鈴音は、声を持たない娘だった。
生まれつきではない。
昔は歌えた。笑えた。泣けば母が抱きしめてくれて、「鈴音の声は、春の鈴みたいね」と微笑んでくれた。
けれど、その記憶はもう遠い。
今の鈴音の喉から出るのは、息だけだ。
言葉にならない、かすれた吐息。
どれだけ必死に口を動かしても、誰かの名を呼ぼうとしても、助けてと言おうとしても、喉の奥が焼けつくように痛むだけで、声は形にならない。
だから鈴音は、常盤家の屋敷でいつも黙っていた。
黙っていれば、怒られずに済む。
黙っていれば、余計なことを言わずに済む。
黙っていれば、自分がここにいることを、少しだけ薄くできる。
朝、まだ空が白む前に、鈴音は井戸の前に立っていた。
手桶を落とし、水を汲み上げる。冷たい水が指先にかかり、思わず肩が震えた。
五月とはいえ、夜明け前の水は骨にしみる。
桶を二つ抱えて台所へ戻る途中、縁側から女中たちの声が聞こえた。
「また鈴音さまにやらせてるの?」
「さま、なんてつけなくてもいいでしょう。声も出ないんだから、言いつけやすくて助かるわ」
「でも一応、旦那さまの娘でしょう?」
「先妻の子よ。今の奥さまからしたら、目障りでしかないわ」
聞こえないふりをして、鈴音は足を進めた。
桶の水が揺れて、着物の裾を濡らす。
冷たさよりも、女中たちの笑い声の方が胸に刺さった。
台所に水を運び終えると、今度は庭の掃き掃除を命じられた。朝餉の支度、廊下の雑巾がけ、綾乃の部屋へ運ぶ湯の準備。鈴音が一つ仕事を終えるたびに、次の用事が増えていく。
常盤家は、村で一番古い家だった。
かつては山を守る巫女の血筋として尊ばれ、今も名家として村人たちから一目置かれている。屋敷は広く、門は立派で、祭礼のたびに多くの者が頭を下げにくる。
けれど、その家の娘であるはずの鈴音に、誰も頭など下げない。
鈴音は、常盤家の中でいないものとして扱われていた。
ただ、都合のいい手だけは求められる。
水を運ぶ手。床を拭く手。綾乃の髪を梳く手。黙って叱責を受けるための、うつむいた顔。
奥座敷へ呼ばれたのは、昼前のことだった。
鈴音が廊下に膝をつくと、襖の向こうから継母の八重の声がした。
「入りなさい」
鈴音は静かに襖を開け、畳に手をついて頭を下げた。
部屋には、父の宗一郎と、継母の八重、そして異母姉の綾乃がいた。
宗一郎は床の間を背にして座り、難しい顔をしている。八重はその隣で、扇を手に上品に微笑んでいた。綾乃は薄桃色の着物をまとい、艶やかな黒髪を肩に流している。
鈴音と二つしか違わないのに、綾乃はまるで春の花のように美しかった。
誰もがそう言う。
常盤家の誇り。村一番の姫君。神に愛された娘。
その隣に鈴音が並ぶと、よけいに自分が影のように思える。
「鈴音」
父が低く名を呼んだ。
鈴音は顔を上げる。
「近頃、村でよくないことが続いているのは知っているな」
鈴音は小さく頷いた。
田に虫が湧いたこと。山仕事に出た男が怪我をしたこと。流行り病で子どもが何人か伏せっていること。井戸の水が濁った日があったこと。
村人たちは、それを災いと呼んだ。
そして災いが起きるたび、誰かが鈴音を見る。
声を失った娘。
母を亡くした夜から、言葉を持たなくなった娘。
不吉な子。
「山の社におわす鬼神さまの怒りを鎮めねばならぬ」
宗一郎の言葉に、鈴音の胸が嫌な音を立てた。
山の社。
鬼神。
その名を聞くだけで、村の子どもは泣き出す。
山奥に祀られている鬼神は、人を喰うという。特に、若い花嫁を好むという。昔から村では、飢饉や疫病が続くと、鬼神へ花嫁を捧げたのだと聞かされてきた。
鈴音は唇を震わせた。
違う。
そう言いたかった。
嫌です、と言いたかった。
けれど、喉の奥がひゅっと鳴るだけだった。
八重が、いかにも悲しそうに目を伏せる。
「本当は、こんなことを言いたくはないのよ。あなたも常盤の娘ですもの。けれど、村を守るためには、誰かが鬼神さまの花嫁にならなければならないの」
鈴音は八重を見た。
八重の瞳は濡れていない。
その声には、悲しみではなく、どこか晴れやかな響きがあった。
「綾乃を差し出すわけにはいかない。あの子はこれから、都の御家との縁談もある大切な身ですもの」
綾乃が小さく目を伏せた。
「お母さま、そんな言い方……鈴音がかわいそうです」
優しい声だった。
誰が聞いても、妹を思う姉の声に聞こえただろう。
けれど鈴音は知っている。
綾乃は、人前でだけ優しい。
八重が扇で口元を隠す。
「そうね。ごめんなさい、鈴音。でもあなたなら、鬼神さまもお受け取りくださるわ。声の出ない花嫁なら、騒ぐこともないでしょうから」
鈴音は畳の上で指を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
痛みがあるのに、声は出ない。
宗一郎が言った。
「これは常盤家当主としての決定だ。今夜、支度をして山の社へ向かいなさい」
今夜。
あまりにも早かった。
鈴音は父を見た。
父の顔には、迷いがなかった。
昔、この人は自分を抱き上げてくれたことがあっただろうか。
声を失ってからは、一度もない。
鈴音が何かを訴えようとするたび、父は目をそらした。面倒なものを見るように、あるいは、見てはいけないものを見るように。
鈴音は畳に両手をついた。
頭を下げるしかなかった。
言葉がない娘に、拒む術はない。
部屋を下がるとき、綾乃がついてきた。
廊下の角を曲がり、人目がなくなったところで、綾乃は鈴音の袖をつかんだ。
「ねえ、鈴音」
鈴音は足を止めた。
綾乃は泣きそうな顔をしていた。
それが偽りだとわかっていても、その美しさに息が詰まる。
「かわいそうな子」
綾乃は鈴音の耳元へ唇を寄せた。
声は甘い。けれど言葉は刃だった。
「でも、よかったわね。声の出ないあなたでも、鬼の餌にはなれるのだから」
鈴音の喉が痛んだ。
違う。私は餌じゃない。
そう言いたい。
だが声は出ない。
綾乃は鈴音の反応を楽しむように、さらに囁いた。
「鬼神さまに喰べられる前に、何か言い残したいことはある? ああ、ごめんなさい。あなたには無理だったわね」
くす、と笑う声。
鈴音は綾乃の手を振りほどくこともできず、ただうつむいた。
悔しさで目の奥が熱い。
でも、泣けばまた笑われる。
鈴音は泣かなかった。
泣かない代わりに、自分の胸の中で何度も同じ言葉を繰り返した。
私は、餌じゃない。
私は、災いじゃない。
私は――。
その先の言葉だけが、いつも霧のように消えてしまう。
夜になる前に、鈴音は白無垢を着せられた。
白い衣は、花嫁のためのものだという。
けれど鈴音には、死に装束にしか思えなかった。
女中たちが髪を結い、紅を差し、白粉を塗る。鏡の中に映る自分は、知らない娘のようだった。
白く塗られた顔。
紅い唇。
声の出ない喉。
女中の一人がぽつりと言った。
「綺麗ねえ。黙っていれば、本当にお姫さまみたい」
別の女中が笑う。
「黙っているしかないんでしょう」
鈴音は鏡を見つめたまま、指を膝の上で握りしめた。
母が生きていたら、どうしていただろう。
白無垢姿の自分を見て、泣いただろうか。
それとも怒っただろうか。
鈴音は、母の声を思い出そうとした。
けれど、思い出せるのはいつも同じ言葉だけだ。
――鈴音、逃げて。
胸がざわめく。
母は本当に、そんなことを言ったのだろうか。
母が死んだ夜、何があったのだろう。
考えようとすると、喉が焼ける。目の奥が白く霞む。記憶の扉の前に、黒い幕が下りる。
鈴音は目を閉じた。
それ以上、思い出してはいけない気がした。
日が完全に落ちると、鈴音は屋敷の門前へ連れていかれた。
村の長老と神職が待っていた。提灯の灯りが夜風に揺れている。
父と八重、綾乃も見送りに出てきていた。
外から見れば、家族が涙をこらえて娘を送り出す光景に見えただろう。
八重は鈴音の手を取り、わざとらしく目元を押さえた。
「どうか、常盤家の娘として立派にお役目を果たしてね」
その手は、少しも震えていなかった。
父は鈴音を見ずに言った。
「村のためだ。わかってくれ」
綾乃は最後に鈴音へ近づき、白無垢の襟元を整えるふりをした。
「怖がらなくていいのよ。喰べられるのは、きっと一瞬だから」
鈴音は顔を上げた。
綾乃の瞳は笑っていた。
その瞬間、胸の奥に小さな火が灯った。
怖い。
死にたくない。
けれど、それ以上に、悔しかった。
自分の人生が、こんなふうに終わることが。
誰にも本当のことを言えないまま、災いの娘として鬼に差し出されることが。
鈴音は唇を開いた。
違う。
私は、違う。
声にならない言葉が、喉の奥で焼けて消えた。
山道は暗かった。
神職の男が先導し、鈴音は白無垢の裾を引きずるようにして歩いた。背後には村の男たちが数人ついてくる。
誰も鈴音に話しかけない。
提灯の灯りだけが、足元の石を照らしている。
木々は夜の闇に沈み、風が枝を鳴らすたびに、誰かが笑っているように聞こえた。
山の奥へ進むほど、空気が冷えていく。
鈴音の足は痛み、息は上がった。白無垢は重く、帯は苦しい。
途中で一度つまずいたが、誰も手を貸さなかった。
「遅れるな」
神職が振り返りもせずに言う。
鈴音は唇を噛んで立ち上がった。
やがて、古い石段が現れた。
苔むした石段の先に、闇に沈む鳥居が見える。
山の社だった。
村人たちは、その手前で足を止めた。
神職が鈴音に向き直る。
「ここから先は、花嫁ひとりで進む決まりだ」
鈴音は鳥居を見上げた。
黒い。
夜よりも深い黒が、そこに口を開けているようだった。
神職は小さな包みを鈴音に渡した。
「供物だ。社の前に置き、夜明けまで振り返らずに座して待て。鬼神さまがお出ましになれば、お前は花嫁として迎えられる」
迎えられる。
その言葉が、どうしても「喰われる」に聞こえた。
鈴音は包みを受け取る。
男たちは早く帰りたいのか、鈴音を急かすような目を向けた。
鈴音は一度だけ山道を振り返った。
常盤家の屋敷は見えない。
誰も、追ってこない。
わかっていた。
それでも胸のどこかで、父がやはりやめようと言ってくれるのではないかと、愚かな期待をしていた。
そんなものは、なかった。
鈴音は鳥居をくぐった。
瞬間、空気が変わった。
冷たいのに、澄んでいる。
耳が痛くなるほど静かで、けれど何かがこちらを見ている気配がした。
石段を上るたび、提灯の灯りが遠ざかる。
やがて鈴音の前に、小さな社が現れた。
古いが、荒れてはいない。誰かが手入れしているのか、境内には落ち葉が少なく、注連縄も新しかった。
鈴音は社の前に膝をつき、供物を置いた。
白無垢の袖が地面に触れ、土で汚れる。
夜風が吹いた。
寒い。
鈴音は両手を膝の上で握った。
これから何が起きるのだろう。
鬼神は本当に現れるのだろうか。
現れたら、自分はどうなるのだろう。
喰われるなら、痛いのだろうか。
鈴音は唇を震わせた。
助けて。
その言葉が胸に浮かんだ瞬間、涙が一粒こぼれた。
誰に助けを求めているのか、自分でもわからなかった。
母はもういない。
父は自分を差し出した。
この村に、鈴音を助けに来る人はいない。
ならば、せめて最後に一度だけ声が出ればいいのに。
私はここにいる。
私は生きたい。
私は、災いなんかじゃない。
そう言えたなら。
そのときだった。
社の奥から、鈴の音がした。
ちりん。
鈴音は顔を上げた。
風は止んでいる。
もう一度、鈴が鳴った。
ちりん。
闇の中から、誰かが歩いてくる。
まず見えたのは、黒い衣の裾だった。
次に、長い黒髪。
月明かりを受けて、金色に光る瞳。
その男は、音もなく鈴音の前に立った。
人ではない。
そう思った。
美しいのに、恐ろしい。
恐ろしいのに、目をそらせない。
夜そのものが形を持ったような男だった。
鈴音は息を呑み、体をこわばらせた。
これが、鬼神。
村人たちが恐れた、人を喰う神。
男は鈴音を見下ろした。
その視線は冷たいようでいて、不思議と乱暴ではなかった。
「お前が、今宵の花嫁か」
低い声が、境内に落ちる。
鈴音は答えられない。
口を開いても、声は出なかった。
男はわずかに眉を寄せる。
「声が出ぬのか」
鈴音は小さく頷いた。
次に何をされるのかと身を縮める。
だが男は、鈴音を嘲笑わなかった。
かわいそうとも言わなかった。
声が出ないことを責めもしなかった。
ただ、ゆっくりと膝を折り、鈴音と同じ高さに視線を下ろした。
「名は」
鈴音は戸惑った。
筆も紙もない。答えられない。
男は少し考えるように目を細めると、懐から白い札を取り出した。
「指で書け」
鈴音は震える指で、札の上に文字をなぞった。
鈴音。
男の瞳がわずかに揺れた。
「鈴音」
彼がその名を呼んだ瞬間、胸の奥で何かが鳴った。
久しぶりに、誰かにちゃんと名前を呼ばれた気がした。
常盤家では、鈴音はいつも「お前」か「あの子」だった。綾乃の前では、声の出ない妹。村人の前では、災いの娘。
けれどこの鬼神は、初めて会ったばかりなのに、鈴音を鈴音と呼んだ。
男は名乗った。
「俺は朔夜。この山の社に祀られている鬼神だ」
鈴音は反射的に肩を震わせた。
鬼神。
その言葉だけで、恐怖が戻ってくる。
朔夜はそれを見て、静かに言った。
「怯えずともよい。俺は人を喰わぬ」
鈴音は目を見開いた。
人を喰わない?
では、なぜ村人たちは花嫁を差し出すのか。なぜ綾乃は、喰べられると言ったのか。
鈴音の疑問を読んだように、朔夜は社の奥へ目を向けた。
「人が勝手にそう語っているだけだ。俺が喰うのは、人ではない」
では、何を。
鈴音がそう問うより先に、朔夜の視線が彼女の喉元で止まった。
その目が、急に鋭くなる。
「……ひどいな」
低く呟いた声に、怒りが滲んでいた。
鈴音は息を止める。
朔夜の手が伸びてきた。
逃げなければと思うのに、体が動かない。
白く長い指が、鈴音の喉元に触れる。
冷たいはずなのに、不思議と痛くはなかった。
その瞬間、鈴音の喉の奥が灼けるように熱くなった。
「っ……」
声にならない悲鳴が漏れる。
朔夜の金の瞳が細まる。
「やはり、絡んでいる」
何が。
鈴音は問いかけようとする。
すると朔夜の指先が、鈴音の喉元から何かをつまみ上げた。
黒い糸だった。
闇よりも濃い、細い糸。
それが鈴音の喉の奥から、ずるりと引き出されていく。
鈴音は目を見開いた。
痛い。
けれど、それは傷の痛みではない。
長い間、喉に詰まっていたものが無理やり剥がされるような、息苦しい痛みだった。
黒い糸は一本ではなかった。
二本、三本、いくつもの糸が絡まり合い、鈴音の喉に巻きついている。
朔夜はその糸を見つめ、表情を険しくした。
「これは嘘だ」
鈴音は涙に濡れた目で朔夜を見る。
嘘。
朔夜は黒い糸を指先に絡めたまま、静かに告げた。
「人がついた嘘は、形を持つ。隠した罪、歪めた真実、誰かを黙らせるための言葉。それらは黒い穢れとなって残る」
黒い糸が、朔夜の指先で嫌な音を立てて震えた。
「俺はそれを喰らう鬼神だ」
朔夜が糸を口元へ近づけた。
鈴音は思わず身をすくめる。
朔夜は黒い糸を噛み切った。
ぱきん、と小さな音がした。
瞬間、鈴音の喉を締めつけていた痛みが少しだけ緩む。
息が吸えた。
今までより深く、胸の奥まで。
鈴音は両手で喉を押さえた。
声はまだ出ない。
けれど、何かが変わった。
朔夜は残った糸を見つめた。
「普通の嘘ではない。呪いに近い。お前が真実を言おうとするたび、この糸が喉を締めるよう仕掛けられている」
鈴音の背筋が冷えた。
真実。
その言葉を聞いた瞬間、母の声がまた胸の奥で響いた。
――鈴音、逃げて。
鈴音は震えた。
朔夜は鈴音の頬を伝う涙を見て、怒りを押し殺したように声を低くする。
「お前は、声を失ったのではない」
境内を、冷たい風が通り抜けた。
白無垢の袖が揺れる。
社の鈴が、ちりん、と鳴った。
朔夜は鈴音の喉元から引き出した黒い糸を握りつぶし、はっきりと言った。
「誰かに、黙らされていたのだ」
鈴音は息を呑んだ。
胸の奥で、長い間眠っていた何かが目を覚ます。
悲しみなのか、怒りなのか、まだわからない。
けれどそれは、確かに鈴音自身のものだった。
朔夜は鈴音をまっすぐに見つめる。
「知りたいか。誰がお前の声を奪ったのか」
鈴音は震える手で、喉を押さえた。
怖い。
知れば、戻れなくなる。
けれど、もう戻る場所などない。
常盤家にも、村にも、鈴音の居場所はなかった。
ならばせめて、自分の声がどこへ消えたのかを知りたい。
母が死んだ夜、自分が何を言おうとしたのかを知りたい。
鈴音は涙を拭った。
そして、声の出ない唇をゆっくり動かした。
はい。
音にはならなかった。
けれど朔夜は、その答えを確かに読み取ったように頷いた。
「ならば、俺の花嫁になれ」
鈴音の心臓が大きく跳ねる。
朔夜は続けた。
「生贄としてではない。餌としてでもない。お前の声を取り戻すために、俺の隣にいろ」
鈴音は朔夜を見つめた。
恐ろしい鬼神。
人を喰うと恐れられた男。
けれど、鈴音を餌と呼ばなかった。
災いとも呼ばなかった。
鈴音の声が失われたのではなく、奪われたのだと見抜いた。
夜の社で、白無垢の袖を握りしめながら、鈴音は初めて思った。
私は、黙っていたかったんじゃない。
黙らされていた。
その事実が、鈴音の胸に小さな火を灯した。
朔夜は立ち上がり、社の奥へ視線を向ける。
「今夜は休め。明日から、お前の喉に絡む嘘を一つずつ喰っていく」
そして彼は、闇よりも深い声で告げた。
「お前の声を奪った者には、必ず代償を払わせる」
その言葉に、鈴音の中で何かが震えた。
恐怖ではない。
初めて感じる、微かな希望だった。
社の鈴が、もう一度鳴る。
ちりん。
その音はまるで、鈴音の失われた声の代わりに、夜へ響いているようだった。
生まれつきではない。
昔は歌えた。笑えた。泣けば母が抱きしめてくれて、「鈴音の声は、春の鈴みたいね」と微笑んでくれた。
けれど、その記憶はもう遠い。
今の鈴音の喉から出るのは、息だけだ。
言葉にならない、かすれた吐息。
どれだけ必死に口を動かしても、誰かの名を呼ぼうとしても、助けてと言おうとしても、喉の奥が焼けつくように痛むだけで、声は形にならない。
だから鈴音は、常盤家の屋敷でいつも黙っていた。
黙っていれば、怒られずに済む。
黙っていれば、余計なことを言わずに済む。
黙っていれば、自分がここにいることを、少しだけ薄くできる。
朝、まだ空が白む前に、鈴音は井戸の前に立っていた。
手桶を落とし、水を汲み上げる。冷たい水が指先にかかり、思わず肩が震えた。
五月とはいえ、夜明け前の水は骨にしみる。
桶を二つ抱えて台所へ戻る途中、縁側から女中たちの声が聞こえた。
「また鈴音さまにやらせてるの?」
「さま、なんてつけなくてもいいでしょう。声も出ないんだから、言いつけやすくて助かるわ」
「でも一応、旦那さまの娘でしょう?」
「先妻の子よ。今の奥さまからしたら、目障りでしかないわ」
聞こえないふりをして、鈴音は足を進めた。
桶の水が揺れて、着物の裾を濡らす。
冷たさよりも、女中たちの笑い声の方が胸に刺さった。
台所に水を運び終えると、今度は庭の掃き掃除を命じられた。朝餉の支度、廊下の雑巾がけ、綾乃の部屋へ運ぶ湯の準備。鈴音が一つ仕事を終えるたびに、次の用事が増えていく。
常盤家は、村で一番古い家だった。
かつては山を守る巫女の血筋として尊ばれ、今も名家として村人たちから一目置かれている。屋敷は広く、門は立派で、祭礼のたびに多くの者が頭を下げにくる。
けれど、その家の娘であるはずの鈴音に、誰も頭など下げない。
鈴音は、常盤家の中でいないものとして扱われていた。
ただ、都合のいい手だけは求められる。
水を運ぶ手。床を拭く手。綾乃の髪を梳く手。黙って叱責を受けるための、うつむいた顔。
奥座敷へ呼ばれたのは、昼前のことだった。
鈴音が廊下に膝をつくと、襖の向こうから継母の八重の声がした。
「入りなさい」
鈴音は静かに襖を開け、畳に手をついて頭を下げた。
部屋には、父の宗一郎と、継母の八重、そして異母姉の綾乃がいた。
宗一郎は床の間を背にして座り、難しい顔をしている。八重はその隣で、扇を手に上品に微笑んでいた。綾乃は薄桃色の着物をまとい、艶やかな黒髪を肩に流している。
鈴音と二つしか違わないのに、綾乃はまるで春の花のように美しかった。
誰もがそう言う。
常盤家の誇り。村一番の姫君。神に愛された娘。
その隣に鈴音が並ぶと、よけいに自分が影のように思える。
「鈴音」
父が低く名を呼んだ。
鈴音は顔を上げる。
「近頃、村でよくないことが続いているのは知っているな」
鈴音は小さく頷いた。
田に虫が湧いたこと。山仕事に出た男が怪我をしたこと。流行り病で子どもが何人か伏せっていること。井戸の水が濁った日があったこと。
村人たちは、それを災いと呼んだ。
そして災いが起きるたび、誰かが鈴音を見る。
声を失った娘。
母を亡くした夜から、言葉を持たなくなった娘。
不吉な子。
「山の社におわす鬼神さまの怒りを鎮めねばならぬ」
宗一郎の言葉に、鈴音の胸が嫌な音を立てた。
山の社。
鬼神。
その名を聞くだけで、村の子どもは泣き出す。
山奥に祀られている鬼神は、人を喰うという。特に、若い花嫁を好むという。昔から村では、飢饉や疫病が続くと、鬼神へ花嫁を捧げたのだと聞かされてきた。
鈴音は唇を震わせた。
違う。
そう言いたかった。
嫌です、と言いたかった。
けれど、喉の奥がひゅっと鳴るだけだった。
八重が、いかにも悲しそうに目を伏せる。
「本当は、こんなことを言いたくはないのよ。あなたも常盤の娘ですもの。けれど、村を守るためには、誰かが鬼神さまの花嫁にならなければならないの」
鈴音は八重を見た。
八重の瞳は濡れていない。
その声には、悲しみではなく、どこか晴れやかな響きがあった。
「綾乃を差し出すわけにはいかない。あの子はこれから、都の御家との縁談もある大切な身ですもの」
綾乃が小さく目を伏せた。
「お母さま、そんな言い方……鈴音がかわいそうです」
優しい声だった。
誰が聞いても、妹を思う姉の声に聞こえただろう。
けれど鈴音は知っている。
綾乃は、人前でだけ優しい。
八重が扇で口元を隠す。
「そうね。ごめんなさい、鈴音。でもあなたなら、鬼神さまもお受け取りくださるわ。声の出ない花嫁なら、騒ぐこともないでしょうから」
鈴音は畳の上で指を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
痛みがあるのに、声は出ない。
宗一郎が言った。
「これは常盤家当主としての決定だ。今夜、支度をして山の社へ向かいなさい」
今夜。
あまりにも早かった。
鈴音は父を見た。
父の顔には、迷いがなかった。
昔、この人は自分を抱き上げてくれたことがあっただろうか。
声を失ってからは、一度もない。
鈴音が何かを訴えようとするたび、父は目をそらした。面倒なものを見るように、あるいは、見てはいけないものを見るように。
鈴音は畳に両手をついた。
頭を下げるしかなかった。
言葉がない娘に、拒む術はない。
部屋を下がるとき、綾乃がついてきた。
廊下の角を曲がり、人目がなくなったところで、綾乃は鈴音の袖をつかんだ。
「ねえ、鈴音」
鈴音は足を止めた。
綾乃は泣きそうな顔をしていた。
それが偽りだとわかっていても、その美しさに息が詰まる。
「かわいそうな子」
綾乃は鈴音の耳元へ唇を寄せた。
声は甘い。けれど言葉は刃だった。
「でも、よかったわね。声の出ないあなたでも、鬼の餌にはなれるのだから」
鈴音の喉が痛んだ。
違う。私は餌じゃない。
そう言いたい。
だが声は出ない。
綾乃は鈴音の反応を楽しむように、さらに囁いた。
「鬼神さまに喰べられる前に、何か言い残したいことはある? ああ、ごめんなさい。あなたには無理だったわね」
くす、と笑う声。
鈴音は綾乃の手を振りほどくこともできず、ただうつむいた。
悔しさで目の奥が熱い。
でも、泣けばまた笑われる。
鈴音は泣かなかった。
泣かない代わりに、自分の胸の中で何度も同じ言葉を繰り返した。
私は、餌じゃない。
私は、災いじゃない。
私は――。
その先の言葉だけが、いつも霧のように消えてしまう。
夜になる前に、鈴音は白無垢を着せられた。
白い衣は、花嫁のためのものだという。
けれど鈴音には、死に装束にしか思えなかった。
女中たちが髪を結い、紅を差し、白粉を塗る。鏡の中に映る自分は、知らない娘のようだった。
白く塗られた顔。
紅い唇。
声の出ない喉。
女中の一人がぽつりと言った。
「綺麗ねえ。黙っていれば、本当にお姫さまみたい」
別の女中が笑う。
「黙っているしかないんでしょう」
鈴音は鏡を見つめたまま、指を膝の上で握りしめた。
母が生きていたら、どうしていただろう。
白無垢姿の自分を見て、泣いただろうか。
それとも怒っただろうか。
鈴音は、母の声を思い出そうとした。
けれど、思い出せるのはいつも同じ言葉だけだ。
――鈴音、逃げて。
胸がざわめく。
母は本当に、そんなことを言ったのだろうか。
母が死んだ夜、何があったのだろう。
考えようとすると、喉が焼ける。目の奥が白く霞む。記憶の扉の前に、黒い幕が下りる。
鈴音は目を閉じた。
それ以上、思い出してはいけない気がした。
日が完全に落ちると、鈴音は屋敷の門前へ連れていかれた。
村の長老と神職が待っていた。提灯の灯りが夜風に揺れている。
父と八重、綾乃も見送りに出てきていた。
外から見れば、家族が涙をこらえて娘を送り出す光景に見えただろう。
八重は鈴音の手を取り、わざとらしく目元を押さえた。
「どうか、常盤家の娘として立派にお役目を果たしてね」
その手は、少しも震えていなかった。
父は鈴音を見ずに言った。
「村のためだ。わかってくれ」
綾乃は最後に鈴音へ近づき、白無垢の襟元を整えるふりをした。
「怖がらなくていいのよ。喰べられるのは、きっと一瞬だから」
鈴音は顔を上げた。
綾乃の瞳は笑っていた。
その瞬間、胸の奥に小さな火が灯った。
怖い。
死にたくない。
けれど、それ以上に、悔しかった。
自分の人生が、こんなふうに終わることが。
誰にも本当のことを言えないまま、災いの娘として鬼に差し出されることが。
鈴音は唇を開いた。
違う。
私は、違う。
声にならない言葉が、喉の奥で焼けて消えた。
山道は暗かった。
神職の男が先導し、鈴音は白無垢の裾を引きずるようにして歩いた。背後には村の男たちが数人ついてくる。
誰も鈴音に話しかけない。
提灯の灯りだけが、足元の石を照らしている。
木々は夜の闇に沈み、風が枝を鳴らすたびに、誰かが笑っているように聞こえた。
山の奥へ進むほど、空気が冷えていく。
鈴音の足は痛み、息は上がった。白無垢は重く、帯は苦しい。
途中で一度つまずいたが、誰も手を貸さなかった。
「遅れるな」
神職が振り返りもせずに言う。
鈴音は唇を噛んで立ち上がった。
やがて、古い石段が現れた。
苔むした石段の先に、闇に沈む鳥居が見える。
山の社だった。
村人たちは、その手前で足を止めた。
神職が鈴音に向き直る。
「ここから先は、花嫁ひとりで進む決まりだ」
鈴音は鳥居を見上げた。
黒い。
夜よりも深い黒が、そこに口を開けているようだった。
神職は小さな包みを鈴音に渡した。
「供物だ。社の前に置き、夜明けまで振り返らずに座して待て。鬼神さまがお出ましになれば、お前は花嫁として迎えられる」
迎えられる。
その言葉が、どうしても「喰われる」に聞こえた。
鈴音は包みを受け取る。
男たちは早く帰りたいのか、鈴音を急かすような目を向けた。
鈴音は一度だけ山道を振り返った。
常盤家の屋敷は見えない。
誰も、追ってこない。
わかっていた。
それでも胸のどこかで、父がやはりやめようと言ってくれるのではないかと、愚かな期待をしていた。
そんなものは、なかった。
鈴音は鳥居をくぐった。
瞬間、空気が変わった。
冷たいのに、澄んでいる。
耳が痛くなるほど静かで、けれど何かがこちらを見ている気配がした。
石段を上るたび、提灯の灯りが遠ざかる。
やがて鈴音の前に、小さな社が現れた。
古いが、荒れてはいない。誰かが手入れしているのか、境内には落ち葉が少なく、注連縄も新しかった。
鈴音は社の前に膝をつき、供物を置いた。
白無垢の袖が地面に触れ、土で汚れる。
夜風が吹いた。
寒い。
鈴音は両手を膝の上で握った。
これから何が起きるのだろう。
鬼神は本当に現れるのだろうか。
現れたら、自分はどうなるのだろう。
喰われるなら、痛いのだろうか。
鈴音は唇を震わせた。
助けて。
その言葉が胸に浮かんだ瞬間、涙が一粒こぼれた。
誰に助けを求めているのか、自分でもわからなかった。
母はもういない。
父は自分を差し出した。
この村に、鈴音を助けに来る人はいない。
ならば、せめて最後に一度だけ声が出ればいいのに。
私はここにいる。
私は生きたい。
私は、災いなんかじゃない。
そう言えたなら。
そのときだった。
社の奥から、鈴の音がした。
ちりん。
鈴音は顔を上げた。
風は止んでいる。
もう一度、鈴が鳴った。
ちりん。
闇の中から、誰かが歩いてくる。
まず見えたのは、黒い衣の裾だった。
次に、長い黒髪。
月明かりを受けて、金色に光る瞳。
その男は、音もなく鈴音の前に立った。
人ではない。
そう思った。
美しいのに、恐ろしい。
恐ろしいのに、目をそらせない。
夜そのものが形を持ったような男だった。
鈴音は息を呑み、体をこわばらせた。
これが、鬼神。
村人たちが恐れた、人を喰う神。
男は鈴音を見下ろした。
その視線は冷たいようでいて、不思議と乱暴ではなかった。
「お前が、今宵の花嫁か」
低い声が、境内に落ちる。
鈴音は答えられない。
口を開いても、声は出なかった。
男はわずかに眉を寄せる。
「声が出ぬのか」
鈴音は小さく頷いた。
次に何をされるのかと身を縮める。
だが男は、鈴音を嘲笑わなかった。
かわいそうとも言わなかった。
声が出ないことを責めもしなかった。
ただ、ゆっくりと膝を折り、鈴音と同じ高さに視線を下ろした。
「名は」
鈴音は戸惑った。
筆も紙もない。答えられない。
男は少し考えるように目を細めると、懐から白い札を取り出した。
「指で書け」
鈴音は震える指で、札の上に文字をなぞった。
鈴音。
男の瞳がわずかに揺れた。
「鈴音」
彼がその名を呼んだ瞬間、胸の奥で何かが鳴った。
久しぶりに、誰かにちゃんと名前を呼ばれた気がした。
常盤家では、鈴音はいつも「お前」か「あの子」だった。綾乃の前では、声の出ない妹。村人の前では、災いの娘。
けれどこの鬼神は、初めて会ったばかりなのに、鈴音を鈴音と呼んだ。
男は名乗った。
「俺は朔夜。この山の社に祀られている鬼神だ」
鈴音は反射的に肩を震わせた。
鬼神。
その言葉だけで、恐怖が戻ってくる。
朔夜はそれを見て、静かに言った。
「怯えずともよい。俺は人を喰わぬ」
鈴音は目を見開いた。
人を喰わない?
では、なぜ村人たちは花嫁を差し出すのか。なぜ綾乃は、喰べられると言ったのか。
鈴音の疑問を読んだように、朔夜は社の奥へ目を向けた。
「人が勝手にそう語っているだけだ。俺が喰うのは、人ではない」
では、何を。
鈴音がそう問うより先に、朔夜の視線が彼女の喉元で止まった。
その目が、急に鋭くなる。
「……ひどいな」
低く呟いた声に、怒りが滲んでいた。
鈴音は息を止める。
朔夜の手が伸びてきた。
逃げなければと思うのに、体が動かない。
白く長い指が、鈴音の喉元に触れる。
冷たいはずなのに、不思議と痛くはなかった。
その瞬間、鈴音の喉の奥が灼けるように熱くなった。
「っ……」
声にならない悲鳴が漏れる。
朔夜の金の瞳が細まる。
「やはり、絡んでいる」
何が。
鈴音は問いかけようとする。
すると朔夜の指先が、鈴音の喉元から何かをつまみ上げた。
黒い糸だった。
闇よりも濃い、細い糸。
それが鈴音の喉の奥から、ずるりと引き出されていく。
鈴音は目を見開いた。
痛い。
けれど、それは傷の痛みではない。
長い間、喉に詰まっていたものが無理やり剥がされるような、息苦しい痛みだった。
黒い糸は一本ではなかった。
二本、三本、いくつもの糸が絡まり合い、鈴音の喉に巻きついている。
朔夜はその糸を見つめ、表情を険しくした。
「これは嘘だ」
鈴音は涙に濡れた目で朔夜を見る。
嘘。
朔夜は黒い糸を指先に絡めたまま、静かに告げた。
「人がついた嘘は、形を持つ。隠した罪、歪めた真実、誰かを黙らせるための言葉。それらは黒い穢れとなって残る」
黒い糸が、朔夜の指先で嫌な音を立てて震えた。
「俺はそれを喰らう鬼神だ」
朔夜が糸を口元へ近づけた。
鈴音は思わず身をすくめる。
朔夜は黒い糸を噛み切った。
ぱきん、と小さな音がした。
瞬間、鈴音の喉を締めつけていた痛みが少しだけ緩む。
息が吸えた。
今までより深く、胸の奥まで。
鈴音は両手で喉を押さえた。
声はまだ出ない。
けれど、何かが変わった。
朔夜は残った糸を見つめた。
「普通の嘘ではない。呪いに近い。お前が真実を言おうとするたび、この糸が喉を締めるよう仕掛けられている」
鈴音の背筋が冷えた。
真実。
その言葉を聞いた瞬間、母の声がまた胸の奥で響いた。
――鈴音、逃げて。
鈴音は震えた。
朔夜は鈴音の頬を伝う涙を見て、怒りを押し殺したように声を低くする。
「お前は、声を失ったのではない」
境内を、冷たい風が通り抜けた。
白無垢の袖が揺れる。
社の鈴が、ちりん、と鳴った。
朔夜は鈴音の喉元から引き出した黒い糸を握りつぶし、はっきりと言った。
「誰かに、黙らされていたのだ」
鈴音は息を呑んだ。
胸の奥で、長い間眠っていた何かが目を覚ます。
悲しみなのか、怒りなのか、まだわからない。
けれどそれは、確かに鈴音自身のものだった。
朔夜は鈴音をまっすぐに見つめる。
「知りたいか。誰がお前の声を奪ったのか」
鈴音は震える手で、喉を押さえた。
怖い。
知れば、戻れなくなる。
けれど、もう戻る場所などない。
常盤家にも、村にも、鈴音の居場所はなかった。
ならばせめて、自分の声がどこへ消えたのかを知りたい。
母が死んだ夜、自分が何を言おうとしたのかを知りたい。
鈴音は涙を拭った。
そして、声の出ない唇をゆっくり動かした。
はい。
音にはならなかった。
けれど朔夜は、その答えを確かに読み取ったように頷いた。
「ならば、俺の花嫁になれ」
鈴音の心臓が大きく跳ねる。
朔夜は続けた。
「生贄としてではない。餌としてでもない。お前の声を取り戻すために、俺の隣にいろ」
鈴音は朔夜を見つめた。
恐ろしい鬼神。
人を喰うと恐れられた男。
けれど、鈴音を餌と呼ばなかった。
災いとも呼ばなかった。
鈴音の声が失われたのではなく、奪われたのだと見抜いた。
夜の社で、白無垢の袖を握りしめながら、鈴音は初めて思った。
私は、黙っていたかったんじゃない。
黙らされていた。
その事実が、鈴音の胸に小さな火を灯した。
朔夜は立ち上がり、社の奥へ視線を向ける。
「今夜は休め。明日から、お前の喉に絡む嘘を一つずつ喰っていく」
そして彼は、闇よりも深い声で告げた。
「お前の声を奪った者には、必ず代償を払わせる」
その言葉に、鈴音の中で何かが震えた。
恐怖ではない。
初めて感じる、微かな希望だった。
社の鈴が、もう一度鳴る。
ちりん。
その音はまるで、鈴音の失われた声の代わりに、夜へ響いているようだった。



