午後七時、少し早いが祖母をお風呂に入れた。
この作業が、祖母の世話の中で二番目に嫌いだ。一番嫌いなのは排泄物の処理。後者は単純に匂いが不快なのと、時々床を汚すことがあり、その後始末が大変すぎるから。
対して入浴介助の方は力仕事なので、疲れるのだ。
そもそも、女子高生がお年寄りとはいえ一人の成人をお風呂に入れるなんて、かなり無理がある。中学の頃私は吹奏楽部に所属していて、体育会系でもない。筋トレなんて体育の授業でしかしたことないし、体力だって乏しい。だから、祖母をお風呂に入れるだけで一日の体力のうち半分は削られる。お風呂の後に宿題なんてしようものなら疲れて頭が回らない。だから学校の課題はできるだけ学校にいる間に済ませるようにしていた。
祖母の服を脱がせ、身体を洗い、なんとか湯船に浸からせる。ここまでで三十分。自分がお風呂に入る時は十五分程度で終わることだ。
湯船に祖母を浸けて、一時休戦。何かあった時のために、脱衣所で待機する。その間、大抵はスマホで溜まっていたメッセージの返信をする。とはいえ友達からの連絡はほとんどない。あるのは母親から、「今日は何時に帰ります」という業務連絡だけだ。母は仕事を掛け持ちしている。九時から十七時までOA機器メーカーでフルタイム勤務をして、夜はクレジットカード会社のオペレーターのパートが二十時〜深夜二時まで入っている。パートの方は毎日とはいかないが、週に二、三回は行っているような気がする。フルタイム勤務だけでも、祖母の介護と併せるとかなり大変なのに、パートもある日はもう母はクタクタすぎて、家では寝てるだけだ。
だからこの家では主に私が、炊事に洗濯、掃除、祖母の介護を一人で担っている。
少しでもお母さんを楽にしてあげたい。
最初はその一心で働いていたけれど、最近は身も心も疲れすぎて、祖母の介護をただの“作業”だと感じてしまっていた。それでも、祖母は大切な家族の一員だから、祖母を見放すことはできない。施設に入れることも頭をよぎったけれど、きっと祖母が納得しない。この家は「透くん」と過ごす大切な場所なのだ。息子と離れることを、祖母が望むはずがなかった。
考え事をしていると、十分も経っていたことに気がつく。
そのうち祖母が「あつい、あつい」と言い出す。
熱いならさっさと出ちゃえよ、と思わず心の中で愚痴が漏れる。一人で出ることなんてできないのに。私の介助が必要だって分かっているのに。心の中でこぼれた本音に、自分自身ぞっとしてしまった。
「はいはい、上がろうね〜」
努めて優しい口調で、祖母の身体を支えた。祖母が今度は「さむい」とこぼす。うるさいな。さっき「熱い」って言ったのは自分でしょ。と、また腹黒いことを考えて罪悪感を覚える。
私、大好きなおばあちゃんになんて酷いことを……。
頭の中で、“意地悪な”自分を振り払う。
私はお母さんとおばあちゃんと三人で幸せに暮らす女の子だ。
決しておばあちゃんのことを疎ましく感じてなんかいない。
そんなこと、思ったらいけないんだ……。
なんとか自分を宥めつつ、祖母をお風呂から上げた。身体を拭いて髪の毛を乾かす。午後八時二十分。お風呂に入れるだけなのに、一時間二十分も要した。刻一刻と削られていく自分の時間に焦りを覚えることももうなくなってしまっていた。
いい加減感覚が麻痺している。
私は普通の女子高生なら当たり前にできる、放課後の部活動や勉強ができない。遊びに行くのなんてなおさら無理だ。それも、仕方がないことなんだと諦めている。
祖母がもう寝るというので、自室に連れていく。寝るといっても結局寝ないのがいつものオチだが、部屋にいてくれる分にはありがたい。何かあれば「透く〜ん」と呼ばれるし、それまでは休もう。
自分の部屋に戻った私は、学校でやった宿題の漏れがないか確認する。宿題をやるので精一杯で、授業の復習は全然できない。おかげで成績は下がりっぱなし。一年生の基礎がなってない今、二年生の内容についていけるかどうか、不安しかない……。
勉強で遅れをとっているのが不安であるにも関わらず、いざこうして少しでも時間ができた時に、机に向かう気になれないのがまた疎ましい。
机の抽斗から、手慰みに取り出したのはリップやアイブロウ、ファンデーションといった化粧品の数々と、鏡。
「これ、使うことないな」
手のひらの上でリップをコロコロと転がしながら独りごちる。
私の夢は、メイクアップアーティストになること……だった。そのために、高校を卒業したら専門学校に行きたい——と思い描いたのは中学生の頃。中学三年生になり、祖母の介護が始まってからは、その夢も叶わないんじゃないかと諦めている。
金銭的な問題もあるけれど、それ以上に、圧倒的に時間がないもの……。
手鏡を手に自分の顔をじっと見つめる。
パサパサの髪の毛、目の下にくっきりと浮かび上がるクマ、ぽつぽつとでき始めたニキビ、荒れ放題の肌。
自分の顔がこんなにも醜いものになっているとは思ってもおらず、ひどく取り乱した。
「私、こんな顔で学校に行ってたんだ……」
さすがに、これは見るに耐えない。
美玖も恵菜も、そりゃ私の顔を見て心配してくれるはずだ。こんな顔で、もう学校に行きたくないな……。
他人を綺麗にする仕事に就きたいのに、自分がこんなに醜く廃れているなんて、馬鹿みたい。これじゃ、誰かを綺麗にするなんて到底できやしない。
鏡を閉じて、椅子から立ち上がる。ベッドの上に仰向けになって静かに目を閉じた。束の間の休息。視界から光を遮断すると、眠っていなくても自然と頭が休まる気がする。気がするだけで根拠なんてないけれど、せめて身体だけは少しでも楽にしておきたかった。
世間では、私のように家事や家族の介護に追われている子供を、ヤングケアラーと呼ぶらしい。でも私はこの言葉がしっくりこない。
ケアって、なんだろう。
私は、家族を“ケア”してるのかな。
ただみんなで生きるために役割分担をしているだけ。祖母のことは確かに大変だと思う。だけど、祖母は認知症なんだから仕方がない。病気の家族を労わるのは普通のことだ。
私は家族をケアするための存在じゃない……。
ゆっくりと思考が深いところへと沈んでいく。ああ、だめだ。意識が途切れそう。身体が睡眠へと誘われる。やがて抵抗するのも虚しく、私は眠りに落ちていった。
この作業が、祖母の世話の中で二番目に嫌いだ。一番嫌いなのは排泄物の処理。後者は単純に匂いが不快なのと、時々床を汚すことがあり、その後始末が大変すぎるから。
対して入浴介助の方は力仕事なので、疲れるのだ。
そもそも、女子高生がお年寄りとはいえ一人の成人をお風呂に入れるなんて、かなり無理がある。中学の頃私は吹奏楽部に所属していて、体育会系でもない。筋トレなんて体育の授業でしかしたことないし、体力だって乏しい。だから、祖母をお風呂に入れるだけで一日の体力のうち半分は削られる。お風呂の後に宿題なんてしようものなら疲れて頭が回らない。だから学校の課題はできるだけ学校にいる間に済ませるようにしていた。
祖母の服を脱がせ、身体を洗い、なんとか湯船に浸からせる。ここまでで三十分。自分がお風呂に入る時は十五分程度で終わることだ。
湯船に祖母を浸けて、一時休戦。何かあった時のために、脱衣所で待機する。その間、大抵はスマホで溜まっていたメッセージの返信をする。とはいえ友達からの連絡はほとんどない。あるのは母親から、「今日は何時に帰ります」という業務連絡だけだ。母は仕事を掛け持ちしている。九時から十七時までOA機器メーカーでフルタイム勤務をして、夜はクレジットカード会社のオペレーターのパートが二十時〜深夜二時まで入っている。パートの方は毎日とはいかないが、週に二、三回は行っているような気がする。フルタイム勤務だけでも、祖母の介護と併せるとかなり大変なのに、パートもある日はもう母はクタクタすぎて、家では寝てるだけだ。
だからこの家では主に私が、炊事に洗濯、掃除、祖母の介護を一人で担っている。
少しでもお母さんを楽にしてあげたい。
最初はその一心で働いていたけれど、最近は身も心も疲れすぎて、祖母の介護をただの“作業”だと感じてしまっていた。それでも、祖母は大切な家族の一員だから、祖母を見放すことはできない。施設に入れることも頭をよぎったけれど、きっと祖母が納得しない。この家は「透くん」と過ごす大切な場所なのだ。息子と離れることを、祖母が望むはずがなかった。
考え事をしていると、十分も経っていたことに気がつく。
そのうち祖母が「あつい、あつい」と言い出す。
熱いならさっさと出ちゃえよ、と思わず心の中で愚痴が漏れる。一人で出ることなんてできないのに。私の介助が必要だって分かっているのに。心の中でこぼれた本音に、自分自身ぞっとしてしまった。
「はいはい、上がろうね〜」
努めて優しい口調で、祖母の身体を支えた。祖母が今度は「さむい」とこぼす。うるさいな。さっき「熱い」って言ったのは自分でしょ。と、また腹黒いことを考えて罪悪感を覚える。
私、大好きなおばあちゃんになんて酷いことを……。
頭の中で、“意地悪な”自分を振り払う。
私はお母さんとおばあちゃんと三人で幸せに暮らす女の子だ。
決しておばあちゃんのことを疎ましく感じてなんかいない。
そんなこと、思ったらいけないんだ……。
なんとか自分を宥めつつ、祖母をお風呂から上げた。身体を拭いて髪の毛を乾かす。午後八時二十分。お風呂に入れるだけなのに、一時間二十分も要した。刻一刻と削られていく自分の時間に焦りを覚えることももうなくなってしまっていた。
いい加減感覚が麻痺している。
私は普通の女子高生なら当たり前にできる、放課後の部活動や勉強ができない。遊びに行くのなんてなおさら無理だ。それも、仕方がないことなんだと諦めている。
祖母がもう寝るというので、自室に連れていく。寝るといっても結局寝ないのがいつものオチだが、部屋にいてくれる分にはありがたい。何かあれば「透く〜ん」と呼ばれるし、それまでは休もう。
自分の部屋に戻った私は、学校でやった宿題の漏れがないか確認する。宿題をやるので精一杯で、授業の復習は全然できない。おかげで成績は下がりっぱなし。一年生の基礎がなってない今、二年生の内容についていけるかどうか、不安しかない……。
勉強で遅れをとっているのが不安であるにも関わらず、いざこうして少しでも時間ができた時に、机に向かう気になれないのがまた疎ましい。
机の抽斗から、手慰みに取り出したのはリップやアイブロウ、ファンデーションといった化粧品の数々と、鏡。
「これ、使うことないな」
手のひらの上でリップをコロコロと転がしながら独りごちる。
私の夢は、メイクアップアーティストになること……だった。そのために、高校を卒業したら専門学校に行きたい——と思い描いたのは中学生の頃。中学三年生になり、祖母の介護が始まってからは、その夢も叶わないんじゃないかと諦めている。
金銭的な問題もあるけれど、それ以上に、圧倒的に時間がないもの……。
手鏡を手に自分の顔をじっと見つめる。
パサパサの髪の毛、目の下にくっきりと浮かび上がるクマ、ぽつぽつとでき始めたニキビ、荒れ放題の肌。
自分の顔がこんなにも醜いものになっているとは思ってもおらず、ひどく取り乱した。
「私、こんな顔で学校に行ってたんだ……」
さすがに、これは見るに耐えない。
美玖も恵菜も、そりゃ私の顔を見て心配してくれるはずだ。こんな顔で、もう学校に行きたくないな……。
他人を綺麗にする仕事に就きたいのに、自分がこんなに醜く廃れているなんて、馬鹿みたい。これじゃ、誰かを綺麗にするなんて到底できやしない。
鏡を閉じて、椅子から立ち上がる。ベッドの上に仰向けになって静かに目を閉じた。束の間の休息。視界から光を遮断すると、眠っていなくても自然と頭が休まる気がする。気がするだけで根拠なんてないけれど、せめて身体だけは少しでも楽にしておきたかった。
世間では、私のように家事や家族の介護に追われている子供を、ヤングケアラーと呼ぶらしい。でも私はこの言葉がしっくりこない。
ケアって、なんだろう。
私は、家族を“ケア”してるのかな。
ただみんなで生きるために役割分担をしているだけ。祖母のことは確かに大変だと思う。だけど、祖母は認知症なんだから仕方がない。病気の家族を労わるのは普通のことだ。
私は家族をケアするための存在じゃない……。
ゆっくりと思考が深いところへと沈んでいく。ああ、だめだ。意識が途切れそう。身体が睡眠へと誘われる。やがて抵抗するのも虚しく、私は眠りに落ちていった。



