家に帰り着く頃には、全身汗だくになっていた。
五月初旬、気温は夏日のそれを超えている。
急いで家に上がるとお風呂場でシャワーを浴びた。母はまだ一つ目の仕事から帰ってきていない。家にいたらまだ学校のあるこの時間帯に帰ってきたことを問われるだろうから、いなくてほっとした。
「透く〜ん、今日は早いんだねえ。小学校、四時間で終わったのお?」
部屋から顔を出した祖母がにこにこと話しかける。
「う、うん。今日は学校、短い日だったの」
「そっか、そっかあ」
祖母は夏日だというのに、例のカーディガンをずっと羽織っている。夏場も着ているから、見ているこちらが暑くなる。いい加減、時期も時期なんだからカーディガンなんてやめたらいいのに。
祖母の機嫌がいいのは、私の心をいくらか軽くした。日によっては、家に帰った瞬間大声を出して泣き喚く時もある。服が脱げない、お腹が空いた、トイレに行きたい、など泣く理由は様々だ。帰宅して一番に喚かれると、一日の疲れが一層膨らんでいくから、機嫌が良いのは良いことだった。
今から学校に戻る気はもちろんないので、部屋で家に置いてある問題集を広げて今日の復習をした。一年生の内容から理解が遅れているので、今日の授業の復習をするのに二時間以上もかかってしまった。けれど、久しぶりに腰を据えて勉強ができたのは良かった。
「学校を早退しないと時間をつくれないなんて、馬鹿みたい」
ふと考えたことを一人呟く。
こうして無断で学校を飛び出してきて、家に帰ってようやく勉強する時間ができるなんて、皮肉すぎて笑ってしまう。
それに、今は祖母の機嫌が良いから、たまたま時間が取れただけだ。たとえば明日、同じように早退したとしても、今日みたいに勉強時間が取れるかどうかは分からない。行き当たりばったりな毎日を送っている自分に、嫌気がさしてきた。
勉強はほどほどに切り上げて、ベッドに寝転がる。
身体の疲れが溜まっているのはもちろんだったけれど、今日は学校でいろんなことが起こったせいで、気持ちがずっとざわついていた。少しでも気分を鎮めようと、頭を休める時間が必要だった。
「美玖、大丈夫だったかな……」
私が教室を飛び出した後、美玖は恵菜と、恵菜の周りを囲んでいる吹奏楽部員たちを見てどう思っただろうか。私だったら、普段自分と仲良くしている友達が別の友達と集団になっているところを見て、いい気はしない。それに、勘のいい美玖のことだから、自分の悪口を言われていたことにも気づいているだろう。
私だったら、耐えられないな……。
私には、美玖のことを心配する資格はないのに。美玖が、ピロティで雄太という少年と話していた時の怯えた様子を思い出すと、どうしても気になってしまう。
あんなの、彼氏彼女の関係じゃないよっ……。
美玖が一方的に雄太に圧をかけられて、まるで脅されているような。
雄太に無理やり連休を付き合わされて、それで仲間からひどいことを言われるのは、あまりにも美玖が可哀想だ。
美玖はただ、部員みんなのために、厳しい練習メニューを考えていただけなのに。
他人のために動いて空回りしている彼女が、家族のために身を窶している自分と重なる。
美玖も、私と同じなのかもしれない。
自分の人生を生きているはずなのに、いつしか他者から求められる仕事をこなして、いっぱいいっぱいになっている。求められるままに動いて、自分を見失っている。
美玖とほとんど会話をしなくなっていたから、気づかなかった。
もしかしたら恵菜だって、同じように私の知らないところで抱えているものがあるのかもしれない。
悶々と考えていると、身体がベッドに沈んでいく感覚に陥った。ああ、まただ。いつも横になると、すぐに眠ってしまう癖がある。こんな時間から眠りこけている暇はない。
なんとか身体を起こして、祖母の居間へと向かう。祖母がソファの上で寝転んでいるのを発見した。
「ソファで寝るのは危ないっていつも言ってるのに」
以前、ソファの上で眠っている祖母が転げ落ちて大惨事になったことがある。その時は打撲で済んだけれど、骨折する可能性だってある。祖母の身体を抱えて、無理やり床へと下ろす。この作業だけで本当に身体が疲れてしまう。
その後、夕飯の準備をして、お風呂掃除も済ませる。部屋に掃除機をかけて、溜まっていた可燃ゴミをまとめておいた。ゴミ出しは朝だけれど、最近は夜中に出かける際に先に出すようにしている。家事はどれだけ効率よく進められるかが勝負だ。祖母が眠っている時間が、一番捗る。なんだか子育て中のママのような生活をしている気がして、ため息が漏れた。
午後八時ごろ、祖母が起き出してきて一緒に夕飯を食べた。
「透くん、今日も美味しいねえ」
「うん、お母さんのために頑張って作ったから」
「ありがとうね」
にこにこ笑いながら“透くん”の作った鶏の唐揚げと、豆腐の味噌汁、ほうれん草のおひたしに箸を伸ばす。今この瞬間に、深町日彩はこの家にいない。自分でない誰かを演じるのにもすっかり慣れてしまった。
「ごちそうさま」
早々に食事を切り替えて、残っていた家事を済ませた。
五月初旬、気温は夏日のそれを超えている。
急いで家に上がるとお風呂場でシャワーを浴びた。母はまだ一つ目の仕事から帰ってきていない。家にいたらまだ学校のあるこの時間帯に帰ってきたことを問われるだろうから、いなくてほっとした。
「透く〜ん、今日は早いんだねえ。小学校、四時間で終わったのお?」
部屋から顔を出した祖母がにこにこと話しかける。
「う、うん。今日は学校、短い日だったの」
「そっか、そっかあ」
祖母は夏日だというのに、例のカーディガンをずっと羽織っている。夏場も着ているから、見ているこちらが暑くなる。いい加減、時期も時期なんだからカーディガンなんてやめたらいいのに。
祖母の機嫌がいいのは、私の心をいくらか軽くした。日によっては、家に帰った瞬間大声を出して泣き喚く時もある。服が脱げない、お腹が空いた、トイレに行きたい、など泣く理由は様々だ。帰宅して一番に喚かれると、一日の疲れが一層膨らんでいくから、機嫌が良いのは良いことだった。
今から学校に戻る気はもちろんないので、部屋で家に置いてある問題集を広げて今日の復習をした。一年生の内容から理解が遅れているので、今日の授業の復習をするのに二時間以上もかかってしまった。けれど、久しぶりに腰を据えて勉強ができたのは良かった。
「学校を早退しないと時間をつくれないなんて、馬鹿みたい」
ふと考えたことを一人呟く。
こうして無断で学校を飛び出してきて、家に帰ってようやく勉強する時間ができるなんて、皮肉すぎて笑ってしまう。
それに、今は祖母の機嫌が良いから、たまたま時間が取れただけだ。たとえば明日、同じように早退したとしても、今日みたいに勉強時間が取れるかどうかは分からない。行き当たりばったりな毎日を送っている自分に、嫌気がさしてきた。
勉強はほどほどに切り上げて、ベッドに寝転がる。
身体の疲れが溜まっているのはもちろんだったけれど、今日は学校でいろんなことが起こったせいで、気持ちがずっとざわついていた。少しでも気分を鎮めようと、頭を休める時間が必要だった。
「美玖、大丈夫だったかな……」
私が教室を飛び出した後、美玖は恵菜と、恵菜の周りを囲んでいる吹奏楽部員たちを見てどう思っただろうか。私だったら、普段自分と仲良くしている友達が別の友達と集団になっているところを見て、いい気はしない。それに、勘のいい美玖のことだから、自分の悪口を言われていたことにも気づいているだろう。
私だったら、耐えられないな……。
私には、美玖のことを心配する資格はないのに。美玖が、ピロティで雄太という少年と話していた時の怯えた様子を思い出すと、どうしても気になってしまう。
あんなの、彼氏彼女の関係じゃないよっ……。
美玖が一方的に雄太に圧をかけられて、まるで脅されているような。
雄太に無理やり連休を付き合わされて、それで仲間からひどいことを言われるのは、あまりにも美玖が可哀想だ。
美玖はただ、部員みんなのために、厳しい練習メニューを考えていただけなのに。
他人のために動いて空回りしている彼女が、家族のために身を窶している自分と重なる。
美玖も、私と同じなのかもしれない。
自分の人生を生きているはずなのに、いつしか他者から求められる仕事をこなして、いっぱいいっぱいになっている。求められるままに動いて、自分を見失っている。
美玖とほとんど会話をしなくなっていたから、気づかなかった。
もしかしたら恵菜だって、同じように私の知らないところで抱えているものがあるのかもしれない。
悶々と考えていると、身体がベッドに沈んでいく感覚に陥った。ああ、まただ。いつも横になると、すぐに眠ってしまう癖がある。こんな時間から眠りこけている暇はない。
なんとか身体を起こして、祖母の居間へと向かう。祖母がソファの上で寝転んでいるのを発見した。
「ソファで寝るのは危ないっていつも言ってるのに」
以前、ソファの上で眠っている祖母が転げ落ちて大惨事になったことがある。その時は打撲で済んだけれど、骨折する可能性だってある。祖母の身体を抱えて、無理やり床へと下ろす。この作業だけで本当に身体が疲れてしまう。
その後、夕飯の準備をして、お風呂掃除も済ませる。部屋に掃除機をかけて、溜まっていた可燃ゴミをまとめておいた。ゴミ出しは朝だけれど、最近は夜中に出かける際に先に出すようにしている。家事はどれだけ効率よく進められるかが勝負だ。祖母が眠っている時間が、一番捗る。なんだか子育て中のママのような生活をしている気がして、ため息が漏れた。
午後八時ごろ、祖母が起き出してきて一緒に夕飯を食べた。
「透くん、今日も美味しいねえ」
「うん、お母さんのために頑張って作ったから」
「ありがとうね」
にこにこ笑いながら“透くん”の作った鶏の唐揚げと、豆腐の味噌汁、ほうれん草のおひたしに箸を伸ばす。今この瞬間に、深町日彩はこの家にいない。自分でない誰かを演じるのにもすっかり慣れてしまった。
「ごちそうさま」
早々に食事を切り替えて、残っていた家事を済ませた。



