「ねえ日彩、やっぱり僕、家に帰りたくないな」

 ぽろりと漏れた彼の本音が、狭いゴンドラの中で切実な色を帯びる。最初に出会った時も、同じことを言っていた。
 あの時もそれまでも、あなたはずっと苦しかったんだね。

「帰らなくていいよ」

 梨斗が、目を瞠る。
 私の口から「帰らなくていい」と返ってくるなんて、考えてもいなかったようだ。

「暴力を振るわれたんでしょ? それ以前に、梨斗のことを『いない者』扱いしてきたんでしょ? 梨斗のことを大切にしてくれない人の元へ、帰る必要なんてないよ」

 それは私の本音だった。
 私は、彼のことが大切だ。
 だから、梨斗が傷つくなら、その人たちの元へは行かせたくない。
 二人の間に沈黙が流れる。彼は、何と言おうか考えあぐねている様子で口を開いたり閉じたりしていた。

「……でも、帰らなかったらさ、僕はどこに行けばいいんだろうね……?」

 親鳥を探す雛のように心細そうな視線を私に向ける。

「私のそばにいてよ」

「え? もしかして、きみの家に泊まらせてもらえるってこと?」

「ぷっ。何でそうなるの」

 斜め上の回答をする彼が、おかしくて吹き出した。

「そういう意味じゃなくてさ。ほら、その……気が済むまで、私の隣にいてってこと。十五分だけじゃなくて、それよりも長い時間。私、一度でいいから梨斗と明るい時間も過ごしてみたいって思ってたんだ。それじゃ、ダメ?」

 いつも、彼と会うのは真夜中の観覧車が一周する十五分間だけだった。
 けれど、本当はもっと長い時間を共に過ごしたい。
 この気持ちはもう抑えきれないし、隠せない。
 カタカタカタ、という音と共に、彼の吐息の音が幾度となく聞こえてきた。心臓がドクドクと激しく脈打ち始める。さっき、告白をしようって思った時以上に、緊張した。
 やがて彼がまっすぐに私を見つめて、「うん」と頷く。

「きみのそばに、いたいな」

 夜空にぽつんと浮かぶ星みたいに、彼の声が耳を通り過ぎて、心にぽっと明りを灯した。

「いようっ。私も今日、お母さんにいろいろと事情を話してさ、梨斗とちゃんと向き合うって宣言してきたから。だからとことん、付き合う。というか、付き合わせてください……!」

 もしかしたら今日で最後かもしれないと覚悟をしていた。
 今日を過ぎれば、梨斗とはこんなふうにここで会うことができない。母にこれ以上心配させるわけにはいかないから。
 だからこの一瞬が無為に過ぎてしまわないように、彼に本音を伝え続ける。
 観覧車が四周目に突入した。
 五周目、六周目、七周目、八周目——。
 彼と、他愛もない話をしながら、何度も何度も、同じ景色を眺めた。時折お互いの気持ちを確かめ合うようにして、「好き」と呟く。私たちの乗っているゴンドラだけ、きっと熱が篭っているだろう。 
 お互いの身の上話も散々した。
 どんな家で育ち、親や兄弟はどんな人だったか。耳を塞ぎたくなる話もあった。でも、幸せな話だってあった。私は、間違いなく両親や祖母のことを愛しているし、梨斗だって本当は家族に甘えたかったんだと言った。

「本当はさ、お父さん……本当のお父さんのことだけど——お父さんに捨てられたことが、一番悲しかったんだよね」

 新しい父親に無視されることより、弟に蔑まれることより。

「そっか……そうだよね。分かるよ」

 私も、祖母に忘れられることで、自分を蔑ろにされているような心地にさせられたから。

「日彩に分かってもらえるなら、もうそれだけで十分か」

 梨斗がほっと息を吐く。
 私にとって、彼と観覧車で過ごす時間がフィルターだったように、彼にとっても私といる時間が温かく居心地の良いものになればいい。
 この時本気でそう思った。
 その後も、私たちは互いの存在を確かめ合うようにして語り合った。もしも同じ学校に通っていたなら。もしも部活をしていたら。どんなふうに過ごしていたか。同じクラスで、でもちょっぴり席が遠くて。お互いに気になっているけれど、話しかけられない。運動会や文化祭なんかのイベントの時に一緒に作業をする中で、だんだん距離が近づいて……。

「って、めちゃくちゃド定番すぎる妄想だね」

「ふふ、そうかも。でもああいうイベントごとに起きるいわゆる“マジック”って、ちょっと憧れるかも」

「ドキドキ感があるから?」

「はい、そうです。青春っぽい」

「今の僕たちだって、十分“青春っぽい”と思うけど?」

 そう言いながら、彼が私の方に身を乗り出して、顔を近づけてきた。
 これってもしかして……。
 恥ずかしくなって、さっと視線を窓の外にやる。いつのまにか空が仄かに白み始めていることに気づいた。

「キスしない?」

「えっ!」

 そのままされるかと思ったのに、まさかあえて言葉にされるとは思っておらず、大きな声を上げてしまった。

「ははっ、びっくりした?」

「びっくりも何も……そういうのって普通、聞かないよ」

「聞いたら野暮だって思ったでしょ?」

「そこまで分かってるならすればいいじゃんっ」

「んーでもタイミング失ったな。それじゃあさ、まずは手を繋がない?」

「それってもしかして例のあれ? ドア・イン・ザ・フェイス」

「正解」

 私が返答をする前に、彼がぐっと顔を近づけて唇を重ねてきた。不意に左手に温度を感じて、彼の右手と繋がれていることに気づいた。
 ずるい。
 私に選ばせる気なんて全然ないじゃん。
 でも……嬉しい。
 胸の中に押さえ込んでいた彼への激情が、観覧車の中で爆発する。観覧車で告白して手を繋いでキスをするなんて、あまりにもベタな展開に頭が沸騰しそうなぐらい恥ずかしかった。だけど、照れて熱くなった顔も、彼に見られるだけなら大丈夫だと思えた。
 観覧車が頂上に辿り着いたのは、もう何度目か分からない。彼の頭越しに見える空は、サーモンピンクのような、淡い黄色と桃色が混ざった優しい色をしていた。
 彼の唇がそっと離れる。

「あけぼの色だ」

「あけぼの色……」

「夜明けの空の、朝焼けの淡い黄赤色のことをそう言うんだって。日彩と見られるなんて思ってなくて、なんか今、すごく胸がドキドキしてるよ」

 夜明けの空、と言われてはっと気づく。
 そうか。もう、そんなに長い時間、梨斗と観覧車に乗っていたんだな。
 アドレナリンが出ているせいか、疲れは溜まっているはずなのに不思議と眠くない。

「私だって梨斗と一緒にこんなに綺麗な空が見られるなんて、思ってなかったよ」

 二人で観覧車に乗るのは、いつも決まって夜中の十二時だった。真っ暗な空に浮かぶ月と星も綺麗だけれど、頂上から見る朝焼けの空は、私たちの未来を明るく照らしてくれているみたいに、きらきら光って美しかった。雲の切れ間から覗く太陽の光を浴びて、私たちは生まれ変わる。二人が出会い、繋がった場所から、再スタートを切るんだ。
 いつのまにか隣に座っていた梨斗の肩に、頭をもたせかける。清潔な石鹸のような香りが、私に底知れない安心感を運んできてくれた。

「ねえ、梨斗」

「ん?」

「私ね、梨斗とこれからも一緒にいたい」

「僕も、そう思ってるよ」

「そっか、嬉しい。だからさ、やっぱりこのままじゃダメだと思う。梨斗が、ちゃんと帰れる場所をつくらないと、一緒にいられなくなる。梨斗が安心して生きていける場所が必要だね」

「安心して生きていける……そんな場所、どこにもないって」

 想像通りの答えが返ってきた。私はすっと目を細めて、オーロラのように輝く空を見つめながら言う。

「あるよ。一つだけ、ある。あなたが帰る場所、二人で探しに行こう」

 梨斗の肩がぴくんと揺れて、私は自分の頭を上げた。横目で見た彼の瞳が大きく見開かれる。やがて私の方を向き、ゆっくりと大きく頷いた。
 それが私たちの、出発の合図だった。