「違うんだ」
「え?」
「救われていたのは、僕の方なんだ。あの時、僕はどうしようもなく悲しくて、仕方がなかった。それを、きみが救ってくれたんだよ」
観覧車が頂上に辿り着く。
梨斗は窓の外の景色を一瞥してから、子猫のような瞳を私に向けて言った。
「……僕の話を、聞いてくれる?」
初めてだった。
彼がこんなふうにして、自ら私に身の上話を切り出すのは。
ずっと、彼の存在が、水面を揺蕩う落ち葉みたいに掴みどころがなく、幻のようだと思っていた。けれど違った。彼は確かにここに存在している。何年も前から、私のことを知ってくれていた。
私は今、猛烈に葉加瀬梨斗という人間のことを、知りたいと思っている。だから大きくゆっくりと頷いた。
「ありがとう。小三の時にこの観覧車に一緒に乗ったっていう話は、日彩が言ったとおりだよ。あの時僕は、孤独に押し潰されそうになってた。話した通り、お母さんが僕の誕生日のお祝いにってここに連れてきてくれたんだけど、一緒に来たのがお父さんじゃなくて、知らない男の人だったから。それと、同い年くらいの男の子も一緒だった」
「その男の子って……」
「うん、雄太だよ。きみの友達の美玖ちゃんがお付き合いしてるっていう。男の人と男の子を見て、僕は瞬時にそれがどういうことなのか理解したんだ」
鈍感なフリをしていたかったんだけどね。
目元を細め、寂しそうに笑う彼。
「それまでも、なんとなく予感はしていたんだ。父親と母親の仲が悪くなってること。母親が父親を避けるようになって、父もそんな母を軽蔑するように眺めてた。だからいずれ、こうなるだろうって思ってたんだけど……でも実際に、新しい父親になる人とその子供を見たら、目の前が真っ暗になった」
ああ、僕、本当にお父さんと離れ離れになるんだなって。
僕の本当の家族という名のパズルはもう、とっくに壊れてピースはバラバラになってしまったんだなって。
「それで、いてもたってもいられなくなって。みんなで戦隊モノのショーを見ている最中に、こっそり抜け出したんだ。そこで、迷子になって泣いてるきみを見つけた」
——どうしたの?
——お母さんが、いなくて……。
——迷子なんだね。
「心細くて泣いてるきみを自分と重ねてしまって。思わず『一緒に観覧車に乗ろう』って誘ったんだ。そしたらきみは、ぱっと顔を上げて『乗りたい』って言った」
そうだ。あの時梨斗が声をかけてくれて、孤独でいっぱいだった心に、太陽の光が差したみたいに明るくなったんだっけ。
「観覧車に乗って話すうちに、きみと自分の境遇が似ていることを知って、驚いた。と同時に、嬉しかったんだ。こんなに悲しいのは自分だけじゃないって、気づけて。だから救われたのは僕の方なんだ。あの時から僕はきみのことをもっとよく知りたいと思ってた」
でも、観覧車は十五分で終わってしまって。
他のアトラクションで遊ぶこともできたけれど、迷子のきみをこれ以上振り回すわけにもいかないって思って。
「その時は近くにいた大人の人と一緒に遊園地の本部に行って、それで、別れた。いつかまた会えたらいいなって強く願ってきみに手を振ったんだ」
——また会おうね。
——うん、ばいばい!
……思い出した。
私、梨斗との別れ際に、大きく手を振って去っていく彼を名残惜しい気持ちで眺めたんじゃないか。彼の方も、ちょっと切なそうにしながら、観覧車の方へと戻っていった。
私たちはあの時から、ずっとお互いを求めていたのかもしれない。
「きみと出会えて、温かい気持ちに浸りながら家に帰った。でも……そこから僕の地獄が始まったんだ」
話の風向きが大きく変わる。観覧車は四分の三の地点を通り過ぎた。あと少しで、地上へと着いてしまう——。
「お母さんが、お父さんと離婚したのはそれからすぐのことだった。お母さんは『お父さんが浮気をした』ってすごく怒ってて……。子供の僕も、お父さんがお母さんをひどく怒らせた結果、二人が別れてお母さんが新しい男の人を連れてきたんだと信じて、絶望した。お父さんのこと好きだったから、僕まで裏切られた気分になった」
お父さんのことを語る梨斗はとても苦しそうだった。途中、言葉が途切れ途切れになり、呼吸も荒くなっていく。
「近所の人たちもお父さんのことを噂してた。『綺麗な奥さんがいるのに浮気したんですって』『梨斗くんだっけ? まだ小さいのに、不憫ねえ』って。僕は、そんな周りの声を聞くたびに、幸せだった自分の人生が嘘っぱちだったんだと思い知らされた」
自分の人生は嘘っぱち。
その言葉に、ズキンと胸が軋む。
私も……私も、家族のために自分の時間を失くしていって、自分の人生が台無しにされたような気がしていたから。
「だけど、そんな噂を聞く以上に地獄だったのは……新しいお父さんが、僕を『いない者』として扱ってきたことだった」
「いない者……」
梨斗の唇がかさかさに乾いていく。
彼の抱えていた真っ暗な闇を、真夜中の空に解き放つことができたらいいのに。
「家の中でね、僕はずっと無視をされてるんだ。食事はかろうじて貰えているけど、みんなと一緒に食卓につくことは許されなくて、部屋で一人で食べてる。僕に話しかける人はいない。話しかけたとしても、僕に何か文句を言いたい時だけ。“父親”に逆らえないから、お母さんも一緒になって僕を無視してる。雄太なんか、『梨斗って名前だから、“なし”にされるんだ』って笑いながら言うんだ。雄太は僕と違って気が強くて、学校でも威張り散らしてるような人間だからさ、僕みたいな、ちょっと控えめで真面目な人間を見下してる。一つ下だけど、雄太の方がラグビー部でガタイもいいしね。お風呂はいつも、僕の番になるとお湯を抜かれてて、お湯を入れようもんなら後でお母さんに『ガス代が無駄だろ』ってこっぴどく叱られる。真冬が辛くてね。でもまあ、そんなことにはもう慣れてしまったよ。誕生日ケーキはもちろんない。というか、僕の誕生日に、僕以外の家族でケーキを食べていたこともある。中学を卒業した後、高校にも行かせてもらえなくて……。だから僕、年齢的には日彩と同じ高校二年生の年だけど、高校生じゃ、ないんだ」
「高校生じゃない……? じゃあ、いつも着てる制服は……?」
「あれは、雄太のをこっそり借りてるんだ。高校生に、なってみたかったから」
寂しそうにぽつり、と呟いた梨斗の声色には、彼が感じている孤独がありありと滲んでいた。
彼の話は、そんなことが本当に現実に起こっているのかと、疑いたくなるぐらい聞くに耐えない話だった。彼のことを幽霊だって疑った時、彼は「半分正解で、半分不正解」と言った。それは、家の中で「いない者」として扱われているからだって、この時初めて分かった。
「え?」
「救われていたのは、僕の方なんだ。あの時、僕はどうしようもなく悲しくて、仕方がなかった。それを、きみが救ってくれたんだよ」
観覧車が頂上に辿り着く。
梨斗は窓の外の景色を一瞥してから、子猫のような瞳を私に向けて言った。
「……僕の話を、聞いてくれる?」
初めてだった。
彼がこんなふうにして、自ら私に身の上話を切り出すのは。
ずっと、彼の存在が、水面を揺蕩う落ち葉みたいに掴みどころがなく、幻のようだと思っていた。けれど違った。彼は確かにここに存在している。何年も前から、私のことを知ってくれていた。
私は今、猛烈に葉加瀬梨斗という人間のことを、知りたいと思っている。だから大きくゆっくりと頷いた。
「ありがとう。小三の時にこの観覧車に一緒に乗ったっていう話は、日彩が言ったとおりだよ。あの時僕は、孤独に押し潰されそうになってた。話した通り、お母さんが僕の誕生日のお祝いにってここに連れてきてくれたんだけど、一緒に来たのがお父さんじゃなくて、知らない男の人だったから。それと、同い年くらいの男の子も一緒だった」
「その男の子って……」
「うん、雄太だよ。きみの友達の美玖ちゃんがお付き合いしてるっていう。男の人と男の子を見て、僕は瞬時にそれがどういうことなのか理解したんだ」
鈍感なフリをしていたかったんだけどね。
目元を細め、寂しそうに笑う彼。
「それまでも、なんとなく予感はしていたんだ。父親と母親の仲が悪くなってること。母親が父親を避けるようになって、父もそんな母を軽蔑するように眺めてた。だからいずれ、こうなるだろうって思ってたんだけど……でも実際に、新しい父親になる人とその子供を見たら、目の前が真っ暗になった」
ああ、僕、本当にお父さんと離れ離れになるんだなって。
僕の本当の家族という名のパズルはもう、とっくに壊れてピースはバラバラになってしまったんだなって。
「それで、いてもたってもいられなくなって。みんなで戦隊モノのショーを見ている最中に、こっそり抜け出したんだ。そこで、迷子になって泣いてるきみを見つけた」
——どうしたの?
——お母さんが、いなくて……。
——迷子なんだね。
「心細くて泣いてるきみを自分と重ねてしまって。思わず『一緒に観覧車に乗ろう』って誘ったんだ。そしたらきみは、ぱっと顔を上げて『乗りたい』って言った」
そうだ。あの時梨斗が声をかけてくれて、孤独でいっぱいだった心に、太陽の光が差したみたいに明るくなったんだっけ。
「観覧車に乗って話すうちに、きみと自分の境遇が似ていることを知って、驚いた。と同時に、嬉しかったんだ。こんなに悲しいのは自分だけじゃないって、気づけて。だから救われたのは僕の方なんだ。あの時から僕はきみのことをもっとよく知りたいと思ってた」
でも、観覧車は十五分で終わってしまって。
他のアトラクションで遊ぶこともできたけれど、迷子のきみをこれ以上振り回すわけにもいかないって思って。
「その時は近くにいた大人の人と一緒に遊園地の本部に行って、それで、別れた。いつかまた会えたらいいなって強く願ってきみに手を振ったんだ」
——また会おうね。
——うん、ばいばい!
……思い出した。
私、梨斗との別れ際に、大きく手を振って去っていく彼を名残惜しい気持ちで眺めたんじゃないか。彼の方も、ちょっと切なそうにしながら、観覧車の方へと戻っていった。
私たちはあの時から、ずっとお互いを求めていたのかもしれない。
「きみと出会えて、温かい気持ちに浸りながら家に帰った。でも……そこから僕の地獄が始まったんだ」
話の風向きが大きく変わる。観覧車は四分の三の地点を通り過ぎた。あと少しで、地上へと着いてしまう——。
「お母さんが、お父さんと離婚したのはそれからすぐのことだった。お母さんは『お父さんが浮気をした』ってすごく怒ってて……。子供の僕も、お父さんがお母さんをひどく怒らせた結果、二人が別れてお母さんが新しい男の人を連れてきたんだと信じて、絶望した。お父さんのこと好きだったから、僕まで裏切られた気分になった」
お父さんのことを語る梨斗はとても苦しそうだった。途中、言葉が途切れ途切れになり、呼吸も荒くなっていく。
「近所の人たちもお父さんのことを噂してた。『綺麗な奥さんがいるのに浮気したんですって』『梨斗くんだっけ? まだ小さいのに、不憫ねえ』って。僕は、そんな周りの声を聞くたびに、幸せだった自分の人生が嘘っぱちだったんだと思い知らされた」
自分の人生は嘘っぱち。
その言葉に、ズキンと胸が軋む。
私も……私も、家族のために自分の時間を失くしていって、自分の人生が台無しにされたような気がしていたから。
「だけど、そんな噂を聞く以上に地獄だったのは……新しいお父さんが、僕を『いない者』として扱ってきたことだった」
「いない者……」
梨斗の唇がかさかさに乾いていく。
彼の抱えていた真っ暗な闇を、真夜中の空に解き放つことができたらいいのに。
「家の中でね、僕はずっと無視をされてるんだ。食事はかろうじて貰えているけど、みんなと一緒に食卓につくことは許されなくて、部屋で一人で食べてる。僕に話しかける人はいない。話しかけたとしても、僕に何か文句を言いたい時だけ。“父親”に逆らえないから、お母さんも一緒になって僕を無視してる。雄太なんか、『梨斗って名前だから、“なし”にされるんだ』って笑いながら言うんだ。雄太は僕と違って気が強くて、学校でも威張り散らしてるような人間だからさ、僕みたいな、ちょっと控えめで真面目な人間を見下してる。一つ下だけど、雄太の方がラグビー部でガタイもいいしね。お風呂はいつも、僕の番になるとお湯を抜かれてて、お湯を入れようもんなら後でお母さんに『ガス代が無駄だろ』ってこっぴどく叱られる。真冬が辛くてね。でもまあ、そんなことにはもう慣れてしまったよ。誕生日ケーキはもちろんない。というか、僕の誕生日に、僕以外の家族でケーキを食べていたこともある。中学を卒業した後、高校にも行かせてもらえなくて……。だから僕、年齢的には日彩と同じ高校二年生の年だけど、高校生じゃ、ないんだ」
「高校生じゃない……? じゃあ、いつも着てる制服は……?」
「あれは、雄太のをこっそり借りてるんだ。高校生に、なってみたかったから」
寂しそうにぽつり、と呟いた梨斗の声色には、彼が感じている孤独がありありと滲んでいた。
彼の話は、そんなことが本当に現実に起こっているのかと、疑いたくなるぐらい聞くに耐えない話だった。彼のことを幽霊だって疑った時、彼は「半分正解で、半分不正解」と言った。それは、家の中で「いない者」として扱われているからだって、この時初めて分かった。



