「やっぱり上手ねえ、透くんの作ったご飯、お母さん、すごく好きなんだあ」
「……っ!」
私の方を見ながら——しかし焦点は合わないまま、「透くん」と今は亡き父の名前を口にする祖母。父は祖母——深町たえの息子だ。私の家は、母と、父の母親である祖母の三人暮らし。母にとっては父がいない今でも姑である祖母と一緒に暮らしていることになる。口には滅多に出さないが、母がそれ相応のストレスを抱えていることは知っていた。
「透くん、また明日もご飯作ってね。お母さん、楽しみにしてるから」
にこにこと人当たりの良い笑顔を浮かべて、やっぱり食べづらそうに口を動かしている。
祖母は認知症だ。
発覚したのは今から四年前、私が中学生になった頃。でもその頃はまだ、時々物忘れをしている程度の症状で、今ほどひどくはなかった。身の回りのことは普通に自分でやれていたし、今みたいに私を父と間違えることもなかった。認知症だと診断されて、悩んでいた祖母の苦悶の表情を思い出す。症状が進行した今ではもう、その時みたいに苦渋に満ちた顔つきになることもない。むしろ、今みたいににこにこと笑っていることが増えた。物事への関心が薄くなったのが原因だろう。
私のことを父と間違うようになったのは、つい一ヶ月前のこと。それまでもちょこちょこ私に「透くん」と話しかけることはあったが、一時的なものだった。すぐに「日彩ちゃんだったわねえ。ごめんねえ」と私のことを思い出して謝ってくれていた。が、最近は一度私を父だと思い込むと、その思い込みが一日中解けない。
私が、私でなくなっていくような感覚に、恐怖を覚える。
母は、母と二人の時には私を「日彩」と呼ぶけれど、祖母の前では祖母を刺激しないように、私の名前を呼ばなくなった。
私、いつかこの家からいなくなっちゃうのかな。
存在を消されて、祖母に一生思い出してもらえなくなるのかな……。
そうしたら私、もう誰のために頑張ってるのか、分からなくなるな。
「……」
私を息子の「透くん」だと勘違いしている以上、祖母とできる会話はない。父のフリをして話すなんて無理だし、誰かのフリをして会話をするなんて虚しすぎる。
今この瞬間に、この家に“私”はいない。
どれだけ祖母の面倒を見ても、祖母は私に感謝してくれるどころか、私という孫の存在を認めてもくれない。
それがどれだけ惨めなことか……きっと、同年代の友達に話したところで理解してもらえないだろう。美玖や恵菜の顔をそっと思い浮かべる。彼女たちは放課後の時間を、吹奏楽部という自分の好きなことをする活動に充てている。吹部の練習はきつすぎると愚痴を聞くこともあるけれど、二人のことを羨ましいと思う。
だから、二人には愚か、友人の誰にも家庭の事情を打ち明けたことはなかった。
去年の担任の三上先生と、今年の担任の安西先生にだけは事情を話しているけれど、それで心が軽くなることはない。学校を遅刻したり欠席したりした時には先生が心配してくれるが、だからと言って現状が変わるわけではなかった。
「ごちそうさま」
祖母とできるだけ長い時間顔を合わせたくなくて、スプーンでかきこむようにして急いでチャーハンを平らげた。
「お母さん、この後お風呂だよ。準備しといて」
「はあい」
私のことを「透くん」と呼ぶ以上、あまり祖母を刺激したくない。だからあえて「お母さん」と呼んだ。一度刺激してしまうと、パニックに陥ったみたいに騒ぎ出すことがあるから。そうなったら私の手には負えず、母が帰ってくるまで耐えなくちゃいけなくなる。それだけは避けたかった。
「……っ!」
私の方を見ながら——しかし焦点は合わないまま、「透くん」と今は亡き父の名前を口にする祖母。父は祖母——深町たえの息子だ。私の家は、母と、父の母親である祖母の三人暮らし。母にとっては父がいない今でも姑である祖母と一緒に暮らしていることになる。口には滅多に出さないが、母がそれ相応のストレスを抱えていることは知っていた。
「透くん、また明日もご飯作ってね。お母さん、楽しみにしてるから」
にこにこと人当たりの良い笑顔を浮かべて、やっぱり食べづらそうに口を動かしている。
祖母は認知症だ。
発覚したのは今から四年前、私が中学生になった頃。でもその頃はまだ、時々物忘れをしている程度の症状で、今ほどひどくはなかった。身の回りのことは普通に自分でやれていたし、今みたいに私を父と間違えることもなかった。認知症だと診断されて、悩んでいた祖母の苦悶の表情を思い出す。症状が進行した今ではもう、その時みたいに苦渋に満ちた顔つきになることもない。むしろ、今みたいににこにこと笑っていることが増えた。物事への関心が薄くなったのが原因だろう。
私のことを父と間違うようになったのは、つい一ヶ月前のこと。それまでもちょこちょこ私に「透くん」と話しかけることはあったが、一時的なものだった。すぐに「日彩ちゃんだったわねえ。ごめんねえ」と私のことを思い出して謝ってくれていた。が、最近は一度私を父だと思い込むと、その思い込みが一日中解けない。
私が、私でなくなっていくような感覚に、恐怖を覚える。
母は、母と二人の時には私を「日彩」と呼ぶけれど、祖母の前では祖母を刺激しないように、私の名前を呼ばなくなった。
私、いつかこの家からいなくなっちゃうのかな。
存在を消されて、祖母に一生思い出してもらえなくなるのかな……。
そうしたら私、もう誰のために頑張ってるのか、分からなくなるな。
「……」
私を息子の「透くん」だと勘違いしている以上、祖母とできる会話はない。父のフリをして話すなんて無理だし、誰かのフリをして会話をするなんて虚しすぎる。
今この瞬間に、この家に“私”はいない。
どれだけ祖母の面倒を見ても、祖母は私に感謝してくれるどころか、私という孫の存在を認めてもくれない。
それがどれだけ惨めなことか……きっと、同年代の友達に話したところで理解してもらえないだろう。美玖や恵菜の顔をそっと思い浮かべる。彼女たちは放課後の時間を、吹奏楽部という自分の好きなことをする活動に充てている。吹部の練習はきつすぎると愚痴を聞くこともあるけれど、二人のことを羨ましいと思う。
だから、二人には愚か、友人の誰にも家庭の事情を打ち明けたことはなかった。
去年の担任の三上先生と、今年の担任の安西先生にだけは事情を話しているけれど、それで心が軽くなることはない。学校を遅刻したり欠席したりした時には先生が心配してくれるが、だからと言って現状が変わるわけではなかった。
「ごちそうさま」
祖母とできるだけ長い時間顔を合わせたくなくて、スプーンでかきこむようにして急いでチャーハンを平らげた。
「お母さん、この後お風呂だよ。準備しといて」
「はあい」
私のことを「透くん」と呼ぶ以上、あまり祖母を刺激したくない。だからあえて「お母さん」と呼んだ。一度刺激してしまうと、パニックに陥ったみたいに騒ぎ出すことがあるから。そうなったら私の手には負えず、母が帰ってくるまで耐えなくちゃいけなくなる。それだけは避けたかった。



