夜、祖母をお風呂に入れて眠ったのを確認すると、私は一人、ひっそりと家を出た。母もよっぽど疲れているんだろう。祖母が眠る前に自室に入っていった。
 二十三時、十二分。
 昨日のことを思い出しながら、JRの駅まで向かう。今日は制服じゃなくて、ちゃんと私服に着替えてきた。艶を失った肌と唇にほんのりとファンデーション、リップを乗せた。とてもプロとしてやっていけるレベルではないけれど、これで少しは高校生っぽく見られないで済む。
 遊園地へと向かう電車に乗り込むと、そっと胸に手を当てる。
 真夜中の逃避行。
 決して遠くはないけれど、あの家から少しでも離れたい。
 そしてもう一度、きみに会いたい。
 ただその一心で出た行動だった。
 遊園地に着くと、春の夜の物寂しげな空気がそこらじゅうを漂っていた。きょろきょろと辺りを見回す。誰もいない。そりゃそうだ。廃園後の遊園地に、それもこんな真夜中に来る人間なんていない。

「あれ?」

 誰もいないと思っていたのだか、よく見ると園内でささっと動く人影があった。

「誰……?」

 遠くてよく見えないが、自分よりは背が高く、ガタイもいい。男の人だということは分かった。一瞬梨斗かと思ったが、彼はもう少し線が細かった。梨斗ではない、誰か。その誰かが園内を歩き、観覧車の方へと向かっていく。

「あの!」

 思わず声を上げる。自分でもなんでそんな大胆なことができたのか、不思議でたまらない。
 人影がぴくりと立ち止まり、こちらを振り返る。遠くて顔がよく見えない。向こうからもきっと、私の顔は見えていないだろう。けれど、園内に忍び込んでいるのを見られたことが後ろめたかったのか、私が声をかけるとすぐに園の奥の方へそそくさと走り去って行った。

「ちょっと待ってください!」

 呼び止めても、立ち止まらない影。
 私は一体何がしたいんだろう。自分でも分からない。呼び止めたところで、どこの誰なのかも分からないし。
 結局その人は、その後一度もこちらを振り返らなかった。やがてすぐに男の人の姿を見失った。

「日彩?」

 不意に名前を呼ばれてぴくんと身体が跳ねる。
 声のする方を振り返った。そこには、紛れもなく梨斗が佇んでいた。
 前回と同じ、城北高校の制服に身を包んでいる。昼間に学校で、彼の存在をいろんな人に否定されたことが思い浮かんだ。

「り、梨斗」

「やあ、また会ったね。こんばんは」

 ひょうきん者のように、片手を挙げて挨拶をしてきた。
 こんな時間に、こんなところで会って「やあ」はおかしいだろう。呆れる私を前にしても、彼は依然としてにこにこと人当たりの良い笑みを浮かべている。

「昨日、急にいなくなっちゃったから心配したんだよ! 誰かに攫われたんじゃないかって一瞬思ったぐらい」

「はは、それはごめん。ちょっと急用を思い出してさ」

「こんな夜中に急用なんてあるの?」

「うん、実は、ある」

 大真面目に頷く彼を、私はじーっと見つめる。
 やっぱり、普通の男の子……だよね?
 それなのに、こんな夜中に制服姿で遊園地に来て……彼は一体何者なんだろう。

「どうして今日も、ここにいるの?」

 思い切って尋ねてみた。

「それはこっちの台詞だよ。日彩の方こそ、なんでここに来たの?」

 質問に質問で返すのは良くないって、小学校の先生に教わった。けれど、彼の疑問は尤もかもしれない。

「私は……ただ、あなたに会いたくて」

 びっくりするぐらい素直な気持ちが口から溢れ出る。実際、言った後にはっとしてしまっていた。

「いや、今のはその、言葉の綾というか……。なんとなーく、今日もあなたの顔が浮かんだだけ、です」

 全然言い訳になってない。
 むしろ、「あなたの顔が浮かんだ」なんて、まるで恋する乙女みたいじゃないか。
 梨斗は私の回答を聞いて何を思ったのか、「そっか」と意味深に頷く。気まずくなった私はそっと顔を伏せる。

「じゃあ、また観覧車、乗る?」

 静かに園内の方を指差した。 
 そこにはもちろん、明りのついていないアトラクションたちが息を潜めて佇んでいるだけだ。

「うん」

 無意識のうちに頷いていた。
 もう一度、彼と観覧車に乗って話ができるんだ。
 それだけでもう、どうしようもなく胸がドキドキと高鳴っている。私、馬鹿だな。昨日出会ったばかりの少年に、こんなにも興味をそそられているなんて。私ってこんなにちょろかったっけ? 我が身を振り返ってみたけれど、そういえば今まで人生で、異性の友達ができたことはなかった。
 梨斗が初めてだ。
 初めてできた男の子の友達。
 彼の方は友達と思ってくれているのか怪しいけれど。昨日、自分の中で抱えきれなかった本音を吐き出させてくれた時点で、私にとっては友達だった。