花嫁の声を食べる鬼神さま

 村の空が、黒く染まっていた。

 日暮れにはまだ早いはずなのに、山の向こうから流れ出した闇が、雲のように村の上へ広がっている。

 それは雨雲ではなかった。

 嘘だった。

 隠された罪。
 押しつけられた責任。
 誰かを黙らせるための言葉。
 見なかったことにされた涙。

 それらが黒い靄となって村中から噴き上がり、ひとつの大きな渦を作っていた。

 鈴音は社の石段に立ち、息を呑んだ。

 耳の奥で、無数の音が鳴っている。

 ひそひそ。

 きしきし。

 ごめんなさい。

 でも仕方なかった。

 私は悪くない。

 あの子が災いだった。

 鬼神のせいだ。

 常盤家がそう言ったから。

 昔からそうだったから。

 琴乃の声が、そのすべての下から響いていた。

 ――聞きなさい。

 ――これが、この村の声よ。

 鈴音は胸を押さえた。

 喉はまだ痛む。第10章で呪いの大きな核が砕けたばかりで、声の道は開いたが、傷口も開いたままだった。

 それでも、じっとしていられなかった。

 黒い靄は村だけでなく、常盤家の方へも流れ込んでいる。

 綾乃の中に沈んだ琴乃が、村中の嘘を呼んでいるのだ。

 千景が鳥居の上に立ち、耳を伏せた。

「まずいです。あれ、ただの穢れじゃありません。村中の嘘が、琴乃に引っ張られてます」

 朔夜は無言だった。

 黒衣の裾が、風もないのに揺れている。

 その横顔は、静かすぎた。

 鈴音は朔夜を見上げる。

「朔夜、さま……」

 声は掠れていた。

 けれど、前よりも確かに出る。

 朔夜は振り返らずに言った。

「ここにいろ」

 鈴音の胸が跳ねた。

 その言葉は、守るためのものだとわかる。

 でも、今は置いていかれる言葉に聞こえた。

 鈴音は首を横に振る。

「私も……行きます」

「今のお前の喉では、あの穢れに近づくだけで裂ける」

「でも」

「琴乃はお前の声を狙っている」

 朔夜の声が低くなる。

「お前が近づけば、あれはさらに強くなる」

 鈴音は言葉を失った。

 それは、わかっていた。

 琴乃は鈴音の声に反応している。鈴音の呪いが砕けたことで、琴乃の怨みも解放された。

 自分が原因のひとつなのかもしれない。

 そう思うと、胸が痛んだ。

 朔夜は村の方を見たまま言う。

「俺が喰う」

 鈴音は息を呑む。

 千景が叫んだ。

「駄目です!」

 朔夜は答えない。

 千景は石段から飛び降り、朔夜の前に立つ。

「あの量を喰ったら、朔夜さまでも持ちません! 琴乃だけじゃない。村全部の嘘ですよ。百年前から積もってきたものまで混じってる!」

「ならば、放っておくのか」

 朔夜の声は冷たかった。

「あれが村を覆えば、人は互いの嘘に呑まれて壊れる。琴乃は綾乃を器にして、さらに声を奪うだろう」

「でも、朔夜さまが全部喰う必要は――」

「それが俺の役目だ」

 千景の顔が歪んだ。

「いつもそう言って、全部背負うじゃないですか」

 その声は、怒りよりも泣き声に近かった。

「村の人間が押しつけた嘘も、常盤家の罪も、琴乃さんの怨みも、鈴音さんの呪いも。全部、朔夜さまが喰えばいいって……そんなの、おかしいです」

 朔夜は目を伏せた。

 ほんの一瞬。

 けれどすぐに、表情は戻る。

「おかしくとも、今は他にない」

 鈴音は朔夜の袖を掴んだ。

 手が震えている。

「全部……背負わないで、ください」

 朔夜は、ようやく鈴音を見た。

 金色の瞳の奥に、どこか遠い痛みがある。

「お前がもう二度と黙らされないなら、俺は鬼でいい」

 その言葉に、鈴音の胸が凍った。

 鬼でいい。

 そんなことを、言わないでほしかった。

 朔夜は、化け物ではない。

 鈴音を餌とも生贄とも呼ばず、名前を呼んでくれた人。

 黙らされていたのだと気づいてくれた人。

 声を取り戻すために、隣に立つと言ってくれた人。

 その人が、自分のために鬼へ堕ちようとしている。

 鈴音は首を横に振った。

「嫌、です」

 声は小さい。

 けれど、朔夜の目がわずかに揺れた。

「私は……朔夜さまに、鬼になってほしいわけでは、ありません」

 喉が痛む。

 それでも鈴音は言った。

「一緒に……行くと、決めました」

 朔夜はしばらく鈴音を見つめていた。

 黒い風が、社の木々を揺らす。

 村の方角から、悲鳴が聞こえた。

 人の声か、嘘の音か、もうわからなかった。

 朔夜は鈴音の手をそっと外した。

「すぐ戻る」

 その言葉を残し、朔夜は黒い風の中へ踏み出した。

 次の瞬間、彼の姿は闇へ溶けるように消えた。

 鈴音の手には、掴んでいたはずの衣の感触だけが残った。

「朔夜さま!」

 声は届かなかった。

 村の中心、常盤家の上空に、黒い渦が集まっていた。

 朔夜は屋根の上に降り立ち、空を見上げた。

 黒い靄の奥に、白無垢の影が浮かんでいる。

 琴乃だった。

 その下、庭先には綾乃が倒れている。八重が娘を抱きしめ、半狂乱で名を呼んでいた。宗一郎は腰を抜かしたように座り込み、村人たちは逃げ惑っている。

 琴乃の影が、ゆっくりと朔夜を見下ろした。

「来たのね、朔夜さま」

 朔夜は答えない。

「百年前は来なかったのに」

 その言葉に、空気が軋んだ。

 黒い靄が刃のように朔夜の頬をかすめる。

 血は出ない。

 けれど、穢れが皮膚に染み込もうとした。

 朔夜はそれを掴み、口元へ運んだ。

 そして喰らった。

 ばきり、と嫌な音がした。

 村中の嘘が、朔夜の中へ流れ込む。

 常盤家の不正。
 澄乃の死を病と偽った嘘。
 琴乃を鬼に喰われたことにした嘘。
 鈴音を災いと呼んだ嘘。
 綾乃を清らかな姫君として祭り上げた嘘。
 八重が娘を守るためと言いながら、自分の罪を隠した嘘。
 宗一郎が何も知らなかったふりをした嘘。

 朔夜はそれらを喰い続けた。

 琴乃が笑う。

「また喰うのね。人間の嘘を。人間が自分で吐いたものなのに」

 朔夜の口元から、黒い煙が漏れた。

 それでも彼は止まらない。

「あなたは優しいわけではないわ、朔夜さま。ただ、罪悪感で動いているだけ」

 琴乃の声が、黒い渦に混じって響く。

「私を救えなかったから。百年も、その罪を喰い続けているだけ」

 朔夜の瞳が金色に光る。

「黙れ」

「黙らないわ。だって私の声は、ずっと黙らされてきたのだから」

 琴乃の影が両腕を広げた。

 村のあちこちから黒い靄がさらに噴き上がる。

 それは朔夜へ向かって流れ込んだ。

 朔夜は避けなかった。

 すべてを喰らう。

 体の内側で、鬼の血が目を覚ます。

 金色だった瞳の奥に、赤黒い光が混じる。

 爪が伸びる。

 髪が風もないのに逆立つ。

 額に、薄く角の影が浮かび上がる。

 千景は社の石段でそれを見て、顔色を変えた。

「まずい……朔夜さまが」

 鈴音にも、遠くから見えた。

 朔夜の姿が変わっていく。

 人の形から、鬼へ。

 村の嘘を喰えば喰うほど、朔夜は黒く染まっていく。

 鈴音は石段を下りようとした。

 千景が慌てて立ちはだかる。

「駄目です! 今行ったら、鈴音さんまで呑まれます!」

「でも……朔夜さまが」

「わかってます!」

 千景の声が震えていた。

「でも、鈴音さんが近づいたら、朔夜さまはもっと無理をします。あなたを守ろうとして、全部喰う。そういう方なんです」

 鈴音は胸を押さえた。

 その通りだと思った。

 朔夜は、鈴音を守るためなら自分を削る。

 百年前の琴乃を救えなかった後悔があるから。

 鈴音を二度と黙らせまいとしているから。

 だからこそ、止めなければならない。

 鈴音は母の鈴を握った。

 ちりん。

 音が鳴る。

 その奥から、母の声が聞こえた気がした。

 ――鈴音。声は、誰かに守ってもらうためだけにあるのではありません。

 鈴音は息を吸った。

 喉はまだ痛む。

 でも、声は戻り始めている。

 鈴音は、守られるだけの花嫁ではいたくなかった。

「千景さん」

 声に、千景が目を見開いた。

 鈴音は続ける。

「私を……朔夜さまの近くへ」

「無茶です!」

「お願い、します」

 鈴音は千景を見た。

「朔夜さまを……呼びたいのです」

 千景は言葉を失った。

 鈴音は、白い守り紐を握る。

「私の声が……戻ったのは、朔夜さまが聞いてくれたからです。今度は、私が聞かせたい」

 千景の狐耳が震えた。

 彼は泣きそうな顔で、歯を食いしばった。

「……一度だけです。危なくなったら、すぐ連れて帰りますからね」

 鈴音は頷いた。

 千景は狐火を足元に灯した。

 炎が道のように伸びる。

「走れませんよ。僕が風を作ります。鈴音さんは、自分の音だけ聞いてください」

 鈴音は母の鈴と守り紐を胸に抱いた。

 ちりん。

 ちりん。

 二つの鈴の音が重なる。

 黒い風の中、鈴音は千景に導かれて村へ向かった。

 常盤家の門前は、地獄のようだった。

 村人たちは地面に伏せ、黒い靄に絡まれている。彼らの口から、隠していた言葉が漏れていた。

「私は知っていた……」

「澄乃さまが病じゃないって、噂で……」

「琴乃さまのことも、祖母から……」

「でも、言えば常盤家に逆らうことになるから……」

 嘘が剥がれている。

 けれど、それは救いというより、傷口を無理やり開くような光景だった。

 鈴音は耳を塞ぎたくなった。

 でも、塞がなかった。

 聞く。

 ただし、呑まれない。

 自分の音を聞く。

 ちりん。

 常盤家の屋根の上で、朔夜が黒い渦の中心に立っていた。

 もう、いつもの朔夜ではなかった。

 瞳は赤黒く染まり、爪は鋭く伸び、額には黒い角が現れている。黒衣は穢れに染まり、背中から影のようなものが広がっていた。

 鬼。

 村人たちが恐れてきた姿そのもの。

 けれど鈴音には、それが恐ろしいだけには見えなかった。

 苦しんでいる。

 朔夜は、喰らい続けながら苦しんでいる。

 琴乃の影が、朔夜の周りを舞う。

「ほら、やっぱり鬼じゃない。人間の嘘を喰いすぎれば、あなたは化け物になる」

 朔夜は唸るような声を漏らした。

 もう言葉になっていない。

 鈴音の胸が痛む。

「朔夜さま!」

 鈴音は叫んだ。

 声は黒い風に裂かれそうになる。

 届かない。

 朔夜は振り返らない。

 千景が狐火で鈴音の周りを守る。

「もっと近づくのは危険です!」

 鈴音は頷かなかった。

 もう一歩、前へ出る。

 黒い靄が喉に絡みつこうとした。

 守り札が白く光り、それを弾く。

 鈴音は息を吸った。

 喉が焼ける。

 それでも、呼ぶ。

「朔夜さま!」

 屋根の上の鬼が、わずかに動いた。

 琴乃の影が鈴音を見る。

「あら、来たのね。声を取り戻した花嫁」

 黒い靄が鈴音へ伸びる。

 千景が狐火で焼き払う。

「鈴音さん、早く!」

 鈴音は朔夜だけを見た。

 彼に届く言葉を探す。

 朔夜を止めるための言葉。

 鬼ではないと言うだけでは足りない。

 朔夜は自分を鬼でいいと言った。

 ならば、それを否定しなければならない。

 鈴音は、胸の奥から声を引き出した。

「朔夜さま!」

 今度は、少しだけ強く響いた。

 朔夜の赤黒い瞳が、鈴音の方を向いた。

 その視線には、理性がほとんど残っていなかった。

 鈴音は震えた。

 怖い。

 けれど逃げない。

 鈴音は両手で母の鈴を握り、声を出す。

「あなたは……化け物じゃ、ありません!」

 黒い風が止まった。

 ほんの一瞬。

 琴乃の影が顔を歪める。

「綺麗事を」

 鈴音は続けた。

「あなたは……私を、喰わなかった」

 喉が痛む。

 でも、言葉は止めない。

「私の声を……聞いてくれました」

 朔夜の瞳が揺れる。

 鈴音は一歩前へ出る。

「黙らされていた私を……見つけてくれました」

 黒い靄が鈴音の足元を這う。

 千景が必死に焼く。

 村人たちは呆然と鈴音を見ている。

 鈴音は、朔夜へ向けて声を張った。

「だから、朔夜さまが……自分を鬼だなんて、言わないでください!」

 その叫びに、母の鈴が鳴った。

 ちりん。

 守り紐の鈴も鳴る。

 ちりん。

 遠く、社の鈴たちも響いた。

 ちりん。

 ちりん。

 鈴の音が、黒い渦の中に道を作る。

 朔夜の体を覆っていた穢れが、わずかに剥がれた。

 朔夜が、苦しげに口を開く。

「……すず、ね」

 その声は、鬼の唸りの中に混じった、かすかな朔夜の声だった。

 鈴音は涙が出そうになった。

 届いた。

 まだ、届いている。

 琴乃が叫ぶ。

「呼ばないで! その鬼は、私を救わなかった!」

 鈴音は琴乃を見た。

「琴乃さま」

 琴乃の影が揺れる。

「あなたの声も……聞きます」

 琴乃の赤い唇が止まる。

「でも、朔夜さまを……あなたの恨みだけで、鬼にしないで」

 琴乃の影が怒りに震える。

「私の恨みだけ? この村の嘘よ! この村の罪よ! 私はそれを返しているだけ!」

「はい」

 鈴音は頷いた。

「村の罪です。常盤家の罪です。あなた一人が背負うものでも、朔夜さま一人が喰うものでもありません」

 声が掠れる。

 でも、今の鈴音にはわかっていた。

 嘘は、誰か一人に押しつけてはいけない。

 鈴音にも。

 琴乃にも。

 朔夜にも。

「だから……私が、言います」

 鈴音は村人たちの方を向いた。

 恐怖に固まった顔が並んでいる。

「見てください」

 鈴音の声は弱い。

 けれど、黒い靄を震わせた。

「これが、押しつけた嘘です」

 村人たちの足元で、黒い糸が蠢く。

「鬼神さまのせいにしたもの。琴乃さまの声を、災いにしたもの。母の死を、病にしたもの。私を、災いにしたもの」

 村人たちが震える。

「もう、誰か一人に押しつけないでください」

 その言葉に、村の嘘の音が揺らいだ。

 朔夜を覆っていた黒い靄が、少しずつ外へ剥がれ始める。

 朔夜は苦しげに膝をついた。

 鈴音は駆け寄ろうとした。

 千景が止めかけたが、朔夜がわずかに手を伸ばした。

 鈴音はその手を取る。

 冷たい。

 いつもよりずっと冷たい。

 でも、確かに朔夜の手だった。

 朔夜の爪はまだ鋭く、角も消えていない。瞳も赤黒いままだ。

 それでも、その奥に金の光が戻りかけていた。

 鈴音は彼の手を握りしめる。

「戻って、ください」

 朔夜は苦しげに息を吐く。

「俺は……」

「鬼では、ありません」

 鈴音ははっきり言った。

「私の、夫です」

 言ってから、鈴音は自分で息を呑んだ。

 夫。

 まだ、そう呼ぶには早いかもしれない。

 婚姻は生贄として始まった。心がすべて通じ合ったわけでもない。

 それでも、今この瞬間、鈴音にとって朔夜はただの鬼神ではなかった。

 声を取り戻すために隣に立ってくれた人。

 自分が選んだ人。

 朔夜の瞳が大きく揺れた。

 赤黒い光の奥で、金色が戻る。

「……鈴音」

 その声は、もう唸りではなかった。

 鈴音は涙をこらえながら頷く。

「はい」

 朔夜の額の角が薄れていく。

 爪が戻り、背中の影が縮む。

 黒い靄はまだ完全には消えていない。

 琴乃の影も、村の上空で揺れている。

 しかし、朔夜は戻った。

 鈴音の声が、鬼へ堕ちかけた朔夜を引き戻した。

 琴乃は空で静かに笑った。

 今度の笑いは、怒りだけではなかった。

「……夫、ね」

 その声は、少しだけ寂しそうだった。

「私には、誰もそう呼ぶ相手はいなかった」

 鈴音は琴乃を見る。

 琴乃の影は、黒い靄の中で揺れている。

「鈴音。あなたの声は、私を苛立たせる」

 琴乃は言った。

「でも、少しだけ……痛い」

 その言葉を最後に、白無垢の影は常盤家の奥へ引いていった。

 黒い靄の一部も、それに従って流れていく。

 朔夜は鈴音に支えられながら、低く言った。

「まだ終わっていない」

 鈴音は頷いた。

 喉は限界だった。

 体も震えている。

 でも、確かにわかった。

 琴乃はただ憎んでいるだけではない。

 今も、聞かれなかった声を抱えている。

 村人たちは地面に伏せたまま、誰も鈴音を災いとは呼ばなかった。

 呼べなかった。

 黒い嘘を目の前で見たから。

 鬼神がそれを喰い、壊れかける姿を見たから。

 そして、鈴音の声がその鬼神を呼び戻すのを見たから。

 鈴音は朔夜の手を握ったまま、村人たちを見渡した。

 次は、言わなければならない。

 すべての真実を。

 母の死も、常盤家の罪も、琴乃のことも。

 鈴音だけではなく、この村全体が向き合わなければならない真実を。

 母の鈴が鳴った。

 ちりん。

 それは、次の声を促すような音だった。