「あなたが……お母さんと離婚してから、僕の毎日は地獄の連続だった。新しい“父親”とお母さん、それからその父親の連れ子の弟からは『いない者』として扱われて、家の中では人権なんてなかった。何度、あなたを恨んだか分からない。あなたが浮気なんてしなければ、僕はこんな目に遭わなかったのにって、毎晩夜眠るたびに恨み言が出そうになった。それで、昨日ついに父親から手を挙げられて……僕にはもう、帰る場所がない。……ねえ、どうして僕やお母さんを捨てたの? 僕はあなたにとって、いらない子だった……?」
信じていた人に裏切られてショックを受けた子供の頃の梨斗が垣間見える。寂しさの滲む声は柔らかな明りの中でも、青くくすんでいるように感じられた。
葉加瀬さんが、じっと梨斗の目を見つめている。彼の口は開きかけてはまた閉じて、を繰り返す。どんな言葉を紡ごうか、迷っている様子だった。
やがて決心がついたのが、ゆっくりと唇が開かれる。
「私の口から、すべて話すよ。きみが納得していない部分も含めて、全部」
そう言いながら、葉加瀬さんはエプロンを脱ぐと、私の隣——つまり、梨斗の斜め向い側に座った。
「お父さんがお母さんと離婚したのは、お母さんの不倫が原因なんだ」
「え?」
聞いていた話とは百八十度違う事実に、私も梨斗も目を点にする。
「当時お父さんは、今の会社を立ち上げるために資金繰りに苦戦していた。元々、梨斗のおじいちゃん——私の父親の会社を継ぐ予定だったんだけど、その会社が傾きかけてね。泥船に乗って一緒に沈むより、新しい会社を立ち上げることを選んだんだ。当然父には反対されたし、勘当もされた。それでも私は会社をつくることをやめなかった。情けない話だけど、家のお金もすべてはたいて、借金までしてなんとか資本金を用意したんだ。だけど、そんな私の行動を、お母さんはよく思わなかったんだ。私に愛想を尽かして、男をつくっていた。そんなお母さんを、私は責めることもできなかったよ」
「そんな……」
まさか、本当にそんな理由で梨斗のご両親の仲が引き裂かれることになっていたなんて。初めて知る話に、梨斗自身、信じられないといった様子で目を見開いていた。
「離婚を切り出してきたのも、お母さんの方だ。もうあなたとは一緒にいたくない、と言われてしまってね……。何も言い返せなかったよ。私が、家族を顧みずに、仕事のことで頭がいっぱいになって、家のお金にまで手を出したせいで、お母さんからの信頼を失ったから。お母さんが好きになった相手——藤川は、資産家だった。梨斗のこれからの将来のことを考えると、不倫をされたとはいえ梨斗はお母さんの方にいくべきだと思ったんだ。だから親権を渡すことも、受け入れた。その先に梨斗がどんな生活を強いられるかも、想像せずに……」
葉加瀬さんの声に後悔の色が滲む。
もしも、彼ら夫婦が離婚する際に、本当のことを告げていたら。
梨斗のその後の人生は違っていたのかもしれないのだ。
「お母さんが梨斗や周りの人間に、私が不倫をしたと言いふらしていることも知っていた。悔しくなかったと言えば、嘘になる。私だって本当はずっと、梨斗の親でいたかったんだ……」
ほろりほろりと、彼の頬を涙が滑り落ちてくる。奥の席だから、幸い他のお客さんには見られなくてほっとした。
「そんな……そんなことって」
梨斗の声が震えている。受け入れ難い現実を、どう受け止めるべきか迷っているようだった。
「お母さんは私が不倫をしたと梨斗に嘘をついた手前、梨斗を私に会わせようとしてくれなかった。私も、梨斗に合わせる顔がなかったから、反論できなかった。会えなくても、新しい家庭で幸せに暮らしていると信じていたんだ。……立ち上げた会社は徐々に大きくなって、何店舗も店を展開できるようになった。従業員数もそれなりに増えた。数年でここまで成長するとは思ってなかったから、そこは嬉しい誤算だったよ。廃園した遊園地を買い取ったのは、去年の春のことだった。これから事業で使うのに広い土地が必要だったから。だけど、あの土地を整えて新しい事業を展開するまでに時間がかかる。遊園地の遊具はまだ使える状態だったから、なんとか活用できないかって思ったんだけど、思い浮かんだのは、梨斗の顔だけだった」
梨斗の顔に驚きが広がる。見開かれた目はそのままに、彼はスボンのポケットにそっと手を添える。そこには、遊園地の鍵が入っているのだと分かった。
「遊園地の門の鍵を、梨斗の家のポストに入れたのは私だよ。梨斗に届くか分からなかったけれど、何もしないよりマシだと思って。梨斗に、父親としての役割を全うしてやれなくて、後悔したんだ……。だからせめて、遊園地で楽しい気分になってくれたらと思って。時々、アトラクションの点検にも行っていたんだ」
ああ、そうだったのか。
だから葉加瀬さんは、度々遊園地に姿を現していたんだ。
単に自分の持ち物をチェックしに来たものそうだが、梨斗がアトラクションを楽しめるように、壊れていないか見てくれていたのだ。
葉加瀬さんの中に溢れる、梨斗への愛情がありありと伝わってくる。梨斗も同じだったのか、「僕は……」と声も、瞳も、震わせていた。
「知らなかった……。あなたが、そんなことを思ってこの鍵を届けてくれたなんて。僕は……家に居場所がなくって、あの遊園地で過ごす時間だけが、唯一の心の拠り所だった。この鍵を届けてくれたのは誰なんだろうって、ずっと疑問に思ってたけど……。あなただったんだ。お父さん……ありがとう」
梨斗の口から紡ぎ出された「お父さん」という呼び名に、葉加瀬さんの瞳が大きく見開かれる。
やっと……やっと、繋がった。
梨斗だって本当は、お父さんに会いたかったんだ。
そうだよね。信じたかったんだよね。実の父親が、自分を捨てたわけじゃないって。仕方がない理由があったんだって、信じたかっただろう。
「梨斗、私は一度たりとも、お前のことを忘れたことなんてなかった。父親なのに、父親としての責任が果たせなくて、すまなかった。本当に、お詫びしても仕切れない。こんな父さんだけど……許して、くれるか?」
葉加瀬さんの瞳に憂いが滲んでいる。梨斗はそんな彼の目をじっと見つめながら、ゆっくりと頷いた。
「僕はずっと、お父さんのこと疑ってた。僕とお母さんを捨てた人だって疑って、遠ざけて、自分から会おうともしなかったんだ。でも今ようやく分かったよ。僕のお父さんは、あなただけだ。僕は、この先もお父さんとずっと一緒にいたい。許すとか許さないとか、そんなの必要ないよ。僕のお父さんは、唯一無二の存在だから……」
サーッと、雨のように葉加瀬さんの頬を伝う涙がテーブルの上に、ぽろぽろと滑り落ちる。私はそんな彼に、ポケットから取り出したハンカチを差し出した。
「梨斗、葉加瀬さん。聞いてください。二人が良ければ、一緒に暮らすべきだと思うんです。一度手放した親権も、しかるべき手続きをすれば、取り戻せると聞きました。だから、諦めないでほしいです」
私が、梨斗や葉加瀬さんに励まされて、家族と分かり合うことを諦めなかったように。
彼らにも、大切な人と一緒にいることを諦めないでほしかった。
「ありがとう、深町さん。梨斗とこうして再会できたのはきみのおかげだ。それから、梨斗のことを支えてくれて、本当にありがとう。諦めずに、闘ってみるよ」
違うんです、お父さん。
支えられていたのは私なんです。
梨斗がいたから、私は今ここで、二人の背中を押せているんです。
だから、ありがとうを伝えなくちゃいけないのは、私の方なんです。
そう、喉元まで出かかった言葉をのみこんだ。
言葉にしなくてもきっと、二人には伝わっている。
その証拠に、二人が私の目を優しく見つめて微笑んでくれていた。そっくりな垂れ目が、私に安堵と温もりを与えてくれる。二人はきっともう、大丈夫だ。
「そう言えば、これは梨斗に話したことがなかったんだけど。梨斗が生まれた時、綺麗な梨の花が病院の庭に咲いていたんだ。四月、ちょうど桜が咲く頃で、花に詳しくない私は最初、桜の花が咲いたんだと思っていたんだけどね。病院の先生が、あれは梨の花だって教えてくれて。梨の実は知っているけれど、花を見たのは初めてだった。思わず花言葉を調べたら、こう書いてあった」
和やかな愛情。情愛。慰め。
「どれも、私と、私の家族に必要なものだと思った。だから、生まれてきた我が子には、たっぷりの愛情を注ごう。そして、我が子も誰かに和やかな愛情を持ってくれるようにと願って、『梨斗』と名前をつけた。この店の名前の由来も、同じだよ」
梨の花。
葉加瀬さんがどれだけ梨斗の誕生を心から喜び、愛を育んできたか、肌で感じて胸がきゅっと締め付けられた。
梨斗の瞳から一筋、また一筋と涙が落ちる。私もつられて泣いた。三人で、泣き笑いをしながら、ご飯を食べた。少し冷めてしまった肉じゃがもやっぱり美味しくて、どこか懐かしい味がした。
信じていた人に裏切られてショックを受けた子供の頃の梨斗が垣間見える。寂しさの滲む声は柔らかな明りの中でも、青くくすんでいるように感じられた。
葉加瀬さんが、じっと梨斗の目を見つめている。彼の口は開きかけてはまた閉じて、を繰り返す。どんな言葉を紡ごうか、迷っている様子だった。
やがて決心がついたのが、ゆっくりと唇が開かれる。
「私の口から、すべて話すよ。きみが納得していない部分も含めて、全部」
そう言いながら、葉加瀬さんはエプロンを脱ぐと、私の隣——つまり、梨斗の斜め向い側に座った。
「お父さんがお母さんと離婚したのは、お母さんの不倫が原因なんだ」
「え?」
聞いていた話とは百八十度違う事実に、私も梨斗も目を点にする。
「当時お父さんは、今の会社を立ち上げるために資金繰りに苦戦していた。元々、梨斗のおじいちゃん——私の父親の会社を継ぐ予定だったんだけど、その会社が傾きかけてね。泥船に乗って一緒に沈むより、新しい会社を立ち上げることを選んだんだ。当然父には反対されたし、勘当もされた。それでも私は会社をつくることをやめなかった。情けない話だけど、家のお金もすべてはたいて、借金までしてなんとか資本金を用意したんだ。だけど、そんな私の行動を、お母さんはよく思わなかったんだ。私に愛想を尽かして、男をつくっていた。そんなお母さんを、私は責めることもできなかったよ」
「そんな……」
まさか、本当にそんな理由で梨斗のご両親の仲が引き裂かれることになっていたなんて。初めて知る話に、梨斗自身、信じられないといった様子で目を見開いていた。
「離婚を切り出してきたのも、お母さんの方だ。もうあなたとは一緒にいたくない、と言われてしまってね……。何も言い返せなかったよ。私が、家族を顧みずに、仕事のことで頭がいっぱいになって、家のお金にまで手を出したせいで、お母さんからの信頼を失ったから。お母さんが好きになった相手——藤川は、資産家だった。梨斗のこれからの将来のことを考えると、不倫をされたとはいえ梨斗はお母さんの方にいくべきだと思ったんだ。だから親権を渡すことも、受け入れた。その先に梨斗がどんな生活を強いられるかも、想像せずに……」
葉加瀬さんの声に後悔の色が滲む。
もしも、彼ら夫婦が離婚する際に、本当のことを告げていたら。
梨斗のその後の人生は違っていたのかもしれないのだ。
「お母さんが梨斗や周りの人間に、私が不倫をしたと言いふらしていることも知っていた。悔しくなかったと言えば、嘘になる。私だって本当はずっと、梨斗の親でいたかったんだ……」
ほろりほろりと、彼の頬を涙が滑り落ちてくる。奥の席だから、幸い他のお客さんには見られなくてほっとした。
「そんな……そんなことって」
梨斗の声が震えている。受け入れ難い現実を、どう受け止めるべきか迷っているようだった。
「お母さんは私が不倫をしたと梨斗に嘘をついた手前、梨斗を私に会わせようとしてくれなかった。私も、梨斗に合わせる顔がなかったから、反論できなかった。会えなくても、新しい家庭で幸せに暮らしていると信じていたんだ。……立ち上げた会社は徐々に大きくなって、何店舗も店を展開できるようになった。従業員数もそれなりに増えた。数年でここまで成長するとは思ってなかったから、そこは嬉しい誤算だったよ。廃園した遊園地を買い取ったのは、去年の春のことだった。これから事業で使うのに広い土地が必要だったから。だけど、あの土地を整えて新しい事業を展開するまでに時間がかかる。遊園地の遊具はまだ使える状態だったから、なんとか活用できないかって思ったんだけど、思い浮かんだのは、梨斗の顔だけだった」
梨斗の顔に驚きが広がる。見開かれた目はそのままに、彼はスボンのポケットにそっと手を添える。そこには、遊園地の鍵が入っているのだと分かった。
「遊園地の門の鍵を、梨斗の家のポストに入れたのは私だよ。梨斗に届くか分からなかったけれど、何もしないよりマシだと思って。梨斗に、父親としての役割を全うしてやれなくて、後悔したんだ……。だからせめて、遊園地で楽しい気分になってくれたらと思って。時々、アトラクションの点検にも行っていたんだ」
ああ、そうだったのか。
だから葉加瀬さんは、度々遊園地に姿を現していたんだ。
単に自分の持ち物をチェックしに来たものそうだが、梨斗がアトラクションを楽しめるように、壊れていないか見てくれていたのだ。
葉加瀬さんの中に溢れる、梨斗への愛情がありありと伝わってくる。梨斗も同じだったのか、「僕は……」と声も、瞳も、震わせていた。
「知らなかった……。あなたが、そんなことを思ってこの鍵を届けてくれたなんて。僕は……家に居場所がなくって、あの遊園地で過ごす時間だけが、唯一の心の拠り所だった。この鍵を届けてくれたのは誰なんだろうって、ずっと疑問に思ってたけど……。あなただったんだ。お父さん……ありがとう」
梨斗の口から紡ぎ出された「お父さん」という呼び名に、葉加瀬さんの瞳が大きく見開かれる。
やっと……やっと、繋がった。
梨斗だって本当は、お父さんに会いたかったんだ。
そうだよね。信じたかったんだよね。実の父親が、自分を捨てたわけじゃないって。仕方がない理由があったんだって、信じたかっただろう。
「梨斗、私は一度たりとも、お前のことを忘れたことなんてなかった。父親なのに、父親としての責任が果たせなくて、すまなかった。本当に、お詫びしても仕切れない。こんな父さんだけど……許して、くれるか?」
葉加瀬さんの瞳に憂いが滲んでいる。梨斗はそんな彼の目をじっと見つめながら、ゆっくりと頷いた。
「僕はずっと、お父さんのこと疑ってた。僕とお母さんを捨てた人だって疑って、遠ざけて、自分から会おうともしなかったんだ。でも今ようやく分かったよ。僕のお父さんは、あなただけだ。僕は、この先もお父さんとずっと一緒にいたい。許すとか許さないとか、そんなの必要ないよ。僕のお父さんは、唯一無二の存在だから……」
サーッと、雨のように葉加瀬さんの頬を伝う涙がテーブルの上に、ぽろぽろと滑り落ちる。私はそんな彼に、ポケットから取り出したハンカチを差し出した。
「梨斗、葉加瀬さん。聞いてください。二人が良ければ、一緒に暮らすべきだと思うんです。一度手放した親権も、しかるべき手続きをすれば、取り戻せると聞きました。だから、諦めないでほしいです」
私が、梨斗や葉加瀬さんに励まされて、家族と分かり合うことを諦めなかったように。
彼らにも、大切な人と一緒にいることを諦めないでほしかった。
「ありがとう、深町さん。梨斗とこうして再会できたのはきみのおかげだ。それから、梨斗のことを支えてくれて、本当にありがとう。諦めずに、闘ってみるよ」
違うんです、お父さん。
支えられていたのは私なんです。
梨斗がいたから、私は今ここで、二人の背中を押せているんです。
だから、ありがとうを伝えなくちゃいけないのは、私の方なんです。
そう、喉元まで出かかった言葉をのみこんだ。
言葉にしなくてもきっと、二人には伝わっている。
その証拠に、二人が私の目を優しく見つめて微笑んでくれていた。そっくりな垂れ目が、私に安堵と温もりを与えてくれる。二人はきっともう、大丈夫だ。
「そう言えば、これは梨斗に話したことがなかったんだけど。梨斗が生まれた時、綺麗な梨の花が病院の庭に咲いていたんだ。四月、ちょうど桜が咲く頃で、花に詳しくない私は最初、桜の花が咲いたんだと思っていたんだけどね。病院の先生が、あれは梨の花だって教えてくれて。梨の実は知っているけれど、花を見たのは初めてだった。思わず花言葉を調べたら、こう書いてあった」
和やかな愛情。情愛。慰め。
「どれも、私と、私の家族に必要なものだと思った。だから、生まれてきた我が子には、たっぷりの愛情を注ごう。そして、我が子も誰かに和やかな愛情を持ってくれるようにと願って、『梨斗』と名前をつけた。この店の名前の由来も、同じだよ」
梨の花。
葉加瀬さんがどれだけ梨斗の誕生を心から喜び、愛を育んできたか、肌で感じて胸がきゅっと締め付けられた。
梨斗の瞳から一筋、また一筋と涙が落ちる。私もつられて泣いた。三人で、泣き笑いをしながら、ご飯を食べた。少し冷めてしまった肉じゃがもやっぱり美味しくて、どこか懐かしい味がした。



