母は、蓄積された疲労と貧血で倒れたということだった。
二、三日入院して安静にしておけばおそらく良くなるだろう、とのこと。
何か、大変な病気ではなかったことに心の底からほっとした。一人でずっと不安だった。祖母とはまったくと言っていいほど、この不安を分かち合うことができそうにない。
母が目を覚ます前に、私は祖母と帰宅した。
「あんた誰なの、家に返せ!」
「だから今から家に帰るんだって」
帰宅するまでずっとこんな調子で祖母と押し問答を繰り広げる。心が疲弊しきっていて、祖母に部外者扱いされることにはもう何も心が動かなかった。
午後七時。自分は食欲がないので祖母に夕飯を食べさせた後、再び不安が押し寄せてくる。
梨斗との約束の時間まであと五時間もある。それまで、この不安と一人で闘わなくちゃいけないの……?
お母さんは大丈夫だと分かっていても、やっぱり身体の震えが止まらなかった。
「おばあちゃん、お風呂入ろう」
ともあれ祖母をお風呂に入れようと思い部屋を覗くと、すでに眠りこけていた。
起こしてお風呂に入れても良かったのだが、ふと心の中で、張り詰めていた糸がぷつんと切れた。
「ちょっと出かけてくるね」
制服から私服へとようやく着替えて、小さな鞄を手にした。スマホと財布、必要最低限のものを入れて、私は家を飛び出した。
普段は乗らない電車に揺られて、見慣れない駅で降りる。名前は知っているけれど、実際に降り立ったことはなかった。自宅から七駅離れた駅で、乗り換えで利用する人が多い印象だ。
スマホの地図を見ながら、目的地へと歩く。左手には名刺。先日、遊園地の前で葉加瀬さんからもらったものだった。
「あった、ここだ……」
住宅街を抜け、小さな繁華街に出ると、そこには名刺に書かれていた通り『創作料理梨の花』と銘打たれた看板の立つ店があった。壁は木目調で統一されていて、店名のロゴは温かい家庭料理を思わせる、柔らかな文字だ。
扉の前で少し迷ってから、引き戸を開け、店内に一歩足を踏み入れた。
「こんばんは……」
暖色系の明りが灯る店内は、家庭の温かさを匂わせる落ち着いた空気が流れていた。
「いらっしゃいませ。……あ」
私に気づいたエプロン姿の葉加瀬さんが、目を丸くした。が、すぐににっこりと微笑んで「空いているお席へどうぞ」と私を店内へと促してくれた。
「よく来てくれたね」
「ちょっと気になって……」
本当は家にいたくなくて、かといって他に行く場所もないから来てみました、なんて事実は言えない。『梨の花』には一品もののメニューもあれば、定食セットもあるようだった。こじんまりとしたお店だが、中にいるお客さんはお酒を飲みながら一品メニューを食べている人が大半だ。私は未成年だから定食を、と迷いながら、「肉じゃが定食」を選んだ。食欲がなかったはずなのに、運ばれてきた肉じゃがを見ると一気にお腹が空いた。
「いただきます」
ほくほくの肉じゃがを口に運ぶ。じゃがいもが溶けて、ほんのりとした甘みを残す。肉は牛肉だった。柔らかいお肉がジューシーで、玉ねぎと一緒に食べるとさらにコクが出て美味しかった。まだ母親が料理をしてくれていた頃に食べた家庭の肉じゃがを思い出す。
「おいしい、です」
ちょうど葉加瀬さんが近くを通りかかったので、声をかけた。
「そう? 良かった。この店ではね、“お袋の味”を再現しているんだ。気に入ってもらえて良かったよ」
「すごく味が染みていて、じんときました」
「はは、そんなふうに言ってくれたのはきみが初めてだよ。えっと、名前はなんだっけ」
「深町日彩です」
「深町さん。今日はどうしてここに来てくれたの?」
「それは……」
さっきは「ちょっと気になって」と言ったけれど、優しい表情で語り掛けられて、つい口が滑る。
「どこにも……居場所がなくて。お母さんが倒れちゃって、おばあちゃんと二人きりの空間が、どうしても嫌で。でも、他に行くあてがなくて、ふと葉加瀬さんのことを思い出したんです」
葉加瀬さんからすれば、母が倒れたり祖母が認知症だったりする事情について、突然話されてもよく理解できなかったと思う。でも、のっぴきらない事情があることは察してくれた様子で「そうか」と頷いた。
「良かった。きみの逃避行先に選んでもらえて」
「逃避行……」
謎めいた言い回しをする葉加瀬さんが、梨斗と重なる。
「逃げたくなったらいつでもおいで。私がこの店を開いたのは、大切な人が帰りたくなるような場所をつくりたかったからなんだ」
大切な人が、帰りたくなるような場所。
それって、もしかして……。
頭に浮かんだ梨斗の表情が笑ったり寂しそうだったり、万華鏡のように変っていく。この前、彼に葉加瀬さんの話をした時、怯えたような表情をして「会いたくない」と訴えていた。
葉加瀬さん自身はこんなにも優くて穏やかそうな人なのに、どうして?
「きみの事情は知らないけど、頼れる場所や人がいるなら、頼った方がいい。泣けるうちに泣くべきだ。いつか、悲しくても泣けない日が来るかもしれない。誰にも助けてと言えない日が来るかもしれない。だから今は、存分に誰かを頼りなさい」
葉加瀬さんの言葉が、痛いくらいに胸に染みていく。味の沁みた肉じゃがみたいに、私の身体に溶けて、心の一部になった。
残りの肉じゃがと、副菜の酢の物を一気に平らげる。熱々のご飯が胃袋を満たした。
「葉加瀬さん、あの」
厨房へと戻ろうとする彼の背中を呼び止める。
「なんだい?」
梨斗と同じ、垂れた瞳をした彼は、息子と同じ年代の私を、慈しむようなまなざしで見つめた。
「梨斗に、会いたいと思いますか……?」
詳しい事情は分からない。けれど梨斗は実の父親ではなく、義理の父親と一緒に暮らしている。そして、葉加瀬さんの名前を出すと、はっきりと「会いたくない」と言った。
彼は……彼の方は、どうなんだろうか。
私から初めて梨斗の名前を聞いた彼は目を大きく見開いて、それからふっと微笑んで答えた。
「会いたい……に、決まってるよ」
その言葉の裏には「会えない」という前提が含まれていることが分かって。
テーブルの上の空っぽになった器を見つめながら、心がくしゃりと泣いた。
二、三日入院して安静にしておけばおそらく良くなるだろう、とのこと。
何か、大変な病気ではなかったことに心の底からほっとした。一人でずっと不安だった。祖母とはまったくと言っていいほど、この不安を分かち合うことができそうにない。
母が目を覚ます前に、私は祖母と帰宅した。
「あんた誰なの、家に返せ!」
「だから今から家に帰るんだって」
帰宅するまでずっとこんな調子で祖母と押し問答を繰り広げる。心が疲弊しきっていて、祖母に部外者扱いされることにはもう何も心が動かなかった。
午後七時。自分は食欲がないので祖母に夕飯を食べさせた後、再び不安が押し寄せてくる。
梨斗との約束の時間まであと五時間もある。それまで、この不安と一人で闘わなくちゃいけないの……?
お母さんは大丈夫だと分かっていても、やっぱり身体の震えが止まらなかった。
「おばあちゃん、お風呂入ろう」
ともあれ祖母をお風呂に入れようと思い部屋を覗くと、すでに眠りこけていた。
起こしてお風呂に入れても良かったのだが、ふと心の中で、張り詰めていた糸がぷつんと切れた。
「ちょっと出かけてくるね」
制服から私服へとようやく着替えて、小さな鞄を手にした。スマホと財布、必要最低限のものを入れて、私は家を飛び出した。
普段は乗らない電車に揺られて、見慣れない駅で降りる。名前は知っているけれど、実際に降り立ったことはなかった。自宅から七駅離れた駅で、乗り換えで利用する人が多い印象だ。
スマホの地図を見ながら、目的地へと歩く。左手には名刺。先日、遊園地の前で葉加瀬さんからもらったものだった。
「あった、ここだ……」
住宅街を抜け、小さな繁華街に出ると、そこには名刺に書かれていた通り『創作料理梨の花』と銘打たれた看板の立つ店があった。壁は木目調で統一されていて、店名のロゴは温かい家庭料理を思わせる、柔らかな文字だ。
扉の前で少し迷ってから、引き戸を開け、店内に一歩足を踏み入れた。
「こんばんは……」
暖色系の明りが灯る店内は、家庭の温かさを匂わせる落ち着いた空気が流れていた。
「いらっしゃいませ。……あ」
私に気づいたエプロン姿の葉加瀬さんが、目を丸くした。が、すぐににっこりと微笑んで「空いているお席へどうぞ」と私を店内へと促してくれた。
「よく来てくれたね」
「ちょっと気になって……」
本当は家にいたくなくて、かといって他に行く場所もないから来てみました、なんて事実は言えない。『梨の花』には一品もののメニューもあれば、定食セットもあるようだった。こじんまりとしたお店だが、中にいるお客さんはお酒を飲みながら一品メニューを食べている人が大半だ。私は未成年だから定食を、と迷いながら、「肉じゃが定食」を選んだ。食欲がなかったはずなのに、運ばれてきた肉じゃがを見ると一気にお腹が空いた。
「いただきます」
ほくほくの肉じゃがを口に運ぶ。じゃがいもが溶けて、ほんのりとした甘みを残す。肉は牛肉だった。柔らかいお肉がジューシーで、玉ねぎと一緒に食べるとさらにコクが出て美味しかった。まだ母親が料理をしてくれていた頃に食べた家庭の肉じゃがを思い出す。
「おいしい、です」
ちょうど葉加瀬さんが近くを通りかかったので、声をかけた。
「そう? 良かった。この店ではね、“お袋の味”を再現しているんだ。気に入ってもらえて良かったよ」
「すごく味が染みていて、じんときました」
「はは、そんなふうに言ってくれたのはきみが初めてだよ。えっと、名前はなんだっけ」
「深町日彩です」
「深町さん。今日はどうしてここに来てくれたの?」
「それは……」
さっきは「ちょっと気になって」と言ったけれど、優しい表情で語り掛けられて、つい口が滑る。
「どこにも……居場所がなくて。お母さんが倒れちゃって、おばあちゃんと二人きりの空間が、どうしても嫌で。でも、他に行くあてがなくて、ふと葉加瀬さんのことを思い出したんです」
葉加瀬さんからすれば、母が倒れたり祖母が認知症だったりする事情について、突然話されてもよく理解できなかったと思う。でも、のっぴきらない事情があることは察してくれた様子で「そうか」と頷いた。
「良かった。きみの逃避行先に選んでもらえて」
「逃避行……」
謎めいた言い回しをする葉加瀬さんが、梨斗と重なる。
「逃げたくなったらいつでもおいで。私がこの店を開いたのは、大切な人が帰りたくなるような場所をつくりたかったからなんだ」
大切な人が、帰りたくなるような場所。
それって、もしかして……。
頭に浮かんだ梨斗の表情が笑ったり寂しそうだったり、万華鏡のように変っていく。この前、彼に葉加瀬さんの話をした時、怯えたような表情をして「会いたくない」と訴えていた。
葉加瀬さん自身はこんなにも優くて穏やかそうな人なのに、どうして?
「きみの事情は知らないけど、頼れる場所や人がいるなら、頼った方がいい。泣けるうちに泣くべきだ。いつか、悲しくても泣けない日が来るかもしれない。誰にも助けてと言えない日が来るかもしれない。だから今は、存分に誰かを頼りなさい」
葉加瀬さんの言葉が、痛いくらいに胸に染みていく。味の沁みた肉じゃがみたいに、私の身体に溶けて、心の一部になった。
残りの肉じゃがと、副菜の酢の物を一気に平らげる。熱々のご飯が胃袋を満たした。
「葉加瀬さん、あの」
厨房へと戻ろうとする彼の背中を呼び止める。
「なんだい?」
梨斗と同じ、垂れた瞳をした彼は、息子と同じ年代の私を、慈しむようなまなざしで見つめた。
「梨斗に、会いたいと思いますか……?」
詳しい事情は分からない。けれど梨斗は実の父親ではなく、義理の父親と一緒に暮らしている。そして、葉加瀬さんの名前を出すと、はっきりと「会いたくない」と言った。
彼は……彼の方は、どうなんだろうか。
私から初めて梨斗の名前を聞いた彼は目を大きく見開いて、それからふっと微笑んで答えた。
「会いたい……に、決まってるよ」
その言葉の裏には「会えない」という前提が含まれていることが分かって。
テーブルの上の空っぽになった器を見つめながら、心がくしゃりと泣いた。



