「おばあちゃんっ、いい加減にして!」
パチンと、祖母の頬を叩いたことに気づいてはっと手を引っ込める。
私、大好きなおばあちゃんになんてことを……。
引っ込めた手がぷるぷると震える。祖母は、突然手を上げた私を見て、呆けたようにぽかんと口を開けている。老人虐待、という言葉が咄嗟に頭に浮かんだ。
最低だ、私……。
胸に鋭い痛みが走り、この場から逃げ出したくなった。
けれど、私を見つめる祖母の双眸に、先ほどとはわずかに違う揺めきがあることに気づいて踏みとどまる。
「日彩ちゃん?」
「え……?」
祖母の口から、確かに「日彩ちゃん」という名前が聞こえて、心臓が止まりかけた。
「ああ、日彩ちゃんじゃない。ごめんねえ、痛かったわよねえ。大丈夫?」
祖母が両手で私の頬を包み込む。
叩いたのは私の方なのに。痛いのは、おばあちゃんの方でしょ……?
そう思うのに、何も言葉が出てこない。頬に触れたしわくちゃの手から、確かに伝わる温もりに、胸がツンと痛くなった。
「おばあちゃん、ずっと心配してたんだよ。お父さんが死んじゃって、日彩ちゃんが可哀想だって……。本当に辛かったわねえ。お父さんの分まで、おばあちゃん、頑張るからね。お父さんがいなくても幸せだって思えるぐらい、おばあちゃんが日彩ちゃんのそばにずっといるから」
優しくて温かい声が、胸にすっと響いて、溶ける。
「おばあちゃん……」
頬に添えられている祖母の手にそっと触れる。こうして穏やかな気持ちで祖母に触れたのはいつぶりだろう。もう思い出せない。ずっと、祖母から忘れ去られて泣いていた心が、今ようやく晴れていく。
「おばあちゃん、そのカーディガン、寒くない?」
一度愛しいと思うと、祖母を心配する気持ちが溢れて、聞いた。
「うん、寒くないわ。これは透くんが誕生日にくれたものだからねえ。おばちゃん、死ぬ時もこのカーディガンを着ていくつもり」
「そっか……」
愛しい我が子の頭を撫でるように、カーディガンの袖を触る祖母。
理解できなかった祖母のこだわりが、ようやく分かって胸に引っかかっていたものがすっと取れていくような感覚だった。
「おばあちゃん、ごめんね」
「やあねえ、なんで謝るのよ」
「だって私、今までおばあちゃんにひどいことを」
思ってたから、と最後まで口にすることはできなかった。
祖母が、つぶらな瞳が私を見つめながら、「大丈夫よ」と語るから。喉元まで出かかった言葉をすっと引っ込めた。
「ひどいことをしているのは、おばあちゃんのほうでしょう? 日奈子さんにも日彩ちゃんにも、苦労をかけてるのはおばあちゃんのほう。いつもごめんねえ。世話してくれてありがとうね」
にこにこと、優しい笑みを浮かべる祖母の顔を見るのが限界だった。
何か言葉を発する前に、嗚咽が喉から溢れ出て止まらない。泣きじゃくる私の背中を、祖母はゆっくりとさすってくれた。
ああ、私。
ずっとおばあちゃんに、「ありがとう」って言ってほしかったんだな。
あなたがやっていることは、ちゃんとおばあちゃんの心を救っているから、無駄じゃないよって言ってほしかったんだ。
家族のために頑張ることが、無駄な努力じゃないんだって認めてほしかった。
自分の時間をどれだけ失っても、家族が幸せに暮らしていけるように、頑張って良かったって思わせてほしかったんだ——……。
私は自分を見失ってなんかいない。
ようやく自覚することができた。
「今までごめんね、おばあちゃん。私のほうこそ、そばにいてくれてありがとう」
思えばお父さんが亡くなった日も、泣きじゃくる私の背中をさすり、抱きしめてくれたのは祖母だった。母は茫然自失状態で、娘の私にまで気を配る余裕がなかったから。祖母だって辛いはずなのに、一心に私を慰めようとしてくれた。
その後も、祖母がいてくれたから、父を失った悲しみから少しでも早く回復することができた。
私のほうが、いっぱい祖母に支えてもらっていた。
今更こんなことに気づくなんて、遅いよね。
「……あれえ、スタッフさん、どうしたの?」
隣にいた祖母の声色が、落ち着いたものから子供みたいな高い声に突然変わった。私を見る目が、先ほどとは違い、訝しそうな目になっている。おまけに呼び方も「日彩ちゃん」じゃなくて、「スタッフさん」に戻っていた。
私は、ごしごしと両目を擦った。
祖母の中から、再び私が消えたことを自覚し、胸がツンと痛い。けれど、確かにこれまでとは違う温もりがまだ残っている。祖母が、完全に私のことを忘れたわけではないということを、知っているから。祖母だってきっと闘っている。身近な人を忘れていく痛みと隣り合わせで、闘ってるんだ。
だから私は、にっこりと笑顔を浮かべて言った。
「なんでもありません。息子さんと観覧車に乗るんですよね。息子さんは、今どこに?」
「さっきまでこの辺にいたんだよお! もう、本当にどこに行ったのかしら」
きょろきょろと辺りを見渡して「透くん」を探す祖母。その間に、私は母に電話を入れて祖母を迎えにきてもらうように頼んだ。
しばらくして母がやって来る。私と祖母が遊園地の中で一緒にいるのを見て驚き、それからすぐに祖母の手を引いた。
「帰りましょう。透くんは、家に帰ってきたから」
「えーそうなの? あの子、あんなに観覧車に乗りたがってたのにぃ?」
「ええ。お母さんのご飯が食べたいって言ってたわ」
「ふふ、そうなの。それじゃ、仕方ないわねえ」
母が上手いこと祖母を宥めて、二人は出口の方へと歩き出す。母は私を連れていこうとはしない。きっと私が、これから“友達”に会うことを知っているから。
「またねえ、スタッフさん! 梨斗くんと楽しんでえ。早く彼のところへいってあげてね。大切な人が目の前からいなくなる前にね」
祖母が振り返って手を振った。
祖母の口から飛び出してきた彼の名前に、はっと祖母を見つめ返す。
おばあちゃん、なんで知ってるの。
不可思議に思いながら、記憶を探る。そうだ、確かに私、以前祖母の前で「梨斗のところへ行ってくる」と言ったことがあったっけ……。
でも、そんな私の言葉をいちいち覚えていたなんて。
さっき、確かに繋がってたその手を見つめながら、私も大きく手を挙げる。
「またね、おばあちゃん」
パチンと、祖母の頬を叩いたことに気づいてはっと手を引っ込める。
私、大好きなおばあちゃんになんてことを……。
引っ込めた手がぷるぷると震える。祖母は、突然手を上げた私を見て、呆けたようにぽかんと口を開けている。老人虐待、という言葉が咄嗟に頭に浮かんだ。
最低だ、私……。
胸に鋭い痛みが走り、この場から逃げ出したくなった。
けれど、私を見つめる祖母の双眸に、先ほどとはわずかに違う揺めきがあることに気づいて踏みとどまる。
「日彩ちゃん?」
「え……?」
祖母の口から、確かに「日彩ちゃん」という名前が聞こえて、心臓が止まりかけた。
「ああ、日彩ちゃんじゃない。ごめんねえ、痛かったわよねえ。大丈夫?」
祖母が両手で私の頬を包み込む。
叩いたのは私の方なのに。痛いのは、おばあちゃんの方でしょ……?
そう思うのに、何も言葉が出てこない。頬に触れたしわくちゃの手から、確かに伝わる温もりに、胸がツンと痛くなった。
「おばあちゃん、ずっと心配してたんだよ。お父さんが死んじゃって、日彩ちゃんが可哀想だって……。本当に辛かったわねえ。お父さんの分まで、おばあちゃん、頑張るからね。お父さんがいなくても幸せだって思えるぐらい、おばあちゃんが日彩ちゃんのそばにずっといるから」
優しくて温かい声が、胸にすっと響いて、溶ける。
「おばあちゃん……」
頬に添えられている祖母の手にそっと触れる。こうして穏やかな気持ちで祖母に触れたのはいつぶりだろう。もう思い出せない。ずっと、祖母から忘れ去られて泣いていた心が、今ようやく晴れていく。
「おばあちゃん、そのカーディガン、寒くない?」
一度愛しいと思うと、祖母を心配する気持ちが溢れて、聞いた。
「うん、寒くないわ。これは透くんが誕生日にくれたものだからねえ。おばちゃん、死ぬ時もこのカーディガンを着ていくつもり」
「そっか……」
愛しい我が子の頭を撫でるように、カーディガンの袖を触る祖母。
理解できなかった祖母のこだわりが、ようやく分かって胸に引っかかっていたものがすっと取れていくような感覚だった。
「おばあちゃん、ごめんね」
「やあねえ、なんで謝るのよ」
「だって私、今までおばあちゃんにひどいことを」
思ってたから、と最後まで口にすることはできなかった。
祖母が、つぶらな瞳が私を見つめながら、「大丈夫よ」と語るから。喉元まで出かかった言葉をすっと引っ込めた。
「ひどいことをしているのは、おばあちゃんのほうでしょう? 日奈子さんにも日彩ちゃんにも、苦労をかけてるのはおばあちゃんのほう。いつもごめんねえ。世話してくれてありがとうね」
にこにこと、優しい笑みを浮かべる祖母の顔を見るのが限界だった。
何か言葉を発する前に、嗚咽が喉から溢れ出て止まらない。泣きじゃくる私の背中を、祖母はゆっくりとさすってくれた。
ああ、私。
ずっとおばあちゃんに、「ありがとう」って言ってほしかったんだな。
あなたがやっていることは、ちゃんとおばあちゃんの心を救っているから、無駄じゃないよって言ってほしかったんだ。
家族のために頑張ることが、無駄な努力じゃないんだって認めてほしかった。
自分の時間をどれだけ失っても、家族が幸せに暮らしていけるように、頑張って良かったって思わせてほしかったんだ——……。
私は自分を見失ってなんかいない。
ようやく自覚することができた。
「今までごめんね、おばあちゃん。私のほうこそ、そばにいてくれてありがとう」
思えばお父さんが亡くなった日も、泣きじゃくる私の背中をさすり、抱きしめてくれたのは祖母だった。母は茫然自失状態で、娘の私にまで気を配る余裕がなかったから。祖母だって辛いはずなのに、一心に私を慰めようとしてくれた。
その後も、祖母がいてくれたから、父を失った悲しみから少しでも早く回復することができた。
私のほうが、いっぱい祖母に支えてもらっていた。
今更こんなことに気づくなんて、遅いよね。
「……あれえ、スタッフさん、どうしたの?」
隣にいた祖母の声色が、落ち着いたものから子供みたいな高い声に突然変わった。私を見る目が、先ほどとは違い、訝しそうな目になっている。おまけに呼び方も「日彩ちゃん」じゃなくて、「スタッフさん」に戻っていた。
私は、ごしごしと両目を擦った。
祖母の中から、再び私が消えたことを自覚し、胸がツンと痛い。けれど、確かにこれまでとは違う温もりがまだ残っている。祖母が、完全に私のことを忘れたわけではないということを、知っているから。祖母だってきっと闘っている。身近な人を忘れていく痛みと隣り合わせで、闘ってるんだ。
だから私は、にっこりと笑顔を浮かべて言った。
「なんでもありません。息子さんと観覧車に乗るんですよね。息子さんは、今どこに?」
「さっきまでこの辺にいたんだよお! もう、本当にどこに行ったのかしら」
きょろきょろと辺りを見渡して「透くん」を探す祖母。その間に、私は母に電話を入れて祖母を迎えにきてもらうように頼んだ。
しばらくして母がやって来る。私と祖母が遊園地の中で一緒にいるのを見て驚き、それからすぐに祖母の手を引いた。
「帰りましょう。透くんは、家に帰ってきたから」
「えーそうなの? あの子、あんなに観覧車に乗りたがってたのにぃ?」
「ええ。お母さんのご飯が食べたいって言ってたわ」
「ふふ、そうなの。それじゃ、仕方ないわねえ」
母が上手いこと祖母を宥めて、二人は出口の方へと歩き出す。母は私を連れていこうとはしない。きっと私が、これから“友達”に会うことを知っているから。
「またねえ、スタッフさん! 梨斗くんと楽しんでえ。早く彼のところへいってあげてね。大切な人が目の前からいなくなる前にね」
祖母が振り返って手を振った。
祖母の口から飛び出してきた彼の名前に、はっと祖母を見つめ返す。
おばあちゃん、なんで知ってるの。
不可思議に思いながら、記憶を探る。そうだ、確かに私、以前祖母の前で「梨斗のところへ行ってくる」と言ったことがあったっけ……。
でも、そんな私の言葉をいちいち覚えていたなんて。
さっき、確かに繋がってたその手を見つめながら、私も大きく手を挙げる。
「またね、おばあちゃん」



