*
初夏というには暑すぎる夜だった。
「あー、もう! 信じらんない!」
辺りは真っ暗で、駅員すらもいない駅。時計はまだ十時を知らせていないのに。
「もう終電がないってどういうこと? これだから田舎は嫌だったのに……」
時刻表を見れば、つい十分前に今日の最後の電車が発車したことがわかる。
「これじゃ、シンデレラも帰れないっての……」
大きなため息と共に、大きな独り言を零した。
突如、この田舎町への出張が決まったことで、私は一人で知らない町へやってきた。それなりに上手く仕事をこなして、すぐにでも都会に帰ってやる。そう意気込んでいたのに、地方支部はいわゆるブラック的な職場環境だった。
今日は飛ばされた支部から少し離れた場所での仕事で、残業までして終わらせたのはいいものの、まさかの終電を逃すという事態。
本当、ついてない。
私は盛大なため息をついた。
都会と同じだと思い込んで、電車の時間を調べなかった私が悪いのかもしれないけど……私が部屋を借りた町から離れた場所で仕事をしてきてほしい、電車で移動すればいいからって言った上司、許さない。
そもそも、なんで田舎の電車って無駄に本数が少ないの? 一時間ごと、いや、下手をすれば二時間ごとにしか来ない電車。早い時間になくなる終電。こんなに不便な世界が存在していたなんて……
私はまた、大きなため息を零した。
そのとき、パタン、となにか本が閉じるような音が聞こえてきた。
勝手に人はいないと思い込んでいたから、私は肩をビクつかせて音がしたほうを見る。薄暗い待合席に若い男が一人。遠目では彼が実在する人間なのか、それとも幽霊なのか、判断がつかない。私は怖いもの見たさで彼を凝視してしまった。
肩掛けカバンに本を入れた彼が視線を上げたことで、視線が交わる。私の視線に、不快そうな顔で応えた。
これは実在する人の反応だ。多分。
「終電、もうないみたいですよ」
少しでも印象を挽回したくて、私は怪しまれないように微笑んで言った。
「え……ああ」
それなのに、スマホで時間を確認した彼の声は、まだ私を警戒していた。それどころか、丁寧に教えてあげたというのに、興味なさそうにも見えた。自分が帰れなくなったことに対して無関心なところが、妙に気になった。
きっとそうだと、信じたい。
「あの、よかったら一杯、付き合ってくれません?」
「は?」
彼の戸惑う声を聞いて、私は突拍子もない提案をしてしまったことに気付いた。
いつもの私なら、見ず知らずの人にこんなことを言ったりしない。
終電がなくとも、タクシーで帰ることはできたし。飲みたいなら、ひとりで宅飲みでもしていればいい。そんなことわかっていたけど、どうしてもその日は、誰でもいいから愚痴を聞いてほしかった。
「奢るので」
彼に断られないように提案したものの。
「でも……もう店仕舞いしてますよ、ほとんどの店」
彼は変わらず落ち着いた声で言うと、駅前のお店に視線を向ける。その視線の先には、居酒屋から出てくる人たち。
居酒屋も終わりが早いなんて、田舎の人たちはなにをして過ごしているんだろう。
なんにせよ、今日は踏んだり蹴ったりだ。
「……コンビニ、行きます?」
項垂れていると、彼が駅前のコンビニを指さして言った。気乗りではないと思っていたから、少しだけ驚きながら、頷いた。
コンビニに入ると、不快な暑さを忘れさせてくれる涼しさに、落ち込んだ気持ちも少しは回復した。
こうなったら大量に買ってやろうと、カゴを手に店内を回る。彼は、静かに後ろをついてきていた。
今思えば、こんなにも不審な女によく付き合ってくれたなと、感謝と反省しかない。
「そういえば、お兄さんお名前は? 私は依都」
真っ直ぐお酒コーナーに向かいながら、彼に尋ねた。
「……蓮です」
私が先に名乗ったからか、彼は仕方ないと言わんばかりに答える。
「蓮さん、なに飲みます?」
自分のチューハイを三本ほどカゴに入れてから、蓮さんのほうを向いた。
「あー……僕、まだ酒飲めないんで、いらないです」
まだ、飲めない。
それを聞いて、血の気が引いた。
「まさか……未成年……!?」
今は十八歳で成人するから、正確には未成年ではないのかもしれないけど、そんなことはどうでもよくて。
二十六になろうかって大人が、勢いで子供に声をかけてしまったかもしれないという事実が、恐ろしかった。
「まあ……来月二十歳になります」
それならいいか、とそのときの私は思った。なにを根拠にそう思ったのか、今でもわからないけど。
「じゃあ、好きな飲み物、入れてください」
「いや、僕は……」
予想通り、蓮さんは遠慮気味に言った。
「夏らしく、ラムネですか? それとも、りんごジュース?」
私が言えば、蓮さんは少し眉をひそめた。それまで表情があまり動かなかったからこそ、その不快そうな顔が少し面白かった。
そして蓮さんは無糖のコーヒーをカゴに入れる。
それから、少しおつまみがほしくて店内を回った。
「あ……」
ふと、夏の風物詩と目が合った。いつもなら、もう夏か、と思う程度なのに、その日はなんとなく足を止めた。
「花火?」
「懐かしいなと思って。やります?」
あのときの私は、蓮さんといる非日常な時間に心が踊っていたんだと思う。だから、あんな浮かれた提案をしたんだろう。
「……いいんじゃないんですか?」
蓮さんは内心、大人なのに、と呆れていたかもしれない。今の私なら、そう思う。
だけど、あのときの私は好奇心で線香花火もカゴに入れた。さすがに派手な花火には手を伸ばさなかった。
レジに向かうと、蓮さんは財布を取り出した。
「いいよ、私が誘ったんだし、私が出す。……というか、ほとんど私のだし」
蓮さんの「でも……」という言葉を聞き流し、私は支払いを終える。
「……ここで花火したら、さすがに怒られますよね」
おそらく店員さんの車しか停まっていない駐車場。誰もいないとはいえ、花火をするのは気が引けた。
「ですね」
蓮さんに同意されてから、考えなしに花火を買ったことを後悔した。花火ができないのなら、買った意味がない。
「海、行きましょう」
すると、蓮さんが歩を進めた。
「近いんですか?」
「二分で着きます」
さすがに冗談だと思ったけど、実際、すぐに海に着いた。冷たい潮風が頬を撫でる。さっきの冷風よりも涼しく感じるのは、それが天然物だからかもしれない。
買ってきたものをベンチの真ん中に置くと、私たちは、それを挟むようにベンチに座った。
しんと静まり返った空間で聞く波の音は、私の苛立った心を落ち着かせてくれる。ゆっくり深呼吸をすれば、潮の匂いがした。
そして蓮さんにコーヒーを渡し、私はお気に入りのチューハイを取り出す。お疲れ様、と心の中で自分を労い、缶を開けた。疲れきった身体にアルコールが染み渡る。
私はその瞬間、初めてここに来てよかったと思えた。あの時間には、それだけの価値があるような気がした。
「花火、やってみます?」
一本飲み終えると、袋から線香花火を取り出す。
そのときの私は、アルコールが入ってますます現実離れした時間が楽しくなっていた。
「あ……火がない」
だけど、あっという間に浮かれた気持ちは萎んでいった。マッチどころか、ロウソクもない。線香花火だけだからなかったのかもしれない。
なんにせよ、これでは花火ができない。せっかく買ったのに。
そうがっかりしたときだった。
「どうぞ」
蓮さんがライターを差し出した。
私はそれに驚いてしまった。蓮さんからタバコの匂いがした記憶はない。それに。
「……まだ二十歳じゃないんじゃなかった?」
そう訪ねると、蓮さんは、人差し指を唇に当てた。
その途端、子供のころ誰かにいたずらを仕掛けたときみたいに、胸が踊った。
私は線香花火を一本取り出し、ベンチの前でしゃがむ。すると、蓮さんも同じようにしゃがみ、ライターで火をつけた。
だけど、その瞬間に強い風が吹き、あっさりとその火を消してしまった。線香花火は難しいと記憶していたけれど、こんな終わりがあっていいのか。
ほんの少しショックを受けていると、蓮さんが噴き出すように笑った。
「あ、ちょっと、笑わないでよ! てか、私のせいじゃないし」
「わかってますよ」
蓮さんはそう言いながら、新しい花火と交換してくれた。
再び火が灯った線香花火は、今度こそ静かに火花を散らし始める。そのうち、ぱちぱちと音を立てた。
「きれー……」
「久しぶりに見ると、いいもんですね」
蓮さんも一本取り出して、線香花火が並ぶ。二つの火花に息をのむ。
この時間が終わらなければいいのに。
そんなふうに思う自分がいることに、私自身が驚いた。
ふと蓮さんのほうを見ると、蓮さんの横顔が線香花火で照らされていた。火花が落ちないように真剣になっているその表情から、私は目が逸らせない。
そのせいで、蓮さんに見ていることを気付かれてしまった。
私を捉える瞳は、最初に見た眼とは違って、優しかった。甘えたいなんて、らしくないことを思ってしまうくらい。
「ご、ごめんね。急にこんなことに付き合わせて」
抱いたことのない感情に戸惑い、私は線香花火に視線を戻しながら言った。
「……いえ」
蓮さんの声は優しかった。
「しんどくて、他人に甘えたくなることって、誰にでもあることだと思ってるので」
「え……」
もう一度、蓮さんのほうを見ると、蓮さんはまっすぐ私を見つめていた。
話していいよ。
そう、甘やかしてくれているような気がした。
かといって、蓮さんと向き合っていては本音を取り繕ってしまうような気がして、私は線香花火に視線を戻した。
「……ずっと」
切り出した私の声は、震えていた。
「ずっと……上手くやってると思ってたの。仕事も、プライベートも。でも、全然そんなことなくて……」
憧れのキャリアウーマンになれたと思った。仕事で評価されていくことが嬉しかった。それで、私という存在が認められたような気がしたから。
だから、ひたすら頑張ってきた。
それなのに。
「プライベートもなくなるくらい働くなんて、したくなかったなあ……」
仕事が終われば、私の時間だったのに。私の時間を満喫する体力すらも奪われて。
――依都の人生に、俺っているのかな。
数日前に私を振った男の捨て台詞は、それだった。
遠距離になっても大丈夫だと思っていたのは、私だけだった。
仕事が忙しくなって、連絡回数も減って。久しぶりに電話ができたと思ったら、そんなことを言われて。戻ったらまた同じ時間を過ごせると思って頑張っていたのが、途端にバカらしくなった。
「ねえ……男の人って、やっぱり強そうな女は苦手なの?」
視線を動かすと、蓮さんは少し困った様子で、私を見ていた。
強がった笑みを、見透かされている気分だ。
「……僕には、貴方が強いようには見えません」
知り合って間もない中で、そんなふうに言われるとは思わなかった。
普通なら、私のなにを知っているの?と思う。だけど私は、不思議とその言葉を受け止めていた。
まあ、あれだけ子供みたいなことをしたあとで大人ぶっても、説得力がなかったのかもしれないけど。
「ただ……強がってしまう瞬間があるんだろうなって、思います」
蓮さんは、さっきまでの私みたいに、線香花火を見つめている。
私の線香花火は、いつの間にか落ちていた。
「私は平気なんだって、自分を奮い立たせて……しんどいって気持ちを笑顔という鎧で隠す。そうやって前を向く女性、僕は素敵だと思います」
私を励ますような言葉だと、そのときは思った。
「……そっか」
だから、まんまと勘違いした私は、蓮さんに気付かれないように笑みをこぼした。
「そういえば……蓮さんは、どうして終電を逃したの?」
次の線香花火を取り出しながら、蓮さんに尋ねた。
蓮さんは待合席にいたから、私と違って、電車に乗ることができただろう。それなのに、駅にいた。そのことが、不意に気になった。
「……人を、待っていたんです」
蓮さんが静かに言うと、線香花火の火が消えた。
蓮さんも私と同じように新しい花火を取り出すかと思えば、蓮さんはベンチに腰掛けた。そして、真っ暗な水平線を見つめる。その瞳に映る世界が気になって、私もベンチに座る。
「こんな深夜に?」
私は二本目の缶を開ける。
「いつ来るのか、わからないので」
なんだか、なぞなぞをしている気分だ。
お酒で頭も回らず、私は「へえ」とほんの少し興味なさそうな反応をしてしまった。
ただなんとなく、蓮さんが待っているのは、恋人のような気がした。蓮さんの声が、やけに柔らかく聞こえたからかもしれない。
「……好きな人?」
そして私は小さな好奇心に負け、蓮さんが見せようとしない心の奥に踏み込んだ。
蓮さんはすぐには答えなかった。
「……貴方のように、強がるのが得意な子です」
その瞬間、理解した。さっきの、素敵だと思うと言ったのは、私のことではなかったのだと。この人の心は、すでに別の女性のものなんだと。
「一年前に『一年後、会おうね』って約束したきり、連絡もしてなくて。連絡をすれば、甘えて帰りたくなるからって……そろそろ帰ってくるかもって、毎日待ってるんですけど」
蓮さんはその先を語らなかった。
それでもずっと待ってるなんて、なんて健気なんだろう。蓮さんにここまでさせる彼女も、きっと素敵な人なんだろう。
ああ、聞かなきゃよかった。
自分で聞いておきながら、私は、そんなふうに思ってしまった。
あれは私に向けた言葉ではなかった。素敵なのは私じゃなくて、蓮さんが好きな人。
確かめなかったら、こんなに胸がザワつくこともなかったのに。私は少し、期待していたらしい。
“私は、その子の代わりにはなれない?”
そんな言葉を、お酒と共に飲みこむ。
こんなにも一途に思っている人が、そう簡単に別の人に気をやるわけがない。
「……僕も飲もうかな」
蓮さんはそう言って、残りの一本のチューハイに手を伸ばそうとした。
「未成年飲酒まで見逃せないから」
私は蓮さんからお酒を遠ざけるように、袋を移動させる。
「大人ですね」
蓮さんはそう言って笑う。
……大人、か。
「……ダメダメな大人だよ」
私は遠く暗い水平線を見つめながら、そう零した。
もし私がちゃんとした大人なら、こうして蓮さんを巻き込んだりしない。
好きな人がいる人に、私を好きになってほしいなんて、思わない。
私は、かっこいい大人に憧れているだけの、なりそこないだ。
「……ごめんね、終電逃したわけでもないのに付き合わせて」
私は最大限の強がりで、笑ってみせる。
「……いえ」
きっと、蓮さんには気付かれただろう。だけど、蓮さんはなにも言わなかった。ただ黙って、コーヒーを飲んでいる。
私は蓮さんに、帰っていいよと言うことができなかった。
もう少しだけ。
日が昇ってくるまで。始発が動くまでは。私の隣にいてほしい。私が隣にいることを、どうか許して。
初夏というには暑すぎる夜だった。
「あー、もう! 信じらんない!」
辺りは真っ暗で、駅員すらもいない駅。時計はまだ十時を知らせていないのに。
「もう終電がないってどういうこと? これだから田舎は嫌だったのに……」
時刻表を見れば、つい十分前に今日の最後の電車が発車したことがわかる。
「これじゃ、シンデレラも帰れないっての……」
大きなため息と共に、大きな独り言を零した。
突如、この田舎町への出張が決まったことで、私は一人で知らない町へやってきた。それなりに上手く仕事をこなして、すぐにでも都会に帰ってやる。そう意気込んでいたのに、地方支部はいわゆるブラック的な職場環境だった。
今日は飛ばされた支部から少し離れた場所での仕事で、残業までして終わらせたのはいいものの、まさかの終電を逃すという事態。
本当、ついてない。
私は盛大なため息をついた。
都会と同じだと思い込んで、電車の時間を調べなかった私が悪いのかもしれないけど……私が部屋を借りた町から離れた場所で仕事をしてきてほしい、電車で移動すればいいからって言った上司、許さない。
そもそも、なんで田舎の電車って無駄に本数が少ないの? 一時間ごと、いや、下手をすれば二時間ごとにしか来ない電車。早い時間になくなる終電。こんなに不便な世界が存在していたなんて……
私はまた、大きなため息を零した。
そのとき、パタン、となにか本が閉じるような音が聞こえてきた。
勝手に人はいないと思い込んでいたから、私は肩をビクつかせて音がしたほうを見る。薄暗い待合席に若い男が一人。遠目では彼が実在する人間なのか、それとも幽霊なのか、判断がつかない。私は怖いもの見たさで彼を凝視してしまった。
肩掛けカバンに本を入れた彼が視線を上げたことで、視線が交わる。私の視線に、不快そうな顔で応えた。
これは実在する人の反応だ。多分。
「終電、もうないみたいですよ」
少しでも印象を挽回したくて、私は怪しまれないように微笑んで言った。
「え……ああ」
それなのに、スマホで時間を確認した彼の声は、まだ私を警戒していた。それどころか、丁寧に教えてあげたというのに、興味なさそうにも見えた。自分が帰れなくなったことに対して無関心なところが、妙に気になった。
きっとそうだと、信じたい。
「あの、よかったら一杯、付き合ってくれません?」
「は?」
彼の戸惑う声を聞いて、私は突拍子もない提案をしてしまったことに気付いた。
いつもの私なら、見ず知らずの人にこんなことを言ったりしない。
終電がなくとも、タクシーで帰ることはできたし。飲みたいなら、ひとりで宅飲みでもしていればいい。そんなことわかっていたけど、どうしてもその日は、誰でもいいから愚痴を聞いてほしかった。
「奢るので」
彼に断られないように提案したものの。
「でも……もう店仕舞いしてますよ、ほとんどの店」
彼は変わらず落ち着いた声で言うと、駅前のお店に視線を向ける。その視線の先には、居酒屋から出てくる人たち。
居酒屋も終わりが早いなんて、田舎の人たちはなにをして過ごしているんだろう。
なんにせよ、今日は踏んだり蹴ったりだ。
「……コンビニ、行きます?」
項垂れていると、彼が駅前のコンビニを指さして言った。気乗りではないと思っていたから、少しだけ驚きながら、頷いた。
コンビニに入ると、不快な暑さを忘れさせてくれる涼しさに、落ち込んだ気持ちも少しは回復した。
こうなったら大量に買ってやろうと、カゴを手に店内を回る。彼は、静かに後ろをついてきていた。
今思えば、こんなにも不審な女によく付き合ってくれたなと、感謝と反省しかない。
「そういえば、お兄さんお名前は? 私は依都」
真っ直ぐお酒コーナーに向かいながら、彼に尋ねた。
「……蓮です」
私が先に名乗ったからか、彼は仕方ないと言わんばかりに答える。
「蓮さん、なに飲みます?」
自分のチューハイを三本ほどカゴに入れてから、蓮さんのほうを向いた。
「あー……僕、まだ酒飲めないんで、いらないです」
まだ、飲めない。
それを聞いて、血の気が引いた。
「まさか……未成年……!?」
今は十八歳で成人するから、正確には未成年ではないのかもしれないけど、そんなことはどうでもよくて。
二十六になろうかって大人が、勢いで子供に声をかけてしまったかもしれないという事実が、恐ろしかった。
「まあ……来月二十歳になります」
それならいいか、とそのときの私は思った。なにを根拠にそう思ったのか、今でもわからないけど。
「じゃあ、好きな飲み物、入れてください」
「いや、僕は……」
予想通り、蓮さんは遠慮気味に言った。
「夏らしく、ラムネですか? それとも、りんごジュース?」
私が言えば、蓮さんは少し眉をひそめた。それまで表情があまり動かなかったからこそ、その不快そうな顔が少し面白かった。
そして蓮さんは無糖のコーヒーをカゴに入れる。
それから、少しおつまみがほしくて店内を回った。
「あ……」
ふと、夏の風物詩と目が合った。いつもなら、もう夏か、と思う程度なのに、その日はなんとなく足を止めた。
「花火?」
「懐かしいなと思って。やります?」
あのときの私は、蓮さんといる非日常な時間に心が踊っていたんだと思う。だから、あんな浮かれた提案をしたんだろう。
「……いいんじゃないんですか?」
蓮さんは内心、大人なのに、と呆れていたかもしれない。今の私なら、そう思う。
だけど、あのときの私は好奇心で線香花火もカゴに入れた。さすがに派手な花火には手を伸ばさなかった。
レジに向かうと、蓮さんは財布を取り出した。
「いいよ、私が誘ったんだし、私が出す。……というか、ほとんど私のだし」
蓮さんの「でも……」という言葉を聞き流し、私は支払いを終える。
「……ここで花火したら、さすがに怒られますよね」
おそらく店員さんの車しか停まっていない駐車場。誰もいないとはいえ、花火をするのは気が引けた。
「ですね」
蓮さんに同意されてから、考えなしに花火を買ったことを後悔した。花火ができないのなら、買った意味がない。
「海、行きましょう」
すると、蓮さんが歩を進めた。
「近いんですか?」
「二分で着きます」
さすがに冗談だと思ったけど、実際、すぐに海に着いた。冷たい潮風が頬を撫でる。さっきの冷風よりも涼しく感じるのは、それが天然物だからかもしれない。
買ってきたものをベンチの真ん中に置くと、私たちは、それを挟むようにベンチに座った。
しんと静まり返った空間で聞く波の音は、私の苛立った心を落ち着かせてくれる。ゆっくり深呼吸をすれば、潮の匂いがした。
そして蓮さんにコーヒーを渡し、私はお気に入りのチューハイを取り出す。お疲れ様、と心の中で自分を労い、缶を開けた。疲れきった身体にアルコールが染み渡る。
私はその瞬間、初めてここに来てよかったと思えた。あの時間には、それだけの価値があるような気がした。
「花火、やってみます?」
一本飲み終えると、袋から線香花火を取り出す。
そのときの私は、アルコールが入ってますます現実離れした時間が楽しくなっていた。
「あ……火がない」
だけど、あっという間に浮かれた気持ちは萎んでいった。マッチどころか、ロウソクもない。線香花火だけだからなかったのかもしれない。
なんにせよ、これでは花火ができない。せっかく買ったのに。
そうがっかりしたときだった。
「どうぞ」
蓮さんがライターを差し出した。
私はそれに驚いてしまった。蓮さんからタバコの匂いがした記憶はない。それに。
「……まだ二十歳じゃないんじゃなかった?」
そう訪ねると、蓮さんは、人差し指を唇に当てた。
その途端、子供のころ誰かにいたずらを仕掛けたときみたいに、胸が踊った。
私は線香花火を一本取り出し、ベンチの前でしゃがむ。すると、蓮さんも同じようにしゃがみ、ライターで火をつけた。
だけど、その瞬間に強い風が吹き、あっさりとその火を消してしまった。線香花火は難しいと記憶していたけれど、こんな終わりがあっていいのか。
ほんの少しショックを受けていると、蓮さんが噴き出すように笑った。
「あ、ちょっと、笑わないでよ! てか、私のせいじゃないし」
「わかってますよ」
蓮さんはそう言いながら、新しい花火と交換してくれた。
再び火が灯った線香花火は、今度こそ静かに火花を散らし始める。そのうち、ぱちぱちと音を立てた。
「きれー……」
「久しぶりに見ると、いいもんですね」
蓮さんも一本取り出して、線香花火が並ぶ。二つの火花に息をのむ。
この時間が終わらなければいいのに。
そんなふうに思う自分がいることに、私自身が驚いた。
ふと蓮さんのほうを見ると、蓮さんの横顔が線香花火で照らされていた。火花が落ちないように真剣になっているその表情から、私は目が逸らせない。
そのせいで、蓮さんに見ていることを気付かれてしまった。
私を捉える瞳は、最初に見た眼とは違って、優しかった。甘えたいなんて、らしくないことを思ってしまうくらい。
「ご、ごめんね。急にこんなことに付き合わせて」
抱いたことのない感情に戸惑い、私は線香花火に視線を戻しながら言った。
「……いえ」
蓮さんの声は優しかった。
「しんどくて、他人に甘えたくなることって、誰にでもあることだと思ってるので」
「え……」
もう一度、蓮さんのほうを見ると、蓮さんはまっすぐ私を見つめていた。
話していいよ。
そう、甘やかしてくれているような気がした。
かといって、蓮さんと向き合っていては本音を取り繕ってしまうような気がして、私は線香花火に視線を戻した。
「……ずっと」
切り出した私の声は、震えていた。
「ずっと……上手くやってると思ってたの。仕事も、プライベートも。でも、全然そんなことなくて……」
憧れのキャリアウーマンになれたと思った。仕事で評価されていくことが嬉しかった。それで、私という存在が認められたような気がしたから。
だから、ひたすら頑張ってきた。
それなのに。
「プライベートもなくなるくらい働くなんて、したくなかったなあ……」
仕事が終われば、私の時間だったのに。私の時間を満喫する体力すらも奪われて。
――依都の人生に、俺っているのかな。
数日前に私を振った男の捨て台詞は、それだった。
遠距離になっても大丈夫だと思っていたのは、私だけだった。
仕事が忙しくなって、連絡回数も減って。久しぶりに電話ができたと思ったら、そんなことを言われて。戻ったらまた同じ時間を過ごせると思って頑張っていたのが、途端にバカらしくなった。
「ねえ……男の人って、やっぱり強そうな女は苦手なの?」
視線を動かすと、蓮さんは少し困った様子で、私を見ていた。
強がった笑みを、見透かされている気分だ。
「……僕には、貴方が強いようには見えません」
知り合って間もない中で、そんなふうに言われるとは思わなかった。
普通なら、私のなにを知っているの?と思う。だけど私は、不思議とその言葉を受け止めていた。
まあ、あれだけ子供みたいなことをしたあとで大人ぶっても、説得力がなかったのかもしれないけど。
「ただ……強がってしまう瞬間があるんだろうなって、思います」
蓮さんは、さっきまでの私みたいに、線香花火を見つめている。
私の線香花火は、いつの間にか落ちていた。
「私は平気なんだって、自分を奮い立たせて……しんどいって気持ちを笑顔という鎧で隠す。そうやって前を向く女性、僕は素敵だと思います」
私を励ますような言葉だと、そのときは思った。
「……そっか」
だから、まんまと勘違いした私は、蓮さんに気付かれないように笑みをこぼした。
「そういえば……蓮さんは、どうして終電を逃したの?」
次の線香花火を取り出しながら、蓮さんに尋ねた。
蓮さんは待合席にいたから、私と違って、電車に乗ることができただろう。それなのに、駅にいた。そのことが、不意に気になった。
「……人を、待っていたんです」
蓮さんが静かに言うと、線香花火の火が消えた。
蓮さんも私と同じように新しい花火を取り出すかと思えば、蓮さんはベンチに腰掛けた。そして、真っ暗な水平線を見つめる。その瞳に映る世界が気になって、私もベンチに座る。
「こんな深夜に?」
私は二本目の缶を開ける。
「いつ来るのか、わからないので」
なんだか、なぞなぞをしている気分だ。
お酒で頭も回らず、私は「へえ」とほんの少し興味なさそうな反応をしてしまった。
ただなんとなく、蓮さんが待っているのは、恋人のような気がした。蓮さんの声が、やけに柔らかく聞こえたからかもしれない。
「……好きな人?」
そして私は小さな好奇心に負け、蓮さんが見せようとしない心の奥に踏み込んだ。
蓮さんはすぐには答えなかった。
「……貴方のように、強がるのが得意な子です」
その瞬間、理解した。さっきの、素敵だと思うと言ったのは、私のことではなかったのだと。この人の心は、すでに別の女性のものなんだと。
「一年前に『一年後、会おうね』って約束したきり、連絡もしてなくて。連絡をすれば、甘えて帰りたくなるからって……そろそろ帰ってくるかもって、毎日待ってるんですけど」
蓮さんはその先を語らなかった。
それでもずっと待ってるなんて、なんて健気なんだろう。蓮さんにここまでさせる彼女も、きっと素敵な人なんだろう。
ああ、聞かなきゃよかった。
自分で聞いておきながら、私は、そんなふうに思ってしまった。
あれは私に向けた言葉ではなかった。素敵なのは私じゃなくて、蓮さんが好きな人。
確かめなかったら、こんなに胸がザワつくこともなかったのに。私は少し、期待していたらしい。
“私は、その子の代わりにはなれない?”
そんな言葉を、お酒と共に飲みこむ。
こんなにも一途に思っている人が、そう簡単に別の人に気をやるわけがない。
「……僕も飲もうかな」
蓮さんはそう言って、残りの一本のチューハイに手を伸ばそうとした。
「未成年飲酒まで見逃せないから」
私は蓮さんからお酒を遠ざけるように、袋を移動させる。
「大人ですね」
蓮さんはそう言って笑う。
……大人、か。
「……ダメダメな大人だよ」
私は遠く暗い水平線を見つめながら、そう零した。
もし私がちゃんとした大人なら、こうして蓮さんを巻き込んだりしない。
好きな人がいる人に、私を好きになってほしいなんて、思わない。
私は、かっこいい大人に憧れているだけの、なりそこないだ。
「……ごめんね、終電逃したわけでもないのに付き合わせて」
私は最大限の強がりで、笑ってみせる。
「……いえ」
きっと、蓮さんには気付かれただろう。だけど、蓮さんはなにも言わなかった。ただ黙って、コーヒーを飲んでいる。
私は蓮さんに、帰っていいよと言うことができなかった。
もう少しだけ。
日が昇ってくるまで。始発が動くまでは。私の隣にいてほしい。私が隣にいることを、どうか許して。



