花嫁の声を食べる鬼神さま

 声を奪われた夜。

 その言葉を書いた朝から、鈴音の喉はずっと熱を持っていた。

 痛みとは少し違う。

 奥の方に、まだ触れてはいけない傷がある。その傷口へ、記憶の指が近づいているような感覚だった。

 鈴音は、母の鈴を両手で包んだ。

 ちりん。

 小さな音が、部屋の中に響く。

 その音を聞くたびに、母の顔が浮かぶ。

 優しく笑う母。
 鈴音の声を「春の鈴みたい」と言ってくれた母。
 そして、あの夜、畳の上に倒れていた母。

 胸が詰まる。

 けれど、もう目をそらすことはできなかった。

 鈴音の声は、自然に失われたのではない。

 誰かに奪われた。

 それはもうわかっている。

 だが、誰が、どのように、何を思って奪ったのか。

 その真ん中に、まだ鈴音は触れていない。

 襖の向こうで、朔夜の声がした。

「入るぞ」

 鈴音は頷いた。

 朔夜は部屋に入ると、すぐに鈴音の顔色を見た。

「熱はないな」

 鈴音は紙に書く。

『喉が熱いだけです』

「記憶が近いのだろう」

 朔夜は鈴音の前に座った。

「今日は無理に声を出さなくていい。見ること、知ることに力を使え」

 鈴音は母の鈴を見つめる。

『見たら、戻れなくなる気がします』

 朔夜は静かに答えた。

「もう戻る必要はない」

 鈴音は顔を上げた。

「お前は、何も知らなかった頃には戻れない。だが、それは悪いことではない」

 朔夜の金の瞳は、まっすぐだった。

「知らなかったから奪われた。知れば、奪い返す道を選べる」

 奪い返す。

 鈴音はその言葉を胸の中で繰り返した。

 復讐ではなく。

 誰かを同じように苦しめるためでもなく。

 自分の声を、自分のものとして取り戻すために。

 千景が盆を持って入ってきた。

 薬草茶と、喉にやさしい蜜漬けの実。いつもより濃い香りがする。

「今日のは特別苦いです」

 千景は真面目な顔で言った。

 鈴音は少しだけ目を丸くする。

「苦いですけど、効きます。だから全部飲んでください」

 紙に書く。

『苦いのですね』

「はい。すごく」

 鈴音は思わず小さく笑った。

 千景は少しだけほっとしたように耳を揺らす。

「笑えるなら、まだ大丈夫です」

 そう言って、盆を置いた。

 鈴音は薬草茶を飲んだ。

 本当に苦かった。

 思わず眉を寄せると、千景が小さく勝ち誇ったような顔をした。

「ほら、言ったでしょう」

 そのやり取りのあと、鈴音の体の強張りは少し緩んだ。

 朔夜は立ち上がる。

「清めの間へ行く」

 鈴音は母の鈴を胸に抱いて、頷いた。

 清めの間には、昨日持ち帰った帳面と母の鈴が置かれていた。

 壁には、これまでの花嫁たちの鈴が静かに掛けられている。琴乃の黒ずんだ鈴も、その奥で沈黙していた。

 鈴音が入ると、いくつかの鈴がかすかに震えた。

 ちりん。

 ちりん。

 まるで、これから見る記憶を知っているかのようだった。

 朔夜は床に白い布を敷いた。

 その上に母の鈴を置く。

「鈴に残された声を開く。だが、ただ見るだけではない。お前の記憶も反応するはずだ」

 鈴音は喉に手を当てた。

「苦しければ、俺の袖を掴め。千景もそばにいる」

 千景が大きく頷く。

「倒れそうになったら支えます。変な糸が出たら焼きます」

 朔夜が静かに言う。

「燃やす前に俺へ渡せ」

「わかってます」

 鈴音は二人を見て、胸が温かくなった。

 ひとりではない。

 あの夜、幼い鈴音はひとりだった。

 誰にも助けを求められず、声を奪われた。

 けれど今は、違う。

 鈴音は白い布の前に座った。

 母の鈴へ手を伸ばす。

 指先が触れた瞬間、冷たいものが全身を駆け抜けた。

 鈴が鳴る。

 ちりん。

 景色が変わった。

 雨の音がする。

 幼い鈴音は、常盤家の廊下に立っていた。

 小さな手には布人形を握っている。母に見せようと思っていた人形だった。上手に縫えなかったが、母ならきっと笑って褒めてくれると思っていた。

 廊下の先、母の部屋の襖が少し開いている。

 中から、大人たちの声がした。

「澄乃、もう一度だけ言う。鈴を渡せ」

 父の声だった。

 今より若い。

 だが、その声にある冷たさは変わらない。

 母の声が答える。

「お渡しできません」

「それが常盤家を滅ぼすことになるとしてもか」

「嘘で守る家なら、滅びるべきです」

 幼い鈴音は、襖の隙間から中を覗いた。

 母は座敷の中央に座っていた。顔色は悪く、唇も白い。それでも背筋はまっすぐだった。

 父はその前に立ち、拳を握っている。

 八重は少し離れた場所に座り、扇で口元を隠していた。

 その横に、綾乃がいた。

 幼い綾乃。

 美しい着物を着て、きちんと正座をしている。けれど、その膝の上の手は強く握られていた。

「鈴音の声は、いずれ常盤家の嘘を暴きます」

 母が言った。

「あの子はまだ幼い。けれど、あの声は真実に反応する。これ以上、あの子をこの家の道具にしないでください」

 八重が静かに笑った。

「道具にする? それはあなたでしょう。鈴音の声を特別なものだと言って、自分の正しさの証にしている」

「違います」

「違わないわ。あなたは先妻で、私は後妻。あなたの娘は特別な声を持ち、私の娘はただ美しく振る舞うことだけを求められる。どちらが利用されていると思うの?」

 母は八重を見た。

「綾乃さんを縛っているのは、私でも鈴音でもありません。あなたです」

 八重の顔から笑みが消えた。

 綾乃の肩が小さく震える。

「お母さま……」

 綾乃が小さく呼んだ。

 八重は振り返らない。

「綾乃、よく見ておきなさい」

 その声は、優しいようで冷たい。

「常盤家を乱す者がどうなるかを」

 幼い鈴音の胸がざわめいた。

 怖い。

 母の部屋へ入らなければ。

 でも足が動かない。

 父が低く言う。

「澄乃。鈴はどこだ」

 母は胸元に手を当てた。

「鈴音へ残します」

「ならば、鈴音も同罪だ」

 その言葉に、母の瞳が初めて揺れた。

「宗一郎さま」

「お前が鈴音を巻き込んだ」

「違います。私はあの子を守ろうと――」

「黙れ!」

 父の手が母を打った。

 乾いた音が、雨音の中に響く。

 幼い鈴音は、布人形を握りしめた。

 声を出したかった。

 お母さま。

 でも、喉が震えるだけで、まだ叫べなかった。

 母は倒れかけた体を支え、父を見上げる。

「あなた方は、鈴音の声を封じるつもりですね」

 八重の扇がわずかに揺れた。

「災いを防ぐためです」

「災いではありません」

 母の声は、弱っているのに強かった。

「あの子の声は、誰かを裁くためのものではない。嘘で苦しむ人を救うためのものです」

 その言葉を聞いた瞬間、幼い綾乃の顔が歪んだ。

 鈴音はその顔を見た。

 悲しみ。

 悔しさ。

 そして、幼い嫉妬。

 綾乃がぽつりと言った。

「鈴音ばかり」

 声は小さかった。

 けれど座敷の中の全員に届いた。

 母が綾乃を見る。

 綾乃は涙を浮かべていた。

「鈴音ばかり、特別なのね」

 八重が、初めて綾乃を見た。

「綾乃」

「私は、いつもちゃんとしているのに。お母さまの言う通りにしているのに。鈴音は声があるだけで、澄乃さまにも、みんなにも見てもらえるのね」

 母が痛ましそうに言う。

「綾乃さん、それは違います」

「違わない!」

 幼い綾乃が叫んだ。

 それは、鈴音が知っている完璧な姉の声ではなかった。

 泣きじゃくる子どもの声だった。

「鈴音の声なんて、なければいいのに」

 その瞬間、部屋の隅に黒い影が揺れた。

 鈴音の背筋が凍る。

 白無垢の影。

 顔のない女。

 琴乃。

 けれど、その姿はまだ薄く、煙のようだった。

 影は幼い綾乃の背後に寄り添い、耳元で囁いた。

 ――そうよ。

 鈴音の耳にも、その声が聞こえた。

 ――あの子の声さえなければ、あなたが一番になれる。

 綾乃の瞳がぼんやりと濁る。

 八重は、その影に気づいていたのだろうか。

 気づいていなかったのだろうか。

 ただ、八重はゆっくりと懐から黒い紐を取り出した。

 小さな鈴の形をした呪具が結ばれている。

 鈴音の喉が痛んだ。

 あれだ。

 あれが、自分の声を奪ったものだ。

 母が立ち上がろうとした。

「やめなさい」

 だが、体がふらついた。

 先ほど飲まされた茶のせいだ。

 鈴音はそれを記憶の中で悟った。

 母はもう、毒に侵されていた。

 八重が言う。

「殺すわけではありません。声を封じるだけです。あの子のためにも、その方がいい」

 母は首を横に振る。

「鈴音のためではない。あなた方のためでしょう」

 父は母から目をそらした。

 その沈黙が、すべてだった。

 母は父を見つめ、静かに言った。

「宗一郎さま。あなたは、鈴音の父親です」

 父は答えない。

 母の瞳に絶望が浮かんだ。

 そのとき、幼い鈴音は襖を開けた。

 布人形を落とし、母のもとへ駆け寄る。

 母の体を抱きしめる。

「鈴音……」

 母の手が、鈴音の頬に触れた。

 冷たい。

 信じられないほど冷たい。

「逃げて」

 母はそう言った。

 鈴音は首を横に振る。

 逃げない。

 お母さまを置いていかない。

 言いたいのに、涙で息が詰まる。

 父が低く言う。

「鈴音を離せ」

 母は鈴音を抱きしめた。

「この子だけは……」

 八重が立ち上がる。

 綾乃は泣いていた。

 けれど、その手には黒い紐が握られていた。

 鈴音は綾乃を見る。

 綾乃も鈴音を見る。

 その目には、涙と嫉妬と、恐れが混ざっていた。

「綾乃さま……?」

 幼い鈴音は、そう呼ぼうとした。

 けれど、声になる前に八重の指が喉へ触れた。

「その声は、災いを呼ぶのよ」

 黒い紐が、鈴音の喉へ巻きつく。

 綾乃が震える手で、その紐の鈴を鳴らした。

 ちりん。

 その音は、母の鈴とは違った。

 濁っている。

 濡れた土の中で鳴るような音だった。

 鈴音の喉が焼ける。

 叫びたかった。

 お母さまが殺される。

 お母さまは病ではない。

 父も、八重も、綾乃も、見ている。

 言わなければ。

 誰かに。

 誰かに本当のことを。

 鈴音は口を開いた。

 その瞬間、琴乃の影が幼い綾乃の背後から伸び、鈴音の口元を覆った。

 ――黙って。

 琴乃の声がした。

 ――あなたの声がある限り、誰かがまた傷つく。

 鈴音の喉の奥に、黒い糸が流れ込む。

 息ができない。

 母が叫ぶ。

「鈴音!」

 それが、鈴音が聞いた最後の母の声だった。

 母は必死に手を伸ばし、小さな銀の鈴を鈴音の手に握らせた。

「あなたの声は……消えない……」

 次の瞬間、母の手が力を失った。

 鈴音は泣き叫ぼうとした。

 でも、声は出なかった。

 自分の中から、声が抜き取られていく感覚。

 春の鈴みたいだと言われた声。

 母の名を呼ぶ声。

 助けを求める声。

 真実を告げる声。

 そのすべてが、黒い糸に巻き取られ、喉の奥へ封じ込められた。

 幼い綾乃が泣き崩れる。

「私、こんなつもりじゃ……」

 八重が綾乃を抱き寄せる。

「あなたは何も悪くないわ。綾乃。常盤家を守ったのよ」

 父は、倒れた母を見ていた。

 だが、鈴音の方を見なかった。

 鈴音はその場で、声のないまま泣いた。

 手には、母の鈴が残っている。

 けれどそれすら、すぐに八重に奪われた。

「この鈴も封じておきましょう」

 八重の声が遠くなる。

 視界が黒く染まる。

 最後に見えたのは、綾乃の目だった。

 その目は、鈴音を見ていた。

 怯えながら。

 泣きながら。

 それでも、どこかで安堵していた。

 もう、鈴音は喋れない。

 その安堵を、鈴音は見てしまった。

 記憶が途切れた。

 鈴音は清めの間で目を覚ました。

 喉が焼けるように痛む。

 息ができない。

 体が震える。

 目の前が涙で滲んでいる。

 朔夜が鈴音を支えていた。

「鈴音!」

 千景の声も聞こえる。

 鈴音は喉を押さえた。

 黒い糸が暴れている。

 長い間、記憶の奥に封じられていた夜が開いたことで、呪いが反応しているのだ。

 朔夜の手が喉に触れる。

 冷たい力が流れ込む。

 けれど、今度の糸は簡単にはほどけなかった。

 鈴音の目の前に、幼い綾乃の顔が浮かぶ。

 泣いていた。

 震えていた。

 それでも、鈴音の声が奪われることを止めなかった。

 八重の声が蘇る。

 あなたは何も悪くない。

 常盤家を守ったのよ。

 父の背中。

 見て見ぬふりをした背中。

 琴乃の囁き。

 黙って。

 鈴音は、声にならない叫びを上げた。

 怒りだった。

 悲しみだった。

 母を奪われた痛み。

 声を奪われた痛み。

 何も知らないまま、災いの娘として生かされてきた十七年。

 すべてが胸の中で渦を巻く。

 朔夜が低く言う。

「鈴音、俺を見る」

 鈴音は涙で滲む視界を上げた。

 朔夜の金の瞳がある。

 揺るがない光。

「今のお前は、あの夜の子どもではない」

 鈴音は息を震わせる。

「声を奪われた夜を見た。だが、今ここにいるお前は、もう一人ではない」

 鈴音は朔夜の袖を掴んだ。

 必死に。

 あの夜、掴めなかったものを掴むように。

 朔夜はその手を包んだ。

 千景が震える声で言う。

「鈴音さん、大丈夫です。ここにいます。僕も、朔夜さまも」

 ここにいる。

 ひとりではない。

 鈴音は呼吸を探した。

 吸う。

 吐く。

 喉が痛い。

 でも、息は通る。

 守り紐の鈴が鳴る。

 ちりん。

 母の鈴も、応えるように鳴った。

 ちりん。

 二つの鈴の音が重なった瞬間、鈴音の喉に絡みついていた黒い糸の一部が、ぱきりと割れた。

 朔夜がその隙を逃さず、糸を掴む。

 しかし鈴音は、思わず首を横に振った。

 朔夜が動きを止める。

「どうした」

 鈴音は紙を探した。

 手が震え、筆がうまく持てない。

 それでも書いた。

『私が、言いたいです』

 朔夜は目を見開いた。

 鈴音は続ける。

『奪われた夜を、誰かに奪い返してもらうのではなく、私が言葉にしたいです』

 千景が息を呑む。

 朔夜はしばらく鈴音を見つめた。

 それから、喉に添えた手を少しだけ引く。

「無理はするな。だが、お前が言うなら支える」

 支える。

 その言葉に、鈴音は頷いた。

 鈴音は母の鈴を握りしめた。

 息を吸う。

 声は怖い。

 出そうとするたび、奪われた痛みが蘇る。

 でも、今度は自分で選ぶ。

 言うことを。

 鈴音は、かすれた声を絞り出した。

「……あの夜」

 声が震える。

 喉が焼ける。

 それでも、続ける。

「母さまは……病では、なく……」

 涙が落ちる。

「殺されました」

 清めの間の鈴が、一斉に震えた。

 ちりん。

 ちりん。

 鈴音は息を吸う。

「私の声は……災いでは、ありません」

 喉の奥の黒い糸が暴れる。

 朔夜の手が、背に添えられる。

「ゆっくりでいい」

 鈴音は頷く。

「奪われた、ものです」

 その言葉を口にした瞬間、喉の奥で何かが砕けた。

 鋭い痛み。

 同時に、長く詰まっていたものが少し抜ける。

 鈴音は咳き込み、朔夜に支えられた。

 黒い糸が喉元から引き出される。

 これまでより太く、絡まり合った糸。

 その中に、幼い綾乃の涙、八重の命令、父の沈黙、琴乃の囁きが混ざっているようだった。

 朔夜はそれを喰おうとした。

 だが、糸の中から白無垢の影が浮かび上がる。

 琴乃だった。

 顔のない影が、清めの間に立つ。

 けれどその輪郭は、前よりずっと濃い。

 鈴音の記憶が開いたことで、琴乃を縛っていた古い呪いもまた刺激されたのだ。

 琴乃が笑う。

「思い出したのね」

 鈴音は朔夜に支えられながら、琴乃を見る。

「ねえ、鈴音。どう? 声を奪われた痛みは。見ていた者たちへの憎しみは。私の気持ちが、少しはわかったでしょう?」

 鈴音は答えられない。

 喉が痛い。

 けれど、心の中では答えが生まれていた。

 わかった。

 黙らされる痛みは、わかる。

 声が届かない絶望も、わかる。

 でも。

 琴乃は囁く。

「憎みなさい。綾乃を。八重を。父を。村を。全部壊してしまえばいい」

 鈴音の胸に、黒い怒りが湧く。

 確かに憎い。

 許せない。

 あの夜、母を助けなかった父。
 鈴音の声を封じた八重。
 泣きながらも呪具を鳴らした綾乃。
 ずっと鈴音を災いにしてきた村。

 全部が憎い。

 でも、その怒りに呑まれたら、琴乃と同じ場所へ落ちる気がした。

 鈴音は紙を取る。

 声は限界だった。

 震える文字で書く。

『私は、奪われたものを取り戻します』

 琴乃が黙る。

 鈴音は続けた。

『誰かを同じように奪うためではありません』

 朔夜の瞳が、静かに揺れた。

 千景が息を止めている。

 琴乃の赤い唇が歪む。

「綺麗事ね」

 鈴音は首を横に振る。

 綺麗事かもしれない。

 でも、自分で選んだ言葉だった。

 鈴音はさらに書いた。

『綾乃さまを許しません。八重さまも、父も、許しません』

 琴乃の影がわずかに揺れる。

『でも、私は私の声を、憎しみだけのために使いたくありません』

 その瞬間、母の鈴が強く鳴った。

 ちりん。

 清めの間の鈴たちも応える。

 ちりん。

 ちりん。

 鈴音の喉に絡みついていた黒い糸が、音を立てて砕け始めた。

 朔夜が鈴音を支える。

 千景が狐火で飛び散る黒い欠片を焼いた。

 琴乃の影が苦しげに揺らぐ。

「やめて」

 初めて、琴乃の声に焦りが滲んだ。

「その声で、私を置いていかないで」

 鈴音は琴乃を見る。

 その声は、怨霊のものではなかった。

 あの白い霧の中で聞いた、百年前の少女の声だった。

 鈴音の胸が痛む。

 でも、近づくにはまだ危険すぎる。

 琴乃の影は、綾乃の嫉妬と、百年分の恨みを抱えている。

 今はまだ、救えない。

 琴乃は叫んだ。

「私だけが、声を奪われたままなのに!」

 その叫びとともに、清めの間に封じられていた黒い靄が一気に膨れ上がった。

 朔夜が鈴音を背に庇う。

「まずい。呪いの核が割れた」

 鈴音は喉を押さえる。

 確かに、鈴音の呪いは大きく砕けた。

 声の道が、以前よりはっきり開いている。

 けれど、その代わりに、琴乃を縛っていた怨みの一部も解き放たれてしまった。

 琴乃の影が黒く染まっていく。

 白無垢の裾が闇に溶け、赤い唇が笑う。

「なら、全部聞かせてあげる」

 琴乃の声が、清めの間を満たす。

「この村が、どれだけの声を奪ってきたのか」

 黒い靄が渦を巻き、社の外へ流れ出していく。

 千景が叫ぶ。

「朔夜さま、村の方へ!」

 朔夜の顔が険しくなる。

 鈴音も感じた。

 解放された怨みが、村へ向かっている。

 常盤家へ。

 綾乃のもとへ。

 そして、村中の嘘へ。

 琴乃の影は消える寸前、鈴音を見た。

「あなたが本当に声を取り戻したいなら、私の声も聞きなさい」

 そう言い残し、影は黒い靄の中へ溶けた。

 清めの間に、静けさが戻る。

 鈴音はその場に崩れ落ちた。

 朔夜が抱きとめる。

「鈴音」

 鈴音は息を整えながら、自分の喉に手を当てた。

 痛い。

 けれど、空気が通る。

 前よりもずっと。

 鈴音は震える唇で、声を出した。

「……朔夜、さま」

 朔夜の目が見開かれる。

 鈴音は続けた。

「私……言えました」

 掠れている。

 弱い。

 けれど、確かに声だった。

 朔夜は、ほんの一瞬、泣きそうな顔をしたように見えた。

 だがすぐに表情を引き締める。

「ああ。聞こえた」

 鈴音は小さく頷いた。

 声は戻り始めた。

 でも、終わりではない。

 むしろ、ここからが始まりだった。

 琴乃の怨みが解き放たれた。

 村の嘘が、きっと次々と浮かび上がる。

 綾乃も、常盤家も、もう逃げられない。

 そして鈴音も、もう逃げない。

 奪われたものを取り戻す。

 誰かを同じように奪うためではなく。

 自分の声で、自分の真実を語るために。

 社の外で、黒い風が鳴った。

 遠く、村の方角から悲鳴のような嘘の音が届く。

 ちりん。

 母の鈴が震える。

 鈴音は朔夜の腕の中で顔を上げた。

「行かなくては……」

 声はまだ弱い。

 けれど、その言葉には確かな意思があった。

 朔夜は鈴音を見つめ、静かに頷いた。

「まずは休め。だが、そうだな」

 彼は村の方角へ目を向ける。

「次は、鬼神が暴れる番かもしれぬ」

 その声に、鈴音の胸が冷えた。

 村へ向かった怨み。

 それを喰らえば、朔夜はどうなるのか。

 嘘を喰いすぎれば、鬼へ堕ちる。

 その言葉を思い出した瞬間、鈴音は朔夜の袖を掴んだ。

「だめ……」

 朔夜が振り返る。

 鈴音は、かすれた声でもう一度言った。

「朔夜さまが、全部……背負わないで」

 朔夜の金の瞳が揺れる。

 鈴音は息を震わせながら、言葉を続けた。

「私も……行きます」

 朔夜はしばらく黙っていた。

 やがて、鈴音の手をそっと包む。

「ならば、共に行く」

 清めの間の鈴が、静かに鳴った。

 ちりん。

 それは、奪われた夜の終わりを告げる音であり、これから始まる嵐を告げる音でもあった。