声を奪われた夜。
その言葉を書いた朝から、鈴音の喉はずっと熱を持っていた。
痛みとは少し違う。
奥の方に、まだ触れてはいけない傷がある。その傷口へ、記憶の指が近づいているような感覚だった。
鈴音は、母の鈴を両手で包んだ。
ちりん。
小さな音が、部屋の中に響く。
その音を聞くたびに、母の顔が浮かぶ。
優しく笑う母。
鈴音の声を「春の鈴みたい」と言ってくれた母。
そして、あの夜、畳の上に倒れていた母。
胸が詰まる。
けれど、もう目をそらすことはできなかった。
鈴音の声は、自然に失われたのではない。
誰かに奪われた。
それはもうわかっている。
だが、誰が、どのように、何を思って奪ったのか。
その真ん中に、まだ鈴音は触れていない。
襖の向こうで、朔夜の声がした。
「入るぞ」
鈴音は頷いた。
朔夜は部屋に入ると、すぐに鈴音の顔色を見た。
「熱はないな」
鈴音は紙に書く。
『喉が熱いだけです』
「記憶が近いのだろう」
朔夜は鈴音の前に座った。
「今日は無理に声を出さなくていい。見ること、知ることに力を使え」
鈴音は母の鈴を見つめる。
『見たら、戻れなくなる気がします』
朔夜は静かに答えた。
「もう戻る必要はない」
鈴音は顔を上げた。
「お前は、何も知らなかった頃には戻れない。だが、それは悪いことではない」
朔夜の金の瞳は、まっすぐだった。
「知らなかったから奪われた。知れば、奪い返す道を選べる」
奪い返す。
鈴音はその言葉を胸の中で繰り返した。
復讐ではなく。
誰かを同じように苦しめるためでもなく。
自分の声を、自分のものとして取り戻すために。
千景が盆を持って入ってきた。
薬草茶と、喉にやさしい蜜漬けの実。いつもより濃い香りがする。
「今日のは特別苦いです」
千景は真面目な顔で言った。
鈴音は少しだけ目を丸くする。
「苦いですけど、効きます。だから全部飲んでください」
紙に書く。
『苦いのですね』
「はい。すごく」
鈴音は思わず小さく笑った。
千景は少しだけほっとしたように耳を揺らす。
「笑えるなら、まだ大丈夫です」
そう言って、盆を置いた。
鈴音は薬草茶を飲んだ。
本当に苦かった。
思わず眉を寄せると、千景が小さく勝ち誇ったような顔をした。
「ほら、言ったでしょう」
そのやり取りのあと、鈴音の体の強張りは少し緩んだ。
朔夜は立ち上がる。
「清めの間へ行く」
鈴音は母の鈴を胸に抱いて、頷いた。
清めの間には、昨日持ち帰った帳面と母の鈴が置かれていた。
壁には、これまでの花嫁たちの鈴が静かに掛けられている。琴乃の黒ずんだ鈴も、その奥で沈黙していた。
鈴音が入ると、いくつかの鈴がかすかに震えた。
ちりん。
ちりん。
まるで、これから見る記憶を知っているかのようだった。
朔夜は床に白い布を敷いた。
その上に母の鈴を置く。
「鈴に残された声を開く。だが、ただ見るだけではない。お前の記憶も反応するはずだ」
鈴音は喉に手を当てた。
「苦しければ、俺の袖を掴め。千景もそばにいる」
千景が大きく頷く。
「倒れそうになったら支えます。変な糸が出たら焼きます」
朔夜が静かに言う。
「燃やす前に俺へ渡せ」
「わかってます」
鈴音は二人を見て、胸が温かくなった。
ひとりではない。
あの夜、幼い鈴音はひとりだった。
誰にも助けを求められず、声を奪われた。
けれど今は、違う。
鈴音は白い布の前に座った。
母の鈴へ手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、冷たいものが全身を駆け抜けた。
鈴が鳴る。
ちりん。
景色が変わった。
雨の音がする。
幼い鈴音は、常盤家の廊下に立っていた。
小さな手には布人形を握っている。母に見せようと思っていた人形だった。上手に縫えなかったが、母ならきっと笑って褒めてくれると思っていた。
廊下の先、母の部屋の襖が少し開いている。
中から、大人たちの声がした。
「澄乃、もう一度だけ言う。鈴を渡せ」
父の声だった。
今より若い。
だが、その声にある冷たさは変わらない。
母の声が答える。
「お渡しできません」
「それが常盤家を滅ぼすことになるとしてもか」
「嘘で守る家なら、滅びるべきです」
幼い鈴音は、襖の隙間から中を覗いた。
母は座敷の中央に座っていた。顔色は悪く、唇も白い。それでも背筋はまっすぐだった。
父はその前に立ち、拳を握っている。
八重は少し離れた場所に座り、扇で口元を隠していた。
その横に、綾乃がいた。
幼い綾乃。
美しい着物を着て、きちんと正座をしている。けれど、その膝の上の手は強く握られていた。
「鈴音の声は、いずれ常盤家の嘘を暴きます」
母が言った。
「あの子はまだ幼い。けれど、あの声は真実に反応する。これ以上、あの子をこの家の道具にしないでください」
八重が静かに笑った。
「道具にする? それはあなたでしょう。鈴音の声を特別なものだと言って、自分の正しさの証にしている」
「違います」
「違わないわ。あなたは先妻で、私は後妻。あなたの娘は特別な声を持ち、私の娘はただ美しく振る舞うことだけを求められる。どちらが利用されていると思うの?」
母は八重を見た。
「綾乃さんを縛っているのは、私でも鈴音でもありません。あなたです」
八重の顔から笑みが消えた。
綾乃の肩が小さく震える。
「お母さま……」
綾乃が小さく呼んだ。
八重は振り返らない。
「綾乃、よく見ておきなさい」
その声は、優しいようで冷たい。
「常盤家を乱す者がどうなるかを」
幼い鈴音の胸がざわめいた。
怖い。
母の部屋へ入らなければ。
でも足が動かない。
父が低く言う。
「澄乃。鈴はどこだ」
母は胸元に手を当てた。
「鈴音へ残します」
「ならば、鈴音も同罪だ」
その言葉に、母の瞳が初めて揺れた。
「宗一郎さま」
「お前が鈴音を巻き込んだ」
「違います。私はあの子を守ろうと――」
「黙れ!」
父の手が母を打った。
乾いた音が、雨音の中に響く。
幼い鈴音は、布人形を握りしめた。
声を出したかった。
お母さま。
でも、喉が震えるだけで、まだ叫べなかった。
母は倒れかけた体を支え、父を見上げる。
「あなた方は、鈴音の声を封じるつもりですね」
八重の扇がわずかに揺れた。
「災いを防ぐためです」
「災いではありません」
母の声は、弱っているのに強かった。
「あの子の声は、誰かを裁くためのものではない。嘘で苦しむ人を救うためのものです」
その言葉を聞いた瞬間、幼い綾乃の顔が歪んだ。
鈴音はその顔を見た。
悲しみ。
悔しさ。
そして、幼い嫉妬。
綾乃がぽつりと言った。
「鈴音ばかり」
声は小さかった。
けれど座敷の中の全員に届いた。
母が綾乃を見る。
綾乃は涙を浮かべていた。
「鈴音ばかり、特別なのね」
八重が、初めて綾乃を見た。
「綾乃」
「私は、いつもちゃんとしているのに。お母さまの言う通りにしているのに。鈴音は声があるだけで、澄乃さまにも、みんなにも見てもらえるのね」
母が痛ましそうに言う。
「綾乃さん、それは違います」
「違わない!」
幼い綾乃が叫んだ。
それは、鈴音が知っている完璧な姉の声ではなかった。
泣きじゃくる子どもの声だった。
「鈴音の声なんて、なければいいのに」
その瞬間、部屋の隅に黒い影が揺れた。
鈴音の背筋が凍る。
白無垢の影。
顔のない女。
琴乃。
けれど、その姿はまだ薄く、煙のようだった。
影は幼い綾乃の背後に寄り添い、耳元で囁いた。
――そうよ。
鈴音の耳にも、その声が聞こえた。
――あの子の声さえなければ、あなたが一番になれる。
綾乃の瞳がぼんやりと濁る。
八重は、その影に気づいていたのだろうか。
気づいていなかったのだろうか。
ただ、八重はゆっくりと懐から黒い紐を取り出した。
小さな鈴の形をした呪具が結ばれている。
鈴音の喉が痛んだ。
あれだ。
あれが、自分の声を奪ったものだ。
母が立ち上がろうとした。
「やめなさい」
だが、体がふらついた。
先ほど飲まされた茶のせいだ。
鈴音はそれを記憶の中で悟った。
母はもう、毒に侵されていた。
八重が言う。
「殺すわけではありません。声を封じるだけです。あの子のためにも、その方がいい」
母は首を横に振る。
「鈴音のためではない。あなた方のためでしょう」
父は母から目をそらした。
その沈黙が、すべてだった。
母は父を見つめ、静かに言った。
「宗一郎さま。あなたは、鈴音の父親です」
父は答えない。
母の瞳に絶望が浮かんだ。
そのとき、幼い鈴音は襖を開けた。
布人形を落とし、母のもとへ駆け寄る。
母の体を抱きしめる。
「鈴音……」
母の手が、鈴音の頬に触れた。
冷たい。
信じられないほど冷たい。
「逃げて」
母はそう言った。
鈴音は首を横に振る。
逃げない。
お母さまを置いていかない。
言いたいのに、涙で息が詰まる。
父が低く言う。
「鈴音を離せ」
母は鈴音を抱きしめた。
「この子だけは……」
八重が立ち上がる。
綾乃は泣いていた。
けれど、その手には黒い紐が握られていた。
鈴音は綾乃を見る。
綾乃も鈴音を見る。
その目には、涙と嫉妬と、恐れが混ざっていた。
「綾乃さま……?」
幼い鈴音は、そう呼ぼうとした。
けれど、声になる前に八重の指が喉へ触れた。
「その声は、災いを呼ぶのよ」
黒い紐が、鈴音の喉へ巻きつく。
綾乃が震える手で、その紐の鈴を鳴らした。
ちりん。
その音は、母の鈴とは違った。
濁っている。
濡れた土の中で鳴るような音だった。
鈴音の喉が焼ける。
叫びたかった。
お母さまが殺される。
お母さまは病ではない。
父も、八重も、綾乃も、見ている。
言わなければ。
誰かに。
誰かに本当のことを。
鈴音は口を開いた。
その瞬間、琴乃の影が幼い綾乃の背後から伸び、鈴音の口元を覆った。
――黙って。
琴乃の声がした。
――あなたの声がある限り、誰かがまた傷つく。
鈴音の喉の奥に、黒い糸が流れ込む。
息ができない。
母が叫ぶ。
「鈴音!」
それが、鈴音が聞いた最後の母の声だった。
母は必死に手を伸ばし、小さな銀の鈴を鈴音の手に握らせた。
「あなたの声は……消えない……」
次の瞬間、母の手が力を失った。
鈴音は泣き叫ぼうとした。
でも、声は出なかった。
自分の中から、声が抜き取られていく感覚。
春の鈴みたいだと言われた声。
母の名を呼ぶ声。
助けを求める声。
真実を告げる声。
そのすべてが、黒い糸に巻き取られ、喉の奥へ封じ込められた。
幼い綾乃が泣き崩れる。
「私、こんなつもりじゃ……」
八重が綾乃を抱き寄せる。
「あなたは何も悪くないわ。綾乃。常盤家を守ったのよ」
父は、倒れた母を見ていた。
だが、鈴音の方を見なかった。
鈴音はその場で、声のないまま泣いた。
手には、母の鈴が残っている。
けれどそれすら、すぐに八重に奪われた。
「この鈴も封じておきましょう」
八重の声が遠くなる。
視界が黒く染まる。
最後に見えたのは、綾乃の目だった。
その目は、鈴音を見ていた。
怯えながら。
泣きながら。
それでも、どこかで安堵していた。
もう、鈴音は喋れない。
その安堵を、鈴音は見てしまった。
記憶が途切れた。
鈴音は清めの間で目を覚ました。
喉が焼けるように痛む。
息ができない。
体が震える。
目の前が涙で滲んでいる。
朔夜が鈴音を支えていた。
「鈴音!」
千景の声も聞こえる。
鈴音は喉を押さえた。
黒い糸が暴れている。
長い間、記憶の奥に封じられていた夜が開いたことで、呪いが反応しているのだ。
朔夜の手が喉に触れる。
冷たい力が流れ込む。
けれど、今度の糸は簡単にはほどけなかった。
鈴音の目の前に、幼い綾乃の顔が浮かぶ。
泣いていた。
震えていた。
それでも、鈴音の声が奪われることを止めなかった。
八重の声が蘇る。
あなたは何も悪くない。
常盤家を守ったのよ。
父の背中。
見て見ぬふりをした背中。
琴乃の囁き。
黙って。
鈴音は、声にならない叫びを上げた。
怒りだった。
悲しみだった。
母を奪われた痛み。
声を奪われた痛み。
何も知らないまま、災いの娘として生かされてきた十七年。
すべてが胸の中で渦を巻く。
朔夜が低く言う。
「鈴音、俺を見る」
鈴音は涙で滲む視界を上げた。
朔夜の金の瞳がある。
揺るがない光。
「今のお前は、あの夜の子どもではない」
鈴音は息を震わせる。
「声を奪われた夜を見た。だが、今ここにいるお前は、もう一人ではない」
鈴音は朔夜の袖を掴んだ。
必死に。
あの夜、掴めなかったものを掴むように。
朔夜はその手を包んだ。
千景が震える声で言う。
「鈴音さん、大丈夫です。ここにいます。僕も、朔夜さまも」
ここにいる。
ひとりではない。
鈴音は呼吸を探した。
吸う。
吐く。
喉が痛い。
でも、息は通る。
守り紐の鈴が鳴る。
ちりん。
母の鈴も、応えるように鳴った。
ちりん。
二つの鈴の音が重なった瞬間、鈴音の喉に絡みついていた黒い糸の一部が、ぱきりと割れた。
朔夜がその隙を逃さず、糸を掴む。
しかし鈴音は、思わず首を横に振った。
朔夜が動きを止める。
「どうした」
鈴音は紙を探した。
手が震え、筆がうまく持てない。
それでも書いた。
『私が、言いたいです』
朔夜は目を見開いた。
鈴音は続ける。
『奪われた夜を、誰かに奪い返してもらうのではなく、私が言葉にしたいです』
千景が息を呑む。
朔夜はしばらく鈴音を見つめた。
それから、喉に添えた手を少しだけ引く。
「無理はするな。だが、お前が言うなら支える」
支える。
その言葉に、鈴音は頷いた。
鈴音は母の鈴を握りしめた。
息を吸う。
声は怖い。
出そうとするたび、奪われた痛みが蘇る。
でも、今度は自分で選ぶ。
言うことを。
鈴音は、かすれた声を絞り出した。
「……あの夜」
声が震える。
喉が焼ける。
それでも、続ける。
「母さまは……病では、なく……」
涙が落ちる。
「殺されました」
清めの間の鈴が、一斉に震えた。
ちりん。
ちりん。
鈴音は息を吸う。
「私の声は……災いでは、ありません」
喉の奥の黒い糸が暴れる。
朔夜の手が、背に添えられる。
「ゆっくりでいい」
鈴音は頷く。
「奪われた、ものです」
その言葉を口にした瞬間、喉の奥で何かが砕けた。
鋭い痛み。
同時に、長く詰まっていたものが少し抜ける。
鈴音は咳き込み、朔夜に支えられた。
黒い糸が喉元から引き出される。
これまでより太く、絡まり合った糸。
その中に、幼い綾乃の涙、八重の命令、父の沈黙、琴乃の囁きが混ざっているようだった。
朔夜はそれを喰おうとした。
だが、糸の中から白無垢の影が浮かび上がる。
琴乃だった。
顔のない影が、清めの間に立つ。
けれどその輪郭は、前よりずっと濃い。
鈴音の記憶が開いたことで、琴乃を縛っていた古い呪いもまた刺激されたのだ。
琴乃が笑う。
「思い出したのね」
鈴音は朔夜に支えられながら、琴乃を見る。
「ねえ、鈴音。どう? 声を奪われた痛みは。見ていた者たちへの憎しみは。私の気持ちが、少しはわかったでしょう?」
鈴音は答えられない。
喉が痛い。
けれど、心の中では答えが生まれていた。
わかった。
黙らされる痛みは、わかる。
声が届かない絶望も、わかる。
でも。
琴乃は囁く。
「憎みなさい。綾乃を。八重を。父を。村を。全部壊してしまえばいい」
鈴音の胸に、黒い怒りが湧く。
確かに憎い。
許せない。
あの夜、母を助けなかった父。
鈴音の声を封じた八重。
泣きながらも呪具を鳴らした綾乃。
ずっと鈴音を災いにしてきた村。
全部が憎い。
でも、その怒りに呑まれたら、琴乃と同じ場所へ落ちる気がした。
鈴音は紙を取る。
声は限界だった。
震える文字で書く。
『私は、奪われたものを取り戻します』
琴乃が黙る。
鈴音は続けた。
『誰かを同じように奪うためではありません』
朔夜の瞳が、静かに揺れた。
千景が息を止めている。
琴乃の赤い唇が歪む。
「綺麗事ね」
鈴音は首を横に振る。
綺麗事かもしれない。
でも、自分で選んだ言葉だった。
鈴音はさらに書いた。
『綾乃さまを許しません。八重さまも、父も、許しません』
琴乃の影がわずかに揺れる。
『でも、私は私の声を、憎しみだけのために使いたくありません』
その瞬間、母の鈴が強く鳴った。
ちりん。
清めの間の鈴たちも応える。
ちりん。
ちりん。
鈴音の喉に絡みついていた黒い糸が、音を立てて砕け始めた。
朔夜が鈴音を支える。
千景が狐火で飛び散る黒い欠片を焼いた。
琴乃の影が苦しげに揺らぐ。
「やめて」
初めて、琴乃の声に焦りが滲んだ。
「その声で、私を置いていかないで」
鈴音は琴乃を見る。
その声は、怨霊のものではなかった。
あの白い霧の中で聞いた、百年前の少女の声だった。
鈴音の胸が痛む。
でも、近づくにはまだ危険すぎる。
琴乃の影は、綾乃の嫉妬と、百年分の恨みを抱えている。
今はまだ、救えない。
琴乃は叫んだ。
「私だけが、声を奪われたままなのに!」
その叫びとともに、清めの間に封じられていた黒い靄が一気に膨れ上がった。
朔夜が鈴音を背に庇う。
「まずい。呪いの核が割れた」
鈴音は喉を押さえる。
確かに、鈴音の呪いは大きく砕けた。
声の道が、以前よりはっきり開いている。
けれど、その代わりに、琴乃を縛っていた怨みの一部も解き放たれてしまった。
琴乃の影が黒く染まっていく。
白無垢の裾が闇に溶け、赤い唇が笑う。
「なら、全部聞かせてあげる」
琴乃の声が、清めの間を満たす。
「この村が、どれだけの声を奪ってきたのか」
黒い靄が渦を巻き、社の外へ流れ出していく。
千景が叫ぶ。
「朔夜さま、村の方へ!」
朔夜の顔が険しくなる。
鈴音も感じた。
解放された怨みが、村へ向かっている。
常盤家へ。
綾乃のもとへ。
そして、村中の嘘へ。
琴乃の影は消える寸前、鈴音を見た。
「あなたが本当に声を取り戻したいなら、私の声も聞きなさい」
そう言い残し、影は黒い靄の中へ溶けた。
清めの間に、静けさが戻る。
鈴音はその場に崩れ落ちた。
朔夜が抱きとめる。
「鈴音」
鈴音は息を整えながら、自分の喉に手を当てた。
痛い。
けれど、空気が通る。
前よりもずっと。
鈴音は震える唇で、声を出した。
「……朔夜、さま」
朔夜の目が見開かれる。
鈴音は続けた。
「私……言えました」
掠れている。
弱い。
けれど、確かに声だった。
朔夜は、ほんの一瞬、泣きそうな顔をしたように見えた。
だがすぐに表情を引き締める。
「ああ。聞こえた」
鈴音は小さく頷いた。
声は戻り始めた。
でも、終わりではない。
むしろ、ここからが始まりだった。
琴乃の怨みが解き放たれた。
村の嘘が、きっと次々と浮かび上がる。
綾乃も、常盤家も、もう逃げられない。
そして鈴音も、もう逃げない。
奪われたものを取り戻す。
誰かを同じように奪うためではなく。
自分の声で、自分の真実を語るために。
社の外で、黒い風が鳴った。
遠く、村の方角から悲鳴のような嘘の音が届く。
ちりん。
母の鈴が震える。
鈴音は朔夜の腕の中で顔を上げた。
「行かなくては……」
声はまだ弱い。
けれど、その言葉には確かな意思があった。
朔夜は鈴音を見つめ、静かに頷いた。
「まずは休め。だが、そうだな」
彼は村の方角へ目を向ける。
「次は、鬼神が暴れる番かもしれぬ」
その声に、鈴音の胸が冷えた。
村へ向かった怨み。
それを喰らえば、朔夜はどうなるのか。
嘘を喰いすぎれば、鬼へ堕ちる。
その言葉を思い出した瞬間、鈴音は朔夜の袖を掴んだ。
「だめ……」
朔夜が振り返る。
鈴音は、かすれた声でもう一度言った。
「朔夜さまが、全部……背負わないで」
朔夜の金の瞳が揺れる。
鈴音は息を震わせながら、言葉を続けた。
「私も……行きます」
朔夜はしばらく黙っていた。
やがて、鈴音の手をそっと包む。
「ならば、共に行く」
清めの間の鈴が、静かに鳴った。
ちりん。
それは、奪われた夜の終わりを告げる音であり、これから始まる嵐を告げる音でもあった。
その言葉を書いた朝から、鈴音の喉はずっと熱を持っていた。
痛みとは少し違う。
奥の方に、まだ触れてはいけない傷がある。その傷口へ、記憶の指が近づいているような感覚だった。
鈴音は、母の鈴を両手で包んだ。
ちりん。
小さな音が、部屋の中に響く。
その音を聞くたびに、母の顔が浮かぶ。
優しく笑う母。
鈴音の声を「春の鈴みたい」と言ってくれた母。
そして、あの夜、畳の上に倒れていた母。
胸が詰まる。
けれど、もう目をそらすことはできなかった。
鈴音の声は、自然に失われたのではない。
誰かに奪われた。
それはもうわかっている。
だが、誰が、どのように、何を思って奪ったのか。
その真ん中に、まだ鈴音は触れていない。
襖の向こうで、朔夜の声がした。
「入るぞ」
鈴音は頷いた。
朔夜は部屋に入ると、すぐに鈴音の顔色を見た。
「熱はないな」
鈴音は紙に書く。
『喉が熱いだけです』
「記憶が近いのだろう」
朔夜は鈴音の前に座った。
「今日は無理に声を出さなくていい。見ること、知ることに力を使え」
鈴音は母の鈴を見つめる。
『見たら、戻れなくなる気がします』
朔夜は静かに答えた。
「もう戻る必要はない」
鈴音は顔を上げた。
「お前は、何も知らなかった頃には戻れない。だが、それは悪いことではない」
朔夜の金の瞳は、まっすぐだった。
「知らなかったから奪われた。知れば、奪い返す道を選べる」
奪い返す。
鈴音はその言葉を胸の中で繰り返した。
復讐ではなく。
誰かを同じように苦しめるためでもなく。
自分の声を、自分のものとして取り戻すために。
千景が盆を持って入ってきた。
薬草茶と、喉にやさしい蜜漬けの実。いつもより濃い香りがする。
「今日のは特別苦いです」
千景は真面目な顔で言った。
鈴音は少しだけ目を丸くする。
「苦いですけど、効きます。だから全部飲んでください」
紙に書く。
『苦いのですね』
「はい。すごく」
鈴音は思わず小さく笑った。
千景は少しだけほっとしたように耳を揺らす。
「笑えるなら、まだ大丈夫です」
そう言って、盆を置いた。
鈴音は薬草茶を飲んだ。
本当に苦かった。
思わず眉を寄せると、千景が小さく勝ち誇ったような顔をした。
「ほら、言ったでしょう」
そのやり取りのあと、鈴音の体の強張りは少し緩んだ。
朔夜は立ち上がる。
「清めの間へ行く」
鈴音は母の鈴を胸に抱いて、頷いた。
清めの間には、昨日持ち帰った帳面と母の鈴が置かれていた。
壁には、これまでの花嫁たちの鈴が静かに掛けられている。琴乃の黒ずんだ鈴も、その奥で沈黙していた。
鈴音が入ると、いくつかの鈴がかすかに震えた。
ちりん。
ちりん。
まるで、これから見る記憶を知っているかのようだった。
朔夜は床に白い布を敷いた。
その上に母の鈴を置く。
「鈴に残された声を開く。だが、ただ見るだけではない。お前の記憶も反応するはずだ」
鈴音は喉に手を当てた。
「苦しければ、俺の袖を掴め。千景もそばにいる」
千景が大きく頷く。
「倒れそうになったら支えます。変な糸が出たら焼きます」
朔夜が静かに言う。
「燃やす前に俺へ渡せ」
「わかってます」
鈴音は二人を見て、胸が温かくなった。
ひとりではない。
あの夜、幼い鈴音はひとりだった。
誰にも助けを求められず、声を奪われた。
けれど今は、違う。
鈴音は白い布の前に座った。
母の鈴へ手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、冷たいものが全身を駆け抜けた。
鈴が鳴る。
ちりん。
景色が変わった。
雨の音がする。
幼い鈴音は、常盤家の廊下に立っていた。
小さな手には布人形を握っている。母に見せようと思っていた人形だった。上手に縫えなかったが、母ならきっと笑って褒めてくれると思っていた。
廊下の先、母の部屋の襖が少し開いている。
中から、大人たちの声がした。
「澄乃、もう一度だけ言う。鈴を渡せ」
父の声だった。
今より若い。
だが、その声にある冷たさは変わらない。
母の声が答える。
「お渡しできません」
「それが常盤家を滅ぼすことになるとしてもか」
「嘘で守る家なら、滅びるべきです」
幼い鈴音は、襖の隙間から中を覗いた。
母は座敷の中央に座っていた。顔色は悪く、唇も白い。それでも背筋はまっすぐだった。
父はその前に立ち、拳を握っている。
八重は少し離れた場所に座り、扇で口元を隠していた。
その横に、綾乃がいた。
幼い綾乃。
美しい着物を着て、きちんと正座をしている。けれど、その膝の上の手は強く握られていた。
「鈴音の声は、いずれ常盤家の嘘を暴きます」
母が言った。
「あの子はまだ幼い。けれど、あの声は真実に反応する。これ以上、あの子をこの家の道具にしないでください」
八重が静かに笑った。
「道具にする? それはあなたでしょう。鈴音の声を特別なものだと言って、自分の正しさの証にしている」
「違います」
「違わないわ。あなたは先妻で、私は後妻。あなたの娘は特別な声を持ち、私の娘はただ美しく振る舞うことだけを求められる。どちらが利用されていると思うの?」
母は八重を見た。
「綾乃さんを縛っているのは、私でも鈴音でもありません。あなたです」
八重の顔から笑みが消えた。
綾乃の肩が小さく震える。
「お母さま……」
綾乃が小さく呼んだ。
八重は振り返らない。
「綾乃、よく見ておきなさい」
その声は、優しいようで冷たい。
「常盤家を乱す者がどうなるかを」
幼い鈴音の胸がざわめいた。
怖い。
母の部屋へ入らなければ。
でも足が動かない。
父が低く言う。
「澄乃。鈴はどこだ」
母は胸元に手を当てた。
「鈴音へ残します」
「ならば、鈴音も同罪だ」
その言葉に、母の瞳が初めて揺れた。
「宗一郎さま」
「お前が鈴音を巻き込んだ」
「違います。私はあの子を守ろうと――」
「黙れ!」
父の手が母を打った。
乾いた音が、雨音の中に響く。
幼い鈴音は、布人形を握りしめた。
声を出したかった。
お母さま。
でも、喉が震えるだけで、まだ叫べなかった。
母は倒れかけた体を支え、父を見上げる。
「あなた方は、鈴音の声を封じるつもりですね」
八重の扇がわずかに揺れた。
「災いを防ぐためです」
「災いではありません」
母の声は、弱っているのに強かった。
「あの子の声は、誰かを裁くためのものではない。嘘で苦しむ人を救うためのものです」
その言葉を聞いた瞬間、幼い綾乃の顔が歪んだ。
鈴音はその顔を見た。
悲しみ。
悔しさ。
そして、幼い嫉妬。
綾乃がぽつりと言った。
「鈴音ばかり」
声は小さかった。
けれど座敷の中の全員に届いた。
母が綾乃を見る。
綾乃は涙を浮かべていた。
「鈴音ばかり、特別なのね」
八重が、初めて綾乃を見た。
「綾乃」
「私は、いつもちゃんとしているのに。お母さまの言う通りにしているのに。鈴音は声があるだけで、澄乃さまにも、みんなにも見てもらえるのね」
母が痛ましそうに言う。
「綾乃さん、それは違います」
「違わない!」
幼い綾乃が叫んだ。
それは、鈴音が知っている完璧な姉の声ではなかった。
泣きじゃくる子どもの声だった。
「鈴音の声なんて、なければいいのに」
その瞬間、部屋の隅に黒い影が揺れた。
鈴音の背筋が凍る。
白無垢の影。
顔のない女。
琴乃。
けれど、その姿はまだ薄く、煙のようだった。
影は幼い綾乃の背後に寄り添い、耳元で囁いた。
――そうよ。
鈴音の耳にも、その声が聞こえた。
――あの子の声さえなければ、あなたが一番になれる。
綾乃の瞳がぼんやりと濁る。
八重は、その影に気づいていたのだろうか。
気づいていなかったのだろうか。
ただ、八重はゆっくりと懐から黒い紐を取り出した。
小さな鈴の形をした呪具が結ばれている。
鈴音の喉が痛んだ。
あれだ。
あれが、自分の声を奪ったものだ。
母が立ち上がろうとした。
「やめなさい」
だが、体がふらついた。
先ほど飲まされた茶のせいだ。
鈴音はそれを記憶の中で悟った。
母はもう、毒に侵されていた。
八重が言う。
「殺すわけではありません。声を封じるだけです。あの子のためにも、その方がいい」
母は首を横に振る。
「鈴音のためではない。あなた方のためでしょう」
父は母から目をそらした。
その沈黙が、すべてだった。
母は父を見つめ、静かに言った。
「宗一郎さま。あなたは、鈴音の父親です」
父は答えない。
母の瞳に絶望が浮かんだ。
そのとき、幼い鈴音は襖を開けた。
布人形を落とし、母のもとへ駆け寄る。
母の体を抱きしめる。
「鈴音……」
母の手が、鈴音の頬に触れた。
冷たい。
信じられないほど冷たい。
「逃げて」
母はそう言った。
鈴音は首を横に振る。
逃げない。
お母さまを置いていかない。
言いたいのに、涙で息が詰まる。
父が低く言う。
「鈴音を離せ」
母は鈴音を抱きしめた。
「この子だけは……」
八重が立ち上がる。
綾乃は泣いていた。
けれど、その手には黒い紐が握られていた。
鈴音は綾乃を見る。
綾乃も鈴音を見る。
その目には、涙と嫉妬と、恐れが混ざっていた。
「綾乃さま……?」
幼い鈴音は、そう呼ぼうとした。
けれど、声になる前に八重の指が喉へ触れた。
「その声は、災いを呼ぶのよ」
黒い紐が、鈴音の喉へ巻きつく。
綾乃が震える手で、その紐の鈴を鳴らした。
ちりん。
その音は、母の鈴とは違った。
濁っている。
濡れた土の中で鳴るような音だった。
鈴音の喉が焼ける。
叫びたかった。
お母さまが殺される。
お母さまは病ではない。
父も、八重も、綾乃も、見ている。
言わなければ。
誰かに。
誰かに本当のことを。
鈴音は口を開いた。
その瞬間、琴乃の影が幼い綾乃の背後から伸び、鈴音の口元を覆った。
――黙って。
琴乃の声がした。
――あなたの声がある限り、誰かがまた傷つく。
鈴音の喉の奥に、黒い糸が流れ込む。
息ができない。
母が叫ぶ。
「鈴音!」
それが、鈴音が聞いた最後の母の声だった。
母は必死に手を伸ばし、小さな銀の鈴を鈴音の手に握らせた。
「あなたの声は……消えない……」
次の瞬間、母の手が力を失った。
鈴音は泣き叫ぼうとした。
でも、声は出なかった。
自分の中から、声が抜き取られていく感覚。
春の鈴みたいだと言われた声。
母の名を呼ぶ声。
助けを求める声。
真実を告げる声。
そのすべてが、黒い糸に巻き取られ、喉の奥へ封じ込められた。
幼い綾乃が泣き崩れる。
「私、こんなつもりじゃ……」
八重が綾乃を抱き寄せる。
「あなたは何も悪くないわ。綾乃。常盤家を守ったのよ」
父は、倒れた母を見ていた。
だが、鈴音の方を見なかった。
鈴音はその場で、声のないまま泣いた。
手には、母の鈴が残っている。
けれどそれすら、すぐに八重に奪われた。
「この鈴も封じておきましょう」
八重の声が遠くなる。
視界が黒く染まる。
最後に見えたのは、綾乃の目だった。
その目は、鈴音を見ていた。
怯えながら。
泣きながら。
それでも、どこかで安堵していた。
もう、鈴音は喋れない。
その安堵を、鈴音は見てしまった。
記憶が途切れた。
鈴音は清めの間で目を覚ました。
喉が焼けるように痛む。
息ができない。
体が震える。
目の前が涙で滲んでいる。
朔夜が鈴音を支えていた。
「鈴音!」
千景の声も聞こえる。
鈴音は喉を押さえた。
黒い糸が暴れている。
長い間、記憶の奥に封じられていた夜が開いたことで、呪いが反応しているのだ。
朔夜の手が喉に触れる。
冷たい力が流れ込む。
けれど、今度の糸は簡単にはほどけなかった。
鈴音の目の前に、幼い綾乃の顔が浮かぶ。
泣いていた。
震えていた。
それでも、鈴音の声が奪われることを止めなかった。
八重の声が蘇る。
あなたは何も悪くない。
常盤家を守ったのよ。
父の背中。
見て見ぬふりをした背中。
琴乃の囁き。
黙って。
鈴音は、声にならない叫びを上げた。
怒りだった。
悲しみだった。
母を奪われた痛み。
声を奪われた痛み。
何も知らないまま、災いの娘として生かされてきた十七年。
すべてが胸の中で渦を巻く。
朔夜が低く言う。
「鈴音、俺を見る」
鈴音は涙で滲む視界を上げた。
朔夜の金の瞳がある。
揺るがない光。
「今のお前は、あの夜の子どもではない」
鈴音は息を震わせる。
「声を奪われた夜を見た。だが、今ここにいるお前は、もう一人ではない」
鈴音は朔夜の袖を掴んだ。
必死に。
あの夜、掴めなかったものを掴むように。
朔夜はその手を包んだ。
千景が震える声で言う。
「鈴音さん、大丈夫です。ここにいます。僕も、朔夜さまも」
ここにいる。
ひとりではない。
鈴音は呼吸を探した。
吸う。
吐く。
喉が痛い。
でも、息は通る。
守り紐の鈴が鳴る。
ちりん。
母の鈴も、応えるように鳴った。
ちりん。
二つの鈴の音が重なった瞬間、鈴音の喉に絡みついていた黒い糸の一部が、ぱきりと割れた。
朔夜がその隙を逃さず、糸を掴む。
しかし鈴音は、思わず首を横に振った。
朔夜が動きを止める。
「どうした」
鈴音は紙を探した。
手が震え、筆がうまく持てない。
それでも書いた。
『私が、言いたいです』
朔夜は目を見開いた。
鈴音は続ける。
『奪われた夜を、誰かに奪い返してもらうのではなく、私が言葉にしたいです』
千景が息を呑む。
朔夜はしばらく鈴音を見つめた。
それから、喉に添えた手を少しだけ引く。
「無理はするな。だが、お前が言うなら支える」
支える。
その言葉に、鈴音は頷いた。
鈴音は母の鈴を握りしめた。
息を吸う。
声は怖い。
出そうとするたび、奪われた痛みが蘇る。
でも、今度は自分で選ぶ。
言うことを。
鈴音は、かすれた声を絞り出した。
「……あの夜」
声が震える。
喉が焼ける。
それでも、続ける。
「母さまは……病では、なく……」
涙が落ちる。
「殺されました」
清めの間の鈴が、一斉に震えた。
ちりん。
ちりん。
鈴音は息を吸う。
「私の声は……災いでは、ありません」
喉の奥の黒い糸が暴れる。
朔夜の手が、背に添えられる。
「ゆっくりでいい」
鈴音は頷く。
「奪われた、ものです」
その言葉を口にした瞬間、喉の奥で何かが砕けた。
鋭い痛み。
同時に、長く詰まっていたものが少し抜ける。
鈴音は咳き込み、朔夜に支えられた。
黒い糸が喉元から引き出される。
これまでより太く、絡まり合った糸。
その中に、幼い綾乃の涙、八重の命令、父の沈黙、琴乃の囁きが混ざっているようだった。
朔夜はそれを喰おうとした。
だが、糸の中から白無垢の影が浮かび上がる。
琴乃だった。
顔のない影が、清めの間に立つ。
けれどその輪郭は、前よりずっと濃い。
鈴音の記憶が開いたことで、琴乃を縛っていた古い呪いもまた刺激されたのだ。
琴乃が笑う。
「思い出したのね」
鈴音は朔夜に支えられながら、琴乃を見る。
「ねえ、鈴音。どう? 声を奪われた痛みは。見ていた者たちへの憎しみは。私の気持ちが、少しはわかったでしょう?」
鈴音は答えられない。
喉が痛い。
けれど、心の中では答えが生まれていた。
わかった。
黙らされる痛みは、わかる。
声が届かない絶望も、わかる。
でも。
琴乃は囁く。
「憎みなさい。綾乃を。八重を。父を。村を。全部壊してしまえばいい」
鈴音の胸に、黒い怒りが湧く。
確かに憎い。
許せない。
あの夜、母を助けなかった父。
鈴音の声を封じた八重。
泣きながらも呪具を鳴らした綾乃。
ずっと鈴音を災いにしてきた村。
全部が憎い。
でも、その怒りに呑まれたら、琴乃と同じ場所へ落ちる気がした。
鈴音は紙を取る。
声は限界だった。
震える文字で書く。
『私は、奪われたものを取り戻します』
琴乃が黙る。
鈴音は続けた。
『誰かを同じように奪うためではありません』
朔夜の瞳が、静かに揺れた。
千景が息を止めている。
琴乃の赤い唇が歪む。
「綺麗事ね」
鈴音は首を横に振る。
綺麗事かもしれない。
でも、自分で選んだ言葉だった。
鈴音はさらに書いた。
『綾乃さまを許しません。八重さまも、父も、許しません』
琴乃の影がわずかに揺れる。
『でも、私は私の声を、憎しみだけのために使いたくありません』
その瞬間、母の鈴が強く鳴った。
ちりん。
清めの間の鈴たちも応える。
ちりん。
ちりん。
鈴音の喉に絡みついていた黒い糸が、音を立てて砕け始めた。
朔夜が鈴音を支える。
千景が狐火で飛び散る黒い欠片を焼いた。
琴乃の影が苦しげに揺らぐ。
「やめて」
初めて、琴乃の声に焦りが滲んだ。
「その声で、私を置いていかないで」
鈴音は琴乃を見る。
その声は、怨霊のものではなかった。
あの白い霧の中で聞いた、百年前の少女の声だった。
鈴音の胸が痛む。
でも、近づくにはまだ危険すぎる。
琴乃の影は、綾乃の嫉妬と、百年分の恨みを抱えている。
今はまだ、救えない。
琴乃は叫んだ。
「私だけが、声を奪われたままなのに!」
その叫びとともに、清めの間に封じられていた黒い靄が一気に膨れ上がった。
朔夜が鈴音を背に庇う。
「まずい。呪いの核が割れた」
鈴音は喉を押さえる。
確かに、鈴音の呪いは大きく砕けた。
声の道が、以前よりはっきり開いている。
けれど、その代わりに、琴乃を縛っていた怨みの一部も解き放たれてしまった。
琴乃の影が黒く染まっていく。
白無垢の裾が闇に溶け、赤い唇が笑う。
「なら、全部聞かせてあげる」
琴乃の声が、清めの間を満たす。
「この村が、どれだけの声を奪ってきたのか」
黒い靄が渦を巻き、社の外へ流れ出していく。
千景が叫ぶ。
「朔夜さま、村の方へ!」
朔夜の顔が険しくなる。
鈴音も感じた。
解放された怨みが、村へ向かっている。
常盤家へ。
綾乃のもとへ。
そして、村中の嘘へ。
琴乃の影は消える寸前、鈴音を見た。
「あなたが本当に声を取り戻したいなら、私の声も聞きなさい」
そう言い残し、影は黒い靄の中へ溶けた。
清めの間に、静けさが戻る。
鈴音はその場に崩れ落ちた。
朔夜が抱きとめる。
「鈴音」
鈴音は息を整えながら、自分の喉に手を当てた。
痛い。
けれど、空気が通る。
前よりもずっと。
鈴音は震える唇で、声を出した。
「……朔夜、さま」
朔夜の目が見開かれる。
鈴音は続けた。
「私……言えました」
掠れている。
弱い。
けれど、確かに声だった。
朔夜は、ほんの一瞬、泣きそうな顔をしたように見えた。
だがすぐに表情を引き締める。
「ああ。聞こえた」
鈴音は小さく頷いた。
声は戻り始めた。
でも、終わりではない。
むしろ、ここからが始まりだった。
琴乃の怨みが解き放たれた。
村の嘘が、きっと次々と浮かび上がる。
綾乃も、常盤家も、もう逃げられない。
そして鈴音も、もう逃げない。
奪われたものを取り戻す。
誰かを同じように奪うためではなく。
自分の声で、自分の真実を語るために。
社の外で、黒い風が鳴った。
遠く、村の方角から悲鳴のような嘘の音が届く。
ちりん。
母の鈴が震える。
鈴音は朔夜の腕の中で顔を上げた。
「行かなくては……」
声はまだ弱い。
けれど、その言葉には確かな意思があった。
朔夜は鈴音を見つめ、静かに頷いた。
「まずは休め。だが、そうだな」
彼は村の方角へ目を向ける。
「次は、鬼神が暴れる番かもしれぬ」
その声に、鈴音の胸が冷えた。
村へ向かった怨み。
それを喰らえば、朔夜はどうなるのか。
嘘を喰いすぎれば、鬼へ堕ちる。
その言葉を思い出した瞬間、鈴音は朔夜の袖を掴んだ。
「だめ……」
朔夜が振り返る。
鈴音は、かすれた声でもう一度言った。
「朔夜さまが、全部……背負わないで」
朔夜の金の瞳が揺れる。
鈴音は息を震わせながら、言葉を続けた。
「私も……行きます」
朔夜はしばらく黙っていた。
やがて、鈴音の手をそっと包む。
「ならば、共に行く」
清めの間の鈴が、静かに鳴った。
ちりん。
それは、奪われた夜の終わりを告げる音であり、これから始まる嵐を告げる音でもあった。



