カタカタカタ……と歯車が噛み合ったり外れたりするような独特な音が耳にこだましている。観覧車のゴンドラの中は寒くもなく暑くもなく、二人で座るにはちょうど良い広さをしていた。
 どういうわけか、私は今、初対面の少年と観覧車に揺られている。私の隣にはスーパーの袋が二つ、ずっしりと置かれていた。

「観覧車なんていつぶりだろ」

「久しぶり?」

「うん、多分小学生の頃に乗って以来かなあ……」

「それはかなりご無沙汰だね」

 柔らかい口調で受け答えをする梨斗と話していると、なんだか心がほっと和む。初めて会ったのにどうしてだろう。最初は「泊めてくれない?」なんてとんでもないことを聞かれて耳を疑ったけれど。

「日彩ってさ、なんでこんな時間にスーパーにいたの?」

 突然、「日彩」と名前を呼び捨てにされて、肩がぴくんと揺れる。

「食材の、買い出しに……」

 ボソリと呟くと、なぜか彼は「ぷっ」と吹き出した。

「そりゃ、見れば分かるよ」

「そ、そうだよね」

 いつのまにか敬語が取れて、ただの同級生として彼と接している自分がいて驚く。

「僕が聞きたいのは、なんでこんな夜遅い時間帯にスーパーで、しかも制服姿で買い物してたのかっていうこと」

「それは……」 

 学校から帰宅して、ごたごたと家のことをしたり祖母をお風呂に入れたりしていたことを思い出す。あまり他人に言えることではない。学校の友達にだって言えていない家庭の事情を、初対面の彼に話す筋合いはない。
 私が複雑な表情を浮かべるのに何かを察したのか、梨斗はふっと息を吐いて言った。

「実はさ、僕、家に帰りたくないんだよね」

 先ほどまでにこにこと私に話しかけていた梨斗の表情に翳りが生まれる。突然「家に帰りたくない」と言い出した彼を、私は思わず二度見した。

「帰りたくないって……どうして?」

 自然と本音が漏れてしまった様子の彼に、私は問いかける。彼自身、理由を聞いてほしそうな顔をしていたから。

「どうしてだろうね? 気づいたら、あそこは自分の居場所じゃないやーって思うことない? たとえばほら、家でテスト勉強をしたくなさすぎて、テスト期間にふらっと家から出てカフェに行っちゃったり。行きしな、カフェで勉強してみようなんて考えて。で、結局そこで勉強なんてしないわけ」

「……なんの話?」

「だから、家にいたくないって思う瞬間の話」

「はあ」

 梨斗の話はどこかフワフワとしていて要領を掴むことができない。「家に帰りたくない」というからには、もっと差し迫った事情があるように感じたのに、もしかしてしょうもない理由だった? そんなどうでもいい話をするために、初対面の私を捕まえて一緒に観覧車に乗せたんだろうか……。もしかしてただのナンパ? そうだったら最悪だ。
 頭の中で梨斗に対する警戒心が増していくのを感じる。

「日彩、どうしたの」

「ううん、なんでもないっ」

 いかにも善良で純粋そうな彼が真夜中のスーパー前でナンパなんて、ありえない。不良っぽい男の子だったらまだ分かるけど。
 でも、ナンパじゃなければやっぱりどうして私に話しかけて、一緒に観覧車に乗ろうなんて誘ってきたんだろう?

「日彩って面白い反応するね」

「そんなこと初めて言われた」

「そう? コロコロ表情が変わって見てる方は楽しいよ」

「ずっと真顔のつもりなんだけど」

「そんなことないって。きみは表情豊かな人だよ」

 彼の言うことが理解できない。こんな生活になってから、笑うことが少なくなったように感じる。心から楽しいと思うことが減った。ただ毎日、家族が倒れないように必死に舵を握る。私の生活は常に戦争だ。

「話を戻すけど、家に帰りたくないからってなんで私を誘ったの?」

 気になっていたことを聞いた。
 梨斗は「んー」とわずかに首を傾けながら口を開く。

「きみなら、分かってくれるかと思って」

「分かってくれる?」

「うん。僕が家に帰りたくないって話をしても、きみなら笑わずに聞いてくれると思った」

「……どうして?」

「だってきみも、同じじゃないかって思ったから」

「……」

 頬にひりりとした鋭い痛みが走る。肌荒れの痛みだ。それが、ダイレクトに心の痛みに繋がる。あれ、私……どうしたんだろう。家に帰りたくない? もしかして私も、彼と同じことを思ってた……?

「同じ痛みが分かる人間に、出会ってみたかったんだ」

 彼が抱えている痛みが、具体的にどんなものなのか私には分からない。
 けれど、「家に帰りたくない」という彼の言葉は紛れもない本心であることは察しがついた。にこにことして人が良さそうな梨斗だが、胸に抱えるものは計り知れない。何せ、私たちはさっき出会ったばかりだから。

「……私も、本当は帰りたくなくない、のかも」

 ぽつりと、言葉が口から溢れ出す。 
 自分でも気づかなかった本音が、意思を持って一人歩きしているかのように。「帰りたくない」なんて発してしまった自分に、はっとした。

「日彩も、やっぱりそうなんだ」

 梨斗は驚かなかった。むしろ、予想していた反応が返ってきたというふうに満足げに頷いた。

「家は、私の唯一の居場所なのに。帰りたくないなんて思ったこと、なかったのに」

 もはや目の前の少年が初対面かどうかなんて、どうでも良かった。
 一度溢れ出した気持ちは止まらない。それどころか、聞いてくれている人がいると思うと、むくむくと大きく膨らんでいく。はち切れそうになった風船を想像して、胸が詰まった。

「良かったら、僕に話してくれない? よく知らないからこそ話せることもあると思うし。ほら、こういうのって、他人に吐き出しちゃった方がすっきりすることもあるでしょ」

 優しい彼の言葉に、気がつけば私は頷いていた。
 まるで最初から彼に話をするのが決まっていたみたいに。
 私がずっと誰かに言いたかったこと。吐き出したかった想い。
 観覧車が回る、ギイコギイコという音が聞こえなくなった。
 私たちを乗せたゴンドラはゆっくりと頂上へと向かっていく。
 暗闇にぽっと浮かんでいるマンションや戸建ての家の明かりを見つめながら、心に思っていたことをありのままに話し始めた。