その日、六時間目までなんとか息をして過ごした私は、いつも通り、ひとりぼっちで帰宅した。美玖と恵菜が、仲良く肩を並べて部活に向かっていく様子を側から眺めて、胸にチクリと疼痛が走った。見て見ぬふりをして鞄を肩からかけてひっそりと教室を後にした。

「ただいま」

 自宅の引き戸を開けると、今日は母の靴が置かれていた。

「おかえり日彩」

「お母さん、今日は夜の仕事ないの?」

「ええ、今日は休み」

 私の名前をきちんと呼んでくれる存在がいることにほっとする。
 大丈夫。
 まだこの家の中で、“私”は消えていない。
 母が家にいる時は、そんなふうに思えるから少しだけ気が楽だった。
 ……でも。

「日彩、さっきおばあちゃんがズボンをはさみで切ってたんだけど、なんでか知らない!?」

「……は?」

 母の口から早速飛び出してきた不可解な言葉に、思わず目が眩む。

「ズボンを切ってた……?」

「そうなの。私が帰ってきた時、部屋で静かにしてるから何してるんだろうって見に行ったら、もうそこらじゅう布切れと糸屑まみれ。とんでもないわね。本当に、なんでこんな突飛なことするのかしら」

「そんなことが……」

 祖母が突然奇行に走るのは、これで何回目だろう。
 夜中に突如奇声を上げたり、部屋の中を這いずり回ったり、意味もなくタンスの抽斗を開けたり閉めたりしたり。我を忘れたみたいに、ひっきりなしに問題行動を続けることがあるから手に負えない。ズボンを切り裂くというのは今まで一度もなかった。その時の惨状を想像すると、片付けをさせられた母が理不尽に思えてくる。

「まったく、どうしてこう何度も問題ばかり起こすのかしら。私が普段、どれだけ頑張って働いてるかも知らないくせに。せっかく夜の仕事が休みだと思ったらこのザマだわ。本当につらい。あの人がいなくなって、測ったようにボケ始めて。なんで私がこんな目に遭うの? 夫を亡くしただけでも大変なのに、その上お義母さんまで」

 始まった。
 母は仕事が忙しい時や疲れている時、決まって祖母に対して愚痴をこぼす。特に今日みたいに祖母が問題行動を起こした時はその傾向が激しい。私は、まるで自分が説教をされているみたいに身体をぎゅっと縮こませる。
 母の気持ちは私にも痛いほどよく分かる。
 だから私は、震える母の背中にそっと手を添えた。

「大丈夫だよ、お母さん。私がなんとかするから。お母さんは休んでて」

 母は可哀想な人だ。
 私にとって祖母は血の繋がりのあるおばあちゃんだが、母にとっては単なる姑。家族とはいえ、父が亡き今は、母が祖母のことをお荷物だと考えるようになっても仕方がないだろう。

「どうして、私が。どうして、私ばっかり……」

「お母さん、私もいるよ」

 まるで私の言葉が聞こえていないみたいに、母の身体の震えは止まらない。
 こういう時、私は決まって母を抱きしめる。すると、しばらく経ってようやく母の身体に体温が戻ってくるみたいに、震えも収まった。
 いつものことだ。
 祖母に対して愚痴をこぼす母と、必死に母を宥める私。他人からすれば、なんて親だと呆れられるのかもしれない。でも、私にとってはこれも私の大事な仕事の一つだった。

「ありがとう、日彩……ごめんね」

 母の中にも、私に対して申し訳ないという気持ちは確かに存在しているのだ。
 時々今みたいに我を忘れて本音を垂れ流しにしてしまうこともあるけれど、根は優しいお母さん。だから私は母がどんなふうになっても、母のことが好きだし、支えたいと思う。
 私にできることなら、なんでもするよ。
 心の中でそっと呟く。
 自分はやはり、この家でみんなのために生きている。
 自分が自分でなくなっていって、色鮮やかだった未来は灰色に変わっていく。祖母がいる限り、母とこうして二人で身を削りながら生きている限り。それがたまらなく怖いし、この先自分はちゃんと就職して、独り立ちできるのかと不安になる。学業だって今のままだとままならない。今年こそ留年してしまうかもしれない。そうしたらまた学費の面で母に迷惑をかける。自分でアルバイトをしたいけれど、祖母が家にいる限り、長時間家を空けるのは不可能だ。祖母が、一人きりでいつ何をしでかすか分からないから。
 メイクアップアーティストになるなんていうのは、夢のまた夢だ。
 私の気持ちは、ここで沈んでいく。夢も、希望も、この家の小汚い床の下まで落ちていく。気力もいっぺんに吸い取られて、私は私でなくなる。
 透明な私が、出来上がる。