「お母さん、今日って夜の仕事ある?」
翌朝、目が覚めた私は、食卓で朝食を食べながらニュースを見ていた母に尋ねた。
「今日? 今日はお休みよ」
「そっか。じゃあちょっと話があるんだ」
改めて母に話がある、なんて言うのは少し恥ずかしかった。母は案の定、「何?」と目を丸くしている。
「また夕方に話すよ」
「そう。分かったわ。ちょうど今日、早退しようと思ってたの」
「早退? なんでまた」
「最近体調がすぐれなくてね。上司に相談したら、半休を取るよう勧められて」
「そっか。大丈夫なの?」
「ええ、軽い貧血だろうから半日休めば十分よ」
「分かった。じゃあまた夕方に」
体調が悪いというのは気になったけれど、淡々と返事をしてくれて、気分がほっと和らぐ。色々と勘ぐられるのは好きじゃない。母の無防備な受け答えが、今の私にとってはありがたかった。
学校に着くと、昨日までと違って美玖と恵菜が揃って挨拶をしてくれた。
「おはよう!」
「おはよう、美玖、恵菜」
昨日まで、私たちの間にはギクシャクとした空気が流れていたのに。腹を割って話したことで、気まずい気持ちがなくなっていた。それどころか、前より二人と仲良くなれた気がして嬉しかった。
「私、今日あいつに別れようって言おうと思ってるんだ」
美玖が決意に満ちたまなざしで言った。
「え、雄太に?」
驚き。昨日、確かに別れるとは言っていたけれど、昨日の今日でもう行動に移そうだなんて。
「早いよね。美玖っていつもやると決めたら即行動! の人間だから」
「そうだよ。だって、早いとこ部のみんなとも仲直りしたいし、示しをつけたい。そのためには、今すぐ彼と別れるのが一番だって思ったんだ」
「そっか。美玖はすごいよ。頑張って」
別れ話をするのに「頑張って」というのはちょっと違うのかもしれない。けれど、一昨日見た雄太の性格の感じだと、別れてと言っても食い下がってくる可能性がある。だからどうか、美玖が雄太と無事に別れられますように。
「日彩は? 色々と決心ついた?」
美玖の目が問いかける。
決心、というのは彼女が昨日勧めてくれたヤングケアラーの専門家に相談する決心ということだろう。
「うん、少しずつ調べてる。でも今日はその前に、お母さんと一度話しておこうと思って」
「ああ、確かに。家族と話すのが先だね。忙しいみたいだけど、話し合う時間は取れそうなの?」
「大丈夫。きっとゆっくり話せばこれからのことも一緒に考えられると思う」
「そっか。じゃあ、日彩もファイトだね!」
美玖と恵菜が私に向かって拳を突き出してくる。
そこに自分の拳をコツンとぶつけた。
こんな日が来るなんて、思ってなかった。
中学で部活を引退してから、二人と私の間には溝ができていると思っていたから。二人の世界に、私はいない。それが寂しくて悲しくて仕方がなかった。
けれど今、もう一度三人で同じ時間を過ごすことができている。溝はいつのまにか埋まっていて、地続きの現実世界に、私は二人と息をしている。
無事に学校での一日を終え、放課後になった。
美玖たちを部活へと送り出した私は、いつにも増して早々と帰路に着く。
お母さんと、どういうふうに話そうかな。
なんて切り出そう。
頭の中でぐるぐると考えながら帰宅して、玄関の扉を開ける。
「ただいま」
「……」
返事はない。母は今日半休を取ると言っていたから、とっくに家に帰っているはずなんだけど。コンビニにでも出かけてるのかな。あ、でも、靴がある。よれたパンプスが、玄関の端っこにきちんと揃えて置いてあった。
だとすればトイレかもしれない。
ひとまず家に上がって、母の姿を探す。居間へと続く扉を開き、キッチンへと差し掛かった時、信じられない光景を見た。
「お母さん!?」
キッチンの前で、母が倒れていた。
仕事に出かける時のきちんとした服を着たまま、床に転がっている。
「お母さん、大丈夫っ!?」
気が動転しながら、咄嗟に母の身体を揺さぶる。でも、返事はない。背筋に冷や汗が流れる。母の脈を確認する。ちゃんと動いているし、息もしていた。少しだけ安心したけれど、それでも震えは止まらなかった。
ポケットからスマホを取り出して「119」のボタンを押した。
「あのっ、私のお母さんが、家で倒れてて……!」
救急車を呼ぶのは初めてで、声は上擦るし、きちんと状況を伝えることもできなくて泣きたくなった。けれど、救急隊の方が冷静に話を聞いてくれたおかげで、なんとか気を持ち堪える。
「はい……はい、分かりました。そのまま待ちます」
母が倒れた原因が分からない以上、むやみやたらに身体を揺するのはダメだと聞いて、そっと母の肩に手を添える。不安で不安でたまらない。
「梨斗……助けて」
咄嗟にこぼれ落ちた彼の名前が、部屋の中でこだまする。
助けて、誰か。
お母さんを助けて。
泣きそうになりながら、心の中で必死に祈る。
しばらくして救急車のサイレンが聞こえ、救急隊員が部屋に上がり込んできた時、ようやく少しだけ安堵した。
「娘さんですね。一緒に来てください」
「はい、あ、でもおばあちゃんが」
「おばあちゃん? いるんですか?」
「はい。認知症なんです」
「それじゃあ、おばあちゃんも一緒に」
「分かりました」
部屋で寝転がっていた祖母を連れて、救急車に乗り込む。
「ちょっと、何よ! 私は家にいたいんだっ」
「いいから来て!」
イヤイヤをする祖母を救急車に乗せるのに、一苦労した。
こんな時にどうして。どうして私とお母さんの邪魔ばかりするの!
早く運ばないと、お母さんが死んじゃうかもしれないのにっ。
思わず本音が口からこぼれそうになり咄嗟に口を塞ぐ。
冷静になれ……と言い聞かせても、やっぱり心のざわめきは止まらない。
おばあちゃんがもっとしっかりしていれば。お母さんが倒れた時にすぐに救急車を呼んでくれたら。
考えても仕方のないことをぐるぐる、ぐるぐる、永遠に考え続ける。救急車の中で終始怒った顔をしている祖母のことを、空っぽの心で見つめていた。
翌朝、目が覚めた私は、食卓で朝食を食べながらニュースを見ていた母に尋ねた。
「今日? 今日はお休みよ」
「そっか。じゃあちょっと話があるんだ」
改めて母に話がある、なんて言うのは少し恥ずかしかった。母は案の定、「何?」と目を丸くしている。
「また夕方に話すよ」
「そう。分かったわ。ちょうど今日、早退しようと思ってたの」
「早退? なんでまた」
「最近体調がすぐれなくてね。上司に相談したら、半休を取るよう勧められて」
「そっか。大丈夫なの?」
「ええ、軽い貧血だろうから半日休めば十分よ」
「分かった。じゃあまた夕方に」
体調が悪いというのは気になったけれど、淡々と返事をしてくれて、気分がほっと和らぐ。色々と勘ぐられるのは好きじゃない。母の無防備な受け答えが、今の私にとってはありがたかった。
学校に着くと、昨日までと違って美玖と恵菜が揃って挨拶をしてくれた。
「おはよう!」
「おはよう、美玖、恵菜」
昨日まで、私たちの間にはギクシャクとした空気が流れていたのに。腹を割って話したことで、気まずい気持ちがなくなっていた。それどころか、前より二人と仲良くなれた気がして嬉しかった。
「私、今日あいつに別れようって言おうと思ってるんだ」
美玖が決意に満ちたまなざしで言った。
「え、雄太に?」
驚き。昨日、確かに別れるとは言っていたけれど、昨日の今日でもう行動に移そうだなんて。
「早いよね。美玖っていつもやると決めたら即行動! の人間だから」
「そうだよ。だって、早いとこ部のみんなとも仲直りしたいし、示しをつけたい。そのためには、今すぐ彼と別れるのが一番だって思ったんだ」
「そっか。美玖はすごいよ。頑張って」
別れ話をするのに「頑張って」というのはちょっと違うのかもしれない。けれど、一昨日見た雄太の性格の感じだと、別れてと言っても食い下がってくる可能性がある。だからどうか、美玖が雄太と無事に別れられますように。
「日彩は? 色々と決心ついた?」
美玖の目が問いかける。
決心、というのは彼女が昨日勧めてくれたヤングケアラーの専門家に相談する決心ということだろう。
「うん、少しずつ調べてる。でも今日はその前に、お母さんと一度話しておこうと思って」
「ああ、確かに。家族と話すのが先だね。忙しいみたいだけど、話し合う時間は取れそうなの?」
「大丈夫。きっとゆっくり話せばこれからのことも一緒に考えられると思う」
「そっか。じゃあ、日彩もファイトだね!」
美玖と恵菜が私に向かって拳を突き出してくる。
そこに自分の拳をコツンとぶつけた。
こんな日が来るなんて、思ってなかった。
中学で部活を引退してから、二人と私の間には溝ができていると思っていたから。二人の世界に、私はいない。それが寂しくて悲しくて仕方がなかった。
けれど今、もう一度三人で同じ時間を過ごすことができている。溝はいつのまにか埋まっていて、地続きの現実世界に、私は二人と息をしている。
無事に学校での一日を終え、放課後になった。
美玖たちを部活へと送り出した私は、いつにも増して早々と帰路に着く。
お母さんと、どういうふうに話そうかな。
なんて切り出そう。
頭の中でぐるぐると考えながら帰宅して、玄関の扉を開ける。
「ただいま」
「……」
返事はない。母は今日半休を取ると言っていたから、とっくに家に帰っているはずなんだけど。コンビニにでも出かけてるのかな。あ、でも、靴がある。よれたパンプスが、玄関の端っこにきちんと揃えて置いてあった。
だとすればトイレかもしれない。
ひとまず家に上がって、母の姿を探す。居間へと続く扉を開き、キッチンへと差し掛かった時、信じられない光景を見た。
「お母さん!?」
キッチンの前で、母が倒れていた。
仕事に出かける時のきちんとした服を着たまま、床に転がっている。
「お母さん、大丈夫っ!?」
気が動転しながら、咄嗟に母の身体を揺さぶる。でも、返事はない。背筋に冷や汗が流れる。母の脈を確認する。ちゃんと動いているし、息もしていた。少しだけ安心したけれど、それでも震えは止まらなかった。
ポケットからスマホを取り出して「119」のボタンを押した。
「あのっ、私のお母さんが、家で倒れてて……!」
救急車を呼ぶのは初めてで、声は上擦るし、きちんと状況を伝えることもできなくて泣きたくなった。けれど、救急隊の方が冷静に話を聞いてくれたおかげで、なんとか気を持ち堪える。
「はい……はい、分かりました。そのまま待ちます」
母が倒れた原因が分からない以上、むやみやたらに身体を揺するのはダメだと聞いて、そっと母の肩に手を添える。不安で不安でたまらない。
「梨斗……助けて」
咄嗟にこぼれ落ちた彼の名前が、部屋の中でこだまする。
助けて、誰か。
お母さんを助けて。
泣きそうになりながら、心の中で必死に祈る。
しばらくして救急車のサイレンが聞こえ、救急隊員が部屋に上がり込んできた時、ようやく少しだけ安堵した。
「娘さんですね。一緒に来てください」
「はい、あ、でもおばあちゃんが」
「おばあちゃん? いるんですか?」
「はい。認知症なんです」
「それじゃあ、おばあちゃんも一緒に」
「分かりました」
部屋で寝転がっていた祖母を連れて、救急車に乗り込む。
「ちょっと、何よ! 私は家にいたいんだっ」
「いいから来て!」
イヤイヤをする祖母を救急車に乗せるのに、一苦労した。
こんな時にどうして。どうして私とお母さんの邪魔ばかりするの!
早く運ばないと、お母さんが死んじゃうかもしれないのにっ。
思わず本音が口からこぼれそうになり咄嗟に口を塞ぐ。
冷静になれ……と言い聞かせても、やっぱり心のざわめきは止まらない。
おばあちゃんがもっとしっかりしていれば。お母さんが倒れた時にすぐに救急車を呼んでくれたら。
考えても仕方のないことをぐるぐる、ぐるぐる、永遠に考え続ける。救急車の中で終始怒った顔をしている祖母のことを、空っぽの心で見つめていた。



