われていた災いの中には、常盤家が隠した不正がありました。供物の横流し。村人から集めた金の使い込み。事故を祟りと偽った記録。そして……百年前の花嫁、琴乃さまの死を隠した記録も」

 千景が帳面を開き、村人たちの前に掲げた。

「証拠ならあります。澄乃さんが残した記録です。常盤家の蔵に封じられていました」

 村人たちの視線が、帳面へ集まる。

 年老いた男が震える声で言った。

「琴乃……その名は、祖母から聞いたことがある。鬼に喰われた花嫁だと……」

「喰われていません」

 鈴音は、はっきり言った。

 喉の奥が焼けるように痛む。

 それでも言葉を続けた。

「琴乃さまは、鬼神さまに喰われたのではありません。村人たちに殺されました。真実を告げようとしたから。常盤家と村の罪を暴こうとしたから」

 ざわめきが大きくなる。

「そんな……」

「百年前のことだろう」

「今の我々には関係ない」

 その言葉に、黒い靄が小さく漏れた。

 鈴音には見えた。

 関係ない。

 それは逃げるための嘘だ。

 百年前のことでも、今の村はその嘘の上に立っている。

 鬼神を恐れ、都合の悪いことを誰かのせいにし、また鈴音を災いにしようとした。

 鈴音は村人たちを見渡した。

「関係ないことでは、ありません」

 村人たちが黙る。

「琴乃さまが災いにされたように、母も黙らされました。母の死を病にされました。そして私は、母が殺されたことを言おうとして、声を奪われました」

 八重が叫んだ。

「違う! あれは鈴音のためだった! あの声は危うかったのよ。常盤家を壊す声だった!」

 その言葉から、濃い黒い糸が伸びた。

 朔夜の目が鋭くなる。

 しかし、鈴音は首を横に振った。

 ここは、朔夜に喰ってもらう場面ではない。

 鈴音自身が、言葉で返さなければならない。

「私のためでは、ありません」

 鈴音の声は震えた。

 でも、逃げなかった。

「あなた方のためでした。常盤家を守るため。罪を隠すため。綾乃さまを守るため。そして、私を黙らせるため」

 八重の顔が歪む。

「あなたに何がわかるの! 私は綾乃を守りたかっただけよ!」

「はい」

 鈴音は頷いた。

 八重が一瞬、言葉を失う。

「あなたは、綾乃さまを守りたかったのだと思います。でも、そのために私の声を奪いました。母の死を隠しました。綾乃さまにも、罪を背負わせました」

 八重の瞳が揺れた。

 綾乃を抱く腕に力がこもる。

 鈴音は、綾乃を見た。

 倒れた姉の顔は青白い。

 美しい姫君。

 偽りの姫君。

 でも、その偽りの下で、ずっと泣いていた娘。

「綾乃さまも、苦しかったのだと思います」

 鈴音の声が少しだけかすれる。

「でも……苦しかったからといって、私の声を奪っていい理由にはなりません」

 その言葉に、綾乃の指先がぴくりと動いた。

 八重が息を呑む。

 綾乃はまだ目を開けない。

 けれど、その頬に一筋だけ涙が伝った。

 鈴音は胸が痛んだ。

 それでも、言う。

「私は、綾乃さまを許しません」

 村人たちがどよめいた。

 鈴音は続ける。

「八重さまも、父も、許せません。私の声を奪ったこと。母の死を隠したこと。私を災いにしたこと。なかったことにはできません」

 その言葉を言うのに、喉よりも胸が痛んだ。

 許しません。

 その言葉は重かった。

 けれど、必要だった。

 鈴音は聖女ではない。

 すべてを微笑んで許すために声を取り戻したのではない。

 奪われた痛みを、なかったことにしないために声を取り戻している。

 宗一郎が、かすれた声で言った。

「鈴音……私は……」

 鈴音は父を見た。

 父の目には怯えがあった。

 後悔ではない。

 自分の罪が露わになることへの怯え。

 それがわかって、鈴音の胸は少しだけ冷めた。

「父上」

 その呼び名を声にしたのは、何年ぶりだろう。

 宗一郎が顔を上げる。

「あなたは、母が倒れたとき、見ていました」

 宗一郎の唇が震える。

「あなたは、私の喉に呪いがかけられるのを、止めませんでした」

「違う、私は……」

「見ていました」

 鈴音は繰り返した。

 その一言に、宗一郎の背が小さく丸まる。

 鈴音は思った。

 父は、何もしなかったのではない。

 何もしないことを選んだのだ。

 それもまた、罪だった。

 村人たちの中から、泣き声が聞こえた。

 年配の女が膝をついている。

「澄乃さま……私は、知っていた。あの夜、奥の方から騒ぎ声がして……でも、常盤家のことだからと……」

 別の男がうつむいた。

「琴乃さまのことも、うちの家に古い話が残っていた。鬼に喰われたのではないかもしれないと……でも、誰も言わなかった」

 ひとり、またひとりと、村人たちの口から言葉がこぼれ始める。

「怖かった」

「常盤家に逆らえなかった」

「自分の家が無事なら、それでいいと思った」

「鈴音さまを災いと言えば、他のことを考えずに済んだ」

 黒い糸が、村人たちの足元から浮かび上がる。

 けれどそれは、さっきまでのように朔夜へ流れ込まなかった。

 村人たち自身の前に、形を持って現れている。

 自分の嘘を、自分で見ている。

 朔夜が静かに言った。

「鈴音の声が、嘘を外へ出している」

 千景が息を呑む。

「じゃあ、朔夜さまが全部喰わなくても……」

「ああ」

 朔夜の声は低い。

「まずは、吐いた者が見るべきだ」

 鈴音は、その言葉を聞いて胸が震えた。

 そうだ。

 すべてを朔夜に喰わせてはいけない。

 すべてを琴乃に背負わせてもいけない。

 自分も、もう背負わない。

 それぞれが、自分の嘘と向き合わなければならない。

 そのとき、綾乃の体が大きく震えた。

 八重が叫ぶ。

「綾乃!」

 綾乃の口から、黒い靄があふれる。

 その背後に、白無垢の影が浮かび上がった。

 琴乃。

 今までよりも、輪郭がはっきりしている。

 だが、その表情は見えない。

 顔のない花嫁の赤い唇だけが、かすかに震えていた。

「きれいなことを言うのね、鈴音」

 琴乃の声がした。

「みんなで罪と向き合いましょう。嘘を誰かに押しつけるのはやめましょう。まるで、真実を言えば救われるみたいに」

 鈴音は琴乃を見た。

 怖い。

 けれど、目をそらさなかった。

 琴乃の足元からは、無数の黒い糸が伸びている。

 村人の嘘、常盤家の罪、綾乃の嫉妬、そして琴乃自身の悲しみが絡み合っている。

 琴乃は笑った。

「私は真実を言おうとしたわ。結果はどうだった?」

 鈴音は答えられない。

「殺された。鬼に喰われたことにされた。私の声は、誰にも届かなかった」

 琴乃の声が震える。

「あなたは今、みんなに聞いてもらえている。鬼神さまに守られて、花嫁として隣に立ってもらえている。母の鈴もある。証もある。味方もいる」

 その言葉には、毒のような羨望が混じっていた。

「私は、ひとりだったのに」

 鈴音の胸が痛む。

 琴乃は怨霊だ。

 鈴音を苦しめた存在だ。

 けれどその奥に、ひとりで死んだ少女がいる。

 助けを待っていた花嫁がいる。

 鈴音は、一歩前へ出た。

 朔夜がわずかに動いたが、止めなかった。

 鈴音は琴乃を見つめる。

「琴乃さま」

 喉が痛む。

 でも、この声だけは届けたかった。

「あなたは、災いではありません」

 琴乃の影が揺れた。

「あなたの声も、間違っていません」

 黒い糸が、一瞬だけ動きを止める。

 鈴音は続けた。

「でも、あなたが苦しかったからといって、綾乃さまを使って、私の声を奪っていいことにはなりません」

 琴乃の赤い唇が歪む。

「また、それ?」

「はい」

 鈴音は頷いた。

「あなたも、綾乃さまも、母も、私も、みんな黙らされました。でも、だからといって、次の誰かを黙らせていいことにはなりません」

 琴乃の影が、かすかに震える。

 怒りなのか、悲しみなのかわからない。

 鈴音は母の鈴を握りしめた。

「私は、あなたを許すとは言えません」

 琴乃が黙る。

「でも、聞きます」

 鈴音は、はっきり言った。

「あなたの声を、災いにしないために」

 その瞬間、琴乃の胸元に黒い塊が浮かび上がった。

 それは、怨霊の核だった。

 黒い糸が幾重にも巻きつき、その中心に小さな鈴がある。

 割れた鈴。

 血のように赤黒く錆びた鈴。

 その鈴から、かすかな声が漏れた。

 ――聞いて。

 鈴音は息を呑む。

 それは琴乃の声だった。

 けれど、怨みではなかった。

 死ぬ直前の少女の声。

 誰にも届かなかった声。

 琴乃の影が苦しげに胸を押さえる。

「やめて……見ないで……」

 鈴音はゆっくり近づく。

 黒い糸が鈴音を拒むように揺れるが、母の鈴と守り紐が鳴り、道を作る。

 ちりん。

 ちりん。

 琴乃の核から、さらに声が漏れた。

 ――私は、鬼に喰われたんじゃない。

 ――私は、嘘をついたわけじゃない。

 ――私は、ただ、聞いてほしかった。

 鈴音の目に涙が滲んだ。

 琴乃の本当の声。

 百年、誰にも届かなかった声。

 琴乃の赤い唇が震える。

「聞かないで」

 言葉とは逆に、その声は泣いていた。

「聞いてしまったら……私は、何を恨めばいいの」

 鈴音は立ち止まった。

 琴乃は、恨みで存在していた。

 恨まなければ、声を失ったまま死んだ自分を支えられなかったのかもしれない。

 朔夜が低く言う。

「琴乃」

 その声に、琴乃の影がびくりと震える。

 朔夜は一歩進み出た。

「俺は、お前を救えなかった」

 琴乃は顔のないまま、朔夜を見る。

「それは、百年経っても消えぬ事実だ。言い訳はしない」

 鈴音は朔夜を見る。

 彼の声は静かだった。

 逃げていない。

 自分の傷からも、琴乃の恨みからも。

「だが、俺が喰ったことにされた嘘は、今日ここで終わらせる」

 琴乃の影が揺れる。

「お前は、俺に喰われてなどいない。お前の声は、嘘ではない」

 琴乃の胸元の割れた鈴が、大きく震えた。

 ちりん、と歪んだ音が鳴る。

 鈴音は、そっと声を重ねた。

「琴乃さま」

 自分の声が震えているのがわかった。

「あなたの声を、私が聞きます」

 黒い糸がほどける。

 少しだけ。

 琴乃の影の中に、少女の輪郭が見えた気がした。

 白無垢を着せられ、泣きながら夜の社で待っていた少女。

 その少女が、鈴音を見た。

 目は見えない。

 でも、泣いていることだけはわかった。

「お前だけが……」

 琴乃の声が震える。

「お前だけが、幸せになるのか」

 その問いは、呪いではなかった。

 叫びだった。

 怒りであり、悲しみであり、置いていかれた者の声だった。

 村人たちは何も言えない。

 綾乃は八重の腕の中で涙を流している。

 朔夜は目を伏せる。

 鈴音は、琴乃を見つめた。

 その問いへの答えは、すぐには出なかった。

 自分は幸せになりたい。

 朔夜の隣にいたい。

 声を取り戻して、生きたい。

 でも、それは琴乃を置き去りにすることなのだろうか。

 幸せになることは、救われなかった誰かへの裏切りなのだろうか。

 鈴音は母の鈴を握った。

 ちりん。

 小さな音がした。

 その音に導かれるように、鈴音は息を吸う。

「私は……幸せに、なりたいです」

 琴乃の影が揺れる。

 鈴音は続けた。

「でも、あなたの声を聞かないまま、幸せにはなりません」

 喉が痛む。

 けれど、言葉を止めない。

「あなたが、何を奪われたのか。何を言いたかったのか。全部はまだ、わかりません。でも、聞きます」

 琴乃の影が、泣いているように震えた。

 そのとき、綾乃がかすかに目を開けた。

「……鈴音」

 弱い声だった。

 綾乃自身の声。

 鈴音は姉を見る。

 綾乃の瞳には、いつもの作られた優しさも、美しい偽りもなかった。

 ただ、恐怖と後悔と、幼い日の嫉妬が残っていた。

 琴乃の影が綾乃へ戻ろうとする。

 しかし、胸元の割れた鈴がまだ露わになっている。

 朔夜が低く言った。

「今なら、核が見えている」

 千景が狐火を構える。

「祓いますか」

 鈴音は首を横に振った。

 今、力で祓えば、琴乃の声をまた聞かないまま消してしまう気がした。

 鈴音は言った。

「まだです」

 朔夜は鈴音を見た。

 鈴音は、琴乃の問いを胸に抱いたまま、静かに続ける。

「次は、琴乃さまの声を聞きます」

 琴乃の影が、ゆっくりと綾乃の中へ沈んでいく。

 消える直前、その声が鈴音の耳元に届いた。

「なら、来なさい」

 冷たく、寂しい声だった。

「百年前の花嫁が、どう死んだのか。見てもなお、お前が幸せになると言えるなら」

 白無垢の影は、綾乃の体へ溶けた。

 黒い靄も少しずつ薄れていく。

 完全には消えない。

 だが、村の上空を覆っていた闇は、先ほどよりも薄くなっていた。

 村人たちは、まだ誰も動けない。

 嘘を見せられた者たちが、初めて自分の足元を見ている。

 鈴音は息を吐いた。

 体から力が抜けそうになる。

 朔夜がすぐに支えた。

「よく言った」

 その声が、胸に沁みた。

 鈴音はかすかに頷く。

 今日はすべてを終わらせられなかった。

 けれど、真実は村の前に置かれた。

 母の死も、常盤家の罪も、琴乃の声も。

 もう、誰か一人の災いとして押し込めることはできない。

 鈴音は、綾乃の中に沈んだ琴乃の影を見つめた。

 次は、百年前の花嫁。

 琴乃の問いに、答えを探さなければならない。

 お前だけが幸せになるのか。

 その声は、いつまでも鈴音の胸の奥で鳴り続けていた。