「お母さん、ただいま」

 日曜日の今日、午前中に病院から退院してきた母は、すっかり体調が戻り、顔色も良くなっていた。けれど蓄積された疲労はすぐには治らないらしいので、これからも油断はできない。母がまた倒れてしまわないためにも、ちゃんと母と向き合わなくちゃ。
 祖母は和室の縁側で日向ぼっこをしているらしい。こちらを見向きもしない。

「おかえり。知り合いに会ってきたんだっけ?」

「初対面の人だよ。ヤングケアラーの集いに所属してる、心理カウンセラーの秋元さん」

「ヤングケアラー、心理カウンセラー……」

 ぽつりと私の言葉を反芻した母の顔に、困惑の色が浮かぶ。

「お母さん、私、お母さんとちゃんと話したいことがあるんだ」

 いつになく真剣なまなざしでそう言う私を見て、母の瞳はふるりと揺れた。

「……そう。お母さんも、日彩と話したいと思ってたわ」

 何か思うところがあったのか、母はすぐに応じてくれた。二人でお茶を飲みながら、食卓の椅子に座る。こうして母とゆっくり向かい合うのはいつぶりだろう。もう、思い出せない。

「お母さん、私ね、今の生活に不満があるわけじゃないんだけど、最近分からなくなることがあるの。この生活を続けられるのかなって。このまま家族のために働いて、自分の時間も、将来も、失い続けるんじゃないかって思うと、怖くなる」

 母が目を大きく開き、息をのんだ。
 心臓がドクドクと脈打っている。
 自分の素直な感情を、こうして母に打ち明けるのは初めてで、とても緊張した。親子なのに——いや、親子だからこそ、言えていないことがたくさんあった。

「おばあちゃんのことは大好きだし、お母さんがしんどいのも分かる。だから今まで頑張ってきたんだけど……でも、このままだと私も、お母さんも、おばあちゃんもきっと倒れちゃう。そうなる前に、なんとかしたいと思ったんだ。おばあちゃんを施設に預けるか、訪問介護を頼むか、どれが一番最適なのか分からないけど、考えてみない? お金に関しても、色々と助成制度があるみたいなの。さっきちょっと調べただけだから、詳しいことはまだ分からないけど。このままの生活を続けるのは、嫌なの」

 ……言えた。
 私の本当の気持ち。
 胸の底に溜まっていた澱を吐き出すことができた。
 母は切なそうに瞳を揺らし、そして眉を下げ、泣きそうな顔になった。そんな母から、私は目を逸せない。いや、逸らしちゃいけないと思った。

「日彩……ごめんなさい」

 しゅんと湿り気を帯びた母の声が耳に響いた。
 その一言だけで、いくらか気持ちが和らぐ。
 母はじっと黙り込み、自分の中で考えをまとめているようだった。しばらくの間沈黙の時間が流れる。やがてお茶を一口口に含み、飲み込んだ母がそっと口を開いた。

「ずっと、日彩には申し訳ないと思っていたの。本当なら、部活も友達との遊びも、一番楽しめる時期のあなたを、家に縛り付けてしまっていることを悪いと思ってた。でも……お母さん自身、しんどい時に日彩から何度も助けられて、救われてきたから、日彩がいなくなったらどうして生きていけばいいか分からなくて、現状を維持することしか考えられなかった。だけど、そうよね。日彩は、怖いわよね。勉強だってろくにできていないでしょうし、将来のことだって……。お母さん、日彩のこと、何一つ分かってなかったんだわ。本当に、ごめんなさい」

 心からの後悔の念が目の前で対峙している母から思う存分伝わってきて、胸がぎゅっと締め付けられた。
 お母さんも、辛かったんだね……。
 行き場のない矛盾した気持ちを抱えて、それでも日々あくせく働くしかなくて。娘と向き合えないことに焦りを覚えつつ、どんどん認知症が悪化していく祖母のことも考えなくちゃいけなくて。
 私もお母さんも、膨らみすぎて破裂しそうな風船みたいに、いっぱいいっぱいになっていたんだ。

「ううん、お母さんは悪くないよ。……誰も悪くない。私たちは家族だもん。みんなで支え合って、どうしていくべきか決める。それが、一番みんなが楽になれる方法なんじゃないかなあって……秋元さんや、友達と話してて、気づいたんだ」

 美玖や恵菜、それから大切なあの人の顔が浮かぶ。
 みんな、私の話を聞いてなんとかしたいと思ってくれているようだった。だから当事者である私と母と祖母が、一番考えなくちゃいけない。これからの生活のこと。でもそれは、決して苦しいことじゃない。考えることは、未来への希望だ。

「許してくれてありがとう。お母さんも、いっぱい考えるわ。焦らず、みんなで決めましょう」

「うん、そうする」

 母と目を合わせてにっこりと笑い合う。こうしてお互いの笑顔を見たのもいつぶりなのか、思い出せない。こんなにも大切なことをいくつも失っていたと思うと、過ぎ去った日々が名残惜しく思われた。

「そういえば日彩、話は変わるんだけど。あなた、いつも夜中にどこに行っているの?」

 ぎくり、と胸が震えた。
 毎晩こっそり家を抜け出していることを、仕事で家を空けているか、仕事が休みでもその時間には眠っている母には気づかれていないと思っていたのに。

「……知ってたんだ」

「そりゃ、知ってるわよ。今までは朝まで家にあったゴミが、夜中に出されるようになってるってこと。日彩のことだから危ないことはしないって信じて、口を挟まなかっただけ。でもあんまり続くから、さすがに夜中に女の子一人で出歩くのは危ないと思って」

「それは……」

 母の立場から言わせてみれば、ごもっともといったところだ。もし将来自分の娘が夜毎外へ繰り出していたら、止めるだろう。
 正直に言うべきだと、思った。