花嫁の声を食べる鬼神さま

 鈴音は、声を持たない娘だった。

 生まれつきではない。

 昔は歌えた。笑えた。泣けば母が抱きしめてくれて、「鈴音の声は、春の鈴みたいね」と微笑んでくれた。

 けれど、その記憶はもう遠い。

 今の鈴音の喉から出るのは、息だけだ。

 言葉にならない、かすれた吐息。

 どれだけ必死に口を動かしても、誰かの名を呼ぼうとしても、助けてと言おうとしても、喉の奥が焼けつくように痛むだけで、声は形にならない。

 だから鈴音は、常盤家の屋敷でいつも黙っていた。

 黙っていれば、怒られずに済む。

 黙っていれば、余計なことを言わずに済む。

 黙っていれば、自分がここにいることを、少しだけ薄くできる。

 朝、まだ空が白む前に、鈴音は井戸の前に立っていた。

 手桶を落とし、水を汲み上げる。冷たい水が指先にかかり、思わず肩が震えた。

 五月とはいえ、夜明け前の水は骨にしみる。

 桶を二つ抱えて台所へ戻る途中、縁側から女中たちの声が聞こえた。

「また鈴音さまにやらせてるの?」

「さま、なんてつけなくてもいいでしょう。声も出ないんだから、言いつけやすくて助かるわ」

「でも一応、旦那さまの娘でしょう?」

「先妻の子よ。今の奥さまからしたら、目障りでしかないわ」

 聞こえないふりをして、鈴音は足を進めた。

 桶の水が揺れて、着物の裾を濡らす。

 冷たさよりも、女中たちの笑い声の方が胸に刺さった。

 台所に水を運び終えると、今度は庭の掃き掃除を命じられた。朝餉の支度、廊下の雑巾がけ、綾乃の部屋へ運ぶ湯の準備。鈴音が一つ仕事を終えるたびに、次の用事が増えていく。

 常盤家は、村で一番古い家だった。

 かつては山を守る巫女の血筋として尊ばれ、今も名家として村人たちから一目置かれている。屋敷は広く、門は立派で、祭礼のたびに多くの者が頭を下げにくる。

 けれど、その家の娘であるはずの鈴音に、誰も頭など下げない。

 鈴音は、常盤家の中でいないものとして扱われていた。

 ただ、都合のいい手だけは求められる。

 水を運ぶ手。床を拭く手。綾乃の髪を梳く手。黙って叱責を受けるための、うつむいた顔。

 奥座敷へ呼ばれたのは、昼前のことだった。

 鈴音が廊下に膝をつくと、襖の向こうから継母の八重の声がした。

「入りなさい」

 鈴音は静かに襖を開け、畳に手をついて頭を下げた。

 部屋には、父の宗一郎と、継母の八重、そして異母姉の綾乃がいた。

 宗一郎は床の間を背にして座り、難しい顔をしている。八重はその隣で、扇を手に上品に微笑んでいた。綾乃は薄桃色の着物をまとい、艶やかな黒髪を肩に流している。

 鈴音と二つしか違わないのに、綾乃はまるで春の花のように美しかった。

 誰もがそう言う。

 常盤家の誇り。村一番の姫君。神に愛された娘。

 その隣に鈴音が並ぶと、よけいに自分が影のように思える。

「鈴音」

 父が低く名を呼んだ。

 鈴音は顔を上げる。

「近頃、村でよくないことが続いているのは知っているな」

 鈴音は小さく頷いた。

 田に虫が湧いたこと。山仕事に出た男が怪我をしたこと。流行り病で子どもが何人か伏せっていること。井戸の水が濁った日があったこと。

 村人たちは、それを災いと呼んだ。

 そして災いが起きるたび、誰かが鈴音を見る。

 声を失った娘。

 母を亡くした夜から、言葉を持たなくなった娘。

 不吉な子。

「山の社におわす鬼神さまの怒りを鎮めねばならぬ」

 宗一郎の言葉に、鈴音の胸が嫌な音を立てた。

 山の社。

 鬼神。

 その名を聞くだけで、村の子どもは泣き出す。

 山奥に祀られている鬼神は、人を喰うという。特に、若い花嫁を好むという。昔から村では、飢饉や疫病が続くと、鬼神へ花嫁を捧げたのだと聞かされてきた。

 鈴音は唇を震わせた。

 違う。

 そう言いたかった。

 嫌です、と言いたかった。

 けれど、喉の奥がひゅっと鳴るだけだった。

 八重が、いかにも悲しそうに目を伏せる。

「本当は、こんなことを言いたくはないのよ。あなたも常盤の娘ですもの。けれど、村を守るためには、誰かが鬼神さまの花嫁にならなければならないの」

 鈴音は八重を見た。

 八重の瞳は濡れていない。

 その声には、悲しみではなく、どこか晴れやかな響きがあった。

「綾乃を差し出すわけにはいかない。あの子はこれから、都の御家との縁談もある大切な身ですもの」

 綾乃が小さく目を伏せた。

「お母さま、そんな言い方……鈴音がかわいそうです」

 優しい声だった。

 誰が聞いても、妹を思う姉の声に聞こえただろう。

 けれど鈴音は知っている。

 綾乃は、人前でだけ優しい。

 八重が扇で口元を隠す。

「そうね。ごめんなさい、鈴音。でもあなたなら、鬼神さまもお受け取りくださるわ。声の出ない花嫁なら、騒ぐこともないでしょうから」

 鈴音は畳の上で指を握りしめた。

 爪が掌に食い込む。

 痛みがあるのに、声は出ない。

 宗一郎が言った。

「これは常盤家当主としての決定だ。今夜、支度をして山の社へ向かいなさい」

 今夜。

 あまりにも早かった。

 鈴音は父を見た。

 父の顔には、迷いがなかった。

 昔、この人は自分を抱き上げてくれたことがあっただろうか。

 声を失ってからは、一度もない。

 鈴音が何かを訴えようとするたび、父は目をそらした。面倒なものを見るように、あるいは、見てはいけないものを見るように。

 鈴音は畳に両手をついた。

 頭を下げるしかなかった。

 言葉がない娘に、拒む術はない。

 部屋を下がるとき、綾乃がついてきた。

 廊下の角を曲がり、人目がなくなったところで、綾乃は鈴音の袖をつかんだ。

「ねえ、鈴音」

 鈴音は足を止めた。

 綾乃は泣きそうな顔をしていた。

 それが偽りだとわかっていても、その美しさに息が詰まる。

「かわいそうな子」

 綾乃は鈴音の耳元へ唇を寄せた。

 声は甘い。けれど言葉は刃だった。

「でも、よかったわね。声の出ないあなたでも、鬼の餌にはなれるのだから」

 鈴音の喉が痛んだ。

 違う。私は餌じゃない。

 そう言いたい。

 だが声は出ない。

 綾乃は鈴音の反応を楽しむように、さらに囁いた。

「鬼神さまに喰べられる前に、何か言い残したいことはある? ああ、ごめんなさい。あなたには無理だったわね」

 くす、と笑う声。

 鈴音は綾乃の手を振りほどくこともできず、ただうつむいた。

 悔しさで目の奥が熱い。

 でも、泣けばまた笑われる。

 鈴音は泣かなかった。

 泣かない代わりに、自分の胸の中で何度も同じ言葉を繰り返した。

 私は、餌じゃない。

 私は、災いじゃない。

 私は――。

 その先の言葉だけが、いつも霧のように消えてしまう。

 夜になる前に、鈴音は白無垢を着せられた。

 白い衣は、花嫁のためのものだという。

 けれど鈴音には、死に装束にしか思えなかった。

 女中たちが髪を結い、紅を差し、白粉を塗る。鏡の中に映る自分は、知らない娘のようだった。

 白く塗られた顔。

 紅い唇。

 声の出ない喉。

 女中の一人がぽつりと言った。

「綺麗ねえ。黙っていれば、本当にお姫さまみたい」

 別の女中が笑う。

「黙っているしかないんでしょう」

 鈴音は鏡を見つめたまま、指を膝の上で握りしめた。

 母が生きていたら、どうしていただろう。

 白無垢姿の自分を見て、泣いただろうか。

 それとも怒っただろうか。

 鈴音は、母の声を思い出そうとした。

 けれど、思い出せるのはいつも同じ言葉だけだ。

 ――鈴音、逃げて。

 胸がざわめく。

 母は本当に、そんなことを言ったのだろうか。

 母が死んだ夜、何があったのだろう。

 考えようとすると、喉が焼ける。目の奥が白く霞む。記憶の扉の前に、黒い幕が下りる。

 鈴音は目を閉じた。

 それ以上、思い出してはいけない気がした。

 日が完全に落ちると、鈴音は屋敷の門前へ連れていかれた。

 村の長老と神職が待っていた。提灯の灯りが夜風に揺れている。

 父と八重、綾乃も見送りに出てきていた。

 外から見れば、家族が涙をこらえて娘を送り出す光景に見えただろう。

 八重は鈴音の手を取り、わざとらしく目元を押さえた。

「どうか、常盤家の娘として立派にお役目を果たしてね」

 その手は、少しも震えていなかった。

 父は鈴音を見ずに言った。

「村のためだ。わかってくれ」

 綾乃は最後に鈴音へ近づき、白無垢の襟元を整えるふりをした。

「怖がらなくていいのよ。喰べられるのは、きっと一瞬だから」

 鈴音は顔を上げた。

 綾乃の瞳は笑っていた。

 その瞬間、胸の奥に小さな火が灯った。

 怖い。

 死にたくない。

 けれど、それ以上に、悔しかった。

 自分の人生が、こんなふうに終わることが。

 誰にも本当のことを言えないまま、災いの娘として鬼に差し出されることが。

 鈴音は唇を開いた。

 違う。

 私は、違う。

 声にならない言葉が、喉の奥で焼けて消えた。

 山道は暗かった。

 神職の男が先導し、鈴音は白無垢の裾を引きずるようにして歩いた。背後には村の男たちが数人ついてくる。

 誰も鈴音に話しかけない。

 提灯の灯りだけが、足元の石を照らしている。

 木々は夜の闇に沈み、風が枝を鳴らすたびに、誰かが笑っているように聞こえた。

 山の奥へ進むほど、空気が冷えていく。

 鈴音の足は痛み、息は上がった。白無垢は重く、帯は苦しい。

 途中で一度つまずいたが、誰も手を貸さなかった。

「遅れるな」

 神職が振り返りもせずに言う。

 鈴音は唇を噛んで立ち上がった。

 やがて、古い石段が現れた。

 苔むした石段の先に、闇に沈む鳥居が見える。

 山の社だった。

 村人たちは、その手前で足を止めた。

 神職が鈴音に向き直る。

「ここから先は、花嫁ひとりで進む決まりだ」

 鈴音は鳥居を見上げた。

 黒い。

 夜よりも深い黒が、そこに口を開けているようだった。

 神職は小さな包みを鈴音に渡した。

「供物だ。社の前に置き、夜明けまで振り返らずに座して待て。鬼神さまがお出ましになれば、お前は花嫁として迎えられる」

 迎えられる。

 その言葉が、どうしても「喰われる」に聞こえた。

 鈴音は包みを受け取る。

 男たちは早く帰りたいのか、鈴音を急かすような目を向けた。

 鈴音は一度だけ山道を振り返った。

 常盤家の屋敷は見えない。

 誰も、追ってこない。

 わかっていた。

 それでも胸のどこかで、父がやはりやめようと言ってくれるのではないかと、愚かな期待をしていた。

 そんなものは、なかった。

 鈴音は鳥居をくぐった。

 瞬間、空気が変わった。

 冷たいのに、澄んでいる。

 耳が痛くなるほど静かで、けれど何かがこちらを見ている気配がした。

 石段を上るたび、提灯の灯りが遠ざかる。

 やがて鈴音の前に、小さな社が現れた。

 古いが、荒れてはいない。誰かが手入れしているのか、境内には落ち葉が少なく、注連縄も新しかった。

 鈴音は社の前に膝をつき、供物を置いた。

 白無垢の袖が地面に触れ、土で汚れる。

 夜風が吹いた。

 寒い。

 鈴音は両手を膝の上で握った。

 これから何が起きるのだろう。

 鬼神は本当に現れるのだろうか。

 現れたら、自分はどうなるのだろう。

 喰われるなら、痛いのだろうか。

 鈴音は唇を震わせた。

 助けて。

 その言葉が胸に浮かんだ瞬間、涙が一粒こぼれた。

 誰に助けを求めているのか、自分でもわからなかった。

 母はもういない。

 父は自分を差し出した。

 この村に、鈴音を助けに来る人はいない。

 ならば、せめて最後に一度だけ声が出ればいいのに。

 私はここにいる。

 私は生きたい。

 私は、災いなんかじゃない。

 そう言えたなら。

 そのときだった。

 社の奥から、鈴の音がした。

 ちりん。

 鈴音は顔を上げた。

 風は止んでいる。

 もう一度、鈴が鳴った。

 ちりん。

 闇の中から、誰かが歩いてくる。

 まず見えたのは、黒い衣の裾だった。

 次に、長い黒髪。

 月明かりを受けて、金色に光る瞳。

 その男は、音もなく鈴音の前に立った。

 人ではない。

 そう思った。

 美しいのに、恐ろしい。

 恐ろしいのに、目をそらせない。

 夜そのものが形を持ったような男だった。

 鈴音は息を呑み、体をこわばらせた。

 これが、鬼神。

 村人たちが恐れた、人を喰う神。

 男は鈴音を見下ろした。

 その視線は冷たいようでいて、不思議と乱暴ではなかった。

「お前が、今宵の花嫁か」

 低い声が、境内に落ちる。

 鈴音は答えられない。

 口を開いても、声は出なかった。

 男はわずかに眉を寄せる。

「声が出ぬのか」

 鈴音は小さく頷いた。

 次に何をされるのかと身を縮める。

 だが男は、鈴音を嘲笑わなかった。

 かわいそうとも言わなかった。

 声が出ないことを責めもしなかった。

 ただ、ゆっくりと膝を折り、鈴音と同じ高さに視線を下ろした。

「名は」

 鈴音は戸惑った。

 筆も紙もない。答えられない。

 男は少し考えるように目を細めると、懐から白い札を取り出した。

「指で書け」

 鈴音は震える指で、札の上に文字をなぞった。

 鈴音。

 男の瞳がわずかに揺れた。

「鈴音」

 彼がその名を呼んだ瞬間、胸の奥で何かが鳴った。

 久しぶりに、誰かにちゃんと名前を呼ばれた気がした。

 常盤家では、鈴音はいつも「お前」か「あの子」だった。綾乃の前では、声の出ない妹。村人の前では、災いの娘。

 けれどこの鬼神は、初めて会ったばかりなのに、鈴音を鈴音と呼んだ。

 男は名乗った。

「俺は朔夜。この山の社に祀られている鬼神だ」

 鈴音は反射的に肩を震わせた。

 鬼神。

 その言葉だけで、恐怖が戻ってくる。

 朔夜はそれを見て、静かに言った。

「怯えずともよい。俺は人を喰わぬ」

 鈴音は目を見開いた。

 人を喰わない?

 では、なぜ村人たちは花嫁を差し出すのか。なぜ綾乃は、喰べられると言ったのか。

 鈴音の疑問を読んだように、朔夜は社の奥へ目を向けた。

「人が勝手にそう語っているだけだ。俺が喰うのは、人ではない」

 では、何を。

 鈴音がそう問うより先に、朔夜の視線が彼女の喉元で止まった。

 その目が、急に鋭くなる。

「……ひどいな」

 低く呟いた声に、怒りが滲んでいた。

 鈴音は息を止める。

 朔夜の手が伸びてきた。

 逃げなければと思うのに、体が動かない。

 白く長い指が、鈴音の喉元に触れる。

 冷たいはずなのに、不思議と痛くはなかった。

 その瞬間、鈴音の喉の奥が灼けるように熱くなった。

「っ……」

 声にならない悲鳴が漏れる。

 朔夜の金の瞳が細まる。

「やはり、絡んでいる」

 何が。

 鈴音は問いかけようとする。

 すると朔夜の指先が、鈴音の喉元から何かをつまみ上げた。

 黒い糸だった。

 闇よりも濃い、細い糸。

 それが鈴音の喉の奥から、ずるりと引き出されていく。

 鈴音は目を見開いた。

 痛い。

 けれど、それは傷の痛みではない。

 長い間、喉に詰まっていたものが無理やり剥がされるような、息苦しい痛みだった。

 黒い糸は一本ではなかった。

 二本、三本、いくつもの糸が絡まり合い、鈴音の喉に巻きついている。

 朔夜はその糸を見つめ、表情を険しくした。

「これは嘘だ」

 鈴音は涙に濡れた目で朔夜を見る。

 嘘。

 朔夜は黒い糸を指先に絡めたまま、静かに告げた。

「人がついた嘘は、形を持つ。隠した罪、歪めた真実、誰かを黙らせるための言葉。それらは黒い穢れとなって残る」

 黒い糸が、朔夜の指先で嫌な音を立てて震えた。

「俺はそれを喰らう鬼神だ」

 朔夜が糸を口元へ近づけた。

 鈴音は思わず身をすくめる。

 朔夜は黒い糸を噛み切った。

 ぱきん、と小さな音がした。

 瞬間、鈴音の喉を締めつけていた痛みが少しだけ緩む。

 息が吸えた。

 今までより深く、胸の奥まで。

 鈴音は両手で喉を押さえた。

 声はまだ出ない。

 けれど、何かが変わった。

 朔夜は残った糸を見つめた。

「普通の嘘ではない。呪いに近い。お前が真実を言おうとするたび、この糸が喉を締めるよう仕掛けられている」

 鈴音の背筋が冷えた。

 真実。

 その言葉を聞いた瞬間、母の声がまた胸の奥で響いた。

 ――鈴音、逃げて。

 鈴音は震えた。

 朔夜は鈴音の頬を伝う涙を見て、怒りを押し殺したように声を低くする。

「お前は、声を失ったのではない」

 境内を、冷たい風が通り抜けた。

 白無垢の袖が揺れる。

 社の鈴が、ちりん、と鳴った。

 朔夜は鈴音の喉元から引き出した黒い糸を握りつぶし、はっきりと言った。

「誰かに、黙らされていたのだ」

 鈴音は息を呑んだ。

 胸の奥で、長い間眠っていた何かが目を覚ます。

 悲しみなのか、怒りなのか、まだわからない。

 けれどそれは、確かに鈴音自身のものだった。

 朔夜は鈴音をまっすぐに見つめる。

「知りたいか。誰がお前の声を奪ったのか」

 鈴音は震える手で、喉を押さえた。

 怖い。

 知れば、戻れなくなる。

 けれど、もう戻る場所などない。

 常盤家にも、村にも、鈴音の居場所はなかった。

 ならばせめて、自分の声がどこへ消えたのかを知りたい。

 母が死んだ夜、自分が何を言おうとしたのかを知りたい。

 鈴音は涙を拭った。

 そして、声の出ない唇をゆっくり動かした。

 はい。

 音にはならなかった。

 けれど朔夜は、その答えを確かに読み取ったように頷いた。

「ならば、俺の花嫁になれ」

 鈴音の心臓が大きく跳ねる。

 朔夜は続けた。

「生贄としてではない。餌としてでもない。お前の声を取り戻すために、俺の隣にいろ」

 鈴音は朔夜を見つめた。

 恐ろしい鬼神。

 人を喰うと恐れられた男。

 けれど、鈴音を餌と呼ばなかった。

 災いとも呼ばなかった。

 鈴音の声が失われたのではなく、奪われたのだと見抜いた。

 夜の社で、白無垢の袖を握りしめながら、鈴音は初めて思った。

 私は、黙っていたかったんじゃない。

 黙らされていた。

 その事実が、鈴音の胸に小さな火を灯した。

 朔夜は立ち上がり、社の奥へ視線を向ける。

「今夜は休め。明日から、お前の喉に絡む嘘を一つずつ喰っていく」

 そして彼は、闇よりも深い声で告げた。

「お前の声を奪った者には、必ず代償を払わせる」

 その言葉に、鈴音の中で何かが震えた。

 恐怖ではない。

 初めて感じる、微かな希望だった。

 社の鈴が、もう一度鳴る。

 ちりん。

 その音はまるで、鈴音の失われた声の代わりに、夜へ響いているようだった。