時は、十二時間前まで遡る。
四月九日、水曜日。
城北高校の二年生になって、今日は三日目の登校日。二年一組の教室は、クラス替えしたてのほやほやとした新鮮な空気が漂っている。一年生の時からクラスが一緒の友達もいるけれど、大抵は新しく知り合う人たちばかりだ。なんてったって、城北高校には一学年五百人近くの生徒がいる。初めまして、を何度繰り返しても、全員と知り合うのは不可能なのだ。
新しいクラスで、クラスメイトたちは一年生の時からの友達とつるんだり、新しい友達を早速つくって談笑したり、新たな学年の幕開けをそれなりに楽しんでいる様子だった。そんな中、私は一人、出席番号順に並んだ一番後ろの席でそっと周囲の様子を窺うので精一杯。昼休みも、自分の席について、購買で買ってきたパンを咀嚼する。クラスの大半の人はお弁当を持ってくるか、学食でお昼を食べるかのどちらかだが、私は一年生の時から購買で食事を買うのが常だった。
時間がない。
気力がない。
お弁当を作るために必要なこの二つの条件が、私には欠けていた。
母親と祖母と私の三人暮らしの我が家では、母親が昼も夜も働き詰めで、家事という家事は私がすべて担っている。家族のために働くので精一杯で、自分のためにお弁当を作るなんてとてもじゃないが考えられなかった。
それに、祖母は——。
「ひーいーろっ」
コッペパンを齧りながらついいつもの癖で生活について考えていると、机の前にひょっこりと姿を現す人物が二人いた。
「み、美玖、恵菜」
苗代美玖と、石原恵菜。二人とも中学の頃から一緒で、同じ吹奏楽部だった仲間だ。私がクラリネットで、美玖がトランペット、恵菜はフルート担当。二人は高校でも吹奏楽部に所属していて、美玖は次の部長候補らしい。が、私は帰宅部。一年生の時に一緒に吹奏楽部に入ろうと誘ってくれたけれど、私は二人の誘いを断ったんだ。
だってきっと、放課後に時間なんて取れないと分かっていたから……。
本当は吹奏楽部に入りたい気持ちを抑えて、彼女たちの誘いを断った時、私と二人の間にはくっきりとした溝が生じた。二人の世界と私の世界に線引きがされて、私は二人の世界へもう行くことができない。寂しいし、辛い。けれど、仕方ない。放課後に私が部活なんてしていたら、我が家は回らなくなってしまう。必死に本音を飲み込んで、私は一人、こちら側の世界でひっそりと生きることを選んだ。
「日彩、大丈夫? なんか顔色悪いよ?」
「本当だ。お腹でも痛い?」
美玖と恵菜が心配そうに私の顔を覗き込む。吹奏楽部に入るのを断ってからも、二人はいまだにこうして私と仲良くしようとしてくれている。それはありがたくもあり、苦しくもあった。
「だ、大丈夫。考え事してただけだからっ」
「そっかー。なんか思い詰めてる感じだったから、身体でも悪いのかなって」
美玖の鋭い洞察に、私の心臓はズンと軋む。
「心配かけてごめん。本当になんでもないの」
「分かった。それでさ、今日の放課後のことなんだけど、この前話してた通り、行けそう?」
「今日の放課後……」
美玖に言われて、はたと思考を巡らせる。
えっと……何か、約束していたっけ。
思い出せない。最近、頭がぼうっとしていて上手く回らないことが増えた。睡眠不足も相まって、記憶力が落ちている気がする。
私が答えられずにいると、恵菜が「忘れたの?」と少し尖った声で訊いてきた。彼女は基本的におっとりとしていてマイペースだが、苛立ちが滲むと途端に声色が変わる。だから今の恵菜はちょっと怖い。
「駅前にできた新しいカフェ、三人で行こうって約束したでしょ? 今日、たまたま私たち部活が休みだから、久しぶりにみんなでどうかなって誘ったはずなんだけど」
恵菜がキリキリとした口調で今日のことを教えてくれる。
そうだ、そうだった。確か先月、春休みに入る前に二人が私に連絡をくれたんだ。その時、先の予定だったので特に用事もなく、「いいよ」と返事をしたのを思い出す。基本的に放課後も土日も部活で忙しい二人と遊びに行けるのは珍しく、絶対に時間をつくろうと決意したはずだ。特に城北高校の吹奏楽部は、春からもう二年生が主体となって練習メニューを組むのだと教えてくれた。だから二人とも、今ちょうど代替わりで忙しくなっている時期だろう。
なのに、それなのに……。
現状、私は今日という日を無防備に迎えてしまっていた。
昨日約束のことを思い出していたら、今日の分の家事やスーパーへの買い出しを事前に済ませておけたのに。なんという失態だ。二人に申し訳なくて、言い訳すら思い浮かばない。何も言葉を発しない私を見て、二人は何かを察したのか、「はあ」と大きなため息を吐いた。
「なんか、忘れられてそうだな〜って思ってたんだ。恵菜ともさっき、話してたところ。もしかしたら日彩が約束忘れてるかもしれないから、聞きに行こうって」
「……ごめん」
これに関してはもう、平謝りするしかない。
友達が貴重な部活休みの放課後を自分との遊びに使ってくれるというのに、部活動をしていない自分が、約束を忘れてしまうなんて。
我ながらひどい人間だと思う。どうして忘れてたんだろう。私のばか……。
「で、今日どうする? もし日彩さえ良ければ話してた通り一緒にカフェに行きたいんだけど」
美玖も恵菜も、私を責めたいわけじゃないということは分かっていた。けれど、言葉の端々に滲み出る苛立ちをつい察知してしまう。二人と友達でいたいのに。こんなふうに互いの顔色を窺って駆け引きみたいなことをするのは本望じゃないのに。
「ごめん、ちょっと今日は行けそうにない……かも」
「やっぱりそうだよね」
予想していたと言わんばかりに、落胆してみせる美玖。恵菜はもう端から期待していないのか、黙りこくっていた。
「本当にごめん。誘いを受けた時は、いろいろ段取り組んだはずなんだけど、つい……」
忘れてて、という言葉をはっと呑み込んだ。
自分たちとの約束を忘れたなんてはっきりと言われて、いい気はしないだろう。
今日の約束を二人とした時、確か母にも相談した。私が珍しく放課後に友達と遊びたいと言ったら、母は「じゃあその日は仕事を休むわ」と言ってくれたことを思い出す。だが、今日になって母も忘れていたんだろう。忙殺される日々の中で、職場の人間に休むことを伝え忘れていたのかもしれない。どちらにせよ、美玖と恵菜を傷つけてしまったことには変わりない。
「もういいよ。忘れてたなら仕方ないって。今日は無理なんだよね。また吹部が休みの時があれば、誘うから」
「うん、またの機会にね」
「……ありがとう」
口では優しい言葉をかけてくれているが、二人が内心私に対して呆れていることは火を見るよりも明らかだ。
去っていく二人の背中を眺めながら、齧りかけのコッペパンを再び口に入れる。高校生になってから、もう何度食べたか分からないぐらい、何度も口にした味。特別に甘かったり味が付いていたりすることはない。購買で一番安く手に入るパン。昨日も、一昨日も食べた。もう飽き飽きしているのに、どうしてか今日は普段よりもしょっぱく感じられた。
四月九日、水曜日。
城北高校の二年生になって、今日は三日目の登校日。二年一組の教室は、クラス替えしたてのほやほやとした新鮮な空気が漂っている。一年生の時からクラスが一緒の友達もいるけれど、大抵は新しく知り合う人たちばかりだ。なんてったって、城北高校には一学年五百人近くの生徒がいる。初めまして、を何度繰り返しても、全員と知り合うのは不可能なのだ。
新しいクラスで、クラスメイトたちは一年生の時からの友達とつるんだり、新しい友達を早速つくって談笑したり、新たな学年の幕開けをそれなりに楽しんでいる様子だった。そんな中、私は一人、出席番号順に並んだ一番後ろの席でそっと周囲の様子を窺うので精一杯。昼休みも、自分の席について、購買で買ってきたパンを咀嚼する。クラスの大半の人はお弁当を持ってくるか、学食でお昼を食べるかのどちらかだが、私は一年生の時から購買で食事を買うのが常だった。
時間がない。
気力がない。
お弁当を作るために必要なこの二つの条件が、私には欠けていた。
母親と祖母と私の三人暮らしの我が家では、母親が昼も夜も働き詰めで、家事という家事は私がすべて担っている。家族のために働くので精一杯で、自分のためにお弁当を作るなんてとてもじゃないが考えられなかった。
それに、祖母は——。
「ひーいーろっ」
コッペパンを齧りながらついいつもの癖で生活について考えていると、机の前にひょっこりと姿を現す人物が二人いた。
「み、美玖、恵菜」
苗代美玖と、石原恵菜。二人とも中学の頃から一緒で、同じ吹奏楽部だった仲間だ。私がクラリネットで、美玖がトランペット、恵菜はフルート担当。二人は高校でも吹奏楽部に所属していて、美玖は次の部長候補らしい。が、私は帰宅部。一年生の時に一緒に吹奏楽部に入ろうと誘ってくれたけれど、私は二人の誘いを断ったんだ。
だってきっと、放課後に時間なんて取れないと分かっていたから……。
本当は吹奏楽部に入りたい気持ちを抑えて、彼女たちの誘いを断った時、私と二人の間にはくっきりとした溝が生じた。二人の世界と私の世界に線引きがされて、私は二人の世界へもう行くことができない。寂しいし、辛い。けれど、仕方ない。放課後に私が部活なんてしていたら、我が家は回らなくなってしまう。必死に本音を飲み込んで、私は一人、こちら側の世界でひっそりと生きることを選んだ。
「日彩、大丈夫? なんか顔色悪いよ?」
「本当だ。お腹でも痛い?」
美玖と恵菜が心配そうに私の顔を覗き込む。吹奏楽部に入るのを断ってからも、二人はいまだにこうして私と仲良くしようとしてくれている。それはありがたくもあり、苦しくもあった。
「だ、大丈夫。考え事してただけだからっ」
「そっかー。なんか思い詰めてる感じだったから、身体でも悪いのかなって」
美玖の鋭い洞察に、私の心臓はズンと軋む。
「心配かけてごめん。本当になんでもないの」
「分かった。それでさ、今日の放課後のことなんだけど、この前話してた通り、行けそう?」
「今日の放課後……」
美玖に言われて、はたと思考を巡らせる。
えっと……何か、約束していたっけ。
思い出せない。最近、頭がぼうっとしていて上手く回らないことが増えた。睡眠不足も相まって、記憶力が落ちている気がする。
私が答えられずにいると、恵菜が「忘れたの?」と少し尖った声で訊いてきた。彼女は基本的におっとりとしていてマイペースだが、苛立ちが滲むと途端に声色が変わる。だから今の恵菜はちょっと怖い。
「駅前にできた新しいカフェ、三人で行こうって約束したでしょ? 今日、たまたま私たち部活が休みだから、久しぶりにみんなでどうかなって誘ったはずなんだけど」
恵菜がキリキリとした口調で今日のことを教えてくれる。
そうだ、そうだった。確か先月、春休みに入る前に二人が私に連絡をくれたんだ。その時、先の予定だったので特に用事もなく、「いいよ」と返事をしたのを思い出す。基本的に放課後も土日も部活で忙しい二人と遊びに行けるのは珍しく、絶対に時間をつくろうと決意したはずだ。特に城北高校の吹奏楽部は、春からもう二年生が主体となって練習メニューを組むのだと教えてくれた。だから二人とも、今ちょうど代替わりで忙しくなっている時期だろう。
なのに、それなのに……。
現状、私は今日という日を無防備に迎えてしまっていた。
昨日約束のことを思い出していたら、今日の分の家事やスーパーへの買い出しを事前に済ませておけたのに。なんという失態だ。二人に申し訳なくて、言い訳すら思い浮かばない。何も言葉を発しない私を見て、二人は何かを察したのか、「はあ」と大きなため息を吐いた。
「なんか、忘れられてそうだな〜って思ってたんだ。恵菜ともさっき、話してたところ。もしかしたら日彩が約束忘れてるかもしれないから、聞きに行こうって」
「……ごめん」
これに関してはもう、平謝りするしかない。
友達が貴重な部活休みの放課後を自分との遊びに使ってくれるというのに、部活動をしていない自分が、約束を忘れてしまうなんて。
我ながらひどい人間だと思う。どうして忘れてたんだろう。私のばか……。
「で、今日どうする? もし日彩さえ良ければ話してた通り一緒にカフェに行きたいんだけど」
美玖も恵菜も、私を責めたいわけじゃないということは分かっていた。けれど、言葉の端々に滲み出る苛立ちをつい察知してしまう。二人と友達でいたいのに。こんなふうに互いの顔色を窺って駆け引きみたいなことをするのは本望じゃないのに。
「ごめん、ちょっと今日は行けそうにない……かも」
「やっぱりそうだよね」
予想していたと言わんばかりに、落胆してみせる美玖。恵菜はもう端から期待していないのか、黙りこくっていた。
「本当にごめん。誘いを受けた時は、いろいろ段取り組んだはずなんだけど、つい……」
忘れてて、という言葉をはっと呑み込んだ。
自分たちとの約束を忘れたなんてはっきりと言われて、いい気はしないだろう。
今日の約束を二人とした時、確か母にも相談した。私が珍しく放課後に友達と遊びたいと言ったら、母は「じゃあその日は仕事を休むわ」と言ってくれたことを思い出す。だが、今日になって母も忘れていたんだろう。忙殺される日々の中で、職場の人間に休むことを伝え忘れていたのかもしれない。どちらにせよ、美玖と恵菜を傷つけてしまったことには変わりない。
「もういいよ。忘れてたなら仕方ないって。今日は無理なんだよね。また吹部が休みの時があれば、誘うから」
「うん、またの機会にね」
「……ありがとう」
口では優しい言葉をかけてくれているが、二人が内心私に対して呆れていることは火を見るよりも明らかだ。
去っていく二人の背中を眺めながら、齧りかけのコッペパンを再び口に入れる。高校生になってから、もう何度食べたか分からないぐらい、何度も口にした味。特別に甘かったり味が付いていたりすることはない。購買で一番安く手に入るパン。昨日も、一昨日も食べた。もう飽き飽きしているのに、どうしてか今日は普段よりもしょっぱく感じられた。



