「私の家、シングルマザーでお母さんは毎日すごく忙しくて。父方の祖母と一緒に暮らしてるんだけど、おばあちゃんは認知症で……。家のことはほとんど私がやってるの。炊事、洗濯、掃除。それから、おばあちゃんの介護。一人でお風呂に入れなかったりトイレができなかったりするから、それが一番大変。だけど、家族のためだって思って、頑張ってた。お母さんだって仕事で忙しいし大変なんだ。この家を回していけるのは私だけだって自分に言い聞かせて」

 毎日、毎日、目が回るほど忙しい生活を強いられて、明日のことは考えられなくなった。
 学校の勉強にはついていけないし、授業中に眠くて寝てしまうことも多い。
 遅刻、欠席も多く、一年生の時は留年しないギリギリの出席日数だった。

「おばあちゃんの介護が始まったのは中三の頃からで、それまでも認知症の症状はあったけど、お母さんが介護するので間に合ってたの。部活だって中学の頃はちゃんと行けてた。でも……中三の時におばあちゃんの認知症の症状が悪化し始めて、お母さんの手に負えなくなって。目が離せない時間も増えたから、私が家にいなくちゃいけなくて……。だから学校も休むことが多いし、友達もいなくなった。友達との予定をキャンセルし続けてたらそうなるよね」

 今日学校で声をかけてくれた美玖と恵菜の複雑な表情を思い出す。せっかく二人の部活が休みで、私のことを誘ってくれたのに、約束を忘れてしまっていた。彼女たちが私にどんな感情を抱いているのか想像すると、背筋が凍りつくような思いがした。

「こんな生活やめてしまいたいって思う一方で、大事な家族のことを見離したくないって思う。私にしかできないことなんだ。お母さんを助けるのも、おばあちゃんの面倒を見るのも。私がやらないと、家族みんな、死んじゃう気がする……」

 違う。そんなことはない。
 私が頑張らないとみんな共倒れになるなんて、きっとそんなことは起こらない。
 それなのに、いつしか自分が家族にとって重要な要であると信じて疑わなくなった。自分がいなくなったら家族が回らなくなるというプレッシャーに押し潰されそうで。誰にも弱音を吐くこともできないし、ただ耐えるしかない日々に限界を感じていた。 
 観覧車が頂上へと到着する。
 子供の頃から、観覧車に乗るといつも、一番上に来た時に観覧車が故障して止まってしまったらどうしようって考えてしまう。
 そんな不安をよそに、観覧車はちゃんと回り続ける。
 てっぺんから少しだけ下へと進んだ。
 だんだんと消えていく街の明かりがぼんやりと視界の中で揺れる。
 目の縁に溜まっているものを感じて、胸がぎゅっと痛くなった。

「私……本当は逃げたかったのかもしれない」

 ずっと、誰かのために生きることを強いられてきた。
 気がつけば髪の毛も肌もボロボロで、自分のために生きたいと願っていた自分はいなくなっていた。
 メイクアップアーティストになりたいという将来の夢だって、手の中からこぼれ落ちる寸前で。専門学校に行くことは叶わない願いだって諦めていて。
 私は今、一体誰のために、何のためにここで息をしているんだろう……?

「今日も、本当はスーパーを出た後、どうしようかなって不安だったの。すぐ帰らなきゃっていうのはもちろん分かってたけど、心のどこかで『帰りたくない』って気持ちが芽生えてた。気づかないふりをしていたけれど……。あなたに話しかけられて、本当はほっとしたんだ」

 びっくりしたのは間違いないけれど、潜在意識下で、声をかけてくれて安堵していた。

「……ごめん、なんか、すごい喋りすぎちゃった」

 思っていたことを一気に吐き出して、ふと我に返る。目の前では相変わらず梨斗が真剣に私の話に耳を傾けてくれていた。その瞳の奥に見える、深い海の底のような深淵に、思わず息をのむ。彼は今何を考えているんだろう。たまたま声をかけた女の子が、突然激重な告白を始めて戸惑っているのかもしれない。
 しかし私の想像とは裏腹に、彼はしっぽりと「そっか」と呟いた。

「じゃあ、今日きみに話しかけて正解だったね」

 ふっと微笑みながら彼は言う。

「きみが壊れてしまう前に、会えて良かった」

 梨斗のその言葉に、気がつけば両目から涙が溢れ出した。
 私が壊れてしまう前に。
 そうか、私。壊れそうになっていたんだ。
 知らず知らずの間に無理をして、自分のやりたいことを封じ込めて、家族のためだと自分を無理やり納得させて。
 そんなことを繰り返していたら、いつのまにか自分が自分でなくなっていくような恐怖に襲われた。
 私はとっくに壊れかけていて、それでも世界は回り続けていた。
 このまま梨斗に話しかけられずに帰っていたら、回り続ける正解の端っこで私だけがいなくなっていたかもしれない。家族にとって自分はかけがえのない存在だと言い聞かせていたのに、いざ自分がいなくてもどうにかなる世界を目の当たりにして絶望していたかも……。
 心が泣いて、自分がいなくなりそうになっていたことに今ようやく気がつくことができた。それがあまりにも衝撃的で、苦しくて、心が悲鳴を上げている。そんな涙だ。

「泣けるなら大丈夫だよ」

 拭っても拭っても止まらない涙に袖がぐちゅぐちゅに濡れていくなか、彼はそっと寄り添うように呟いた。

「そうやって苦しかったり悲しかったりすることに、素直に涙が流れるなら、まだきみは大丈夫。これからいくらでも前を向けるよ」

 その言葉が、胸に温かい灯火をつける。
 私は……私はまだ、大丈夫。
 まだ自分を見失ってない。まだ、家族のためだと言い聞かせながらも、息を吸うことができる。こうして誰かに本音を吐き出して、地に足つけて立っていられる。私の世界は壊れてなんかいない。
 彼にそんなふうに背中を押してもらっている気がして、大きな安堵に包まれた。
 観覧車が四分の三ほど進み、着地点が見えてきた。先ほどまではプラモデルの模型ぐらい小さかった街並みが、一気に目線の高さへと近づいてくる。いや、近づいているのは私の方だ。現実から逃げ、再び帰ってきたという感覚。観覧車の中で彼と話した十五分の時間は、夢の中にいるみたいだった。一度天から自分を俯瞰して、もう一度やり直そうと思えたような気がする。今日、声をかけてくれた彼に感謝しなくちゃいけない。

「あの、今日はありがとう。それから、誕生日おめでとう」

 最初は「終電を逃したから泊めてくれないか」なんて突飛なお願いをされて、頭がおかしい人なんじゃないかって疑ったけれど。閉鎖中の遊園地の観覧車に連れてきてくれた彼に、今は感謝している。

「こちらこそ、付き合ってくれてありがとう」

 また会おう。
 なんて、彼の口から陳腐な約束の台詞は出てこない。 
 私の話を聞くことで、果たして彼の今日の目的は達成されたんだろうか。彼だって見ず知らずの私に吐き出したいことがあったんじゃないかと思うのに、結局私が喋り通して、彼のことはほとんどよく分からなかった。
 観覧車が一番下へと到着した。
 扉を開けて地面に足をつける。一瞬ふらりとするこの感覚も久しぶりで懐かしい。

「大丈夫?」

 梨斗に顔を覗き込まれ、「う、うん」と頷く。
 現実で体験したことなのに、夢の世界の出来事みたいだった。

「観覧車止めてくるね」

 彼はタッタッと最初に操作していた管理室の機械のところまで早足で駆けていった。梨斗が観覧車を止める操作をしている間、私は周りをぐるりと見回す。
 廃園後の遊園地はどこか物寂しい。遊具の明かりがついていないの(さび)れているように見える。小学生の頃に訪れた時は、多くのお客さんで賑わっていた。記憶の中でわいわいとはしゃぎ回る子供たちの声が聞こえるような心地がして、すっと目を閉じた。
そういえば私……。
 昔、ここで迷子になったことがあったっけ。