「いや、いないわね」

「……え?」

 はっきりと、断言する三上先生。
 英語科の先生で、単に梨斗のクラスを受け持ったことがないから知らないというわけでもなさそうだ。先生は、真っ向から彼の存在を否定した。

「少なくとも私は聞いたことないし、他の先生たちの間でその葉加瀬くんって人の名前が挙がったことはないわ。深町さん、その子とは友達? 学校の外で知り合ったの?」

「は、はい。一度会っただけですけど、うちの制服を着ていて。だから、違うクラスの人なんだって勝手に思ってたんですけど」

 いない、とはどういうことだろうか。
 二人の先生がこうも梨斗の存在を否定するということは、やっぱり彼はこの学校の生徒ではないの……?
 だったらどうして、梨斗は城北高校の制服を着ていたんだろう。
 ぐるぐると、頭の中で疑問が渦を巻く。
 もしかして、やっぱり今日の夜中の出来事は夢だったんだろうか……。
 夢ではないと否定したはずなのに、だんだんと思考がぼんやりとしてきた。私の記憶がすべて間違っていて、日々の生活で疲れた自分が見た幻想なんじゃないかって。今、一番欲しい言葉をくれる人物を妄想でつくりあげて、夢を見ただけなのかもしれない。
 それとも。

「深町さん、大丈夫?」

 いつのまにか安西先生がデスクの前からいなくなっていて、三上先生だけが私の顔を覗き込むようにしてそこにいた。

「だ、大丈夫です」

「本当に? 今日も学校に遅刻してきたわよね。ご家庭で何かあった?」

「……いえ、何も。すみません、心配かけて」

 私が否定しても、三上先生はどこか納得していない様子だ。
 何もないなんて、そんなはずないでしょ。
 彼女の心の声が聞こえる。はい、そうなんです。何もないなんて、嘘です。本当に何もない人間は、こうも頻繁に学校に遅刻したり欠席したりしない。全部の授業中にうたた寝をしてしまうこともないだろう。

「話したくないなら、いいんだけど。もし、なにか苦しいことがあれば、いつでも相談してちょうだい。私は、あなたの味方だから」

「……はい。ありがとうございます」

 私は、あなたの味方。
 その言葉は確かに私の胸にすとんと降りてきた。
 と同時に、私は誰と、何と、戦っているんだろうという疑問が生まれる。
 私に、敵なんているのかな? 家族を支えることは確かに大変だけど、でもだからと言って家族が私の“敵”だというわけではない。私は母のことも、祖母のことも好きだ。祖母は私のことをもうほとんど忘れているけれど、覚えている日も私を傷つける存在ではない。むしろ、初孫の私を一番慈しみ、愛してくれた。
 母だって同じだ。母はきっと、家事や祖母の介護を私に押し付けていることに罪悪感を覚えている。「ごめんね」という言葉を何度も言われてきた。そのたびに、胸がぎゅっと締め付けられる。母は私のことを気遣ってくれているからこそ、顔付き合わせるたびに私に謝ってくるのだ。
 私には、敵なんていない。
 だから先生に味方だと言ってもらえて嬉しい反面、複雑な気持ちがじゅわりと溢れてきた。
 じっと心配そうな顔を見せる三上先生を置いて、私は踵を返した。

 職員室から出て教室に戻ると、入り口でばったりと美玖、恵菜と出くわす。二人はお弁当を食べ終えてどこかに行くつもりだったのか、鉢合わせて気まずそうな顔をした。

「あの、日彩」

 美玖がゆっくりと口を開く。 
 昨日、約束を守れなかったことを責められるかもしれない。咄嗟にそう判断した私は、これ以上傷つきたくなくて、「あのさっ」と美玖の言葉に被せるようにして言った。

「葉加瀬梨斗って知らない?」

 二人が目を丸くして、お互いに顔を見合わせる。
 それから同時に小首を傾げた。

「さあ……。恵菜、知ってる?」

「ううん、聞いたことない。うちの学校の生徒?」

「う、うん。そのはず、なんだけど。誰も彼のこと知らなくて」

 誰も、というのは嘘だ。
 安西先生と三上先生にしか聞いていないのだから。
 でも、そんな細かいことはどうでも良かった。今はただ、二人から拒絶されることがなければそれでいい。私、なんでこんなに必死なんだろう……。

「私らも……ねえ?」

「うん、分かんないな。てか日彩に男の子の友達がいたなんて、知らなかった」

 男の子の友達、というところで恵菜が若干眉を顰めた。
 話が良からぬ方向へと進んでいることに気づく。

「ち、違うの。友達っていうか、知り合い。だからそんなに仲は良くなくて」

「ふうん」

 だめだ。何を言っても、二人からは疑いを持たれる。
 私たちとの約束は忘れてたくせに、男の子の友達のことは気になるんだ。
 そんな二人の心の声が聞こえてきて、胸がきゅううっと鳴った。
 違うのに。否定したいのに、喉からうまく言葉が出てこない。
 昨日の晩——今日の夜中に梨斗と会っていたのは事実だ。二人との約束をすっぽかして、結果的に梨斗と二人の時間を過ごした。事実だけ並べてみれば、二人が気を悪くするのも当然かもしれない。梨斗のことはこれ以上口にしない方がいい。直感がそう告げた。

「日彩、なんか高校生になって変わったよね。いや、中三の頃からかな。部活を引退してから、付き合い悪くなったよね」

 美玖が暗い声で告げた。ひゅううっと、背中に冷たい風が吹いたみたいに悪寒が駆け抜ける。
 ツキアイワルクナッタヨネ。
 彼女が私に対して抱いていた本音が、機械的な音声みたいに脳内で再生される。
 きっと恵菜も同じ気持ちなんだろう。ばつが悪そうな表情をして、俯いた。

「ごめん……」

 そんな二人に、ただ謝ることしかできない私。

「ちょっと、トイレ行ってくる」

 予鈴が鳴っているにも関わらず、振り返って教室から飛び出した。
 これ以上、美玖と恵菜の顔を見ていられない……。
 廊下の端っこにある女子トイレに駆け込んで、乱れていた呼吸を整える。

「はあ……はあ……」

 いつのまにか、手のひらにびっしょりと汗をかいていた。トイレットペーパーを引きちぎり、その汗を拭う。両目から涙が溢れてくる。トイレの個室で泣くなんて、いじめられっこみたいで嫌だ。
 そう思うのに、涙は止まらない。
 美玖のことも、恵菜のことも、大好きだったのにな……。
 大切な友達だった。今でも私は、大切だと思っている。
 それなのに、二人はもう私のことを友達だとは思っていないということに気づいて。
 胸が痛くて痛くて仕方がない。
 ぎゅっと左胸を抑える。バクバクと鳴る心臓の鼓動が、いつまでも収まってくれそうになかった。

——泣けるなら大丈夫だよ。

 不意に心に浮かんだのは、今日の夜中に梨斗がくれた温かい言葉だ。
 大丈夫、大丈夫。
 柔らかく落ち着いた声で彼からそう言われて、あの時すっと心が凪いだのを思い出す。

「大丈夫……」

 声に出して呟いてみる。何度も、何度も。他の誰かがトイレに入ってくる気配がした。それでも自分を励まし続ける。
 私は、大丈夫。
 次第に気持ちが落ち着いてきて、少しだけ呼吸が楽になった。良かった……こんなところで過呼吸になんかなったら、周りのみんなに迷惑をかけてしまう。あらぬ噂が立つ可能性だってあるだろう。なんとか収まってほっとした。
 と同時に、込み上げてきたのは梨斗を恋しく思う気持ちだ。
 会いたい。
 彼に、もう一度会いたい、なあ……。
 叶うのかどうかも分からない願いをそっと呟いてみる。
 梨斗はこの学校の生徒ではないのかもしれない。どうしてうちの制服を着ていたのかは謎だけれど、少なくとも今私の近くにはいない。だから、簡単には会えない。
 会えないと思うと、余計に会いたくなるから不思議だ。 
 梨斗の方はどう思っているんだろう。
 一晩だけ一緒に過ごした私のことなんて、もう忘れちゃったかな。
 それとも彼も——。
 頭上から五時間目の開始を告げるチャイムが降り注ぐ。個室の扉をそっと開けて、なんとかトイレから這いずり出た。
 私がこうしてぎりぎりの日常を生きていられるのは、梨斗からもらった言葉のおかげだ。
 梨斗、あなたは今どこにいる?
 もう一度、会いたいよ。