村の空が、黒く染まっていた。
日暮れにはまだ早いはずなのに、山の向こうから流れ出した闇が、雲のように村の上へ広がっている。
それは雨雲ではなかった。
嘘だった。
隠された罪。
押しつけられた責任。
誰かを黙らせるための言葉。
見なかったことにされた涙。
それらが黒い靄となって村中から噴き上がり、ひとつの大きな渦を作っていた。
鈴音は社の石段に立ち、息を呑んだ。
耳の奥で、無数の音が鳴っている。
ひそひそ。
きしきし。
ごめんなさい。
でも仕方なかった。
私は悪くない。
あの子が災いだった。
鬼神のせいだ。
常盤家がそう言ったから。
昔からそうだったから。
琴乃の声が、そのすべての下から響いていた。
――聞きなさい。
――これが、この村の声よ。
鈴音は胸を押さえた。
喉はまだ痛む。第10章で呪いの大きな核が砕けたばかりで、声の道は開いたが、傷口も開いたままだった。
それでも、じっとしていられなかった。
黒い靄は村だけでなく、常盤家の方へも流れ込んでいる。
綾乃の中に沈んだ琴乃が、村中の嘘を呼んでいるのだ。
千景が鳥居の上に立ち、耳を伏せた。
「まずいです。あれ、ただの穢れじゃありません。村中の嘘が、琴乃に引っ張られてます」
朔夜は無言だった。
黒衣の裾が、風もないのに揺れている。
その横顔は、静かすぎた。
鈴音は朔夜を見上げる。
「朔夜、さま……」
声は掠れていた。
けれど、前よりも確かに出る。
朔夜は振り返らずに言った。
「ここにいろ」
鈴音の胸が跳ねた。
その言葉は、守るためのものだとわかる。
でも、今は置いていかれる言葉に聞こえた。
鈴音は首を横に振る。
「私も……行きます」
「今のお前の喉では、あの穢れに近づくだけで裂ける」
「でも」
「琴乃はお前の声を狙っている」
朔夜の声が低くなる。
「お前が近づけば、あれはさらに強くなる」
鈴音は言葉を失った。
それは、わかっていた。
琴乃は鈴音の声に反応している。鈴音の呪いが砕けたことで、琴乃の怨みも解放された。
自分が原因のひとつなのかもしれない。
そう思うと、胸が痛んだ。
朔夜は村の方を見たまま言う。
「俺が喰う」
鈴音は息を呑む。
千景が叫んだ。
「駄目です!」
朔夜は答えない。
千景は石段から飛び降り、朔夜の前に立つ。
「あの量を喰ったら、朔夜さまでも持ちません! 琴乃だけじゃない。村全部の嘘ですよ。百年前から積もってきたものまで混じってる!」
「ならば、放っておくのか」
朔夜の声は冷たかった。
「あれが村を覆えば、人は互いの嘘に呑まれて壊れる。琴乃は綾乃を器にして、さらに声を奪うだろう」
「でも、朔夜さまが全部喰う必要は――」
「それが俺の役目だ」
千景の顔が歪んだ。
「いつもそう言って、全部背負うじゃないですか」
その声は、怒りよりも泣き声に近かった。
「村の人間が押しつけた嘘も、常盤家の罪も、琴乃さんの怨みも、鈴音さんの呪いも。全部、朔夜さまが喰えばいいって……そんなの、おかしいです」
朔夜は目を伏せた。
ほんの一瞬。
けれどすぐに、表情は戻る。
「おかしくとも、今は他にない」
鈴音は朔夜の袖を掴んだ。
手が震えている。
「全部……背負わないで、ください」
朔夜は、ようやく鈴音を見た。
金色の瞳の奥に、どこか遠い痛みがある。
「お前がもう二度と黙らされないなら、俺は鬼でいい」
その言葉に、鈴音の胸が凍った。
鬼でいい。
そんなことを、言わないでほしかった。
朔夜は、化け物ではない。
鈴音を餌とも生贄とも呼ばず、名前を呼んでくれた人。
黙らされていたのだと気づいてくれた人。
声を取り戻すために、隣に立つと言ってくれた人。
その人が、自分のために鬼へ堕ちようとしている。
鈴音は首を横に振った。
「嫌、です」
声は小さい。
けれど、朔夜の目がわずかに揺れた。
「私は……朔夜さまに、鬼になってほしいわけでは、ありません」
喉が痛む。
それでも鈴音は言った。
「一緒に……行くと、決めました」
朔夜はしばらく鈴音を見つめていた。
黒い風が、社の木々を揺らす。
村の方角から、悲鳴が聞こえた。
人の声か、嘘の音か、もうわからなかった。
朔夜は鈴音の手をそっと外した。
「すぐ戻る」
その言葉を残し、朔夜は黒い風の中へ踏み出した。
次の瞬間、彼の姿は闇へ溶けるように消えた。
鈴音の手には、掴んでいたはずの衣の感触だけが残った。
「朔夜さま!」
声は届かなかった。
村の中心、常盤家の上空に、黒い渦が集まっていた。
朔夜は屋根の上に降り立ち、空を見上げた。
黒い靄の奥に、白無垢の影が浮かんでいる。
琴乃だった。
その下、庭先には綾乃が倒れている。八重が娘を抱きしめ、半狂乱で名を呼んでいた。宗一郎は腰を抜かしたように座り込み、村人たちは逃げ惑っている。
琴乃の影が、ゆっくりと朔夜を見下ろした。
「来たのね、朔夜さま」
朔夜は答えない。
「百年前は来なかったのに」
その言葉に、空気が軋んだ。
黒い靄が刃のように朔夜の頬をかすめる。
血は出ない。
けれど、穢れが皮膚に染み込もうとした。
朔夜はそれを掴み、口元へ運んだ。
そして喰らった。
ばきり、と嫌な音がした。
村中の嘘が、朔夜の中へ流れ込む。
常盤家の不正。
澄乃の死を病と偽った嘘。
琴乃を鬼に喰われたことにした嘘。
鈴音を災いと呼んだ嘘。
綾乃を清らかな姫君として祭り上げた嘘。
八重が娘を守るためと言いながら、自分の罪を隠した嘘。
宗一郎が何も知らなかったふりをした嘘。
朔夜はそれらを喰い続けた。
琴乃が笑う。
「また喰うのね。人間の嘘を。人間が自分で吐いたものなのに」
朔夜の口元から、黒い煙が漏れた。
それでも彼は止まらない。
「あなたは優しいわけではないわ、朔夜さま。ただ、罪悪感で動いているだけ」
琴乃の声が、黒い渦に混じって響く。
「私を救えなかったから。百年も、その罪を喰い続けているだけ」
朔夜の瞳が金色に光る。
「黙れ」
「黙らないわ。だって私の声は、ずっと黙らされてきたのだから」
琴乃の影が両腕を広げた。
村のあちこちから黒い靄がさらに噴き上がる。
それは朔夜へ向かって流れ込んだ。
朔夜は避けなかった。
すべてを喰らう。
体の内側で、鬼の血が目を覚ます。
金色だった瞳の奥に、赤黒い光が混じる。
爪が伸びる。
髪が風もないのに逆立つ。
額に、薄く角の影が浮かび上がる。
千景は社の石段でそれを見て、顔色を変えた。
「まずい……朔夜さまが」
鈴音にも、遠くから見えた。
朔夜の姿が変わっていく。
人の形から、鬼へ。
村の嘘を喰えば喰うほど、朔夜は黒く染まっていく。
鈴音は石段を下りようとした。
千景が慌てて立ちはだかる。
「駄目です! 今行ったら、鈴音さんまで呑まれます!」
「でも……朔夜さまが」
「わかってます!」
千景の声が震えていた。
「でも、鈴音さんが近づいたら、朔夜さまはもっと無理をします。あなたを守ろうとして、全部喰う。そういう方なんです」
鈴音は胸を押さえた。
その通りだと思った。
朔夜は、鈴音を守るためなら自分を削る。
百年前の琴乃を救えなかった後悔があるから。
鈴音を二度と黙らせまいとしているから。
だからこそ、止めなければならない。
鈴音は母の鈴を握った。
ちりん。
音が鳴る。
その奥から、母の声が聞こえた気がした。
――鈴音。声は、誰かに守ってもらうためだけにあるのではありません。
鈴音は息を吸った。
喉はまだ痛む。
でも、声は戻り始めている。
鈴音は、守られるだけの花嫁ではいたくなかった。
「千景さん」
声に、千景が目を見開いた。
鈴音は続ける。
「私を……朔夜さまの近くへ」
「無茶です!」
「お願い、します」
鈴音は千景を見た。
「朔夜さまを……呼びたいのです」
千景は言葉を失った。
鈴音は、白い守り紐を握る。
「私の声が……戻ったのは、朔夜さまが聞いてくれたからです。今度は、私が聞かせたい」
千景の狐耳が震えた。
彼は泣きそうな顔で、歯を食いしばった。
「……一度だけです。危なくなったら、すぐ連れて帰りますからね」
鈴音は頷いた。
千景は狐火を足元に灯した。
炎が道のように伸びる。
「走れませんよ。僕が風を作ります。鈴音さんは、自分の音だけ聞いてください」
鈴音は母の鈴と守り紐を胸に抱いた。
ちりん。
ちりん。
二つの鈴の音が重なる。
黒い風の中、鈴音は千景に導かれて村へ向かった。
常盤家の門前は、地獄のようだった。
村人たちは地面に伏せ、黒い靄に絡まれている。彼らの口から、隠していた言葉が漏れていた。
「私は知っていた……」
「澄乃さまが病じゃないって、噂で……」
「琴乃さまのことも、祖母から……」
「でも、言えば常盤家に逆らうことになるから……」
嘘が剥がれている。
けれど、それは救いというより、傷口を無理やり開くような光景だった。
鈴音は耳を塞ぎたくなった。
でも、塞がなかった。
聞く。
ただし、呑まれない。
自分の音を聞く。
ちりん。
常盤家の屋根の上で、朔夜が黒い渦の中心に立っていた。
もう、いつもの朔夜ではなかった。
瞳は赤黒く染まり、爪は鋭く伸び、額には黒い角が現れている。黒衣は穢れに染まり、背中から影のようなものが広がっていた。
鬼。
村人たちが恐れてきた姿そのもの。
けれど鈴音には、それが恐ろしいだけには見えなかった。
苦しんでいる。
朔夜は、喰らい続けながら苦しんでいる。
琴乃の影が、朔夜の周りを舞う。
「ほら、やっぱり鬼じゃない。人間の嘘を喰いすぎれば、あなたは化け物になる」
朔夜は唸るような声を漏らした。
もう言葉になっていない。
鈴音の胸が痛む。
「朔夜さま!」
鈴音は叫んだ。
声は黒い風に裂かれそうになる。
届かない。
朔夜は振り返らない。
千景が狐火で鈴音の周りを守る。
「もっと近づくのは危険です!」
鈴音は頷かなかった。
もう一歩、前へ出る。
黒い靄が喉に絡みつこうとした。
守り札が白く光り、それを弾く。
鈴音は息を吸った。
喉が焼ける。
それでも、呼ぶ。
「朔夜さま!」
屋根の上の鬼が、わずかに動いた。
琴乃の影が鈴音を見る。
「あら、来たのね。声を取り戻した花嫁」
黒い靄が鈴音へ伸びる。
千景が狐火で焼き払う。
「鈴音さん、早く!」
鈴音は朔夜だけを見た。
彼に届く言葉を探す。
朔夜を止めるための言葉。
鬼ではないと言うだけでは足りない。
朔夜は自分を鬼でいいと言った。
ならば、それを否定しなければならない。
鈴音は、胸の奥から声を引き出した。
「朔夜さま!」
今度は、少しだけ強く響いた。
朔夜の赤黒い瞳が、鈴音の方を向いた。
その視線には、理性がほとんど残っていなかった。
鈴音は震えた。
怖い。
けれど逃げない。
鈴音は両手で母の鈴を握り、声を出す。
「あなたは……化け物じゃ、ありません!」
黒い風が止まった。
ほんの一瞬。
琴乃の影が顔を歪める。
「綺麗事を」
鈴音は続けた。
「あなたは……私を、喰わなかった」
喉が痛む。
でも、言葉は止めない。
「私の声を……聞いてくれました」
朔夜の瞳が揺れる。
鈴音は一歩前へ出る。
「黙らされていた私を……見つけてくれました」
黒い靄が鈴音の足元を這う。
千景が必死に焼く。
村人たちは呆然と鈴音を見ている。
鈴音は、朔夜へ向けて声を張った。
「だから、朔夜さまが……自分を鬼だなんて、言わないでください!」
その叫びに、母の鈴が鳴った。
ちりん。
守り紐の鈴も鳴る。
ちりん。
遠く、社の鈴たちも響いた。
ちりん。
ちりん。
鈴の音が、黒い渦の中に道を作る。
朔夜の体を覆っていた穢れが、わずかに剥がれた。
朔夜が、苦しげに口を開く。
「……すず、ね」
その声は、鬼の唸りの中に混じった、かすかな朔夜の声だった。
鈴音は涙が出そうになった。
届いた。
まだ、届いている。
琴乃が叫ぶ。
「呼ばないで! その鬼は、私を救わなかった!」
鈴音は琴乃を見た。
「琴乃さま」
琴乃の影が揺れる。
「あなたの声も……聞きます」
琴乃の赤い唇が止まる。
「でも、朔夜さまを……あなたの恨みだけで、鬼にしないで」
琴乃の影が怒りに震える。
「私の恨みだけ? この村の嘘よ! この村の罪よ! 私はそれを返しているだけ!」
「はい」
鈴音は頷いた。
「村の罪です。常盤家の罪です。あなた一人が背負うものでも、朔夜さま一人が喰うものでもありません」
声が掠れる。
でも、今の鈴音にはわかっていた。
嘘は、誰か一人に押しつけてはいけない。
鈴音にも。
琴乃にも。
朔夜にも。
「だから……私が、言います」
鈴音は村人たちの方を向いた。
恐怖に固まった顔が並んでいる。
「見てください」
鈴音の声は弱い。
けれど、黒い靄を震わせた。
「これが、押しつけた嘘です」
村人たちの足元で、黒い糸が蠢く。
「鬼神さまのせいにしたもの。琴乃さまの声を、災いにしたもの。母の死を、病にしたもの。私を、災いにしたもの」
村人たちが震える。
「もう、誰か一人に押しつけないでください」
その言葉に、村の嘘の音が揺らいだ。
朔夜を覆っていた黒い靄が、少しずつ外へ剥がれ始める。
朔夜は苦しげに膝をついた。
鈴音は駆け寄ろうとした。
千景が止めかけたが、朔夜がわずかに手を伸ばした。
鈴音はその手を取る。
冷たい。
いつもよりずっと冷たい。
でも、確かに朔夜の手だった。
朔夜の爪はまだ鋭く、角も消えていない。瞳も赤黒いままだ。
それでも、その奥に金の光が戻りかけていた。
鈴音は彼の手を握りしめる。
「戻って、ください」
朔夜は苦しげに息を吐く。
「俺は……」
「鬼では、ありません」
鈴音ははっきり言った。
「私の、夫です」
言ってから、鈴音は自分で息を呑んだ。
夫。
まだ、そう呼ぶには早いかもしれない。
婚姻は生贄として始まった。心がすべて通じ合ったわけでもない。
それでも、今この瞬間、鈴音にとって朔夜はただの鬼神ではなかった。
声を取り戻すために隣に立ってくれた人。
自分が選んだ人。
朔夜の瞳が大きく揺れた。
赤黒い光の奥で、金色が戻る。
「……鈴音」
その声は、もう唸りではなかった。
鈴音は涙をこらえながら頷く。
「はい」
朔夜の額の角が薄れていく。
爪が戻り、背中の影が縮む。
黒い靄はまだ完全には消えていない。
琴乃の影も、村の上空で揺れている。
しかし、朔夜は戻った。
鈴音の声が、鬼へ堕ちかけた朔夜を引き戻した。
琴乃は空で静かに笑った。
今度の笑いは、怒りだけではなかった。
「……夫、ね」
その声は、少しだけ寂しそうだった。
「私には、誰もそう呼ぶ相手はいなかった」
鈴音は琴乃を見る。
琴乃の影は、黒い靄の中で揺れている。
「鈴音。あなたの声は、私を苛立たせる」
琴乃は言った。
「でも、少しだけ……痛い」
その言葉を最後に、白無垢の影は常盤家の奥へ引いていった。
黒い靄の一部も、それに従って流れていく。
朔夜は鈴音に支えられながら、低く言った。
「まだ終わっていない」
鈴音は頷いた。
喉は限界だった。
体も震えている。
でも、確かにわかった。
琴乃はただ憎んでいるだけではない。
今も、聞かれなかった声を抱えている。
村人たちは地面に伏せたまま、誰も鈴音を災いとは呼ばなかった。
呼べなかった。
黒い嘘を目の前で見たから。
鬼神がそれを喰い、壊れかける姿を見たから。
そして、鈴音の声がその鬼神を呼び戻すのを見たから。
鈴音は朔夜の手を握ったまま、村人たちを見渡した。
次は、言わなければならない。
すべての真実を。
母の死も、常盤家の罪も、琴乃のことも。
鈴音だけではなく、この村全体が向き合わなければならない真実を。
母の鈴が鳴った。
ちりん。
それは、次の声を促すような音だった。
日暮れにはまだ早いはずなのに、山の向こうから流れ出した闇が、雲のように村の上へ広がっている。
それは雨雲ではなかった。
嘘だった。
隠された罪。
押しつけられた責任。
誰かを黙らせるための言葉。
見なかったことにされた涙。
それらが黒い靄となって村中から噴き上がり、ひとつの大きな渦を作っていた。
鈴音は社の石段に立ち、息を呑んだ。
耳の奥で、無数の音が鳴っている。
ひそひそ。
きしきし。
ごめんなさい。
でも仕方なかった。
私は悪くない。
あの子が災いだった。
鬼神のせいだ。
常盤家がそう言ったから。
昔からそうだったから。
琴乃の声が、そのすべての下から響いていた。
――聞きなさい。
――これが、この村の声よ。
鈴音は胸を押さえた。
喉はまだ痛む。第10章で呪いの大きな核が砕けたばかりで、声の道は開いたが、傷口も開いたままだった。
それでも、じっとしていられなかった。
黒い靄は村だけでなく、常盤家の方へも流れ込んでいる。
綾乃の中に沈んだ琴乃が、村中の嘘を呼んでいるのだ。
千景が鳥居の上に立ち、耳を伏せた。
「まずいです。あれ、ただの穢れじゃありません。村中の嘘が、琴乃に引っ張られてます」
朔夜は無言だった。
黒衣の裾が、風もないのに揺れている。
その横顔は、静かすぎた。
鈴音は朔夜を見上げる。
「朔夜、さま……」
声は掠れていた。
けれど、前よりも確かに出る。
朔夜は振り返らずに言った。
「ここにいろ」
鈴音の胸が跳ねた。
その言葉は、守るためのものだとわかる。
でも、今は置いていかれる言葉に聞こえた。
鈴音は首を横に振る。
「私も……行きます」
「今のお前の喉では、あの穢れに近づくだけで裂ける」
「でも」
「琴乃はお前の声を狙っている」
朔夜の声が低くなる。
「お前が近づけば、あれはさらに強くなる」
鈴音は言葉を失った。
それは、わかっていた。
琴乃は鈴音の声に反応している。鈴音の呪いが砕けたことで、琴乃の怨みも解放された。
自分が原因のひとつなのかもしれない。
そう思うと、胸が痛んだ。
朔夜は村の方を見たまま言う。
「俺が喰う」
鈴音は息を呑む。
千景が叫んだ。
「駄目です!」
朔夜は答えない。
千景は石段から飛び降り、朔夜の前に立つ。
「あの量を喰ったら、朔夜さまでも持ちません! 琴乃だけじゃない。村全部の嘘ですよ。百年前から積もってきたものまで混じってる!」
「ならば、放っておくのか」
朔夜の声は冷たかった。
「あれが村を覆えば、人は互いの嘘に呑まれて壊れる。琴乃は綾乃を器にして、さらに声を奪うだろう」
「でも、朔夜さまが全部喰う必要は――」
「それが俺の役目だ」
千景の顔が歪んだ。
「いつもそう言って、全部背負うじゃないですか」
その声は、怒りよりも泣き声に近かった。
「村の人間が押しつけた嘘も、常盤家の罪も、琴乃さんの怨みも、鈴音さんの呪いも。全部、朔夜さまが喰えばいいって……そんなの、おかしいです」
朔夜は目を伏せた。
ほんの一瞬。
けれどすぐに、表情は戻る。
「おかしくとも、今は他にない」
鈴音は朔夜の袖を掴んだ。
手が震えている。
「全部……背負わないで、ください」
朔夜は、ようやく鈴音を見た。
金色の瞳の奥に、どこか遠い痛みがある。
「お前がもう二度と黙らされないなら、俺は鬼でいい」
その言葉に、鈴音の胸が凍った。
鬼でいい。
そんなことを、言わないでほしかった。
朔夜は、化け物ではない。
鈴音を餌とも生贄とも呼ばず、名前を呼んでくれた人。
黙らされていたのだと気づいてくれた人。
声を取り戻すために、隣に立つと言ってくれた人。
その人が、自分のために鬼へ堕ちようとしている。
鈴音は首を横に振った。
「嫌、です」
声は小さい。
けれど、朔夜の目がわずかに揺れた。
「私は……朔夜さまに、鬼になってほしいわけでは、ありません」
喉が痛む。
それでも鈴音は言った。
「一緒に……行くと、決めました」
朔夜はしばらく鈴音を見つめていた。
黒い風が、社の木々を揺らす。
村の方角から、悲鳴が聞こえた。
人の声か、嘘の音か、もうわからなかった。
朔夜は鈴音の手をそっと外した。
「すぐ戻る」
その言葉を残し、朔夜は黒い風の中へ踏み出した。
次の瞬間、彼の姿は闇へ溶けるように消えた。
鈴音の手には、掴んでいたはずの衣の感触だけが残った。
「朔夜さま!」
声は届かなかった。
村の中心、常盤家の上空に、黒い渦が集まっていた。
朔夜は屋根の上に降り立ち、空を見上げた。
黒い靄の奥に、白無垢の影が浮かんでいる。
琴乃だった。
その下、庭先には綾乃が倒れている。八重が娘を抱きしめ、半狂乱で名を呼んでいた。宗一郎は腰を抜かしたように座り込み、村人たちは逃げ惑っている。
琴乃の影が、ゆっくりと朔夜を見下ろした。
「来たのね、朔夜さま」
朔夜は答えない。
「百年前は来なかったのに」
その言葉に、空気が軋んだ。
黒い靄が刃のように朔夜の頬をかすめる。
血は出ない。
けれど、穢れが皮膚に染み込もうとした。
朔夜はそれを掴み、口元へ運んだ。
そして喰らった。
ばきり、と嫌な音がした。
村中の嘘が、朔夜の中へ流れ込む。
常盤家の不正。
澄乃の死を病と偽った嘘。
琴乃を鬼に喰われたことにした嘘。
鈴音を災いと呼んだ嘘。
綾乃を清らかな姫君として祭り上げた嘘。
八重が娘を守るためと言いながら、自分の罪を隠した嘘。
宗一郎が何も知らなかったふりをした嘘。
朔夜はそれらを喰い続けた。
琴乃が笑う。
「また喰うのね。人間の嘘を。人間が自分で吐いたものなのに」
朔夜の口元から、黒い煙が漏れた。
それでも彼は止まらない。
「あなたは優しいわけではないわ、朔夜さま。ただ、罪悪感で動いているだけ」
琴乃の声が、黒い渦に混じって響く。
「私を救えなかったから。百年も、その罪を喰い続けているだけ」
朔夜の瞳が金色に光る。
「黙れ」
「黙らないわ。だって私の声は、ずっと黙らされてきたのだから」
琴乃の影が両腕を広げた。
村のあちこちから黒い靄がさらに噴き上がる。
それは朔夜へ向かって流れ込んだ。
朔夜は避けなかった。
すべてを喰らう。
体の内側で、鬼の血が目を覚ます。
金色だった瞳の奥に、赤黒い光が混じる。
爪が伸びる。
髪が風もないのに逆立つ。
額に、薄く角の影が浮かび上がる。
千景は社の石段でそれを見て、顔色を変えた。
「まずい……朔夜さまが」
鈴音にも、遠くから見えた。
朔夜の姿が変わっていく。
人の形から、鬼へ。
村の嘘を喰えば喰うほど、朔夜は黒く染まっていく。
鈴音は石段を下りようとした。
千景が慌てて立ちはだかる。
「駄目です! 今行ったら、鈴音さんまで呑まれます!」
「でも……朔夜さまが」
「わかってます!」
千景の声が震えていた。
「でも、鈴音さんが近づいたら、朔夜さまはもっと無理をします。あなたを守ろうとして、全部喰う。そういう方なんです」
鈴音は胸を押さえた。
その通りだと思った。
朔夜は、鈴音を守るためなら自分を削る。
百年前の琴乃を救えなかった後悔があるから。
鈴音を二度と黙らせまいとしているから。
だからこそ、止めなければならない。
鈴音は母の鈴を握った。
ちりん。
音が鳴る。
その奥から、母の声が聞こえた気がした。
――鈴音。声は、誰かに守ってもらうためだけにあるのではありません。
鈴音は息を吸った。
喉はまだ痛む。
でも、声は戻り始めている。
鈴音は、守られるだけの花嫁ではいたくなかった。
「千景さん」
声に、千景が目を見開いた。
鈴音は続ける。
「私を……朔夜さまの近くへ」
「無茶です!」
「お願い、します」
鈴音は千景を見た。
「朔夜さまを……呼びたいのです」
千景は言葉を失った。
鈴音は、白い守り紐を握る。
「私の声が……戻ったのは、朔夜さまが聞いてくれたからです。今度は、私が聞かせたい」
千景の狐耳が震えた。
彼は泣きそうな顔で、歯を食いしばった。
「……一度だけです。危なくなったら、すぐ連れて帰りますからね」
鈴音は頷いた。
千景は狐火を足元に灯した。
炎が道のように伸びる。
「走れませんよ。僕が風を作ります。鈴音さんは、自分の音だけ聞いてください」
鈴音は母の鈴と守り紐を胸に抱いた。
ちりん。
ちりん。
二つの鈴の音が重なる。
黒い風の中、鈴音は千景に導かれて村へ向かった。
常盤家の門前は、地獄のようだった。
村人たちは地面に伏せ、黒い靄に絡まれている。彼らの口から、隠していた言葉が漏れていた。
「私は知っていた……」
「澄乃さまが病じゃないって、噂で……」
「琴乃さまのことも、祖母から……」
「でも、言えば常盤家に逆らうことになるから……」
嘘が剥がれている。
けれど、それは救いというより、傷口を無理やり開くような光景だった。
鈴音は耳を塞ぎたくなった。
でも、塞がなかった。
聞く。
ただし、呑まれない。
自分の音を聞く。
ちりん。
常盤家の屋根の上で、朔夜が黒い渦の中心に立っていた。
もう、いつもの朔夜ではなかった。
瞳は赤黒く染まり、爪は鋭く伸び、額には黒い角が現れている。黒衣は穢れに染まり、背中から影のようなものが広がっていた。
鬼。
村人たちが恐れてきた姿そのもの。
けれど鈴音には、それが恐ろしいだけには見えなかった。
苦しんでいる。
朔夜は、喰らい続けながら苦しんでいる。
琴乃の影が、朔夜の周りを舞う。
「ほら、やっぱり鬼じゃない。人間の嘘を喰いすぎれば、あなたは化け物になる」
朔夜は唸るような声を漏らした。
もう言葉になっていない。
鈴音の胸が痛む。
「朔夜さま!」
鈴音は叫んだ。
声は黒い風に裂かれそうになる。
届かない。
朔夜は振り返らない。
千景が狐火で鈴音の周りを守る。
「もっと近づくのは危険です!」
鈴音は頷かなかった。
もう一歩、前へ出る。
黒い靄が喉に絡みつこうとした。
守り札が白く光り、それを弾く。
鈴音は息を吸った。
喉が焼ける。
それでも、呼ぶ。
「朔夜さま!」
屋根の上の鬼が、わずかに動いた。
琴乃の影が鈴音を見る。
「あら、来たのね。声を取り戻した花嫁」
黒い靄が鈴音へ伸びる。
千景が狐火で焼き払う。
「鈴音さん、早く!」
鈴音は朔夜だけを見た。
彼に届く言葉を探す。
朔夜を止めるための言葉。
鬼ではないと言うだけでは足りない。
朔夜は自分を鬼でいいと言った。
ならば、それを否定しなければならない。
鈴音は、胸の奥から声を引き出した。
「朔夜さま!」
今度は、少しだけ強く響いた。
朔夜の赤黒い瞳が、鈴音の方を向いた。
その視線には、理性がほとんど残っていなかった。
鈴音は震えた。
怖い。
けれど逃げない。
鈴音は両手で母の鈴を握り、声を出す。
「あなたは……化け物じゃ、ありません!」
黒い風が止まった。
ほんの一瞬。
琴乃の影が顔を歪める。
「綺麗事を」
鈴音は続けた。
「あなたは……私を、喰わなかった」
喉が痛む。
でも、言葉は止めない。
「私の声を……聞いてくれました」
朔夜の瞳が揺れる。
鈴音は一歩前へ出る。
「黙らされていた私を……見つけてくれました」
黒い靄が鈴音の足元を這う。
千景が必死に焼く。
村人たちは呆然と鈴音を見ている。
鈴音は、朔夜へ向けて声を張った。
「だから、朔夜さまが……自分を鬼だなんて、言わないでください!」
その叫びに、母の鈴が鳴った。
ちりん。
守り紐の鈴も鳴る。
ちりん。
遠く、社の鈴たちも響いた。
ちりん。
ちりん。
鈴の音が、黒い渦の中に道を作る。
朔夜の体を覆っていた穢れが、わずかに剥がれた。
朔夜が、苦しげに口を開く。
「……すず、ね」
その声は、鬼の唸りの中に混じった、かすかな朔夜の声だった。
鈴音は涙が出そうになった。
届いた。
まだ、届いている。
琴乃が叫ぶ。
「呼ばないで! その鬼は、私を救わなかった!」
鈴音は琴乃を見た。
「琴乃さま」
琴乃の影が揺れる。
「あなたの声も……聞きます」
琴乃の赤い唇が止まる。
「でも、朔夜さまを……あなたの恨みだけで、鬼にしないで」
琴乃の影が怒りに震える。
「私の恨みだけ? この村の嘘よ! この村の罪よ! 私はそれを返しているだけ!」
「はい」
鈴音は頷いた。
「村の罪です。常盤家の罪です。あなた一人が背負うものでも、朔夜さま一人が喰うものでもありません」
声が掠れる。
でも、今の鈴音にはわかっていた。
嘘は、誰か一人に押しつけてはいけない。
鈴音にも。
琴乃にも。
朔夜にも。
「だから……私が、言います」
鈴音は村人たちの方を向いた。
恐怖に固まった顔が並んでいる。
「見てください」
鈴音の声は弱い。
けれど、黒い靄を震わせた。
「これが、押しつけた嘘です」
村人たちの足元で、黒い糸が蠢く。
「鬼神さまのせいにしたもの。琴乃さまの声を、災いにしたもの。母の死を、病にしたもの。私を、災いにしたもの」
村人たちが震える。
「もう、誰か一人に押しつけないでください」
その言葉に、村の嘘の音が揺らいだ。
朔夜を覆っていた黒い靄が、少しずつ外へ剥がれ始める。
朔夜は苦しげに膝をついた。
鈴音は駆け寄ろうとした。
千景が止めかけたが、朔夜がわずかに手を伸ばした。
鈴音はその手を取る。
冷たい。
いつもよりずっと冷たい。
でも、確かに朔夜の手だった。
朔夜の爪はまだ鋭く、角も消えていない。瞳も赤黒いままだ。
それでも、その奥に金の光が戻りかけていた。
鈴音は彼の手を握りしめる。
「戻って、ください」
朔夜は苦しげに息を吐く。
「俺は……」
「鬼では、ありません」
鈴音ははっきり言った。
「私の、夫です」
言ってから、鈴音は自分で息を呑んだ。
夫。
まだ、そう呼ぶには早いかもしれない。
婚姻は生贄として始まった。心がすべて通じ合ったわけでもない。
それでも、今この瞬間、鈴音にとって朔夜はただの鬼神ではなかった。
声を取り戻すために隣に立ってくれた人。
自分が選んだ人。
朔夜の瞳が大きく揺れた。
赤黒い光の奥で、金色が戻る。
「……鈴音」
その声は、もう唸りではなかった。
鈴音は涙をこらえながら頷く。
「はい」
朔夜の額の角が薄れていく。
爪が戻り、背中の影が縮む。
黒い靄はまだ完全には消えていない。
琴乃の影も、村の上空で揺れている。
しかし、朔夜は戻った。
鈴音の声が、鬼へ堕ちかけた朔夜を引き戻した。
琴乃は空で静かに笑った。
今度の笑いは、怒りだけではなかった。
「……夫、ね」
その声は、少しだけ寂しそうだった。
「私には、誰もそう呼ぶ相手はいなかった」
鈴音は琴乃を見る。
琴乃の影は、黒い靄の中で揺れている。
「鈴音。あなたの声は、私を苛立たせる」
琴乃は言った。
「でも、少しだけ……痛い」
その言葉を最後に、白無垢の影は常盤家の奥へ引いていった。
黒い靄の一部も、それに従って流れていく。
朔夜は鈴音に支えられながら、低く言った。
「まだ終わっていない」
鈴音は頷いた。
喉は限界だった。
体も震えている。
でも、確かにわかった。
琴乃はただ憎んでいるだけではない。
今も、聞かれなかった声を抱えている。
村人たちは地面に伏せたまま、誰も鈴音を災いとは呼ばなかった。
呼べなかった。
黒い嘘を目の前で見たから。
鬼神がそれを喰い、壊れかける姿を見たから。
そして、鈴音の声がその鬼神を呼び戻すのを見たから。
鈴音は朔夜の手を握ったまま、村人たちを見渡した。
次は、言わなければならない。
すべての真実を。
母の死も、常盤家の罪も、琴乃のことも。
鈴音だけではなく、この村全体が向き合わなければならない真実を。
母の鈴が鳴った。
ちりん。
それは、次の声を促すような音だった。



