祖母がご飯を食べ終える頃には一日の疲れがどっと押し寄せてきたけれど、まだ祖母のお風呂という重大任務が残っている。

「おば——じゃない、“お母さん”、早く服脱いで」

「ん」

 脱衣所で祖母に服を脱ぐように促す。けれど、どういうわけか、祖母はムッと口を閉じたまま服を脱ごうとしない。

「ねえ、早くしてよ」

「……ヤダ」

「は?」

「お風呂、面倒臭い」

「……」

 小さな子供のようにプイッと横を向かれ、私は呆気に取られる。さっき、ご飯を食べている時は上機嫌だったのに。ちょっと時間が経てば、この有様だ。お風呂に入らないなんて言い出したのは、今日が初めてのことだった。

「入らないと、汚いでしょ」

 もう、早く入らないと、梨斗との待ち合わせの時間までに諸々片付かないじゃないか。

 苛立ちがどうしても態度に出てしまう。祖母の腕を無理やり引っ掴み、カーディガンを脱がそうとした。

「いやだっ! 脱ぎたくない! これは息子(・・)からもらった大事なもんなんだからっ」

「息子……?」

 まるで、敵を見るような目で私を睨みつける祖母。
 その棘のある態度に、私の心臓はドクンと大きく跳ねた。
 今、おばあちゃんは私のことを「透くん」だと思ってるんじゃないの……? それなのに、「息子からもらった」なんて表現はおかしい。もしかして、私が「日彩」だと思い出した?
 一瞬胸に宿った喜びも、次の祖母の言葉に打ち砕かれる。

「あんたみたいな赤の他人(・・・・)に、お風呂に入れてもらう筋合いはないよっ!」

「っ……!」

 鬼の形相で私を睨みながら言い放つ祖母の声は、今まで聞いたこともないほど尖っていて、敵意に満ちていた。
 それにしても、おばあちゃん、今なんて……?
 赤の他人?
「透くん」でも「日彩ちゃん」でもない。私は、この家に侵入してきた不審者だとでも言うのか。

「私……私はっ……」

 日彩だよっ。
 思い出してよ、おばあちゃん……!
 そう叫びたいのに、喉から声が出てこない。それを言ってしまえば、祖母が余計に混乱してしまうことが分かりきっていたから。
 この家には、祖母の中には、私はもうどこにもいない。
 必死に祖母の介助をしてきたことも、なかったことにされたみたいに、祖母は私を恨みがましい目で見つめている。
「透くん」でも良かった。祖母が求める自分ではない誰かになりきって、祖母の生活を支えて。そこに少しでも祖母がありがとうと思ってくれている、と信じていた。
 だけど、違ったんだ……。
 私は祖母にとって、赤の他人で、日常を脅かそうとする脅威だ。
 私、なんで今までおばあちゃんのために頑張ってきたのかな……。
 もう、分からないよ。
 目の淵に溜まった涙がぶわりと溢れ出す。そんな私を見ても、祖母は眉ひとつ動かさない。大切な雛鳥を守る、親鳥のような鋭い視線で私を睨みつけたまま。
 言いたいことを、何一つ言うことができずに、ジリジリと祖母の前から後ずさる。祖母をお風呂に入れなきゃ、と思っていた気持ちも、もうどこかへ飛んでしまっていた。とにかく、この場から逃げ出したい。これ以上、祖母の前にいられそうになかった。

「私……梨斗のとこに、行ってくるっ」

 脱衣所に祖母を残したまま、身一つで家を飛び出した。
 午後九時半。五月のこの時間帯は、日中とは違ってまだ少し肌寒い。薄手のカーディガンと、くるぶしまであるズボンで、なんとか肌に触れる風を防いだ。財布は学校に置いてきたままだから、例によってスマホとICカードだけ持って、ふらふらと駅の方へと向かう。
 昼間と同じだった。
 茫然自失状態のまま電車に乗り込み、遊園地近くの駅で降りる。とぼとぼと肩を落としながら、遊園地まで歩いた。
 時刻はこの時点で、まだ十時過ぎだ。
 二十四時の梨斗との待ち合わせまで、まだ二時間もある。

「早く来すぎちゃったな……」

 遊園地の門の前で、力尽きてへなへなとへたり込む。ふと空を見上げると、頭上の星がチラチラと明滅している。それなりに街中なので、ほとんど見えないけれど。星は、いつもそこにあるのに、意識して見ないと忘れてしまう存在。私も、おばあちゃんの中から、とっくに忘れられてしまっていたんだ……。
 また、目尻から涙が一筋こぼれ落ちる。
 紺青色よりもっと深く暗い、夜空の青を見つめていると、自然と胸がいっぱいになっていた。