「ただいまー」

 六時間目までの授業が終わり、クラスメイトたちが各々部活へと向かっていく中、私はまっすぐに帰宅した。城北高校から電車に揺られること三十分。近くもなく、遠くもない地域に住む私は、おんぼろの戸建ての家の扉を開けた。

「……」

 部屋の奥から返事はない。引き戸をガラガラと閉めて玄関を確認する。使い古した平たい靴はちゃんとそこにあった。だったらちゃんと家にいるはず。ただそれだけのことに、安堵のため息を漏らす。

「おばあちゃん、ただいま」

 居間を抜けて座敷へと続く襖を開けると、祖母は縁側でじーっと地面を見つめていた。何をしているんだろう、と後ろから覗き込むと、シロアリの行列が歩いていて、思わず「ひっ」と悲鳴を上げる。 
 この前退治したばかりなのにどうして、また。
 苦手な虫退治をするのにはものすごい気力と労力がいる。仕事で忙しい母にはそんなことをしている余裕がなく、この手の問題を解決するのはいつも私の役目だった。

「おばあちゃん、ねえ、何してるの」

 シロアリを見てしまったことで、つい苛立ちが声に滲む。祖母はそこでようやく私に気づいたのか、はたと後ろを振り返った。

「あらあ、おかえりぃ」

 間延びした声で私を迎える祖母。自分の心とは対照的な呑気なその物言いに、焦燥感が募る。
 いや、落ち着け。まだ祖母と顔を合わせて一分も経ってない。いちいち気にしたらダメ。

「ただいま。こんなところにずっといたら風邪引くよ」

 四月とはいえ、夕方のこの時間は肌寒い。見れば祖母は薄手のカーディガンを着ているだけで、かなり無防備な格好をしている。
 このカーディガン、真冬もずっと着てたな……。
 私や母が厚手のカーディガンに変えようよ、と提案しても頑なに拒み続けた。袖や襟ぐりが伸び切った薄いカーディガンを、よくもまあずっと着ていられるものだ。おかげで、祖母のために買った分厚いカーディガンは私が着る羽目になった。ばば臭さ全開のカーディガンを人前で着るのは恥ずかしいから、家の中で部屋着として使っている。

「シロアリ、またこんなに増えててすごいなあって思って。この生命力、おばあちゃんも見習わないとねえ」

「なに呑気なこと言ってるの。いいから早く中に入って、窓閉めて」

 湧いてきたシロアリを見て生命力に感動する人間がどこにいるだろうか。

 人の苦労も知らないで……。
 生命力なんて、それ以上なくていいよっ。

 ふと、自分が心の中で酷い台詞を呟いたのに気づいてはっとする。
 私、今何を考えたんだろう。
 シロアリの除去に腐心しているからと言って、祖母の何気ない言葉にいちいちカッカするのは良くない。祖母はきっと、訳も分からず思ったことをぽんっとそのまま口にしているだけだ。深く考えすぎるな。
 なんとか自制心を保ちながら、祖母を縁側から部屋へと引きずる。窓を閉めると、シロアリが部屋の中へ侵入していないかと確認した。

 たぶん、大丈夫なはず……。
 前回は部屋の中までシロアリの行列ができていたから、あの時のことを思えばまだ被害は少ない。
 今日中にでも業者に除去を頼むかあ。
 お金がかかるから、本当は自分で退治したいところだけれど、あいにく時間も労力も残ってないし。二度も三度もあの気持ち悪い生き物と向き合いたくない。
 今度はのほほんと畳のいぐさを撫でる祖母を置いて、自室へと入る。財布を取り出してお小遣いを確認した。

「ギリギリ足りるかな……」

 何が楽しくて、自宅のシロアリ除去にお小遣いを使わなくちゃいけないんだろう。本当なら今日、このお金は美玖たちとカフェで美味しいものを食べるのに使っていたのに。
 後悔しても遅い。すべては自分の不注意が招いた結果だ。
 でも……だけど。 
 そもそも家のことに追われていなければ、約束だって忘れなかったはず。
 そう思うと、私や母を働くだけ働かせておいて、自分ではなーんにもできない祖母のことを恨めしく思った。
 こんなふうに思う自分が嫌になる。
 祖母のこと、嫌いなわけじゃないのに。

 むしろ、好きだ。
 私はおばあちゃんのことが好き。
 好きだからこそ、どうにもならなくて苦しくなることがある。

 祖母のことを考えていると胸がじんじんと熱を帯びたように痛くなる。
 感傷的になっている場合じゃない。夕飯の準備を、しなくちゃ。

 台所へと行き、冷蔵庫の扉を開ける。中はほとんど空っぽで、今日スーパーへ買い出しに行かなくちゃいけないことに気づいた。けれど、祖母はここのところ夜寝る時間がまちまちだ。私が買い物に行っている間に寝てしまうかもしれない。そうなる前に夕飯だけは食べさせておかなくちゃいけない。
 ひとまず、今ある食材で適当にご飯を作ろう。買い出しは後回し。今日の夕飯ぐらいは作れる材料は揃っている。簡単なものしかできないけど、十分だろう。
 頭の中で段取りを組みつつ、冷蔵庫の中からなけなしの食材を取り出した。お米をセットして炊いている間に具材を切る。どこからか祖母の鼻歌が聞こえてきた。いつの時代の歌かも分からない演歌調の曲だ。祖母のお気に入りなんだろう。何度も鼻歌で聞いたことがあるのに、曲名は知らない。祖母に尋ねる気にもならなかった。

「おばあちゃーん、ご飯できたよー」

 夕方六時ごろ、出来上がったチャーハンをお皿に盛って、祖母を居間に呼んだ。うたた寝をしていたのか、先ほどよりも髪の毛がぼさっとしている。
 本当、自由気ままでいいなあ……。

「美味しそうな匂いだね」と、ほのぼのとした口調で言いながら私の目の前の椅子に座る。子供みたいにきちんと両手で「いただきます」と手を合わせてから、チャーハンを咀嚼する祖母。抜けている歯があるので、もごもごと口を動かす。そのなんともいえない口の動きをじっと見ていると、皮肉にも無心になれた。