あれは確か、小学三年生の頃だ。
 その年、ちょうど父親を病気で亡くしていた。父は太陽みたいに明るい人で、家族のムードメーカーだった。料理が得意で、隙あらば私たち家族に得意料理を振る舞った。休みの日には決まって私を外に連れ出し、あの手この手で楽しませてくれた。一人っ子なので、私が寂しくないように色々と工夫してくれていたのかもしれない。
 父と母と祖母と、四人で。週末に訪れた動物園や水族館では、いつも父の笑い声が響いていた。私以上に子供みたいにはしゃぐ父を見て、母はちょっと呆れていたけれどどこか嬉しそうで、祖母はにこにこと笑っていた。
 私は、そんなお父さんのことが大好きだった。
 だから、父を亡くした時、分かりやすいくらいに気分が落ち込んでいた。一ヶ月は食事が喉を通らなくて、水を飲むので精一杯。体重はみるみるうちに落ちていき、精神科に連れて行かれた。摂食障害だと診断された時の母の絶望的な表情は今でも忘れられない。

『日彩、遊園地に行こっか』

 見かねた母が私にそう提案し、私は母と二人でこの遊園地を訪れたのだ。祖母は確か、老人会の集まりがあるとかなんとかで来なかった。母と二人きり。いつもなら父と祖母も交えて四人で遊んでいたので、母と二人の遊園地はどこか寂しかった。
 けれど、母が私を元気づけようとしてくれている気持ちは痛いほど伝わってきて。私は嫌でも、楽しい“フリ”をしていた。ジェットコースターや室内アトラクション、コーヒーカップにメリーゴーランド。子供が好きな乗り物を一通り楽しんで、精一杯笑った。そんな私を見て母も安心したのか、彼女の顔には一気に安堵の表情が広がる。
 良かった。
 お母さんが安心してくれて……。
 いつのまにか、励まされていたはずの私が、いかに母に心配かけないようにするかに尽力していた。母はそんな私の気持ちに気づいているのかいないのか、気づいていないふりをしていたのか、分からない。気がつけば私は、母の顔色を気にすることに疲れてしまっていて、休憩中に「飲み物を買ってくるね」と母に宣言して、そのままふらりと母から離れてしまった。
 心が勝手に動いた、という他はない。
 母を困らせようという気は全然なかった。ただちょっと、母や、家族のことから目を逸らしたかった。父が亡くなったことも心から追い出して、一人になりたかった。
 でも、結果的に迷子になってしまった私は母に多大な心配をかけてしまうことになる。
 迷子になっている間、自分から離れたにも関わらず、心細さが胸を支配した。このまま母と巡り会えなかったらどうしようとまで考えて、不安でいっぱいになった。
 その後、どうやって母と再会したのか、いまいち覚えていない。
 きっと大人の誰かが、私を遊園地の本部に連れて行ってくれたんだろうけれど、その人の顔は一切思い出せない。

『迷子なんだね』

 ただそう聞かれたことだけはぼんやりと記憶にあるのだけれど。大人の人の顔を見上げた記憶はないし、声もよく思い出せない。記憶に薄靄がかかったみたいだ。
 私を見つけた母が、私の身体をぎゅっと抱きしめてきたことだけは覚えている。冷えていた心にすっと温もりが戻ってきて、「ごめんなさい」と謝った。母は「私の方こそごめんね」と涙目で訴える。その映像だけがぽっかりと浮かんで、それまでのことは抜け落ちている。不思議な話だけれど。
 その出来事があって以来、私はどういうわけか、きちんとご飯が食べられるようになった。父がいなくなって寂しいという気持ちは変わらなかったけれど、病的なほど塞ぎ込むことは減った。父がいない生活に順応したおかげかもしれない。単に時間薬が効いただけだとは思う。私は徐々に、父がいなくなった後の生活に慣れていった。

 
 昔の出来事を思い出して、ふと我に返る。
 周りには相変わらず眠ってしまった遊具が並んでいるだけ。ふと気がつけば、観覧車の明りが消えていた。梨斗が操作をしたんだろう。観覧車を止めたことだし、もうそろそろ戻ってくるかなと思い、彼がいた機械のあるところへと近づいていく。

「梨斗、終わった?」

 ひょこっと管理室の方へ顔を覗かせる。

「あれ……?」

 機械の前に視線を移した私はその場でフリーズする。
 管理室の中に、梨斗はいなかった。

「梨斗?」

 まるで人間消失マジックのように、梨斗はどこにもいない。跡形もなく消えてしまった。

「どこかに隠れてる?」

 そうは聞くものの、管理室の中に隠れられるような場所はない。
 梨斗がいなくなってしまった。
 途端、思い出すのは小三の頃に迷子になった時のあの何とも言えない心細さだ。

「梨斗、梨斗?」

 飼い主を探す犬みたいに出会ったばかりの彼の名前を呼ぶ。しかしやはり、彼は私の前に姿を現さない。トイレにでも行ったのだろうかとしばらくその場で待ってみたけれど、彼は戻ってこなかった。
 胸に一抹の不安がよぎる。
 もしかして私、騙された……?
 慌ててポケットの中や鞄の中を探る。財布とスマホはきちんと鞄の中に収まっているし、そもそもポケットにはハンカチぐらいしか入れていなかった。スーパーで買ってきた食材だってきちんと持っているし、特に何も盗られた様子はない。
 だとすれば、梨斗は誰かに攫われた!?
 そう考えて、いや、それはないかと思い直す。
 もし襲われたのなら、さすがに悲鳴くらい聞こえるだろうし。
 そもそも廃園後の遊園地に忍び込んで人を襲おうなんて考える人はいないだろう。私たちをつけている人がいたなら話は別だが、そんな気配はなかった。
 だとすれば、梨斗は自ら姿を消したことになる。

「どうして……」

 ぽつりと呟いて、一つの可能性に思い至る。
 私と、これ以上一緒にいたくなかったんだ。
 そうでなければおかしい。さっきまで彼と一緒にいたのは私なんだもん。観覧車に乗り込んで、深夜の街並みを眺めながら心に抱えていた本音をぶちまけた。梨斗の方は私の話を聞くだけで、自分のことは話してくれなかった。
 もしかして、私が一方的にべらべら話すから、気に障ったのかも……。
 その可能性は大いにある。だからもう私に愛想を尽かして、怒って一人で帰って行っちゃったのかもしれない。
 まるで彗星のごとく現れて消えてしまった梨斗。
 真夜中の不思議な出会いと別れに、ずっと心臓の音が鳴り止まない。
 葉加瀬梨斗。私と同じ高校二年生で、四月十日生まれ。
 どういうわけか廃園後の遊園地に忍び込むことができて、観覧車だって動かせる。
 普通ならありえないことをしてみせる彼は、どこか不思議な存在だ。もしかして夢? そう疑って右腕の肉をつねってみると、普通に痛かった。

「また会えるかな」 

 誰もいなくなった遊園地で、独りごちる。梨斗とはぐれてしまって寂しい気持ちが胸にじわりと広がっていく。願わくば、彼にもう一度会いたい。
 心の中で強く願っている自分がいて、胸はきゅっと締め付けられたみたいに苦しい。
 けれど同時に、今日のこの出会いにときめきが止まらない。
 相反する二つの感情の波がせめぎ合い、私はしばらくその場から動けなかった。