授業はあまり頭に入ってこなかった。
 家に帰っても勉強時間がとれないことが多いので、せめて授業中だけでも集中しなくちゃいけないことは分かっている。でもダメだった。日頃の疲れが溜まっているせいで、うとうとと船を漕いでしまう。三上先生から「深町さん」と何度か注意された。授業が終わった後、教室の隅で私のことをひそひそと噂する声が聞こえてきた。

「深町さんっていつも眠そうだよね」
「わかる。今日も遅刻してきたし。もしかして過眠症とか?」
「私、なんか家庭の事情が複雑だって聞いたよ」
「確かシングル家庭だっけ? もしかして家計を助けるために夜の仕事してたりして」
「うわ、それやばいじゃん」
「でもさ、いっつも眠そうだからありえるよ。てかこの前男子たちが噂してるの聞いたし。おとなしそうな見た目なのに、裏ではそんな過激なことしてるんだ」
「どちらにせよ可哀想。なんか同情するー」

 カワイソウ。
 ドウジョウスル。

 切り取られた不穏な言葉が耳にこだまする。過眠症だとか、夜の仕事をしてるだとか、あらぬ噂を立てられるのも嫌だけど。一番身に堪えたのは、みんなから憐れまれているということだ。
 周りからすれば、私は可哀想な人間なんだ……。
 クラスのみんなは、私が家でどんな生活を送っているのかもちろん知らない。でも、どんな事情があるにせよ、普通の高校生活が送れていない私は、可哀想な存在なのだ。

「……っ」

 胸に小さな棘が刺さったみたいに、チクチクとした痛みが広がる。
 私は、可哀想なんかじゃない。
 可哀想なんかじゃないはずなのに……。
 ぎゅっと両目を瞑る。握りしめた両手の爪が手のひらに食い込んでヒリヒリと痛い。
 梨斗……。
 ふと心に浮かぶ、優しげな少年の名前。
 そうだ、梨斗なら。彼なら私のことを「可哀想」だなんて言わないはずだ。彼は私の本音を静かに聞いてくれて、励ましてくれた。たった十五分間のあの幻のような時間に、彼の口から紡がれる言葉は柔らかく、私の胸に溶けた。
 確か梨斗も城北高校に通ってるんだった。
 ブレザーを着た彼の姿が脳裏にフラッシュバックする。葉加瀬梨斗。名前は知っているから、何組の生徒なのか、探し当てるのは簡単なはずだ。
 昼休みに、いつのもように自分の席でコッペパンを完食した後、私は職員室へと向かった。先生に尋ねるのが一番手っ取り早い方法だと思ったから。

「失礼します……」

 いつも思うけれど、職員室の扉を開けるのって、なんでこんなに緊張するんだろう。
 誰も自分に注目していないことは分かっている。それなのに、先生たちから侵入を責められているような気がしてすぐに居心地が悪くなった。

「安西先生」

 私は、二年一組の担任である安西先生に声をかける。彼は体育科の先生だ。担任とはいえ二年生が始まって数日しか経っていないから、安西先生への馴染みはまだ薄い。体育科ということもあり、一年生の頃にしょっちゅう顔を合わせていたわけでもなかった。

「おお、深町。どうした?」

「あの、ちょっと、聞きたいことがあって」

「聞きたいこと? なんだ」

 先生は私が、家庭のことを相談すると思ったのか、真剣なまなざしで私をじっと見つめた。
 とはいえ、今から家のことで彼に相談するわけではない。
 私は、安西先生のぎらぎらの目を見ながら問う。

「二年生に、葉加瀬梨斗っていう生徒がいると思うんですけど、何組の生徒か分かりますか?」

「葉加瀬梨斗?」

 思っていたのとは違う質問が飛んできて面食らった様子の先生が、こめかみをぽりぽりと掻く。

「そんな生徒、うちにはいないと思うけどなあ」

「え?」

 思わずまじまじと先生の顔を見つめた。
 安西先生は体育の先生だから、全部のクラスの授業を受け持っている。梨斗が今年編入してきた転校生でない限り、去年一年生の時に授業をしているはず。

「生徒がたくさんいすぎて忘れてるとかじゃないですよね?」

「さすがに、忘れはしないよ。成績だって一人一人つけるし。ぱっと顔が思い浮かばなくても、みんなの名前くらいは覚えてるぞ」

「はあ」

 自信ありげに言う先生は、嘘をついているようには見えない。第一、こんなことで先生が嘘をつくメリットはどこにもないんだし。
 予想していなかった先生の反応に、私は面食らっていた。
 先生が知らないなら、もうどうしよもないな……。
 梨斗が何組の生徒なのかという手がかりはここで潰えてしまった。他の先生に聞くのもありだけれど、仲の良い先生は他に——。

「深町さん、どうかした?」

 安西先生の前で悶々と考え込んでいると、安西先生の隣の席に座っていた人物から声をかけられた。
 三上先生だ。
 去年、担任だった三上先生は、正直安西先生より馴染みが深い。私の家の事情も、知ってくれているので、話しやすい先生だ。

「あの、先生。二年生に葉加瀬梨斗っていう生徒、いますよね?」

 思い切って三上先生にも尋ねてみた。
 すると先生は一瞬じっと黙って考え込む素ぶりを見せたあと、大きく首を横に振った。